◎メッセージ要約

☆毎週のメッセージの要約を掲載します。

 
 
 

[メッセージ要約]

「主の名によって祈る」  ヨハネによる福音書14:1~14(新約P196)    2022年11月20日 大竹敏生

 

本日も、このようにこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができました。導いてくださった主に感謝いたします。新型コロナは感染者がまた増えてきました。いっそう注意して歩んでまいりましょう。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所は、ヨハネによる福音書14章1節~14節です。本日はこの箇所の特に13節~14節を中心に「主の名によって祈る」ことを考えてまいりたいと思います。

私たちはなぜ主の名によって祈るのでしょうか。その理由の一つは、罪人である私たちの祈りは、主によってでなくては神に届かないので主の名によって祈るのです。主の名によって祈ることで、神に祈りが届くことを感謝します。

もう一つの理由は13節~14節にあるように、主の名によって祈ることでその祈りが叶えられるということがあります。ただ主の名によって祈ることが、祈りが叶えられるおまじないのようなものというのとは少し違います。主の名によって祈る時、神は叶えること以上のことをしてくださることすらあるのです。主の名によって祈る時、神は最善をなしてくださるのです。

主の名によって祈ることはまた、私たちの祈りが、主イエス様の祈りになることを意味します。これはすばらしい恵みです。私たちの祈りがイエス様の祈りになるからその祈りは聞かれます。そしてイエス様がその祈りの主となるのです。だからどのように叶えるかも主が導くのです。私たちは主の名によって祈り、13節にありますように主に栄光を帰しましょう。

主の名によって祈ることはこの後の15章、16章にも出てきます。このイエス様の告別説教の中で3回も語られているのです。イエス様は弟子たちを残して天に昇られますが、弟子たちに聖霊を与えることを約束し、主の名によって祈ることを教えてくれました。私たちも困難なこの世を歩む時、聖霊に助けられ、主の名によって祈りながら歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「荒れ野の民を愛する神」   出エジプト記33:12~17(旧約P149)    2022年11月13日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝を行なうことができましたことを、主に感謝いたします。新型コロナは感染者がまた増えています。これからもさらに気をつけて歩んでまいりましょう。

本日導かれた聖書の箇所は、旧約聖書の出エジプト記33章12節~17節です。私の神学校の卒論のテーマは「出エジプトのルートについて」でした。従って出エジプト記や民数記、申命記などには特別な思いがあります。本日その出エジプト記を示されました。感謝しつつ導きを受けたいと思います。

出エジプトした民は荒れ野で神やモーセに、ことあるごとに不平を言いました。そして本日の聖書箇所の直前には「金の子牛事件」という大きな罪も犯しました。「イスラエルの民はなぜこうなのか」と言いたくなりますね。ただ彼らは荒れ野にいたのです。荒れ野はいろいろな面で過酷です。そこに住むのは大変困難なのです。もし私がそこにいたなら、民と同じで不平を言っていた可能性は高く、罪を犯していたのかもしれません。

本日の聖書箇所は、モーセが民のために執り成しをしている箇所です。この執り成しは今日の箇所よりも前から続いてきています。神はモーセの執り成しで、少しずつ思いを直されてきているように読めます。モーセの執り成しのすばらしさを覚えたいと思います。ただ神が人間の言葉で思いを直すというのは不思議な気がします。私はここからむしろ変わらない神の愛を感じます。神は罪を見逃すようなことはしません。しかし神の愛は変わらないのです。それがこの神とモーセのやりとりに表れているように感じるのです。

神は過酷な荒れ野で、神を信じて歩んだ人だけを愛したのではありません。過酷な荒れ野で不平を言わず耐えた人を愛したのでもないのです。神は荒れ野で不平を言い、罪を犯した人をも愛しました。今、この世の荒れ野で不平を言い、罪を犯してしまうような私たちをも愛してくださる神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「死への勝利者」 コリントの信徒への手紙Ⅰ15:50~58(新約P322)   2022年11月6日 大竹敏生

 

本日も、皆さまとこの高松太田キリスト教会に集い、主の日の礼拝をもつことができました。主なる神に感謝をいたします。新型コロナは感染者が減りません。これからも気を抜くことなく、注意して歩んでまいりましょう。

本日は、私共高松太田キリスト教会の今年の「召天者記念礼拝」となります。その「召天者記念礼拝」に導かれた聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙Ⅰ15章50節~58節です。この箇所から導かれ、先に天に召された方々を覚え、私たちの信仰生活への糧としてまいりましょう。

50節に記されたことは次の2つのことを意味します。それは「主を信じる者は再臨の時に朽ちないものに変えられるということ」と、「主を信じる者は神によって救われ、永遠の命が与えられるということ」です。そしてこれは再臨の時に生きている者も召天されていた方もどちらもです。感謝いたします。

この手紙の著者パウロは、54節~55節で旧約聖書を引用し、「死への勝利」を記しています。そしてこのコリントの信徒への手紙Ⅰの15章は「イエスの復活」について記されています。つまり強い「死」に勝利したのはイエスキリストであるということです。ですが、まるで勝利したのは召天者、そして私たちだというように語ってきました。それについては57節に「イエス様から勝利を賜った」ことが記されています。私たちは死に勝つことができません。死にはイエス様が勝利したのですが、「私たちも勝利したこと」にしてくださったのです。私たちも、そして召された方々もこの勝利によって朽ちないものにされます。勝利を賜ってくださったイエス様に感謝いたします。

さて、私たちもこの世の歩みを終えて神のみもとに召された方々に続いて信仰を全うしましょう。私たちは「死への勝利者」とされるのです。この世においての歩みは、神が共にいる歩みです。イエス様によって「死への勝利者」とされた者として主の業に常に励んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「イエスの焼き印」 ガラテヤの信徒への手紙6:11~18(新約P350)   2022年10月30日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、皆さまと主の日の礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けています。これからも油断せず、注意して歩んでまいりましょう。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所はガラテヤの信徒への手紙6章11節~18節です。この箇所の特に17節から、「イエスの焼き印」という言葉について学び、主の恵みと祝福の中を歩んでまいりましょう。

ガラテヤの信徒への手紙は、ガラテヤ教会を導いたパウロが、ガラテヤ教会で起こっていた「信じるだけではなく、律法に定められている割礼も受けるべき」という間違った教えに惑わされているという問題を危惧して書かれた手紙です、本日の箇所はこの手紙の最後の部分ですが、本日の箇所にもそのことに対する記述があります。パウロの熱い思いが見えてまいりますね。

さて17節の「イエスの焼き印」とはどういうことでしょうか。「焼き印」というのは家畜や奴隷に所有者が押すものです。ですからイエス様のものであることを意味します。私たちも「イエスの焼き印」を受けていますから、イエス様のものなのです。イエスさもの所有であるということは、イエス様の恵みや祝福を受ける権利を持つことを意味します。イエス様の恵みと言えば、何と言っても「救い」です。私たち「イエスの焼き印」を受けた者は、救いや導きなど、必要なものをすべていただくことができるのです。そして「焼き印」は所有者が押すものです。そうです。イエス様の方から私たちを、主のものとしてくださいました。一方的な恵みを感謝いたします。そして「焼き印」は消えません。イエス様の救いや恵みは消えることは無いのです。感謝します。

今は難しい時代で確かなものはほとんどありません。そんな中、「イエスの焼き印」は確かです。確かな「イエスの焼き印」を受けた私たちは、これからもイエス様に用いられ、主のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「大いなる愛に根ざし」 エフェソの信徒への手紙3:14~21(新約P355)    2022年10月23日 大竹敏生

 

本日も、このようにこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を行なうことができました。主なる神に感謝いたします。新型コロナはまだまだ油断できません。神に祈りつつ、気をつけて歩んでまいりましょう。

本日、主に導かれた聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙3章14節~21節です。この箇所から、神の愛の強さ、大きさについて学び、その愛を信じ、愛に根ざして歩む者とされてまいりましょう。

キリスト教では「愛」というものがとても大切なものです。聖書には「愛」について多くの記述があります。その中には、本日の聖書箇所にもありますが「神の愛が大きい」ことが数多く記されています。その「大きい」ことの内容ですが、それは文字通り「大きく強い」ということが一つあります。ヨハネによる福音書3章16節に、神が愛する私たちのためにみ子イエスキリストを贈ってくださり、そのイエス様が私たちのために十字架に架かって死んでくださったことが記されています。愛によって、大きな犠牲を払ってくださったのです。そしてもう一つのことは、神の愛は「無くならない」ということです。神は、罪があり、愛される価値がないような私たちを愛してくださいました。そんな愛ですからこの愛は無くならないのです。私たちは神のために、神の喜ばれる歩みをしたいと思っていても、罪によってそれができなくなることがあります。でも神の愛はそれで消えてしまうことはありません。このような神の大きな愛をおぼえて、信じて歩んでまいりましょう。

さて、では私たちはどうしたら良いのでしょうか。エフェソの信徒への手紙3章17節には「愛に根ざし、立つ」ことが記されています。「立つ」にはしっかりとしたものの上にでなくてはなりません。そして「根ざす」とはそこから生きるのに必要なものを得ることが大切です。神の大いなる愛に根ざし、神から必要なものをいただき、しっかりと立ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神によって」   コリントの信徒への手紙Ⅰ3:1~9(新約P302)   2022年10月16日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に皆で集まり、このように主の日の礼拝をもつことができまして感謝いたします。新型コロナは一時に比べ落ち着いているようです。でも油断せずに気をつけて歩んでまいりましょう。

本日、導かれた聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ3章1節~9節です。この箇所から、神によって歩むことを学んでまいりましょう。

コリントの教会は多くの問題を抱えていました。パウロはこのコリントの信徒への手紙ⅠとⅡでも厳しい言葉を記しています。コリントの教会の問題の最たるものは、やはり分裂でしょう。パウロは分裂するコリントの教会に対してコリントの信徒への手紙Ⅰ3章1節で「キリストとの関係において乳飲み子」と記しています。自分の知恵や知識、能力や体験を誇りとし、他を見下し分裂していた彼らにとって屈辱的な言葉とも言えます。確かに分裂して子どものようなコリントの教会を、パウロは厳しく断じているのです。

ただパウロはコリントの教会の人たちを見捨ててはいません。「キリストとの関係において」というのは、クリスチャンであるという意味と言えます。彼らの信仰を認め、救われていると認めているのです。そしてまた「乳飲み子」というのは成長します。人生で子どものころは、霊肉共に一番成長するころです。パウロは「乳飲み子」という言葉の中に「あなたがたは成長する」という意味を持たせているのです。その成長は、コリントの信徒への手紙Ⅰ3章1節で「乳飲み子」であったコリントの教会の人たちが、9節では「神の畑、神の建物」となるとしています。クリスチャンは誰でも、神のために働く者と成りたいと考えます。神の畑、神の建物となって神のお役に立ちたいのです。神によって成長させられることを感謝いたします。

今は難しい時代です。だからこそ神によって歩んでまいりましょう。神は私たちを成長させ、恵みや祝福に満たしてくださいます。感謝いたします、

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしたちは主の群れ」   詩編100:1~5(旧約P937)    2022年10月9日 大竹敏生

 

本日も、皆さまとこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を守ることができ、主に感謝を申し上げます。新型コロナはだいぶ感染者が減っているようですが、引き続き十分に気をつけて歩んでまいりましょう。

