◎メッセージ要約

☆毎週のメッセージの要約を掲載します。

 
 
 

[メッセージ要約]

「御心にかなうことを」   ヨハネの手紙Ⅰ5:13~15(新約P447)   2019年6月23日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネの手紙Ⅰ5章13節~15節です。この箇所から私たちの祈りをきいてくださる愛の神をおぼえてまいりましょう。

本日の聖書箇所の14節に「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」とあります。一見「神は私たちの願いは関係なく、神の思うようにしかならない」と言っているように思う言葉です。それにしては14節後半から15節にかけて読むと感じられるのは「祈りはきかれる」という強い確信です。私たちは「神の御心」を小さくとらえてはいないでしょうか。神は私たちを愛しておられます。私たち人間でも、ときに自分以上に愛する存在のために行動します。まして愛の神は私たちを愛しています。私たちの願うことを無視せず、祈りを聞いてくださるのです。

ただ私たちは神を最優先しなくてはなりません。それが信仰者の姿勢として求められているのです。祈りも神優先であるべきなのです。そして神は私たちにとって最善を成してくださいます。罪ある私たちです。私たちの願うことが、実は善くない場合があります。そんな時は祈りはきかれないこともあるでしょう。そちらの方が私たちにとっても善いのです。「神の御心に適う」という言葉はそういうことをすべて含めた上での言葉なのです。

では私たちは、祈りについてどのように考えていけば良いのでしょうか。15節に「神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」と記されています。私たちは「祈りはかなえられる」と信じて歩む必要があります。ときに私たちの願ったとおりにいかないこともあります。それなのに信じるのでしょうか。私たちは祈るとき「願ったようになる。あるいはそれ以上に祝福されたことが起こる」と信じて歩むことが大切なのです。それが「神の御心に適う」という言葉にあらわれているのです。安心して祈りましょう。愛の神は私たちにとって最善のかたちで祈りをかなえてくださいます。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「失望せずに祈る」   ルカによる福音書18:1~8(新約P143)  2019年6月16日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書18章1節~8節です。この箇所から学び、失望せずに祈り続ける者とされていきましょう。

祈りについて1節に「気を落とさずに」とあります。別の訳では「失望せずに」と訳されている言葉です。私たちは「失望せず」「気を落とさず」祈り続ける必要があるのです。私たちは神に祈るのです。つまり祈りは神が聞かれるのです。神が相手なのですから「失望」はないはずなのです。ただ問題なのは私たちがそれを忘れてしまうことです。祈っていてもいつのまにか失望したり、気落ちしていたりするのです。しかし「失望」ないのですから、失望したり気落ちしたりして祈れなくなるのは避けなくてはならないことなのです。

では「失望せず」「気を落とさず」祈り続けるためにどうしたら良いのでしょうか。今日の聖書箇所に登場するやもめから見ていきましょう。まずやもめは裁判官に頼み続けています。やもめは失望していないから頼み続けたのかもしれません。でもその頼み続けたことが失望しない理由の一つだったのではないでしょうか。私たちは失望しないために祈り続けることが大切です。またやもめは夫はいなくて、やもめ自身も弱く、裁判官しか頼っていません。それが失望しなかった理由ではないでしょうか。人は頼みとするものが、自分を含めていくつかあります。しかしそれらは完全ではありません。本当に頼るべき方は全知全能の神なのです。本当に頼るべき方に祈り続けることが、失望せずに祈り続けることにつながるのです。またやもめに学ぶべきことは、このやもめは裁判官を疑っていないことです。「必ず自分にとって善い裁判をしてくれる」と信じていたようです。やもめのように私たちも主にのみ祈り続け、主のなさることは最善なのだと信じて祈り続けましょう。

私たちが祈るお方は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」ではなく、力と愛の神です。全知全能で私たちを愛してくださる神に祈り続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたの罪は赦される」   マルコによる福音書2:1~12(新約P63)  2019年6月9日 大竹敏生

 

本日は「子ども祝福礼拝」で聖書箇所はマルコによる福音書2章1節~12節です。この箇所から、罪を赦してくださる愛の神をおぼえましょう。

ここでは、中風の者の友人たちがイエス様のもとに「友人を癒やしていただこう」と連れてきた様子が記されています。たくさんの人だかりでイエス様のおられる家に入れず、屋根をはがしてイエス様のもとに中風の者を下ろしています。その行為にイエス様は「あなたの罪は赦される」と言われたのです。この言葉は驚きです。彼らは「癒やし」を求めていました。しかし主は「罪の赦し」を宣言したのです。そこにいた律法学者は心の中で「イエスは神を冒涜している」と思いました。主はそれを見抜いておられ「罪の赦し」と「癒やし」はどちらが易しいかと問われました。そしてご自身の権威を証明するために、その後中風の者を癒したのです。

「罪の赦し」と「癒やし」はどちらもイエスキリストでなければできないことです。ただ主は先に「罪の赦し」を宣言しました。主にとってこれが何よりも大切なことだったのです。「罪の赦し」はその人に信仰がなくてはなりません。どこに信仰があったのでしょう。今から2000年前の家ですし、雨量も日本により少ないので、家の屋根もそれほど頑丈ではなかったでしょう。とはいえやはりかなりの重労働だったでしょう。でも彼らは友人のためにそれを厭わずそこまでしたのです。そしてその中風の者も友人たちにすべて任せていました。そこに彼らのイエス様に対する信仰があったのです。

イエス様にとって「罪の赦し」は何よりも大切なことでした。また私たちにとっても「罪の赦し」は最高の恵みなのです。私たちを愛し、私たちの罪を赦し、私たちを救う神に感謝いたします。また祈りに応え、私たちを癒してくださる神に感謝いたします。私たちはこれからも「罪の赦し」と「癒やし」をいただくために主イエスキリストを信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「約束された聖霊により」   使徒言行録1:3~11(新約P213)  2019年6月2日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は使徒言行録1章3節~11節です。この箇所から、約束どおり与えられた聖霊により歩むことができる恵みをおぼえましょう。

イエスキリストが私たちのために十字架に架かってくださり、死からよみがえられた後、天に昇っていかれました。今日の箇所にそのことが記されています。ここが最初ではないのですが、主はこの時も天に昇っていかれる主イエスキリストの代わりに聖霊が与えられると約束されています。そしてそれはこの後すぐに実現したのです。その様子は2章に記されています。その聖霊は今も私たちを助け、導いてくださっておられることを感謝いたします。

聖霊は、父なる神と子なるイエスキリストと共に三位一体の神です。でも私はかつて聖霊は父なる神やイエスキリストと何か違うような印象をもちました。聖書を読むと、父なる神は人に語ります。時に怒ります。感情があるように思えます。またイエスキリストは人間として歩まれました。喜ばれたり、悲しまれたり、また怒りをあらわにされたりもしました。「イエス様は感情が豊かであられた」と語られたメッセージを聞いたこともあります。では聖霊はどうでしょうか。聖書からのイメージでは、聖霊は語ることも無く、淡々といつのまにか仕事をしているような感じで、何か機械的に感じていたのです。

でも実際はそうではありません。主イエスキリストの代わりに来られた方です。私たちのことをすべてご存じで、私たちの感情を無視されません。人の喜びや悲しみに寄り添ってすべての必要に応えてくださるのです。使徒のペトロやパウロが悩む時、共にいて励まし助けてくださったのです。またその力は使徒言行録に出てきますが、正に神の力です。人にはできないことをされています。聖霊は大いなる力と愛をもって弱い使徒たちと歩まれたのです。

聖霊は今も使徒たち以上に弱い私たちに寄り添い、大いなる力と愛をもって導いてくださいます。助け主なる聖霊と共にこれからも歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「一人も滅びないで」   ヨハネによる福音書3:14~18(新約P167)   2019年5月26日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書3章14節~18節です。この箇所から、私たちの救いを切に願う神の愛を学びましょう。

本日の聖書箇所の16節は特に有名で重要な箇所です。「聖書全体に記されていることが、この節のまとめられている」と言ってもよいほどです。イエスキリストは救い主です。私たちに「救い」を与えて下さるのです。この神がくださる「救い」ですが、神はどのような思いで私たちに下さるのでしょうか。神にとって「本当はあげたくない」のでしょうか。また「ご褒美のように得る資格のある者には上げたい」と思っているのでしょうか。また「欲しければどうぞ」なのでしょうか。どれも違うと思います。

今日のメッセージの題にもしましたが、16節に「一人も滅びないで」とあります。ここに神の思いがあらわれています。私たちには罪があり、その罪によって私たちは「滅びる者」なのです。私たちの力では、どんなに努力しても、頑張っても救われることはありません。私たちが救われるためには、罪が無いのにその私たちの罪を負って、私たちの代わりに十字架に架かって下さったイエスキリストを信じるしかないのです。イエス様にとって十字架は、本当は耐え難い苦しみでした。人として、そして神の子として想像を絶する苦しみだったのです。しかし私たちを愛する主イエスキリストは、私たちを救うために十字架に架かって下さったのです。神はこのように成し遂げて下さった「救い」を全ての人に受けてほしいと考えておられます。「特別な人」や「欲しい人」にあげたいのではなく、「すべての人」が滅びから救われてほしいと、切に願っておられるのです。

私たちが救われるためには、今日の聖書箇所にも15節、16節、18節にありますが「信じる」ことによってなのです。私たちのために十字架に架かって下さった主を信じましょう。それが主ご自身の切に願うことなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らの祈りにも」   使徒言行録12:1~17(新約P236)   2019年5月19日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は使徒言行録12章1節~17節です。この箇所から、神は弱い私たちの祈りを聞いてくださるということをおぼえましょう。

この時代、クリスチャンの多くが迫害を受けていました。この箇所にも迫害の様子が記されています。残虐なヘロデ王は使徒ヤコブを殺害しました。それがユダヤ人に喜ばれると、次に使徒ペトロを捕らえたのです。しかしペトロは神によって救い出されました。そのことが記されています。

捕らえられたペトロのために、教会の人たちは祈っていました。しかしペトロが神に助けられて、祈っている皆のところに行っても彼らは信じられませんでした。これはある意味「不信仰」だと言えます。しかし神はそんな不完全な信仰の祈りに応えられたのです。感謝します。

ただこのことから別のことも分かります。それは「彼らがいつも祈っていた」ということです。彼らがその時初めて祈ったのなら「祈りの効果」に期待するでしょう。しかし彼らにそういう様子はありません。迫害の中にある当時のクリスチャンは、問題があるごとに祈っていたのでしょう。彼らにできたのは、祈ること位だったのかもしれません。そういう祈りに神は応えられたのです。

また12節によると彼らは集まって祈っていました。集まって祈るということは、皆が心を合わせて祈ったということでしょう。マタイによる福音書18章19節に「心を一つにして祈る」ことが勧められています。そういう祈りを主は喜び、応えられたのです。

主は不完全な信仰の祈り、特別でないいつもの祈り、共に集っての心を合わせての祈りに応えられました。これは私たちにもできることではないでしょうか。私たちも弱く不信仰な者です。祈ることしかできない者です。でもそんな私たちの祈りにも主は応えてくださり、大いなる力を発揮してくださるのです。共に祈り続けましょう。私たちは弱くても主は強いのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「福音のために」  コリントの信徒への手紙Ⅰ9:19~23(新約P311)  2019年5月12日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ9章19節~23節です。この箇所から学び「福音のために」歩む者とされてまいりましょう。

この手紙を書いたパウロは、迫害を受けたりして、厳しい歩みをしていました。そんなパウロは「福音のためにどんなことでも」すると記しています。「そういう気概をもつ」ことは必要でしょう。そしてある時は驚くようなことをしなくてはならないこともあるかもしれないのです。ただこれは「福音のためにはモラルや法律をも無視する」ことを勧めているというより、パウロは自分を自由にしてくださった主のために、主を第一に、福音のために歩むことを勧めているのだと思います。自分のためにではなく、主の福音のために歩むことをパウロは使徒として心がけ、コリントの教会の人たち、そして私たちにも勧めているのではないでしょうか。

また「どんなことでも」というのは「出来うる限りのことを」という意味があるのではないでしょうか。「主のために」「福音のために」といったとき、直接的なこともあれば、間接的、さらに意外とも感じることもするというような場合もありえるのです。「福音のためならこんなこともする」という感じです。たとえば「祈り」は「伝道」には不可欠なのですが、直接的とは言えないかもしれません。でも「伝道」のために「祈り」は必要なのです。

私たちの教会ではこのところ「伝道」や「成長」を大切にしてきています。私たちはこれらのことのためにいろいろなことをしてきました。そしてこれからも直接的なこと、また間接的なこと、さらにこんなことまでと思うようなことでも、出来ることをしていきましょう。直接的ではないかもしれませんが「祈り」「聖書」「讃美」など日々の神との交わりを大切にしていきましょう。そこから私たちは養われ、「福音のために」歩む者へとさせられるのです。そして私たちもパウロのように「福音に共にあずかる者」とされることを感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「静かにささやく声」   列王記上19:1~18(旧約P565)  2019年5月5日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の列王記上19章1節~18節です。この箇所から祈りに応え、どんな状況にあっても導いてくださる主をおぼえましょう。

この箇所は預言者エリヤが、カルメル山にてバアルの預言者450人とアシュラの預言者400人を相手に1人で勝利した記事の後に記されています。バアルとアシュラの預言者たちに圧勝したエリヤでしたが、今日の箇所では恐れて逃げ出す弱いエリヤが記されています。エリヤは南に向かって逃げ、ベエル・シェバまで来て、そこに従者を残してさらに逃げました。そこで神に「命を取って下さい」というほど落ち込んでいました。そこから御使いに導かれて神の山ホレブまで来ました。このホレブ山で神はエリヤを導かれたのです。

神はエリヤに声をかけ、エリヤが神に愚痴のようなことを言う。そんなやり取りの中で主は「山の中で主の前に立ちなさい」と声をかけられました。そのとき主が通り過ぎて行かれ、山を裂き、岩を砕くほどの激しい風が起こりました。しかしその中に主はおられませんでした。またその後、地震そして火が起きました。しかしそれらの中にも主はおられなかったと記されています。そして火の後、エリヤは「静かにささやく声」を聞いたのです。その後、神とエリヤはやりとりをします。このやりとですが、風と地震と火の前のやりとりと言葉は同じでした。しかしその後の神の言葉は弱さをさらけ出したエリヤを励まし、導くものでした。そこに神の愛と力を見ることができます。

エリヤは、風や地震、火の強さの中に神を見出せませんでした。しかし弱いエリヤに合わせるような「静かにささやく声」を聞くことができたのです。このときのエリヤは「静かにささやく声」にしか神を見る(聞く)ことができなかったのです。私たちも弱い者です。置かれている状況によって、ときに神を見出すことができなくなります。しかし神はエリヤにそうだったように、私たちにも最善な方法で導いてくださいます。祈って神の声を聞き続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたのために祈った」 ルカによる福音書22:31~34(新約P154)   2019年4月28日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書22章31節~34節です。この箇所から祈りのすばらしさを学び、おぼえてまいりましょう。

この箇所はペトロが3度「主を知らない」と言うことを主イエスが予告された箇所です。ここで主はそんなペトロのために祈りました。その祈りから分かることがあります。それはイエス様にとって「人が主を信じること」そして「信じ続けること」それが大切であり、主が強く願っているということです。一方ペトロにとって、自分が「主を知らない」と言うことはあり得ないことで「ご一緒なら死んでも」とペトロは言いました。しかし主の言われた通りになったのです。ペトロにとっては「自ら死を」とか「自棄になり信仰を捨てる」となってもおかしくないことでした。でもペトロは主から離れなかったのです。主は「ペトロの信仰が無くならないように」祈られました。その祈りにより、今にも消えてそうだったペトロの信仰は、かろうじて踏みとどまったのです。

また主の言葉で知らされることがあります。それは祈りのすばらしさです。ペトロの信仰は今にも消えそうだったのです。しかし信仰は無くなりませんでした。イエス様はペトロが3度「主を知らない」と言うことが分かっておられました。またその結果ペトロがどんな思いにかられるかも、どんな状況に陥るかもすべて知っておられました。知っていたにもかかわらず主は「祈り」がかなえられ、ペトロが立ち直ると信じていたのです。ペトロに「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と告げています。祈りがかなえられると確信し、その後のことを指示しているのです。祈りのすばらしさに感謝します。

ペトロのために祈り、ペトロや他の弟子たちを信じた主は、私たちのためにも祈り、信頼してくださるのです。感謝して信頼に応えましょう。信仰を保ちつづけましょう。そして私たちのつたない祈りにも力があります。祈りは神の力を引き出します。祈りつつ主の喜ばれる者として歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活はわたしにも」 コリントの信徒への手紙Ⅰ15:1~11(新約P320)   2019年4月21日 大竹敏生

 

本日は今年のイースターです。主の復活を感謝いたします。今年のイースターに導かれた聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ15章1節~11節です。この箇所から恵みの復活をおぼえてまいりましょう。

主の復活から、私たちは死に打ち勝つ主の力を思います。このことはおざなりになってはなりません。今年もイースターに、死に勝利してよみがえられたイエス様をおぼえましょう。ただ私たちは、主の復活から力だけではなく、神の愛を感じていく必要があります。コリントの信徒への手紙Ⅰの15章は、全体が「復活」について記されています。今日の箇所はその最初のところです。1節に「福音」について記すとあり、そしてそれが「復活」についてと展開していくのです。「福音」は「復活」と密接な関係があるといえるでしょう。「福音」は神の愛によって私たちにもたらされたものです。主は私たちを愛するがゆえに、私たちのために復活してくださったのです。

4節以降に、主が復活されていろいろな人に現れてくださったことが記されています。そして8節にはこの手紙の著者のパウロにも現れてくださったと記されています。ペトロたちに現れたのは、主が天に昇る前のことでした。パウロにはその後です。しかしパウロは自分を「月足らずで生まれたような」と記していますが、主が現れてくださったのはペトロたちと自分に、何もかわりがないと語っているようです。復活された主が現れたのは、ペトロたちとパウロに何の違いもなく、どちらも一方的に神の愛ゆえなのです。

パウロはペトロたちとかわりないと強調し、復活された主がパウロを用いて働いていると記しています。パウロに現れた復活の主は、私たちにも現れてくださいます。そして復活された主は今も生きておられ、私たちを用いて働いてくださるのです。復活された愛と力の主は、その愛と力をもって私たちにも現れ、私たちを用いて働いてくださいます。復活された主に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「御心のままに十字架へ」 マルコによる福音書15:32~42(新約P92)  2019年4月14日 大竹敏生

 

来週の主日が今年イースターです。従って本日は「棕梠の主日」で、今日から受難週となります。主の十字架を覚えて歩みましょう。本日の聖書箇所はマルコによる福音書14章32節~42節です。主が十字架に架かる前にゲッセマネで祈った出来事から学んでまいりましょう。

このゲッセマネの出来事から思わされるのは「イエス様は十字架に架かるのをこんなにも嫌がっていたのか」ということです。イエス様はどうしてこんなにも十字架に架かりたくなかったのでしょうか。人間的な理由ならば「死にたくない」「恥をかきたくない」「苦痛は嫌だ」などでしょう。しかし主の十字架への嫌悪の理由はそういうものではなく、主ならではのものであったと思われます。神の子であり、罪のないイエス様が、神に対して最も重い罪を犯した者が架かる十字架、神の呪いの十字架に架かるのは想像を絶する苦しみであったと思います。主の苦しみあえぐ思いがゲッセマネでの祈りになったのです。

しかしイエス様はそんな中でも「わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ります。そして神の御心が実現したのです。それは「イエス様が十字架に架かる」ことでした。そしてその神の御心の十字架により、主を信じる私たちは救われることになったのです。

イエス様はゲッセマネで十字架を嫌がっていたのですが、その後は十字架に向かうときも、十字架上でもそういう様子はありませんでした。そのイエス様を見て、一緒に十字架にかけられていた犯罪人が改心し、百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。ゲッセマネでのイエス様は何だったのかと思うほどです。主イエス様の御心への信頼、神を第一にとの思いが見えます。そして祈りの力でしょう。祈りによって神への信頼をますます強くすることができるのです。私たちも主に倣って祈りつつ歩みましょう。神の御心を求めましょう。その偉大な御心の十字架によって救われたのですから。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りによって」   ローマの信徒への手紙12:9~21(新約P292)  2019年4月7日 大竹敏生

 

本日は2019年度最初の主日礼拝です。今年度の主題は「希望をもって祈る」主題聖句は「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。(ローマの信徒への手紙12:12)」です。本日はその箇所を含むローマの信徒への手紙12章9節~21節から導かれたいと思います。

今日の聖書箇所には「キリスト者はどうあるべきか」というような内容が、箇条書きのようにたくさん記されています。12節もそうです。まず「希望」と「喜び」という言葉が出てきます。どちらも聖書では重要な言葉です。ただ聖書ではこの世的なものと少し違う意味がある言葉です。まず「希望」はこの世的には、はかなさを感じます。しかし聖書では「あざむくことがない」「失望に終わることのない」ものです。また「喜び」はこの世的には、結果として得るものですが、聖書では「いつも」すべきことであり、ここでも「希望をもって喜ぶ」とあるのです。また「苦難を耐え忍ぶ」とあります。当時主を信じることは大きな苦難を伴いました。多くの殉教者を出した時代です。迫害の中にある人たちに向けての言葉でもあるのです。

この箇所でいう「希望」「喜び」「忍耐」は人の力ではどうしようもありません。神無しには無理なのです。神を信じ愛するがゆえに「希望」「喜び」「忍耐」ができます。神を信じなければ「希望」は、はかなくなり「喜び」は結果としてしかできなくなります。また愛するお方のために「忍耐」できるのです。人間は、神を信じ愛するそのために「たゆまず祈る」必要があるのです。

さて、このことは私たちも同じです。私たちも神を信じて「希望をもって喜ぶ」必要があります。またこの手紙が記された時代のような「迫害」は、今はありません。ただキリスト者として歩む中で、困難や苦しむことはあります。それに耐えるためにも主を愛しましょう。そのために私たちには「祈り」があります。今年度も「希望をもって祈る」歩みを心がけてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「霊は生かします」   コリントの信徒への手紙Ⅱ3:4~6(新約P328)   2019年3月31日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ3章4節~6節です。この箇所の特に6節を中心に、2018年度最後の主日礼拝を導かれたいと思います。

この箇所の6節に「文字は殺しますが、霊は生かします。」とあります。「文字」とは前後の文脈で考えると「律法」であると分かります。また「霊」は神の霊すなわち聖霊と言うことができます。イエス様は「律法」の教えの本質は「愛」だと教えてくださいました。それを理解していなかったこともあるのですが、結局私たちは律法の行ないでは救われないことが分かります。律法は私たちに「このままでは滅ぶ」ことを教えるのです。私たちは神を信じることで「霊」によって義とされるのです。また「文字」は生きていません。私たちの弱さ故、私たちを間違った方向に向けることすらあります。しかし「霊」は生きておられ、愛する私たちの生き方を神の喜ぶものにしてくださるのです。

私たちはクリスチャンとして成長させられる必要があります。その成長は神によってなされるのです。世の一般的な意味での成長は、大人や親の導きで独り立ちしていくという面があります。しかし私たちキリスト者としての成長は神から離れてはできないのです。木の枝が幹につながっているから成長し、実を結ぶように、私たちは「霊」から離れず、「霊」によって生かされ、成長するのです。また私たちの成長はゴールが、この世に生きている間はありません。生きている限り神に向かって成長していくのです。この世での歩みを続けていく間「霊」によって生かされていきましょう。私たちもいつかこの世での歩みを終えます。その時まで私たちの成長は続くのです。

私たちはこれからも「霊」に生かされて歩みましょう。ただ「霊」は見えません。「霊」である神を信じなくてはならないのです。「霊」によって救われましょう。そして「霊」によって生かされ、成長をつづけましょう。そのためにこれからも「霊」である神と共にありつづけたいと思います。

 
 
 

[メッセージ要約]

「信じるべきお方」     詩編23:1~6(旧約P894)  2019年3月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の詩編23編1節~6節です。詩編の中でも最もよく知られているこの詩編から、信じるべきお方を信じて歩む者とされるように導かれてまいりましょう。

まず注目したいのはこの詩編が「わたし」という一人称単数で語られていることです。これは著者ダビデが自分中心だったとか、他の人について関心が無かったということではなく、弱い自分にとって「この方しかない」という思いが表れているのではないでしょうか。神はダビデ個人を知り、愛し、救われたのです。そして実は私たちも親しく神に知られ、愛され、信じる私たちを一人の子として救われるのです。私たちではなく「わたし」が救われるのです。

またダビデは自分を弱い羊に例えています。実は私たちは弱いのです。その弱さは私たちの罪から来るのです。この罪は私たちを神から断絶させ、私たちは滅びに至る者になっているのです。また罪の影響は私たちの行動を支配し、私たちがしたくないこと、罪の行為をさせるのです。ダビデもウリヤという人の妻を得たいと、策略を用いてウリヤを死に至らしめたりしたのです。罪はこのように恐ろしいもので、私たちはこれを解決する必要があるのです。

この詩編でダビデは、主が「わたし」の羊飼いだと記しています。羊は羊飼いを信じているから従えるのです。つまりダビデは主を信じているから、主を羊飼いと告白しているのです。羊飼いは羊のために時に生命さえ厭いません。私たちの主も私たち一人一人を愛し、私たちのために生命を捨てたのです。実は私たちの罪は「主を信じる」ことでしか解決できません。「主を信じる」ことでしか救われないのです。私たちの主は信じるに足るお方です。信じるべきお方です。私たちを愛し、私たちが信じて救われるのを望んでおられるのです。

「信じるべきお方」である主を信じて歩みましょう。信じることによって罪が赦されるのです。そして主と共に少しでも罪を犯さず歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神に仕える人」   テモテへの手紙Ⅱ3:10~17(新約P394)  2019年3月10日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅱの3章10節~17節です。この箇所から、神によって神に仕える人とされていきましょう。

パウロが刑死する直前に、書いた手紙とも言われるこの「テモテへの手紙Ⅱ」の中で、パウロは愛するテモテに向けて「主から離れてはならない」と勧めています。そしてテモテが幼いころから親しんできた聖書の大切さを説いています。15節で聖書は私たちを信仰を通して救いに導くことが記されています。16節には聖書が私たちを教え、戒め、誤りを正し、義に導くとあります。そして17節に「神に仕える人」という言葉が出てきます。「神に仕える人」は「どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられる」と約束されているのです。これは考えてみるとすごいことです。罪ある私たちは「善い業」を行うことができません。しかし「神に仕える人」は「どんな善い業」も行うことができるのです。これは人の力では無理なのです。神によって「神に仕える人」にさせられていく必要があるのです。そのために私たちには聖書、すなわち神のみ言葉があります。感謝いたします。

考えてみると聖書は私たちに大きな恵みや祝福を与えてくださいます。私たちを神に向かわせ「神に仕える人」にしてくださるのです。この手紙が書かれた時代は特に迫害が強い時代でした。そして12節には、キリスト者は必ず迫害を受けると記されています。しかし「神に仕える人」とされるとき、迫害を耐え抜くことができるのです。そしてできないはずの「善い業」を神のためにすることができるようになるのです。

この手紙を受け取ったテモテは決して強い人ではありませんでした。パウロはそんなテモテに「主から離れず、神に仕える人となれ」と勧めます。私たちもそうです。聖書をとおして神を愛し、神から離れず、神に仕える人となりましょう。私たちがどんなに弱くても導いてくださる主なる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛を信じて歩む」  ルカによる福音書24:13~35(新約P160)  2019年3月3日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書24章13節~25節です。この箇所から神の愛を学び、神の愛を証しする者とされていきましょう。

今日の聖書箇所には、私たちのために十字架に架かって死んで、復活されたイエス様がエマオに向かう弟子に現れた出来事が記されています。主イエスが十字架で死んでよみがえることは、他ならぬイエス様が預言していました。預言のとおりになったのですが、多くの弟子たちがその預言を信じられずにいたのです。このエマオに向かう弟子たちもそうで、しかも彼らは「主が本当に復活されたそうだ」という証言を聞いていたにもかかわらずエルサレムを離れ、エマオに向かっていたのです。

そんな信仰的に下り坂で、言い訳できない状況の彼らにイエス様は現れたのです。彼らはイエス様の弟子として全くふさわしくない状況でした。そんな彼らを見捨てず、イエス様は彼らを信仰に引き戻すため現れたのです。

途中から自分たちと一緒に歩んだお方が、復活されたイエス様だと気が付いた彼らは、逃げ出したエルサレムに帰って証しをしました。彼らはすべての出来事を話したでしょう。主イエスは「本当に復活された」「聖書のお話をしてくださった」「お話を聞いていた時、心が内に燃えた」「私たちのためにパンをさいてくださった」「信じないでエルサレムから逃げ出した我らに現れてくださった」などと彼らは証しをしたのではないでしょうか。その証しは多くのものを励まし、力づけたはずです。また証しを聞いたものは、神の愛を感じたことでしょう。そして今もそれは続いていて、現代の私たちもこの証言を聞いて祝福されます。感謝をいたします。

復活された主イエス様は、今も生きておられ、弟子たちと同じように私たちを愛してくださっておられます。私たちは喜んでその愛を証しつづけたいと思います。主はつたない私たちの証しをとおしてすべてを祝福に導くのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「自分の十字架を」  ルカによる福音書9:21~27(新約P122)  2019年2月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書9章21節~27節です。この箇所から特に23節を中心に導きを受けたいとと思います。

23節に「自分の十字架を背負って」とあります。この言葉は「主のためには死をもいとわず」という厳しい内容の言葉と考えてしまいます。確かにそのとおりなのです。ただ、そんな短絡的な意味だけではないことをおぼえましょう。また「自分の十字架を背負って」という言葉から「自分に与えられたトゲや重荷」のような意味にもとれます。ただ、ここではそのことを語っているのではないと思われます。でも無関係ではありませんが。

今日の箇所は、主イエス様がご自身の死と復活について語っている箇所です。そして23節の言葉が語られています。従ってそんなイエス様に従っていくために「主のためには死をもいとわず」という意味は確かにあるのです。でもすぐに「主のために死ぬ」ことに突き進むようなことを言ってはいないと思います。23節には「自分を捨て」という言葉があります。私たちは頼まれなくても「自分」を大切にします。でもここではその「自分」ではないものを大切にすることが求められているのです。私たちが何よりも大切にすべきお方は「主なる神」です。主に従う道は決して楽とは限りません。時に忍耐や苦難があります。私たちは大切にすべきお方を第一にするために「自分」を捨てる必要があるのです。「十字架」は私たちに「永遠の生命」をもたらします。そして「自分を捨て」従うときに私たちは祝福を受けるのです。

また「自分の十字架」は神が愛する私たちにくださるものと関係しています。それは私たちの「賜物」だったり「置かれている状況」もそうです。主のために「自分を捨て」主のためにすべてを受け入れて歩む必要があるのです。他人の「賜物」を羨んだり、自分の状況を呪ったりするのではなく、主のために歩みましょう。それが「自分の十字架を背負って従うこと」につながるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰をもって見る」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:16~18(新約P329)  2019年2月10日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節~18節です。この箇所から、信仰をもって歩めるように導かれたいと思います。

今日の聖書の箇所にはいわゆる対句的な言葉が2つ出てきます。1つは16節に出てきますが、「外なる人」と「内なる人」です。この「外なる人」とは私たちの肉体のことでしょう。そして「内なる人」は私たちの内面の心や精神といったものだと思われます。確かに肉体は衰えます。しかし私たちの内面は神が働くとき、逆に日々新たにされるのです。肉体にハンデを負った人はこのみ言葉に励まされるでしょう。肉体は完全ではなく衰えます。しかし17節にありますがその艱難は一時なのです。

もう1つは18節にありますが、「見えるもの」と「見えないもの」です。ここでいう「見えるもの」とはこの世的、そして人間的なものでしょう。それに対して「見えないもの」とは霊である神であり、キリストご自身を復活させ、私たちも同じように復活させて永遠の命をくださるお方とその力を指すのです。人は「見えるもの」に価値をおきます。また「見えるもの」人にとって分かりやすいのです。つまり人間的、そしてこの世的なものなので、人がコントロールできるのです。一方「見えないもの」は私たちにはかり知ることのできないものです。「見えるもの」には限界があり、過ぎ去ります。しかし「見えないもの」の力は人の力をはるかに超えるもので、また永遠に続くのです。私たちは当然「見えないもの」を選び取る必要があります。

18節に「見えないものに目を注ぎます。」とあります。「見えないもの」に目を注ぐことは、人間的には不可能です。「信仰によって」見るのです。この世的、人間的には「見えないもの」は存在しないことになります。しかし私たちは見えない神を信じましょう。見えない神ですが、間違いなくおられ、私たちにその無限の愛と力をくださるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神を喜ばせることで」  ローマの信徒への手紙12:1~8(新約P291)  2019年2月3日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙12章1節~8節です。この箇所から、賜物によって神を喜ばせられるようにされていきたいと思います。

今日の聖書の箇所は「こういうわけで」という言葉で始まります。これは直前の11章35節~36節を受けているとか、1章から11章まですべてを受けているとか考えられます。どちらにしてもここでは思い切って「キリスト者であるなら」「神の愛を受けている者なら」と考えたいと思います。そういう者であるなら「神の喜ばれるいけにえ」としてささげられなければならないのです。でも「神の喜ばれる」というのはかなり難しそうです。私たちが相手を喜ばせようとして、どうしたら喜ばれるかは悩むことがあります。こんなプレゼントを喜ぶかどうか判断に迷ったりもします。神様は何を喜ばれるのでしょうか。判断が難しいように思えます。

ただそう難しく考えなくても良いのです。なぜなら神は私たちを愛しています。愛する者からの好意は相手を喜ばせます。私たちを愛しておられる神は、たとえ弱くつたなくても、私たちのキリストの体の部分としての行ないを喜ばれるのです。また6節には、神の恵みによって私たちに賜物が与えられているとあります。賜物は神が下さったのです。その与えられた賜物を用いることは神を喜ばせるはずです。しかもキリストの体の部分としての働きに用いるのです。神を喜ばせるために、賜物を用いて、キリストに結ばされた部分として歩んでいきましょう。また主なる神は恵みによって賜物を私たちに下さいました。罪ある私たちは弱く、つたないことしかできません。しかし賜物を下さった神は、その賜物をとおして私たちに力を下さるのです。神は私たちと共に歩み、私たちに力を与え、私たちの働きを喜んで下さるでしょう。

神は私たちを愛して下さっています。私たちも神を愛しましょう。愛する神を喜ばせることが私たちのさらなる祝福につながるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主は見つめられた」  ルカによる福音書22:54~62(新約P156)  2019年1月27日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書の22章54節~62節です。この箇所から、神の大きな愛をおぼえ、神を信じて歩んでまいりましょう。

今日の聖書の箇所は有名な「ペトロが主イエスを3度知らないと言った」箇所です。イスカリオテのユダが主イエスを裏切ったことはよく知られていますが、ペトロも主イエスが十字架に架かる直前に「主イエスを3度知らない」と言いました。ペトロも主を裏切ったのです。このことを主イエスは予告していました。ペトロはイエス様の言葉を否定して「どこまでもついていく」とイエス様に申し上げました。しかし現実は、ペトロは弱さを見せて、イエス様が言われたとおり、3度も「知らない」と言ったのです。

ペトロが「知らない」と言ったとき、ちょうどイエス様がペトロを見つめていました。このときのイエス様はどんな思いでペトロを見ていたのでしょう。どんな目で見つめていたのでしょう。「ほら見ろ私が言ったとおりだ」でしょうか。「やっぱり裏切ったか、憐れな奴だ」でしょうか。そのようなペトロを非難するようなものではなかったと思います。ペトロはこの後「外に出て激しく泣いた」のです。ペトロを非難するまなざしだったら、彼は否定し続けるか、せいぜいうなだれるかでしょう。イエス様の目は決してペトロを咎めるものではなく、むしろそんな弱いペトロをさらに愛するまなざしだったのでしょう。自分を裏切る者を「赦す」を超えて「愛」しておられるのです。感謝します。

ここはペトロにとってやり直したい場面でしょう。でも主を信じる私たちはこの主イエスのまなざしを忘れずに宣べ伝えてきました。確かにこの場面で、主イエスが愛のまなざしを向けたのはペトロです。しかし、その愛の対象はペトロだけではありません。私たちも主の前には赦されない罪人です。そんな救いようのない私たちを、主はペトロと同じように愛して下さっているのです。その愛を信じましょう。主は罪人である私たちを愛し、救って下さるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「大いなる力を持つ神」   ダニエル書6:12~25(旧約P1390)  2019年1月20日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書のダニエル書6章12節~25節です。この有名な箇所から、大いなる力を持つ神をおぼえて歩んでまいりましょう。

ダニエルはバビロン捕囚にあってバビロンに連れていかれたユダヤ人の内の一人でした。ダニエルは神に恵まれ、知識と才能に満ちた能力の高い人物でした。ダニエルはその賢明さにより、バビロンの王に徴用され、後にはバビロンに代わって治めたペルシャでも、王に愛され高い地位が与えられました。今日の箇所はペルシャの王ダレイオスにダニエルが仕えていたころの話です。ダニエルが他の高い地位にある大臣たちと比べても優れているので、王は特にダニエルを用いました。それに嫉妬した他の大臣たちがダニエルを陥れようとしたのです。彼らの策略によって王が出した勅令により、神を拝んだダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになったのです。

15節によると王は悩み、ダニエルを助けたいと、ありとあらゆる努力をしたようです。しかしダニエルを救うことはできませんでした。ダレイオスは王です。自身の能力の他に権力もあります。しかし人間としていくら力があっても、この状況のダニエルを助けることはできませんでした。ダレイオス王は万策尽きましたが、17節によるとダニエルの信じる神に祈ったのです。すると神の導きにより、ダニエルは獅子から危害を受けることなく助けられました。23節によれば「神は天使を送って獅子の口を閉ざした」結果でした。大いなる力を持つ神のなせる業だったのです。

ダニエルは能力ある人間でしたが、それ以上に神を信じていました。またダレイオス王は、やはり力を持っていましたが、万策尽きて神に願いました。私たちの信じる神は全知全能の大いなる力を持つお方です。そして神はその力を愛ゆえに私たちのために用いるのです。たとえ万策尽きても、たとえ限界が来ても、大いなる力を持つ神は私たちを導いてくださるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主と共に福音を」  フィリピの信徒への手紙1:3~6(新約P361)  2019年1月13日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章3節~6節です。この箇所から、共に歩みつつ福音宣教を成し遂げてくださる神をおぼえましょう。

聖書にある教会あての手紙は、内容的に厳しいものも少なくありません。中には冒頭から厳しい言葉が記されているものもあります。一方このフィリピの信徒への手紙は内容的にも喜びや賞賛があふれる手紙です。今日の聖書箇所でもフィリピの教会がほめたたえられています。それはフィリピの教会が「福音にあずかって」きたからです。これは「福音を広めてきた」ということでつまり「伝道」に励んできたことを意味しています。ただ「伝道」には直接的なものから間接的なものまでいろいろな要素があります。この「福音にあずかって」というのは教会で行われるありとあらゆる営みすべてがそうなのです。

フィリピの信徒への手紙1章6節によるとこの「福音にあずかる善い業」を神がキリスト再臨までに成し遂げてくださるとあります。この成し遂げるまでのプロセスは、ある時急に到達するのではなく、階段を一段一段登るように積み重ねられ到達するのです。全知全能の神には不可能はありません。急に成し遂げることもできるのです。でも「一段一段」「一歩一歩」進められるのです。どうしてでしょうか。それは私たちと共に歩みつつ「福音の宣教」を成してくださるからです。神と違い弱い私たちは少しずつしか進めません。神はそんな私たちと共に歩んでくださるのです。ですから時に進んでいるのか分からないようなときもあるでしょう。しかし神の業でもあります。着実に進んでいるのです。また弱弱しい歩みのようにも感じるでしょう。しかし神の業ですから力強いのです。神が共に歩んでくださることを感謝いたします。

私たちの教会も及ばずながらフィリピの教会のように神の始められた「善い業」に取り組んでまいりました。これからも主と共に歩んでまいりましょう。「一段一段」「一歩一歩」主と共に福音にあずかってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛することで与えられ」 マタイによる福音書22:34~40(新約P44)  2019年1月6日 大竹敏生

 

本日は2019年最初の主日礼拝です。有名なマタイによる福音書22章34節~40節をとおして、神を愛することによる祝福を学びましょう。

今日の聖書箇所では「愛する」ことが大切なことと記されています。その愛の対象は神と隣人です。ただ「神を愛すること」と「隣人を愛すること」は別々ではなく「神を愛する」ならば「隣人を愛する」べきなのです。どうして神を愛するのでしょう。それは、私たちは救いをはじめとして神から多くの恵みを受けているからです。どれほど感謝しても、どれほど愛しても足りないほどなのです。ただ「愛」という言葉から感じるイメージはどうでしょうか。そんなに高くないかもしれません。「愛」は本能的な面があります。人は別に深く考えなくても「愛して」しまう面があります。何か探求したりして得られるようなものではない面も「愛」にはあるのです。ただ私たちは「愛しつづける」必要があります。確かに主は私たちを愛し、私たちを罪から救ってくださり、恵みや祝福をくださるすばらしいお方です。私たちが愛すべきお方です。でも私たちがこの方を「愛し続ける」のは弱い私たちには困難なのです。愛の主の恵みや祝福、そして何より救いを思い、愛しつづけましょう。

また神への「愛」は私たちをさらに祝福するのです。私たちの信仰の歩みについてはいろいろなものを必要としています。その必要なものを主からいただく必要があります。「愛」はある面本能的に感じます。また「愛」は理由があってするものに感じます。私たちが愛するのは、その対象が「愛される」理由があるのであり、その上本能的に「愛」は出てくるように思えるのです。従って私たちが「愛する」ことによって、何かが生まれてくることには思いが行きません。しかし、実は私たちが「愛する」ことにより、私たちにはいろいろな祝福が与えられるのです。聖書で私たちに「愛する」ことが命じられているのは、それにより私たちに必要な祝福が与えられるからなのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「万事を益と信じて」  ローマの信徒への手紙8:26~30(新約P285)  2018年12月30日 大竹敏生

 

本日は今年最後の主日礼拝です。ローマの信徒への手紙8章26節~30節をとおして導かれ、2018年の祝福を感謝し、2019年を迎えましょう。

本日の聖書箇所は有名な箇所で「人の弱さ」に対して「神の強さ」が記されています。人は26節によると祈ることすらおぼつかないほど弱いのに、神は28節によれば「万事を益に」するほどの強さを持っておられるのです。この「万事を益に」というのは並大抵の力ではできないことです。神は弱い私たちを用いてくださいます。その上で「万事を益に」するのですから大変なことなのです。私たちでも計画とは違うことが起きたとき、それを補うのは困難です。まして「万事を益に」するのですから大変です。「万事を益に」というのは全知全能の神だから出来、全知全能の神にしか出来ないことなのです。

神は「万事を益に」して下さるのですが、その益は誰の益でしょうか。まず最優先されるのは神です。神のための益が最優先されるのは当然のことです。ただ神は私たち人間を愛しておられます。従ってこの「万事を益に」ということは私たちにとっての益にもなるのです。私たち人間でも愛する人のために、時に自分以上にその人のために行動します。まして神はこの上なく私たちを愛しておられます。神は私たちにとって最も益なことをして下さるのです。このような愛と力の神を感謝いたします。

だとすれば私たちはどうしたら良いのでしょう。それは神のその愛と力を信じることです。今年ももうすぐ終わり、新しい年を迎えます。私たちの歩みは継続されていくのです。弱い私たちの出来ることは限りがあります。しかし限りない力を持つ神が「万事を益に」してくださいます。それを信じて神さまのために歩みましょう。神は私たちと共に歩んでくださり、今年がそうだったように新しい年も神は「万事を益に」してくださるのです。私たちはこれからも「万事を益と信じて」歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「人となって世に来た」   ヨハネによる福音書1:6~14(新約P163)   2018年12月23日 大竹敏生

 

本日は今年のクリスマス礼拝です。ヨハネによる福音書1章6節~14節から学び、今年も喜びと感謝をもってクリスマスを迎えましょう。

今日の聖書の箇所に「言」という単語が出てきます。そしてこの書の最初のヨハネによる福音書1章1節に「言は神であった」とあります。そしてこの「言」がこの世に来られたとありますから、この「言」がクリスマスに誕生したイエスキリストであることが分かるのです。この世に来られた救い主は、神であられたにもかかわらず人間として誕生したのです。「神が人となられた」これがキリスト教の神髄なのです。救い主は罪があってはならず、そして人間である必要がありました。救い主イエスキリストは罪がない神であり、また人としてお生まれになりすべての信じる者を救われるのです。

神でありながら人となられたのは、神が私たちを愛しておられるからです。神はまた人としてお生まれになり、さらに私たちと同じようにこの世に住んで下さいました。罪が無いこと以外、私たち人間と同じように歩んで下さったのです。そのような救い主ですが、お生まれになった時から救い主にふさわしい対応を人はできませんでした。今日の聖書箇所にあるように、人はバプテスマのヨハネが証しする光の救い主を認めず、最後は十字架につけるに至ったのです。でもそれが神のみ心でした。誕生の際、家畜小屋でお生まれになったのもすべての人を救うお方であることを示していますし、十字架に架かったのも罪ある人間の代わりとなって下さったのです。1つ1つが神のみ心のままに進められた偉大な救いの計画であったのです。感謝いたします。