私どもの教会の2022年度の年度主題は「愛し合う群れに」です。本日はこの主題から「群れ」という言葉について、旧約聖書の詩編100編1節~5節から考えるように主に導かれています。主の導きを感謝いたします。

詩編100編の中で3節に「群れ」という言葉が出てきます。そしてそこから「私たちは主の群れ」ということを示されます。「主の群れ」というのはどうあるべきでしょうか。「羊の群れ」とありますが、羊といってもそれぞれ性格が違うでしょう。しかしその群れには、どの羊にも居場所があるのです。「群れ」とは「教会」を指します。教会はキリストのからだで、私たちは部分です。誰も不必要な人はいません。全ての人が必要とされるのが教会なのです。

また「主の群れ」であるなら主がその群れにおられます。主の名によって集うところに主がおられます。主は群れである教会に共におられ、私たちを助けてくださるのです。「愛し合うこと」も主の助けなしにはできません。主から助けを受けて歩んでまいりましょう。ルカによる福音書12章32節に「小さな群れよ、恐れるな。」とあります。昔も今もこのイエス様の言葉に教会は励まされ、支えられています。私たちの教会も、主の群れとして主から必要をいただき、主によって守られ、励まされて歩んでまいりましょう。

詩編100編は礼拝の招きの言葉として、多くの教会で用いられています。またこの詩編は、神殿に入場する際に歌われていたそうです。そして内容的には、賛美と喜びなどが記されています。まさに礼拝ですね。主の群れである教会は礼拝を大切にし、礼拝し続けることが大切です。これからも主の群れとして、皆で、主と共に、主のために主を礼拝しつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛するがゆえに助ける神」  イザヤ書41:8~13(旧約P1126)    2022年10月2日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝をもつことができますことを、主に感謝いたします。新型コロナはだいぶ落ち着いているようですが、引き続き注意して、神に祈りつつ歩んでまいりましょう。

本日、神に導かれた聖書の箇所は旧約聖書のイザヤ書41章8節~13節です。この箇所の特に10節は多くの人に愛されている聖句で、ユーバージョンという聖書アプリで2020年に一番読まれた聖句だそうです。2020年と言えば、新型コロナが猛威をふるいはじめた年です。その年、新型コロナに悩んだ人が、聖書から励ましを受けました。その一番の箇所がイザヤ書41章10節だったのです。この箇所から、神の愛による助けを学びましょう。

私たちは弱い者です。神の助けが必要です。私たちが神の助けを必要とする時、なぜ神に頼るのでしょうか。私は以前、神が大きな力を持っているから神に頼ると感じていました。それは間違いではありません。私たちにはどうすることもできないので、全知全能で不可能が無い神に助けを求めるということは当然あります。ただ聖書では、むしろ神が私たちを愛しておられるがゆえに、神に頼るべきことが記されています。本日の箇所もそうです。神は取るに足らない者を愛ゆえに選びました。愛ゆえに共におられます。愛ゆえに私たち一人一人の神であると宣言します。愛ゆえにその大いなる力で、私たちを完全に助けられるのです。また神は愛ゆえに、私たちに直接かかわってくださり、助けてくださるのです。私たちは確かに、全知全能の神に助けを求めます。でも私たちは困難な状況の時、神の愛が必要です。神が私たちをその愛によって助けてくださいます。神の愛による助けを信じて歩んでまいりましょう。

新型コロナが流行しはじめた時、多くの人が恐怖しました。今日の箇所には「恐れることはない」とあります。私たちを愛する神の助けは、弱くて恐怖に陥ってしまう私たちを守ります。神の愛による助けを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストにならいて」  フィリピの信徒への手紙2:1~11(新約P362)   2022年9月25日 大竹敏生

 

本日も、このように高松太田キリスト教会に集まって、主日の礼拝を守ることができることを、感謝いたします。新型コロナは感染者が減っているようではありますが、続けて祈りつつ気をつけて歩んでまいりましょう。

本日導かれました聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙2章1節~11節です。この箇所からは前に「一致」をテーマにみ言葉をとりつがせていただきました。本日の箇所はそれにふさわしい箇所です。ただ本日は「一致」にも触れますが、キリストにならって歩むことを考えたいと思います。

本日の宣教題は「キリストにならいて」です。これは中世の神学者として有名なトマス・ア・ケンピスという人の代表的著作と同じ題です。先生には申し訳ありませんがこの「キリストにならいて」という言葉から学びましょう。

「キリストにならいて」とは、まず神の力を受けることを意味します。弱い私たちは神の力を受けなければ、本日の箇所にある一致や愛し合うことを成すことができません。大切なこのことを神の力によってなしてまいりましょう。また「キリストにならいて」とは神の喜ぶことをするという意味があります。一致や愛し合うことは神が喜ばれることです。そして何よりも11節にある信仰の告白が神を喜ばせます。キリストにならって神を喜ばせる歩みをしてまいりましょう。そしてもう一つ「キリストにならいて」の意味として、キリストの真似をするということがあります。真似は子どもでもする簡単なことです。でも私たちに大きな恵みをもたらします。キリストは人が一致し、愛し合うために模範として謙遜の限りを尽くされました。神であられながら人間となってくださったのです。私たちもキリストの真似をして、謙虚となり愛をもって一つとされましょう。人は師の真似をして成長し、弟子と呼ばれるようになります。何と私たちはキリストの真似をして、キリストの弟子とされるのです。「キリストにならいて」弟子とされることを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰によって」   ヘブライ人への手紙11:1~3(新約P414)    2022年9月18日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を行なうことができましたことを、感謝いたします。新型コロナは少し感染者が減っているようです。でも続けて注意して歩み、主の守りを祈ってまいりましょう。

本日は今年の「高齢者を覚える礼拝」となります。聖書ではご高齢の方を敬い、大切にすべきことが記されています。そして誰もがいつか高齢者となります。神と共に年を重ね、ご高齢の方を敬いつつ歩んでまいりましょう。

今年の「高齢者を覚える礼拝」に導かれた聖書の箇所はヘブライ人への手紙11章1節~3節です。この箇所は「信仰」について記されています。「信仰」と言えばアブラハムという人物を思い浮かべる人も多いと思います。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれる人です。そのアブラハムの信仰の行為の一つとして知られるのは、神の導きに従って住み慣れた故郷を離れ、未知のカナンの地に向かったことでしょう。アブラハムがハランからカナンに向かったのは、創世記12章4節にありますが75歳の時のことです。言うならばアブラハムが高齢になってからのことと言えるのです。

ご高齢の方は長く生きているので、人生経験が豊富です。そして神は、私たちがまだ神を信じていない時から、すでに私たちを導かれているのです。つまりご高齢の方は若い人たちに比べ、人生経験と共に神経験も豊富なのです。ヨハネによる福音書8章の「姦淫の場で捕らえられた女」の記事で、イエス様の「罪のない者が石を…」の言葉に、年長者からそこを去ったことが記されています。高齢の人こそ自分の罪、弱さを知っています。そして絶対なお方である神を信じていくのです。アブラハムは75歳にもかかわらず、神を信じて未知のカナンに向かいましたが、同時に75歳だからこそ信じることができたと言えるでしょう。新型コロナなどで先が見えない今こそ、この「信仰」が必要とされています。アブラハムのように信仰によって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「深く熱く愛し合おう」   ペトロの手紙Ⅰ1:22~25(新約P429)    2022年8月28日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集い、主の日の礼拝をもつことができましたことを、主に感謝いたします。新型コロナは相変わらずで、猛暑も続いています。気をつけてお過ごしください。主の守りをお祈りいたします。

本日、主に導かれた聖書箇所は、ペトロの手紙Ⅰ1章22節~25節です。今年度の教会の年度主題「愛し合う群れに」にある「愛し合うこと」はヨハネ文書に多くの記述があります。ただ聖書全体が「愛し合うこと」に関する記述にあふれているのです。本日の聖書箇所は、ヨハネと同じイエス様の十二弟子の一人で、いつもイエス様と一緒だったペトロが記したものです。ヨハネと同じように主に愛されたペトロは、やはり「愛し合うこと」を勧めています。私たちにとって大切な「愛し合うこと」を学び、実践してまいりましょう。

「愛し合うこと」は神の命令です。だから私たちは愛し合わなければなりません。そして私たちは「愛し合うこと」で祝福を受けるのです。その祝福ですが、例えば教会の教勢的な祝福があります。ただそういう物質的な祝福だけではありません。パウロは問題のあるコリントの教会に「一致」を命じます。これは「愛し合うこと」が教会の問題の解決につながることを示しています。

さてペトロがこの手紙を記した理由ですが、迫害に苦しむ人への助言と励ましという目的で記されたようです。苦しむ人に「愛し合うこと」を命じていますが、何か「愛し合うこと」というのは、余裕がある時にできることという印象があります。でも小さい子どもは、苦しい状況の時に親の愛を必要としているのではないでしょうか。私たちが困難な状況にある時、むしろ「愛し合うこと」が必要なのです。ペトロは「余裕があれば、少しでも愛し合え」と言っているのではなく、「苦しい時こそ、熱心に愛し合え」と命じているのです。これは「愛し合うこと」が、困難を乗りこえさせるということです。神によって深く熱く愛し合い、これからも困難を乗りこえてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛は離れない」   ローマの信徒への手紙8:31~39(新約P285)    2022年8月21日 大竹敏生

 

本日も、高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝を行なうことができまして、主に感謝いたします。相変わらず新型コロナは猛威を振るっており、暑い日も続いています。神に守りを祈りつつ歩んでまいりましょう。

本日導かれた聖書箇所はローマの信徒への手紙8章31節~39節です。この箇所については、著者のパウロが面白い書き方をしています。いくつかの神に関する歓迎できない状況を上げ、その後にそれを強く否定しているのです。そして特に「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」という事柄に関しては、35節~39節をさいて記しています。これはこのことが特に大切だということを示しています。また他に上げられていることも、この「神の愛」に関連しているのです。本日はこの「神の愛が離れない」ということを考えてまいりましょう。

「神の愛は離れない」ということを、人間の愛のように考えては理解ができません。人間は愛する価値のあるものを愛するのです。だからその価値が無くなれば、愛が消えることもあるのです。しかし神は罪ある私たちを愛します。それは罪に目をつぶっているのではなく、その罪に汚れた私たちを罪ごと愛しておられるのです。従って愛される資格のない私たちを愛し、その愛が私たちから引き離されることがないのです。強く大きな神の愛に感謝いたします。

神の愛は離れません。その離れない愛に対して私たちはどうしたらよいのでしょうか。私たちは離れない神の愛にただ甘えていてはならないのです。私たちは、神が間違いなく愛してくださることを覚え、その愛は離れることは無いことを忘れてはなりません。いつも神に愛されていることを覚えましょう。

私たちは神の愛によって生かされ、愛によって恵みや力を受けます。ちょうどヨハネによる福音書15章にあるブドウの木につながる枝のように、神の愛から離れずに歩んでまいりましょう。離れない神の愛に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神と平和」   コリントの信徒への手紙Ⅱ13:11~13(新約P341)    2022年8月14日 大竹敏生

 

本日もこのように、この高松太田キリスト教会に集い、主の日の礼拝をもつことができましたことを感謝いたします。新型コロナは相変わらず猛威を振るっていて、暑さも続いています。皆さま方の守りをお祈りいたします。

今は私たちの日本バプテスト連盟の「信仰宣言推進月間」の最中です。導きを祈ってまいりましたところ、やはり世界が平和を必要としている今、真の「平和」について語るように導かれました。神の導きを感謝します。

聖書の「平和」は単に戦争が無い、ということだけではありません。意味も「平安」「安全」などの意味もあります。またこの世的には、「平和」は国のような大きな集団に用いる言葉ですが、聖書の「平和」は私たち一人一人、個人にも用いられるのです。つまり、その大きな集団に属する者のすべてが、一人一人「平和」だということなのです。聖書の「平和」を感謝いたします。

このような「平和」を、私たちが造り出すことができるのでしょうか。無理だと思います。ではどうしたらよいのでしょうか。まず祈ることが大切です。神に「平和」の実現を祈り求め、神の助けを受けましょう。

またマタイによる福音書5章9節によれば「平和を実現する人々は神の子どもとよばれる」のです。子どもは親から必要なものをいただくことができます。私たちには「平和」を実現することはできませんが、神の子どもとして神の力で「平和」の実現に参与できます。神の力を受けて歩んでまいりましょう。

またコリントの信徒への手紙Ⅱ13章11節~13節に記されている、愛し合うことをはじめ、主を信じる者として、主に喜ばれることを実践することが大切です。そしてそのために「愛と平和の神」と共に歩み、神からの影響を受けてまいりましょう。私たちは環境や周りの影響を受けるものです。愛と平和の神から影響を受ける時、真の「平和」を実現できないはずの私たちが、主と共に神の真の「平和」の実現に参与することができるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神は我らを愛された」  ヨハネによる福音書3:16~18(新約P167)    2022年8月7日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナが相変わらず猛威を振るっています。続けて気をつけて歩んでまいりましょう。そして早い終息を続けて祈りましょう。

本日、導かれた聖書箇所は、ヨハネによる福音書3章16節~18節です。この中の16節は特に有名です。「聖書の中の聖書」「聖書の全てが凝縮されている箇所」などと言われ、あのマルチンルターも「聖書の縮図で、小さな福音書である。」とたたえています。この箇所から学べることを感謝いたします。

この16節は特にまだ主を信じていない方に、主を信じて救われるように語っています。では主を信じている人は必要がない箇所なのでしょうか。そうではありません。マルチンルターは先に挙げたあの言葉の後に「私たちはこの節を暗唱し、絶えず唱えるべきである。」と語ったそうです。神は私たちを愛して、私たちを救ってくださったのです。私たちはその神の愛の救いを忘れてはなりません。神を信じて救いを受け、今も愛されていることを覚えましょう。

私たちは罪人です。従って私たちは滅びに至るのです。私たちは救われなくてはなりません。この救いですが、私たちの行ないや私たちの人間的価値では救われないのです。神の律法を守ることは誰もできません。私たちは自分で自分を救うことはできないのです。神はそれに対して私たちが滅ぶことを望んでおられないのです。神は私たちを愛しておられ、私たちを救いたいのです。それで神の側から救いの道を開いてくださいました。それがイエスキリストの十字架です。罪のないイエス様が、私たちの罪を負って十字架に架かってくださいました。私たちと神の関係は回復したのです。感謝をいたします。

私たちは神の愛によって救われました。私たちが成すべきことは信じることです。私たちが神を信じて救われることは、神が求めておられることです。私たちは神を信じて、神の愛に応えてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神がすでに助けを」    エステル記4:10~5:2(旧約P767)    2022年7月31日 大竹敏生

 

本日もこのようにこの高松太田キリスト教会に集い、主の日の礼拝を行なうことができました。感謝いたします。新型コロナが猛威を振るっています。続けて気をつけてお過ごしいただき、新型コロナの早い終息を祈りましょう。

本日、導かれた聖書の箇所は、旧約聖書のエステル記4章10節~5章2節です。この箇所から、神はいつも私たちを助けるために、祈りに応え、最善に導いてくださる方であることを覚えてまいりましょう。

南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、民はバビロンに連れて行かれました。いわゆるバビロン捕囚です。その後、覇権を握ったペルシア帝国のキュロス王によって、エルサレムへの帰還が認められたのです。しかし、帰らなかった人たちもたくさんいました。エステル記はそういう人たちに起こった神の恵みが記されています。エステルは両親がいなくて、いとこのモルデカイの養女として育ち、後にペルシア王のクセルクセスの妻となりました。王に仕える大臣のハマンという人をモルデカイが拝礼しなかったことでハマンは怒り、モルデカイだけではなくユダヤ人を皆殺しにしようとしたのです。それを知ったモルデカイは、王に執り成すようにエステルに頼みます。しかし、内庭にいる王のところに、呼ばれていないのに行くことは、王の赦しが無ければ死刑になってしまいます。エステルはユダヤ人に祈るように求め、自分も祈って王のところに行きました。神は王の心を導いてくださり、王は呼ばれないのにやってきたエステルを赦し、最終的にエステルの執り成しにより、ハマンの策略は成功せず、かえってハマンが処刑されることになったのです。

神はこのように、私たちがどのような厳しい状況に陥ったとしても、全てを導いておられ、私たちを助けてくださいます。私たちは、時に大変な状況に悩まされることもありますが、神はそんな中にあっても一番良い方法で、私たちを助けてくださいます。神の愛の導きを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「互いに愛し合うために」   ヨハネの手紙Ⅰ3:19~24(新約P444)   2022年7月24日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナの感染者が過去にも無いほどとなっています。どうぞ気をつけてお過ごしください。そして早い終息を祈り続けましょう。

本日の聖書箇所はヨハネの手紙Ⅰ3章19節~24節です。私どもの教会の今年度の年度主題は「愛し合う群れに」です。この主題に関しては「ヨハネによる福音書」と、この「ヨハネの手紙Ⅰ」に多くが記されています。本日の箇所もそうです。この箇所から愛し合うために必要なことを考えてみましょう。

私たちは何故に「愛し合う」のでしょうか。一つはそれが神の命令だからです。そしてこれが神の望んでおられることでもあるからです。自分のためにはできなくても愛する神のために、「お言葉ですから」とイエスの言葉に従ったペトロのように神の求めることをしたいものですね。

そして本日の聖書の箇所には「愛し合うこと」による祝福が記されています。それは「救いの確信による平安」「願いがかなえられる」「神が内におり、我らが神の内にいる」です。どれもすばらしい祝福です。感謝いたします。

このように「愛し合うこと」は、愛する神の求めることであり、私たちの祝福につながります。しかし、愛のない私たちは「愛し合うこと」ができないのです。私たちはできないことは専門家に助けを求めますね。愛の専門家は神です。私たちは愛し合うために、神の助けが必要なのです。神の助けの一つは、神が私たちを愛しておられるということです。神の愛を受けて互いに愛し合ってまいりましょう。またヨハネの手紙Ⅰ3章23節をご覧ください。そこには「信じること」と「愛し合うこと」という大切な命令が記されています。これは別々の命令ではなく、関係があるのです。私たちは神を信じなければ、愛し合うことは困難なのです。愛せない自分に気づかされた時、神を信じ、神の助けを受けましょう。神が私たちを、愛し合うように導いてくださるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の言葉の大いなる力」   イザヤ書55:8~13(旧約P1153)   2022年7月17日 大竹敏生

 

本日もこのように高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を行なうことができ、感謝申し上げます。新型コロナがまた猛威を振るっています。皆さまも気をつけてお過ごしください。そして続けて早い終息を祈りましょう。

本日の聖書箇所は旧約聖書のイザヤ書55章8節~13節です。本日はこの箇所を通して神の言葉の大いなる力、すばらしさを感じてまいりましょう。

11節の「わたしの言葉」とは神の言葉です。神の言葉は神の思い、考えです。聖書の時代、神が直接人に語ることもありました。ただ多くの場合、預言者などを通して神が人間に言葉を語られ、導かれたのです。今は多くの場合、聖書がその役割を果たします。神の言葉イコール聖書と考えてよいのではないでしょうか。神の言葉ですから、神の言葉は神の思いを実現させるものです。天地創造も「光あれ」など、神の言葉が実現に導いたのです。また神は、ご自身の言葉によって、人を助けたり、導いたりもしています。感謝します。

11節にありますが、神の言葉は、神の思いを必ず実現させます。それは神の言葉だからです。人間の言葉なら、その思いの実現に近づくことができても、実現できるとは限りません。しかし神の言葉は必ず実現します。そしてその成せる業は、天地創造や神の助け、そして10節に記されている大地を潤す雨や雪など、ことごとく力あるすばらしいものなのです。その神の言葉による神のみ心の大きさとすばらしさは、8節~9節にあるように、私たちの考えをはるかに超えて高いのです。私たちの思いをはるかに超えてすばらしいのが神の言葉による、神のみ心なのです。ですから私たちは、時に、その大きさ、高さを理解できないのです。しかし13節にあるように、神の成せる業は有害なものも最高なものに変えます。新型コロナも、いつか神の言葉で、神が最善なかたちで解決してくださるでしょう。12節にありますように、神の言葉による神の業の大きさ、すばらしさを感謝し、喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛し合うべき」   マタイによる福音書18:21~35(新約P35)  2022年7月10日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に集まり、主の日の礼拝を皆で守ることができまして、感謝いたします。新型コロナの感染者がまた増加しています。皆さまも気をつけてお過ごしいただき、早い終息を続けて祈りましょう。

本日は先々週の聖書の箇所に続く箇所で、マタイによる福音書18章21節~35節を導かれています。この箇所から導きを受け、私たちは互いに愛し合うべきであることを覚えてまいりましょう。

本日の聖書箇所には「仲間を赦さない家来のたとえ」が記されています。家来は実に一万タラントン、一日の労働賃金を一万円とすると6000億円という借金を主君から免除されたのに、自分が貸した百デナリ、つまり100万円を返せない仲間を赦すことができませんでした。なぜでしょうか。家来は赦されたことを喜んでいなかったのでしょう。そして赦してくれた主君に対しても良い感情を持っていなかったのかもしれません。どちらにしてもこの家来は、主君の愛を恩に感じることなく、仲間を赦さなかったのです。

このたとえで主君は神です。そして家来と仲間は人間です。一万タラントンの赦しは罪の赦し、救いです。私たちが神に赦され救われたことは、とてつもない大きな恵みなのです。私たちは救いを喜び、感謝いたしましょう。主君が家来を愛したように、神は愛される資格のない罪人である私たちを愛しておられます。私たちは神から愛されているから、愛することができるのです。そして神は愛し合うことを求めています。互いに愛し合いましょう。

本日のたとえにはおもしろいことに、主君に仲間の投獄を知らせる別の仲間たちが出てきます。これは何を意味しているのでしょうか。これは家来やその家来に投獄された者にも仲間がいたということではないでしょうか。そうです。私たちにも愛し合う仲間がいます。愛し合うという行為は一人ではできません。これからも主にある者として互いに愛し合ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「それぞれの必要が」  マタイによる福音書6:25~34(新約P10)   2022年7月3日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝を行なうことができ、感謝申し上げます。新型コロナは治っていません。皆さまも続けて気をつけてお過ごしください。また、少しでも早い終息を祈りましょう。

本日は今年の神学校週間の最終日です。日本バプテスト連盟の指導者養成の働きのためにお祈りと献金へのご協力をよろしくお願いいたします。そんな本日、導かれました聖書の箇所はマタイによる福音書6章25節~34節です。この箇所は有名で、私もこの箇所から何回も宣べ伝えさせていただいた経験があります。この箇所はそれぐらい有名で、なじみ深い箇所だということが言えるのではないでしょうか。またこの箇所からはいろいろなテーマでメッセージを語ることができます。「思い悩まないこと」「神を第一にすること」「その時を大事にすること」などのテーマで私も語らせていただいたことがあります。本日は「神が私たちの必要を満たすこと」を考えたいと思います。