救い主は神であられながら、人間としてお生まれになりました。しかも貧しい姿で、家畜小屋でお生まれになりました。しかしその救い主こそすべての人を愛し、救う唯一の救い主です。私たちは今こそ、救い主に栄光をお返しし、私たちのためにお生まれになった救い主を感謝し、証ししてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神のご計画の中に」  ルカによる福音書1:26~38(新約P100)  2018年12月16日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第三主日です。本日は有名なルカによる福音書1章26節~38節の受胎告知の場面から学んでまいりましょう。

救い主の誕生は、旧約聖書にいくつも預言が成され、神にとっても大切なことでした。そしてその救い主誕生に関しては、神のご計画の中、進められてきたのです。今日の聖書箇所は、そのご計画の中でも重要なところです。救い主は人間の罪を負うのですから、まず人間である必要がありました。そして同時に罪が無いものでなくてはなりませんでした。人間は誰もが罪を持っています。人間でありながら罪が無いということは、人間でありながら同時に神でなくてはならなかったのです。従って救い主は、おとめマリアが聖霊によって身ごもった結果として生まれる必要があったのです。救い主誕生の計画が進められていき、天使によってこの箇所でマリアにそのことが告げられたのです。

34節でマリアは天使に、男の人を知らない自分がどうして身ごもるのかと尋ねています。それに対する天使の答えは「神にできないことは何一つない」でした。マリアがこのことを知らなかったとは思えません。マリアが質問したのはむしろ、婚約中の自分の結婚こと、また律法によれば殺されても仕方がない自分の状況が気になったのでしょう。またそれが分からないはずのない天使が、そのことを無視するような答えをしたのはなぜなのでしょうか。これはすべて分かった上での「神にできないことは何一つない」という答えだったのでしょう。マリアの心配も大丈夫だということだったのです。現に神の計らいですべてが守られました。明白に答えなかったのはむしろマリアに「信じなさい」という励ましだったのではないでしょうか。

神のご計画は確実に進みます。しかし神はご計画を、私たちを無視して進めません。マリアやヨセフを顧みて計画は進められたのです。私たちも神のご計画の中、忘れられることなく愛されて歩むことができるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛と正義と平和の王」   イザヤ書11:1~10(旧約P1078)   2018年12月9日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第二主日です。救い主誕生の預言はイザヤ書にいくつかあります。今日はそのいくつかある救い主誕生の預言の中のイザヤ書11章1節~10節から学びましょう。

誕生する救い主に関して、今日の聖書箇所から分かるのは「誰の子孫として生まれるか」ということです。1節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」とあります。エッサイは有名なダビデ王の父です。ダビデの名ではなくエッサイの名が用いられているのは、この世的な評価の高い低いではなく、誰でもこの方によって救われることを示しているのではないでしょうか。すべての人を救う、大きな愛の救い主を感謝いたします。

また5節によればこの方は正義の救い主です。「正義」という言葉からは時にある種の冷たさのようなものを感じます。それは人による正義に限界があることを意味します。このお方の正義は人による正義とは違い、愛に満ちた豊かなものです。だからこそ4節にあるように「弱い人のために正当な裁き」を行なうことができるのです。人には無い完全な正義を持たれる救い主を感謝いたします。

そしてこのお方は平和の救い主です。このお方の平和も人のものとはスケールが違います。6節~8節に記されている内容は、常識では到底考えられないものです。これはこのお方の作り出す平和が人にはできないレベルのものであることを示しています。

人は罪がるゆえに救われなくてはなりません。罪があるゆえに弱い者をも正当に裁かれる必要があります。また罪があるゆえに正しい平和を必要としています。エッサイの子孫としてお生まれになったイエスキリストは愛と正義と平和の王としてお生まれになりました。このお方を信じて歩んでまいりましょう。与えられた愛と正義と平和の王を感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「用いられる喜び」  フィリピの信徒への手紙4:10~20(新約P366)  2018年12月2日 大竹敏生

 

本日から今年のアドベント(待降節)となります。今年もクリスマスを、喜びをもってむかえたいと思います。また本日は日本バプテスト連盟の今年の世界バプテスト祈祷週の最終日です。本日はフィリピの信徒への手紙4章10節~20節から学び、少しでも世界宣教を担う者とされてまいりましょう。

このフィリピの信徒への手紙の著者はパウロですが、このパウロはまさに「世界宣教にたずさわる人物」でした。彼の働きを支えたのはもちろん神です。そしてその神は多くの場合、人を用いるのです。パウロの世界宣教の働きは、神がアンティオキアの教会に示し、アンティオキアの教会の人たちがパウロを支えました。そしてアンティオキアの教会だけでなく、いろいろな人が神の導きによりパウロを助けました。今日の聖書箇所から、フィリピの教会もパウロをおぼえ、贈り物をしたことが分かります。パウロはこのフィリピ教会の贈り物をとても喜んでいます。何がそんなにパウロを喜ばせたのでしょうか。

1つはフィリピ教会がパウロのことを思ってくれたことです。パウロは時に孤独感を感じていたようです。そんなパウロにとって彼を思いやる贈り物には励まされたはずです。また14節に「よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」とあります。フィリピの教会の行為は「パウロと苦しみを共にする」ことだったのです。つまり世界宣教につかわされているパウロと同じように世界宣教を担っていることにつながっているのです。またさらにこのフィリピ教会の行為はフィリピの教会の祝福につながるのです。パウロは神のため、自分のため、そしてフィリピ教会のために喜んでいるのです。

私たちは世界宣教にたずさわる方々のために祈りましょう。またこの働きのために献げましょう。パウロを支えたアンティオキアの教会のように、またパウロに贈り物を贈ったフィリピの教会のように世界宣教をおぼえて祈り献げましょう。神はきっと喜んで下さるに違いありません。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主によらなければ」  ヨハネによる福音書14:1~14(新約P196)   2018年11月25日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書14章1節~14節です。この中から特に6節の言葉を中心に神のみ言葉から学びましょう。

人はそれぞれいろいろなものを大切にして生きています。ある人はおのれの生き方について正しく生きたいと考えます。またある人は健康に気をつかいます。ある人は他人への思いやりを大切にしたりし、ある人は喜びを追求し、そしてある人は神のような絶対者を求めるのです。これらは皆、間違ったものを求めているとは言えません。ただこれらの人たちの多くが間違った求め方をしているのです。そうです。私たちの多くがこれらのものを、たとえば自分に求めるのです。また他の力のある人に求めたりもします。しかし罪ある人間には無理なのです。人は正しく生きられず、永遠に生きられません。また他人を愛せず、喜べず、間違ったものを神にしてしまうのです。私たちは間違えないで求めなくてはなりません。ではどなたに求めたらよいのでしょうか。6節に「わたしは道であり、真理であり、命である。」とイエス様の言葉が記されています。イエス様こそ神につながる道であり、本当の神であり、永遠の命を与える救い主なのです。

私たちは罪があり、私たちと神の間には大きな断絶があるのです。この間を埋めるために人は全く無力です。イエスキリストこそこの間を唯一埋めることができるお方です。この方によらなければ神との正しい関係に入れません。救われません。正しく歩めません。父なる神と一体である主が私たちを愛し、救ってくださるのです。主は私たちの神であり、救い主なのです。

私たちは主の救いを受けるために主を信じましょう。主は私たちに永遠の命を与え、天に住まいを備えてくださいます。私たちの肉体の死の後は保証されています。また私たちのこの世での歩みをも導いてくださるのです。生きているときも死んだ後も主である神に感謝いたします。主を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「この上なく愛されて」  ヨハネによる福音書13:1~20(新約P194)  2018年11月18日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書13章1節~20節です。イエス様が弟子の足を洗うこの有名な箇所から主の愛を学びましょう。

イエス様が十字架に架かる直前に、イエス様が弟子の足を洗うということが起こりました。足を洗うのは僕のする仕事です。通常ではありえないことが起こったのです。弟子たちはさぞ驚いたでしょう。ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください。」と言っていますが気持ちがよく分かります。

イエス様は何故弟子の足を洗ったのでしょうか。その理由は愛です。1節に「弟子たちをこの上なく愛し抜かれた」とあります。愛するがゆえにあえて僕のようにへりくだって弟子のために足を洗ったのです。また「洗わないでください」と言ったペトロに、そうしたらイエス様とペトロは「何のかかわりもないことになる」と言われました。このイエス様の言葉は何を意味しているのでしょうか。これは、私たち罪人は主イエス様の徹底したへりくだり無しには歩むことはできないということを示しているのではないでしょうか。私たちは救いを含めて主なしには生きられないのです。助けていただく資格のない私たちは、足を洗うように仕えてくださる主の愛によって歩めるのです。ペトロはこの後、試練にあいました。彼は「主を知らない」と3度も言ったのです。つまりペトロは主を裏切ったのです。しかし彼は主に立ち返りました。自分の足を洗ってくださった主を思い出したのかもしれません。私たちもそうです。通常ではないほどにへりくだって下さった主の愛の中でしか生きられないのです。弟子の足を洗い、私たちも同じように愛して下さる主に感謝します。

イエス様が弟子の足を洗われた理由として、12節以降に記されていることは「同じように仕え合いなさい」ということです。私たちが主の愛に応えるには「互いに愛し合う」ことが最良ではないでしょうか。主にならって互いに愛し合いましょう。それが私たちの祝福につながるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我々は主を知ろう」   ホセア書6:1~3(旧約P1409)    2018年11月11日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書のホセア書6章1節~3節です。ここから罪ある我らを愛する神をおぼえ、ますます神を愛し慕うことを心がけましょう。

ホセアは北イスラエル王国の末期の預言者です。ホセアは主の命令で淫行の女を妻にしました。その妻がホセアのもとを去り、姦淫を犯す彼女を主の命令通り再び買い戻しています。これは、神はイスラエルの民を愛しましたが、民が神に対して偶像崇拝の罪を犯し神から離れました。しかし神はそれでも民を愛し続けたことを表しています。イスラエルの民だけではなく私たちも主から愛されています。愛される資格は私たちにもありませんが神は愛して下さるのです。感謝いたします。

そんな愛の神についての預言として本日の聖書箇所を読みましょう。1節で「神に立ち返ること」が勧められています。続けて2節にかけて愛の神は私たちを「いやし」「生かし」「立ち上がらせる」と記しています。そして3節で「主を知ろう」と呼び掛けているのです。しかも「主を知ることを追い求めよう」と記すほどのものです。私たちは誰もが「知られたくないこと」があるでしょう。しかし神にはありません。どこまで知っても知り尽くせないでしょう。そしてどれだけ知ってもすばらしいお方なのです。では神を知るためには何が必要でしょうか。聖書を学ぶこと、祈ること、讃美すること、礼拝などの集会に出席することなど、信仰生活を守ることも必要なことです。ただ今日、皆様方にお話ししたいのは「神を愛すること」です。私たちは好きなことや好きな人物について知りたいものです。私たちが神をとことん愛するとき、主なる神を知ろうと追い求めることができるのです。「どうしたら主を知ることができるのか」と問われれば「主を愛そう」とこたえることができるのです。

私たちが主を知ることを追い求めたとき、主は必ず私たちを祝福されます。主なる神を愛し、主を知ることを追い求めてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「すべての者の主」 ローマの信徒への手紙14:7~9(新約P294)  2018年11月4日 大竹敏生

 

本日は召天者記念礼拝で、聖書の箇所はローマの信徒への手紙14章7節~9節です。先に天に召された方々をしのびつつ学びましょう。

今日の聖書の箇所は「主を信じる者が兄弟たちにどのようになすべきか」が記されています。7節と8節はかなり厳しいことが記されていますが、主を信じる者のあるべき姿が記されています。私たちは自分のために生きて、自分のために死ぬのではなく、主のために生きて、主のために死ななくてはならないのです。主に従いつつ歩んでまいりましょう。

言葉の順序から9節は「主が十字架で死んで復活した」ことが記されていることが分かります。主はすべての決定権を持っています。何も十字架に架かって死んでよみがえることをなさらなくても「私を信じる者は皆救われる」と決めてよいのです。しかし主はわざわざ十字架に架かって死んでよみがえられたのです。1つは、これは私たちの罪が途方もなく大きいことを示しています。大きな罪を赦して下さる主に感謝し、主のために歩みましょう。また他の理由として9節に「死んだ人にも生きている人にも主となられるため」とあります。私たちは先に召された人たちに対しては全く無力です。しかし主は違います。世の中では、いわゆる「顔が利く」人にものを頼むことがあります。しかしそれはいつも有効とは限りません。死んだ人には全く無力な私たちは「顔が利く」方に頼むのではありません。死んだ人にも「主」なる方にゆだねるのです。死んだ人にも絶対的な主が召された方々を完全に支配しておられます。召された方々は何も憂うることなく過ごしておられるのです。感謝いたします。

死者の主である方は今生きている私たちの主でもあります。そういう主にすべてをお任せし、先に召された方々を思い、先輩方にならって主のために歩みましょう。そしていつか私たちもこの世での歩みを終えます。そして主の前で召された方々とお会いできることを信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰をもって歩もう」 テモテへの手紙Ⅰ6:11~16(新約P389)   2018年10月21日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はテモテへの手紙Ⅰ6章11節~16節です。この箇所から神への信仰をもちつづけることの大切さを学びましょう。

新共同訳聖書の本日の聖書箇所の前には「信仰の戦い」と表題がつけられています。「信仰の戦い」という言葉からは何か厳しいものを連想させられます。実際きびしいのです。私たちは誰もが罪を持っています。従って信仰を持つことが必要なのです。またこの罪によって私たちは弱いのです。そのためこの戦いは普通の戦いとは違う点があります。私たちはこの戦いの相手に対抗できる力を持っていません。私たちは弱いので相手に打ち勝つことは必要ありません。神への信仰から離れないように、信仰を保ちつづけることが私たちの行なわなくてはならない信仰の戦いなのです。

ただ「打ち勝つ必要はない」とは言ってもそれでも厳しいのです。それぐらい私たちの罪からくる弱さは深刻なのです。11節でパウロはテモテに「神の人よ」と呼びかけています。パウロの立場からすればテモテに対してもっと上から呼びかけても何も問題ありません。ただここではパウロは「神の人よ」と言うのです。テモテも「信仰の戦い」を逃れることはできません。パウロは実の子のように愛する弟子テモテに対して「神の人よ」と言っています。「信仰の戦い」を勝ち抜くためには神にゆだねて神の力を借りて歩む必要があるのです。テモテも決して強い人ではなかったようです。そんなテモテを愛するパウロは「弱くても神にゆだねて歩めば大丈夫」と教えているように思えます。

パウロがテモテを愛した以上に神は愛しています。そしてその神の愛は私たちにも注がれているのです。私たちも「信仰の戦い」をなさなければいけません。私たちもテモテと同じように弱いのです。でも神によって歩みましょう。私たちが信仰をもちつつけて歩み終えたとき、私たちは永遠の命を手に入れることができるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「試練を恐れるな」 コリントの信徒への手紙Ⅰ10:11~13(新約P312)  2018年10月14日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ10章11節~13節です。この箇所の13節を中心に、私たちを守り導く神の愛を学びましょう。

私たち人間は誰でも悩みがあります。生きている間、何も問題なく人生を送れる人はまずいません。ヨハネによる福音書16章33節にもそのことが記されています。私たちの歩みに悩みや苦しみ、問題はつきものなのです。ならば私たちは「困難に遭わないようにする」ことより「困難に対しての対処」に心をつかうことが大切なのかもしれません。でもその「困難に対する対処は」決して簡単ではありません。だいたい簡単に対処できるならば困難や悩み、問題にもならないでしょう。困難や苦難、悩みなどは一体何ゆえに私たちに起こるのでしょうか。聖書では私たちは誰もが罪をもっていると教えます。その罪が私たちを苦しめ、悩ませるのです。つまりこの罪を解決することこそ一番の対処方法なのです。

本日の聖書箇所には、神が試練と共に逃れる道を備えると記しています。罪の解決は私たちにはできません。神にしかできないのです。神は私たちを救ってくださり、苦難にあえぐ私たちを助けてくださるのです。今日の箇所ではこの困難や悩みを試練と言います。つまり神がこの試練をとおして私たちを祝福してくださるのです。私たちはそれを約束と信じて歩まなくてはなりません。困難からの脱出の道を用意してくださる神は、その道を求める私たちを愛し、共にいてくださり、力をくださるのです。そして脱出の道を歩み出たとき、私たちは成長させられているでしょう。だから試練なのです。

困難の中にあるとき、それはあまいものではありません。厳しいものです。しかしその困難は避けられないものです。でも神が共にいてくださり、そこから脱出させてくださるのです。その後は、私たちは信仰が成長させられているでしょう。私たちは試練を恐れる必要はないのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神をしたい求めよ」     詩編42:2~6(旧約P875)   2018年10月7日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書の詩編42編2節~6節です。この中から特に有名な2節を中心に神のみ言葉から学びましょう。

2節に「鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」とあります。これは技術的には困難なことではありません。しかし私たちは素直に神をしたい求めることができないのです。何が素直にさせないのでしょうか。私たちが何かを求めるとき、直線的に行動しないことがよくあります。1つは照れのようなものがあるのではないでしょうか。周りの自分への評価を気にしたり、こちらから動くよりもむしろ相手の側からの働きかけを期待したりしてしまうことがあるのです。また求めるものを得るために自分にその資格があることをアピールしたり、対価を用意したりして、素直に求めることをためらわせたりするのです。

確かに世の中では素直に、直線的に求めてもうまくいかないことが多いのです。しかし今日の聖書箇所にある「神をしたい求めること」についてはそういう心配はいりません。「神をしたい求めること」は、神がむしろそれを望んでおられます。それを喜んで受け入れてくださるのです。私たちが神をどれほどしたい求めても、求めすぎということは無いのです。また世の中のものは、求めても与えられないことがあります。しかし「神をしたい求めること」は私たちが求めれば間違いなく与えられるのです。だから少しもためらうことなく神をしたい求めていきましょう。また鹿にとって生きるのに水が必要です。それと同じように私たちには神が必要です。神をしたい求めて歩みましょう。

私ももうかなりの年齢になりました。今日の箇所の言葉は子ども向けなのかと考えていたこともあります。でも年を重ねてきて感じることは、むしろ今神をしたい求めつつ歩む必要ことが大切ということです。これからも神を待ち望みつつ、神を愛し、神をしたいつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主のために歩もう」  ヨハネによる福音書6:1~15(新約P174)  2018年9月30日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書6章1節~15節です。いわゆる「五千人の給食」と呼ばれる記事です。すべての福音書に記されているこの「五千人の給食」の出来事からはいろいろな神の恵みを学ぶことができます。本日は私たちの弱さを補い、さらに祝福される神の愛を学びましょう。

ここには成人男子だけで五千人がいました。つまり5000人以上の人物の食事を用意する必要があったのです。しかし弟子たちの前には少年の持っていた5つのパンと2匹の魚だけしかありませんでした。それをイエス様は用いて5000人以上の民のお腹を満たしたのです。5つのパンと2匹の魚を何千倍以上に増やしたのです。ものすごい出来事ですが、神は全知全能ですから当然のこととも言えるのです。

全知全能の神にしては不思議なのは、5つのパンと2匹の魚しかなかったものを全て用いたところです。「いらない」でも「パンと魚1つずつでいい」でもなく全部用いました。ここに神の愛を感じます。私たちを愛する神は、私たちがわずかしかできなくてもそれを喜んで受けて用いるお方なのです。しかも神の御用のために足りないところを補い、あるいは増やしたり整えたりしてくださるのです。

私たちもわずかしかできない、わずかしか献げられない弱い者です。しかし私たちも愛されています。私たちができる限りを尽くしても到底及ばないことがあるでしょう。しかし神は私たちのそのできたことを、献げたことを喜び、それを用いて最善になさるのです。感謝をいたします。また本日の箇所の出来事は「弟子の訓練」という目的でなされた面があります。このことをとおして成長があったのです。つまり私たちができる限りをつくして神のために歩むとき、私たちは大きなことができ、またそれに加えて私たちが成長させられるのです。主のためにできる限りを尽くして主のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救いは神の愛によって」  ヨハネの手紙Ⅰ4:7~21(新約P445)  2018年9月23日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネの手紙のⅠ4章7節~21節です。この有名な箇所から主の愛と救いについて学んでまいりましょう。

「神」というとどのようなイメージでしょうか。やはり「力」ではないでしょうか。たくさん神がいるギリシャ神話でも主神は「力」の神です。神に対するイメージとして他に「正義」というイメージもあります。私たちが信じる神も「全知全能」の神です。また「義なる」方です。ただ聖書が示す私たちの信じる真の神は「力」や「正義」以上に「愛」が強調されるのです。今日の箇所にも「神は愛」という記述があります。私たちの神は「全知全能」で「義なる」方ですが、それ以上に「愛」の神であると聖書は語るのです。

確かに「力」で救いを起こすことも可能でしょう。しかし神は完全でも私たちは違うのです。罪があって弱く自分で自分を救うことができない私たちです。その私たちの救いは神の「力」だけでは起こりません。自分で自分を愛せない私たちです。そうさせているのが「罪」です。そんな罪ある私たちのどこに「救い」を得る資格があるのでしょうか。

神は私たちの「罪」を憎みます。軽く見てはいません。「いいよ。いいよ」と簡単に赦しているのではないのです。神が嫌悪する罪を私たちは持っています。だから「力」だけでは救われません。嫌悪する罪を赦すものが神にあるのです。それが「愛」です。愛の神だから私たちは救われるのです。

私も自分の罪を意識したときショックでした。自分を赦せないと思いました。そんな私を神は赦し、愛して下さっていると知ったときに初めて神の「救い」が分かったような気がします。神の愛による救いを感謝いたします。

私たちには罪があります。だからときに「救われる資格はない」と自己嫌悪に陥ることもあります。しかし神はそれ以上に私たちを愛しています。無くなることはない神の愛に感謝し、信じて救いを受けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に仕えます」    ヨシュア記24:14~18(旧約P377)  2018年9月16日 大竹敏生

 

本日は「高齢者をおぼえる礼拝」です。その日に主から示された聖書箇所は旧約聖書のヨシュア記24章14節~18節です。この箇所から主に仕える恵みを知り、主に仕えることを心がけて歩んでいきましょう。

今日の聖書箇所は高齢となったヨシュアの告別の言葉です。ヨシュアは会衆に向かって14節で「主に仕える」ことを命じ、15節で会衆がたとえ偶像に仕えることを選んでも「わたしとわたしの家は主に仕えます。」と語りました。この言葉にヨシュアの神への強い信仰が見て取れるのです。

ヨシュアのこの言葉は彼の生涯にわたっての体験や経験からのものです。カナンの地に入る前から、そしてカナンの地に入ってからもモーセに従って歩み、神の奇跡を目の当たりにし、神への信仰を固くして歩んできたのです。そして「真の神はこの方だ」と確信していました。

それに対してイスラエルの民はどうだったでしょうか。多くの奇跡を体験していたのに、神につぶやいたりしてきました。またヨシュアの言葉から以前から偶像を拝んできて、この時も真の神以外のものを信じていたりしていたようです。そういう民にヨシュアは主に仕えるように強く勧めました。ただヨシュアは「あなたたちは主に仕えることができない」とも言っているのです。

「わたしとわたしの家は主に仕えます。」という言葉はヨシュアの強い信仰からくる言葉です。この強さは「粘り強さ」も持っています。信仰は強く、そして継続する必要があります。民が主の奇跡を見て信仰が燃え上がっても、もろくも信仰が失せてしまう様子を見てきました。しかしヨシュアは生涯の体験を通して成長し、固く、粘り強い信仰をつちかってきました。他が安易な偶像に流され神から離れても、神から離れず信仰を守り通してきました。そしてこれからも「主に仕える」と力強く、そして当たり前に語りました。私たちもヨシュアのように信仰に立って主に仕えてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の前にできること」    列王記下20:1~7(旧約P614)  2018年9月2日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書の列王記下の20章1節~7節です。この箇所から導かれ、神の前にできることをしていくことを心がけたいと思います。

今日の箇所には南ユダ王国の王ヒゼキヤという人が出てきます。この人は神の前にたいへん善い王でした。あのダビデ王に匹敵する王でした。そういう優れた王でしたが、死が迫っていました。ヒゼキヤが信頼し、友であり、共に南ユダ王国を導いてきた預言者イザヤによってそのことが告げられたのです。

私たちは誰もが死の前には無力です。人間は昔から「不老不死」を求めたりしてきました。今も、少しでも長生きできるように健康に気をつかう人、定期的に健康診断をする人、そういう人が多いと思います。でもその試みは完全ではありません。どんなに優れた人も死の前には何もできないのです。ヒゼキヤは優れた王でした。人としての能力も優れていたことと思います。そんなヒゼキヤも死を前に何もできませんでした。ヒゼキヤは死の前に確かに無力でした。しかし彼は死を前に無力ではない方に依り頼んだのです。そう神の前に泣き叫んで頼んだのでした。また大預言者イザヤですらも死の前には何もできません。イザヤは友人ヒゼキヤの死の前に何もできずそこを離れました。叫んで祈るヒゼキヤと神を1対1にあえてしたのでしょうか。その立ち去るイザヤに「ヒゼキヤの寿命を15年延ばす」と神は告げたのです。

どんなに優れた人も死に対しては何もできません。でも主を信じる私たちはヒゼキヤのように死に勝つ神に祈ることができます。またイザヤも友人の死に対して何もできませんでした。おそらくイザヤも祈ったことでしょう。そして他にイザヤは預言者として主の言葉を告げました。私たちは無力でも主の前に祈ることができます。また主のために働くこと、また証しすることができるのです。弱い私たちですが、喜んで祈りましょう。奉仕しましょう。証ししましょう。私たちを愛する神は必ずやヒゼキヤのように祝福されるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「不信仰な者を助ける神」 マルコによる福音書9:14~29(新約P78)  2018年8月26日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマルコによる福音書9章14節~29節です。この箇所から、弱く不信仰な私たちを愛し、助けて下さる神を覚えたいと思います。

私たちには罪があります。それゆえに弱いのです。主を信じる者は誰も「不信仰」になりたいと思っていません。でもこの「不信仰」は誰も求めてはいないのに、いつの間にか私たちのところに来ていて、私たちを「不信仰」にするのです。今日の聖書箇所に出てくる「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」に取りつかれた子の父親も、初めは主を信じてやってきました。しかし主イエス様はおらず、代わりに弟子に願いましたが、弟子には解決できなかったのです。子どもはかなりの長い期間霊に憑かれた状態だったようです。「やはり無理だ」と考えてしまい「不信仰」に陥ってしまいました。

23節でそんな父親に主は「信じる者には何でもできる」と諭します。すると父親の「不信仰」は消え「信仰」が復活しました。諭されて信仰がよみがえった父親は24節で「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」主に叫びました。この言葉の意味は「自分は不信仰だったけど信じます。子どもを助けてください。」というような意味だったのかもしれません。ただ「わたしをお助けください。」と言っているのです。「子どもを」や「私たち親子を」ではありませんでした。そして「不信仰を赦して」ではなく「助けて」だったのです。もしかすると父親は本音で「不信仰な自分を助けてください。」と願ったのかもしれません。

私たちは誰もが罪を持っています。この罪の問題は主を信じる信仰によってのみ解決できるのです。しかし「罪は赦された」のであって「罪が無くなった」のではありません。だから私たちは「不信仰」にすぐ陥ってしまうのです。私たちは主からの助けをいただかなくてはなりません。「不信仰な者」を助け、願いを聞いて、子どもを癒した主に従って、信じて歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が共にあって助ける」 ローマの信徒への手紙12:9~21(新約P292)  2018年8月19日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙12章9節~21節です。この箇所から、私たちを助けて導いて下さる神の愛を覚えましょう。

今日の箇所はキリスト者が模範としてどのように歩むべきかが記されています。記されている事柄はいろいろですが、1つ1つが簡単ではありません。私たちはそれぞれ得意不得意があります。どんなに能力がある人でもここに記されている事柄をすべて完全にできる人はいません。悪の誘惑に負ける者、愛せない者、怠慢な者、喜べない者、忍耐できない者、祈れない者、他人を助けられない者、こういう人たちはキリスト者としてふさわしくないともとれるのが今日の聖書箇所です。そして罪があって弱い私たちは実際、上記の事柄を1つできないどころか、いくつも、いや1つも全うできないのです。私たちは苦手なことをするのは困難です。そして得意と思うことすらもできるとは限りません。では模範的キリスト者には到底成ることができないのでしょうか。

この困難なことを達成に向かわせる道があります。11節に「霊に燃え」とあります。この「霊」は「聖霊」という考え方と「私たちの霊」という考え方とがあります。どちらにしてもこの「霊に燃え」は神と関係無しとは言えません。私たちは神によって「霊に燃やされる」必要があるのです。ではそれは具体的にどういう状況になることなのでしょうか。それはたとえば神によって導かれ、喜ぶことです。また神によって元気にさせられることです。私たちが神によって喜びに満たされるとき、私たちが神によって生き生きと歩むとき、私たちはできないことができるように道が開かれるのです。私たちは主のために神によって霊に燃やされて歩んでまいりましょう。

私たちの主なる神は私たちを愛しておられます。私たちが主に喜ばれる模範的な歩みをなすことを求めておられます。だとするならば私たちが「霊に燃え」模範的に歩めるように助けてくださるに違いないのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みの休息」   マタイによる福音書11:25~30(新約P20)  2018年8月12日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書11章25節~30節です。この有名な聖句から、愛の神の恵みを覚えたいと思います。

今日の聖書箇所の28節に「休ませてあげよう」とあります。これは主イエスキリストの言葉で、約束なのです。確かに「疲れている」「苦しい」こういうときには「休み」が必要です。「休み」によって回復する必要があるからです。だとするならば「疲れていないとき」「楽なとき」は「休み」はいらないことになります。私たちは「休み」は非常時に必要としているもので、普通の状況や順調なときには不必要と考えてしまうのです。私たちは疲れたり、苦しかったりしたくはありません。そうなるとできれば「休み」の出番は無い方が良いことになります。「休み」はそういうものなのでしょうか。

結論から言うと私たちには「休み」は必要です。私たちにとって「順調」や「普通」な状況はそれほど多くは無いのです。すぐに「休み」が必要になります。また「順調」「普通」に思えても、実際はそうではないこともあるのです。また、ここでの「休み」は主がくださるものです。この主がくださる「休み」は完全です。私たちの厳しい状況を先延ばしたり、ごまかしたり、応急措置で済ましたりするようなものではなく、私たちの「疲れ」「苦しみ」を完全に癒やす「休み」なのです。

私たちの「疲れ」や「苦しみ」はかなり深刻です。解決する必要があります。ただ私たちの「疲れ」「苦しみ」は、私たちには解決できません。この問題を解決するのが主がくださる「休み」です。私たちの主は全知全能です。そして愛の方です。私たちを愛しておられるがゆえに、私たちが「疲れたり」「苦しむこと」を望んでおられません。主は私たちに喜んで「休み」をくださるのです。そのことを信じましょう。全知全能で愛の主は、これからも私たちに完全な「休み」をくださるに違いありません。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が我らと共に一歩一歩」    箴言16:1~9(旧約P1011)  2018年8月5日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書の箴言16章1節~9節です。箴言は神から知恵をいただいたソロモンが記したと言われています。その箴言のこの箇所から、私たちの歩みを導いてくださる主なる神を覚えたいと思います。

私たち人間の歩みは決して完全ではありません。それどころか非常に危ういと言えるものです。私たちは罪があります。それゆえに弱く、私たちの歩みは危うさに満ちているのです。私たちは、本日の聖書箇所の箴言16章の3節にあるように「主にゆだねて」歩むべきなのです。

9節を見ましょう。この9節は新共同訳聖書では前半と後半が普通につながっています。ただ口語訳聖書と新改訳聖書では前半と後半の間は「しかし」という言葉でつながっています。箴言は対句表現が多く用いられています。この9節も口語訳や新改訳の訳し方の方が良いのかもしれません。ただ私たちがどうであれ、神は私たちの歩みを最初から最後まで導いてくださるのです。

この9節に「主が一歩一歩を備えてくださる。」とあります。私たちの歩みは順調の時もあります。でも時に停滞、あるいは後退していることすらあります。しかし主は「一歩一歩を備えてくださる。」とあるのです。この「一歩一歩」という言葉からはスピード感は感じませんが「停滞」「後退」も感じません。私たちの歩みを主にお任せするとき、その歩みは進んでいないようでも前進しています。またこの「一歩一歩」という言葉からは「確実性」も感じます。神は私たちの歩みを確かなものにしてくださいます。つまり主は私たちをいつも導いてくださり「着実に」「確実に」前に進ませてくださるのです。

私たちは自分の歩みについてはいろいろ考えます。しかしその時、主を忘れがちになるのです。そしてそれは「神について」考えているときですらそうです。主にゆだねて歩みましょう。私たちが主にゆだねて歩むとき、いつも私たちと共にいて導く主は、私たちを「一歩一歩」進ませてくださるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛ゆえに罪に定めない」  ヨハネによる福音書8:1~11(新約P180)  2018年7月22日 大竹敏生

 

本日は伝道礼拝で、聖書箇所はヨハネによる福音書8章1節~11節です。この箇所から、罪を赦して下さる愛の神について学びましょう。

主イエスキリストのもとに姦淫の場で捕らえられた女性が連れて来られました。姦淫の場で捕らえられたのに男性はいません。主イエスを追い落とすための陰謀も疑えるところです。少なくても罪を憎むより、イエス様を追い落とすことが目的の行為でした。イエス様が「女性に石を投げてはならない」と言えば「イエスは律法をないがしろにしている」と主張し、「この女に石を投げよ」と言えば「ローマの許し無しに死罪を言い渡した」と訴えることができると考えたのです。ただイエス様は何も答えず、地面に何か書いていました。何も答えないイエス様に、律法学者たちは問い続けるので、イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と語ったのです。それに対し、石を投げる者は誰もなく、皆立ち去ったのです。

残った女性にイエス様は「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と尋ねます。女性は「主よ、だれも」とこたえました。するとイエス様は「わたしもあなたを罪に定めない」と語りました。「わたしも」と語るイエス様ですが、この女を罪に定めなかった理由は、立ち去った人たちとイエス様は違いました。立ち去った人たちは、罪を犯したことがあるゆえにイエス様の言葉の前に石を投げることができなかったのです。一方イエス様は罪がありません。イエス様はこの女に石を投げることができました。そんなイエス様が石を投げなかったのは愛ゆえになのです。この女性は何か特別なものを持っていたわけでは無いようです。この女性が罪に定められなかったのは、主イエスに愛されていたからでしょう。そしてその無償の愛は私たちにも注がれているのです。これからもイエスキリストを信じ、主による「罪の赦し」を受けて歩みましょう。愛の神はどんな罪も「あなたを罪に定めない」と言って下さるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「すべてをありのままに」  マルコによる福音書5:25~34(新約P70)  2018年7月15日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は、マルコによる福音書5章25節~34節です。この箇所から、主なる神にすべてをゆだねて歩むことを学びましょう。

今日の箇所には「12年間も出血が止まらない女」が出てきます。その女性の苦しみは、私たちの想像をはるかに超えたものであったと思われます。当時の女性の弱い立場、また病気の因果への誤解などが病気の苦しみに加わっていました。そんな中、女性はその大きな苦しみから逃れるために主の服に触れたのです。この「服に触れれば癒やされる」という考えが完全ではないことは女性も分かっていたはずです。でも女性は主の前に直接願い出ることもできずに、こっそりと人に紛れて服に触れたのです。これしかできなかったのです。そんな方法でしたが、この女性本人が驚くほど完ぺきに癒やされたのです。

この時のイエス様は先を急いでいました。しかしイエス様は立ち止まり「私の服に触れたのはだれか」と言われました。先を急いでいる状況を知っている弟子が言っても、イエス様はそこにとどまったのです。つまりイエス様にとってこれは大切なことだったのです。その大切な理由の1つは34節の「あなたの信仰があなたを救った」を含む言葉を女性に語ることだったのでしょう。でもイエス様は女性に言葉をかけるだけではなく、女性の言葉を求めていたようです。しかも女性の「すべてをありのまま」の言葉を求めていたのです。

この女性は何を言ったのでしょう。「服に触れたこと」「病気のこと」「自分の身に起こったこと」は当然語った中に入っていたでしょう。「なぜ服に触れたのか」も言ったでしょう。その他「自分の境遇」や「悩み」「苦しみ」「悲しみ」そして「罪の告白」なども話したかもしれません。彼女は「すべてをありのまま」語ったことで病気だけではなく、霊肉共に癒やされたのです。

私たちも心にある「悩み」「苦しみ」「悲しみ」「弱さ」などをすべて主に語りましょう。主はそれを喜んで聞き、私たちの心を癒して下さるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「霊よ、四方から吹き来れ」 エゼキエル書37:1~10(旧約P1357)  2018年7月8日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は、旧約聖書のエゼキエル書37章1節~10節です。エゼキエル書は、預言者エゼキエルの預言が48章にわたって記されています。エゼキエルはバビロン捕囚のころに預言活動をしていたようです。今日はこの箇所から、神を信じ、神にゆだねて歩む者となることを学びましょう。

今日の箇所で枯れた骨が、霊が吹きつけると生き返ることが記されています。枯れた骨はうるおい1つなく完ぺきに死んでいます。しかし霊はものともしません。とても生き返るとは思えない状況ですが、霊によって命が与えられるのです。今日の箇所の「霊」は「息」とも訳されます。創世記に人間が造られたとき、神は土で人を形づくり、息を吹き込まれ人間となりました。霊は命を与えるのです。霊に不可能はありません。

その霊が四方から吹くのです。これには意味が2つあります。四方から吹くのですから、ありとあらゆるところからととることができます。神の霊はどこにでもおられるのです。そして四方から吹くのですから、私たちはこの霊の吹き付けから逃れられません。つまり神の霊の助けや恵みから漏れる人はいないのです。神は私たちがどのようなところにいても、そしてどのような状況にあっても、必ずそこにいて、必ず助けてくださるのです。感謝いたします。

今日の聖書箇所のすぐ後に、これらの枯れた骨は「イスラエルの全家」だと神が示しています。これはエゼキエルが属していた「南ユダ王国」だけではなく、前にアッシリアに滅ぼされた「北イスラエル王国」も含みます。もうすでに滅びた北王国とバビロン捕囚にあう南王国どちらも回復するのです。確かに「イスラエル全家」は「枯れた骨」のような状況で、回復困難でした。しかし神の霊は完全に復活すると約束しているのです。そしてそうなりました。

私たちにも霊が吹きます。不可能のない神の霊の力によって歩めることを信じましょう。信じて神の霊の働きにゆだねていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「励まし合いなさい」 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:8~11(新約P378)  2018年7月1日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章8節~11節です。この箇所から学び、互いに愛し合い、励まし合って歩む者となりましょう。

テサロニケの信徒への手紙Ⅰの特徴としては「イエスキリストの再臨」があげられます。テサロニケの教会ではこの「再臨」についての疑問がありました。またそのことによる問題もあったと思われます。この手紙の著者のパウロはテサロニケ教会の疑問に答え、また問題点を指摘しています。そして誤解をといています。本日の箇所は「再臨」についての記述があった後、それに続く箇所です。ここでパウロはイエスキリストによって私たちに与えられた救いを信じて、そこから私たちが歩むことを勧めているようです。その勧められていることの1つが11節にある「互いに励まし合う」ことでした。

私たちは、この「励まし合う」ことについて少し軽く見がちの傾向があるのではないでしょうか。「励まし」を悪く思う人はいないでしょうが、それほど大切にも思わないかもしれません。ただ聖書ではかなり重要なようです。まず「励ますこと」はけっこう難しいのです。言葉の選択を間違えたりしたら、励ますどころか傷つけることになります。私たちは全知全能の神に信頼し、主にある「励まし」をしていく必要があります。弱い私たちは、自分が考える以上に「励まし」を必要としています。主を信じる者が「互いに励まし合う」ことで厳しい状況を乗り越えていくことができるのはないでしょうか。

また11節に「お互いの向上に心がけなさい」とあります。私たちが「励まし合う」ことは、弱っている私たちを少しでも良い状況に持っていく働きがあると思われます。しかし聖書ではそれ以上に「お互いの向上」につながるものと記しているのです。私たちが愛し合い、励まし合うことにより、それによって私たちが向上するのです。「励まし合う」ために神に祈り、信仰を増し加えていきましょう。それが私たちの成長につながるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられる新たな力」   イザヤ書40:28~31(旧約P1125)   2018年6月24日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は、旧約聖書のイザヤ書40章28節~31節です。この箇所から、神が私たちにくださる新たな力を覚えましょう。

本日の聖書箇所の31節で、私たちに「新たな力」が与えられると約束されています。「新たな力」が与えられることによって私たちはどのような恵みを受けるのでしょうか。それは少なくても2つあると考えられます。まず1つは今日の聖書箇所に記されていますが「私たちは疲れることがなくなる」とあるのです。私たち人間は誰もが罪からくる弱さをもっています。その弱さは肉体にも及んでいて「疲れ」たりします。しかし与えられる「新たな力」によってまるで燃料が補充されるように私たちは元気にさせられるということなのです。2つ目として考えられるのは、その時に必要な力が「新たに」与えられるということです。以前と同じ力ではなく、今も生きておられる神は、私たちのその時に必要な最善な力を私たちにくださるのです。私たちの置かれている状況は変化します。神はその変化に対応してくださって、私たちの先になり後になり、必要な力を「新たに」与えてくださることを感謝しましょう。

ではその神のくださる「新たな力」を得るために、私たちはどうするべきなのでしょうか。31節に「主に望みをおく人は新たな力を得、」とあります。つまり「主に望みをおく」ことが必要なのです。この言葉から「祈る」ことが示されます。私たちに「新たな力」をくださるのは主です。その主なる神に「新たな力」を願い、祈ることが大切なのです。そしてこの「祈る」ことと関係するのが「信じる」ことです。私たちは主なる神を信じて祈らなくてはなりません。そうすれば神は約束どおり「新たな力」をくださるに違いありません。

主に望みをおいて歩み「新たな力」を得ましょう。その与えられる「新たな力」は、空を飛ぶ鷲のように力強いのです。また鷲が空を飛ぶのに危険を回避するように必要が備えられます。与えられる「新たな力」を感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みへの信頼」  コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1~10(新約P339)  2018年6月17日 大竹敏生

 

本日は、コリントの信徒への手紙Ⅱ12章1節~10節からと導かれています。この箇所から主の恵みを信じて歩む者とされていきましょう。

本日の箇所の7節に、この手紙の著者のパウロに「とげが与えられた」とあります。この「とげ」が具体的に何を指すかについては「何かの病気」「迫害などによる肉体的ハンデ」など、いろいろな説があります。どちらにしてもパウロは自分にこの「とげ」があることが、主のためにならないと考えたのでしょう。8節にこの「とげ」が除かれるように神に3度祈ったと記されています。そのパウロに主が示されたのが9節にある「わたしの恵みはあなたに十分である」という言葉だったのです。

「わたしの恵みはあなたに十分である」という言葉は「現状を受け入れよ」とか「我慢しろ」や「忍耐すべき」などの意味かと考えるかもしれません。しかしパウロはその「とげ」から来る「弱さ」を大いに誇ると9節に記しています。つまり「わたしの恵みはあなたに十分である」という言葉は、この「とげ」が除かれない方が善いという意味なのです。その理由として9節に「力は弱さの中で発揮される」と記されています。これは主が「弱いところ」に力を与えてくださるということです。弱点の克服は大変困難です。しかし弱点克服ができれば大きな力となります。大変困難な弱点克服も神の助けがあります。決して不可能ではありません。主なる神の助けを受けて歩みましょう。

ここでパウロは祈っても何も変わりませんでしたが「弱さを大いに誇る」と記しています。祈っても願い通りにならないことはつらいことです。どうしてこう考えることができるのでしょうか。パウロには神に対する絶対的な信頼がありました。神の導きや恵みを信じていたのです。私たちも思い通りならないことがありますが、神を信じて神の導き、恵みを信じて歩みましょう。神はパウロが体験したように、私たちをより善い体験に導くでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が愛した」   ヨハネによる福音書15:12~13(新約P199)  2018年6月10日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書15章12節~13節です。この箇所から「神が私たちを愛された」ことを学びましょう。

キリスト教では「愛」が強調されます。聖書には「愛」があふれていて、今日の箇所にも「愛」が出てきます。12節に「わたしがあなたを愛したように」と記されています。「わたし」すなわちイエス様が私たちより先に愛してくださいました。この事実が大きいのです。以前「主が愛されたことからいろいろなものを得ることができる」とメッセージをさせていただいたことがあります。神からのいろいろな恵みや祝福は「神の愛」から始まっているのです。私たちはこの「神の愛」を信じて歩みましょう。

12節には続けて「互いに愛し合いなさい」と記されています。「愛し合う」ことはそんなに困難なことではないように思うかもしれません。そう家族や友人を愛することはそれほど難しくはないでしょう。しかし知らない人や敵対する人物を愛するのは困難です。もともと罪がある私たちは「愛する」ことができない存在なのです。しかし、そんな私たちの弱さを知っておられるはずの主が「互いに愛し合いなさい」と言われるのです。なぜでしょうか。それは「主が私たちを愛した」からなのです。主が私たちを愛されました。それは今も変わりありません。主の愛を覚えるとき、愛せないはずの私たちは「愛する」ことができるようになるのです。主の愛に励まされ「互いに愛し合いなさい」を少しでも実践してまいりましょう。

13節には厳しいことが記されています。「友のために自分の命を捨てること」なんて誰ができるでしょうか。13節を読んで私たちが思い浮かべるのは「主イエス様の十字架」でしょう。主はすべての人を愛し、救うために十字架にお架かりになりました。私たちは「互いに愛し合う」という難しいことを行なっていくために十字架による救いを忘れないで歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「自分のように愛せよ」  マルコによる福音書12:28~34(新約P87)  2018年6月3日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマルコによる福音書12章28節~34節です。この箇所から、神による愛を受けて歩む者とされていくことを学びましょう。