 私たちの必要は神が満たしてくれます。フィリピの信徒への手紙4章6節~7節に、神に祈ることで必要が満たされることが記されています。ただ、私たちは自分の必要が全て分かっているわけではありません。分からない必要を私たちはどうやって得たらよいのでしょうか。それは本日の箇所に答えがあります。神は私たちそれぞれの必要をご存知です。私たちは神を第一に思い、祈ることで神はいつの間にか私たちの必要を満たしてくださるのです。私が神学生のころ、私は自分の必要が分かりませんでした。しかし主を思い、祈りつつ歩むときに、主は私にいつの間にか必要なものくださったのです。感謝します。

 今、神学校で学んでいる人たちも必要が与えられるようにお祈りください。そして、神は皆さまの必要にも応えてくださいます。神に必要を求めて祈りましょう。神は私たちの願うものをくださいます。そして神が必要と判断されたものも与えてくださいます。神に必要を祈りつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしもその中にいる」  マタイによる福音書18:18~20(新約P35)   2022年6月26日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができ、感謝いたします。新型コロナは相変わらずです。皆さまも続けて気をつけてお過ごしください。また、早い終息を祈り続けてまいりましょう。

 私どもの教会の2022年度の年度主題は「愛し合う群れに」です。この「群れ」とは「教会」と考えることができます。本日はマタイによる福音書18章18節~20節を導かれました。この箇所から「教会」はどうあるべきかを考え、また神が教会と共にいてくださることを覚えたいと思います。

 19節に「願い事」「求める」とあります。これは祈ることを意味します。教会は祈る必要があるのです。祈りは意味が広く、賛美することやみ言葉を読むことも祈ることに含まれると考えられます。賛美やみ言葉、そして祈りは教会のなすべき礼拝に欠かせません。私たち教会にとって祈ることが不可欠で、大切なことなのです。また19節に「心を一つにして」と記されています。これは、教会のメンバーが同じ考えになるということではなく、一人一人がそれぞれの賜物で神のために歩むことを意味しています。「心を一つにして」は、他の訳で「心を合わせて」と訳されています。つまり心を一つにするために、考えをすり合わせることが必要です。そのすり合わせのために、教会は互いに覚え合い、愛し合うことが求められています。教会は「祈ること」そして「心を一つにする」ために「愛し合うこと」が必要なのです。

 そして20節には「主の名によって二人または三人が集うところには、神が共におられる」ということが記されています。教会には神が共におられなければなりません。神がいなければ教会とは言えないのです。そして神が共におられるから、教会が祈ることも、愛し合うこともできるのです。感謝します。私たちは小さな群れです。しかし神が共におられます。何も恐れることはありません。神が私たちの中にいてくださることを信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信頼すべき神」     創世記32:23~33(旧約P56)   2022年6月19日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会において、主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナの感染は続いています。皆さまも感染しないようにお過ごしください。また、続けて早い終息を祈ってまいりましょう。

 本日導かれた聖書の箇所は旧約聖書の創世記32章23節~33節です。この箇所から、本当に信頼すべきは神であることを覚えたいと思います。

 本日の聖書の箇所の主人公ともいうべきヤコブは、頭がよく、狡猾な人物でした。また神への思いが強く、兄エサウの長子の特権、そして祝福を奪い取ったのです。そのことでエサウから憎まれ、ヤコブは母の兄のラバンのもとに避難することとなりました。そこで苦労をし、故郷に戻ることになったのです。 ヤコブは自分を憎む兄エサウとの再会を間近に控えて、不安と葛藤の中にありました。そんなときヤコブは、神またはみ使いと格闘したのです。

この格闘を見ますと、まずこの戦いは神の側が仕掛けています。つまり苦しむヤコブに神の側から働きかけてくださったのです。そしてこの戦いはどうみてもヤコブの勝利とは見えないのに、神はヤコブが勝ったと言われました。神は弱い私たちに勝利を賜るのです。またヤコブは力いっぱい格闘しました。子どものように力いっぱい神に縋り付いたのです。私たちは大人で、子どものように考え無しに行動ができないこともあります。しかし神の前には力いっぱい縋り付いてよいのです。あのゲッセマネの祈りのように神に力いっぱい祈り、神に縋ってまいりましょう。

ヤコブは頭が良い人物でした。エサウとの再会を前に、いろいろと考え、人としてできる限りのことをしていました。しかしヤコブの不安は消えませんでした。そんなヤコブに神は働きかけました。この格闘を通してヤコブは、神に信頼するしかないことを知ったのです。神は私たちを愛して、気にかけておられます。愛と全能の神に信頼をおいてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祝福が祝福を」    詩編118:26~29(旧約P958)    2022年6月12日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会におきまして、皆さまと共に主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナはまだ続いています。皆さまも感染に気をつけてお過ごしくださり、早い終息を続けて祈りましょう。

 本日は「子ども祝福礼拝」です。本日は祝福について考えるように示されています。そこで導かれた聖書の箇所は旧約聖書の詩編118編26節~29節です。この箇所から、神から与えられる祝福を覚えてまいりましょう。

 本日の聖書箇所、詩編118編26節の「主の御名によって来る人」とは、「主の導きで神殿に来た人」と「メシアであるイエス様」の2つ意味があります。ただイエス様は神です。祝福の源は神なのに、神に「祝福あれ」というのは何かおかしい気がします。これはこの「祝福」という言葉の意味が豊かだということを意味しています。「祝福」は「良いこと」であり、「たたえる」とか「賛美する」という意味もあるのです。つまり「神はすばらしい」ということでしょうか。私たちにとって神を賛美することは大切です。神に祝福を、神をほめたたえて歩んでまいりましょう。

 26節の言葉は「祝福が祝福を」生みだすことが記されています。神は私たちを祝福してくださいます。その内容は救いや恵み、また導きなど、それは多岐にわたります。そしてその祝福を受けた私たちは、神を祝福、つまり賛美します。すると神はさらに私たちを祝福してくださるのです。また神は他の人のために祝福を祈ることを命じておられます。その命令を守ることで、神は他の人を祝福するばかりか、祝福を祈る私たちをも祝福してくださるのです。主を賛美することも、他者の祝福を祈ることも神の命令です。そして神の命令を守ることは、私たちの祝福につながるのです。神からの祝福は尽きることはありません。神には限界がないのです。私たちは神を賛美し、自分だけではなく、他者の祝福を祈りましょう。その祝福がさらに祝福を生みだすのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「聖霊を受けて歩む」   使徒言行録2:37~42(新約P216)   2022年6月5日 大竹敏生

 

本日も皆さまと共に高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を守ることができました。感謝いたします。新型コロナは相変わらずです。感染しないように気をつけてお過ごしくださり、早い終息を祈ってまいりましょう。

 本日は今年のペンテコステです。キリスト教では、ペンテコステは聖霊が与えられたことを祝う日です。そしてペンテコステは教会の誕生した日とされています。そのペンテコステに導かれました聖書の箇所は、使徒言行録2章37節~42節です。この箇所から聖霊について導きを受けてまいりましょう。

 聖霊降臨の出来事は使徒言行録2章1節~4節に記されています。その聖霊降臨の出来事に驚く人たちに、ペトロが「これはヨエル書で預言されていたこと」と語り、そしてダビデの言葉から「イエス様がメシアだ」と聖霊に満たされて語りました。本日の聖書の箇所は、その後のことが記されています。

 聖霊は多くのことをしてくださいます。聖霊は神ですから、使徒言行録2章1節~4節のような人にはできないこともします。そして14節以降にあるようにペトロは聖霊に導かれて、知恵と力を受けて語りました。それを聞く人たちも聖霊が導いています。その他、42節にある「使徒の教え」とはみ言葉を読むことや学ぶこと、そして「交わり」これは食事も含みます。その他、主の晩餐式や祈りなどもすべて聖霊の助けによるものです。このように聖霊は私たちにとって必要なこと、また神が喜ばれることをさせてくださるのです。

 では聖霊を受けるにはどうしたらよいのでしょうか。38節は、バプテスマを受けたら初めて聖霊を受けるように読めますが、聖霊は私たちが救われるために、信仰を与え、私たちがバプテスマを受けるよりも前から働いておられます。ルカによる福音書11章13節に「求める者に聖霊が与えられる」とあります。聖霊は信じて求める者に与えられます。私たちに必要なものをくださり、神に喜ばれることをさせてくださる聖霊を受けて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神から与えられる」  コロサイの信徒への手紙2:1~5(新約P369)   2022年5月29日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に皆で集い、主の日の礼拝を守ることができて感謝いたします。新型コロナの感染は治まっていません。感染しないように気をつけてお過ごしください。また続けて早い終息を祈りましょう。

 本日、神に導かれた聖書の箇所はコロサイの信徒への手紙2章1節~5節です。この箇所の特に3節を中心に導きを受け、私たちにとって必要な「知恵」と「知識」、そして「恵み」や「祝福」を、神から得てまいりましょう。

 コロサイの信徒への手紙は、コロサイの教会にグノーシス主義、律法主義などの異端が入り込みつつあることを聞いたパウロが、正しい福音を信じ続けるようにと警告した手紙です。これらの異端はキリストをないがしろにする教えです。だからパウロはこの手紙でキリストについて多くを記しているのです。

 3節に「知恵や知識の宝がキリストの内に隠れていること」が記されています。ここで「知恵」「知識」とありますが、これはグノーシス主義が「知恵」や「知識」を大切にすることを意識してのことで、そこには「恵み」や「祝福」なども含まれているのです。さて「隠れている」ということが記されていますが、神は私たちに与えたくなくて隠しているのではありません。ヤコブの手紙1章5節にもありますように、むしろ神は私たちに「知恵」と「知識」、そして「恵み」や「祝福」を与えたいと考えておられるのです。「隠れている」というのは知恵や知識が目に見えないこと、そして計り知れないほど多くの私たちにとって必要なものがキリストの内にあることを示しているのです。

 では私たちはそれをどうしたら得ることができるのでしょうか。例えば人から何かを得ようとするなら、その人と付き合う必要がありますね。私たちも神とお付き合いをするべきなのです。それは神の喜ばれることをすることが大切です。神が聖書で命じている「愛すること」「祈ること」「献げること」「主を例はすること」などを心掛け、神から必要を受けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神からの平和」  ヨハネによる福音書14:25~31(新約P197)   2022年5月22日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を守ることができました。感謝いたします。新型コロナの感染者の数は減っていません。感染に気をつけてお過ごしください。また少しでも早い終息を祈りましょう。

 本日導かれました聖書の箇所はヨハネによる福音書14章25節~31節です。この箇所から学び、神がくださる平和、平安のすばらしさを知り、世ではなく、神からの平和を受けて歩むことを心掛けてまいりましょう。

 本日の聖書の箇所には「聖霊が与えられる」という神の約束が記されています。そしてその聖霊は数多くのものをくださいますが、その与えるものの一つとして「平和」「平安」あるのです。ヨハネによる福音書14章27節は、わたし、つまりイエス様が平和をくださるように読めますが、そのイエス様と聖霊は一体です。ですから聖霊が平和をくださると言っても間違いないのです。

 神からの平和は世の与える平和とは違います。世の与える平和は人の平和と言えます。世の与える平和は時に魅力的です。人は不安の中で平安を得ようとします。ただそれは世の平和で、それが良いように見えるのです。でも人は不完全ですから、世の与える平和は完全ではありません。人は、たとえ世が与える平和を得たとしても、その平和はいつの間にか消えていたりします。それに対し、神からの平和は完全です。フィリピの信徒への手紙4章7節に「あらゆる人知を超える神の平和」とあります。もしかするとその時は神の平和を理解できないかもしれません。しかし最終的に神からの平和は私たちに真の平和をくださいます。そしてこの神からの平和は私たちを離れることはありません。

 私たちは神からの平安を受けなくてはなりません。不安は私たちに悪いものをもたらします。神のために歩むために神からの平安を受けて歩みましょう。今は新型コロナで多くの人たちが不安の中にあります。だから今こそ神からの真の平和を受けて、神のために神と共に歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんなときでも神は」    イザヤ書43:16~20(旧約P1127)   2022年5月15日 大竹敏生

 

本日もこのように高松太田キリスト教会に集まり、主の日の礼拝を守ることができまして感謝いたします。新型コロナの感染は治まっていません。感染に気をつけてお過ごしいただき、少しでも早い終息を祈ってまいりましょう。

 本日は旧約聖書のイザヤ書43章16節~20節を導かれました。この箇所から導きを受け、どんな状況にあっても新しいことをなしてくださる全知全能にして、愛の神を覚えたいと思います。

 まずイザヤ書43章16節~17節を見ましょう。ここに記されていることは、あの出エジプトの時の葦の海の奇跡を指しています。それに続いて18節で昔のことを思い出すなと記されています。これは16節~17節を指しているとも考えられますが、神に背きながら「神は守ってくださる」と考えていたことを思い出すなという意味にもとれます。どちらにしても神はさらにすばらしい新しいことをしてくださるということを信じましょう。

 では神のなす「新しいこと」を考えてみましょう。まずは19節後半にありますが「荒れ野に道」「砂漠に大河」をくださるということです。これはとてつもない力を意味しています。荒れ野は生きるにも困難です。そこに道を敷くのです。水がほとんどない砂漠に大河を流れさすのも大変です。これは神の大きな力の故のことなのです。また荒れ野の道は誰が必要なのでしょうか。それは私たち人間です。また水は人間が生きていくのに必要不可欠です。20節に神は人に水を飲ませるためにそれをすることが記されています。神は私たちのために新しいことをしてくださるのです。また神は荒れ野や砂漠という悪条件の中、道や大河をくださるのです。神はどんな状況にあっても新しいことをしてくださいます。今、私たちは新型コロナで困難の中にありますが、神は必ず新しいことを、その大きな力で、私たちのためにしてくださるのです。どんな状況にあっても変わりなく導いてくださる神に従ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛しなさい」   ヨハネによる福音書21:15~19(新約P211)   2022年5月8日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に集い、主の日の礼拝がもてますことを感謝いたします。新型コロナの感染はまだ続いています。感染に気をつけてお過ごしください。また早く終息に導かれますように祈ってまいりましょう。

 本日、神に導かれました聖書の箇所は、ヨハネによる福音書21章15節~19節です。この箇所は復活後のイエス様が弟子たちにガリラヤで現れ、その弟子たちの中でも、特に失敗してしまったペトロのためにイエス様がペトロと語っている箇所です。この箇所から導きを受けてまいりましょう。

 イエス様はペトロに「わたしを愛するか」と3回言われました。それに対してペトロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と3回答えています。この3回というのが重要なのです。ペトロの失敗とは、イエス様のことを「知らない」と3回言ってしまったことです。それはイエス様を裏切ることでした。このことをイエス様が先に予告された時、ペトロは「どんなことがあってもわたしはあなたを離れない」と言いましたが、結局イエス様の告げた通りになりました。ペトロは失敗に打ちのめされていたでしょう。そしてどうしたらよいのか分からなかったでしょう。ただペトロはイエス様に祈ったのではないでしょうか。それに主が応えられたのです。

 主を3回「知らない」と言ってしまったペトロを助けるため、主は3回「わたしを愛しているか」と言われました。ペトロは謙遜な言い方で「愛している」と告げたのです。これでペトロは助けられました。「主を愛する」ことは人を助けるのです。そして主は人をも愛することを命じています。「わたしの羊を飼い、世話をしなさい。」とペトロに言っています。ペトロにはかつて「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と主は命じているのです。

 主は私たちに「愛しなさい。」と命じています。これは私たちを助けるための、愛の命令です。この「愛しなさい。」の命令に応えてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「変わることのない方」  ヘブライ人への手紙13:1~8(新約P418)   2022年5月1日 大竹敏生

 

本日も皆さまとこの高松太田キリスト教会に集まって礼拝がもてますことを感謝いたします。新型コロナの感染は続いています。どうぞ感染に気をつけてお過ごしください。そして早く終息しますように続けて祈りましょう。

 本日、神に導かれました聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙13章1節~8節です。本日は特に8節の言葉を中心に考えたいと思います。

 1節~3節はキリスト者として愛することが勧められています。主を信じる者のつとめとして、互いに愛し合い、旅人をもてなし、迫害で苦しんでいる仲間を思いやることがその愛の行為です。しかし弱い私たちには愛する力はありません。神が愛してくださったがゆえに、私たちでも愛することができるのです。神によって愛してまいりましょう。また4節~5節前半には、キリスト者のなすべきつとめが記されています。「健全な結婚生活」「高い性的モラル」「貪欲を避ける」などです。そして5節後半と6節に旧約聖書による神の励ましの約束が記されています。キリスト者は神の喜ばれる歩みを成さなくてはなりません。しかしそれをする力はありません。でも神が力をくださいます。神によって神に喜ばれる歩みを心掛けてまいりましょう。

 では8節をご覧ください。ここに変わることない神とあります。何が変わらないのでしょう。それはまず力です。神は全知全能で、衰えたりすることはありません。また神のみ心も変わりません。神は私たちの祈りを聞いて叶えてくださいます。しかし神のみ心は変わりません。それは神のみ心が最善だからです。変わらないみ心に感謝します。もう一つ神の変わらないものを考えましょう。それは神の愛です。放蕩息子のたとえで、弟に対する父の愛は、弟が放蕩の限りを尽くしても変わりませんでした。変わらない神の愛を感謝します。

 私たちは今も悩みがあります。苦しんでいます。しかし変わらない神が私たちに力をくださいます。変わらない神から力を受けて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「教会はキリストの体」 エフェソの信徒への手紙1:15~23(新約P352)   2022年4月24日 大竹敏生

 

本日もこのように皆さまと共に集まって礼拝がもてますことを感謝いたします。新型コロナは相変わらずです。どうぞ感染に気をつけてお過ごしください。そして少しでも早く終息しますように続けて祈らせていただきます。

 私たちの教会の今年度の年度主題は「愛し合う群れに」です。この主題は「愛し合う」という言葉に目が行きます。しかし「群れ」という言葉も重要です。本日はこの「群れ」という言葉と関係する「教会」について、エフェソの信徒への手紙1章15節~23節から導きを受けてまいりましょう。この手紙は「教会」について多くのことが記されています。この手紙から「教会」について考えることは当然と言えるかもしれません。感謝いたします。

 この箇所の15節~21節あたりまで、パウロはキリストのすばらしさを記し、エフェソの教会の人たちにそのことを知るように命じています。そしてキリストは全てのものの上に立ち、教会に与えられたのです。教会とは「呼び集められたもの」という意味のエクレシアという言葉が用いられています。呼び集められたということは特別な者が集っているのではありません。しかし、誰でもよいから適当に集めたのでもないのです。神は私たちの力を見て集めたのではなく、むしろ愛するがゆえに集めてくださったのです。感謝いたします。

 ということは弱い者が集う「教会」も弱いということになります。そんな教会は何をするべきなのでしょうか。教会の成すべきこと、それは神のために働くことです。でも弱い私たちにそれができるでしょうか。22節に「すべてのもの上にあるキリストを、頭として教会にくださった。」とあります。教会は与えられたキリストによって、弱くても神のために働くことができるのです。

 教会はキリストの体です。誰も不必要な者はいません。皆で体として歩んでまいりましょう。また23節にあるように、教会は神が満ちていなくてはなりません。愛と聖霊に満ちた教会として神のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「見て、信じた。」   ヨハネによる福音書20:1~10(新約P209)   2022年4月17日 大竹敏生

 

本日も皆さまと共に教会に集まって礼拝がもてますことを感謝いたします。新型コロナはまだ感染が止まりません。皆さま方も感染に気をつけてお過ごしください。そして早く終息に導かれますように続けて祈ってまいりましょう。

 本日は今年のイースターとなります。今年も主の復活を祝うイースターを迎え、喜びつつ礼拝がもてますことを感謝いたします。今年のイースターに導かれた聖書の箇所は、ヨハネによる福音書20章1節~10節です。この箇所から学び、復活の主を信じて歩んでまいりましょう。

 聖書にある主の復活に関する記述は、墓を訪れた人が見たのは空の墓だったと記しています。ある先生は「だから復活は事実だ。もし創作なら、もっと事実らしく書くはずだ。」と言います。そうですね。本日の箇所に記されていることも、事実だからそのまま書かれているのでしょう。そしてその先生は「イエス様はなぜもっと劇的で、疑いようのないかたちで復活しなかったのか?」とも言っています。なぜ墓は空だったのでしょう。それを考えてみましょう。

 昨年のイースターでは「空の墓」はそこにおられるイエス様が、もうすでに生きて働いていることを示すパワーを感じることを語らせていただきました。本日はそれとは別の意味を考えましょう。本日の箇所の8節にあるヨハネの「見て、信じた。」という言葉ですが、これは「主の復活を信じた。」ということです。そうです。ヨハネは「空の墓」を「見て、信じた。」のです。私たちもヨハネに倣って信じなくてはなりません。主の復活もイエス様を目で見なくても信じなくてはならないのです。そして復活だけではありません。私たちの悩み、祈りの課題になる問題など、いつも見通しが明るいわけはありません。解決が見えない、まるで「空の墓」を見るような状況もあるのです。そんな状況でも信じなくてはなりません。新型コロナも、それぞれの問題も、先行きは暗いかもしれません。でも復活の主が解決すると「見て、信じ」ましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛し合いなさい」   ヨハネによる福音書13:31~35(新約P195)   2022年4月10日 大竹敏生

 

本日も教会に集まって礼拝がもてますことを神に感謝いたします。新型コロナは相変わらずです。皆さま方も感染に気をつけてお過ごしください。そして何よりも、この感染が早く終息に導かれますように祈らせていただきます。

 2022年度の私どもの教会の年度主題聖句は、ヨハネによる福音書13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」です。本日の聖書の箇所はそこを含むヨハネによる福音書13章31節~35節です。ここから学び、愛し合う教会として歩んでまいりましょう。

 本日の聖書の箇所に「愛し合いなさい」とは新しい掟だとあります。古い掟は律法を指しますが、律法に「愛し合いなさい」という命令はないのでしょうか。そんなことはありません。「隣人を愛せよ」という言葉があります。ではなぜ「新しい」とあるのでしょうか。新しい掟の方がもっと強い愛を求めていると考える人もいますが、むしろ、愛し合うことが何よりも大切だということではないでしょうか。大切な愛し合うことを実践してまいりましょう。