この「最も重要な掟」の箇所からは何回もメッセージをさせていただいています。ただ今までは「愛する者となること」をテーマに「第一の掟」を中心に宣教させていただくことが多かったと思います。本日は特に「第二の掟」を中心に考えるように示されています。

「第二の掟」は「隣人を愛しなさい」です。これは実は簡単なことではありません。クリスチャンであっても他者から「愛が無い」などと言われてしまうことがあるのではないでしょうか。ただこの重要な掟を守るように努めなければなりません。そのためにまず考えたいのは「隣人を愛しなさい」の中に入っている「自分のように」という言葉です。私たちは自分を愛することは困難ではありません。隣人を「自分のように」あるいは「自分以上に」愛することができれば「第二の掟」を守ることができるでしょう。隣人を知り愛する者となっていきましょう。またもう1つ考えたいのは「隣人を自分のように愛しなさい」の掟を守るために、神が助けてくださるということです。「第一の掟」の「神を愛しなさい」の掟を守るために私たちはどのように考えているでしょうか。それは神から受けた愛を覚えていくことではないでしょうか。神から愛されているから神を愛することができるのです。何よりも先に神が愛して下さっているのです。「隣人を愛する」ことも、まず私たちを愛して下さったその神の愛から出発していきましょう。

罪があり、愛の無い私たちが愛するためには努力が必要です。神の愛を覚え、隣人を知り、愛しましょう。そこに少しの忍耐と努力が必要なこともあるでしょう。でも神の助けを受けて、少しでも愛することができるようになった時、私たちはさらに祝福され、成長できるのです。愛をもって歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「常識を超えた愛」  ルカによる福音書15:11~24(新約P139)  2018年5月27日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書15章11節~24節で、有名な「放蕩息子のたとえ」からです。ここから神の大きな愛を学びましょう。

この時代のユダヤでは、たとえ財産が分けられても、父が健在ならば、子は父の許可なしにはその分けられた財産を使うことはできませんでした。父の許可をもらうこと無しに財産を使うために、父のもとを離れて放蕩の限りを尽くして財産を無くした弟の行為は弁明の余地もありません。まさに「救いようのない」状況です。普通ならばこの弟のしたことは赦されない行為なのです。

財産を無くし、人として最低の生活を強いられ苦労した弟は、やっと我に返って父のもとに帰りました。さすがに弟も以前のような父との関係を望むことはできず「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言うしかありませんでした。しかし父は弟を赦し、前のように子として迎えたどころか、弟の帰還を喜び、祝宴を開いたほどでした。それは兄が嫉妬するほどだったのです。常識的に考えるならば、父のこの行為はおかしいのです。むしろ兄の方が常識的です。なぜ父はこのような非常識な行動をしたのでしょう。それは父が子を愛していたからです。そしてその父の愛は「常識を超えた」大きな愛だったのです。

ここで登場する父は神のことです。兄や弟は私たちです。私たちは常に神のもとにあって神の愛を受け続けなくてはなりません。さすがにほとんどの人がなかなか弟ほどのことはしないでしょう。でも私たちには罪があります。この罪の問題を解決するのは、神の愛にすがるほかはないのです。私たちも弟のような「弁明の余地のない」行為を犯すこともあるかもしれません。そして誰もが神の前に申し開きをできないような存在だと感じるようなこともあるでしょう。弁明できない私たちですが、神は私たちを、常識をはるかに超えて愛して下さっています。神を信じて、この神の常識を超えた愛にすがって神のもとを離れず歩みましょう。神の愛に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「聖霊の力を待つ」    使徒言行録1:3~11(新約P213)  2018年5月20日 大竹敏生

 

本日は今年のペンテコステとなります。そのペンテコステの礼拝の聖書箇所は使徒言行録1章3節~11節です。この箇所から学び、与えられている聖霊を信じて待ち望みつつ歩んでまいりましょう。

実は昨年のペンテコステ礼拝の聖書箇所も本日と同じ箇所でした。ただ、昨年は8節を中心に考えましたが、本日は4節を中心に考えてみたいと思っています。4節でイエス様は「待ちなさい」と言われています。これは「聖霊が与えられる」という約束があり、それを待てと言っているのです。そしてそれは2章で実現しました。ということはこの「待ちなさい」は、今は終わったことで、今の私たちにはあまり関係ないことと感じるかと思います。でもそうとばかりは言えないと思います。聖霊は使徒言行録2章で初めて登場したのではありません。また聖霊は三位一体の神の1つの位で、神御自身なのです。ということは、聖霊は最初からおられ、今も活躍されておられるのです。

人は「待つ」ことが苦手です。それは自分よりも相手の都合を優先することになるからです。そして人が「待つ」ことが苦手なのは、自分も相手も完全ではないからです。人が待っていると「待っても来ないかも」とか「待っても無駄」などの思いが出てきたりします。でも聖霊については苦手でも待たなくてはならないのです。

私たちが聖霊を「待つ」ために必要なのは信じることです。まず聖霊なる神がおられることを信じましょう。私たちはいないものを信じることはできません。また「待つ」相手が聖霊ならば自分よりも優先し尊重することもできるでしょう。さらに相手が聖霊ですから来ないことはありません。また無駄にもなりません。聖霊には大きな力があります。その力を信じて待つことが、私たちにとって最善なのです。そしてその待つことによって、私たちの成長につながるのです。ペンテコステにあたり聖霊の力を待ち望みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神との愛の関係の中で」 ヨハネによる福音書14:18~24(新約P197)  2018年5月13日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書14章18節~24節です。この箇所から神と私たちとの愛の関係を学び、特に私たちが神と人を愛することを心がけて歩むことを覚えたいと思います。

神は私たちに神と人を愛することを命じています。それはまさに神との愛の只中に身を置くことを進めているようです。人と人との関係ならばそこに関係する人全員が「愛すること」について問われます。しかし神と人の関係では、問われるのは人の側だけです。というのは、私たち人間は愛が無くなることがありますが、神の私たちへの愛は無くなりません。従って「愛すること」が問われるのは私たちで、私たちが愛した時にこの愛の関係は成立するのです。

では私たちが神を愛することは何をもって証明されるのでしょうか。21節や23節以降に、神の掟、神の言葉を守る者が神を愛していることが記されています。そしてその神の掟の中に「神と人を愛すること」があるのです。私たちが「愛すること」が掟にある生き方であり、掟を守ることが私たちの愛を証明するのです。神を愛することの大切さは、このように二重の意味で示しているように思えるのです。

私たちは神から愛されています。この愛に揺るぎはありません。そんな愛を受けて神によって救われている私たちにとって「神を愛すること」は義務のようなものです。しかし弱い私たちは「神を愛すること」によって何かを得たいと思うこともあります。私たちが神を愛することで「神との愛の関係」ができます。そのことによって私たちは成長させられるのです。私たちが神を愛するために必要なのは、やはり信じることです。神の恵みを信じることが、弱い私たちが愛することにつながるのです。また神の愛による恵みを思い出しましょう。そうしたら弱いながらも愛することができるようになるのです。これからも神との愛の関係の中に身を置き、神と共に成長していきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「生きる神と共に」  ヘブライ人への手紙4:12~16(新約P405)  2018年5月6日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヘブライ人への手紙4章12節~16節です。この箇所から今も生きて働かれる神を覚えて、神と共に歩んで参りましょう。

本日の聖書の箇所は、前半の12節~13節と後半の14節~16節の間で段落が変わっているようです。それくらい記されている内容が違うように感じます。確かにそうです。私も14節~16節の箇所からメッセージをしたことが幾度となくあります。ただ13節より前の部分と14節以降が関係していないとは言い切れないと思います。前半の12節には神の鋭さ、言うなれば大きな神の力が記されていて、後半の14節以降には、弱い私たちに同情して下さる神の愛が記されています。確かに内容はかなり異なっているようです。しかし私たちの神はこの違うように見える大きな力と大いなる愛を兼ね備えたお方なのです。こういうお方だからこそ、私たちは弱い自分のすべてをゆだねることができるのです。

12節では、神の言葉が鋭い剣に例えられています。鋭い刃物には力があります。ただそれが正しく用いられなければ危険です。力は暴走してしまうとむしろ害になるのです。しかし正しく用いられるのならばその力を発揮します。お医者さんや料理をする人は鋭い刃物で良い仕事をするのです。また12節~13節には私たちは神の前にはすべてがさらけ出され、あらわにされることが記されています。そして14節以降には私たちの弱さに同情して下さると続いているのです。つまり力ある神は、私たちの弱さをすべてされけだし、私たちの弱さをすべてご存じなのです。そして弱さを知った上で、神はその鋭い大きな力で弱い私たちを導いて下さいます。感謝いたします。

私たちの成長の歩みは何時も順調とはかぎりません。時に成長どころか停滞、あるいは後退するように感じることすらあります。しかし大きな力と大いなる愛を兼ね備えた今も生きている神が弱い私たちを導きます。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主から離れないキリスト者」 使徒言行録11:19~26(新約P235)  2018年4月29日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は使徒言行録11章19節~26節です。この箇所から神に愛され、神と共に歩むことによる恵みを学びましょう。

本日の聖書の箇所は、アンティオキアの教会について記されています。この教会は、迫害を逃れて散らされていった人たちによって築き上げられました。そして異邦人にも積極的に福音を宣べ伝えていたようです。神はこの教会を祝福され、21節には「信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」と記されています。このうわさがエルサレムの教会にも聞こえてきて、バルナバが遣わされました。このバルナバは神をとおしてものを見る人のようで、皆が改心したサウロを信じきれない中、彼は皆にサウロを紹介しました。ここでもアンティオキアの教会が神の恵みにあふれている様子を見て喜びました。アンティオキアの教会にも足りないところがありました。しかしバルナバはそれを知りつつアンティオキアの教会を喜んだのです。

バルナバはアンティオキアの教会の足りない部分を無視しません。サウロを連れてきて教会の指導にあたりました。またその前にバルナバはアンティオキアの教会の人たちに「固い決意をもって主から離れることのないように」とアドバイスを送りました。私たちの歩みは信じ続ける歩みです。救いの達成のために主から離れてはなりません。そして成長しているアンティオキアの教会にこのアドバイスは大切でした。私たちの成長は主によってなされます。主から離れないことでアンティオキアの教会はさらに成長し、祝福されたのです。

26節によるとこのアンティオキアで弟子たちが「キリスト者」と呼ばれるようになったとあります。この「キリスト者」とは「キリストばかりの人」「キリストしかない人」のような意味です。そんな「キリスト者」という言葉をむしろ誇りとして主から離れないでアンティオキアの教会の人たちは歩みました。私たちも主から離れず、祝福されつつ成長させられていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の言葉によって造り上げられ」 使徒言行録20:25~38(新約P254)  2018年4月22日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は使徒言行録20章25節~38節です。この箇所から神の恵みの言葉のすばらしさを覚えて歩みましょう。

本日の聖書の箇所は、パウロがエルサレムを訪れる旅の途中の記事です。この旅が簡単な旅行ではないことがパウロには分かっていました。今日の箇所の前に、聖霊によって「投獄と苦難が待ち受けている」とたびたび示されたことが記されています。でも聖霊は「エルサレムに行くな」ではなく、むしろ「行け」とパウロに指示するのです。

32節に「神とその恵みの言葉」とあります。この特に「言葉」は何を意味するのでしょうか。まず考えられるのは「聖書」です。ただこの時代の聖書は旧約聖書のみでしたから「言葉」が指すのは旧約聖書が1つ考えられます。また35節にあるように主イエスご自身の言葉も指していると思われます。またヨハネによる福音書にありますが、聖書では「言葉」という語に「人格的」なものを見ます。「神とその恵みの言葉」とありますから「言葉」は「神御自身」と見ることもできます。そして今私たちが手にしている聖書ですが。確かにこの時代「新約聖書」はありませんでした。しかし最初からおられ、今も生きている神が人をとおして「聖書」を記しました。今この箇所を読む私たちは「聖書」を指すと信じてよいのではないでしょうか。

危険な旅をするパウロだけではなく見送る人たちも実は厳しい状況を迎えます。偉大な指導者パウロとはもう会えない可能性が高いのです。しかしパウロは「神の言葉」にゆだねることによって、たとえパウロはいなくても彼らは「造り上げられる」と語っているのです。

私たちは成長することを願っています。そのために私たちもパウロが言うように「神の言葉」によって成長しましょう。神の言葉である聖書から学び、示され、信じて歩むことによって成長させられていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ただわが霊によって」   ゼカリヤ書4:4~10(旧約P1483)  2018年4月15日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書のゼカリヤ書4章4節~10節です。本日は特に6節のゼカリヤ書の中でもよく知られている箇所を中心に、神の霊に従って歩むことを学びましょう。

ゼカリヤという預言者は、バビロン捕囚にあったイスラエルの民がキュロス王によりエルサレムに戻ることが許され、崩壊した神殿の再建築に臨んでいたころに活躍した預言者だと考えられています。この神殿建築は簡単ではありませんでした。1つは外敵による妨害です。イスラエルの民に敵対する民が妨害してくるのです。以前と違ってこの時のイスラエルの民は弱い存在でした。外敵の妨害は神殿建築の大きな妨げであったと思われます。またもう1つの理由は内部の問題もあったでしょう。弱く力が無かったイスラエルの民の中から、神殿建築に懐疑的な思いも出てきていたことでしょう。そんな困難の中で神殿建築は進められなくてはなりませんでした。

そんな時にゼカリヤに6節の言葉が告げられました。「武力によらず、権力によらず」とあります。「武力」も「権力」も人の力を指しています。多くの人の力や人間の能力を指します。つまりこの「武力によらず、権力によらず」は「人間の力ではない」ということです。では何の力で行えというのかといえば「ただわが霊によって」と記されています。この「わが霊」とは「神の霊」ということです。ここで神は、神殿建築は「人ではなく神によって」と語るのです。神の力は人よりもはるかに大きく勝っています。神の霊によって歩むことが困難に直面しているイスラエルの民の状況を切り開くのです。

ここで「霊」という言葉が出てきます。「霊」は時に大きな力を発揮します。そして時に、弱い私たちをおぼえて静かにことを成していきます。いろいろなことをいろいろなやり方で行なうのです。弱い私たちと共に歩み、最善を成して下さる神に感謝し、神と共に歩んでまいりましょう。

 
 
 

[メッセージ要約]

「主による成長と成熟」 コリントの信徒への手紙Ⅰ15:50~58(新約P322)  2018年4月8日 大竹敏生

 

2018年度の年度主題は「さらなる成長と成熟を目指して」で主題聖句は「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節)」です。ここから主の業に励みつつ、成長させられることを学んでまいりましょう。

本日の聖書箇所のコリントの信徒への手紙Ⅰ15章には主の復活について記されています。つまり私たちが「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」を実践していく前提として主が復活されたことが記されているのです。私たちが動かされずに主のために歩むことは、主が復活されたがゆえに可能となるのです。弱い私たちは、心が動揺して主のために働けないような者なのです。しかし主が私たちのために復活されました。私たちはその力にあずかることが許されています。信じて主の業に励みましょう。

では私たちが「主の業に励む」ことと私たちの成長や成熟はどう関係しているのでしょうか。私たちは聖書や信仰と関係のないところでもいろいろなことで成長します。そしてその成長の先に成熟があるのです。そして多くの場合、成長途中ではなく成熟を迎えて働くことができるのです。もちろん成長しながら働くこともできないことはありませんが、できることは限られてしまうことが多いと思われます。では私たちキリスト者の成長はどうでしょうか。私たちは誰もが成長過程にあります。その中で私たちは「主の業に励む」のです。そしてその励むことによって、私たちは成長するのです。このように「主の業に励む」ことと「私たちの成長」は切り離すことができないほどの強い関係をもっているのです。私たちが「主の業に励む」ことは主の喜びです。そして私たちが成長、成熟することも主が喜ばれることです。主によって動かされることなく、主の業に励みつつ成長させられましょう。主は喜んで私たちを主の業に励ませて下さり、成長、成熟目指して歩ませて下さるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活されたのだ」   ルカによる福音書24:1~12(新約P159)  2018年4月1日 大竹敏生

 

本日は今年のイースターとなります。本日の聖書箇所のルカによる福音書24章1節~12節をとおしてイエスキリストの復活を喜び、感謝しましょう。

安息日が終わり、最初にイエスキリストの墓に向かったのは婦人たちでした。この人たちはイエスキリストが十字架にかけられたときもそばにいたようです。イエスキリストに対する愛とその信仰の強さを思います。しかしそんな彼女たちもイエスキリストが復活されると思って墓に向かったのではなかったようです。それぐらい主の復活を信じるのは難しいことなのです。彼女たちは最終的には信じました。信じた理由の1つは8節にあるようにみ使いの言葉により「思い出した」のです。主はご自身がよみがえることを告げていたのです。婦人たちはその約束を思い出しました。それと他の福音書にありますが復活されたイエスキリストと出会ったのです。そしてこれは他の弟子たちも同じです。主の言葉を思い出し、復活の主と出会って完全に信じました。復活されたのは主であり、それを信じるのも主の力によるものだったのです。

では主はなぜ復活されたのでしょうか。イースターは卵が象徴のように用いられます。それは卵が「生命」を表しているからです。主は復活されたことで「死」から「命」に回復されたのです。私たちは「死」の前には全く無力です。しかし主は「死」に打ち勝つ方です。それはご自身のためだけではありません。無力な私たちにも「生命」を与えてくださることが約束されているのです。主が復活された理由の一つとして、私たちにも主が「死」への勝利をくださることを信じさせることがあったのではないでしょうか。感謝いたします。私たちにも「生命」が与えられるのですから、私たちは固く立つことができるのです。私たちは確かに弱いのですが、私たちには復活された愛と力の主がおられます。ご自身が復活してくださり、私たちを愛して、私たちに復活を信じさせるために導いてくださる主に感謝し、復活の主を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「成し遂げられた」  ヨハネによる福音書19:28~30(新約P208)  2018年3月25日 大竹敏生

 

本日から受難週になります。今日の聖書箇所はヨハネによる福音書19章28節~30節で、イエスキリストの十字架の場面です。この箇所から神の愛による罪の赦しを学びましょう。

今日の聖書箇所の30節でイエス様は「成し遂げられた」と言われています。そしてこの後、間もなく息を引き取りました。このイエス様の言葉は他の訳では「すべてが終わった」「完了した」などと訳されています。何が成し遂げられたのでしょうか。何が終わったのでしょうか。何が完了したのでしょうか。この言葉は「借金の清算が完了した」時などに使用される言葉だそうです。イエス様は「何が清算された」と語られたのでしょうか。それは私たちの罪の問題です。私たちは誰もが罪を持っています。そしてこの罪は清算されなくてはならないものなのです。それがイエス様によって、十字架によって清算されることになったのです。罪が清算されて救いが成し遂げられました。感謝します。

聖書が語る罪は行動だけではなく、むしろ私たちの内面の問題だと聖書は記しています。この世で罪だと問題となるのは行動です。何か悪いことをしたり、法律を犯したりすることによって罪に定められます。しかし聖書の記す罪は、その行動に至らせる私たちの内面を問題とするのです。そしてその罪が私たちと神を分断しました。私たちは神から離れてしまっているのです。新約聖書の「罪」という言葉は「的がはずれている」というような意味です。つまり正しい状況ではないことを意味しています。私たちと神の間は罪によって「正常ではない」状態になっているのです。これが「罪の清算」によって「正しい状態」になったのです。これは神の側からしかできないことでした。私たちの罪は無くなったわけではありません。そういう清算は無理なのです。私たちの罪は主イエスキリストを信じることによって、罪が赦されて清算されるのです。この愛の赦しを感謝します。イエスキリストを信じて、赦され、救われましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みによって助けが」 ヘブライ人への手紙4:14~16(新約P405)  2018年3月18日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヘブライ人への手紙4章14節~16節です。ここから私たちに与えられる大祭司イエスキリストの愛による恵みを学びましょう。

今日の箇所に出てくる「大祭司」とはイエスキリストのことです。そしてこのヘブライ人への手紙には「大祭司イエスキリスト」についての記述が多く出てくるのです。もともと「大祭司」とは神と人間の間を結ぶ役割をする人です。私たちは罪があるゆえに神と分断されています。それを結ぶ役割を担うのが「大祭司」です。イエスキリストが完全な「大祭司」として私たちと神との間の溝を完全に埋めてくださっているのです。感謝いたします。

今日の箇所に「大祭司イエスキリスト」の特徴として記されていることに「神の子でありながら人となられた」ことがあります。イエスキリストは神として、そして人間として、ありとあらゆる経験をしました。それゆえに完全な神でありながら、人の弱さを知り同情される方なのです。16節に「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」とありますがその「恵み」の最も尊いのが「救い」です。救われる資格のない私たちが、神の愛と恵みにより信仰により救われたのです。この恵みに感謝いたします。この恵みの座に近づく資格は私たちには無かったのですが、完全な大祭司によってこの恵みにあずかることができるようになったのです。そしてヘブライ人への手紙の著者は、読み手にもっともっと積極的に神の恵みを受けよと勧めているのです。

また16節に「時宜にかなった助けをいただく」とあります。罪があり弱い私たちはいつも、またありとあらゆる助けを必要としているのです。「救い」と同じように私たちはこの「助け」を受ける資格もありません。しかし私たちを愛する「大祭司イエスキリスト」は、私たちの弱さを知っておられ、今も生きておられますから、惜しげもなく「時宜にかなった助け」を下さるのです。主を信じて神の豊かな恵みを受けつつ歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の霊に導かれ」  ローマの信徒への手紙8:9~17(新約P284)  2018年3月11日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙8章9節~17節です。この箇所から神の霊に導かれ、神の子として歩むことを覚えてまいりましょう。

本日の箇所の9節の冒頭から「神の霊」という言葉が出てきます。本日の箇所の重要な言葉です。この「霊」に対する言葉が「肉」です。私たちは今日の箇所にあるように「肉」ではなく「霊」に従うべきなのです。

14節には「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」と記されています。この14節の言葉から、神の子とされるために神の霊に導かれる必要があると読むことができます。私たちが神の子とされることは大きな恵みです。神の子とされるならば私たちは奴隷ではありません。神に愛され、その愛の中を歩み、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです。そして17節によれば「神の子」はキリストと共に相続人だとあります。栄光と共に救いを受け、天国を相続できることを感謝いたします。

「神の霊」に導かれて歩み「神の子」とされて私たちが受ける恵みは「救い」ですが、そこからまた多くのものを受けていきます。私たちの「救い」は達成される必要があります。そのために必要な信仰の成長も与えられるのです。そして私たちが成長の歩みを続けていく限り「神の霊」は私たちを正しく導いて下さるのです。ということは私たちが成長すればするほど「神の霊」はさらにさらに導いて下さるということではないでしょうか。「神の霊」に導かれ「神の子」として歩み、救いの達成のためにキリストにより成長させられましょう。

では「神の霊に導かれる」とはどういうことでしょうか。1つは「神を第一とする」ということです。自分ではなく神を第一とするのです。また「神を信じる」ということもあります。見えない「神の霊」に導かれるのには、信じることが必要なのです。神を信じて、そして愛して信仰生活を送りましょう。それが「神の霊に導かれ」て歩むことにつながるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストの内にある」  コロサイの信徒への手紙2:1~5(新約P369)  2018年3月4日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコロサイの信徒への手紙2章1節~5節です。この箇所からキリストを知り、キリストから恵みを受けて歩んでまいりましょう。

パウロが悩まされていた問題の中に「間違った福音」についてがあります。それはいわゆる「律法を守ること」を「キリストを信じること」と同じように、あるいはそれ以上に大切にする教えでした。この手紙でもそれを意識した表現が今日の箇所をはじめいくつも出てきます。私たちは「行ない」では救われません。「信仰」によってのみ救われるのです。この信仰による救いは神がその知恵によって導いた私たちの唯一の救いへの道です。その事を常に覚えて歩んでまいりましょう。

さて「キリストを知る」ことを考えてみましょう。3節に「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」とあります。この「隠れている」という言葉から何を感じるでしょうか。1つは「探さないと見つからない」ということです。2節に出てくる「秘められた計画」という言葉から「見つけるのが困難」というイメージがわきます。ただ反対に「隠されていない」という言葉から感じるのは「見えるところだけ」というイメージです。ありとあらゆるすばらしい宝が「信じる者に救いを与えること」をはじめとしてキリストの内にあるのです。キリストのうちにあるものは無限と言ってもよいほど膨大です。「隠れている」という言葉に、キリストのうちにある無限のすばらしい宝物の存在を見ることができるのです。

「隠れている」からといってキリストは「あげたくない」のではありません。むしろ主は私たちに「救い」をはじめ、ありとあらゆる恵みを与えたいと思っておられるのです。私たちはキリストを信じ救われ、キリストを知り、キリストから知恵や知識を受けて成長していきましょう。これからも主と共に教会生活、信仰生活を送ってまいりましょう。神の恵みはすぐそこにあります。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の神は我らに」  ルカによる福音書16:1~13(新約P140)  2018年2月25日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書16章1節~13節です。ここは「不正な管理人のたとえ」と呼ばれる非常に難解な箇所です。難解な理由として管理人が不正を働いているにもかかわらず、主人からほめられている点です。不正が称えられるという事は、私たちに不正を働くように勧めているのかとも考えられます。それを解決するため前後の文脈や、訳の問題もよく語られます。多くのメッセージがあるこの箇所から生きている神の愛を考えてみましょう。

この箇所からまず生きている神を思います。この不正を告発できるのは被害者である主人です。その主人がほめているのです。ただ法のみならばこの管理人は罰を受けます。でもほめられるところに人間味を感じます。主人が生きているように神も生きているのです。また、主人が管理人をほめたのはやはり愛があるからでしょう。神も愛の方です。不正な管理人のような赦されない存在である私たちも神の愛によって救われるのです。

またこの箇所から考えたいことは8節にある「抜け目のないやり方」です。管理人は一生懸命考えて「抜け目のないやり方」を思いつき実行しました。しかもそれは「主人のほめる行為」でした。私たち光の子もこの世の子らに負けないようにこの2つを満たす行為をするべきなのです。ただ弱い私たちにはかなり難しい事です。「抜け目のないやり方」と「神の求める行為」です。神の導きに従い、神に聞いていく事でこの難しい問題を解決できるのです。私たちを愛する神は私たちのために導きをくださるに違いありません。

ここの箇所の主人は普通の主人と違い、お金よりも大切なものがあるようです。富よりも人を大切にしています。私たちは富ではなく、私たちを愛する神に従うべきです。放蕩の限りを尽くした弟も立ち返ることで赦されます。私たちも罪人ですが赦されています。人をこよなく愛する神を信じ、神に従い、神に導かれて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストに結ばれて」 エフェソの信徒への手紙4:15~24(新約P356)  2018年2月11日 大竹敏生

 

私どもの教会の今年度のテーマは「キリストに根ざして歩め」です。本日の聖書箇所のエフェソの信徒への手紙4章15節~24節も、そのテーマにあった箇所と言えます。この箇所から学んでいきましょう。

 私たちの歩みは成長の歩みです。その成長の歩みは私たちがこの世にある限り止まらず進みます。ひたすら私たちの究極の目標であるイエスキリストを目指して歩むものなのです。私たちが成長していくことは神の喜ぶことです。従ってその成長のために神が力を下さるのです。今日の聖書箇所の16節には、形成されるキリストの体全体がキリストによって組み合わされ結び合わされると記されています。主によって成長させられることを感謝いたします。

 その主によって成長させられるのに覚えておきたいのは21節にありますが「キリストに結ばれる」ということです。これが私たちの成長のために必要なことなのです。21節にありますが、私たちはキリストに結ばれていろいろなことを教えられます。それが成長に導くのです。17節以降に記されていることには少し驚かされます。キリストによって私たちはかなり低いところから高いところへと成長させられるようです。キリストによる成長はさすがです。ただ考えてみればこういう成長でなくてはならないのです。生まれながらの罪人である私たちはこういう成長を必要としているのです。私たちは罪あるゆえに弱いのです。成長どころか後退しても不思議ではありません。自分の力ではなく「キリストに結ばれて」歩むとき、弱い私たちも成長できるのではないでしょうか。「キリストに結ばれて」成長させられてまいりましょう。

 では「キリストに結ばれて」とはどういうことでしょうか。前後の文脈など考えますと、キリストと共に歩むということを思わされます。主に祈り、聖書などから学び、教会生活を送りながら成長させられましょう。主によって成長させられることを喜びつつ信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「心を合わせ一つに」  フィリピの信徒への手紙2:1~11(新約P362)  2018年2月4日 大竹敏生

 

本日は日本バプテスト連盟の協力伝道週間の最終日です。示されている聖書箇所はフィリピの信徒への手紙2章1節~11節です。この箇所から「協力し合い、一つとなって歩む」ことを学びましょう。

 私たちには「祈り」が与えられています。私たちは祈るときに「神の大いなる力」を求めます。それは案外神の絶対的なパワーを求めていたりするのです。しかし神は全知全能です。神はいろいろな方法で私たちを助けます。それは私たち考えないような助けも当然あるのです。

 その神の助けの中に案外多いのが「協力」「助け合う」という方法です。何か「驚くような仕方による助け」を求めたりする私たちです。それに比べると「協力」「助け合う」という方法は何か地味です。でもすべての人を愛する神は、悩む私たちを愛し、その人に対してやはり愛する人を助け手として送るのです。弱い私たちは実は「協力」や「助け合う」ことも神の力を得なければなりません。聖書には「互いに愛し合うこと」「互いに励まし合うこと」「互いに助け合うこと」が奨励されています。今日の聖書の箇所の2節には私たちが「1つとなる」ことが求められています。そしてそれは神の喜びだと示されているのです。つまり神が、私たちが「協力する」こと「助け合う」ことを喜ぶのですから、そのために神が力を下さることが約束されているのです。

 今、多くの教会が厳しい状況を迎えています。教会が協力し合い、助け合うことが必要です。「協力伝道」の推進を祈り、他の教会のことも覚えていきたいものです。また教会だけではなく私たち個人もそうです。1つ思いになって歩みましょう。私たちのために、おのれを低くして人となって十字架に架かり、今も信じる私たちを救ってくださる神に感謝し、従っていきましょう。私たちも互いにおのれを低くして、愛し合い、助け合い、協力し合って歩みましょう。それを神は喜び、これからも私たちに力をくださるに違いありません。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救いは恵みの賜物」  エフェソの信徒への手紙2:1~10(新約P353)  2018年1月28日 大竹敏生

 

今日の聖書箇所はエフェソの信徒への手紙2章1節~10節です。この箇所から「救い」は神の恵みの賜物であることを学びましょう。

 罪人である私たちが「救われる」のは、ただただ神の恵みによります。本日の聖書箇所の1節~3節にありますが、私たちは生まれながらに罪人です。その罪による罰を逃れるのは私たち自身の力では無理なのです。私たちは誰もが罪を持っていて、誰もその問題を解決できないのです。ただ4節にありますが、神は私たち一人一人を愛しておられます。また8節にありますが、神の愛により私たちは「信じる」ことによって救われるのです。これは神の恵みです。救われる資格のない私たちが、信じることによって救われるのです。これしか私たちを救う方法はありません。この価値ある「救い」が無償で私たちに与えられました。ここに神の愛による恵みを見ることができるのです。

 このように神はご自身の愛する御子イエスキリストを、私たちに贈って下さいました。それほどに私たちを愛されたのです。その「救い」は確かに私たちへのプレゼントです。しかしそれはプレゼントから来る明るいイメージだけではなく、もっと緊急性のあるものでもあります。プレゼントのように「救いをあなたにあげます。」という感じだけでなく、お医者さんの治療のように「受けなさい。」という感じもあるのです。つまりこの「救い」は私たちが恵みにより賜ったのですが、神は私たちに「ぜひ受け取りなさい。」という思いで「救い」を下さいました。これは私たちが「救い」を受けなければ「滅び」に至るからです。神は私たちを愛しておられます。神は誰一人滅ぶことを望みません。私たちはこの「恵みの救い」を受けなくてはならないのです。

 神はその愛ゆえに、恵みとして「救い」を下さいました。神はすべての人が信じて救われることを渇望しています。その神の恵みの賜物である「救い」を受けるために、神を信じて歩み続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「幻も夢も主によって」    ヨエル書3:1~5(旧約P1425)   2018年1月21日 大竹敏生

 

今日の聖書箇所は旧約聖書のヨエル書3章1節~5節です。この箇所から学び、主にあって夢や幻を持ちながら歩んでまいりましょう。

「夢」や「幻」について私たちはどういうイメージがあるでしょうか。「夢」も「幻」も実現の可能性はあまり高くはない印象ではないかと思います。ですから「夢」はともかく「幻」という言葉の価値はそれほど高くはないイメージです。「幻」には「本当は実体がないのにある」と言っているようなイメージがあります。「夢」も実現は困難なイメージがありますが「幻」は実現はあり得ないというイメージですね。世の中のそういうイメージに対して聖書の「夢」や「幻」の評価はかなり高いのです。今日の箇所は、神の霊が与えられる約束が記されていますが、そのことによって私たちに「夢」や「幻」が与えられることが記されています。また他の箇所には「夢」や「幻」を持つべきことが記されています。この評価の違いはどこから来るのでしょうか。

「夢」や「幻」の弱点は、先に記しましたが実現が困難なことだと思います。ということは、評価が高い聖書の語る「夢」や「幻」はその弱点を補っていると考えられます。では何が違うのでしょうか。それは「神」の存在です。聖書の語る「夢」「幻」には、そこに神がおられるのです。神は全知全能のお方です。弱い私たちとは違うのです。不可能の無い神がおられるがゆえに、私たちの「夢」や「幻」は実現に近づくのです。ならば私たちの「夢」や「幻」に神がいてくださらなければなりません。主なる神にあっての「夢」「幻」であれば、単なる願望や絵空事に終わることなく、「夢」「幻」が実現に向かうのです。        

もちろん「主にあって」ですから「私たちの」と言うよりも「主の御心」を求めて「夢」「幻」を見たいものです。主にあって「夢」「幻」を見続けましょう。それは言い方を変えるならば「神を信じる」ということです。神を信じて「夢」「幻」を見続けることが私たちに求められているのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしにあるもの」   使徒言行録3:1~10(新約P217)  2018年1月14日 大竹敏生

 

今日の聖書箇所は使徒言行録3章1節~10節を示されています。本日はこの中から特に6節を中心に私たち一人一人に与えられている恵みについて考えていきましょう。

今日の箇所の6節にありますが、ペトロは生まれながらに足の不自由な人にまず「わたしには金や銀はない」と語っています。これはこの足の不自由な人を救うほどの金や銀はないという意味があると思います。つまり、これはこの足の不自由な男の問題の解決に見合うほどの金や銀をペトロたちは持ってはいないということなのでしょう。

また他の意味もあります。6節でペトロは「持っているものをあげよう」と言っています。その「持っているもの」の価値があまりに高いので「わたしには金や銀はない」と言っているのではないでしょうか。金や銀は確かに価値があります。しかしその価値はペトロが語る「持っているもの」とは比較にならず、ペトロの「持っているもの」と比べたら金や銀の価値は無に等しいということなのです。

ではその「持っているもの」とはどういうものでしょうか。ペトロは6節でつづけて「ナザレの人イエス・キリストの名によって」と言います。これが「持っているもの」です。主なる神がペトロたちにあるのです。その神の力は、生まれながらに足が不自由な人を立たせ、歩き回らせるほどのものです。またこの人は神を賛美します。完全に主に立ち返り、信じ救われたのです。ペトロたちの「持っているもの」は人にはできないことを成す、神の力でした。

そしてこの神の力を持っているのはペトロたちだけではありません。私たちにも愛と力の神がおられます。私たちも持っているのです。ただ神は見えません。だから私たちは信じなくてはなりません。神の力が「わたしにある」ことを信じましょう。信じて神の力を得て歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の主に導かれ」  ヘブライ人への手紙12:1~3(新約P416)  2018年1月7日 大竹敏生

 

本日は2018年最初の主日礼拝です。ヘブライ人への手紙12章1節~3節が示されました。ここから主に導かれ、信じて歩むことを学びましょう。

今日の聖書箇所は前の11章と関係しています。1節の「おびただしい証人の群れ」というのは11章に出てくる旧約聖書の人物と考えられます。この人たちは「信仰」によって神に認められました。そのことを証ししているのです。つまり「主を信じて歩むこと」のすばらしさをもの語っています。ただその歩みは「忍耐」が必要な歩みです。それは私たちの罪ゆえの「弱さ」が招くものです。私たちはその忍耐の道を歩む必要があるのです。そしてそれは信じる者への祝福につながります。証人はそれをも証ししているのです。

では私たちはどうやって忍耐して信仰者の道を歩むべきでしょうか。1つは「証人」のことを思うことです。「証人」が証しし、見守って下さっています。それを励みとして歩みましょう。また2節にあるように主イエスに目を注ぎましょう。主は導いて下さいます。そして2節から3節にあるように主イエスは十字架に苦しみの中で架かって下さいました。その事を覚えて忍耐していきましょう。1節に私たちの信仰の歩みは「歩」ではなく「走」だとあります。普通は「歩」より「走」のほうが難儀です。しかし「走」を考えると「忍耐」の中にも「喜び」が見えてきます。人は歩きながらいろいろな事ができますが、走りながらするのは困難です。人は走るとき、走ることに専念しているのです。つまり「走」はひたむきさを表しているのです。また人はスポーツなどで勝利したときや優勝したときなど、その喜びを走ることで表すことが多くあります。つまり時に人は喜びを「走」で表すこともあるのです。

私たちの信仰の歩みには「忍耐」がつきものです。でも多くの証人を思い、何よりも導き手である主イエスを思いましょう。ひたむきに喜びをもって、愛の主に導かれて歩んで(走って)まいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じて感謝を」 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:16~28(新約P379)  2017年12月31日 大竹敏生

 

本日は2017年最後の主日礼拝となります。有名なテサロニケの信徒への手紙Ⅰの5章のみ言葉が示されています。その中で本日は特に18節にある「感謝」という言葉を中心に考え、導かれたいと思います。

1年の終わりに「今年はどうだったか」と考えると、普通「良い事もたくさんあったし、良くない事もかなりあった。」と思う方が多いでしょう。ただ私たちの神はローマの信徒への手紙8章にあるように「最善をなさる方」です。ならば「良くない事」は無いはずです。でも「良くない事はかなりあった。」と考えるのはどうしてでしょうか。それは私たちの罪からくる弱さのせいです。18節に「どんなことにも感謝しなさい」とありますが、これは「感謝できない状況でも受け入れて感謝しなさい」というような、まるでやせ我慢を強いているような言葉なのでしょうか。もちろんそうではありません。私たちは罪あるゆえに弱く、不完全です。それに対して神は全知全能で完全なお方です。私たちは神のなさることの意味が分からないのです。「良くない事がかなりあった」と考えるのは、弱さゆえに神の偉大な業を理解できないからなのです。

では18節の「どんなことにも感謝しなさい」を実践するにはどうしたら良いのでしょうか。それは神の恵みを思い出す事が大切です。神の恵みを思うときに、私たちは「感謝」があふれ出てきます。また最初は「良くない事」と思っていた事が、後でそれ事が正しかったのだと感じたことがないでしょうか。そんな体験を思い出しましょう。今は「良くない事」と感じる事が、いつの日か「感謝な事」に変わるはずです。そのために私たちは神を信じなくてはなりません。私たちは「感謝する」ために神を「信じて」歩みましょう。必ず神は私たちを「感謝」に導くのです。18節には「神があなたがたに臨んでおられること」とあります。神のためにも信じ、感謝して歩みましょう。その信じ、感謝する歩みは、新たな年も感謝な年となるように導くでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「生まれた方を喜びたたえよ」 ルカによる福音書2:8~21(新約P103) 2017年12月24日 大竹敏生

 

本日は今年のクリスマス礼拝となります。ルカによる福音書2章8節~21節をとおしてイエスキリストの誕生を喜びましょう。

今日の聖書の箇所には生まれたイエス様の他にマリアとヨセフが出てきます。ただここではむしろ主の天使と羊飼いの描写が詳しくなされています。本日は特にこの天使と羊飼いの姿勢から学びたいと思います。ここで主の天使は「救い主の誕生」を告げています。そして10節では、それは「民全体の喜び」だと告げています。さらに11節でも救い主は「あなたがたのために」生まれたのだと告げています。このことから与えられた救い主は「すべての人の救い主」だと分かるのです。しかも2回別の言い方で述べていることで、この救い主は「すべての人の救い主でありつつ、一人一人の救い主だ」ということを示しているように思います。興味深いのは「民全体の喜び」と語りつつ、民ではない天使たちも喜んでいることです。神の救いの計画は完全です。だからその成就は大きな喜びなのです。また天使は14節にあるように讃美をしています。主の天使は救い主の誕生を喜び、告げ知らせ、讃美しているのです。

一方羊飼いはどうでしょうか。15節では羊飼いたちは天使の告げたことを信じて「救い主誕生」の出来事を見に行きました。そして17節では天使たちの告げたことを人々に知らせています。また20節では神をあがめ讃美しているのです。そして羊飼いは間違いなく喜んでいたのです。喜んで、知らせ、讃美しています。何か主の天使とよく似ていますね。

今年もクリスマスを迎えました。「救い主誕生」によって与えられた喜びは「民全体の喜び」です。つまりこの喜びは私たちにも与えられた喜びなのです。私たちも天使や羊飼いのように喜びましょう。またクリスマスは讃美が多くなされます。神を讃美しましょう。そして私たちの罪を赦し、救うために与えられた救い主の誕生の喜びを知らせていきましょう。クリスマスを感謝します。

2017年12月24日 大竹敏生

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「生まれる方の2つの名」  マタイによる福音書1:18~25(新約P1)  2017年12月17日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第三週です。本日はマタイによる福音書1章18節~25節の記事から学んでいきましょう。

主のご降誕を前に御使いが現れました。ルカによる福音書には主イエスの母マリアに現れたことが記されていて、このマタイによる福音書の方には父となったヨセフに現れた様子が記されています。21節で御使いはヨセフに生まれてくる子どもに「イエスと名付けなさい」と命じています。そして一方23節には旧約聖書のイザヤ書からの引用で「その名はインマヌエルと呼ばれる」とあります。つまり生まれてくる救い主には2つの名があったのです。この2つの名によって、私たちに与えられた救い主のすばらしさが分かります。「イエス」という名前の意味は「主は救う」という意味です。救い主の名にふさわしい名前です。そして「インマヌエル」は23節に「神は我々と共におられる」という意味だと記されているのです。

この2つはどちらもすばらしい名前です。私たちは罪があり、救いが必要です。主は、このままでは滅びに至る私たちを救うために救い主を誕生させて下さったのです。この方以外に滅びに至る私たちを救う方はおりません。「主は救う」という名前の救い主が、私たちにとって必要だったのです。また私たちに罪があるゆえに、私たちは弱いのです。その弱さを補う神の助けを必要としています。私たちを愛し、私たちと同じになって下さり、共に歩んで下さる方をも私たちは必要としています。私たちには「神は我々と共におられる」という名前の方も必要なのです。

今から2000年前に私たちを罪から救い、私たちと共に歩んで助けてくださる救い主が誕生しました。ヨセフが、マリアが、そして私たちが必要としている救い主が与えられたことを感謝いたします。今年もそのような救い主の誕生を喜びつつむかえていこうではありませんか。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「約束を信じて待ち望む」   イザヤ書9:1~6(旧約P1073)   2017年12月10日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第二週となります。旧約聖書のイザヤ書9章の救い主誕生の預言から導きを受けていきましょう。

旧約聖書にはいくつもの箇所で「救い主が与えられる」という預言がされています。その中でも分かりやすいのがイザヤ書の預言で、この9章の預言はその中でもよく知られている預言です。旧約聖書にて預言されていて、今から2000年前にその預言が成就しました。それがイエス様の誕生です。つまり救い主誕生の出来事は、約束が果たされたということなのです。今から2000年前に待望の救い主が与えられました。感謝いたします。

さて「約束」ですが、神の約束ということでは、私たちは2つのことを覚えておきたいものです。1つは「神は必ず約束を果たされる」ということです。神は人間が罪を犯しても、人間が神との約束を守らなくても、神御自身は約束を果たしてこられました。神は正しい方です。そして私たちを愛しておられます。だから約束を果たされるのです。2つ目に覚えておきたいことは「神の約束で与えられるものはすばらしい」ということです。神は全知全能です。何1つ欠けたところは無いすばらしいものが与えられます。約束通り私たちのために救い主は与えられました。その救い主は神の子であり、完全なお方です。すべての人を救うことができうるお方なのです。

今から2000年前に約束は果たされ、救い主イエスキリストは誕生しました。私たちは救い主の誕生をもう待つ必要はありません。でも「待つ」ことと無縁に歩むわけにはいかないのです。今日の箇所の5節にありますように神が私たちのために救い主を与えてくださいました。私たちは救い主の救い、祝福、恵み、導きなどを受けますが、時にそれを待たなくてはなりません。「待つ」ために何が必要でしょうか。私たちが喜んで待ち続けるために必要なのは「信じる」ことです。主の愛の恵みや祝福を信じて待ち続けていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救いの喜びを世界中に」  使徒言行録13:1~3(新約P237)   2017年12月3日 大竹敏生

 

本日から今年のアドベントです。そして本日は今年の連盟の世界バプテスト祈祷週間の最終日となります。本日の聖書箇所の使徒言行録13章1節~3節から学びながら神の命じる世界宣教の業に参与していきましょう。

今日の聖書箇所では、神に導かれ、アンティオキアの教会からパウロとバルナバが祈りをもって送り出されたことが分かります。この箇所は「世界宣教」の開始の箇所と言える箇所です。ここから、送り出されたパウロたちと共に、出発させたアンティオキアの教会からも学びましょう。この箇所を皮切りに2000年近く経った今も「世界宣教」は神の導きの中、展開しています。携わる宣教師の方を助ける働きは多種多様です。アンティオキアの教会の人たちもパウロたちのために祈り、助けていたはずです。「送り出す」とはどういうことでしょうか。1つは「私たちの代わりに」ということでしょう。実際に直接働くのはパウロやバルナバでしたが、それはアンティオキアの教会の人たちを代表して彼らが行なっていたのです。またもう1つは「私たちも共に」ということです。宣教師の方の働きは多くの人たちの助けによるものです。パウロたちや宣教師の働きはほめたたえられるべき大切なものですが、それを助けるアンティオキアの教会や、宣教師のために祈り、支える働きをする私たちも共に世界宣教の業に参与しているのではないでしょうか。確かにパウロとバルナバは覚えられるべきです。ただ考えようによっては助けた側がよりほめたたえられるべきと考えることもできます。でも助けたアンティオキアの教会の人たちに喜びがあったがゆえに、むしろ彼らもパウロとバルナバをたたえたでしょう。世界バプテスト祈祷週間もロティ-ムーンという女性宣教師を助ける働きから始まりました。この女性の名が今も覚えられているのは、助ける側に喜びがあり、神に祝福されていたことを表しています。これからも救いを受けた喜びをもって、「救いの喜びを世界中に」という思いで祈り献げていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「賜物は永遠の命」  ローマの信徒への手紙6:20~23(新約P282)  2017年11月26日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はローマの信徒への手紙6章20節~23節です。この箇所から、主イエスキリストによる罪からの救いを学びましょう。

今日の箇所の23節に「罪の支払う報酬は死である。」とあります。ここの「死」という言葉ですが、普通の死とも考えられますが、ここでは同じ23節の「永遠の命」という言葉と対比されていると思われます。つまりここでの「死」は単なる肉体の死だけではなく「滅び」というような魂の死をも意味していると考えられるのです。罪ある私たちは、このままではその罪により滅びに至ってしまうのです。私たちを愛してくださっておられる神はそれを望んでおりません。神ご自身の子であるイエスキリストの十字架をとおして私たちを「死」に至らないように「永遠の命」を得るようにしてくださったのです。

聖書には、私たちを救うために神がどのようにされたのかが記されています。罪に支配されている私たちはどのように努力しても救われないのです。イエスキリストが私たち一人一人を救うために、私たちの代わりに十字架に架かってくださったことを信じることによって救われるのです。つまり私たちの行ないによって救われるのではなく、信じる信仰によって救われるのです。聖書に出てくる偉人も、マザーテレサのようなすばらしい行ないをなした人もみな救われていますが、それらの方々すべてが「信じる」ことによって救われて「永遠の命を」受けているのです。

神は私たちを選別して合格不合格を判断しているように救いを下さるのではありません。私たちすべてが救われることを望んでおられます。私たちは生まれながらに罪人です。このままでは「滅び」に至るのです。神はすべての人を愛しておられ、すべての人を救うために手を差し伸べておられるのです。その愛に応えて歩みましょう。主を信じて「死」から脱して「永遠の命」を受けましょう。それが主が望んでおられることなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の大いなる力と恵み」   エレミヤ書33:1~9(旧約P1240)  2017年11月19日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書のエレミヤ書33章1節~9節です。この箇所から、神の大いなる力と私たちへの愛を学びましょう。

この書に出てくるエレミヤは南ユダ王国滅亡の直前にその南ユダ王国で預言活動をしていた大預言者です。彼の預言は事実ですが内容が厳しく、民にとってまた王にとっても耳の痛いものでした。そのために王によって牢に入れられました。今日の箇所はそんな中で神がエレミヤに語られた箇所です。

まず3節に注目しましょう。ここで神は「わたしを呼べ」と言われています。これを聞いたのはエレミヤですが、この預言はエレミヤだけでなくすべての南ユダ王国の民に向けてのものでしょう。そしてもっと言うならば私たちに向けてのものでもあります。人がどのような状況にあっても「わたしを呼べ」とおっしゃって下さる主に感謝いたします。

そしてこの箇所では「エルサレムの復興」が預言されています。この時エルサレムはバビロン軍が迫り、破壊も始まっていたかもしれない状況でエルサレムは滅亡寸前でした。そしてエルサレムはひどい状況になることも預言されています。滅亡に突き進むエルサレムですが、復興が約束されたのです。6節には「いやしと治癒と回復をもたらす」とあります。このエルサレムの復興は町の復興ですが、そこに住む人の復興でもあるのです。9節にはその復興は「神が与える大いなる恵み」とあります。復興は神の約束であり、神が成せる業なのです。これはイスラエルの民にとっては喜びですが、敵にとっては恐れおののく出来事になります。真の神の大いなる力に驚き恐怖するとあるのです。

この神の大いなる力を、私たちは恐れる必要はありません。最悪の状況にあって、しかもさらに悪化するような時を迎えても神はそれを改善する力を持っているのです。大いなる力を持つお方は私たちの呼びかけに答えてくださる方でもあります。どんな状況でも揺るがない神の力を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛ゆえに恐れるな」  ルカによる福音書12:4~7(新約P131)  2017年11月12日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書12章4節~7節です。ここから、神の愛を信じ、恐れないで歩むことを学びましょう。

今日の聖書箇所には「恐れる」という言葉が何回か出てきます。そして7節には「恐れるな」とあります。この箇所からは「恐るべき方を恐れ、恐れる必要のないものを恐れるな」と読むことができます。「恐れ」は私たちにとってけっこう厄介なものです。「恐れ」は私たちの行動を制限し、時に何もできなくさせることすらあります。今日の箇所にもある「恐れるな」の命令は私たちにとって大切な命令なのです。ただ「恐れ」はまんざら不必要なものとも言えません。「恐れ」があるから私たちは克服するために努力します。そして成長するのです。「恐れ」に支配され、屈服させられることが問題なのです。

「恐れ」に支配されないためには神の愛を信じることが大切です。今日の聖書箇所にはまず「恐れる必要のないものを恐れるな」とあります。しかし私たちは弱いのです。恐れてしまうものなのです。私たちを恐れさせるものは大きな力がありますが、神の方がはるかに強いのです。神は安く売られている雀も愛しておられますが、私たちは雀よりも価値があります。私たちを友と呼び、私たちの髪の毛の数を数えておられるほど愛して下さる神、その力と愛の神が私たちを助けます。だから恐れる必要はありません。私たちが恐れるのは神ですが、7節にはその神の愛ゆえに「恐れるな」と記されています。私たちには罪があります。罪人である私たちにとって、罪のない、そして罪を憎む神は恐れるべき存在です。しかしそれ以上に神は私たちを愛しておられるのです。だから「恐れるな」と力強くイエス様は語ってくださいました。感謝いたします。

神の前には弱く「恐れ」に支配される者です。そして罪があり愛される資格のない者です。でも神は私たちを愛されています。神の愛を信じましょう。神の愛を信じることが「恐れ」を消すことにつながるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「御国のすばらしさ」   ヨハネの黙示録7:9~17(新約P461)  2017年11月5日 大竹敏生

 

本日は召天者記念礼拝です。聖書の箇所はヨハネの黙示録7章9節~17節です。ここから私たちに約束されている御国のすばらしさを学びましょう。

多くの方々が親しい方を亡くされた経験を持っていると思います。そして多くの方が死んだ方に何かできないかと考えるでしょう。これは昔も今も、そして日本に限らず世界中の人たちの中にある思いなのではないかと思います。しかし残念ながら死者に対して私たちは何もできないに等しいのです。ただ私たちの主なる神は召された者たちにすばらしい場所を備えています。今日の聖書の箇所にはそのすばらしさが記されているのです。

その素晴らしさの1つはその場所のすばらしさです。他の聖書の箇所、例えばこの黙示録の21章以降に御国のすばらしさが記されています。召された方々はその素晴らしい場所におられます。そして私たちにもその素晴らしい場所が備えられているのです。感謝します。2つ目は今日の聖書箇所の16節にあります。この世の歩みは誰でも多かれ少なかれ苦しみの中にあります。またこの黙示録が書かれた時代は、キリスト者にとって厳しい迫害の時代でした。そんな苦難の道を歩む者たちに約束されたのが「御国では苦しみが無い」ということでした。ヨハネによる福音書16章の終わりにありますが、この世では誰もが悩み苦しみます。しかし天国ではそんな苦しみはありません。感謝いたします。そして忘れてはならない御国のすばらしさは、何といっても「主が共におられる」ということです。主がおられるからその場所はすばらしいのです。主がおられるから何の憂いもありません。17節に「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」とあります。苦しみを取り除いてくださる愛の神に感謝いたします。

私たちは先輩のクリスチャンの方々につづきましょう。そして召された方々に与えられた素晴らしい場所信じて、励みとして歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に用いられて」 コリントの信徒への手紙Ⅰ12:12~27(新約P316)  2017年10月22日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ12章12節~27節です。ここからキリストの体の部分とされている私たちが、主から愛され、その主に従う恵みを感じていきましょう。

今日の箇所にありますが、私たちはキリストの体の部分であるとされています。また聖書には「教会はキリストの体」とあります。つまり教会の頭はキリストであり、私たちは手や足などの部分であるのです。人間の体を思い浮かべると、さすが神の造られたもので、大変すばらしいものです。その見事さはいくつもありますが、今日覚えたいのはそのチームワークです。コリントの教会は分裂傾向にありました。今日の箇所もそれを戒めている箇所です。ただ別に分裂していない教会でも、今日の箇所から一致を深めることを学ぶ必要があります。教会は人間の体のように統一、調和して歩むものなのです。先に記しましたが、人間の体は見事な調和を見せます。当たり前ですが分裂してません。1つのことをなすためにありとあらゆる部分が協力して進めます。そしてこれも人間の体では当たり前ですが、部分は同じことをしていません。人間の体の部分はそれぞれ別の動きをしながら1つの作業をしていくのです。そしてそういう作業をするとき、人間の体は見事なチームワークで進めていくのです。

教会もそうでなくてはなりません。キリストを中心として一人一人がその賜物をとおして別々のことをしながら、頭であるキリストのために歩むのです。今日の聖書箇所にありますが、人間の体の1つの部分の痛みは他の部分の痛みであり、1つの部分の喜びは他の部分の喜びです。本来ならある部分がすることを、他の部分が代わりにすることすらあるのです。一致し、互いに尊重しているのです。頭であるキリストは、部分である私たちを働かせる力を下さいます。そして働くとき助けてくださるのです。教会も主のために愛し合い、協力して働きましょう。これからも主のために皆で働く教会であり続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が共に働く」  ローマの信徒への手紙8:26~30(新約P285)  2017年10月15日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙8章26節~30節です。今日の聖書箇所はよく読まれる個所で、ここからいろいろなメッセージが語られます。今日は特に28節から「わたしたちと共に働く神」を覚えましょう。

私たちの救い主は「インマヌエル」と言われます。この名の意味は「神は我々と共におられる」で、その名のとおり主は私たちと共に神はおられるのです。そして今日の箇所では「神は私たちと共に働く」と記しています。私たちは弱いのですが、神は全知全能のお方です。万事が益となるようにしてくださるお方です。その力の神が共に働くということは弱い私たちにとって感謝です。神が弱い私たちを補ってくださるのです。また「神が私たちと共に働く」ということは「神が私たちを愛している」ということも意味します。神は全知全能です。従ってどんなことでもできるのです。他の誰の力も必要としてはいないはずなのです。私たちの力が無くても神はできるのに、なぜ私たちと共に働くのでしょうか。それは私たちを愛しているからに他なりません。実は弱い私たちは神のお役に立てるものではありません。むしろ足手まといになるようなものです。でも神は私たちの弱さを知っておられるのに愛してくださり、共に働いてくださるのです。神の愛と力に感謝いたします。

愛と力の神が共に働いてくださることは私たちの喜びです。小さな子どもが親と共に歩むことを喜ぶように、私たちも「神は私たちと共に働く」ということを喜びましょう。そして私たちは「神は私たちと共に働く」というこのことを信じなくてはなりません。神の力と愛を信じるのです。私たちを愛する神は、私たちに神の大切な働きを任せてくださっています。私たちが神のために働くことは、神の望んでおられることなのです。私たちは神が共に働いてくださることを信じて歩んでまいりましょう。神と共に働くことを信じて、また喜んで歩み、神の最善の業を見ていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「賜物をとおして」  マタイによる福音書25:14~30(新約P49)  2017年10月8日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書25章14節~30節で、有名な「タラントンのたとえ」からです。ここから神の賜物のすばらしさを覚えましょう。

ここで主人は神、しもべは人間、そしてタラントンは賜物にたとえられています。この賜物は「才能」や「能力」と言いかえることもできるでしょう。ここではこの賜物をどうしていけば良いのか見ることができます。15節にありますが、主人はしもべたちに、力に応じて大金を預けました。そして5タラントンと2タラントンのお金を主人から預かったしもべたちはそれを用いました。1タラントン預かったしもべは土に埋めたのです。預かったお金を用いたしもべには主人と賜物に対する愛が見えます。一方お金を用いなかったしもべは主人を誤解し恐れ、賜物には愛どころか嫌悪しているかのようにすら思えます。彼は賜物を土に埋めたのです。土に埋めればなかなか発見されないでしょうから、盗難を防ぐのに良いかもしれませんが完全ではありません。むしろこの賜物から遠ざかりたいというしもべの思いが見えるようです。

私たちにもそれぞれ賜物は与えられています。与えてくださった神を愛し、賜物を喜んで歩むことが大切です。賜物を下さった方は私たちが賜物を用いることを喜んで下さるのです。賜物は私たちが生きていくのに必要な働きをします。でも私たちはそれだけでなく、5タラントン、2タラントン預かったしもべたちが主人のためにそれを用いたように、賜物を神のために用いましょう。賜物を下さった神のためにその賜物をとおして働くことが、主のために生きる私たちにとって大切な務めです。喜んで主のために励みたいものです。

賜物は主が私たちに下さいました。賜物を用いましょう。賜物を用いるとき、私たちは下さった主を覚えて歩みましょう。賜物を下さった方は、その賜物を最も良く用いさせてくださる方です。私たちは神の導きのままに賜物をとおして主のために歩みましょう。主は賜物を用いさせてくださるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛が駆り立てている」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:7~12(新約P330)  2017年10月1日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ5章11節~15節です。ここから神の愛に駆り立てられて歩むことを学びましょう。

今日の聖書箇所にもありますが、私たちは主のために生きる者なのです。主のために行動していくのです。例えば私たちは主のために伝道します。その伝道の動機は何でしょうか。ある人は「主の命令に従っている」と言うでしょう。またある人は「主の恩に報いるため」というでしょう。ずいぶん違うようですが、実は今日の箇所の14節の「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」という言葉がそれをあらわしているのです。後の「主の恩に報いるため」というのは頷けます。でも前の「主の命令に従っている」は少し違うように思えます。ただこの「駆り立てる」ですが、他の訳では「取り囲んでいる」となっています。周りを主の愛が取り囲み逃げられないのです。つまりここで聖書が語っているのは、主の愛が私たちを支配し、その影響を大きく受けて、そこから押し出されるように私たちは主のために働くということなのです。

主の愛に駆り立てられて主のために歩む私たちですが、弱い私たちにどれだけのことができるでしょうか。正直に言いますと、私たちには罪があるゆえに弱く、主のために働く力が無いのが実情です。でも私たちを駆り立てる愛は、私たちを取り囲み支配しています。その影響を私たちは受けているのです。神の愛による力が私たちを押し出し、助けてくださるのです。わたくしたちを駆り立てる主の愛の力は、私たちの弱さを補って余りあるほどのものです。主の愛を信じて歩みましょう。またこの「駆り立てる」という言葉から感じるのは、主の愛による励ましです。そしてそこから充実した喜びを感じます。主のために歩むとき、弱い私たちは励まされ、押し出されます。つまり「弱い者ですが、主のために歩みたい」という思いとそれを成し遂げる力が喜びの中で与えられるのです。主の愛に駆り立てられて、主のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛に揺るぎなし」   ヨハネの手紙Ⅰ4:7~12(新約P445)  2017年9月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヨハネの手紙Ⅰの4章7節~12節で、大変有名な箇所です。ここから神の大きな愛について学びましょう。

ここの箇所からはいくつもの神のメッセージがあります。その中でも今日の箇所の最初と最後が「互いに愛し合う」ことが勧められています。ただ今日はこの「互いに愛し合う」ことの前提を考えていきたいと思います。

その前提は何かというと10節にあります。それは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」というところです。神がわたしたちを愛したのです。私たちも愛することができます。技術的に難しいことではありません。ただ私たちの愛はもろいのです。それは私たちの愛が理由があってのものが多いからです。その人の実績や性格、あるいは外見やこの世的な評価なんてこともあります。ただそれらのものがなくなればどうなりますか。愛は消えてしまいかねないのです。では神の愛はどうでしょうか。この10節の言葉から神の愛の本質を見ることができます。この言葉から神の愛が何よりも先にあることが推測できるのです。人の愛が理由あっての愛であるのに対して神の愛は、私たちの全てが最初から愛されているのです。人の長所だけではなく短所をも愛するのは大きな愛だと考えられます。私たちは自分で自分を赦せないようなことをしでかしたりします。そんな者を愛することは大変困難でしょう。せいぜいそのひどい行為見ないことにして我慢するぐらいが精一杯ではないでしょうか。でも神はそんなことをしでかす私たちのそんな面を見ないようにして愛するのではなく、すべて知った上で、分かった上で、それを含めて愛するのです。だから神の愛は揺るぎません。聖書の登場人物でもダビデやペトロなど多くの人たちが罪を犯しました。裏切りました。でも神はそれを知った上で愛されました。そこに一切揺るぎがないのです。罪ある私たちですが神に間違いなく愛されています。揺るがない神の愛に感謝し信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に従いとおしました」    ヨシュア記14:6~15(旧約P361)   2017年9月17日 大竹敏生

 

本日は「高齢者を覚える礼拝」です。教会の関係するご高齢の方々が、いつまでもお元気で歩むことができるように祈りつつ礼拝しましょう。本日示されている聖書の箇所はヨシュア記14章6節~15節です。

この箇所に登場する人物はカレブという人です。このヨシュア記の主人公のヨシュアの盟友とも言える人です。カレブといえば民数記13章~14章にかけての記事が印象に残ります。モーセに引き入られて約束の地の目前まで来たイスラエルの民は、12の部族から一人ずつ選び、偵察隊として約束の地に派遣しました。その中にカレブとヨシュアがいたのです。偵察隊は帰ってくると「約束の地は素晴らしい地」と報告しました。しかしカレブとヨシュアが「主が共にいる。恐れないで約束の地に入ろう」というのに対して、他の10人が「相手が強い」と悪い情報を流した結果、イスラエルの民は怖じ気づいてしまいました。主を信じなかったのです。イスラエルの民はその後多くの年月を荒野で過ごすことになりました。同世代でカレブとヨシュアだけが多くの年月を経て約束の地に入ることができたのです。

約束の地に入って85歳になったカレブは11節にあるように元気でした。カレブは9節にありますが、偵察隊が帰った時の出来事の中で、神がカレブに「あなたが見てきた土地はあなたに与える」という約束どおりにしてほしいとヨシュアに願ったのです。ヨシュアはカレブを祝福してその通りにしたのです。8節でカレブは「わたしはわたしの神、主に従いとおしました」と語っています。従うにはその方を信じていなければなりません。カレブは主を信じ、信じ従い続けてここまで来ました。しかもカレブはまだ信じ続けます。12節を見ると、まだカレブが受ける地は彼らのものではなかったようです。この後カレブが信じたように彼のものになりました。主に従いとおして祝福されたカレブにならって、信じて従い続けて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「終わりまで共にいる」  マタイによる福音書28:16~20(新約P60)  2017年9月3日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書28章16節~20節です。ここから「終わりまで共におられる主」を覚えていきたいと思います。

「二千年前の人のことを信じたり、その人について書かれた聖書を読むのに抵抗がある」まだ神を知らない人からこういうことを聞くことがあります。つまり「古い」ということでしょうか。確かにイエスキリストは二千年前にこの世に来られました。でも十字架に架かって死んでよみがえったのです。そして今も生きておられます。神は最初からおられ、今も生きておられ、最後まで私たちと共におられるお方なのです。感謝します。

「主は今も生きておられる」ということについては、主を信じる者は誰でも知っていることです。知らないクリスチャンはいないはずです。でも私たちは「主は今も生きておられる」ことを忘れてしまうのです。このことを忘れないで歩むことは、主を信じる者にとってとても大切なことです。生きているということは動きがあります。そしてフレッシュで生き生きとしているのです。主を信じる者は、マンネリとは無縁で、いつも生き生きとした信仰を持ち、主のために行動する者でありたいですね。

今日の聖書の箇所で、天に昇られる直前のイエス様が「世の終わりまで共にいる」と弟子たちに約束してくださいました。実際「全世界に出て行って…」という難しい命令に弱かった弟子たちは応えようと歩みました。「世の終わりまで共にいる」主は使徒や弟子たちに力を与え、彼らは主のために行動していったのです。生き生きとした信仰で主のために行動したのです。

今日の聖書箇所の命令と約束は私たちにも語られているのです。主は今も生きておられ働いておられます。私たちも教会として、今も生きておられる主の御声を聞き、主のために行動していきましょう。生き生きとした希望と信仰をもって、主と共に主のために働いていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「霊に燃えて」  ローマの信徒への手紙12:9~21(新約P292)   2017年8月27日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙12章9節~21節です。この中の11節の「霊に燃えて、主に仕えなさい」に注目していきたいと思います。

そしてその中でもまず「霊に燃えて」という言葉を考えていきたいと思います。この「霊に燃えて」とはどういう意味でしょうか。ある人はこの言葉はそんなに重要ではないと言います。前後の言葉と同じ意味で、言い方を変えているのだと言います。でも私はもっと重要な言葉だと思います。ここにある「霊」は私たちの「霊」だと考える人もいます。また「霊」は「聖霊」なのだと主張する人もおります。私は、正解は後者の「聖霊」だと考えていますが、前者も間違いとは思っていません。

「燃える」という言葉を他の聖書箇所から考えますと、ルカによる福音書の「エマオ途上の出来事」を思い出しました。あの時エルサレムから逃げていた二人の弟子は復活したイエス様に出会って最後に「わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、逃げ出したエルサレムに夜道を帰って行ったのです。イエス様と出会い、交わった時に彼らのころは「燃えた」のです。イエス様と同じ神である「聖霊」により私たちは「燃える」のです。私たちも日々祈り、み言葉に養われて歩みましょう。また礼拝や集会を守ることを通して聖霊によって燃やされましょう。それが大切なことなのです。

今日の聖書箇所の11節に「霊に燃えて、主に仕えなさい」とありますが、「主に仕える」というのはそんなに容易なことではありません。時に、仕えるのが困難な厳しい状況のときもあるでしょう。また普段は容易にできることも私共の信仰の状況で厳しいこともあります。私たちは罪があり弱いのです。「仕える」ことができないものなのです。例えば霊に燃えたとき、私たちは「喜び」ます。その「霊に燃えて」与えられた喜びにより、できないはずの「仕える」ことができるのです。霊に燃えて主のために仕えて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「十字架を背負って」  ルカによる福音書9:21~27(新約P122)  2017年8月20日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書9章21節~27節です。この中から特に23節の「十字架を背負って」の言葉に注目して学びたいと思います。

聖書には多くの命令がでてきます。優しい命令もありますが、23節の「十字架を背負って、わたしに従いなさい」はその中でも有数の厳しい命令です。「十字架を背負って、わたしに従いなさい」の意味は、前後の文脈などから分かりますが「死をもいとわず、主に従え」ということでしょう。弱い私などはおののいてしまいそうな命令です。

どうしたら従えるかを考える前に、命令を出す側について考えてみます。「私に従え」と命じる側の資格として、まず知恵や力が必要です。間違いない方へと導く必要があるのです。それが無い方に従うのは無理です。またもう1つ愛が必要です。従わせる側は従う者の安全や祝福を保証しなくてはなりません。愛しているからできることではないでしょうか。私たちに「十字架を背負って、わたしに従いなさい」と命じる主は、今日の聖書箇所で預言されていますが、死から復活されるお方です。神であるこの方は全知全能の方であり、知恵と力は申し分ない方です。そしてこの方は誰よりも私たちをこの上なく愛して下さる方です。つまり誰よりもこの命令をするのにふさわしい方なのです。

ただこの命令を受けた側の私たちは弱い者です。「十字架を背負って、わたしに従いなさい」の命令に怖じ気づくような者です。また怖じ気づかなくてもその命令を果たす力は無いのです。そこで先ほどの命じる方の資格を覚えましょう。できないことのない方が私たちを愛しておられます。この厳しい命令を守るのには、命じた方を信じてこの方に命令を守れるようにゆだねることです。力と愛の方は、弱い私たちを助けてくださるでしょう。

私も主を信じて38年、この命令を受けて歩んできました。私の力ではなく、私のような者をも愛して下さる神の導きによるものでした。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛してよい」   マタイによる福音書22:34~40(新約P44)  2017年8月6日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書22章34節~40節です。この有名な箇所から主の愛を学び、及ばずながら愛する者へと導かれていきましょう。

イエス様は最も重要な掟として2つを挙げられました。どちらも「愛する」ことで、その対象は「神」と「隣人」です。ここに挙げられているのは掟です。つまり命令なのです。普通、命令を守るのは楽なことではありません。特に「厳しい状況を迎えているとき」「苦難の中にいるとき」などは大変です。ただここに挙げられている掟はどうでしょうか。「心を尽くし…」というような言葉があって、やはりきつそうではありますが、「愛せよ」という命令自体には技術的なものはそれほど必要ないようです。

私たちは実は「愛すること」より「愛されること」に気をつかっていたりします。「愛」とは男女の愛だけではありません。私たちは「良く思われたい」「尊敬されたい」などと考えます。それらも「愛」であり、私たちは「愛されること」に気をつかっているのです。でも「苦しいとき」や「厳しい状況を迎えたとき」は「愛されること」に気をつかって生きるのが厳しくなります。そういうとき、私たちは「自分で自分を愛せないような状況」です。そんなときに「愛されること」を思って歩むのは非常に困難です。それでもあがくように「愛されること」に気をつかっていたりするのです。そしてもしかするとその思いこそが私たちを苦しめているのかもしれないのです。

そんな状況のとき、きょうの箇所の命令を思い出しましょう。「愛されること」ではなく「愛すること」をです。「愛すること」で実は主に「愛されていること」に気づかされます。「愛せよ」の命令はむしろ「愛してよい」という神の愛の言葉なのではないでしょうか。「愛されること」に気をつかい、苦しむ者に「愛してよい」という意味の「愛せよ」と言ってくださる愛の神に感謝します。そして神と人を愛して歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「慰めの主に希望を」 コリントの信徒への手紙Ⅱ1:3~11(新約P325)  2017年7月30日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ1章3節~11節です。ここから、慰めの主に希望をおいて歩むことを学んでいきましょう。

パウロがこの手紙を書いた時、この手紙の宛先のコリント教会の人たちは苦しみの中にあったようです。またコリント教会だけではなく、この時代のキリスト者たちは皆迫害の苦しみにあったと思われます。そして何よりこの手紙を記したパウロ自身が誰よりも大きな苦しみを味わっていたのです。コリントの教会の人たちの苦しみはパウロたちの苦しみと同じで、主のためのものでした。主は私たちの苦しみを癒してくださいます。今日の箇所の前半部分に「慰め」という言葉が多く出てきます。その「慰め」の根本は主なる神であって、苦しみの中にある者に主なる神のその愛から「慰め」が与えられるのです。

「慰め」はいただいてありがたいものですが、その「慰め」と人の苦しみの問題の解決は直接関係ないように思います。主なる神には「罪」はありません。しかし私たちの「弱さ」を知っていて下さり、同情してくださるのです。それは主なる神が3節にあるように「慈愛」に満ちていて、「慰め」を豊かにくださる方だからです。神は問題の解決をくださる前に「慰め」をくださるほどに愛しておられる方なのです。パウロはこの愛に満ちて、慰め豊かな方に希望をおくように勧めています。8節に記されている「パウロたちの苦難」の具体的内容は分かりません。ただその苦しみは「死」を意識させるほど強烈なものでした。その時パウロたちは、その「死」を超える力をもち、死者を復活させる力を持つ方にゆだねてその「苦難」を乗り越えてきた事を証ししています。そしてこれからもそんな「苦難」があるだろうけど、主なる神がこれからも救ってくださるに違いないと確信しているのです。

私たちも「苦難」があります。私たちの「弱さ」を知り、同情してくださる愛と慰めの神に希望をおいて歩んでいきましょう。

 
 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰によって」   ガラテヤの信徒への手紙2:15~21(新約P344)  2017年7月23日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はガラテヤの信徒への手紙2章15節~21節です。ここから「信仰による義」を考えていきたいと思います。

ガラテヤの信徒への手紙は、中心のテーマが「信仰による義」です。そしてこの「信仰による義」こそがキリスト教の説く救いなのです。この手紙を書いたパウロと、この手紙をこよなく愛したと言われる宗教改革者ルターは同じ問題に直面していました。それが「信仰による義」と異なる考え方でした。パウロの場合は律法による「行ないによる義」。またルターも贖宥状や免罪符等による「行ないによる義」が相手でした。これらは「真の福音」ではなく「捻じ曲げられた福音」と呼ぶべきもので、だいたい「行ないによる義」と言いますが、行ないによってでは私たちは救われないのです。律法の専門家だったパウロ自らが律法ではなく「信仰によって」救われると証ししています。また私たちも「行ない」によって救いが与えられると考えてきました。人は良い行ないをすることによって、あるいは修行等によって救いが受けられるように考えてきたし、今もキリスト教を知らない人はそう考えているのではと思います。

行ないでは救われない私たちは、神の恵みによって「信じることによって」救われるのです。「信じること」や「信仰」にはそんな大きな価値があるのかと考えたことがあります。「信じること」より「正しい行ない」の方が優れているように思えたのです。「行ない」ではできない人は救われません。「信じること」は技術的にできない人はいないでしょう。私たちは神と断絶しました。だから義ではなくなりました。「信仰」はその断絶した神との関係を修復するのです。この「信仰による義」は神が開いて下さった救いへの道なのです。神は私たちをその愛によって、信じることへと導いて下さるはずです。

「信仰によって」救いを得ましょう。神はそのために御子イエスキリストを贈って下さいました。この恵みを無にしないで信じて歩みましょう。

 
 
 

[メッセージ要約]

「憐れに思って」  マタイによる福音書21:18~35(新約P35)  2017年7月16日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書18章21節~35節です。この中から特に27節の「憐れに思って」の言葉に注目して学びたいと思います。

今日の箇所は例え話ですが、例え話の特徴として「分かりやすい」や「馴染みの…」ということがあげられます。ただ今日のお話には「1万タラントン」という途方もない金額が出てきます。ある方式で現代の日本のお金に換算すると6000億円にもなる「1万タラントン」の借金が免除されているのです。それくらいのものが赦されている恵みを感謝しつつ歩んでいきましょう。

27節の「憐れに思って」という言葉がわざわざ記されているのはなぜでしょうか。それはこの王はそういう憐れみの方だということです。これが記されている理由の1つです。そしてこの家来はどうして1万タラントンの借金が赦されたのでしょうか。それは王が憐れに思ったからなのです。それ以外の理由はありません。これが「憐れに思って」と記されている理由のもう1つです。この箇所の王は神を表しています。そして家来は私たち人間を表しています。王すなわち神は「憐れに思って」下さる方だということです。私たちの神は、弱い私たちを憐れんで下さる愛の方です。この家来は赦されるべき理由はありません。実は私たちもそうです。赦される資格のない私たちですが、神はその愛をもって「憐れに思って」赦してくださるのです。感謝いたします。

この例え話では残念ながらこの家来への赦しは無くなってしまいました。それは家来が同僚にお金を貸していて、返済を迫りますが、しばらくの猶予を願う同僚を赦さず、牢に入れたことが王に知れたことでした。その借金の額は100デナリオンで、先ほどの換算の仕方で100万円です。王から赦された金額とは比べ物になりません。この家来は王からの赦しを忘れてしまったのでしょうか。そして赦しを喜んでいなかったようです。私たちは神に「憐れに思って」いただき続けるために、神の赦しを忘れず、喜んで歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が喜びを下さる」   コヘレトの言葉5:17~19(旧約P1040)  2017年7月9日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコヘレトの言葉5章17節~19節です。伝道の書とか伝道者の書とも呼ばれるコヘレトの言葉から学んでいきましょう。

コヘレトの言葉は全体が「空しさ」にあふれています。今日の箇所はそれほどでもありませんが「空しさ」が感じられなくもありません。人間は喜びを求めて歩むものです。そして多くの場合「物質的な祝福を得る」ことによって喜びが与えられると思っています。そのことに対して「それは空しい」とここで著者が語っているように感じます。確かに物質的な祝福に魅力を感じます。しかし物質的な祝福は人に真の喜びを与えません。まずその祝福は必ず与えられるとは限りません。祝福が与えられなければ喜びが無いとすれば完全な喜びではありません。そしてたとえ祝福が与えられても結果としての喜びに過ぎないのです。結果はすぐに終わり、次が始まるのです。物質的な祝福による喜びは不確かで非常に空しいと言わざるおえないのです。

ここで著者はその空しさを解消する手立てを教えてくれています。それは与えられる祝福にではなくて、祝福を与えてくださるお方に注目するように記しています。神が与えるのですから確かな祝福です。今日の箇所からはその神から与えられる祝福を喜ぶことが記されているように思えます。神が与えてくださる祝福を喜ぶのですから確かな喜びです。確かに祝福を喜ぶように記されていると感じます。でも著者はその祝福にというより、むしろ与えてくださる神に喜びの基を置くように語っているように思われるのです。

私たちは神が祝福を与えてくださることを信じなくてはなりません。そして感謝と共に喜ぶことが大切なのです。私たちの歩みは楽なものではありません。むしろ苦しみ悩みが多いのです。でも神は必ず祝福を下さいます。信じて歩みましょう。神が与えてくださる確かな喜びをもって歩むときに、私たちの歩みは喜びに満ちた歩みとなるに違いありません。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストにより」  エフェソの信徒への手紙4:9~16(新約P356)  2017年7月2日 大竹敏生

 

本日は私たちの教会が属している日本バプテスト連盟の今年の「神学校週間」の最終日となります。エフェソの信徒への手紙4章9節~16節を通して神のみ言葉に耳をかたむけてまいりましょう。

よく言われることですが「献身者」とは牧師とか神学校で学ぶ者のみを指すのではなく、主を信じる者すべてが「献身者」なのだということを心がけていきましょう。神学校で学ぶ者は成長していく必要があります。そして献身者であるすべての信徒も成長していかなくてはなりません。そしてその成長は、自分の努力も多少あるでしょうが、成長させて下さるのは神である主イエスキリストです。9節の「昇ったという…」という言い方はおもしろいですね。でもこれがキリスト教の特長です。仏教では「人が神になる」と主張されるようです。キリスト教は「神が人となる」ことを福音として喜ぶのです。神が下りてきて人となって下さり、私たちを成長させて下さることを感謝します。

神でありながら人となり、人の弱さを理解して下さるお方が私たちを成長させて下さるのです。今日の聖書箇所を読みますと、その成長はすばらしいものです。13節には「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」とありますが、14節をみると未熟だった者がそこまで成長させられることが分かります。また私一人が成長させられるのではなく、私たち一人一人が共に成長させられるのです。私たちは一つであって共に教会で成長させられるのです。16節には私たちの成長が身体に例えられています。教会の中でキリストによって成長させられることを感謝いたします。また身体に例えられていることから、キリストによる私たちの成長のすばらしさが分かります。私たちの成長はキリストが導き、見せかけではなく完全なものだということではないでしょうか。そしてその完全な成長は主との交わりの中で、日々着実に成長させられ続けるのです。キリストによる愛の導きによって成長できることを感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の導きに従おう」    列王記下5:8~14(旧約P584)    2017年6月25日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書の列王記下5章8節~14節で、有名なナアマン将軍の癒やしの記事です。ここから神に従うことの大切さを学びましょう。

ここに登場するナアマンという人はアラムの軍司令官でした。英雄的存在であったようです。しかし彼は重い皮膚病にかかっていました。主はそんなナアマンを覚えて癒やしに導きます。彼はなかなか立派な人であったようです。ナアマンに病気の癒やしについて情報がもたらされますが、それは捕虜として連れて来られていたユダヤ人の少女からでした。彼女がナアマンとその妻を慕っていたからこそこの情報はもたらされました。そして、アラムの王がナアマンのために手紙を北イスラエル王国の王に送ります。ナアマンは上からも下からも愛されていたのです。ナアマンはイスラエルの捕虜の少女の語ることを軽んずることをせず、神の人である預言者エリシャのところへやってきました。

そこでエリシャはナアマンに使者を通して「ヨルダン川に行って7たび身を洗いなさい」と命じました。そうしたら癒やされるというのです。これに対してナアマンは2つの理由で憤慨します。1つは、エリシャ自身が出てこなかったこと。もう1つは、ヨルダン川より自分の国の川の方が大きく立派だということでした。人は自分を重んじてほしいと考えます。そして自分の常識的判断を大切にします。ナアマンは怒って去ろうとしました。実は私たちにとって自分より大切にしなくてはならないことがあるのです。それは神に従うことです。憤慨して去ろうとしたナアマンでしたが、神は捨て置きませんでした。家来からも慕われているナアマンは「もっと大変なことでもするつもりで来たはず、ヨルダン川で7たび身を洗うことは容易なこと」と言われました。ナアマンはその忠告に従って、結果的に神の人の言葉に従い、癒やされました。

神はナアマンに「従うこと」を求めました。ナアマンは神に従って祝福されました。私たちも神に従って、神のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主を思い起こしなさい」  テモテへの手紙Ⅱ2:8~13(新約P392)  2017年6月18日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はテモテへの手紙Ⅱ2章8節~13節です。この箇所から学び、主を思い起こしつつ歩んでいきたいと思います。

この手紙はパウロが、弟子のテモテに送ったおそらく最後の手紙と言われています。(諸説あり)手紙を見るとパウロのおかれている厳しい状況が分かるようです。血のつながりはないのに我が子と呼ぶほど愛している弟子を思い、いろいろとアドバイスをしています。その内の1つが8節に記されている「イエスキリストのことを思い起こしなさい」です。他の訳では「思い起こしなさい」が「いつも思っていなさい」となっています。そんなに難しいことではないようです。私たちが愛する者に、もう多くを告げることができない時、何を語るでしょうか。人の知恵を駆使して、かなり困難な重要と思われることを語るのではないでしょうか。人としての知恵にかけては誰にも負けないパウロは「イエスキリストのことを思い起こしなさい」とテモテに告げたのです。

パウロはこの時、9節にあるように囚われの身でした。つながれていたのです。それは福音のためでした。パウロがつながれ、福音はどうなったでしょうか。パウロは「しかし、神の言葉はつながれていません」と記しています。「神の言葉」と言えば聖書ですが、この場合は「言葉」には「語った方」という意味もあります。パウロはテモテにつながれていない神を思い起こすようにと命じているのです。簡単そうに思える「イエスキリストのことを思い起こしなさい」が、テモテがこれから先、どんな厳しい状況になっても、また大変な困難に直面しても助けると確信していたのでしょう。そしてこのことはパウロ自身が主を思い起こしつつ歩み、助けられてきたからこそ言えるのでしょう。

私たちも主を思い起こしつつ歩みましょう。私たちは弱く時に愛を必要とします。時に力を必要とします。また知恵を必要とします。主は愛の方であり、力と知恵の方です。必ず必要なものが与えられ、助けられるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ザアカイと呼ぶ主」   ルカによる福音書19:1~10(新約P146)  2017年6月11日 大竹敏生

 

本日は今年の「子ども祝福礼拝」です。子どもたちのさらなる祝福を願いつつ礼拝しましょう。聖書箇所はルカによる福音書19章1節~10節で有名なザアカイの物語からです。ここから主の愛を学びましょう。

ザアカイはエリコという町の徴税人の頭でした。徴税人はこの時代のイスラエルでは「裏切者」「不正する者」として罪人と同列にされるほど嫌われていました。このザアカイも同様だったと思われます。そんな中、イエス様がエリコにやってきました。ザアカイとは違って皆に慕われているイエス様です。ザアカイはイエス様を見てみたいと思ったようです。その思いはかなり強く、群衆にさえぎられて見えないので木に登ってイエス様を見ようとしました。そんなザアカイにイエス様は声をかけられました。

まず注目したいのは「ザアカイ」と名前を呼んだことです。おそらくエリコではザアカイの名を知らない人がかなりいたはずです。また知っていたとしても悪名として知っていたのでしょう。イエス様のように親しみを込めて名を呼んだ人は皆無といってもよいと思われます。ザアカイはイエス様が愛を込めて「ザアカイ」と呼んで下さったことがうれしかったに違いありません。また続けてイエス様は「あなたの家に泊まりたい。」と声をかけられたのでした。イエス様は全知全能の方です。私たち一人一人を愛し、必要がすべて分かっておられます。この時、ザアカイが何を求めていて、何が必要かをすべてご存じでした。「ザアカイ」と名を呼び「あなたの家に泊まりたい。」と声をかけることが、ザアカイにとって何よりも必要でうれしいことだったのです。

主は私たちも同じように愛されておられるのです。私たち一人一人の名は覚えられているのです。そしてその時その時必要な言葉を語って下さるのです。「み言葉が与えられた」という経験や「み言葉に励まされた」という体験を私たちはしているのです。名を覚えて呼んで下さる主に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「聖霊によって力を受ける」   使徒言行録1:3~11(新約P213) 2017年6月4日 大竹敏生

 

本日は今年のペンテコステとなります。与えられている聖霊を喜び、感謝しつつ神のみ言葉に耳をかたむけてみましょう。

本日の聖書箇所は使徒言行録1章3節~11節で、イエス様が天に昇っていかれる場面です。弟子たちがそれを見送っているのですが。この時の弟子たちは、主の復活を信じることができずに、おびえて隠れていた弱い弟子たちでした。そしてその弱い弟子たちを前に、今イエス様は天に昇って行かれるのです。弟子たちは相変わらず弱いのです。これからどうなってしまうのかと不安になる状況です。そんな弟子たちに、イエス様はご自身の業を任せられました。そこにはイエス様の愛が感じられます。そしてイエス様はすばらしい約束をして下さいました。それは「聖霊が与えられる」という約束でした。この聖霊は弟子たちに力を与えます。その力によって主イエス様の証人とさせられるのです。弱い者が証人になるにはいろいろな力を必要とします。語る言葉や行動するのに内面への力が必要です。また語ることや行動するための環境を整えたりする外部への働き掛けも必要なのです。内面と外面へのどちらの力も聖霊は与えて下さるのです。弱い弟子たちも聖霊によって証人とされて歩んだのです。また、聖霊の力によって証人となることができますが、聖霊の力はもっと広く深いのです。弟子たちの歩みの全てにわたって聖霊は力を与えるのです。まさに助け主なる聖霊です。

確かに主は聖霊を弟子たちに与えると約束されました。その約束は弟子だけでなく、主を信じる者すべてに約束されたのです。つまり私たちにも約束されたのです。主は約束を違えることをいたしません。今も私たちには聖霊が与えられています。この聖霊の力によって歩みましょう。証人となっていきましょう。そして与えられている聖霊を信じましょう。聖霊が与えられたことによって誕生した教会で、聖霊と共に主のために励み続けたいと思います。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛と恵みによって」 エフェソの信徒への手紙1:3~14(新約P352 2017年5月28日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はエフェソの信徒への手紙1章3節~14節です。この箇所から特に神の愛と恵みを考えていきたいと思います。

私たちは「義しさ」「正しさ」を求めて歩んでいます。「善」なのか「悪」なのか、また「正解」なのか「間違っている」のか、私たちはいろいろな局面で「義しさ」「正しさ」を求めて歩んでいるのではないでしょうか。しかし「救い」に関しては、人がどんなに頑張っても自分の「義しさ」で自分を救うことはできないのです。では「義しさ」「正しさ」を求めても「救い」に関しては、むなしい努力なのでしょうか。たしかに自分の「義しさ」では救われません。でも自分ではなく、神の「義しさ」が私たちを救うのです。私たちはその義しい神を信じることで救いを受けるのです。感謝します。

神はそのように信じる者に「救い」を与えて下さるのですが、どうしてそのようなすばらしいものである「救い」を神は私たちに下さるのでしょうか。世の中では、普通は「価値」に対して「対価」が与えられます。「救い」というすばらしい「対価」を受けるほどの「価値」が、私たちにあるのでしょうか。その答えは「イエス」です。ただその「価値」は神から見たものです。普通に考えて、私たちに「救い」に見合うような「価値」は残念ながらありません。しかし4節にありますが、神が私たちを愛して下さいます。そこに私たちの「価値」があるのです。そして私たちが愛されているので、7節に記されているように、私たちは恵みとして「救い」を受けることができるのです。

このように「神の愛と恵み」に私たちの「救い」はかかっているのですが、それにかかっているのならば、「この救いは強くない」と感じるかもしれません。確かに自分のことを考えると「愛される価値がある」と思えないかもしれません。でもそれ以上に神の愛は大きいのです。その大きな神の愛による恵みで、信じるすべての者が救われるのです。信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「福音にあずかって」   フィリピの信徒への手紙1:1~6(新約P361)  2017年5月21日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節~6節です。フィリピの信徒への手紙の最初の部分から学んでまいりましょう。