 「愛し合いなさい」は掟ですから、言うなれば命令です。これは神の命令ですから、命令を守ることは神を喜ばせるのです。この神は私たちを愛する神です。だから命令を守ることで祝福されるのです。一つは35節にありますようにキリストの弟子と認められることがあります。そして愛し合うことでキリストの弟子として成長させられるのです。また初代教会は愛し合うことを実践していました。その初代教会は人々に好意を持たれ、祝福されたと使徒言行録2章にあります。神の命令を守る群れ、すなわち教会は神からの祝福を受けることが分かります。これは昔の教会だけのことではないはずです。主なる神は今も生きておられます。従って、今も私たちが神の命令に従って互いに愛し合えば、神は祝福してくださるでしょう。私たちの教会は、今年度特に「愛し合いなさい」という命令を大切にし、祝福をいただいて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「成し遂げられた」   ヨハネによる福音書19:28~30(新約P208)   2022年4月3日 大竹敏生

 

本日もこのように教会に集まって礼拝がもてますことを感謝いたします。ただ、新型コロナの感染者はあまり減ってはいません。感染に気をつけてお過ごしください。そして早く感染が終息しますように祈らせていただきます。

 本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書19章28節~30節です。ここはイエス様の十字架の箇所です。この短い箇所に2回同じ言葉が出てきます。それは「成し遂げられた」という言葉です。この言葉を考えてみましょう。

 この成し遂げられたのは十字架です。十字架はキリスト教にとって大切なものです。その十字架は主が成し遂げてくださったものなのです。「成し遂げられた」と聞いてどう思われますか。一つは「すばらしいことをやり遂げた」というイメージがあります。十字架は私たちを救うものであり、私たちに力をくださるすばらしいものです。感謝ですね。また「成し遂げられた」のイメージとして「長い時間をかけてやり遂げる」ということがあります。十字架による救いの計画は主が旧約聖書で預言されています。本日はヨハネによる福音書の十字架の場面ですが、ヨハネによる福音書の十字架の記事は、旧約の成就ということが多く記されています。神はずっと前から私たちを救うために、救い主による十字架を進められてきて、計画通りに十字架を成し遂げてくださいました。感謝いたします。「成し遂げられた」のイメージとして、もう一つ考えましょう。それは「苦労の末にやり遂げられた」ということです。主は神ですから不可能はありません。能力的に苦労することはありません。しかしイエス様にとってゲッセマネでの祈りで分かりますが、十字架に架かることは大変な苦しみだったのです。主は長い期間をかけ、苦しみを忍耐されながら着々とすばらしい価値のある十字架を成し遂げられたのです。感謝いたします。

 私たちを救い、私たちに力をくださる十字架、そんな十字架を成し遂げられた主に感謝します。十字架を喜びつつこの世の歩みを続けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「希望の源である神」  ローマの信徒への手紙15:7~13(新約P295)   2022年3月27日 大竹敏生

 

香川県のまん延防止等重点措置は解除されました。本日は久しぶりに集まっての礼拝ができますことを感謝いたします。ただ、まだ感染が治まったわけではありません。早く感染が終息するようにも祈らせていただきます。

 本日は2022年3月27日です。2021年度の最後の主日となります。今年度、私たちの教会では「希望をもって喜ぶ」を主題として歩んでまいりました。2021年度の歩みも新型コロナによって困難な歩みでした。「希望をもって喜ぶ」の主題にふさわしい歩みができなかったと感じておられる方もおられるかもしれませんね。しかし私たちは希望をもって喜べたはずなのです。私たちが求めた希望は神を源とした希望なのです。神によって困難の中にも希望をもって喜べたことを確認して振り返ってみましょう。

本日示された聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙15章7節~13節です。このローマの信徒への手紙は、今年度の年度主題の聖句もそうですし、本日の箇所や他にも「希望」と「喜び」の事柄に関する記述が出てきます。この大切な「希望」と「喜び」についてこれからも求め続けてまいりましょう。

13節に「希望の源である神」と記されています。これを本日の宣教題とさせていただきました。ここにありますように希望は神から来るのです。神が私たちに希望をくださるのです。神からの希望ですから、失望に終わりません。最善に導くのです。ローマの教会は不一致という、解決が難しい問題を抱えていました。しかし神がその問題を解決してくださるので、希望をもつようにとパウロは勧めているのです。神からの希望は、神への希望です。その希望は必ず成し遂げられます。希望の源である神から希望を受けてまいりましょう。

私たちも困難の中にあります。とても希望をもって喜べない状況だと感じる方もおられるでしょう。しかし信じましょう。神が源として失望に終わることのない希望をくださるのです。希望の源である神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「前に向かって」  フィリピの信徒への手紙3:12~16(新約P365)   2022年3月20日 大竹敏生

 

香川県のまん延防止等重点措置は今もが発令中です。従って本日もこのようなかたちでの礼拝です。皆さま方お一人一人の礼拝が祝福されますようにお祈りします。そして早く新型コロナが終息するようにも祈らせていただきます。

 本日、導かれた聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙3章12節~16節です。この箇所を読んで、この手紙の著者パウロは「神のためにひたすら励め」と言っているようで、パウロは厳しいことを言っているように思われるかもしれませんね。実際、パウロの生涯は神のためにひたすら励む、厳しいものでした。パウロにこのように言われたフィリピの教会の人たち、また私たちは「パウロと違って、弱いから」と言いたくなります。でも実際この「前に進め」というパウロの言葉は、ただの厳しい戒めなのでしょうか。

 私たち、そして教会の歩みは、困難の中にあっても前に進まないとなりません。前に進むことで生かされ、祝福されるのです。そして前に進むことで励ましを受けるのです。出エジプトしたイスラエルの民は、敵を恐れ、躊躇し、また旅の苦しさに弱音を吐き、引き返しそうになりました。しかし神が民を前に押し進めたのです。パウロも迫害や誤解、敵対者からの妨害など、多くの様々な困難に逢いました。しかし神によって励まされ、前に進みました。そしてこの手紙の受け取り手のフィリピの教会の人たちも困難な歩みをしていました。しかし「神によって前に」と励ましを受けたのです。私たちも弱いですが、神が前に進めてくださいます。神が前に進めるのですから、大切なのは、神への信仰ということになります。神を信じて、神によって前に進みましょう。

 私たちは今も、新型コロナで悩まされています。またお一人お一人それぞれの苦しみがあります。「前に進むことなんかできない」と考えてしまうような状況にあるかもしれません。しかし神は厳しくではなく、むしろ愛をもって「前に向かって進め」と励まし、導いてくださっています。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神からの喜び」  ヨハネによる福音書16:16~24(新約P200)   2022年3月13日 大竹敏生

 

香川県ではまん延防止等重点措置が発令中で、本日もこのようなかたちでの礼拝となりました。皆さまのそれぞれの礼拝が祝福されますようにお祈りします。また新型コロナが早く終息しますように祈らせていただきます。

 本日、神に導かれました聖書の箇所はヨハネによる福音書16章16節~24節です。今年も3月2日からレント、受難節に入りました。本日の聖書箇所はイエス様が十字架に架かる直前のいわゆる告別説教の中からです。この箇所から導きが受けられることを感謝いたします。

 弟子たちはイエス様の「しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくすると見えるようになる。」という言葉の意味が分からなかったようです。それに対してイエス様は十字架と復活、そして聖霊降臨などのことと言い、そして「あなた方の悲しみは、喜びに変わる。」と言われました。そして現実にイエス様は十字架に架かって死に、復活され、天に昇りその後、聖霊降臨が起こったのです。弟子たちの目には見えなくなりましたが、また見えるようになりました。また悲しい出来事であったイエス様の十字架によって、私たちは救われることになるのです。弟子たちに与えられた聖霊は、私たちにも与えられ、今も聖霊の神によって導かれているのです。感謝いたします。そしてさらに言うと、イエス様ご自身も十字架に架かることは苦しみでした。その苦しみを乗り越えて、愛する私たちの救いを達成されたのです。感謝いたします。

 苦しみはいつまで続くか分からないことが、さらに苦しみを増すように思わせます。そしてなぜ苦しむのか分からないことは、苦しみに耐える力を失わせます。いつまで、そしてどうして苦しまなければならないのか、すべて神がご存知です。そして神は、一番良い時に、良いやり方で苦しみを喜びに変えてくださるのです。今、新型コロナで苦しむ私たちの涙を覚え、いつか必ず喜びに変えてくださるでしょう。神からのすばらしい喜びに感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神はすべてを共に」 エフェソの信徒への手紙6:10~20(新約P359)  2022年3月6日 大竹敏生

 

香川県ではまん延防止等重点措置が発令中です。従って本日もこのようなかたちでの礼拝となりました。皆さまのそれぞれの場での礼拝が祝福されますようにお祈りいたします。また新型コロナの早い終息も祈らせていただきます。

 本日導かれた聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙6章10節~20節です。聖書は一つの箇所からいくつものメッセージがなされます。本日の箇所もそうです。そして本日の箇所は、特に記されている内容が多岐にわたっております。本日はこの箇所全体を通して、どんな時でも私たちと共に働き、共にこの世の歩みを忍耐し、導いてくださる神を覚えたいと思います。

 私たちはこの世を歩んでいます、そしてこの世の支配者は人間ではなく「悪魔」「悪の諸霊」と呼ばれる神に敵対する存在なのです。そんな存在が支配するこの世を正しく歩むために、私たちはこの支配者と戦わなくてはならないのですが、そんな強い相手と戦わなくてはならないのに私たちは弱いのです。

 本日の聖書箇所には、そのために私たちに「神によって強くさせられなさい」と記されています。そして「神の武具をくださる」とも記されています。感謝いたします。神は、何のとりえもない弱い私たちを、恵みとして強くしてくださるのです。そして神のくださる武具は、神無しでは役に立たないものばかりです。神によってこの世を歩めることを感謝いたします。

 私たちは弱いのです。それに対してこの世の支配者は強いのです。神から強くされも、武具を身に着けても、それだけでは不十分です。私たちは相手を打ち倒す必要はありません。私たちは相手の攻撃を受けます。そして痛めつけられます。でも最後まで耐え、神から離れなければ私たちの勝利なのです。そして私たちと神が共にいて、共に戦い、共にこの世を歩んでくださるのです。

 この世の歩みは困難です。しかし神はどんな時でも間違いなく共にいてくださるのです。神を信じ、神と共にこの世の歩みを全うしてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神を思い、忍耐強く」  ヘブライ人への手紙12:1~3(新約P416)   2022年2月27日 大竹敏生

 

香川県に続けてまん延防止等重点措置が発令されています。本日もこのようなかたちでの礼拝です。皆さまのそれぞれの場での礼拝が祝福されますように祈ります。そして早くこの新型コロナが終息しますように祈りましょう。

 本日神によって示された聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙12章1節~3節です。この箇所を通して、苦難の中にある私たちにとって必要な神の励ましを受けてまいりたいと思います。

 私たちは今、新型コロナで忍耐を強いられています。そんな私たちに聖書のみ言葉は豊かな励ましをくださいます。それは例えば「恐れるな、わたしは共にいる」というようなみ言葉があります。そして本日のみ言葉のように「神のためにガンバレ」というようなみ言葉もあるのです。私たちはこの苦しみの中、み言葉を通して励まされ、忍耐しつつ歩まねばならないのです。