パウロの手紙の書き出しは、普通あいさつの後、その宛先の教会を褒めることが多いようです。この手紙もそうですが、他の教会への手紙に比べて簡潔です。これは、フィリピの教会が褒めることが少ないということではなく、むしろありすぎる褒めるところの中から、パウロが特に褒めたいところが記されていると考えて良いと思います。それは何かというと、5節に記されていますが「フィリピの教会が福音にあずかってきた」ということでした。

では「福音にあずかる」とはどういうことでしょうか。1つは、福音によって救いを受けることです。主イエスを信じて救われること、それが福音の説くことです。それが福音(良き知らせ)の目的なのです。またこの箇所から読み取れることですが、福音を伝えることが福音にあずかることでもあります。信じて救いを受けて、福音を宣べ伝え広めることが福音にあずかることなのです。そしてパウロがコリントの教会に送った手紙の中で、福音にあずかるために「福音のために、わたしはどんなことでもする。」と記しています。福音を宣べ伝え、福音を広めるためにどんなことでもするという思いをもっていくということが「福音にあずかる」ことに含まれています。主イエスキリストを信じて救われ、福音を宣べ伝えて広めること、そしてそのためにどんなことでもすると考えていくということが福音にあずかって歩むことなのです。

フィリピの教会は祝福された教会だったようです。どうして祝福された教会になったのでしょうか。それはフィリピの教会が「福音にあずかって」きたからでしょう。私たちも福音にあずかって歩んでいきましょう。この働きは、共に始められた主が、ご自身の来られる日までに完成させて下さいます。福音にあずかって、主と共に歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の愛からすべてが」 ヨハネによる福音書15:11~17(新約P199)  2017年5月14日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書の15章11節~17節です。本日の箇所にはいくつもの注目すべき言葉があります。以前、16節の「わたしがあなたがたを選んだ」という言葉を中心にメッセージをしましたが、今日は神の愛から導かれる主の恵みを見ていきたいと思います。

今日の聖書の箇所の中で「互いに愛し合いなさい」との命令が2回出てきます。繰り返されていることはこの命令が重要であることを示しています。そしてその重要な命令の前提として「神が私たちを愛して下さった」と12節に記されています。これが主のすべての導きの出発点なのです。愛される資格のない私たちを、まず主が愛して下さいました。愛して下さるゆえに、友と呼ばれるに値しない私たちを友と呼んで下さいます。その愛のゆえに選ばれる理由のない私たちを選んで下さったのです。その愛は大きく揺らぐことはありません。それを信じて歩み続けましょう。

そしてその主の愛から私たちはいろいろなものを得ることができるのです。愛されるがゆえに、愛することができます。つまり愛し合うことが可能なのです。愛されているから喜びに満たされます。また愛されているがゆえに私たちは主のために働くことができるのです。木は実を結ぶことによって役に立ちます。私たちも主につながって愛を注がれて、主のために実を結ぶことができるのではないでしょうか。主に愛されている私たちにとって、主のために役立つ者とされることは、何よりも大きな喜びです。主が私たちを愛して下さっておられるのですから、主が実を結ばせて下さるでしょう。そしてその実が残るようにもして下さるのです。16節によると、実が残るように主は私たちの祈りを聞いて下さることが約束されています。感謝いたします。

私たちが主に愛されているという事実はこれからも変わりありません。ここから主に導かれて、愛し合い、主のために実を結んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「必要を満たす神」  フィリピの信徒への手紙4:15~20(新約P366)  2017年5月7日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙4章15節~20節です。今日はこの個所から、特に19節を中心に学んでみましょう。

このフィリピの信徒への手紙をパウロが書いた理由の1つは、フィリピの教会からパウロに贈られた支援に対してのお礼でした。パウロはフィリピの教会からの支援をとても喜んでいます。ただ今日の箇所の少し前の11節には「物欲しさにこう言っているのではありません。」と記しています。これはパウロがやせ我慢しているのではなく、むしろパウロがどんな時も主によって支えられ、守られた体験からくる証しです。ではパウロはなぜこのように喜んでいるのでしょう。14節を見ると「苦しみを共にしてくれた」とあり、18節には「神が喜んで受けてくださる」とあります。フィリピの教会の人たちがパウロと同労の友となったこと、そして神を喜ばせる働きをしたことをパウロは喜んでいるのです。それはフィリピの教会のさらなる祝福につながるのです。

さて19節を見ましょう。ここでは「神の力によって私たちの必要が満たされる」ことが読み取れます。私たちにとって「必要」なのはどういうものでしょうか。1番最初に思いつくのは「生きるために」欠かせないものです。イエス様は「父なる神は生きるのに必要なものはご存じだ」と言われます。そして確かに「生きるのに必要なもの」は与えられるのです。感謝いたします。ただパウロは「自分が」生きるのに必要だから求めるというような思いではなく、むしろパウロは「主のために」生きるのに必要なものを求めているのです。この手紙の1章21節でパウロは「わたしにとって生きるとはキリストであり」と記しています。主のために生きるパウロに必要は満たされるのです。

私たちも主のために伝道したり、奉仕したり、証ししたり、また献げたりいたします。それらに必要な力は主が与えてくださいます。感謝して主のために歩んでいきましょう。私たちの必要を満たす神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の恵みと知識によって」  ペトロの手紙Ⅱ3:14~18(新約P439)  2017年4月30日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はペトロの手紙Ⅱの3章14節~18節で、この手紙の終わりの部分です。この個所から主のみ言葉を学んでまいりましょう。

聖書にある手紙は「迫害にあっている人を励ます」ものや「間違った教えに惑わされないようにとの警告」であるものが多くあります。この手紙もそういう目的で書かれています。特に今日の箇所は「偽教師の教えに惑わされないように」という警告が読み取れます。ペトロの同労者であり、同じく使徒であったパウロも同じことを手紙に記しているとあります。この時代のクリスチャンたちは皆同じような問題に悩まされていたのでしょう。そのパウロの記した教えについては「難しく理解しにくい箇所」があるとあります。そしてそれを曲解してしまうことに対して強く警告しています。これは自分本位で考えるのではなく、神の導きで主の思いを求めていくことが勧められているのでしょう。

そして18節には「主の恵みと知識によって」成長することが勧められています。「知識に」よってとは、1つは主を知ることという意味があります。主について知り、交わることが大切であって、私たちはそのことによって成長できるのです。また弱い私たちの「知識」では全く心持ちません。主の「知識」を求め、祈りつつ歩むことが大切なのです。また「恵みに」よって成長する必要があります。私たちは日々の歩みの中で多くの恵みを受けています。その多くの恵みに満たされて歩むことが成長につながります。多くの人たちが、主と共に主の恵みに満たされて歩むうちに、成長していることに気づかされるというような体験をしているのです。また「恵み」ということから、主が一方的に私たちを愛し、私たちを成長させて下さることが分かります。「主の恵みと知識によって」成長させられて歩んでいきましょう。

私たちの信じる者としての歩みも、困難があります。主によって成長させられて困難を乗り越えて歩んでまいりましょう。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に喜ばれるために」 エフェソの信徒への手紙5:8~14(新約P357) 2017年4月23日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙5章8節~14節です。ここから特に10節を中心に学んでまいりましょう。

まず注目したいのは、8節にあるように私たちは「光」とされているということです。もとは、私たちは「暗闇」でしたが、主によって「光」とされたのです。ただ私たちはもとは「暗闇」です。光っていないのです。本日の箇所の後半の13節~14節を見ると私たちは「照らされている」のです。主に照らされて「光」とされているのです。主の恵みに感謝いたします。

そして10節を見ましょう。「光」である私たちは、何が主に喜ばれるかを吟味しなくてはいけないのです。このことを考えると案外難しいことのように思います。私たちは、他の人を喜ばせようと思って行動しても、それが相手の喜びにならなかったというようなことを経験していたりするでしょう。人と人との関係においては、よく考えて行動しないとせっかくの好意が無駄になることもありえるのです。ただ、神との関係においてはそんなに躊躇しなくてもよいのです。なぜかといえば「主は私たちを愛しておられる」からです。私たちも、自分の愛する人から何かしてもらったとすれば、それがどんなものでも感激するでしょう。私たちの主は私たちをこの上なく愛してくださっています。私たちの神に対する行為ならどんなことでも喜んでくださるでしょう。

では「何をしたら」を吟味するのでなければ、何を吟味するのでしょう。それは「主に喜ばれるために」という思いを、私たちが持ち続けているかを吟味するのではないでしょうか。私たちは主のために、祈り、献金し、伝道し、奉仕し、証しし、その他いろいろなことをします。それをいつも心がけて「主を喜ばせるために」歩んでいるかを吟味するのです。私たちは油断するといつの間にか「自分を喜ばせるために」歩んでいます。「光」とされて「主に喜ばれるために」歩んでいきましょう。主は必ず私たちを祝福してくださるはずです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活された主によって」 ルカによる福音書24:25~35(新約P160) 2017年4月16日 大竹敏生

 

本日はイースターです。私たちのために十字架にかかって死んでよみがえられた主に感謝し、主の復活を喜びつつ神のみ言葉から学びましょう。

今日の聖書の箇所はエルサレム近郊の町エマオに向かう弟子たちに、復活された主イエス様が現れた個所です。イエス様が十字架にかかって死に、復活されたことは、かねてから主が言われていたことでした。そしてこのエマオに向かう弟子たちは、天使から「主が生きておられる」と告げられた婦人たちの話も聞いていたのです。にもかかわらずこの弟子たちは、逃げるように夕刻にエルサレムを去りエマオに向かっていたのです。

主の復活を信じられない弟子たちに話しかけ、25節からはその不信仰を嘆きつつも弟子たちに語りました。語られた内容については「私は復活した」というようなことは言わず、旧約聖書から自分すなわちイエスキリストについて書かれていることを説明したとあります。その後、弟子たちはエマオについて、賛美の中でイエス様からパンを渡されたときにイエス様だと分かりました。これはこの弟子たちの信仰がイエス様によって回復させられたことを示しています。しかもこの信仰の回復は弱かった弟子たちに力を与えました。復活の情報を聞いても信じられず、逃げ出したこの弟子たちは32節では主との交わりの中で「心は燃えていたではないか」と語り合い、逃げ出したエルサレムに、夜道の危険を顧みずに戻って行ったのです。エルサレムに着くとすぐに復活の主を証ししました。復活の主によって無くなりそうだった信仰が回復させられ、力強い証し人とさせられたのです。

復活された主は今も生きておられます。そしてこの弟子たちのように弱い私たちにも力を下さるのです。私たちもこの弟子たちのように弱くなったりすることもあるかもしれません。でもこの弟子たちのように主によって回復させられるのです。そしてこれからも主を喜び、証しする者でありたいと思います。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしを信じる者は」 ヨハネによる福音書14:1~14(新約P196)  2017年4月9日 大竹敏生

 

本日は今年のイースターの前の主日で「棕櫚の主日」です。そして今日から今年の受難週になります。本日はイエス様が十字架にかかる直前になされたといわれる「告別説教」から神の導きを受けていきましょう。

本日の聖書箇所の一番初めに「心を騒がせるな」とあります。聖書にはこういう命令がかなり多く出てきます。他の箇所では「思い悩むな」とか「思い煩うな」とか記されていたりします。数多く出てくることで分かりますが、これは私たちにとって実は意外と大切なことなのです。今日の聖書箇所では心を騒がせなくてよい理由として、この世での歩みを終えた後に、私たちに住まいが備えられていることが挙げられています。これは永遠の生命が与えられるということで、つまり私たちの救いを意味しています。確かに救いは信じる者に与えられる恵みです。私たちは主を信じて救いを受けて歩む必要があるのです。

ただ「心を騒がせるな」という命令はそのことだけで解決できるのでしょうか。「心を騒がせる」のは、私たちの罪ゆえの弱さがさせるので、罪からの救いは関係があるといえます。ただ、その弱さからくるいろいろな「心を騒がせる」要因の解決はどうなるのでしょうか。本日の聖書箇所の終わりの部分には、信じる私たちには「願うことは何でもかなえられる」ことが約束されています。今日の聖書箇所のもう少し後のヨハネよる福音書の16章の終わりには「私たちはこの世では悩みがある」ことが記されています。この世にある限り、罪ある私たちは心を騒がせたりするでしょう。でも私たちには、祈りを聞いて下さる神がおられるのです。主を信じて、神に守られ、主にある平安の内を歩んでまいりましょう。

私たちの主である愛のイエスキリストは、全知全能の父なる神と助け主なる聖霊と一体のお方です。私たちは信じる者として、このすばらしいお方を信じて、このお方を証しし、この方のために歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストに根ざして歩め」 コロサイの信徒への手紙2:5~7(新約P370)  2017年4月2日 大竹敏生

 

本日は2017年度最初の主日礼拝です。2017年度の主題聖句はコロサイの信徒への手紙2章7節です。この個所を中心に神のみ言葉から学びましょう。ちなみに今年度の主題は「キリストに根ざして歩め」で説教題と同じです。

今日の箇所の6節には「キリストに結ばれて」とあります。7節の「キリストに根を下ろして」とどこが違うのでしょうか。意味にそれほど大きな違いはないと思われます。ただ「根を下ろして」は「根ざして」ですから、こちらの方がより強い結びつきを感じます。「結ばれて」は「根ざして」に発展していくのです。主によって「キリストに根ざして」歩みましょう。

「キリストに根ざして」という言葉からいくつかのことが分かります。根が無いと植物は生きていけません。私たちが主にあって霊的に生きていくためにキリストに根ざして歩む必要があるのです。また植物は根によって生きるだけではなく成長していきます。小さな種はいつか根を張り、大きく成長していきます。7節には「造り上げられ」とありますが、これは成長していくことです。私たちもキリストに根ざして成長していくことができるのです。また「根ざす」ということは当然根が下にあります。植物は根ざす地によって支えられるように、私たちはキリストによって支えられるのです。キリストに根ざすことによって支えられ、成長し、命が与えられながら歩みを進めましょう。

では「キリストに根を下ろす」「キリストに根ざす」ために具体的にどうしたら良いのでしょうか。5節と7節に「信仰」という言葉が出てきます。この「信仰」が私たちをキリストに根ざして歩ませるのです。信仰をもって歩みましょう。また7節に「感謝」という言葉が出てきます。この「感謝」も私たちをキリストに根を下ろさせるのに大切です。「感謝」は終わりではなく、神との関係を続けさせるのです。信仰をもって感謝しつつ歩みましょう。主と共に歩むとき私たちは感謝と喜びに満たされ、キリストに根ざして歩めるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じる者を義とされる」 ローマの信徒への手紙3:21~26(新約P277) 2017年3月26日 大竹敏生

 

本日は伝道礼拝です。導かれた聖書の箇所はローマの信徒への手紙3章21節~26節です。ここから主を信じることによる救いを見たいと思います。

私たちはどうしたら救われるのでしょうか。一般的には、その人の死ぬまでの行ないが問題になると考えている人が多いのではないでしょうか。つまり「この世で善い行ないをすれば天国に行けて、悪い行ないをすれば地獄行き」というように考えている人が多いということです。聖書ではそうではなく「主なる神を信じることで救われる。」と教えてくれているのです。ただこのローマの信徒への手紙が書かれたころのクリスチャンたちの中には「律法による行ない」が救いの条件と考えていた人が多くおりました。それに対してこのローマの信徒への手紙の著者パウロは「行ないではなく信仰による義」を強く主張しています。私たちは「主を信じる信仰」によってのみ救われるのです。律法は私たちの現実を示しています。私たち誰もが罪を持っており、その罪により誰一人律法を守ることができないのです。

そんな罪がある私たちが、なぜ「主なる神を信じること」で赦され、救われるのでしょうか。罪は私たちを主なる神から引き離しました。私たちは神に帰らなければなりません。罪がある私たちが「主なる神を信じること」で神に戻ることができるのではないでしょうか。信じて歩みましょう。

主なる神は罪を憎む方です。私たちは罪ある者です。私たちも神の憎しみの対象なのです。ですがそれ以上に私たちを愛して下さる神が、ご自身の子であるイエス様を私たちを救うためにこの世に送って下さったのです。私たちの代わりに十字架にかかってくださったのです。神はそれくらい罪を憎んでいましたが、それ以上に私たちを愛して下さいました。それを信じるべきです。私たちの罪を赦し、私たちを救うために十字架にかかって下さった主イエスキリストを信じることが、それに対する私たちができる唯一のことです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神御自身が」 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:16~24(新約P379)  2017年3月19日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はテサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章16節~24節です。この中でも特に16節~18節はよく知られた箇所です。その有名な箇所を含むこの箇所から、愛の神が私たちを成長させて下さることを学びましょう。

テサロニケの信徒への手紙Ⅰの特徴の一つとして、いわゆる再臨の記述が多いことがあります。イエス様がまたこの世に来られることは確かです。その再臨についてテサロニケの教会の人たちは間違った理解をしていたのかもしれません。イエス様は再びこの世に来られることを約束されました。ただ何時再臨なのかは語られませんでした。テサロニケの教会の人たちは再臨がもう来るように考えていたようです。こう考えることは別に悪くはありません。この手紙の著者パウロもそう考えていたかもしれないのです。ただ「再臨がすぐ来る」と考えても問題は無いのですが、人は弱いのです。そう考えることで必要以上に不安になったり、生活が怠惰になったりしている問題がテサロニケの教会の人たちにあったようです。そこが問題でした。

パウロ指摘していますが、私たちは再臨が何時なのかは知らなくても良いのです。ただ何時再臨があっても良いようにしておかなければなりません。どうしたら良いのでしょうか。今日の箇所の16節~18節にかけて「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」とあります。このことは主なる神を信じていなければとうていできないことです。再臨に備えて私たちは、思い煩ったりせずに信じて歩むことが大切なのです。

信じて歩むときに、私たちは主に喜ばれる歩みができるでしょう。私たちの歩みは主の高みを目指す歩みです。私たちは成長していかなくてはなりません。23節~24節を見ると「神御自身が」それをしてくださるとあります。私たちはそのことを信じて歩まなくてはいけません。愛をもって神御自身がしてくださることを信じて歩むとき、成長と共に祝福が与えられるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主は今も我が内に」 コリントの信徒への手紙Ⅱ13:4~10(新約P341) 2017年3月12日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ13章4節~10節で、この手紙の終わりのところです。ここから特に、主が今も生きておられ、私たちの内におられることを見ていきましょう。

「今から二千年前の人の福音が現在に通用するのですか?」こんな質問を受けたことがあります。時代は移り変わりました。教会もそれなりに変わってきたでしょうし、変わらなくてはならないものもあるでしょう。でも福音は変わらなくてよいのです。人は昔も今も罪があります。自分でその罪の問題を解決した人はいません。信仰による救い以外ありません。福音は罪に対して今でも唯一通用するものです。感謝いたします。また主イエスキリストは今から2千年前に存在しましたが、十字架で死んで復活されて今も生きておられるのです。昔から罪人だった人間に対して今も生きておられる神です。主の導きによる聖書も今も私たちに語ってくださるのです。

主は今も生きておられます。ではどこにおられますか、主なる神は「天」「私たちと共に」「私たちの近くに」おられるとか言われます。そしてそれはすべて正しいのです。今日の聖書箇所からは、主は「私たちの内に」おられると記されています。「内」ということは、これ以上近くは無いのではありませんか。弱い私たちの一番近くにいてくださるということは、神は私たちをこれ以上ないほど大きく愛して下さっていることを示しているのです。愛の神が私たちの内におられるので、私たちは守られるのです。また今日の聖書箇所にはコリントの教会の人たちの罪から悪が出てきていることがうかがえます。パウロは、もし主が私たちの内におられるならば悪から離れることができるはずだと記しています。罪はいつも私たちを悪に落とし、神から私たちを離れさせようとします。しかし主は私たちの内にいます。そのことを信じて歩んでいきましょう。主を信じて、主に守られ、助けられ、これからも喜びつつ進みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストに結ばれて」 コロサイの信徒への手紙2:6~10(新約P370)  2017年3月5日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコロサイの信徒への手紙の2章6節~10節です。この箇所を通して神のみ言葉を学んでまいりましょう。

このコロサイの信徒への手紙は、コロサイの教会の正しい福音に対して、偽りの教えが入り込んだことをパウロが心配して書いた手紙と言われています。今日の箇所の後半部分はそのことと関係しているのかもしれません。イエスキリストは神の子であり、人間でした。それを否定するような教えがコロサイ教会に入ってきたようです。9節にはそれが記されています。このキリストは私たちを満たしてくださる方であり、すべての支配や権威の頭であると10節に記されています。イエスキリストこそ、神の子でありながら人となって私たちを救うために来てくださったお方です。感謝いたします。

このキリストに私たちは結ばれていく必要があります。6節にはそのことが記されています。その6節に「キリスト・イエスを受け入れた」とあります。この「受け入れた」は「信じた」ということでしょう。ただ「受け入れた」という言葉には何か「異質なもの」「未知なもの」を体験し、自分のものとしていくような意味合いを感じます。ある種の恐れや不安をおぼえつつ自分のものとしていく感じです。それは信仰と同じです。そして6節では続けて「キリストに結ばれて歩め」と命じられています。それは「受け入れたのだから」です。この意味の1つは、信じた者のあるべき姿だということです。受け入れた私たちはそれにふさわしくキリストに結ばれて歩みましょう。もう1つの意味は「受け入れ続ける」のは罪ある私たちには簡単なことではありません。でも「キリストに結ばれて」歩むことによってそれができるのです。

では「キリストに結ばれて歩む」とは具体的にどういうことしょうか。それは主と共に歩むことでしょう。「祈ること」「感謝すること」「教会の交わりに集うこと」「聖書を読むこと」などです。キリストに結ばれて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「成長させられて」  コリントの信徒への手紙Ⅰ3:4~9(新約P302)   2017年2月19日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰの3章4節~9節です。この個所を通して神のみ言葉に耳をかたむけてまいりましょう。

コリントの信徒への手紙を読むとき、ⅠにしてもⅡにしてもコリントの教会に分裂分派の問題があったことを押さえておく必要があります。本日の箇所もそうです。「パウロが植え、アポロが水をまいたが、成長させたのは神」と理論が展開されていますが、この手紙の最初に書かれていたことを受けたかたちになっています。「パウロでもアポロでもなく成長させた神」へと目を向けさせ、分裂分派を非難しているのです。

ただそういう問題は無かったとしても「成長させる神」を意識して歩む必要があります。私たちは信仰を持って歩み続け成長し続ける必要があります。今日の箇所では成長するのは「あなたがた」で、つまりまず思いつくのは「教会」です。確かに「パウロが植え、アポロが水をまいたが、成長させたのは神」と記されているのはコリントの教会のことです。ただ「教会」というのは私たち一人一人の集まりです。ここでの成長は「人」の成長なのです。「教会」も「人」も成長させるのは神なのです。ただ成長させるのは神なのですが、神は「人」を愛しておられ「人」を用いてくださるのです。神は「教会」も「人」も愛しておられ、成長させてくださるのです。

なぜ成長させられるのでしょうか、それは「教会」も「人」も神の畑、神の神殿として神に用いられるためです。ただそれは決して神のみのためではありません。「教会」と「人」が成長させられるのは私たちのためでもあるのです。成長させられて「教会」も「人」もさらに祝福されるでしょう。神は「教会」も「人」も愛しておられ、私たちの祝福のために成長させて下さるのです。

成長させて下さるのは神です。自分たちの力で成長はできません。私たちを愛して下さる神によってこれからも成長させられていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「期待すべき方に望みを」  ペトロの手紙Ⅰ2:1~8(新約P429)  2017年2月12日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰの2章1節~8節です。その6節の言葉を中心に主のみ言葉を学んでいきましょう。

6節は旧約聖書のイザヤ書28章16節からの引用です。ただこの箇所は正に預言ですが、予言でもあり、ここに出てくる「石」はイエスキリストのことです。それを「信じなさい」と命じているのです。これに信頼する者は「失望することはない」のです。この「失望することはない」とは単純に「希望通り成る」ということばかりではありません。主によって「最善が成る」のです。弱い私たちが主に望みを置いて歩み続けることが大切です。

「信じる」ということは「信頼する」「望む」「期待する」などの意味を含んでいます。これらはそんなに難しいこととは思えないかもしれません。しかしこれができないのです。ついつい「自分」や「目に見えるもの」を信頼してしまうのです。でも本当に私たちか信ずべき方は主なのです。私たちは実際どういう方に信頼し、期待し、望みをおくでしょう。それはまず力がある方です。弱い私たちが厳しい状況を迎え、望みをおくのは力ある方です。全知全能の神には誰よりも大きな力があります。また私たちが望みをおく方には愛がなくてはなりません。その力を私たちに向けて下さる愛が必要なのです。主なる神は愛の方です。力と愛を兼ね備えた主に期待しましょう。

ではどうしたら主を「信頼する」ことができるでしょうか。1つは主を知ることです。主の愛と力を知ればそこに信頼をおけるでしょう。そして主を知るために主と共に歩み、主の愛と力を体験しましょう。またもう1つあります。実は主が私たちを信頼し、期待しています。それは主が私たちを愛しているからです。ということは私たちが主を愛することによって主に期待し、望みをおけるのではないでしょうか。私たちが歩み続ける中で主に期待していきましょう。主こそ期待すべき方であり、この方に望みをおく必要があるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が一つにして下さる」 エフェソの信徒への手紙4:1~8(新約P355)   2017年2月5日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙4章1節~8節です。この箇所から主のみ言葉を学んでいきましょう。

今日の聖書箇所の3節にもありますが、聖書では多くの箇所で「一致」が勧められています。つまり聖書は「キリストにあって一つとなること」を推奨しています。そしてそれは神から招かれている私たちの務めなのです。

「一致する」「一つとなる」と言いますが、決してたやすくできるものではありません。7節を見ますと、私たち一人一人に賜物が与えられていることが分かります。私たちは一人一人が別々の個性をもっているのです。それぞれ別々のものが一つとなるのは決して簡単ではないのです。その難しいことを成して下さるのが、私たちの頭となって下さる主なのです。私たちは主を頭と仰いで一つとなる必要があります。私たち一人一人が今、主を信じて、主を仰いで一つとされていきましょう。そして主のために歩んでいきましょう。

では私たちは何故に「一つとなる」必要があるのでしょうか。本日は今年の日本バプテスト連盟の「協力伝道週間」の最終日です。なぜ一つ一つ個性をもつ連盟の教会が協力するのでしょうか。それは一つの教会ではできないことを協力して行なうためです。それと同じように私たち一人一人も罪ゆえに「弱い者」です。そうです。罪赦された私たちでも一人では弱いのです。だから「一つとなって」歩む必要があるのです。主の御用を成していくためにも、主によって一つとされて歩みましょう。またその「主によって一つとされていくこと」は、そのことが「喜び」なのです。一つとなることは困難です。しかし主によって一つとされていく時、それは私たちにとって恵みであり、祝福であり、そして間違いなく大きな喜びなのです。

主によって一つとされることは私たちの喜びです。そしてそれは主なる神の望んでおられることです。一つとされ、主と共に喜びの歩みを続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「先立つ主に従え」   マタイによる福音書28:5~10(新約P59)   2017年1月29日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書28章5節~10節です。ここから主のみ言葉に耳を傾けていきましょう。

今日の聖書箇所はいわゆる「復活」の箇所で、イースターによく取り上げられる箇所です。ただ今日はここから我らに先立って歩んで下さる神の愛を考えます。7節や10節に「ガリラヤ」という地名が出てきます。弟子たちの多くがこの「ガリラヤ」が故郷です。そこに主は「先に行っている」とエルサレムにいる弟子たちに言うのです。イエス様が「先に行く」というのは意味があります。1つは「危険を取り除く」ということです。先立つ神は後から行く者たちのために整えて下さるのです。また「先に行って待っておられる」のですから、そこに行くと主は我らと共におられるのです。そして「先に行く」のは来ることを信じているのです。この時の弟子たちの状況は、先にガリラヤに行かれる主の「来よ」の命令にすぐに応えられるとは言い難いものでした。復活を信じられず、おびえて、身を隠しておりました。そんな弟子たちに先立って歩む神は、弱い弟子たちを守り、共に歩み、信頼しておられるのです。ここに主の大きな愛を感じることができます。

私たちの歩みもそうです。神はいつも私たちに先立って歩んで下さるのです。弟子たちはその罪ゆえに弱かったですが、私たちも罪人です。同じように、いやそれ以上に弱いのです。でも弟子たちは主に愛されていました。私たちも同じく愛されています。弱い私たちが何かを行なう前におびえてすくんでしまうときも、神は先立って私たちを守ります。そして私たちと共に歩んで導いて下さいます。また私たちが先立つ主に従い、主のために歩むことを信じて待っていて下さるのです。先立つ主の守りと、共に歩んで下さることと、私たちを信頼して下さることを感謝いたします。先立つ愛の主に従って歩んでまいりましょう。それが主の愛に応えることになるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救うのは神」   ローマの信徒への手紙7:13~25(新約P283) 2017年1月22日 大竹敏生

 

本日は伝道礼拝です。聖書の箇所はローマの信徒への手紙7章13節~25節です。この箇所から主なる神の愛による救いを学んでいきましょう。

「私たちは罪人です。」こう言われると素直にうなずけない人も多いでしょう。罪を犯した覚えはない人の方が多いと思います。また聖書から現実に「私たちは罪人なのだ」と言われても「その責任は私が負うのか」と言いたくもなるでしょう。でもこう考えましょう。「罪は病気」と言います。病気は治さなくてはなりません。私たちも現実にある罪を解決しなくてはならないのです。

今日の箇所の少し前の6章23節に「罪の支払う報酬は死である」とあります。私たちは罪の問題を解決しなくては「永遠の滅び」に至るのです。罪の問題が解決されれば、肉体は死にますが主によって「永遠のいのち」が与えられるのです。また罪の問題はそれだけではありません。今日の箇所には、罪によって「したいことができず、したくないことをしてしまう」という実態が記されています。善いことをしたいと思ってもできずに、したくない悪を行なってしまうというのです。そしてこの手紙の著者のパウロはそれを「なんというみじめな人間なのだろう」と嘆いています。現在も罪は私たちをむしばんでいるのです。その問題も主は負って下さるのです。

私も教会に通い始めたころ、ある時自分が特にしたくないと考えていた「高慢」という悪に陥り、こういう生き方はしたくないと考えていた「感情をコントロールできないような歩み」をしている現実に直面しました。情けなくてみじめで立ち上がることができないような思いでした。自分で自分を好きにはもちろんなれず、受け入れることもできない状態でした。すべてが否定されましたが、ただお一人イエスキリストの愛だけが私のよりどころでした。

パウロも言っています。罪に悩みみじめな私たちを救うのは神だけです。神を信じて罪を解決して救われましょう。信じる者を救う神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らの内に働く神」  フィリピの信徒への手紙2:12~18(新約P363)  2017年1月15日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙2章12節~18節です。この箇所から主なる神の愛による導きを覚えていきましょう。

今日の箇所もそうですが、前の箇所から「従順」ということが一つのテーマになっています。この「従順」は前の箇所の8節には「主自らが従順だった」とあります。つまり私たちが「従順」であるということは、模範である主に倣うことになるのです。12節によるとその「従順」は私たちを救いの達成に導くとあります。主に倣って「従順」に歩みましょう。

13節を見ますと神が私たちの内に働いて、御心を行なわせて下さることが分かります。私たちが神に用いられるとき、誤解してしまうことがあります。私たちは神に用いられるのですが、それは何か「道具」のように用いられると思っています。確かにそうです。私たちは神のために「道具」や「器」のように用いられるのです。ただ普通の「道具」や「器」は「意志」や「考え」などを持っていません。それに対して私たちには「意志」や「考え」や「思い」があります。それは神からの賜物です。「道具」や「器」がおのれのすべてを通して働きますが、私たちもおのれのすべてを通して神のために働きます。「意志」や「考え」を持ちつつ働くのです。13節には神が私たちの内に働いて、望ませたり、考えさせたりするとあります。これは神の愛です。神は私たちに愛をもってすべてを与えました。そのすべてを用いて働かせて下さるのです。

神が私たちの内に働くとき、私たちは神の御心の実現のために働くことができます。神の御心とは何でしょうか。それは「神の」とありますが、私たちのためなのです。愛をもって私たちに与えられた賜物を、神が私たちの内に働いて用いて下さり、神の御心、実は私たちのための愛の計画を成して下さるのです。感謝いたします。これからも神に内に働いていただいて、神の御心のままに用いられて歩みましょう。内に働いて下さる神さまに感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストの体」  コリントの信徒への手紙Ⅰ12:12~27(新約P316)  2017年1月8日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰの12章12節~27節です。聖書にはいろいろなところで「教会はキリストの体」と記されています。本日の箇所もその一つです。ここから主のみ言葉を聞きましょう。

聖書には「教会はキリストの体」とあります。そして私たちはその体の部分だとあります。そして他の聖書箇所には「キリストは教会の頭」とあります。キリストは教会の頭であって、キリストの体を形成しているのです。つまり私たちは頭であるキリストのために、キリストの体の部分として、キリストのために働くのです。主のために働けることを感謝いたします。

私たちはキリストの体の部分なのですが、本日の箇所では、まずどの部分も同じように大切であり、どれもキリストの体の部分であることが記されています。どの部分も大切だということは、そこに上下は無いということです。上はただお一人主なるキリストだけなのです。そしてそこにあるキリストの体は、決して完璧なものではありません。コリントの教会にパウロは何度も警告しています。それは「分裂しないで、一つとなれ」とです。完璧ではなく弱い私たちはコリントの教会のように一つとなれないことがあるかもしれません。キリストにあって一つとなって歩んでまいりましょう。また26節を見ると部分は苦しむことがあるのです。もし完璧ならば苦しむことはありません。罪ある私たちは苦しむのです。でもキリストの体である私たちはその苦しみは部分ではなく、キリストの体全体が苦しむとその26節に記されています。キリストの体全体が苦しむということはキリストも苦しんでおられるのです。ここに愛があるのです。不完全でありながらキリストの体の部分として下さって、共に歩んで下さり、働かせて下さるのです。自分の弱さを思うと落ちこんでしまうように感じることもあります。しかしキリストは体の部分である私たちを愛し、弱さを無視せず、むしろ共有し働かせて下さるのです。その愛に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられている賜物」  マタイによる福音書25:14~30(新約P49)  2017年1月1日 大竹敏生

 

本日は2017年の最初の日で、元旦礼拝です。そして本日は主日ですから、本日の礼拝は2017年最初の主日礼拝となります。今年も主に守られ、祝福されますように祈りつつ、神のみ言葉に聞いていきましょう。

本日の聖書箇所は有名な「タラントンのたとえ」と呼ばれる箇所です。3人のしもべが主人からそれぞれ5,2,1タラントンのお金が預けられました。二人がそれぞれ倍にして返しましたが、一人が地に埋めといてそのまま返したということが記され、そのまま返したしもべが主人から追放されるというたとえ話です。ここで自分に当てはめると、お金であればそのまま返す気持ちも分かります。お金は無くなったり、減ったりします。ただこれはお金にたとえられていますが、実は私たち一人一人に与えられている能力のようなものです。無くなりません。この能力は神からの愛の賜物であって、私たちはむしろ喜んで用いる必要があるのです。追放されたしもべは主人を誤解しており、賜物を喜ばずに地に埋めたのです。私たちはそうなってはならないのです。

この話から賜物について分かることがあります。1つは、私たちに与えられている賜物はとても価値が高いということです。タラントンという単位のお金です。1タラントンで何十年もの年収にあたります。また賜物は誰にでも与えられています。主人との関係に問題がありそうなしもべにもタラントンは与えられました。私たちに価値ある賜物をくださった方は愛をもって私たちに賜物を下さいました。それを信じましょう。そして喜びましょう。そして用いていきたいと思います。この話からまた賜物をどうすることが良いのかも分かります。賜物はもちろん用いることが大切です。そしてその用い方ですが、二人の僕は主人のために用いたのです。主人を愛していたのでしょう。私たちも与えられた賜物を主のために用いるとき、主は喜んでくださり、さらに祝福されるでしょう。今年も主のために賜物を生かして歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「クリスマスに我らも」  マタイによる福音書2:1~12(新約P2)   2016年12月25日 大竹敏生

 

本日の礼拝は今年のクリスマス礼拝となります。マタイの記したイエスキリストのご降誕のよく知られた箇所から学んでいきましょう。

東方から星に導かれてやってきた占星術の学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれに方は?」と尋ねてきました。それを聞いたヘロデ王は不安にかられます。誕生したメシアは確かに「ユダヤ人の王」とされていますが、むしろ私たちの罪を赦すお方で、救い主だったのです。ヘロデは内面の不安と恐ろしいたくらみを隠して「見つかったら知らせてくれ」と博士たちに頼むのでした。主の導きによって、博士たちはヘロデのところに戻らないで自分の国に帰っていき、その結果、ヘロデは残虐な行為をしでかしたのです。人の罪は本当に恐ろしいものです。やはり人間は救われなくてはならない存在なのです。

このようにヘロデは誕生したメシアを単なる「ユダヤ人の王」と考え、自分にとって害となる存在と認識しました。大きな思い違いでした。「救い主は何のために誕生した?」「誰のため?」という問いに対してどう答えるでしょうか。ある人は「私たちのため」またある人は「あなたのため」と答えるでしょう。どちらも正解です。救い主はすべての人の罪を赦すために誕生されました。すべての人、一人一人を愛し、救って下さるのです。感謝いたします。

博士たちはこういう救い主をかなり正しく理解し、信仰があったのでしょう。神の導きに従って行動しています。そしてその救い主に非常に価値の高い物を贈り物としてささげました。この贈り物を主がどうしたのかは記されていません。ただ博士たちがささげたことが記されているのです。主はささげられたことを喜び、受けて下さったのです。さて救い主は私たち一人一人のために誕生して下さいました。私たちが私たちのために誕生してくださったお方にできることは何でしょうか。それは何よりそのお方を信じることであり、喜ぶことであり、主のために歩むことです。救い主の誕生を感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救い主誕生の計画の中で」 ルカによる福音書1:39~45(新約P100)  2016年12月18日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は、マリアが受胎告知をされた後に。親類であり、バプテスマのヨハネを身ごもっていたエリサベトのもとを訪問した場面です。ここから救い主の誕生の中にあって、マリアに示された主の愛を見ていきましょう。

この箇所の直前の38節を見ますと、マリアは素直にその受胎告知を受け入れたように思えます。ただみ使いへの質問を見ても、そのことによって自分の身に起こる危険や困難を想像していたことは確かだと思います。み使いの答えの中にエリサベトが出てきます。それでマリアは思いついたのか、そのエリサベトのもとを訪れました。このことは神の導きだったと思われます。

マリアは素晴らしい信仰の持ち主でしたが、彼女も罪ある人間です。弱さもあります。救われる必要もありました。先に記しましたが、当然自分の身に起こることが考えられる危険や困難も察していたはずです。マリアがこのエリサベトを訪問したことは、不安の中にあったマリアにとって必要な事だったと思われます。エリサベトが身ごもっていたバプテスマのヨハネは、マリアが挨拶した声を聞いて喜びました。それを受けてエリサベトもマリアに「女の中で祝福された方」と言いました。そういうことを通してマリアは信仰がゆるぎないものとされていき、不安の中にあっても神に信頼することができたのではないでしょうか。有名なマリアの讃歌はこの出来事の直後に、マリアが唱えたものでした。マタイによる福音書を見ると、神はみ使いを婚約者であったヨセフのもとにつかわしました。マリアの不安を理解し、ヨセフとの婚約解消にはいたらせず、そしてこの訪問などでマリアの信仰をさらに強めたのでした。

救い主の誕生は神の偉大な計画の成就です。私たちが救われるのは主イエスキリストを信じること以外ありません。その救い主の誕生なのです。この時、その大切な計画が進んでいたのです。しかし主はそこで悩む女性に目を留め救いました。私たちの悩みも主がおぼえて下さり、必ず助けて下さるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ベツレヘムから出る」   ミカ書4:14~5:5(旧約P1454)   2016年12月11日 大竹敏生

 

旧約聖書には、救い主イエスキリストの誕生のことがいくつか記されています。その中でも今日の箇所は、分かりやすく有名な箇所です。ここから主のみ言葉に聞いていきましょう。

この箇所のイエスキリストの誕生の預言は、生まれる場所が記されています。5章1節にその場所は「ベツレヘム」だとあります。この「ベツレヘム」の地名の意味は「パンの家」です。パンは西洋では特に人が生きるのに必要なものです。つまりベツレヘムという地名の意味は、生きるための糧の家だということになります。私たちに永遠の生命を与えるイエスキリストの誕生の地にふさわしい名と言えるでしょう。また生涯神を信じて歩み、祝福を受けたイスラエルの第二代王のダビデの生まれた町がベツレヘムで、ベツレヘムは「ダビデの町」とも呼ばれているのです。

ただこのミカ書では、ベツレヘムのそういう救い主の誕生にふさわしい面には触れていません。ミカ書で語られるベツレヘムは「いと小さき者」と記されているのです。ふさわしいところではなくて、むしろ「小さい」という負の部分を記しているのです。なぜなのでしょうか。これはイエス様が家畜小屋でお生まれになったことと理由は似ていると思います。どんな小さい者でも、弱い者でも、罪深い者でも救う方だから、いと小さきベツレヘムでお生まれになるということではないでしょうか。感謝をいたします。また小さい町で生まれた救い主ですが、5章3節によれば、救い主の力は大いなるものであり、地の果てまでに及ぶとあります。つまり最も小さい者であっても大きな者にするほどの力を救い主は持っておられるのです。弱い私たちですが、誕生する救い主によって救われ、助けられるのです。愛の神に感謝いたします。

今年も救い主イエスキリストの誕生を祝うクリスマスが近づいてきました。私たちを救い、助けて下さる救い主を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「力と愛をもつ神が」  マタイによる福音書28:16~20(新約P60)   2016年12月4日 大竹敏生

 

本日は今年の世界バプテスト祈祷週間の最終日です。本日の聖書箇所にありますが、全世界に福音が行きわたるようにお祈りいたします。

本日の聖書箇所の18節を見てみたいと思います。そこで主は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と語っています。この「権能」ですが、他の訳では「権威」と訳されています。この「権能」から与えられるイメージは、一つは「力」です。主は大いなる力、全知全能の力を持っておられるのです。もう一つは「権限」でしょうか。主はすべてのことをご自身で決定することができるお方なのです。福音を宣べ伝える働きは、主がその権限により、私たちに託されました。主にとって福音を宣べ伝える働きはとても大切な事なのです。それを私たちに託して下さったのです。それは私たちを愛しておられるからにほかならないのです。力を持ったお方が、愛ゆえに私たちに宣教の業を託されました。感謝します。多くの伝道者や宣教師の方々が、この愛の呼びかけに応えて、世界中に福音が宣べ伝えられてきました。そしてその働きは今もつづいているのです。人の弱さゆえに、時には福音を宣べ伝える働きに支障をきたすこともあるでしょう。主はそんな時も、主が持っておられるその力を与えて下さるのです。最後の20節で主は愛をもって私たちと「共におられる」ことを約束しています。

ここでは確かに「福音を宣べ伝える働き」について記されているのですが、主がその力と愛をもって私たちに臨まれるのは、その時だけではありません。実はいつもそうなのです。主は私たちがどのような状況に陥っても、共にいて下さり、その愛と力によって、私たちを助けて下さいます。助けるに値しないような私たちなのですが、全知全能の力を持っておられる主が、どんな時でも助けて下さいます。いつまでも共にいて下さる主なる神の愛と力を信じて歩みましょう。主は今も共にいて助けて下さっておられるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「イエスの救いの宣言」 ルカによる福音書23:39~43(新約P158)   2016年11月27日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はイエス様の十字架の場面です。ここから主の贖いの救いについて学びましょう。

十字架の記事は4つの各福音書に出てきますが、本日の箇所はルカのみが記している記事です。イエス様と同じ時に十字架に架かった罪人は二人いたようです。そのうちの一人が救われた記事です。この罪人は死刑になるくらいです。おそらくこの時まで多くのそして大きな罪を犯してきたと思われます。でも十字架に架けられたこの時、救われたのです。何をしたのでしょうか。初めはもう一人の罪人と一緒にイエス様をののしっていました。でも最後には彼は自分の罪を認め、イエス様は何も悪いことをしていないことを信じ、神のみ国に立たれるお方だと信じたのです。これが信仰でした。この罪人は死の直前に主を信じたのでした。だから救われたのです。

私たちは誰もが罪人です。そして誰も自分で自分を救うことができません。救い主を信じて罪を赦していただかなくてはならないのです。それしか私たちを救う方法はありません。イエス様は聖書の他のところで救いに関して宣言を何度もしています。「あなたの罪は赦される」「あなたの信仰があなたを救った」などです。ここでもイエス様は苦しい息の中でしたが、はっきりとこの罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されました。それは私たちを救うことができる唯一のお方であるイエスキリストだからできる宣言でした。この世で悪いことをして、死刑になるほどの罪人であっても救うことができるお方なのです。これは救い主の力と、何よりも大きな愛のゆえのことです。感謝いたします。

わたしたちも主の十字架以外に救いはありません。ただ一人、私たちを救うことができるお方は救いを宣言するにふさわしいお方です。そのお方が信じる私たちに救いを宣言して下さっています。主の救いを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたがたは幸いである」 マタイによる福音書5:1~12(新約P6)  2016年11月20日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書5章1節~12節です。山上の説教とか山上の垂訓と呼ばれる箇所の最初の部分です。ここから学びましょう。

ここの箇所を読む時、誰もが目に付く言葉は「幸い」でしょう。「幸い」はうれしい言葉です。人は誰もが「幸い」になりたいと思うのではないでしょうか。ただ「幸い」は誰もが求めますが、決して誰もが同じことで「幸い」と感じるものではありません。人によって、また状況によって「幸い」にもなる時もあれば、そう感じないこともあるでしょう。「幸い」というものはつかみどころが無く、獲得しにくく、コントロールの難しいものと感じます。でも人は「幸い」を求めます。「幸い」は人生の目的でもあるのです。

皆が認める良い状況だから「幸い」と感じるとは限りません。反対もそうです。不幸と思われる状況だからといって不幸とも限らないのです。今日の聖書の箇所には「幸い」がいくつも出てきます。そしてそのすべてが「幸い」とはとても思えない状況なのです。でも主は「幸い」と断言されます。これは主にある「幸い」だからなのです。一見不幸と思える状況でも、愛と力の主は「幸い」にして下さるのです。聖書には「災い転じて福となす」という言葉に当てはまるような話がいくつも出てきます。主の力はそれくらい大きいのです。私たちの状況がどうであれ「幸い」にして下さる神に感謝をいたします。

またこの箇所に出てくる「幸い」を見てみると、愛の主は私たちの置かれている状況を無視しません。例えば4節には「悲しむ人」には「慰め」が与えられるとあるのです。一挙に「喜び」行っても良さそうなものですね。つまり私たちの「悲しみ」は無視されないのです。弱い私たちは時に厳しい状況に陥りますが、愛の神は見捨てません。そこから共に歩んで下さるのです。

弱い私たちに「幸い」を与える愛と力の神を信じて歩みましょう。皆が求める「幸い」が、神にある真の「幸いが」与えられるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みが満ちている」 コリントの信徒への手紙Ⅱ9:6~15(新約P335)  2016年11月13日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙のⅡの9章6節~15節です。ここの箇所から主の導きを受けていきましょう。

この箇所で語られていることは具体的には、困っている教会(ここではエルサレム教会)への献金についてです。ここで著者のパウロはこのことを「喜んで」することを勧めています。その理由として、そのことを神が喜んで下さると記しているのです。そしてこの献金について種まきに例えて説明されています。これはこのことは「献金」ということに限られていないということを意味しているのでしょう。困っている人への献金だけではなく、奉仕や祈りもそうなのです。喜んでする者でありましょう。神は喜んで下さるに違いありません。

そして今日の箇所を見ると献金や奉仕、祈りや施しをさせて下さるのは神なのです。10節に「種を蒔く人に種を与え」とあります。私たちの愛の行為を神は喜んで、さらに恵みとして与えて下さると約束されているのです。愛されている者として私たちは神に喜ばれる行為をしていきましょう。

またここは困っている人たちへの愛の行為に限られていないのではないでしょうか。神に喜ばれる行為すべてがそうなのです。私たちが神のために成す献金や祈り、施しや奉仕、伝道などすべてがそうなのです。喜んで行なう時、神は恵みとして私たちに与えて下さるのです。感謝いたします。

そして恵みは私たちに与えられるのに留まらず、愛の行為を受けた者、勧めた者、それを知った者など一人一人に喜びと共に与えられるのです。まさに恵みが満ちあふれるのです。その豊かに与えられる恵みに対して私たちができることは「感謝」なのです。15節でパウロ自ら神に感謝をささげています。私たちも与えられる恵みを信じて感謝しましょう。12節を見ると私たちの感謝を通して奉仕が盛んになると記されています。満ちあふれる恵みに感謝しましょう。恵みはさらにあふれるように与えられるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「やがて出会う」 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4:13~18(新約P377)  2016年11月6日 大竹敏生

 

本日は高松太田教会の2016年の召天者記念礼拝となります。今日はテサロニケの信徒への手紙のⅠの4章13節~18節から主のみ言葉から導かれてまいりましょう。

13節に「既に眠りについた人たち」とありますが、この人たちが「召天者」であり、つまりもうすでに死んだ人たちを指します。イエス様は死んでいたあのラザロを「眠っている」と言いました。そしてそのイエス様がラザロは死んでいるとも言われたのです。人にとっては死は最大の敵であって、死の前に私たちは全く無力です。しかし死にも勝利する主は「眠っている」と言うのです。そうです。本日の聖書箇所にありますが、たとえ私たちがこの世での歩みを終えて天に召されても、また主イエスの前で皆が出会うことができるのです。感謝をいたします。

また13節に「知っておいてほしい」とあります。これは別の訳では「無知でいてほしくない」とか「知らないでいてもらいたくない」とあります。つまりこの13節では単純に「知っていなさい」とか「知っているべきである」というようなものではなく、何か懇願的な表現となっているのです。つまり今日の聖書箇所の内容について私たちが理解していくことが、単純な命令を果たす行為を越えて、私たちの恵みや祝福、喜びにつながるものだということではないでしょうか。そしてその理解する内容は、召された者たちはすばらしい場が備えられていて、また主の前で出会うことができるということです。これが主の約束であって、私たちにとって大きな希望となるのです。感謝をいたします。

召された者のご家族や友人にとっては悲しみ大きいのが死という出来事です。ただ私たちには「やがて出会う」ことが約束されています。希望をもって歩みましょう。厳しく困難なこの世ですが励まし合って歩んでいきましょう。この世の歩みも、召された後も主の前に平安が与えられています。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたは立ち直ったら」 ルカによる福音書22:31~34(新約P154)   2016年10月30日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書22章31節~34節です。いわゆる「ペトロが3度、主を知らないと言うことの予告」がなされた箇所です。ここから主のみ言葉に聞いていきたいと思います。

最初に「サタンが…願って聞き入れられた」とあります。これは「神はすべてをご存じだが、あえてペトロが厳しい状況に陥ることを見守られる」ということです。これはペトロのためだったのです。そのペトロのために主がなされたことは「信仰が無くならないように祈る」ということでした。「サタンのふるいかけ」の具体的内容については後半部に記されていて、ペトロは「主を3度知らないと言う」状況に陥るのです。これはペトロにとって大変厳しい状況で、落ち込みさせ、立てなくなるようなことです。そして信仰が無くなってしまいかねないほどのものでした。そしてこの厳しい状況は現実となりました。

結論から言うと、そんなペトロでしたが信仰は無くなりませんでした。これはペトロがギリギリのところで主に立ち返ったのかもしれません。がたがたになったペトロでしたが「主イエス様を愛していた」ことが、信仰が無くならなかった要因かもしれません。ただ何よりも大きな理由は「主がペトロの信仰が無くならないように祈られたこと」があったからでしょう。祈りは神の力を導き出し、その力を私たちが受けることができるようにするのです。感謝します。

厳しい状況に陥るペトロですが、その信仰は無くならないと主は確信していました。祈りはそれくらい力のあるものです。そしてペトロに「あなたは立ち直ったら…力づけてやりなさい」と命じます。弱いペトロも立ち直り、おそらく他のやはり弱い人たちを力づけたことでしょう。これは私たちも同じです。主に祈られています。弱くても主によって立ち直らされます。そうしたら力づける者となりましょう。これからも教会は「力づけ(励まし)、力づけられる(励まされる)者たち」の集まりであり続けたいと思います。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ゆるがない祝福」   ヤコブの手紙1:12~18(新約P421)    2016年10月16日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヤコブの手紙1章12節~18節です。このヤコブの手紙の著者はヤコブと記されていますが、この名前の人物は聖書に多く出てきます。その中でも伝統的にイエス様の弟のヤコブが著者だと言われています。またこの手紙の特長としては、実践的な信仰についての記述が多いことが挙げられます。このヤコブの手紙から学びましょう。

今日の箇所の最初の部分に私たちが「試練と誘惑」に遭うことが記されています。これは遭ってうれしいものではありません。しかしそれを乗り越えていくと私たちは成長することができるのです。人間にとって何事でも成長する必要があります。だから「試練と誘惑」は決して必要のないものではありません。ある意味逆に私たちにとって必要なものと言えるでしょう。試練を乗り越えていくことができた時、私たちは強められます。この世の荒波の中にあっても歩んでいくことができるのです。また試練を乗り越えた時、同じ苦しみに遭っている人を励ますこともできます。主に愛されている私たちは共に励まし合って歩むことができるのです。感謝いたします。

ただ私たちは弱いのです。試練に潰され、誘惑に陥ってしまいかねない者です。そうなっては成長どころではありません。弱い私たちは自分の力では試練を乗り越えていくのが困難なのです。でも私たちには私たちを愛する神がおられます。ただ私たちはその弱さゆえに、試練に遭うと神を疑います。そして試練を乗り越えることができなくなったり、誘惑に陥ってしまうのです。今日の聖書箇所の17節に「神である御父には移り変わりは無い」と記されています。神は人とは違って完全で移り変わったりしません。神はゆらがないのです。神の祝福はいつも私たちに注がれるのです。

私たちは人生の歩みの中で試練は常にあります。弱い私たちは神を疑わないで信じて歩みましょう。神の祝福は揺るがないのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「目標を目指して前へ」 フィリピの信徒への手紙3:12~16(新約P365)   2016年10月9日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙の3章12節~16節を示されました。ここから神のみ言葉を学んでいきましょう。

この手紙の著者はパウロですが、このパウロは主のために寝る間も惜しんで働いてきた人でした。そのパウロが「自分は完全ではない。捕らえてもいない。」と言うのです。だとしたら「私たちのゴールはどれくらい遠いのか」と絶望してしまいそうです。ただ16節を見ると「到達したところに基づいて進むべき」とあります。私たちがそれぞれ到達したところから進むのです。ゴールはそれぞれに与えられていると考えて良いのです。

またここから学ぶことは、私たちの歩みは到達したから、あるいは完全に成ったから進むというものではなく、むしろ到達目指して、完全目指して進むというものだということです。これは神を信じないとできません。到達とか完全とかの保証がなく、いつかは「到達する。完全となる。」と信じて進むということです。まさに「信仰の歩み」というべきものです。信じて進みましょう。

とは言っても弱い私たちは「進めない」存在です。「前へ」とか「進め」とかを聞くと重荷と感じることもあるでしょう。ただ12節に、主に捕らえられていることが記されています。私たちの「目標を目指して」の信仰の歩みは、捕らえていて下さる主イエスキリストによって進められるのです。私たちの「到達目指して」の歩みは主を信じないとできないものです。「到達する。完全となる。」と信じるのですが、それをさせて下さるのは主だと信じる必要もあるのです。

13節によると私たちはひたすら前へ進むべき存在だと読めます。弱い私たちには困難と感じます。しかし信じて主に委ねていく時、私たちの信仰の歩みは進むのです。むしろ「ひたすら前へ」ということは、後ろを振り返らなくても、戻らなくてもいいのだと感謝して「目標を目指して前へ」進みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主はわたしの味方」    詩編118:1~9(旧約P957)  2016年10月2日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は詩編118編1節~9節です。宗教改革者マルティン・ルターは、改革を訴えて多くの反対にあったときこの詩編をよりどころとしていたそうです。その詩編から学んでいきましょう。

本日の聖書箇所の6節と7節に「主はわたしの味方」とあります。神が私たち一人一人の味方となって下さることを感謝いたします。では神は何故に「わたしの味方」になって下さるのでしょうか。私たちがどちらかの「味方」となるときはどうでしょうか。1つは正しい方ということがあるでしょう。両方の言い分を聞いて「こちらが正しい」と判断して味方となるケースは多いでしょう。また強い方につくという人がいると思います。強い方の味方となれば勝つ可能性が高いですから。また反対に弱い方につく人もいるでしょう。「判官びいき」という言葉もあります。では神はなぜ私たちの味方となるのでしょう。それは正しいからでも、強いからでも、弱いからでもありません。1節~5節に「慈しみはとこしえに」とあるほど、主は私たち人を愛しているからです。この愛は無くなりません。常に味方でいて下さる主に感謝をいたします。

「味方」であるということは、主はどうして下さるのでしょうか。1つは弱い私たちに力を与えて下さるということです。味方であるということは力を貸して下さることです。また「味方」ですから私たちと共にいて下さいます。私たちから離れていくことは無く、共に闘って下さるのです。そして「味方」という時、主はむしろ私たちを立てて下さるのです。この詩編は誰が書いたか分かりませんが、7節を見ると、その著者がまるで闘いの勝利の立役者になるかのように記されています。弱い私たちに闘いを勝ち抜く力はありません。つまり本当の立役者は主の方なのに、私たちを立てて下さるのです。

私たちを愛し、私たちたちと共に居て、私たちの味方となって下さる主なる神さまとこの世での歩みを続けていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神にはできる」  マルコによる福音書10:17~31(新約P81)  2016年9月25日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は有名な「富める青年」の話です。この箇所から主なる神の愛の救いにつて考えていきたいと思います。

この青年はお金や名誉など、人のうらやむものをいくつも持っていました。この人がイエス様に問いかけています。しかしそんな彼は思い違いをしていました。それは「永遠の命を受け継ぐために何をすればよいのか」と尋ねているところです。確かに多くの人たちが永遠の命を得るために何か善いことをすることが必要と考えます。しかし本当の救いは「すること」では得られません。「信じること」で得られるのです。その青年にたいして主はいわゆる律法を守るように告げます。するとこの青年は救いに近づいていきます。律法を守っているのだが、満足が得られない思いを主に申し上げています。すると主は慈しみをもって青年を見つめ、青年の持っている財産をすべて用いて貧しい人に施せと命じられます。青年はうなだれて帰っていきました。青年は主の言葉に偽りがないと認めていたのでしょう。ただそれができなかったのです。

出来なかったことが青年の大きな壁でした。彼は財産を捨てることができなかったのです。間違ってはいけないのは「善行をする」ことが救いの条件ということではないといことです。ただこの青年は財産をすべて施しに用いることはできませんでした。この青年にとってそれくらい財産は大切だったのです。そして私たちにも大切なものがあります。ただそれ以上に主なる神を大切に歩むことが必要で、そのためには信じる必要があるのです。

「神にはできる」というのは、信じた者を救うことです。確かにこれは神にしかできません。ただその信じるに至るまではどうなるのでしょうか。問題を抱えている者はどうなるのでしょうか。問題を抱えて壁を乗り越えられないでいる者を神は助けて下さいます。「神にはできる」というのは、救いに至るまですべてにわたって神は助けて下さるということなのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「担い、背負い、救い出す神」  イザヤ書46:1~4(旧約P1137)  2016年9月18日 大竹敏生

 

本日は「高齢者を覚える礼拝」です。教会に関係されているご高齢の方々がいつまでもお元気で過ごせるように祈りつつ礼拝しましょう。その「高齢者を覚える礼拝」に導かれた聖書の箇所がイザヤ書46章1節~4節です。ここから神のみ言葉に聞いていきましょう。

ここではまずバビロンの偶像の名前が記されます。その偶像はバビロンでは神なのですが、自分で動くことができずに、獣や家畜などで運ばれると記されています。偶像はかえって人の重荷となります。その一方、主なる神は私たちを担います。背負うのです。つまり主なる神は私たちを運ぶ神なのです。これは何を意味するでしょう。1つは正しく導くことを意味します。すぐに迷い出る私たちも主が正しい道に戻して下さるのです。またもう1つは動けない私たちを背負って下さることを意味します。すぐに疲れて歩き続けることができなくなる私たちを神が背負って運んで下さるのです。感謝をいたします。

実は罪がある私たちは自分で歩むことができないほど弱いのです。自分の力で歩いているように感じますが、本当は神に担われて、背負われて運ばれているのです。そして私たちは救いへと導かれるのです。感謝いたします。私たちは担われ、背負われ、救い出されることを信じて歩みましょう。今も見えませんが私たちは愛の神によって担われ、背負われ、救われているのです。

そしてそれは私たちが生まれた時から始まっていて、私たちが老いても変わりなく続きます。つまりご高齢の方々は神に担われ、背負われる時間が長いのです。多くのご高齢の方々が平安に歩んでいます。もちろん長い生涯で体験したことから来るものも大きいでしょう。しかし神に担われ、背負われてきたことが何よりも大きいのではないでしょうか。私たちも神に担われて、背負われています。感謝いたします。そして救い出すと約束されておられる神を信じて歩みつづけましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主のくびきによって」  マタイによる福音書11:25~30(新約P20)  2016年9月4日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は大変有名な箇所です。特に28節は多くの教会の掲示板などに掲げられている箇所です。この箇所から聖書の言葉に聞きましょう。

まず28節を見ましょう。この節の言葉は良い言葉ですが、何か中途半端に感じます。「重荷を無くしてあげよう」などのほうが良いように思えますね。ただ考えてみますと、私たちにとって大切なことが重荷になるのです。つまり大切な自分のことや家族のことだから重荷になるのであって、知らない人のことや親しくない人のことではあまり重荷とはならないのではないでしょうか。つまり私たちにとって大切なことが重荷となるのであって、無くなってしまうことはむしろ良くないことなのです。それを主は分かっておられ「休ませてあげよう」と言われたのです。感謝します。

同じ28節の「だれでも」にも注目しましょう。だれでも休ませてもらえるのです。これに漏れる人はだれもいません。人はそれぞれ重荷を持ちます。それは千差万別です。神はどんな重荷を持つ人でも休ませてくださるのです。だれにでも休みをくださる神に感謝いたします。

28節の言葉は「休みをくださるだけで、重荷の解決はくださらない」ということではありません。神は解決を私たちにさせてくださるのです。29節と30節に「わたしのくびき」という言葉が出てきます。牛が仕事をするのに「くびき」が必要です。そのためにその牛に合った「くびき」が作られるのです。「くびき」は、その牛に合っていればあまり重さを感じなくて仕事ができるそうです。ここで言う「わたしのくびき」とは、だれにでも合う万能の「くびき」と言うより、わたしのために神が備えてくださった「くびき」というようなものではないでしょうか。私たち一人一人を愛してくださる神は、一人一人にそれぞれ合った「くびき」をくださるのです。感謝いたします。共にいてくださり、重荷を解決、つまり軽くしてくださる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「成長させられてゆく」 エフェソの信徒への手紙4:12~16(新約P356)  2016年8月28日 大竹敏生

 

 本日の聖書箇所はエフェソの信徒への手紙4章からです。ここから神のみ言葉に耳を傾けていきましょう。

 私たちの教会が今年目指しているものとして「成長」「成熟」があります。これは今年だけではなく、また私どもの教会だけでもなく、いつもすべてのキリスト者が目指しているものなのです。本日の聖書箇所にはこのことについて「キリストの体を造り上げて」「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長」「キリストに向かって成長」などと記されています。つまり私たちはキリストをゴールとして成長していくのです。ゴールがキリストですから、成長にはなかなか到達できません。いやはっきり言うと誰も到達できないのです。私たちの成長の歩みは生涯続きます。この世の歩みを私たちが終える時、そこがゴールとなるのです。

 さて今日の箇所から「成長」に関して学ぶことの1つは、成長は私個人ではできないということです。ここの箇所も含めて、その前から「一つとなる」ことが強調されています。そしてここの箇所では主語が「私たち」なのです。成長は個人ではなく「私たち」が「一つとなって」なしていくものなのです。

今日の箇所から「成長」に関して学ぶことのもう一つは、成長は人の力でできるものではないということです。16節に「キリストによって」という言葉がありますが、成長していくのはキリストの愛と力なしにはできません。人は罪があり、弱いのです。本当に成長していくためには自分の力ではなく、罪から救って下さるキリストによらなければできないのです。

私たちはキリスト目指して成長していく必要があります。一つとなるために共に祈り合って励まし合ってキリストを目指して成長していきましょう。また弱い私たちが成長するために、キリストが私たちを愛するゆえに力をくださって成長させて下さると信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の言葉への信頼」  マタイによる福音書4:1~4(新約P4)  2016年8月21日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所は、荒野でイエスキリストがサタンから誘惑を受けた箇所です。誘惑は3つ受けたのですが、本日はその誘惑の最初の1つを取り上げてみたいと思います。

 その誘惑とは空腹のイエス様に「石をパンに変えろ」というものでした。それに対してイエス様は「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」とこたえました。これは旧約聖書の申命記の言葉から引用されたのでした。この「パン」とはパンだけでなく食べ物全体を表しています。そしてさらに生きていくのに必要なあらゆるものを示しているのです。イエス様は、人が生きるのにそういうものが必要ないとは言っていません。「パンだけ」ではないと言っているのです。私たちは人間です。獣ではないのです。食べ物は肉体を生かすのに必要なものです。しかし人間には肉体のほかに「霊」があります。この「霊」に関しては「神の言葉」が生きるのに必要なのです。例えば私たちは生きていくのに悩みます。この悩みは食べ物では解決しません。神の言葉で悩みは癒されます。神の言葉の一つ一つで生かされていきましょう。

 精神論的に言えば「神の言葉だけで良い。生きるのにパンは必要ない」という理論もあるかもしれません。でもやはりパンも生きるのに必要なのです。そして私たちはパンをいつも得られるかどうかは分からないのです。今日の聖書の箇所から、私たちは生きるのに神の言葉はもちろん、パンまでも神が与えて下さることを知る必要があります。神は私たちが生きるのにパンが必要なのをご存知です。私たちを愛する神は、これまでも私たちに生きるのに必要なパンを下さっていました。そしてこれからも与えられることを信じましょう。

 私たちは生きるのに神の言葉とパンが必要です。霊肉ともに神に生かされることを感謝し、信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「平和を与える神」  ヨハネによる福音書14:25~31(新約P197)  2016年8月14日 大竹敏生

 

 八月のこの時期は「平和」について考えさせられます。また八月は私たちの属する日本バプテスト連盟の「平和宣言月間」でもあります。神の与えて下さる「平和」について考えてみましょう。

 今日の聖書の箇所で、主は「平和」を与えて下さると約束しています。そしてその与え方が世の与える「平和」とは違うと記しています。以前の訳では、与えられる「平和」が世の与えるのとは違うとありました。何が違うのでしょうか。やはり大きさというか、強さでしょうか。この世の産みだす「平和」はどうしても不完全です。その不完全さは私たちの弱さから来ます。そしてその弱さは罪から来るのです。私たちの作り出す「平和」は限界があるのです。一方主の与える「平和」は完全なのです。大きさも強さも、そしてきめ細かさも完全です。従ってこの「平和」は無くなりません。また誰一人この「平和」からもれる者もいません。一人一人が満喫できる「平和」なのです。そしてこの主が与える「平和」は非常に豊かなものです。単に戦闘が無い状態というだけではなく、一人一人が平安であり、喜びに満たされるような意味合いを持っているのです。

 聖書には、もともと私たちと神の間には「平和」が無い状態だったとあります。主の与える「平和」によって神との「平和」が与えられました。主を信じて神との「平和」を持ち続けることができることを感謝いたします。また私たち人と人との間にも神の「平和」が与えられます。主から与えられる完全な「平和」によって喜び満たされて、平安に歩みましょう。

 十字架の出来事の前、弱い弟子たちに主は「聖霊を与える」と約束し「ここから出かけよう」と勧めています。彼らには主の「平和」が与えられます。そして今、多くの者たちが不安の中歩んでいます。私たちにも主から完全な「平和」が与えられます。私たちもそれを信じて出かけていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恐れないでむしろ喜べ」 マタイによる福音書24:45~51(新約P49)  2016年8月7日 大竹敏生

 

 本日の聖書箇所はマタイによる福音書からで、いわゆる主イエスキリストがもう一度この世に来られる「再臨」についてです。ここから主のみ言葉を学びましょう。

 主イエスがまた来られる「再臨」については、聖書の中にいくつも書かれている箇所があります。その中で共通しているのは「主はいつ来られるのかは分からない」ということです。そして「いつ来るか分からない」ことへの対策としては「目を覚ましていなさい」とあります。つまりいつ「再臨」の日がきても良いように備えておくということです。その備えですが、やはり「主を信じる」ということでしょう。これが1番主の求めておられることです。信じて「再臨」を迎えましょう。そして「信じている」者としてふさわしく歩むことも求められています。主が来られた時「目を覚まして」いるように願っています。

 さて「再臨」ですが、私たちはこれを「恐怖」と見ている部分があります。確かに「再臨」は「裁き」という側面もあります。来てほしくないという思いもあるかもしれません。ただ「恐れ」ばかりで「再臨」を見ないようにしたいものです。来られるのは私たちを愛して下さる主イエスキリストなのです。「再臨」を意識する時、私たちは「恐れ」よりむしろ「喜び」を忘れないように心がけてまいりましょう。私たちは弱いのです。主が愛ではなく厳しい側面ばかりを持つ方が来られるとしたなら、私たちにとって「再臨}は恐怖でしかありません。信仰だって、主のお眼鏡にかなうようなものが果たしてできるでしょうか。私たちの弱さを知っておられる愛の方が主なるキリストです。その方の来られる「再臨」を待つ間、私たちは喜びをもって歩んでいきましょう。それが「目を覚まして」私たちが「再臨」を迎えることにつながると信じます。

 感謝なことに「再臨」はいつ来るか分かりません。完璧にその日を迎えることは無理でも、喜んで「再臨」の日を迎えられるように歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主のいつくしみを信じて」   哀歌3:31~33(旧約P1290)  2016年7月31日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所は旧約聖書の哀歌からです。哀歌は大預言者のエレミヤが書いたと言われています。ここから神の愛といつくしみを感じましょう。

 エレミヤは「悲しみの預言者」「悲劇の預言者」「嘆きの預言者」などと言われています。「哀歌」の作者としてふさわしいと言えます。エレミヤの預言は聞く人たちにとっては、かなり耳の痛い厳しいものでしたから、エレミヤへの反発はひどいものでした。そのこともエレミヤを苦しめていました。またエレミヤは「エルサレムの陥落」を預言していました。それはその通りなるのですが、そのこと自体が彼にとっては悲しみだったのです。人々から反発され、投獄や拷問のようなこともされ、そして彼の預言通りになることは悲しみだったのです。彼は悲しみ、苦しみ、嘆きの中にいたのです。

 今日の聖書の箇所ですが、哀歌と言いながら、そこには「神のいつくしみ」が記されています。なにか哀歌らしくないように思えます。ここでは「神は私たちの苦しみをいつまでも捨て置かれない」と「神のいつくしみ」を力強く記しています。哀歌なのに「いつくしみ」が記されている理由は、1つは「自分に言い聞かせている」ということでしょう。神に助けてもらわなければならない。「神が必ず助けて下さる」と信じようとするかのようです。また他に「神しかおられない」という考えがあるように感じます。自分の苦しみを除くのは神しかおられないという思いが表れています。実際他のものに頼みたくなる時があります。でも真の解決は神しかないのです。そして最後に、何か矛盾しているように感じるかもしれませんが「神は実際に助けて下さった」と証しているようにも感じます。いくつもあった苦しみから1つ1つ愛をもって導き助けて下さったのは神であったと語っているように思えます。大切なのは神がどんな場合でも、神が愛といつくしみをもって助けて下さることを信じることなのです。エレミヤのように苦しい時も神のいつくしみを信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「この方が世の救い主」 ヨハネによる福音書4:39~42(新約P170)  2016年7月24日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所は有名な「サマリアの女」あるいは「スカルの女」の記事と呼ばれる箇所からです。主の愛と救いをここから学びたいと思います。

 今日の聖書の箇所の舞台はサマリアのスカルという場所です。イエス様と弟子たちはユダヤ人です。そのユダヤ人とサマリアの人たちは厳しく対立していました。イエス様たちがサマリアの地に入ることが普通ではなかったのです。そのサマリアのスカルの井戸のほとりで一人の女にイエス様は語り掛けました。彼女は後の記述で分かりますが、男性との関係で問題を抱えていました。イエス様はまず「水」という生きるために必要なものの話題から入り、永遠のいのちを得るための「水」を自分が与えると語ります。その「水」に関心を示した女に、今度は女性自身の罪の問題をあらわにさせました。彼女は自分の罪をあらわにされ、それを知っているイエス様に驚きました。そして「救い主が世に来られることを知っている」と語る女性にさらにイエス様は「あなたと話している私がそれだ」と宣言されました。それを信じた女は町に知らせに走ったのです。イエス様はサマリアの罪深い女との会話で、サマリアとユダヤの問題を越えて、しかも罪を抱えて悩む彼女の罪からも救ったのです。

 そして今日の聖書の箇所ですが、女の証を聞いた町の人たちはイエス様のところへやってきました。聖書には彼女の話を聞いて信じた人たちがいたとあります。またその後イエス様の話を聞いて信じた者もおりました。その人たちが語るようにイエス様は「世の救い主」なのです。つまり世の一人一人のための救い主であられ、私たちも信じることで救われるのです。感謝をいたします。

 イエス様はユダヤ人と対立するサマリアの罪深い女を救いに導きました。国や民族ではなく、男女や大人と子どもという事でもなく、また持っている罪の大きさや種類でもなく、ただ罪を悔い改め信じることを私たちの求めているのです。信じることによって救いに導いて下さる神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「内に働くキリスト」 コロサイの信徒への手紙1:24~29(新約P369)   2016年7月17日 大竹敏生

 

 本日の聖書箇所はコロサイの信徒への手紙1章24節~29節からです。今日はここから私たちの「内に働くキリスト」について考えたいと思います。

 この手紙の著者パウロはここで自分自身の神から託された務めについて記しています。それは「福音を宣べ伝える」ことであり、それは苦難の歩みでした。パウロは「キリストによる救い」を告げ知らせることを、苦難の中にも喜びつつ行なっていました。その結果コロサイの人たちにも福音が伝わり、栄光のキリストが彼らの中にもおられることになりました。そして今、私たちの中にもキリストはおられるのです。感謝いたします。

この内なるキリストが私たちの力なのです。キリストは救い主です。まず何よりも私たちを救って下さったキリストに感謝します。その救いの働きは「内に働くキリスト」によって今も続いているのです。そして「内に働くキリスト」は、日々私たちを助けて下さいます。パウロは苦難の中にありました。そしてコロサイの教会の人たちも苦難の中にあったのです。その苦難はいろいろでした。そんな多種多様な苦難にもつぶされないで歩めるのは「内に働くキリスト」によってです。パウロは「自分の中におられるキリストがコロサイの人たちの中にもおられ、助けて下さる」と励ましつつ、共に歩もうと勧めているのです。

「内に働く」ということは、キリストはいつも共におられることを意味します。またその働きは、外部からというより内部からなのから、完全であることも意味します。またさらにもう一つ「内に働くキリスト」によって、苦難は喜びに変えられるのです。パウロもコロサイの人たちも、共におられ、完全な助けを受け、さらに苦難を喜び変えられて歩みを続けることができたのです。

パウロやコロサイの人たちの内におられるキリストは私たちの内にもおられます。それを信じて忘れないで歩みましょう。「内に働くキリスト」によって苦難の中にも喜びをもって主のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の守りがある」 ローマの信徒への手紙8:18~25(新約P284)  2016年7月10日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所は、パウロが書いたローマの信徒への手紙の8章18節~25節です。この箇所の特に18節を中心に神のみ言葉を聞きましょう。

 人は誰でも苦しみがあります。それは聖書に時代も今も変わりありません。18節ではその苦しみも、後に与えられる栄光に比べれば「取るに足りない」と記されています。この栄光とは何でしょうか。19節以降の内容を見るとそれは私たちに与えられる「救い」ということが一番最初に示されます。「苦しみ」と「救い」ですが、何か関係がよく分からない感じです。でも関係はあります。聖書によれば「苦しみ」は私たちの「弱さ」から来ます。その「弱さ」は私たちの中にある「罪」から来るのです。その「罪」を赦し「救い」を与えて下さるのは、私たちの救い主であるイエスキリストです。そのイエスキリストの十字架を信じて救われることを感謝します。この「救い」こそ神の与える栄光であり、確かにすばらしいものです。取るに足りないのもわかります。

 また与えられる栄光はそれだけではありません。上に記した「救い」とまったく別というわけでは無いのですが。それは「苦しみ」からの解放です。それは「神の守り」と表現することができます。「苦しみ」はやはり解消されなくてはなりません。それは神の力によってなされるのです。神の力によるのですから「苦しみ」の解消すなわち「神の守り」も栄光です。ただそれだったら「苦しみ」なんか無ければ良いのです。なぜ私たちは苦しまねばならないのでしょう。1つは、私たちは「苦しみ」によって成長するということがあります。神によってそれを通して成長させられるのです。感謝いたします。また「苦しみ」の中にある私たちには「神の守り」が与えられます。この与えられる「神の守り」こそ私たちにとって喜ばしい神の愛を示しています。「神の守り」はこのように神の恵みです。神に守られているとき、私たちは神の愛と恵みを、これ以上ないほど大きく感じることができるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛されている」 コリントの信徒への手紙Ⅰ1:26~31(新約P300)  2016年7月3日 大竹敏生

 

 本日は今年2016年の連盟の神学校週間の最終日です。神学校と神学生をおぼえて祈りましょう。

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰからです。コリントの教会には自分の知恵や能力、家柄、体験などを誇りとする人たちが多くいたようで、問題をかかえていたようです。この手紙の著者のパウロはそれがよく分かっていたようで、いきなりあなたがたの召されたのは知恵や能力、家柄、体験などが理由では無く、むしろそういうものが無いものが召されたのだと記しています。神から見れば私たちは皆、罪があり弱いのです。そのことをよくわきまえて歩み、むしろ「主を誇れ」と言われていることを心がけたいものです。

さて本日の聖書箇所に出てくる「召す」という言葉ですが、これはここでは「救いに導かれた」という意味で用いられています。わたくしたちの救いは、言わば神の「招き」に応じたがゆえなのです。神は「すべての人に福音を宣べ伝えよ」と言われます。招かれているのはすべての人なのです。

ではどういう理由で招かれているのでしょうか。それは神がただ私たちを「愛されている」からでしょう。神は私たちの弱さや至らなさ、そして現状をすべて知ったうえで私たちを愛して下さっています。実はこの弱さは私たちに罪があるからなのです。この方に打ち明けて、そしてゆだねて歩みましょう。神の力と愛は限りないのです。主なる神を信じることによって私たちの罪もゆるされます。罪を赦し、弱い私たちを助けて下さる神を信じて、招きに応じていきましょう。

そしてこの「愛されている」のはすべての人です。誰一人強い人はいません。すべての人が、罪があるので弱いのです。私たちを愛して下さり、罪をゆるし、助けて下さる神に感謝をいたします。救い主に愛されていることを信じ、愛を感じつつ歩みましょう。神は喜んで助け、救って下さいます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「苦しみの中にあっても」 フィリピの信徒への手紙1:27~30(新約P362)  2016年6月26日 大竹敏生

 

 本日の聖書箇所は「フィリピの信徒への手紙」からですが、この手紙を書いたパウロはフィリピだけではなく、彼が関係したすべての教会を覚えて祈っていました。今日の箇所にあるように、彼らを励まし、共に主のために歩むように勧めています。場所は離れていてもいつも彼らを覚えて心を砕いていたパウロの思いをここから感じながら神のみ言葉に耳を傾けましょう。

 これもフィリピに限ったことではないのですが、どこの教会も迫害などで苦しみの中にありました。そんな中で神のために一生懸命に取り組んでいた教会のためにいつもパウロは祈っていました。そして多くの手紙で彼らを励ましています。27節でも「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」と書いています。しかしそうするには困難なほど弱いのが人間なのです。

 29節の言葉は不思議です。「信じること」と「苦しむこと」の二つが与えられるとあるのです。「信じること」はいいのですが「苦しむこと」は欲しくは無いものです。どういうことなのでしょうか。良いことばかりではなく、悪いこともあるということでしょうか。実はこれは共に良いものなのです。良いと思えない「苦しむこと」ですが、私たちは生きている限り「苦しみ」は避けられません。まず神は私たちの「苦しみ」を知っていて下さるのです。人は自分の苦しみが理解されるだけで感謝なのです。また「苦しみ」は私たちを成長させます。神は私たちの「苦しみ」を知っていて下さるだけではなく、それを通してキリスト者として成長させて下さるのです。「信じること」と「苦しむこと」2つの恵みを下さり、信仰と恵みを備えて下さる神に感謝します。

 フィリピの教会も、またパウロたちも、その他の教会や使徒たちも皆「苦しみ」の中にありました。しかし神によって守られ、導かれ祝砲されました。私たちも「信じること」と「苦しむこと」が与えられます。神を信じて主のために歩みましょう。たとえ苦しみの中にあっても何も恐れることは無いのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「慰めが満ちあふれ」  コリントの信徒への手紙Ⅱ1:3~7(新約P325)   2016年6月19日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱの最初の部分です。ここから神のみ言葉に聞いていきましょう。

 この箇所でよく出てくる言葉は「苦難」と「慰め」でしょうか。「苦難」は人生につきものです。そしてこの時代の教会は迫害などの「苦闘」の中にあって、キリスト者は誰もが「苦難」の中にあったのです。それに対して神はキリスト者に何を下さるのでしょうか。ここではそれは「慰め」だと記されています。確かに「慰め」は感謝です。しかし神なのですから、むしろ神にしかできない大きな力を期待してしまいます。神の力によって「苦難」の解決を期待してしまうのです。もちろんそれを与える力を神は持っています。そして御心のままにそれを与えて下さる場合も多いのです。でもここでは「慰め」が与えられると強調されているのです。ここの箇所では与えられる「慰め」はどのような「苦難」にもそれを超えるように与えられ、この手紙の送り手であるパウロとその仲間たちも、受け手であるコリントの人たちも共に「慰め」られ「苦難」に打ち勝つことができるとあるのです。また「慰め」は確かに神ではない私たちにもできる行為です。ただ神ほど大きく完全な「慰め」を持つ方はおられません。それは神の愛から来ています。愛である神が私たちを憐れみ「慰め」を与えて下さるのです。何よりも私たちを愛して下さる神は私たちにまず「慰め」を下さるのです。神にとってはそれが第一のことなのです。

私たちは確かに、コリントの教会の人たちと同じ「苦難」にあってはいません。でも私たちにも「苦難」があります。ヨハネによる福音書の16章にあるとおり「この世では悩みがある」のです。神は「苦難」の中にある者に「慰め」を与えます。それは今も変わりありません。神の愛による「慰め」を信じましょう。たとえ私たちがどんなに大きな苦しみの中にあっても神は「慰め」を下さいます。神のあふれるばかりの「慰め」を心より感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神によって愛し合う」  ルカによる福音書10:25~37(新約P126)  2016年6月12日 大竹敏生

 

 本日は私どもの教会の今年の「子ども祝福礼拝」です。教会の子どもたちの祝福を祈りつつ神のみ言葉に聞いていきましょう。今日の聖書箇所は有名な「良きサマリア人のたとえ」などと呼ばれるたとえ話からです。

 このたとえ話の中でエルサレムからエリコに下る道で一人の人が強盗に襲われて瀕死の重傷を負いました。そこにまず祭司が続いてレビ人が通りかかりますが、重傷を負った人を助けようとはしませんでした。それに対して一人のサマリア人が彼を助けて宿屋まで連れて行き、翌日彼の世話を宿屋の主人に頼んでお金もおいて出かけたのでした。なぜ祭司とレビ人は助けることができなかったのでしょうか。1つは自分の身を守ろうとしたことでしょう。この道は荒野を行く道です。強盗もいるのです。助けてたら自分も危ういというわけです。また自分の力で助けることが困難と判断することもあるでしょう。またこれが一番の理由と考えられますが、律法の決まりに「死体に触れることで汚れる」というものがあるので、律法の中に生きる祭司とレビ人は「この人は死んでいる」と判断するということもあるでしょう。いろいろな理由が助けることを妨げるのです。彼らは「隣人」になれませんでした。 この助けたサマリア人はそういうものを乗り越えて「隣人」になりました。このサマリア人はさらに相手が敵対する「ユダヤ人」だということも乗り越えました。私たちも「隣人」となれるように、愛し合って歩みたいものです。

 ただこのように「隣人」となるためには多くの困難が立ちはだかります。本当に「隣人」となって、愛し合って歩むには、私たちは弱いのです。私たちは持っている罪により、愛し合う力を持っていません。ただ神が私たちを愛して下さり、私たちは愛し合うことができます。つまり神の力が必要なのです。神を信じて、神の愛を受け、神の力によって互いに愛し合って歩みましょう。神によって「隣人」になれるように願いましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「力と愛と思慮分別の霊」   テモテへの手紙Ⅱ1:3~14(新約P391)  2016年6月5日 大竹敏生

 

 今日の聖書箇所からまず分かるのは、この手紙の著者のパウロが送り先のテモテと言う人物を非常に愛しているということです。パウロが「わが子」と呼ぶほどに愛したテモテへの手紙から学びましょう。

 テモテは忠実な弟子でしたが、もちろん弱点を持っていました。その弱点の1つは7節を見ますと「おくびょう」という面があったのだと思われます。人は誰もが「おくびょう」な面を持っています。そしてそれは「恐怖」「怖気づく」「恥」「パニック」など色々な形で私たちの心を支配します。そしてそれはテモテだけではなく私たちにも悪い影響を与えます。それに対してパウロは、与えられるのはおくびょうの霊ではなく「力と愛と思慮分別の霊」だと記しています。つまり完全な力と知恵を持ち、その上で私たちを愛する霊、すなわち神がおられるのです。従ってテモテは苦しくても乗り越えられるし、迷っても正しく導かれます。またパウロの状況がどうあろうと恥じることは無いのです。そして私たちにもその霊は与えられ、私たちは恐れることはありません。

 パウロはまたこの箇所でテモテの信仰について記しています。この手紙は一説によれば、パウロの死の直前に書かれた手紙だと言われます。その最後の手紙で「信仰」について記します。そしてその「信仰」をもって歩めと促しているのです。「信仰」というある意味基本的なことに、最後の手紙で言及しているのです。それくらい「信仰」は大切な事です。そしてこの「信仰」はテモテにとっても大切ですが、私たちにとっても大切な事なのです。私たちは「信仰」をもって歩まなければなりません。信じる者には救いが与えられます。感謝します。また信じる者は罪が赦されるのですから、罪から来る弱さも神によって克服できるのです。それは私たちにも与えられる「力と愛と思慮分別の霊」によってです。「信仰」をもって歩みましょう。信じる者に救いと共に導きや祝福を備えて下さる神に心より感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神をとことん信頼して」   創世記32:23~33(旧約P56)   2016年5月29日 大竹敏生

 

 本日の聖書箇所は創世記からです。ヤコブが天使と格闘し、最後は祝福を勝ち取った様子が記されています。ここから主のみ言葉を学びましょう。

 ヤコブという人物を考えると、今日の箇所の出来事もそんなに違和感をもちません。むしろヤコブらしいと思えます。ヤコブは過去に双子の兄から、空腹につけこみわずかなもので長子の権利を奪い、目が見えなくなっていた父をだまし、やはり双子の兄に与えられるはずだった祝福を自分のものとしました。その後のヤコブは神の祝福を受けながらも苦労もして、人間的にも成長をしました。この時は兄に謝罪をして和解をしようと、故郷へ向かう途中でした。 この箇所から何を学ぶのでしょうか。「欲しいものは何が何でも手に入れよ」とか「勝てば何でも思いのまま」でしょうか。そんなはずはないでしょう。

 まずヤコブは格闘に「勝った」とありますが、そうでしょうか。ただ祝福をもらうまで天使を離さなかっただけです。むしろ身体に影響を受けたのはヤコブでした。天使は時間が迫り、離さないヤコブに根負けしたように見えます。「勝てば…」は関係が無いように思います。またこのヤコブと天使の格闘のようなことは、神さま抜きのこの世でも起こります。例えば天使が親でヤコブが小さい子という場合で、小さい子が親に欲しいものをねだって親に縋り付いたりするでしょう。その親と子の関係から学びましょう。この縋り付くような関係は、親子のような強い関係だからゆるされるのです。赤の他人なら起こらないことです。ヤコブは天使、つまり神に強い信頼を置いていたからできたのです。「自分がこんなことをしても神はゆるして下さる」と信じていたのではないでしょうか。ヤコブは兄にゆるしてもらうためには、全能の神の力が必要と信じていました。いやむしろ「神しかない」としがみついたのです。

 私たちもとことん神を信頼して歩みましょう。祈りの中で神に縋り付きましょう。神は私たちを見捨てる事無く、祝福を下さるはずです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰があなたを救った」  マルコによる福音書5:25~34(新約P70)  2016年5月22日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所は12年間難病に苦しんだ女性が出てきます。女性の地位が低かったこの時代、また「病気は神の罰」というように考えることも多かったイスラエルの状況を考えますとこの女性の苦しみは想像を絶するものがあったでしょう。全財産を使い果たしたというのも無理はありません。

 この女性は「イエス様の服に触れればいやされる」と思ってこっそりと触れました。するとたちまち癒されました。女性にも分かるほどの癒しでした。イエス様は「服に触れたのはだれか」と言われました。この時、イエス様はかなり急いでいる状況でしたが、それをおしてもそうする必要があったのです。イエス様にとってこれは大切な事だったのです。考えてみますとイエス様の行為は不思議です。神の子ならば「誰が触れたか」くらい分かりそうなものです。しかし名乗り出るのを待つかのように見回しています。やがてこの女性はひれ伏してありのままに申し上げました。イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。これがイエス様にとっては大切な事だったのです。

 この女性の行為は、方法は少し異質でしたが、イエス様を信じるからこそでした。それは完璧に癒されたことからも分かります。そしてイエス様は彼女に「信仰が救った」と言われました。「信仰が癒した」ではないのです。「救った」は「癒した」同じ意味なのでしょうか。これは「救った」に「癒した」も含まれるのでしょう。イエス様にとって何よりも大切なのはこの女性が「救われる」ことでした。だから彼女の口から信仰を告白させたのです。そして彼女に「信仰があなたを救った」と救いを宣言したのです。