 神は私たちの忍耐の歩みを助けてくださいます。ヘブライ人への手紙12章2節に「イエスを見つめながら」と記されています。神を見ること、つまり神を思いつつ歩むことを通して、私たちは忍耐しつつ走り抜くことができるのです。私たちはイエス様を愛しています。その方がおられることを、神を見て確認しましょう。そしてそのお方は私たちの困難な歩みを正しく導いてくださいます。私たちは忍耐することさえも難しいのです。そんな私たちが神無しに歩めば、忍耐できずに倒れてしまうでしょう。忍耐しつつ歩むために正しく導く神から目を離してはならないのです。またイエス様は私たちを救うために十字架に架かってくださいました。これはとてつもない苦しみでしたが、忍耐してくださったのです。イエス様も忍耐されました。忍耐された主に感謝いたします。そして主は今も生きておられます。今も私たちと同じ苦しみを味わっていてくださるのです。一緒に苦しみを共にして、いつか共に走り抜き、喜ぶことができることを感謝します。神を思い、忍耐強く歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「苦難の中に神が」   エレミヤ書29:10~14(旧約P1230)   2022年2月20日 大竹敏生

 

香川県のまん延防止等重点措置は延長されました。本日もこのようなかたちでの礼拝となります。皆さまのそれぞれの場での礼拝が祝福されますように祈ります。そして少しでも早く新型コロナが終息しますように祈りましょう。

 本日神に導かれた聖書の箇所は、旧約聖書エレミヤ書29章10節~14節です。エレミヤ書の主人公のエレミヤは「涙の預言者」と呼ばれるほど、苦難の中を歩んだ人でした。そんなエレミヤの預言から導かれ、私たちは苦難の中にあっても、神が共にいてくださることを覚えてまいりましょう。

 11節に「将来と希望」を神が与えることが記されています。その希望とはどんなものなのでしょうか。一つは10節と14節にあることです。バビロンに連れて行かれた人たちが「連れ戻される」「帰らされる」とあります。これはバビロンに連れて行かれた人たちを苦しめる、バビロン捕囚からの回復を意味します。神はこのように苦難を根本から解決することができるお方なのです。また12節には、神は祈りを聞かれることが記されています。これも私たちに与えられる希望です。私たちには苦難を乗り越える力はありません。しかし神は全知全能です。どのような苦難であっても神は解決に導いてくださるのです。神への祈りに希望をおきましょう。また13節~14節に、求めれば神を見つけることができる、神と出会うことができる、ということが記されています。私たちが苦難の中で悩む時、往々にして神を見いだせなくなっているのです。神は間違いなくおられるのですから、神に目を向けることで神を見いだすことができます。もっとはっきり言うと神を信じることで神を見いだすことができるのです。神は苦難を解決してくださいます。その力に期待し、神に祈り、神を信じて神に希望を置いて歩んでまいりましょう。

 神は苦難の中にある私たち一人一人を覚えてくださいます。私たちと共に苦難の中にあって歩んで導いてくださる神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「そこを何とか」   ルカによる福音書11:5~8(新約P127)   2022年2月13日 大竹敏生

 

新型コロナの感染が続いており、本日も集まっての礼拝が行なえません。皆さまの、ZOOMなどでの礼拝が神に祝福されますように願っております。そして少しでも早く新型コロナが終息に導かれますように祈りましょう。

 本日導かれた聖書の箇所はルカによる福音書11章5節~8節です。ここにはイエス様のたとえ話が記されています。この時代のイスラエルでは、暑い日中を避けて、夜に旅をすることがよくありました。従って真夜中に旅人が訪ねてくることはありうることで、旅人をもてなすことはイスラエルでは皆がするべきことだったのです。ここではある人が旅人をもてなすパンが無くて、友人に助けを求めたのでした。

 8節に「しつように頼む」と記されています。これは断られても、あきらめないで頼み続けることを意味します。ここから学ぶことは、あきらめずに神に祈り続けることです。このことはルカによる福音書18章の「やもめと裁判官のたとえ」でも語られています。あきらめないで祈り続けましょう。

またこの「しつように」とは「恥知らず」と訳せるそうです。ここでは、もてなすパンを備えていなかった人に非があります。だから友人に頼みに行くのは、恥を忍んでの行為です。断られて当然でもありました。でもこの人は頼み続けたのです。本日のメッセージの題は「そこを何とか」です。これは連盟のある先生の祈りの口ぐせだったそうです。神は絶対に正しいお方です。私たちの祈りが叶えられなかったとしても神に非はありません。正しくないのは私たちです。しかし私たちは「そこを何とか」と神に祈ることができるのです。

私たちは「しつように祈る」ことが求められています。「そこを何とか」と神に祈り続けましょう。本日のたとえ話でこの二人の友人関係は壊れることなく続いたと思われます。私たちと神の関係は「そこを何とか」と祈っても続くのです。それを信じて神に祈り続けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしを呼ぶがよい」    詩編50:8~15(新約P883)   2022年2月6日 大竹敏生

 

新型コロナの影響で本日も集まっての礼拝がもてない状況です。皆さまの、それぞれの場所での礼拝が祝福されるように願っております。そして新型コロナが少しでも早く終息するように祈ってまいりましょう。

 本日の聖書の箇所は旧約聖書の詩編50編8節~15節です。この箇所の14節~15節、特に有名な15節を中心に神の導きを受けたいと思います。

 まず8節~13節を見ましょう。8節の言葉はイスラエルの民の献げ物について認めています。でも9節以降は献げ物はいらないと言っているようです。8節は皮肉なのでしょうか。皮肉というより、献げる物ではなく、思いを大切にせよということでしょう。感謝をもって献げてまいりましょう。

 14節にある「告白」は「感謝」という意味です。私たちの感謝は物以上に献げる思いが大切だと言うことがこの14節からも分かります。私たちは神からたくさんの恵みを受けています。神への感謝、賛美を心掛けましょう。

 さて15節を見ましょう。多くの人に愛されている箇所です。この15節の前半は以前の訳や他の訳では「悩みの日にわたしを呼べ、わたしは助ける。」というような意味です。苦しい時に呼べば助けるということですね。感謝なことです。ただ新共同訳を見ると、まず呼ぶことが強調されているのです。確かに私たちは苦しい時に祈ります。ですが、祈りは苦しい時だけのものではありません。私たちはいつも神を覚えて、神を呼び続けたいものです。

 また15節の後半の部分は、私たちが神の助けを受けたら、神をあがめることが記されています。神はあがめてほしくてこう記されているのでしょうか。そうではありません。これは私たちのためです。神をあがめること、感謝することは神との生きた交わりになります。この交わりが私たちの力となるのです。神は私たちを助けることを喜びとしています。「わたしを呼ぶがよい」と言ってくださる神との生きた交わりを続けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんな時でも主は共にいる」   ヨシュア記1:1~9(新約P340)   2022年1月30日 大竹敏生

 

本日も集まっての礼拝がもてません。皆さま方一人お一人の、それぞれの場所での礼拝が祝福されるようにお祈りいたします。そして新型コロナが少しでも早く終息しますようにもつづけて祈らせていただきます。

 本日の聖書の箇所は旧約聖書ヨシュア記1章1節~9節です。この箇所に何回も出てくる言葉があります。それは「強く、雄々しくあれ」です。この有名でよく知られている言葉から神の導きを受けてまいりましょう。

 ヨシュアはこの「強く、雄々しくあれ」と何回も言われています。だからヨシュアという人は弱い人だったと考える人もいますが、モーセと比べられたりで、求められているレベルが高かったと考えられます。ヨシュアが主のために働くために「強く、雄々しくあれ」と言われたのでしょう。人の弱さは恐れを生みだします。その恐れは、人ができることをできなくさせます。私たちは主のために恐れないで歩まなくてはなりません。

 ヨシュアはこの時、これから進んでいく地の人たちを恐れていました。またイスラエルの民が、新しいリーダーの自分に従うだろうかも恐れていました。そして主から託された働きを全うできるかを心配し恐れていたのです。このようにヨシュアはいくつもの恐れを持っていましたが、それに対する主の答えは一つでした。それは9節に出てくる「あなたの神、主は共にいる。」です。全知全能の神は、どんな状況にあっても、弱い私たちと共にいて助けてくださるのです。神は約束を違えることはありません。たから私たちは心掛けなくてはならないことがあります。神は見えません。ですから神が共にいることを信じなければならないのです。共におられる神を信じて歩みましょう。

 恐れなく歩むことができたなら「強く、雄々しく」ある必要はないのでしょうか。いや神が共におられることを、信じるために「強く、雄々しく」歩みましょう。主はどんな時にも共におられるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリスト者として」  ローマの信徒への手紙13:8~14(新約P293)  2022年1月23日 大竹敏生

 

香川県に「まん延防止等重点措置」が発令されました。本日からしばらく、集まっての礼拝をお休みすることになりました。皆さま方のそれぞれの場所における礼拝が祝福されると信じてお祈りさせていただきます。

 本日の聖書の箇所はローマの信徒への手紙13章8節~14節です。ローマの信徒への手紙の12章以降は、キリスト者のすべきことが記されています。本日の聖書箇所はその中に含まれています。従って本日の聖書箇所にも、キリスト者として成すべきことが出てきます。それを見てみましょう。

まず一つは8節~10節に記されていますが「互いに愛し合う」ことです。そしてこれはお互いだけではなく神をも愛することを意味しています。私たちが救われるのは、信仰によってであり、行ないによってではありません。ユダヤ人は律法の行ないによって義とされると考えていて、律法を大切にしていました。ユダヤ人が大切にした律法は、実は愛によって全うされるのです。律法の示すのは愛なのです。律法を全うする愛は神を喜ばせるものです。私たちはキリスト者として、神と人を愛しつつ歩んでまいりましょう。

次に11節~14節を見ましょう。14節に「主イエス・キリストを身にまといましょう。」とあります。これがキリスト者として成すべきことです。私たちは武具を身に着けることで守られます。着る服は寒さから守ってくれます。キリストを身にまとうことで、私たちは守られるのです。また私たちは着るものの色で「あの赤い服の人」のように表されるのです。私たちがキリストを身にまとうことは、キリストを証しすることと言えるのではないでしょうか。そして私たちは大切なものを肌身離さず身に着けていたりします。私たちはキリストを身にまとい、キリストを大切にしてまいりましょう。

私たちは、キリスト者として「神と人を愛する」ことと「キリストを身にまとう」ことを心掛け、主に喜ばれる歩みを成してまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんなときでも神は」   ルカによる福音書19:1~10(新約P146)   2022年1月16日 大竹敏生

 

本日も、このように主の日の礼拝を守ることができ、主なる神に感謝いたします。本日の聖書の箇所はルカによる福音書19章1節~10節です。このザアカイの記事から、どんなときでも神が我らを導くことを学びましょう。

 ここに出てくるザアカイは徴税人で、その頭でした。徴税人はユダヤ人にとってローマの手先であり、裏切者でした。また異邦人と接触することから罪人と同じでした。徴税人も税を決められた額よりも多く集め、それを自分のものにしたりしていました。ザアカイは徴税人の頭として不正に集めた金で私腹を肥やしていたのです。従ってザアカイはエリコの町で嫌われていたのです。一方そのエリコにイエス様がやってきました。イエス様はザアカイとは逆に皆から支持され、人気があったのです。そんなイエス様を見たいと願ったザアカイに「今日はあなたの家に泊まりたい。」とイエス様は言われたのです。これに感激したザアカイは「財産を半分貧しい人々に施し、不正に取り立てた金は4倍にして返す。」と言ったのです。これでザアカイは救われました。ただザアカイは善行で救われたのではありません。お金しか頼れなかったザアカイは、イエス様と出会い、イエス様を信じ、主の導きにゆだねました。ザアカイは主を信じたから救われたのです。