 私たちもイエス様が大切にして求めておられるように、イエス様を信じて救われましょう。私たちは信じる事によって救われるのです。そして女この性にとって必要で渇望していた癒しも与えられたように私たちのも救いと共に必要なものも備えられるでしょう。イエス様を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主と同じ姿に」  コリントの信徒への手紙Ⅱ3:12~18(新約P328)  2016年5月15日 大竹敏生

 

私たちは聖書を読む時にその時代の常識や考え方、事情などを考慮して読むことも大切です。現代との違いや差を考えないと理解できなかったり、理解が浅かったりしてしまうこともあるからです。

本日の聖書の箇所が記された時代は、まだ律法の影響は強く残っていたころでした。その律法の影響を著者のパウロはこの箇所で、顔や心に「覆い」がかけられているのだと記しています。もちろんこれは悪い影響です。覆いをかけられて真実が見えません。しかしこの覆いは16節によれば「主の方に向き直れば取り去られる」とあります。つまり律法を守る「行ない」ではなく主の方に向く、つまり主を信じる「信仰」によって覆いは取り除かれるのです。

18節には「栄光から栄光へ造りかえられる」という、考えると不思議な言葉があります。同じものに変わること普通はありません。私たちは「主と同じ姿に」造りかえられるのです。主と同じというのであればこれに勝る栄光はありません。主が下さるものは一つ一つは栄光です。しかし主と同じ姿にまで神がして下さるのは大きな恵みです。私たちはその恵みに感謝して「栄光から栄光へ」と成長していきたいものです。そのために私たちは主を信じて歩みましょう。主は私たちに「救い」をはじめ、ありとあらゆるものを下さるでしょう。

 「主と同じ姿に造りかえられる」の言葉には、上記のようにありとあらゆる恵みを下さるということと、それが確かに与えられるということの二つの約束が込められています。感謝をいたします。そしてそれを今も導いて下さるのが17節によれば「霊」だとあります。これは「聖霊」と呼ばれる神です。今日は今年のペンテコステです。主が私たちに「聖霊」を与えて下さった記念の日です。聖霊なる神を信じて歩みましょう。私たちを成長させるのは神にしかできません。私たちは主を信じて「主と同じ姿に」させられましょう。その時、私たちはありとあらゆる恵みを受け、成長できるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主を愛することで」  マルコによる福音書12:28~34(新約P87)  2016年5月8日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマルコによる福音書12章28節~34節です。イエス様が律法学者から質問を受けました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一か」とです。イエス様は「神を愛せよ」と「人を愛せよ」と2つの律法の掟から語りました。1つと問われて2つ答えました。神を愛することと人を愛することは別々ではないことが分かります。

主なる神は実際30節にあるほど愛される資格を持っています。その理由としてまず挙げられるのは「私たちを救って下さった」ということです。神が愛されたがゆえに、救われる資格のない、罪ある私たちが信じることで救われるのです。感謝いたします。また「神が私たちを愛して下さった」ことが理由として挙げられます。神は罪を憎みます。従って私たちは愛されない存在なのです。でも神は愛して下さったのです。また私たちが神を愛すべき理由として「神が恵みや祝福を下さる」ことが挙げられます。私たちが困ったとき、神の力を必要としているとき、神の助けや導きが与えられます。

以上にように私たちは神を愛さなければなりません。愛する必要があります。愛さなければならないから主を愛するのですが、愛することで私たちの祝福や恵みは増し加えられます。律法は私たちの罪の姿を浮き彫りにして、神の愛による救いへと導きます。そしてまた律法は罪ある弱い私たちを守り、生きていくための力を私たちに与えます。その律法の掟の第一が「主なる神を愛すること」なのですから、愛することを通してさらに神の力が与えられるでしょう。復活の主イエスキリストとお会いしたペトロは「わたしを愛するか」と問われました。ペトロも弱い人でしたが、愛することで力が与えられました。

私たちも全力で主を愛しましょう。どれだけ愛しても愛し過ぎはありません。主の恵みに愛をもって答えていきましょう。愛することで私たちはさらに恵みと祝福を受け、救いを確かにし、成長していくのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストがすべて」  コロサイの信徒への手紙3:1~11(新約P371)  2016年5月1日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコロサイの信徒への手紙からです。ある人はこの手紙は1章と2章は教理的な問題が記され、3章と4章はキリスト者はどのように歩むべきかが記されていると言っています。確かにそう考えることもできます。そして今日の箇所は、そのキリスト者がどのように歩むべきかの前提が書かれています。それは11節にある「キリストがすべて」ではないでしょうか。

1節には私たちが「復活させられた」とあります。罪があるゆえに死ぬはずだった私たちは、主を信じることによって救われました。そのことが「復活させられた」とあるのです。そして最後はキリストと共に栄光に包まれます。また私たちは罪があって弱いのに「日々新たにされて」力や真の知識を受けるのです。また人間の弱さゆえにどうしてもある区別もキリストの前には無くなるのです。これらはすべて人間にはできません。キリストのみができるのです。もらえる資格が無い私たちをキリストが愛して与えて下さったのです。

「キリストがすべて」と言う言葉に何を感じるでしょうか。1つは上に記したようにキリストなしには私たちは救われないし、歩みを進めることが困難だという事です。またキリストがあまりに素晴らしくて、言葉で語りつくせないという事もあるでしょう。上にいくつか記しましたが、キリストの素晴らしさに対して、質も量もとても及びもつきません。「キリストがすべて」としか言えないのです。そしてこの「キリストがすべて」という言葉にはどれだけキリストを愛しても愛し過ぎは無いということを示しています。他の人から「あなたは私のすべて」などと言われたらうれしいかもしれませんが、そんなに愛される資格があるのかと思ってしまうでしょう。しかし上記のようにキリストは素晴らしいお方で、愛し過ぎはありません。「キリストがすべて」と告白して歩みましょう。そうする時にその言葉は告白となります。そして私たちは上記のものだけでなく、ありとあらゆる祝福を受けるでしょう。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の導きに従って」 ローマの信徒への手紙8:12~17(新約P284)  2016年4月24日 大竹敏生

 

私たち人間は罪があって弱い者です。弱い私たちは導き手を必要としています。今日は真の導き手について聖書から考えてみましょう。

導き手に必要なものは何でしょうか。1つは「知恵」でしょう。導く者は「知らない」事は教えられません。「知っている」から教える事ができるのです。他にも導き手に必要なものがあります。それは「力」です。目指す地に到達するのに力を必要とする事があります。それを「力」をもつ者が教え導く事ができるのです。そしてもう一つ覚えておきたいのが「導きを受ける者」を愛し知っているという事です。いくら知恵と力があっても、導きを受ける側を知らなければ、正しい導きは与えられません。小さい子どもに導きを与えるのに大人と同じではないはずです。小さい子どもにはそれにあった導きが必要です。真の導き手は導きを受けられるように配慮して与える事が求められます。

本日の聖書箇所には「神の霊によって導かれる者」とあります。つまりここでは導き手は「神の霊」とあるのです。神の霊とは聖霊であり、神そのものです。導き手は「神」なのです。この「神」は導き手として資格はあるのでしょうか。間違いなくあります。全知全能で、誰よりも私たちを愛し、知っていて下さる神は真の導き手です。私たちはこの神の導きに従って歩みましょう。

神の導きに従って歩むとき、私たちは何が与えられるでしょう。それは私たちが何故に導きが必要なのかを理解すれば分かります。最初に述べたように、人間は罪があるゆえに弱いのです。だから導きを必要としているのです。神の導きに従って歩むとき、弱さからの問題の解決が与えられるのです。そしてそれは私たちを、人間としてもまた信仰的にも成長させて下さるでしょう。

そして何よりも感謝すべきことは、導きに従う時に私たちには「救い」が与えられる事です。真の導き手が何よりも導きによって与えたいのが、私たちが救われる事なのです。導きに従って、信じて救いを得ましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストの愛を信じて」 エフェソの信徒への手紙3:14~21(新約P355)   2016年4月17日 大竹敏生

 

本日の聖書はエフェソの信徒への手紙からです。手紙の中なのですが、今日の箇所は祈りとなっています。手紙で祈りというのは、口述筆記をパウロはしていたようですが、何か大切な意味があるのではないかと思われます。

この祈りの中でパウロは、エフェソの教会の人たちが「キリストの愛」の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを知ることができるようにと祈っています。パウロは「キリストの愛」についてこの手紙でも、また他の手紙でも、愛を語っています。またエフェソの教会の人たちに直接愛を語っていたはずです。パウロは他の誰よりも「キリストの愛」を語ることができるのです。そのパウロがここでは祈っているのです。「キリストの愛」は人がどれだけすばらしく語っても、語りすぎることはありません。パウロはだからこそここでは祈っているのではないでしょうか。

19節にイエスキリストはその愛によって、私たちを満たして下さるとあります。私たちは弱いものですが、神はその満ちあふれる豊かさで満たして下さるのです。私たちが厳しいこの世にて、信仰の歩みを進めていく時、神はすべて必要なものを与えて下さるのです。そして私たちは成長することができるのです。そのために私たちは「キリストの愛」を知る必要があるのです。

「キリストの愛」を知るために私たちはどうしたら良いのでしょうか。パウロはそれを祈っています。つまり「キリストの愛」を知るために神の力が必要なのです。私たちが「キリストの愛」を知るために一番良いことは、実際にキリストによって愛されている体験をすることです。そしてもう一つ大切な事は「キリストの愛」を信じることです。私たちは誰もが間違いなくイエスキリストに愛されているのです。それを信じましょう。すると私たちは実際にキリストに愛されている体験をさせていただけるでしょう。「キリストの愛」を信じて、神と共に愛に満たされて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主を喜ぶことが力の源」   ネヘミヤ記8:9~12(旧約P750)   2016年4月10日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書のネヘミヤ記からです。バビロン捕囚の後、エルサレムに帰還が許されてイスラエルの民が荒れ果てたエルサレムに戻ってきました。そのエルサレムの城壁が再建されたことがこのネヘミヤ記に記されています。そしてこの8章は城壁再建の後、集まったイスラエルの民の前でモーセの律法の書が朗読された様子が記されています。10節に「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」とあります。この時のイスラエルの民はどんな思いだったでしょうか。城壁が再建され、今、神の言葉である律法を聞いて、喜びはもちろんあったでしょうが「何か喜んではいけない」というような思いもあったかもしれません。エルサレム崩壊を招き、バビロン捕囚の憂き目にあったのもイスラエルの民の罪ゆえであることは律法を聞けば明らかでした。そんな民にネヘミヤたちは10節の言葉をかけたのです。

喜びは私たちに力を与えます。苦しい状況にあっても喜ぶことによって乗り越えられたりします。しなくてはならないことを喜びつつ行うことができればわりとたやすくできます。学生の人は喜びつつ学ぶことができれば、大人の人は喜びつつ仕事ができれば最高ですね。

特にこの箇所には「主を喜ぶ」とあります。これは、力はこの主からも与えられることを意味しています。主が与える力だからこそこの力は確かで完全なのです。また実は私たちにとって、主は一番喜び易い方なのです。私たちに一番確かな喜びを与えて下さいます。主は決して私たちに「ぬか喜び」させたりはしないのです。その喜びとしてまず覚えたいのが救いです。信じることによって私たちを間違いなく救って下さるのです。感謝をいたします。

私たちはまず喜ぶために主を信じましょう。主が与えて下さる救いをはじめ、備えて下さる恵みを信じて歩むことによって力が与えられます。私たちが喜ぶことによって必要な力が源から湧き出てくるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「実を結びつつ成長し」  ヨハネによる福音書15:1~10(新約P198)  2016年4月3日 大竹敏生

 

本日は2016年度最初の主日です。そこで本日は今年度の主題の聖書箇所から神の言葉を学んでいきたいと思います。

本日の聖書の箇所はたとえ話です。主がぶどうの木で私たちはその枝だと記されています。当時イスラエルではブドウは大変価値の高いものでした。そのブドウを実らせる枝に私たちを例えているところをからも神が私たちの価値を高く見ていて下さることが分かります。感謝いたします。

「実を結ぶ」とありますが、これは何を意味しているのでしょうか。枝である私たちが結ぶ実です。つまり私たちがその歩みの中で生み出す成果と言うことになります。私たちは神につながっているのですから、神に対しての働きの成果と考えていいでしょう。私たちが神と共に歩む中で成長し、神のために働くために必要なものが得られるのです。私たちに与えられている賜物などもそうなのかもしれません。また「実を結ぶ」とはこういうことも考えられます。これも神が私たちに命じておられる伝道の働きです。神の福音をのべ伝えて人を救いに導くことは、よく収穫に例えられます。神につながっていることによって伝道の業が祝福されるのです。これも感謝な事です。

福音をのべ伝えることと成長することは、単純に考えると共存しにくいと思えます。でもこれは共存できるのです。だいたい私たちの成長のゴールずっと先にあり、私たちがこの世での歩みを終えるまで続くのです。私たちは伝道をはじめ主のために歩みながら、成長させていただくのです。感謝をいたします。私たちの成長の歩みは、人生と同じように山あり谷ありです。時には成長とは反対の方向に歩んでいるように感じることもあるかもしれません。でも神につながっている時、ぶどうの木と同じように間違いなく成長しているのです。

今年度も神につながって神のために神と共に歩みましょう。神のために福音をのべ伝えながら歩むときに成長させられ、祝福されるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活であり、命である方」 ヨハネによる福音書11:17~27(新約P189)  2016年3月27日 大竹敏生

 

本日は今年のイースターとなります。主イエスキリストの復活を喜びつつ聖書を通しての神のみ言葉を学びましょう。

本日は主の復活を祝うイースターですが、本日の聖書の箇所は主が復活された箇所より前の記事です。イエス様と親しかったマルタとマリアの兄弟ラザロの復活の場面です。つまりここの箇所ではまだイエス様はご自身の復活を行なっていません。でもラザロを復活させることによって、イエス様は死に打ち勝つ方であることを証明したのです。そしてこの後、ご自身が自ら実際死から復活したのです。25節では「わたしは復活であり、命である。」とイエス様は語っています。イエス様自身が復活と命だと宣言され、実行されました。実際にラザロはよみがえったのです。ラザロは自分の力で復活したのではなく、イエス様の力でよみがえりました。そしてイエス様はこの後、ご自身の力で復活されたのです。主が復活であり、命であるからにほかなりません。

復活されたということは死に打ち勝ったことを意味し、死に打ち勝ったということは罪に勝利したことを意味します。罪は私たちに死をもたらせました。だから主を信じる私たちは生きることができるのです。永遠の生命が与えられるのです。感謝いたします。また罪に打ち勝ってくださったので、罪から来るありとあらゆるものに勝利できるのです。罪ゆえに私たちは弱さを持っていて悩み苦しみます。罪ゆえに私たちは希望すら持てないこともあるのです。それは正に「死んだような」状態です。神さまはその復活の勝利によって「死んだような」者にも命を与えて下さるでしょう。主イエスキリストを、そして復活を信じて歩みましょう。私たちは主の復活によって来る世においては永遠の命を得、この世においては思い煩うことなく喜びに満たされた勝利の道を進むべきなのです。感謝いたします。また「復活であり、命である方」がラザロと同じようにやがて私たちを復活させて下さることにも感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の子だった」   マルコによる福音書15:33~41(新約P96)  2016年3月20日 大竹敏生

 

本日から今年の受難週です。そして今日は「棕梠の主日」と呼ばれる主日で、来週はイースターとなります。「棕梠の主日」とはイエス様がエルサレムに入場した時を記念しています。多くの群衆が歓呼の声をもってイエス様を迎えましたが、間もなくその群衆が「イエスを十字架につけよ」と叫ぶことになりました。何ともむなしい思いになります。イエス様は祭り上げられ、落とされる、そんな状況に陥ってしまいました。聖書ではイエス様はそんな十字架に淡々と向かいます。十字架に架かることがイエス様の目的だったからです。陥れられたかのようですが、実はその十字架によって私たちの罪を贖ったのです。

従ってイエス様は抵抗することなく十字架に架かったので、十字架上では苦しみの中で神の子らしくなく見えます。「メシアなら、イスラエルの王なら十字架から降りてみろ」という声にもこたえず、神の子らしくなく死んだのです。しかしそんなイエス様を見てむしろ信じた者がいました。十字架に一緒に架かった罪人の内の一人がそうでした。また今日の聖書箇所に出てくる百人隊長がそうです。十字架上の神の子らしくないイエス様を見て百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言いました。決して簡単に出てくる言葉ではありません。ローマの社会の中にある彼の立場を危うくするかもしれない言葉でもありました。百人隊長はおそらく何人も十字架に架けられた罪人を見てきたのでしょう。そんな罪人たちとイエス様ははっきりと違っていたのでしょう。だから出てきた言葉だったのだと思います。そしてこの言葉は神が百人隊長に言わせた言葉でしょう。この言葉は信仰告白であると言っても決して過言ではないでしょう。信仰告白は神が与えるのです。

私たちも百人隊長のように十字架のイエス様に目を向け、主の贖いを信じて告白しましょう。「イエス様こそ神の子」とです。十字架で贖いを成し遂げ、復活で救いを完成させたイエス様を信じて感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「希望に満ちあふれ」  ローマの信徒への手紙15:7~13(新約P295)  2016年3月13日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙15章7節~13節です。この箇所から主のみ言葉を学びましょう。

このローマの信徒への手紙は16章までとなっています。最後の16章は正に終わりの挨拶です。この15章がこのかなり長い手紙の終わりとなります。普通最後に記されていることは大切な事です。またこの手紙でパウロの記してきたことを受けてのまとめのようなことが書かれていると考えられます。その大切なこと、この手紙をまとめていることはどんなことでしょうか。1つは互いに愛し合うことであり、一致することです。強い者も弱い者も、ユダヤ人も異邦人も一致して神の平和を得ることが勧められています。これは神に力を借りなければできません。神に喜ばれるために祈って愛し合いましょう。

13節によりますとその一致させる神は「希望の源である神」とあります。私たちの神は私たちの希望です。そして希望の源ですからその希望は尽きることはありません。私たちは真の希望を源である神から受け続けることができるのです。やはり13節に「希望に満ちあふれさせてくださるように」と祈られていますが、これは必ず実現される祈りです。希望の源である神にこれからも希望に満ちあふれさせられて歩みましょう。

以前私は「希望」という言葉からは弱いイメージを感じると語りました。それは今も変わりありません。そして本日は弱くて良いのだと語りたいと思います。私たちは罪があり弱いものです。希望がもし強いものだったら、また神が希望ではなく人には持てないような強いものの源であったなら、私たちは受けられなかったのではないでしょうか。弱い私たちは希望だからそれを持つことができるのです。私たちはたとえ弱くても、信じることで神の与える希望を持つことができるのです。与える神さまも私たちの弱さをご存知です。強くではなく、私たちが持つことができるように希望を下さる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「力は神から我らに」    詩編138編:1~8(旧約P978)    2016年3月6日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書の詩編138編です。この箇所から神の言葉を聞いていきましょう。

この詩編は表題にありますようにダビデによるものです。ダビデはイスラエルの第二代の王で、神を信じる偉大な信仰者でした。ダビデは信仰的に優れた人でしたが、そのすばらしい信仰の特長は何だったでしょうか。その一つとして「自分ではなく神を誇りとする」ということがあったと思います。ダビデは偉大なことをいくつか行ないました。ゴリアテを倒してイスラエルを勝利に導きました。外敵に勝利し国力を伸ばして繁栄させました。そういう自分を誇りとしそうな状況でも誇ることが無かったようです。それはそういう実績は神の与えた力によるものと考えていたのでしょう。1節と2節を見ると神への感謝が記されています。また3節には神から力が与えられたとあります。神は私たちに力を与える方なのです。

神は力を喜んで私たちに与えます。私たちも自分の愛する存在を喜ばせたいと考えます。神も同じです。私たちを愛する神は私たちに喜んで力を与えるのです。ダビデも神から多くの力を受けました。彼が求めた時、主はそれにこたえて力を与えたのです。ダビデはそこに神の愛を感じていたことでしょう。私たちも神に愛されています。神を信じ、神から力を受けて歩んでいきましょう。

この詩編138編は最後の7節と8節が祈りとなっています。神に力を求めているのです。ある人はこのことをダビデの弱さと見るかもしれません。力が与えられるとの確信がないから祈っているというのです。でもそれは違います。ダビデはこれまでも神から力が与えられてきました。むしろ確信しているはずです。むしろダビデは弱さゆえに神からの力を必要としているからこそ祈っているのです。私たちも神に力を求めましょう。神は喜んで与えて下さるでしょう。喜んで私たちに力を下さる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「決して離れない神」  ヘブライ人への手紙13:1~8(新約P418)  2016年2月28日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はまず兄弟愛が語られ、正しい夫婦関係のこと、生活のことといろいろです。何か話がポンポンとあちらこちらととんでいる感覚です。そんな中で5節に「神は決して離れない」と力強い神の約束が記されているのです。私たちがどのような状況であっても、私たちには神が必要であり、神は決して私たちから離れないと約束しています。感謝いたします。

「決して離れない」という行為は2つのものが必要です。1つは力です。「離れない」と頑張っても、離す力がそれ以上であれば引き離されてしまいます。神は全能の力を持ちます。どのような力の持ち主も神の力を上回ることはありません。人間のように非力で力及ばないことはありません。感謝します。またもう1つの必要なものは何でしょうか。それは愛です。力があっても愛が無ければ離れていきます。人間でも愛するものと共にありたいと考えます。しかし愛が無ければ離れても問題なくなります。神は誰よりも私たちを愛しておられます。ローマの信徒への手紙の8章で「どんなものも神の愛から私たちを引き離すことはできない」とあります。神の愛ゆえに私たちから神は離れないのです。神は全能の力と完全な愛を持っておられます。この方が「決して離れない」と言って下さるのですから、間違いなく神は私たちから離れません。感謝です。主は8節にあるように「変わることのない」方です。ということは「決して離れない」という約束も変わることが無いのです。神は霊なので私たちには見えませんが、私たちから離れないことを信じて歩みましょう。

私たちは罪があり、弱い者です。ありとあらゆる局面で神の助けを必要としています。そしてこの手紙の書かれた時代は、3節からうかがえますが迫害も当然あったでしょう。どのような時でも「決して離れない」という神の約束を励みとして歩みましょう。離れない神が私たちを助け、祝福し、導き、成長させて下さるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられている喜び」  フィリピの信徒への手紙4:4~7(新約P366) 2016年2月21日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙4章4節~7節です。このよく知られた箇所から学んでいきましょう。

4節に「喜びなさい」という命令が出てきます。この命令は文字通りとると少し不思議な言葉です。むしろこの命令は「喜びを得るために努力しなさい」という意味と考えるとしっくりくるような感じですね。でも他の聖書の箇所などからみると、聖書の「喜びなさい」はむしろ文字通りとるべきなのではないかと思わされるのです。

だとするならばすでに私たちには「喜ぶ」理由が与えられていることになります。喜ぶ理由もなく喜ぶのは無理な話です。ではそのすでに与えられている喜ぶ理由は何でしょうか。4節には「主において」という言葉があります。この言葉が私たちにすでに与えられている喜ぶ理由を探るのに重要な言葉です。主が与えるものとしてまず「救い」があります。私たちを愛する主は私たちを救うために十字架に架かって下さった「救い主」なのです。私たちはまず喜ぶ理由として「救い」が与えられていることを覚えましょう。また主は私たちを愛しておられます。主の「愛」ゆえに救われるし、主の「愛」ゆえに弱い私たちは助けられるのです。5節~7節に弱い私たちを助けて下さる主なる神の様子が記されています。また「主において」という言葉から、私たちは主そのものを喜ぶのです。私たちを愛する主が私たちを救って下さり、助けて下さるのです。そんな主を喜びましょう。主は共にいて下さるのです。

「喜びなさい」という命令は喜んでいない状態のものへの命令となるのが普通です。この手紙は「喜びの手紙」と言われるほど「喜び」の言葉であふれています。むしろフィリピの教会は喜びの教会だったようです。そんな教会にもさらに「喜びなさい」と命じられるほど喜ぶことは大切なのです。喜ぶことによりさらに祝福され喜びが増し加えられるでしょう。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じて待ち望め」      詩編27:7~14(旧約P858)  2016年2月7日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所の詩編27編はあの有名なダビデによるものです。ダビデの人生はまさに波乱万丈でした。罪も犯しましたが、神を愛し、神と共に歩んだ人でした。そのダビデの書いた詩編から神のみ言葉を聞きましょう。

前半の6節までは神の守りに対する強い確信が語られています。そして本日の聖書箇所の7節からは一転して主に対して懇願する言葉が続いています。これはダビデの信仰を物語っていると思います。ダビデは神に対する非常に強い信仰を持っていましたが、それはダビデ自身が強い人であったというわけではなかったようです。むしろ弱い人で、王でありましたが、一人の弱い人として神により頼む人であったのです。7節以降には、まるで小さな子どもが親にすがりつくようにして、神に祈っている様子が記されています。ダビデの信仰は信じる神によって与えられているものなのです。

14節には2回「主を待ち望め」とあります。待ち望むことは決して簡単ではありません。だいたい人は待つのは苦手です。すぐに答えや結果を求めます。ただ神は時を支配しておられます。そして私たちにとっての最善を成して下さるお方です。つまり最善の時に最善のことを成して下さるのです。私たちはそれを信じなくてはなりません。そして信じて待たなくてはならないのです。神さまが最善の時に与えるのですから、その最善の時がいつ来てもよいように備えていることが大切なのです。

信じて待ち望むためには、ダビデがしているように祈りが有益です。祈りが信じ続ける力を与えて下さるのです。ダビデは決して安閑とした歩みをしていたわけではありません。そしてスーパーマンのような強い人ではありませんでした。そんな彼が神にすがるように祈り待ち望み続けたことによって、助けられ祝福されたのです。強い人ではなかったのに信仰も増し加えられ育まれたのです。信じて待ち望みましょう。主は決して裏切ることはありません。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「真実な方の愛」  コリントの信徒への手紙Ⅰ10:11~13(新約P312)  2016年1月31日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所の13節はよく知られた箇所です。ここの箇所を励みとして日々を過ごしている方々も多いのではないでしょうか。

八方ふさがりの状況において、そこから逃れる道が備えられていることは喜びです。またそのおかれた状況によっては、その逃れの道こそ最後の希望かもしれません。この逃れる道は、私たちを愛する神の備える道です。ということはこの道に神は試練の中にある私たちを導くということが約束されています。私たちは罪があり、弱いので逃れる道を進むことができないこともありえます。私たちを愛して罪を赦す神は、私たちを逃れる道に導き、また共に歩んで下さるお方です。感謝いたします。

この手紙の著者パウロは、人を襲った試練は大きくても耐えられないものはなかったはずだと記しています。多くの試練にあっていたパウロの言葉です。誰も反論できません。そしてパウロ自身もこのことは実感としてここに記しているのでしょう。神の備えた逃れの道に必ず導かれて歩んできたのでしょう。私たちもパウロほどではないでしょうが、誰もが少なからず試練に遭ってきました。しかし「耐えられないものはなかった」と証してまいりましょう。そしてこれからも神と共に神の備えた逃れの道に導かれましょう。

ただ、逃れの道を使用しないで歩めればそれに越したことはないと考える人もいるかもしれません。神はなぜ私たちを試練に遭わせるのでしょうか。神は私たちを愛しておられ、真実な方です。私たちは試練によって人間的に、また何よりも信仰的に成長します。罪ある私たちは、この世においては悩みがあります。その中を信仰をもって歩み続けなくてはならないのです。そのために私たちに試練が与えられます。神は私たちに信仰を与え、成長させ、共に歩んで下さるのです。試練に遭っても神の備えた逃れの道に導かれて歩めることを感謝します。またそのことを通して信仰が成長させられることにも感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神は世を愛された」  ヨハネによる福音書3:16~21(新約P167) 2016年1月24日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は良く知られた箇所です。特に16節は「聖書の中の聖書」とか「小聖書」などと呼ばれている箇所です。つまりこの16節は聖書全体の言いたいことを一つに凝縮していると言えるのです。その16節を中心に神のみ言葉から学んでいきましょう。

16節から分かるのは神がとてつもない大きな愛で世を愛されたということです。世というのはそこに存在する私たち人間を指します。つまり神の大きな愛につつまれるのは私たちなのです。私たちは神に似せて造られました。これは私たちが創造された時には罪が無かったことを意味します。しかし私たちに罪が入りました。私たちは罪が赦されて救われる必要が生じたのです。その罪を赦すためにイエスキリストが私たちに与えられました。そのことが、神が私たちを愛している証なのです。

私たちに神のみ子イエスキリストが与えられました。この方は私たちの罪を負って十字架に架かって下さいました。何故でしょうか。そうです。それは神が私たちを愛して下さっているからにほかなりません。「神が私たちを愛しておられる」この事実を私たちはいつも覚えていたいものです。ある人は「神が私たちを愛しておられる」ということを認めるのが私たちにとっての大前提だと主張します。まず私たちは無償の神の大きな愛を信じましょう。

私たちは罪ゆえに苦しみます。また聖書によりますと罪ゆえに滅びるのです。私たち人間ですらも愛する存在が苦しんだりすることを望まないでしょう。まして私たちを愛して下さる神は、私たちが苦しむことも、まして滅びることも望みません。そのためにイエスキリストが与えられ、十字架に架かって下さったのです。それを信じて歩みましょう。私たちは案外愛を必要としています。自分ですら自分を愛せないような弱い私たちをも愛して下さる神に感謝します。神を信じて神の愛を忘れずに歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「何もかも神にお任せしなさい」  ペトロの手紙Ⅰ5:6~14(新約P434)   2016年1月17日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所の中の7節に「思い煩い」という言葉が出てきます。この言葉は他の箇所では「思い煩うな」とあります。一方7節では「思い煩いを神に任せよ」とあるのです。私たちにとって思い煩いは良くないもののようだということは分かります。では思い煩ってはならないのでしょうか。それとも神に任せるべきなのでしょうか。7節の言葉は思い煩いの原因を指していると考えることができます。つまり思い煩いに至る理由を神に任せよという意味です。思い煩う前に神に任せるということになるわけです。またこうも考えられます。思い煩いは避けたいところなのですが、人は弱いのでどうしても思い煩ってしまうものなのです。私たちにとって避けようがない「思い煩い」を、それを本当に解決できる方にお任せしようと記しているということです。

私たちを思い煩わせる理由は様々です。仕事、家庭、人間関係、健康等々です。また、自分の罪のことで悩む人もいるでしょう。たくさんある「思い煩い」の理由ですが、そのすべてを神にお任せして良いのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」とあります。思い煩いは私たちの罪から来ます。神は私たちを愛しておられ、私たちを救って下さいます。そして私たちが思い煩うことを望まないのです。どのような思い煩いも神は解決して下さり、私たちを罪から救い、神は思い煩いをすべて解決してくれるのです。

「この世では悩みがある」と他の聖書箇所にあります。この世の歩みは思い煩いの歩みです。この手紙の宛先の人たちは迫害の中にありました。思い煩いは常にあったことでしょう。また手紙の差出人のペトロとその仲間たちも厳しい状況にありました。皆が思い煩いの只中にありました。おそらくそんな厳しい状況を、神に任せることによって平安に歩んでいたのでしょう。実は私たちも同じです。思い煩いから逃れることはできません。思い煩いの根本原因の罪を赦し、すべての思い煩いを消して下さる神と共に歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「並外れて偉大な力」  コリントの信徒への手紙Ⅱ4:7~15(新約P329)  2016年1月10日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所に「土の器」という言葉が出てきます。土の器は壊れやすく不完全です。不完全な器にはふつう宝は入れません。不似合です。しかし今日の聖書箇所にはその不完全な器に「並外れて偉大な力」と例えられるほどの宝を入れるとあります。「土の器」とは私たち人間で並外れて偉大な力をもつ神は私たちの中にその偉大な力を与えるのです。

8節~9節に、私たちが例えどのような状況に陥ろうとも大丈夫だというすばらしい約束が記されています。感謝いたします。これは神が私たちの苦しみや悩みを軽く見ているのではないことも意味しています。私たちは「四方から苦しめられ」「途方に暮れ」「虐げられ」「打ち倒される」のです。ただ神は私たちのその苦しみをすべてご存じなのです。決して小さくない、いや、ものすごく大きな悩み苦しみであっても、神の並外れた偉大な力で私たちの苦しみや悩みの一つ一つに届いて助けるのです。そしてそれは欠けだらけの土の器である私たちの内にあって働くのです。

また「並外れた偉大な力」は、私たちの悩みや苦しみの根本に届きます。私たちの苦しみや悩みは、私たちの罪から来ます。その罪の問題を解決するのです。私たちは罪があり、死ぬはずのものです。しかしイエスキリストによって私たちに命が与えられるのです。10節以降にそのことが記されています。罪の問題を解決するために私たちはイエスキリストの十字架を信じて歩みましょう。イエスキリストは確かに復活させられました。そしてその復活の命は私たちにも与えられるのです。感謝いたします。

神は私たちを愛して、土の器に宝を与えます。神の並外れた偉大な力が私たちに与えられるのです。その神によって私たちは神に守られます。何も恐れることはないのです。また私たちには神によって罪の赦しが与えられ、救われるのです。神に並外れた偉大な力を受けてこれからも歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の栄光があなたの上に」   イザヤ書60:1~7(旧約P1159)   2016年1月3日 大竹敏生

 

本日は2016年最初の主日礼拝で新年礼拝となります。今年も主日の礼拝が一つ一つ祝福されますように祈ります。

本日は旧約聖書のイザヤ書の60章1節~7節から学んでまいりましょう。最初にいきなり「起きよ、光を放て」と命じられています。命じられているのは「あなた」です。この「あなた」とは直接的にはシオンの都エルサレムです。しかしこれは前の章などから見ると決して都市を指しているということではなく、むしろ、主の贖いを受けた者を指すと考えられます。またもう少し大きく考えますと、贖いを受けるべき者すべてと考えられ、つまり、罪があって弱い私たちすべてとも考えられるのです。

主に背いたイスラエルは厳しい状況を迎えます。まさに真っ暗闇の中にあるようです。罪ある私たちも同じように弱く闇の中にあるようなものです。しかし主は闇の中にある者に光を放てと言われます。光れない私たちにです。光れない者が光を放つにはどうしたら良いのでしょうか。その方法として私たちは光を受けて反射するように輝けるのです。

その光は私たちの神から来ます。今日の聖書箇所には「主の栄光はあなたの上に輝く」とあります。その罪の大きさにより、闇の中に輝けずにどっぷりと浸かっている私たちの上に、ご自身の栄光を輝かせて下さるのです。私たちは主の栄光を受ける資格を持っていません。そんな私たちに愛の神は栄光を輝かせて下さるのです。感謝をいたします。

エルサレムのおかれていた状況も、私たちの罪による闇もとてつもなく大きい闇です。しかし主なる神の栄光はどんな闇の中にも輝くことができるものです。私たちはその栄光を受けて輝くことができます。まず主の愛による救いを受けることが神に栄光を帰します。そしてその神の愛の救いを証することが光を放つことになります。光を受けてその光を放ちましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救いは近づいている」 ローマの信徒への手紙13:8~14(新約P293) 2015年12月27日 大竹敏生

 

本日は2015年最後の主日礼拝です。その主日の礼拝において神から示された箇所は、ローマの信徒への手紙13章8節~14節です。ここの箇所は8節~10節と11節~14節の二つに分けられます。ただ本日はあえて一緒に考えたいと思います。

11節に「救いは近づいている」とあります。これの意味についてはいくつか考えられます。1つは自分自身の救いです。イエスキリストを信じて、信仰を守り通して歩めと言われているのです。また2つ目ですが、多くの人たちがこの箇所をこう考えています。それはイエスキリストがまた再び来られる再臨のことを示しているという考えです。またある人はこう考えています。それはイエスキリストは今も私たちのそばにおられ、多くの人たちが救われることを願い、私たちを用いようとされているというのです。どれが正しいというのではなく、どれもが正解なのではないかと思います。私たちは自分自身の救いの達成のために信仰の道を歩み通し、主が必ず来られることを常に意識し、多くの人たちの救いのために祈りつつ証をし続けたいものです。証はいろいろな方法を通して行うことができますが、他者を愛すること、また愛し合うことが大きな証となることをおぼえましょう。

証をしていくために私たちは必要なものがあります。12節には「光の武具を身に着けましょう。」とあります。光である主イエス様がそれを下さいます。別の言い方をするなら、神に頼って歩むことが勧められているということです。実際人を愛したり互いに愛し合うことも、神がまず私たちを愛して下さっているからできることなのです。

愛し合うために、また証をして歩むために神からの力を受けて歩みましょう。「救いは近づいている」のです。また新しい年を迎えますが、変わりなく神と共に歩んいきましょう。主は私たちと共に歩んで下さるお方です。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられた大きな喜び」   ルカによる福音書2:8~20(新約P103)  2015年12月20日 大竹敏生

 

本日は今年のクリスマス礼拝です。今年も喜びをもってクリスマスを迎え、主のご降誕のみ言葉から学べることを感謝いたします。

主イエス様はダビデの町と言われたベツレヘムの家畜小屋でお生まれになりました。また、ご降誕は天使たちによってその場にいた羊飼いたちに告げられたことが本日の聖書の箇所に記されています。11節には「あなたがたのために」主メシアがお生まれになったとあります。羊飼いのような宗教的に弱い立場の者たちのためとか、イスラエル民族のためと理解することもできますが、その前の節に「民全体」とあります。つまりこれは世界中のすべての人のためにという意味なのでしょう。つまり私たちもその「民全体」に含まれているのです。

そしてその「民全体」に「大きな喜び」がこのお生まれになったイエス様によって与えられるとあります。この「民全体に与えられる」というのは大変なことです。人は多くの人が喜ぶことはありますが、すべての人が喜ぶというのはなかなかありません。人のやることは完全ではないので、すべての人に行きわたるように喜ぶものを与えたつもりでも、その喜びからもれてしまう者が出てしまうこともあるでしょう。また本日の聖書箇所の天使によりますと与えられるのは大きな喜びなのです。民全体が誰一人ももれる事無く大きな喜びに満たされるなんてすばらしいことは神にしかできません。今から2000年前にお生まれになったイエスキリストは、神が私たちのためにくださった救い主であり、神から贈られたプレゼントなのです。

お生まれになった救い主は私たちに罪を赦すために十字架に架かって下さいました。私たちを愛して、救って下さる方が与えられたのです。これが大きな喜びなのです。すべての人が愛され、救われるのです。愛されない人も救われない人もいません。信じる者はすべて救われるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「その名はインマヌエル」  マタイによる福音書1:22~25(新約P2)  2015年12月13日 大竹敏生

 

本日はアドベントの第三週で、次週はクリスマス礼拝となります。今から約2000年前、救い主の誕生を迎える少し前に、み使いガブリエルがイエス様の母となるマリアと父となるヨセフにそのことを告げました。本日はその内のヨセフに告げられた場面から主の言葉を聞きましょう。

本日の聖書箇所の23節の言葉はイザヤ書7章からの引用です。救い主の誕生の何百年も前の預言です。そこには救い主の名が記されています。しかしこの「インマヌエル」という名前は、救い主の名前としてよく知られた名前ではありません。私たちでさえも救い主は「イエス」という名前を思い浮かべるはずです。しかしイザヤ書には「インマヌエル」という名前が記されているのです。そうです。私たちは「イエス(主は救い)」という名前と「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という救い主の両方の名前を忘れてはならないのです。救い主にして共におられる方なのです。

ただ、誰もが救い主は私たちを救って下さる方であることや全知全能であることなどに注目します。しかしここでは共におられる方であることにも注目しています。共におられるということは愛しているということを意味しています。聖書ではこの愛を特に強調します。神は私たちと常に共に居て下さるほどに私たちを愛しておられるのです。聖書では私たちを共におられるほどに愛して下さる方の誕生を預言しているのです。

私たちは誰もが救いにあずかる資格を持っていません。そんな私たちが救われるのは愛されているからです。イエス様の救いも、まず主なる神が私たちを愛して下さっているから与えられる恵みなのです。今年もクリスマスがやってきます。それは共に居て下さるほどに私たちを愛して下さり、私たちを救い、導き、助けて下さる救い主の誕生をお祝いする日なのです。インマヌエルの救い主を心から感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「伝える者に」   ローマの信徒への手紙10:14~17(新約P288)  2015年12月6日 大竹敏生

 

本日はアドベントの第二週で、世界祈祷週間の最終日です。世界に出て働かれる宣教師を覚えて祈り、献金しましょう。ある人はこういう風に思う人もいるかもしれません。「日本の伝道も進まないのに世界なんて」とか「困っている我々が何で世界に」とかです。ただ忘れてはならないのは今日の聖書箇所にあるように私たちにも知らせてくれた人がいたから聞くことができたのです。遠い海外から伝えてくれた人がいました。また震災などで被害に遭った我が国のために多くの国の人たちが援助してくれたのも忘れないで歩みましょう。

15節の言葉に注目しましょう。カギかっこの中の言葉は旧約聖書のイザヤ書からの引用です。ここで「良い知らせ」とありますが、私たちに伝えられたのは「良い知らせ」だったのです。「すべての人が主を信じることで救われる」というのが「良い知らせ」なのです。この「良い知らせ」を喜び、多くの人たちによって伝えられてきました。そして今も伝えられているのです。

そしてその「良い知らせ」を伝える者の足が美しいとたたえられています。これは意外ですね。伝える者の口や頭脳や顔などに目が行きがちですが、神はなんと足に注目しています。これは「伝える者の足のみが大切」ということを言っているのではありません。伝える者の足という人の目が行かないところにも、神は忘れずに見ていて下さるということを意味しています。また足はその働きによって汚れてしまいます。しかしその美しいとは言い難い足を神は美しいと記しています。伝えるために足が働き、そのために汚れても、神はその伝える働きのための汚れをも美しいとたたえるのです。感謝します。

私たちの働きも時に足のようです。世界宣教に対して直接的にかかわることはなかなかできません。でも例えば祈って献げていくことも神は喜んで下さるでしょう。その目立たない伝える働きを神は見ていて下さり、その働きを導き祝福して下さいます。伝える者として歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛は尽きず、離れず」   イザヤ書54:4~10(旧約P1151)  2015年11月22日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約の時代の大預言者イザヤの書からです。イザヤ書には多くのまだ起こっていないことが預言されています。今日の箇所もその内の1つです。この箇所は、イザヤのいた南ユダ王国が後に他国(バビロン)に都を破壊され、王国も滅亡するが、その後回復するとの預言が記されています。また二度とこういうことも起きないとの約束が記されているのです。

南ユダ王国が亡びるのはユダヤの民が神から離れたためであって、つまりそれは「神が南ユダ王国を見放した」と考えることができるのです。それに対して神は、確かに7節によれば「南ユダ王国を捨てた」と語っています。ただ「捨てた」というのは現象であって、神の愛が南ユダ王国とその民から離れたわけではないと語ります。10節から、実際に神が「捨てた」と思える状況でも神は南ユダ王国を愛し続けていたと読むことができます。

10節に「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかしわたしの慈しみはあなたから移らず」とあります。「山が移る」ことなどほとんどありえません。「丘が揺らぐ」というのも、少し地震で揺れたというものではなく、丘の存在が危ぶまれるほどというようなもので、これもまずありえないのです。そんなほとんどありえないことよりも、さらに神の愛が尽きたり離れたりすることはないと神ご自身が断言しているのです。その尽きない離れない愛ゆえに神は平和の約束も下さっているのです。

神はこのように南ユダ王国の民に約束を下さっていますが、私たちにも同じ約束が与えられているのです。私たちもまるで「神に見捨てられた」と感じるようなことがあるかもしれません。そしてそれは私たちの罪ゆえなのです。ただ南ユダ王国から神の愛が離れなかったように、神の愛は私たちからも離れません。感謝します。その絶対に離れない神の愛を信じ、励みとして歩んでまいりましょう。今日も変わりなく愛して下さる神に感謝をいたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「すべての人を招く愛」   マルコによる福音者2:13~17(新約P64) 2015年11月15日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はイエス様がレビ(マタイ)を弟子とする箇所です。マタイ、マルコ、ルカの福音書にこの記事は出てきますが、今回はマルコから主の言葉を学びたいと思います。

レビはイエス様の弟子になる前は徴税人(取税人)でした。徴税人は今日の聖書箇所にもあるとおり罪人と同列に扱われる身分でした。レビはそんな徴税人という己の仕事に満足を得ていたわけではないようです。彼はイエス様の「わたしに従いなさい」の言葉にすぐに従いました。そして罪人や取税人の仲間や弟子たちと共に食事の席につきました。この宴席の主催者はレビだったと思われます。イエス様の召命を奇跡のようなものと喜んで設けたのでしょう。しかしその宴席にケチをつけたのがファリサイ派や律法学者でした。イエス様が徴税人や罪人と一緒に食事をしていたからでした。それに対してイエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えたのです。

ローマ書に「正しい者は一人もいない」とあります。すると人はすべて罪人だということになります。つまりすべての人が招かれていることになります。それは神の愛です。すべての人が招かれているということは、イエス様はどんな大きな罪を持つ人をも招いておられることになります。「いくらなんでもこんな大きな罪は無理…」ということはありません。私はどんな人でも招かれ、罪が赦されるのです。また罪から来る影響、人の弱さや私たちを悩ます問題もすべて主は「無理」ということはありません。医者は病人の病気を治すためにその人として最大な力を発揮してくれます。罪人を招く主イエスキリストは、私たちの罪を赦し、弱さゆえの問題や悩みをその全知全能の力で引き受けて解決して下さるのです。罪から来る弱さに悩む人は現代も多いでしょう。愛をもって招いて下さる主に感謝をもって招きに答えましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰によって神に」  エフェソの信徒への手紙3:10~13(新約P355) 2015年11月8日 大竹敏生

 

私たちと神の間には実は大きな溝があります。私たちは神様から離れてしまっているのです。もともとは離れてはいませんでした。私たちと神を離れさせてしまったのは罪なのです。

今日の聖書箇所ではその溝を埋めるように神が計画を成されました。それが信仰による救いです。また神はその救いの計画をはじめとしていろいろな働きをされています。それは救いを含めてすべて私たちのためであり、それをこの地上に知らしめる働きを教会がしてきたのです。それによると私たちの信仰によって神がいろいろな恵みを下さったことが分かります。1つはもちろん救いです。私たちはその罪によって神と断絶してしまいました。その断絶の解消が十字架による救いです。主の偉大な十字架による救いを信じることで私たちは救われるのです。感謝いたします。

また12節には「神に近づくことができる」とあります。神と私たちを比べたら、能力にしても、何にしても比べものになりません。そして罪があるゆえに神に近づくことも本当はできないのです。ペトロは主イエスキリストの偉大な力を見せられた時「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。そうです。罪がある私たちは本当は神に近づくこともできない者なのです。しかし神は私たちが近づくことを許して下さいます。主を信じることによって、つまりその信仰によって罪が赦されて、神に近づくことができるのです。またこのことを、言い方を変えると「神の愛を信じる」ということになると思います。罪が私たちと神を引き裂いたわけですが、その罪に対して全く無力な私たちです。神に近づく資格は私たちには無いのです。しかし神は私たちを愛しておられます。資格がない私たちが近づくことを許して下さいます。いやそれ以上に近づくことを求めておられるのです。感謝をしつつ、その愛を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「本国は天にあり」  フィリピの信徒への手紙3:17~21(新約P365) 2015年11月1日 大竹敏生

 

本日は今年の召天者記念礼拝です。先にこの世での歩みを終えて神の御許に召された方々を覚えて礼拝いたしましょう。

本日の聖書箇所の17節にいきなり「わたしにならう者になれ」と驚くべき言葉が記されています。何か高慢な印象を与える言葉です。もちろんこの手紙を書いたパウロは尊敬すべき見習うべき方ですが、自分で言ってはどうかと疑問を抱いてしまいかねない言葉です。これはもちろん高慢なのではなく、パウロと同じように神を仰ぎ見つつ歩むようにという意味なのです。先に召された方々はパウロと同じように神を仰ぎ見つつ歩んだ人たちなのです。

先に召された人たちは十字架に敵対せず、神を仰ぎ見つつ、信仰によって天のみ国に導き入れられています。20節に私たちの本国は天にあると記されています。この「本国」は他の訳では「国籍」「ふるさと」などと訳されています。また原文の意味は「市民権」のようなものに近いそうです。これらすべてを合わせたような意味なのかもしれません。「天」におられ、「天」を管理し、「天」においても絶対のお方である神が、私たちにも「天」を保証しておられます。私たちは今はこの世にて歩みを進めています。しかしこの世での国籍がたとえ他国にいても変更がなければ保証されるように、私たちには本国である「天」が保証されています。先に召された人たちもその保証された「天」に今はおられるのです。「天」におられ、導かれる主の許で何の憂いもなく過ごしておられる召された方たちに続いていきましょう。

神を仰ぎ見つつ信仰をもって歩み、十字架に敵対せず神を愛して歩む私たちは、すでに本国は「天」なのです。神はそれにふさわしい者に私たちを変えて下さるのです。神に保証された「天」、すなわち「天」に導き入れられる権利を信じて先に召された方々に続きましょう。ふるさとであり、本国である「天」で再び皆と会えることを信じて感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしが選んだ」  ヨハネによる福音書15:11~17(新約P199)   2015年10月18日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は「ぶどうの木のたとえ」に続く箇所で、このたとえが話された理由が書かれています。このたとえで「主につながっている」ことの大切さが語られていますが、主につながることによって喜びに満たされるとあります。そしてそこから主に愛され、愛し合うことが勧められています。主に愛されているからこそ私たちには喜びがあり、愛に満たされ、愛し合うことができるのです。13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とありますが、それはこの後すぐにイエス様が十字架によって実践して示して下さいました。その愛に満たされることは大きな喜びです。主はまた、私たちを僕ではなく友と呼んで下さいます。確かに私たちは神の僕に過ぎません。しかし主は僕ではなく友として下さいました。これも神の愛なのです。

16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とあります。私たちが主を信じるとき、自分で信じたように思います。つまり私たちが選んだように思ってしまうのです。主は私たちの心にも届き、主を信じる信仰も主が与えて下さるのです。つまり自分で信じたように思いますが、実は主が信じる思いを起こさせて下さっているのです。主に選ばれていることを感謝いたします。「主が選んだ」ということは何を意味するでしょうか。1つは神が選ばれた私たちについて責任を負って下さるということです。ぶどうの木が枝に実をむすばせるように、私たちを選んだ主は私たちに実をむすばせる働きをして下さるのです。主に従って歩むとき私たちは祝福されます。「願うものは何でも与えられる」とあるのです。感謝します。また「主が選んだ」意味の2つ目はもう何度も語られていますが、主が私たちを愛されているということです。「わたしがあなたがたを選んだ」という言葉に「私はあなたがたを愛している」ということを強く感じます。私たちを選んで下さった主なるイエス様に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の神に望みをおいて」   イザヤ書40:27~31(旧約P1125)    2015年10月11日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所、旧約聖書イザヤ書40章の27節にはイスラエルの民が主なる神に不平を言っていることが記されています。私たちも時に神に不満を言いたくなることがあるのではないでしょうか。それに対して28節では神の偉大さを語ります。永遠で、天地万物の造り主、疲れない方、英知を究めた方とです。このことはイスラエルの民も、主を信じる私たちもよく知っていることです。神の偉大さを思い返すことが不信仰から来る不平不満を消すのです。

往々にして不平不満は私たちが疲れているときに出てきます。30節には「若者が疲れ」「勇士が倒れる」とあります。人は弱いのです。疲れにくい若者すら疲れ、なかなか倒れないはずの勇士すら倒れることがあります。ところで、私が非常に疲れた時、肉体的だけではなく精神的に厳しい状況で会ったことを思い出します。31節には主に望みをおく人は新たな力を得るとあります。肉体的にも精神的にも厳しい状況から疲れて倒れてしまうような者は、主に望みをおくことによって力を得ます。肉体の問題も精神や心の問題も解決は神から来るのです。神様に望みをおいて歩みましょう。また人が疲れたりするのは、人が弱いからなのですが、その弱さは私たちの罪から来るのです。罪の問題の解決も神にしかできません。弱さを覚える時、疲れた時、倒れた時、主に望みをおいて力を受けて歩みましょう。その受ける力は鷲の強い羽ばたきのような力強いものなのです。

主に望みをおくためには主を信じることです。信じることによって主に望みをおくことができ、力を受けます。また信じることによって私たちには救いをはじめとしてありとあらゆるものが与えられるのです。現代は多くの人が疲れています。そんな今を生きる私たちは、主に望みをおく必要があります。疲れている私たちをあわれみ、愛をもって私たちに力を与えて下さる主なる神に望みをおいて歩めることを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられる喜び」    ペトロの手紙Ⅰ1:3~9(新約P428)   2015年10月4日 大竹敏生

 

主イエスキリストを信じることによって私たちには様々な恵みが与えられます。その恵みが生み出すものでもありますが、私たちには直接的に神から「喜び」が与えられるのです。「喜び」を下さる神に感謝いたします。

本日の聖書の箇所は、イエスキリストの1番弟子というべきペトロの書いた手紙の冒頭の部分からです。ペトロは、神がその愛と力で私たちにすばらしい恵みを与えて下さることを記しています。その恵みはもうすでに与えられているものであり、与えられつづけているものであり、これからも先も与えられるものなのです。主イエスキリストは私たちのために十字架に架かって死に、復活して今も生きておられますが、いつの日かまたこの世に来られます。その時には私たちには信仰によって「救い」がもたらされるのです。私たちはそれを希望として、また喜びとして歩むことが出来るのです。今日の聖書箇所にはこの世の歩み、今しばらくの間はいろいろ試練があるとあります。しかし恐れることはありません。今も生きておられる主からの守りと恵みがあります。救いの約束もあります。神と共に試練を乗り越えていきましょう。

主イエスキリストの弟子の中でも1番密接な交わりをしていたのがこのペトロです。そのペトロが、今も生きている主イエスキリストが共にいて下さるからこその恵みを記しています。彼は十字架に架かる前のイエス様から恵みを受けました。そして十字架に架かって後、復活したイエス様からも恵みを受けました。そしてその後のイエス様からも恵みや力が与えられました。私たちにも与えられる恵みを喜びましょう。そして今も生きておられる主イエス様と共に歩めることをも喜びましょう。

その与えられる喜びは、計り知れないほど大きなものです。過去の与えられた喜びも、今与えられている喜びも、そしてこれから与えられる喜びも大きいのです。私たちは与えられる喜びで満たされます。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「だれでも救われる」  ローマの信徒への手紙10:5~13(新約P288)   2015年9月27日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所には人はどうしたら救われるかが記されています。人は救われる必要があるのです。それは私たちの中にある罪からの救いなのです。その罪は私たちにいろいろな負の影響を与えているのです。私たちの死も弱さも皆罪から来ているのです。そして何よりその罪ゆえに神様から引き離されてしまっているのです。その罪から救われなくてはならないのです。

聖書に「人はしたいことができず、したくないことをしてしまう」とあります。それは罪の与える影響、大きさを表しています。また他の箇所には罪を「一万タラント(6000億円位)の借金」と例えています。罪の影響はあまりに大きく私たちには解決が不可能なのです。したいことができずにしたくないことをしてしまうほどに弱い私たち。その罪に対してできることは何もありません。神様は罪を忌み嫌います。罪ある私たちとは断絶されています。その罪の解決のために神はどうしたら救われるかを今日の聖書箇所で教えています。それは「心で信じ」「口で告白する」とあります。神様は私たちが罪の清算に関して何もできない弱い存在だと知っています。あんなに途方もなく大きい罪の清算のために、私たちにできないことを命じていないのです。それは神の愛からきています。

「心で信じ」「口で告白する」とありますが、つまり主イエスキリストの十字架による救いを信じ受け入れることです。「口で告白する」というのは弱い私たちのために必要なのではないでしょうか。「口で告白する」ことによって私たちは言ったことに責任を持つ必要があります。「信じる」ということによって、たとえ厳しい状況に陥っても信じ続けることもできるのです。また「信じる」ということで迷いを捨てることもできるのです。

私たちの罪の大きさと私たちの弱さを知っておられる神を信じましょう。信じる者はだれでも救われるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛から」    マタイによる福音書18:18~20(新約P35)   2015年9月13日 大竹敏生

 

本日は「高齢者を覚える礼拝」です。教会に連なるご高齢の方々のさらなる祝福をお祈りいたします。

本日の聖書の箇所は神の愛に満ちた約束が記されています。非常に少ない人数が心を合わせる時、祈りが叶えられるとあり、同じように少ない人数が集まる所に主が共にいるという約束です。私たちの世は「多数」と「少数」を比べれば「多数」の方が上となります。これはある程度は仕方がないことかもしれません。しかし「少数」が顧みられないことはあってはなりません。しかし罪があり弱い人間は、時にそのあってはならない状況に陥ることがあります。愛の神はその「少数」と共にいて下さり、顧みて下さる方なのです。

ただ、ここで注意したいのは、神は「少数」を顧みられる方なのですが「多数」も顧みる方だということです。これはたとえ人は「多数」であっても弱いということを意味しているのではないでしょうか。私たちは時に「多数」になったり「少数」になったりするでしょうが、神に愛されていることに変わりはないのです。

残念ながら私たちの世界では先にも記したように「多数」が力を持ち、「少数」は顧みられなくなることがよくあります。そしてその数が少なくなればなるほどにそれは顕著となります。ご高齢の方々はいろいろな意味で「少数」となります。しかし神の愛はまんべんなく注がれているのです。

また神の愛は減ることはありません。世界中すべての人が愛されていますが、その愛は減ることはなく、むしろ一人一人が他のどんな存在からよりも愛されているのです。それは愛の根源は神にあるからです。愛そのものである神から愛は発せられているのです。これからもその尽きない神の愛を受けていることを覚えて歩んでまいりましょう。そして神の愛を受けて、その愛を証しし、また少しでもその愛を他者に向けて歩みたいと思います。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の助けと救い」      詩編121:1~8(旧約P968)    2015年9月6日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の詩編の121編で、有名な箇所です。ここでこの詩編の作者は「私の助けはどこから来るのか」と疑問を記しています。この問いの答えを見いだせないでいる人たちは多くいるのです。ただこの作者は実は本当の答えを知っていたのです。彼はこの疑問を山々に目を向けて問います。山々は具体的には神の都エルサレムとその近くの山々を指すと考えられます。エルサレム自体山の上にあり「シオンの山」と呼ばれます。その近くにはオリーブ山などもあります。この詩編は「都に上る歌」です。神の都エルサレムに目を向けて神の助けを祈ったのでしょう。また山に目を向けたというところにも注目しましょう。山に目を向け、それを造られた神を思うのです。弱い私たちはエルサレムではなくても、この地の山に目を向けてそれを造られた神に助けを求めることができるのです。感謝いたします。

神の助けは完璧な助けです。人も人を助けることができます。ただ弱い人間ですので、その助けが力が及ばなかったり、間違ってしまうこともあるでしょう。でも神の助けは違うのです。天地を造られた全知全能の神は力が足りないことはありません。間違うこともないのです。また神は決してまどろむこともなくいつも私たちと共にあって守って下さいます。それは神の愛を示しています。全知全能の力を持つ神が私たちを愛して助けて下さり守って下さるのです。感謝いたします。

本日の聖書箇所の最後には、神の見守りは「とこしえまで」あると記されています。「死ぬまで」ではないのです。これは一つは、神の助けは人間が存在する限りあるということを示していると思います。またもう一つは私たちが死んだ後も守られるという意味があります。つまり私たちは救われ、死んだ後も主の支配される神の国に導かれて永遠の命が与えられるということです。究極の助け主にして救い主なる神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「最も大いなるものは愛」 コリントの信徒への手紙Ⅰ13:1~13(新約P317)  2015年8月30日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所のコリントの信徒への手紙Ⅰの13章は「愛の讃歌」と讃えられる箇所です。愛について、特に神の大きな愛について記されています。今日はこの「愛の讃歌」から神の言葉を聞きましょう。

この箇所の前半部分は愛についてそのすばらしさが記されています。愛がなければどのような良いと思える行為も無に等しいとあり、4節以降にはいくつもの愛のすばらしさが記されています。しかしこれだけ書かれていても愛のすばらしさを語りつくしてはいないのです。いやそれどころかこれでもほんの一部でしかなく、神の愛の大きさ、深さ、広さはとうていはかり知ることができません。私たちが神の愛をどんなに大きく、深く、広くみたとしても決して大きすぎたり、深すぎたり、広すぎたりすることはありません。それほど神は大きな愛の方であり、その愛は私たちに向けられているのです。

この聖書箇所の終わりに愛は、信仰と希望と共に最後まで残ると記されています。このいつまでも残る信仰と希望と愛はすべてすばらしいものです。ただこの3つの中で最も大いなるものは愛だと記されています。信仰は、これなしには誰も救われません。私たちはイエスキリストを信じる信仰によって義とされているのです。これくらい信仰は大いなるものなのです。また希望は、私たちがどのような状況にたたされても私たちを最後まで離れずそこから救う力です。つまり希望も大いなるものなのです。しかしその二つを上回るおおいなるものとして愛があります。罪ある私たちが信仰により救われるのは、神のあいによるからに他なりません。弱い私たちが神に希望を持ち続け助けられるのは、神の愛によってなのです。最初に神が私たちを愛して下さっているからこそ、私たちは救われるのです。神が私たちを愛しておられるから、私たちは助けられるのです。この神の愛による恵みによって生かされていることを感謝します。神の大いなる愛によって救われ、助けられて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「力と愛に満ちた方」   マタイによる福音書10:26~31(新約P18)  2015年8月23日 大竹敏生

 

今日の聖書の箇所には「人々を恐れてはならない」とあります。この言葉は逆に「人は人を恐れるもの」ということを物語っています。実際私たちは「人を恐れること」でさまざまな問題に悩まされているのではないでしょうか。ではなぜ人は恐れるのでしょうか。それは人が弱いからです。その弱さは罪から来ているので、人が恐れないで歩むことは無理なのです。

でも弱い人が弱い人を恐れるよりは、弱くない方を恐れるべきなのです。28節にはそのことが記されています。力を持った強い方を、つまり神を恐れるべきだと記されているのです。私たちを滅ぼす権威を持っておられ、罪を憎む神を私たちは、少なくとも人よりは恐れるべきなのでしょう。

ただ今日の聖書の箇所の終わりには「恐れるな」と記されています。これはとり方によっては「神を恐れるな」ととることもできます。神は恐れるべきなのでしょうか。恐れなくてよいのでしょうか。これはどちらも正しいのです。神は力がある方で、罪を憎む方です。私たちは力ある神を恐れるべきです。ただ神は私たちを愛する方です。雀すら愛する方です。その雀以上に私たちは愛されているのです。その愛ゆえに私たちが滅びることを神は求めていません。私たちは神の愛ゆえに救われるのです。つまり私たちは神の愛ゆえに恐れることはないのです。

神はまたすべてをご存知です。罪ある私たちをすべてご存じで、隠されているものは一切ありません。これは神の愛と力を意味しています。私たちの髪の毛の数も数えられています。これは私たちのすべてを知っていて下さる力と、そういうことまで知っていて下さる愛を示していると思います。神はまさに「力と愛に満ちた方」なのです。恐れるべき方ですが恐れなくて良いのです。私たちは「力と愛に満ちた方」である神を信じて、神と共に歩みましょう。恐れのない豊かな歩みができ、救いを受けることができるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神により頼むしかない」  ルカによる福音書16:19~31(新約P141)  2015年8月16日 大竹敏生

 

今日の聖書の箇所は「金持ちとラザロ」と題されるたとえ話です。たとえ話とは、私たちが神の真理について知るためにイエス様が分かりやすく話されたお話です。そのため話が多少省略されたりすることもあり、惑わされないで聞いていく必要があります。今日の箇所も注意しつつ味わいましょう。

この「金持ちとラザロ」のたとえ話の特徴は、本当にあった話ではないのに「ラザロ」という登場人物の固有名詞が出てくるところです。「ラザロ」とは「神が助ける」という意味ですばらしい名前ですが、それをわざわざ記すということは意味のあることと考えるべきです。

このお話で思い違いをしないようにしたいのは、ラザロがこの世で苦しんだから天国へ行き、金持ちがこの世で放蕩したから地獄へ行ったと考えてはならないということです。あくまで救いは信じることによって与えられるのです。つまりラザロは神を信じたから救われ、金持ちは信じなかったから地獄へ行くこととなったのです。この話には「ラザロが信じた」というような直接表現はありません。ただ想像できるのは「金もない」「自分もダメ」「友達もいない」そんなラザロは神により頼むしかなかったのです。一方金持ちは頼るものはたくさんありました。むしろ神により頼むのは自身にとって都合が悪く、神に背を向けたと考えられるのです。神により頼むのは信じなければできません。ラザロは神を信じ、金持ちは信じなかったのです。

神により頼むことから得られるものは「天国」だけではありません。ラザロは天国行きも祈ったかもしれませんが、むしろ生きられるように祈っていたと考えられます。それは決して満足できるかたちではなかったかもしれませんが、ある程度かなえられたとも言えるのです。

「神により頼むしかない」のはラザロだけではありません。実は私たちもそうなのです。神により頼んで歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストはわたしたちの平和」 エフェソの信徒への手紙2:11~22(新約P354)  2015年8月9日 大竹敏生

 

8月は日本バプテスト連盟の「平和宣言月間」です。8月は「平和」について考え、求めていくのにふさわしい時と言えます。

日本語の「平和」は世界とか日本とか非常に広い大きな地域などに用いられます。個人や家庭などにはむしろ「平安」などが用いられるのではないかと思います。では聖書ではどうでしょうか。聖書の語る「平和」はそのどちらも含みます。聖書の示す「平和」は意味が非常に広く深いのです。「平和」や「平安」の言葉から考えられるありとあらゆる多くのイメージがすべて含まれていると言っても過言ではないのです。

また今日の聖書箇所には個人的な「平和」が語られています。それは神と私たち一人一人の「平和」です。聖書では「平和」から私たちを遠ざけるものは私たちの「罪」だと教えてくれます。私たちの「罪」ゆえに、私たちは神と引き離されました。神と「平和」ではなくなってしまったのです。私たちは神との「平和」を取り戻す必要があったのです。それをイエスキリストが成しとげてくださいました。16節にはイエスキリストの「十字架」によってそれを成してくださったと記されています。「罪」によって断絶した神との関係が回復することによって、神との「平和」が回復されるのです。

聖書では「平和」を乱すものは「罪」だと語っています。神との関係が回復することは「罪」が赦されたことを意味します。つまり神との「平和」がまず一歩であり、そこから「平和」の実現に向かうことができるのです。私たちはキリストにおいて一つとなり「平和」が得られるのです。つまり「平和」は私たちの力で実現することは大変困難だと言わざるをえません。14節にはキリストが私たちの「平和」なのだと記されています。人には実現が難しい「平和」ですが「平和」の主であるイエスキリストに委ねて、神と人との間に真の「平和」を得て歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神のみ言葉に導かれ」  テモテへの手紙Ⅱ3:10~17(新約P394) 2015年8月2日 大竹敏生

 

今日の聖書箇所「テモテへの手紙Ⅱ」はパウロが処刑される直前に書いた手紙と思われます。そしてパウロは自分の処刑は近いと悟っていたようです。そういう状況の中、自分の愛する弟子のテモテに書いたのがこの手紙です。そういう手紙には「緊迫」「危機」「迫害」などについてパウロ自身の体験から来るアドバイスなどが書かれており、そしてそれは手紙を書いた時のパウロの状況と何か一致するものが感じられます。

そんな状況の中、パウロは愛する弟子テモテに大切な事をまるで遺言のように記しています。今日の聖書の箇所には「み言葉の大切さ」が記されていますが、何かこれは当たり前すぎて違和感のようなものを感じてしまいます。命の危険を感じるような状況で、もう限られたことしか教えられない状況の中、何かもっと難しく厳しいアドバイスがあってしかるべきと思われるのに、パウロは「み言葉の大切さ」を説いています。このことは「み言葉」「聖書」が本当に大切だということを意味しているのです。聖書は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。それは神についてです。聖書は神のみ言葉なのです。神についてということは、たくさんのことを教えて下さるのですが、特にここでは「信仰による救い」が強調されています。つまり神は私たちが信じて救われることを、何より求めていることが分かります。

また、聖書は今も生きておられる神の導きが示されます。神の導きはよく神のみ言葉によって示されるのです。それは時に私たちの意に沿わないこともあるのです。「人を教え、戒め、誤りを正し」と16節にあるとおりです。しかし弱い私たちにとって、自分の思いよりも神の導きに従うことが最善なのです。そしてそれが私たちの信仰をより強固なものとして、救いの道をまっとうして歩むことにつながるのです。神のみ言葉に導かれて歩みましょう。テモテと同じように、パウロの遺言として聞き従いましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らを救うために」  フィリピの信徒への手紙2:6~11(新約P363)  2015年7月26日 大竹敏生 

 

イエスキリストが私たちのためにかかって下さったのが「十字架」です。この「十字架」は大変過酷な刑罰です。神の子でありながら人間であったイエス様はその過酷な刑罰を私たちのために受けて下さったのです。感謝をいたします。今日の聖書の箇所には、そんな過酷な十字架にイエス様は「従順に」臨まれたとあるのです。確かに十字架に向かうイエス様は、抵抗するそぶりもなく歩まれています。まさに「従順に」です。でもゲッセマネにおいては「この杯をのけて下さい」と十字架にかかりたくないと祈りました。確かにイエス様がただの人間であったとしても十字架は過酷な刑罰です。ただイエス様は人間としての苦しみの他に、神の子ゆえの苦しみもありました。その神の子ゆえの苦しみとは、十字架が切り離すことができないほど一体の神とイエス様とを引き離すことを意味しているからです。むしろこの苦しみがイエス様にとっての十字架による最大の苦しみだったのです。

それほどの苦しみである十字架にイエス様はかかって下さいました。そんな苦しみをいとわないほど私たちを愛して下さっているからです。イエス様の十字架を信じることで私たちは救われるのです。そして信じること以外に救いはありません。信仰によって義と認められるのです。

今日の聖書箇所を見るとイエス様は十字架にかかったことによって、神により高く上げられました。そしてあらゆる名にまさる名をお与えになりました。しかしイエス様はその栄誉を受けること以上に、私たちを愛するがゆえに十字架にかかって下さったのです。感謝いたします。今日の聖書箇所の11節に「イエス・キリストは主である」とすべての人が宣べるようになると記されています。言い方を変えると、すべての人が「イエスキリストは私たちの救い主で、私はそれを信じます」と宣べるということです。それがイエス様をたたえることになり、何よりもイエス様が望まれていることなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主による土台」    ルカによる福音書6:46~49(新約P114)  2015年7月19日 大竹敏生

 

私たち自身にとっても、私たちの周りのことにおいても「土台」というものは大変重要です。土台がしっかりしていないと私たちは力を発揮できません。いやそれどころか、私たちは害を受けてしまうのです。「足元を固めて」などと言いますが、すべてのことにおいてしっかりとした土台を得て、足元を固めて歩みたいものです。

本日の聖書箇所もそうですが、聖書には私たちの「土台」についていくつかの記述があります。コリントの信徒への手紙の一には、私たちの「土台」は主なる神だとあります。そして本日の聖書箇所には「主の言われることを聞き、実行することが土台となる。」と記されています。コリント書と今日の聖書箇所はどちらが正しいのでしょうか。実はどちらも正しいのです。一見コリントの方が分かりやすくしっくりくるような気がします。しかし「神ご自身が土台」というのは、神が見えないので案外意識できなくなったりします。今日の聖書箇所には「神の言うことを行ないなさい。」とあります。これは難しそうですが、意識し易いと思います。そしてこれは決してコリント書の主張と違うことを言っているのではないのです。見えない神が土台と意識するには信じなくてはなりません。そして神の言うことを行なうには、神を信じなくては実行は困難です。誰も信じていない人の言うことを行なうことは難しいのです。神を信じて神が土台であると意識しましょう。また神を信じて神の言われることを行なう者になって土台を確固たるものにして歩みましょう。

神を土台にして歩むことはすばらしい恵みです。神の導きの中、しっかりと歩むことができます。また今日の聖書箇所に具体的に記されていますが、この土台のおかげで私たちは守られるのです。実は弱い私たちは神なしには、たいへん危うい土台の上にいるような者なのです。神を信じてしっかりとした神ご自身の土台を得て歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられる義の実」  フィリピの信徒への手紙1:3~11(新約P361)  2015年7月12日 大竹敏生

 

パウロのフィリピの教会への手紙の最初の部分です。フィリピの教会はパウロの関係した教会の中でも、非常に熱心かつ忠実にキリストに従っていた教会です。パウロはフィリピの教会を喜びつつ励ましています。

本日の聖書の箇所の特に9節以降を見てみましょう。ここはフィリピの教会がこうなってほしいというパウロの祈りです。祝福されたフィリピの教会がさらに祝福を受けられるようにと願って祈っています。するとこの祈りはある意味で成熟した教会やクリスチャンにこそ必要でふさわしい祈りなのかと思えます。そういう面はもちろんあるでしょう。しかしこの祈りはまだヨチヨチ歩きの赤ん坊のような信仰しかない者にもふさわしい祈りなのです。いやまだ主を知らない者にも有効な祈りなのです。

熟練した信仰者にも信仰の歩みを始めて間もない者にも必要な祈り、いやさらに主を知らない者にも有効な祈り、なぜそういうことが起こるのでしょうか。それは神への祈りだからです。神がそれを叶えてくれるからです。この祈りは知る力や見抜く力を求めていますが、別の見方をすると信仰を求めていると言えるのです。そしてさらに言い換えると神と共に歩むと言えるのです。主を信じ、信仰を保ち続けることそれが大切なのです。私たちには義の実があふれるばかりに与えられるのです。その義の実は「救い」「祝福」「恵み」「助け」「導き」などとして注がれるでしょう。これらはイエスキリストを信じることによって与えられます。義の実は神によってのみ与えられるのです。

私たちは神が必要です。神と共に歩み主を信じましょう。信仰も神によって与えられます。その信仰を保ちつける力も神が下さるのです。人は信仰を持ち、信仰を保ち、神と共に成長できるのです。これからも神の下さるあふれるばかりの義の実を受けて歩んでまいりましょう。私たちはどのような状況にあっても神を必要としているのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

  「生きている神を頼りに」 コリントの信徒への手紙Ⅱ1:8~11(新約P325)  2015年7月5日 大竹敏生

 

本日は日本バプテスト連盟の神学校週間の最終日です。神学生や神学校のスタッフの方々のために、また連盟の教役者養成のためにお祈り下さい。

神学校と聞くと多くの方々が「自分とは縁遠い」と感じるのではないでしょうか。しかし決してそうではありません。私たちも神学生たちも同じものが必要なのです。その必要な同じものとは私たちの主であって、私たちを愛して下さる神なのです。

私たちは実は弱いものです。でも人は罪があるゆえに頼るべき方に頼らずに自分に依り頼むのです。この手紙を書いたのはパウロという人です。ものすごく能力の高かった人です。でも彼はアジア州で苦難をこうむります。それは耐えられないほどのひどい圧迫を受ける苦難でした。パウロはそこで自分ではなく神に頼るべきことを学んだと記しています。パウロは実際非常に大きな死の危険に陥ったのです。パウロがいくら能力が高くてもなすすべもないほどだったでしょう。しかし神はご自身も死に打ち勝ちましたし、死者を復活させることができる方です。それほどの力を持ち、大きな愛をもって私たちを愛して下さる神により頼むことが大切だと学んだのです。私たちすべての人がそのように考える必要があるのです。

私は以前ある人から「今から何千年前の人の教えを信じることは俺にはできない」というようなことを言われたことがあります。その人は当然その何千年前の人は今は存在していない過去の人と考えていたのです。しかし私たちの主なる神は今も生きておられます。私たちを愛し、今も私たちを救い続けているのです。今も生きておられるからこそ私たちはこの神により頼んで歩むべきなのです。パウロはこの生きている神により頼んだからこそ死から救われました。そしてこれからも救われると確信しています。私たちも、今も生きておられる神を頼りにして歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「弱さの克服へ」  コリントの信徒への手紙Ⅰ1:18~25(新約300)  2015年6月28日 大竹敏生

 

入試の対策やスポーツの勝利に向けて弱点の克服が大切な事の1つです。そして人が生きてゆくために、弱点や弱さをある程度克服できればと願う者は多いのではないでしょうか。

聖書では私たちの弱さは罪から来ると教えています。神は私たちを神に似たかたちに造りました。造られた時点では罪がなかったのです。しかし人間に罪が入りました。その罪ゆえに私たちには死が運命づけられることとなったのです。つまり罪によって死と弱さが私たちに入り込みました。ということは罪を解決できれば、私たちは死も弱さも克服できるのです。そして言うなれば死も私たちの弱さの1つと言えるのです。

私たちがこの弱さの克服にいたるには、私たちの力では無理なのです。今日の聖書の箇所には、一見愚かに見える十字架にこそその克服にいたる道があると記されています。ということは、弱さの克服は神なしには方向と言い力と言い全く無力だということが分かります。神には私たちは、いろいろな弱さを背負いながら滅びにいたる道を進んでいるように見えているのではないでしょうか。私たちを愛しておられる神は、背負っている弱さを克服させ、滅びの道から永遠の命への道に導かれるのです。

それは主イエスキリストの十字架を信じることによって与えられるものです。残念ながら私たちの罪は無くなりません。でも罪は信じることによって赦されます。信じることによって死を含む弱さの克服へ進めるのです。

「神の弱さは人よりも強い」とあります。神の全知全能の力を表しています。その力は私たちを完璧に救うほど大きいのです。そしてその神の力は、神が私たちを愛しておられるゆえに与えられます。神は完璧な力と完璧な愛で私たちの弱さを克服させて下さるのです。十字架を信じる信仰によって与えられる恵みに感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の神を信じて」   マルコによる福音書4:35~41(新約68)   2015年6月21日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は舞台がガリラヤ湖です。イエス様に「向こう岸に行こう」と言われてガリラヤ湖に船を出しました。そこに激しい突風が起こりました。多くの弟子が元々漁師だったのに、沈みそうなほどの激しい突風でした。そこで万策尽きた弟子たちはイエス様のところにやってきました。マタイ、ルカ、そしてこのマルコの福音書にこの記事が出てきます。弟子たちの言葉は少しずつ違いますが、どちらにしても弟子たちは命の危険すら感じていたようです。イエス様は弟子の言葉を聞いて波と風を鎮めました。イエス様は弟子たちに「信仰」が問題だと指摘しました。

弟子たちの信仰はどこが問題だったのでしょうか。1つはイエス様の力に関してです。これまでもイエス様は救い主でなくてはできない奇跡を見せてきました。弟子たちも知っていたはずなのです。その知っていたはずのイエス様の力を、弟子たちは命の危険を感じるまで信じられなかったのでしょうか。もしかすると弟子たちが元漁師だったことがあるかもしれません。なまじっか腕に自信があったことで自分の力により頼み、真の力の持ち主に信頼することがすぐにできないことにつながったのということではないでしょうか。人は弱いのです。真の力の道主イエス様に信頼するように心がけましょう。

また力だけではなく神の愛を信じましょう。イエス様が弟子たち言いたかったことは「私がここにいるのになぜ信じないのか。」ということもあったと思うのです。すべての人を愛する神は、常に私たちと共におられます。この時も弟子たちの傍らにイエス様はおられたのに、弟子たちは忘れてしまったかのようにおびえてしまっていました。私たちを愛して、いつも共にいて下さる神を信じて歩みましょう。時代は進歩していますが、私たちは弱いのです。私たちを愛していつも共におられる神さまを信じて歩みましょう。私たちが自分だけの力で強くなることはないからです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛にあふれる神さま」    ヨナ書4:1~11(旧約1447)   2015年6月14日 大竹敏生

 

本日は子ども祝福礼拝です。ヨナ書から神のみ言葉を学びましょう。ヨナ書は預言書ですが、他の預言書はその預言者が神に示されて語った預言そのものが多く記されていますが、ヨナ書はヨナという預言者の具体的なある行動が記されています。ヨナは南ユダ王国の預言者でした。その頃アッシリア帝国がひんぱんに南ユダ王国を攻撃していたようです。ニネベはそのアッシリア帝国の首都だったのです。そのニネベが神の罰を受けるので、ニネベに警告するようにヨナは神に命じられました。それが嫌で逃げたヨナでしたが、神に立ち返らせられ、ニネベにて「ニネベは40日後に滅びる」と警告しました。その言葉にニネベの町の人たちは神を信じて悔い改めたのでした。しかもニネベの王までが率先して悔い改め、町じゅうに徹底的に悔い改めるように命じました。その悔い改めを神は受け入れ、ニネベは滅亡を免れたのです。ヨナはニネベが滅亡を免れたのがひどく不満だったのですが、神にいさめられました。

神の多くの愛がこのヨナ書に記されています。すぐに滅ばされてもしょうがなかったニネベはまず警告されました。また悔い改めたニネベの町は滅ぼされませんでした。ヨナはニネベに語る役割が与えられました。それを拒否して逃げても神はヨナを立ち返らせました。それもヨナは命が助けられ、悔い改めの時が与えられたのです。ニネベではヨナの語る言葉に神が力を与え、驚くべき悔い改めが起こりました。ヨナはニネベの滅亡が無くなったことに不満で、神に文句を言っています。ヨナにとってこれが2回目の背きでしたが、神はヨナをいさめ、赦しているのです。

このように神は愛の方です。愛があふれている方なのです。ヨナとは時代も場所もまるで違う現代ですが、ヨナの時と変わっていないことがあります。それは神がヨナやニネベの町を愛したように、私たちも愛されているということです。変わりなくあふれるように愛して下さる神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「希望は揺るがない」  ヘブライ人への手紙10:19~25(新約413)   2015年6月7日 大竹敏生

 

ヘブライ人への手紙の特徴の一つは「祭司」あるいは「大祭司」としてのイエス様の記述が多いということです。人間の「祭司」「大祭司」でさえ位が高い印象です。まして神の子であるイエス様です。とても近寄りがたい印象をもってしまいますね。しかしそんな「祭司」「大祭司」であるイエス様に大胆に近づこうとこの手紙ではよくすすめられています。実際に神と私たちの関係は能力や罪の関係から考えると、神に近づくことは許されないほど隔たりがあります。でも近づくことができるのです。それは私たちの力ではなく、神の愛によって許されているのです。だから神に近づこうではありませんか。

罪があって弱い私たちは、実は夢も希望もない状況なのです。しかし主イエスキリストによって私たちには希望が与えられました。この希望は神が下さった希望ですから確かな希望です。私たちはそれを信じて揺るがしてはならないのです。この私たちに与えられた希望とは、もちろん私たちの救いであって、それを信じることです。神が私たちを救って下さったことから、私たちのありとあらゆる恵みが備えられ、与えられるのです。私たちの希望は救われたこととそこから与えられるすべての恵みで、それを信じて歩みましょう。

23節にあるように希望を揺るがさないようにするにはどうしたら良いのでしょうか。それは24節以降の記述と関係があると思います。「愛と善行に励む」とあります。愛と善行は共に神の喜ぶことです。それを心がけることは神から離れないことにつながるでしょう。神から離れないことが希望を保ち続ける一番確かなことです。また25節には「励まし合おう」とあります。私たちは弱い者です。でも私たちは励まし合うことができます。私たちの希望を保ち続ける歩みは決して楽なものではありません。お互いが励まし合い、祈り合って歩んでいくことが大切なことなのです。これからも主と共に歩み、互いに祈り、励まし合って、希望を揺るがさないで保ち続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主よ、来てください」 コリントの信徒への手紙Ⅰ16:13~24(新約323)  2015年5月31日 大竹敏生

 

今日の聖書の箇所はコリントの教会に送られた手紙の終わりの部分です。15節から20節あたりまではそれらしくあいさつなどが記されています。他の節もこの手紙の終わりにあたっての大切なことが書かれているのです。

13節にコリントの教会への命令が書かれています。普通命令はその命令が守れていない者にするのです。ではコリントの教会の人たちは、眠ったような状態でしっかりと立ってなく、弱々しく生きているのでしょうか。この手紙の内容から考えるとそういう訳ではないと思われます。むしろコリントの教会の人たちは13節のような内容のものを求めていたと思われます。もしかするとコリントの教会の人たちは13節の命令は守れていると考えていたかもしれません。この手紙は高慢になっているコリントの教会の人たちにパウロが警告している手紙です。内容はかなり厳しいものです。その手紙の最後に真の意味で目を覚まして、しっかりと立ち、強く生きよとコリントの教会の人たちに命じているのです。実はこの命令を守るためには自分の力では無理なのです。神の力が必要なのです。コリントの教会の人たちは自分の力により頼む傾向が強かったのですが、最後に神により頼んで真の力を受けよと命じているのです。

また22節の「マラナ・タ」という言葉に注目しましょう。これは「主よ、来てください」という意味です。これはこの世の終わりにまた主イエスが来るという再臨の約束を意味しています。つまり再臨の約束が果たされるようにと願っているのです。この時代はクリスチャンの人たちにとって厳しい迫害の時代でもありました。迫害に悩み苦しむ彼らにとって再臨の約束が心の糧だったのです。「マラナ・タ」の祈りはこの時代のキリスト者が常に祈っていた大切な祈りの言葉だったのです。再臨の約束は完全な救いを約束します。そしてもちろん主は再臨の時まで私たちをほったらかしにはしません。再臨まで私たちと共にいます。主なる神と共に歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛が示された」   ローマの信徒への手紙5:1~11(新約279)  2015年5月24日 大竹敏生

 

ある聖書の箇所に「信仰」「希望」「愛」この3つは最後まで残るが、この中で最も大いなるものは「愛」だと記されています。このようにキリスト教では愛がとても大切なものなのです。私たちは神と人を愛さなくてはなりません。ただ私たちが愛するよりも前に、神が私たちを愛しておられることを知る必要があります。神に愛されているから弱い私たちも愛することができるのです。

その神の愛はどうしたら分かるのでしょう。イエスキリストは私たちのために十字架にかかって死んでくださったのです。どうしてなのでしょう。私たちはそれを受ける資格があるのでしょうか。はっきり言いますとありません。そんな資格がない私たちのために神は十字架にかかったのです。今日の聖書の箇所には「正しい人のために死ぬ者はほとんどいない」「善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれない」とあります。そしてつづけて「イエスキリストは罪人だった私たちのために死んでくださった」とあります。このことによって神の愛が分かるのです。8節には「愛を示されました」とあります。神はご自身が先にはっきりと私たちが分かるように愛を示されたのです。

イエスキリストが私たちのために死んでくださった、その愛によって私たちは、罪による神との断絶は解消されて、和解へと導かれました。イエスキリストが私たちと神との間に立って下さいました。10節にはその和解を得た私たちは「救われるのはなおさらです。」とあります。イエスキリストの十字架による救いは完全な救いであって、信じる者は誰一人としてその救いから漏れることはありません。この「救われるのはなおさらです。」という言葉からその救いの確かさを感じることができるのです。

パウロはこの救いによって神を「誇りとしています」と記します。神の愛による救いを確信しているがゆえに誇りとしているのです。私たちも救いを信じて神を誇りとしましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の神の霊に従って」 ガラテヤの信徒への手紙5:13~26(新約349)  2015年5月17日 大竹敏生

 

このガラテヤの信徒への手紙は、律法主義的キリスト者の影響を受けて、律法を守ることを大切にし始めたガラテヤの教会に、パウロが律法を守ることは救いとは関係がなく、主イエスを信じる信仰によってのみ救われるのだとの警告を込めた手紙です。信仰義認を否定する考え方をパウロは怒りを込めて非難しています。今日の箇所では律法は愛なのだと記されています。律法を表面的に守ることに走り、結局本質を見失っていたのでした。

そしてそこから肉と霊に話が進みます。肉のなせる業はは19節以降に書かれているように人の欲望に基づく行いがいろいろと記されています。その多くはできることなら避けたいと思うことではないでしょうか。でも私たちは避けることができずにそれを犯してしまうことがあるのです。一方霊の結ぶ実は22節以降に書かれています。ここに書かれている内容は私たちのぜひ目指したい内容ではないでしょうか。でもこちらはしたいと思ってもなかなかできないことなのです。これは残念ながら私たちの中にある罪が、したいことをさせずに、私たちは肉の欲望の虜になっているのです。

私たちは霊の導きに従って歩まなければなりません。この霊は聖書では聖霊また御霊と記しています。この聖霊あるいは御霊は実は神なのです。律法は神が私たちが愛をもって歩むように与えられたものです。私たちが愛をもって歩むために霊の実が必要です。愛の神の霊に従って歩むことは、私たちが愛をもって歩むために必要な上に、私たちが目指す歩みのためにも必要なのです。そして愛をもって歩むことと、したいと願ってもなかなかできない霊の実、私たちの目指す霊の実を結ぶ歩みのために、私たちは神に頼るべきなのです。弱く罪のある私たちは霊の実を結ぶことが困難です。でも愛の神は神ご自身である聖霊によって私たちを導いて下さり困難を克服して下さるでしょう。私たちを愛し、導く神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「すべてを超える神の愛」   ルカによる福音書15:1~7(新約138)   2015年5月10日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は有名な話なのですが、常識的にありえないとも言える内容です。常識、いやありとあらゆるものを超える神に愛を見ていきましょう。

この話はたとえ話です。何にたとえられているか一番はっきりしているのは羊飼いが主なる神だということです。そしてこの話は少なくとも2つのことが語られています。1つは主なる神の救いということです。そうなると迷い出た1匹の羊は救われる人です。一方99匹は二つのことが考えられます。それはまずこの話がなされるきっかけになった律法学者やファリサイ人に代表される、自分たちを特別と思っていたユダヤ人たちです。マタイの記事の方の「99匹よりも1匹を喜ぶ」はユダヤ人への警告を多く含むマタイ伝らしいと言えます。でもこの言葉はユダヤ人たちに厳しい言葉です。愛の神らしくないとも思えます。実はそのユダヤ人も変わりなく愛しておられるからこそ出てきた言葉ではないでしょうか。またこの99匹はすでに救われている人ととることもできます。その場合99匹は信仰から離れないことを心がけるべきです。主から信頼されてそこに残されたのです。ただ不幸にも信仰から離れてしまう弱い者もおります。でもその人もこの羊のように主は見つけ出して下さるのです。

この話の語るもう一つは、信仰の歩みを進める中で主の助けを必要とするということです。この場合1匹はそのピンチに陥った人です。99匹はまあ普通に歩んでいる人たちです。主は助けを必要としている人を、ほうっておくことはせず、助けて下さるのです。感謝します。でも他の99匹もいつ迷い出るか分かりません。その場合その者もこの1匹の羊のように助けられるのです。

神は私たちをびっくりするほど大きな愛で愛して下さっています。神など必要ないと言う者も愛して探して下さいます。助けを求める弱い私たち一人を探し出し、助けて下さいます。またその1匹を探し出した時、驚くほど喜ぶのです。これは何よりも私たちを愛しておられることの証なのです。感謝します。

 
 
 
 

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