 エリコの町の人たち、また弟子たちも、ザアカイを顧みない中、イエス様だけがザアカイを見ていました。ザアカイを救いに導いたのです。この時、エリコの町の中でイエス様だけが違う視点で歩まれていました。イエス様はエリコの町で、誰も顧みなかったザアカイを愛し、救いに導いたのです。

 今私たちは、新型コロナで悩みの中にあります。皆が右往左往しているような状況です。主はそんな苦難の歩みをしている私たちの中におられ、悩みを共にしてくださっています。そして正しい視点をもって歩まれるのです。主はどんなときにも正しく、そして私たちを愛をもって導かれるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が愛されたのですから」   ヨハネの手紙Ⅰ4:7~12(新約P445)   2022年1月9日 大竹敏生

 

本日も、皆さまと主の日の礼拝を守ることができました。心より神に感謝いたします。本日導かれた聖書の箇所はヨハネの手紙Ⅰ4章7節~12節です。この有名な箇所から、神の愛の豊かさについて学びましょう。

 まず7節を見ましょう。そこに「愛は神から出たもの」とあります。これは何よりも前に神が愛することを示しています。普通、私たちは理由があって愛します。例えば愛の対象者が「すばらしい能力を持っている」とか「素敵だ」とか理由があって愛するのです。神はそういう理由なく愛するのです。私たちは愛される存在でしょうか。神は罪を憎みます。だとすれば、罪人である私たちは愛されない存在なのです。私たちがどのような存在なのかをすべてご存知であるのに、神は愛してくださるのです。神に大きな愛に感謝します。

 神は私たちを愛しておられます。神は私たちを守り、恵みをくださいます。そして私たちを救うために救い主イエスキリストを送ってくださり、私たちの代わりに十字架に架かってくださいました。この神の大きな愛に応えてまいりましょう。そのためには、まず神を信じて救われることです。神は全ての人が信じて救われることを願っているのです。そしてもう一つ、ヨハネの手紙Ⅰ4章11節に「神がわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」とあります。ヨハネはここで「神が愛された」ことに対して「神を愛せ」と記していません。これは神を愛することは、愛された者として当然だという意味と、神を愛することと人を愛することは一つだという意味があるのです。私たちは神を愛し、互いに愛し合うべきです。私たちが互いに愛し合うとき、神は私たちの中にいて、愛を成熟させてくださるでしょう。

 今、新型コロナで世界中が蝕まれ、信じられない事件も起きています。神の愛が必要な時代です。すべての人が神から愛されていることを知ることができるように祈り、神と共に励んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じて従う喜び」   ルカによる福音書5:1~11(新約P109)  2022年1月2日 大竹敏生

 

本日も、皆さまと共に主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。本日は2022年の最初の主日礼拝です。新しい年も昨年同様、厳しくても守られるはずです。新年の導きと祝福を神に願いつつ礼拝いたしましょう。

 本日、新年最初の主日礼拝に導かれた聖書の箇所は、ルカによる福音書5章1節~11節です。この箇所からはいろいろなメッセージが語られています。本日は、主に従う者に喜びが与えられることを学んでまいりましょう。

 私たちはいつも容易く主に従えるわけではありません。私たちはどうしたら主に従うことができるのでしょうか。本日の聖書箇所のペトロから学んでみましょう。まずは「信じる」ことです。私たちは信じられないものに従うことはできません。ペトロはイエス様から「人間をとる漁師に」と言われ、網を捨てて従いました。主なるイエス様を信じて従ったのです。ヤコブやヨハネもそうですし、主に従う者は皆、主を信じて従うのです。私たちも主を信じて、主に従ってまいりましょう。もう一つ信じるために必要なことがあります。それは「愛する」ことです。イエス様がペトロに「沖に出て網を降ろしなさい」と命じましたが、ペトロがそうすると舟が沈みそうになるほどの大漁となりました。ペトロはそうなると信じて従ったのでしょうか。そうは思えません。ペトロは長年の経験で、もうすでに魚がとれない時間になっていると知っていました。「とれるわけがないのに」という思いで従ったのです。でも実際はとてつもない大漁となりました。「あり得ないことが起こった」とペトロは驚き、イエス様を「主」と呼びました。なぜペトロはイエス様の「沖に出て、網を降ろせ」という命令に従ったのでしょうか。それはペトロがイエス様を愛していたからです。私たちは主を信じ、主を愛して従ってまいりましょう。

主は従う者を支えます。従う力もくださいます。新しい年も従うべきお方、主に従いましょう。主は従う者を祝福してくださるに違いありません。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の祝福はつづく」    民数記6:22~27(旧約P221)  2021年12月26日 大竹敏生

 

本日も、皆さまと主の日の礼拝を守ることができますことを神に感謝いたします。本日は今年2021年の最後の主日礼拝となります。今年も大変な一年でしたが守られました。導きと祝福を感謝しつつ礼拝いたしましょう。

 本日、今年最後の主日礼拝に導かれた聖書の箇所は、旧約聖書の民数記6章22節~27節です。この箇所は、ある先生は「民数記で一番有名な箇所」と言います。どうしてかと思う人もおられるかもしれません。それはこの箇所の24節~26節を「祝祷」として用いる先生がおられるからです。ただ本日は「祝祷」というより「祝福」に関して考えたいと思います。

 24節~26節に祝福の内容が「守り」「恵み」「平安」とあります。これらは、私たちにとって大切で、必要なものです。与えられる祝福を感謝します。

私たちは例えば無いものを求められたら困ってしまいます。求められても、その要求に応えることができませんから。でも神の祝福は必ずあるのです。神の祝福は尽きることはありません。だから「祝福を祈れ」とあるのです。ヨハネによる福音書1章16節にありますが、神は豊かで。恵みに満ちあふれています。その方が惜しみなく祝福をくださるのです。私たちは神に期待して、祝福を求めてまいりましょう。神のくださる祝福を感謝いたします。

私たちはまだまだ神の祝福を祈り、期待しなくてはなりません。ただ私たちも祝福を求めてきたのです。「祝福」という言葉ではなくても「導き」や「助け」また「恵み」などを神に願ってきたはずです。そして祈っているのですから、与えられているはずなのです。それなのに私たちはその与えられた祝福に気づいていないのです。今年も守られました。恵まれました。導かれました。祈りに応えて与えられた祝福を感謝いたします。

私たちは神からの祝福を途絶えさせてはなりません。コリントの信徒への手紙Ⅱ9章15節にありますように祝福を感謝し、祈り続けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「大きな喜びを告げる」  ルカによる福音書2:8~21(新約P103)  2021年12月19日 大竹敏生

 

本日も、このように皆さまと主の日の礼拝を守ることができました。感謝いたします。本日は今年のクリスマス礼拝となります。今年も私たちを救うためにお生まれになってくださった主のご降誕を喜び、感謝いたしましょう。

 本日導かれた聖書の箇所はルカによる福音書2章8節~21節です。ここでみ使いは主のご降誕を羊飼いに知らせています。羊飼いは安息日を守ることができず、また貧しい存在でした。そんな羊飼いに「救い主誕生」の知らせが語られました。これはどんなに貧しく弱い者、また罪人でも救うお方がお生まれになったことを意味しています。10節から分かりますが、このお方は「民全体」を救うお方なのです。この大いなる喜びを感謝いたします。

 使徒パウロは、テモテへの手紙Ⅰ1章15節で「自分は罪人の最たる者」と記しています。私たちは自分を振り返ると、罪の意識はむしろ増すのではないでしょうか。私たちも羊飼いと同じように、神に従いたくてもそれができない弱い者なのです。そんな弱く愚かな罪人を救うために、イエス様は家畜小屋でお生まれになり、飼い葉桶に寝かされていました。そんなお生まれをしてくださったお方だからこそ、私たちを救ってくださいます。救われるはずのない者が、神の愛によって救われるのです。そのためにこのお方はお生まれになりました。これがみ使いが告げる「大きな喜び」なのです。感謝いたします。

 羊飼いたちは、み使いの言葉を信じ、人々に語りました。そしてまた神をあがめ、賛美したとあります。私たちも同じ喜びを受けています。主のために主を証ししていきましょう。そして主を信じてほめたたえてまいりましょう。それが主のくださった「大きな喜び」に報いることになるのです。

 今年ももうすぐ終わります。今年も新型コロナに悩まされ、私たちが主のためにできたことはわずかでした。でも弱い羊飼いを顧みた神は、弱い私たちの歩みを喜んでくださいます。そんな愛の主のくださる喜びを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の救い主誕生へ」  マタイによる福音書1:18~25(新約P1)  2021年12月12日 大竹敏生

 

本日も、皆さまと今年のアドベント第三週の礼拝を守ることができました。感謝いたします。いよいよ2021年もクリスマスが近づいてきました。私たちを愛し、救うために来られたイエス様の誕生を喜び、感謝いたしましょう。

 本日導かれた聖書の箇所はマタイによる福音書1章18節~25節です。イエス様の母となられたマリアは聖書でもよく取り上げられています。一方父となられたヨセフはマリアに比べると影が薄いイメージですね。でも今日の聖書個所などから見るヨセフもすばらしい人物です。このヨセフを父としてイエス様はお生まれになりました。それにふさわしいヨセフを見てみましょう。

 ヨセフは今日の聖書箇所の19節にありますが、正しい人でした。その正しさは、律法的な正しさではありません。ヨセフは神と人を愛する正しい人だったのです。マリアは聖霊によって身ごもりました。しかしそんなことは今まで起こったことがありませんでした。ヨセフと婚約中だったのに身ごもったのです。マリアが不貞を働いたと考えても不思議はありません。そして律法ではこういう不貞は石打の刑に処せられることになっていました。しかしヨセフはマリアを表ざたにすることをせず、ひそかに縁を切ろうとしたのです。こういう愛の人を神は選び、救い主イエス様の父としたのです。

 そのヨセフの夢に神はみ使いを送りました。「マリアは聖霊によって身ごもったのだから、妻として迎えよ。」と命じたのです。また子どもを「イエス」と名付けることも命じられました。ヨセフはこの命令を守りました。夢の中のみ使いのお告げをヨセフが信じたのは、おそらく祈っていたからでしょう。どうしたらよいかを悩みつつ祈り続けてきたヨセフだから、夢の中のみ使いの言葉を信じ、従えたのでしょう。ヨセフは正に愛と信仰の人だったのです。

 イエス様は神のご計画の中、私たちを救う、愛の救い主として誕生しました。愛の救い主が、愛と信仰あふれる家庭に誕生しました。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「全世界に行って」  マルコによる福音書16:14~20(新約P98)  2021年12月5日 大竹敏生

 

本日、皆さまと2021年のアドベント第二週の礼拝を守ることができ、感謝いたします。また本日は今年の世界バプテスト祈禱週間の最終日です。本日は世界宣教の推進とその働きの祝福のために祈りつつ礼拝いたしましょう。

 本日導かれた聖書の箇所は、マルコによる福音書16章14節~20節です。いわゆる主イエスの「大宣教命令」の箇所からです。イエス様が天に昇る前に命じられたこの命令に応える者とされてまいりましょう。

 ここでは「全世界に」福音を宣べ伝えることが命じられています。つまり福音はすべての地域、すべての人たちに宣べ伝えられなくてはなりません。この命令に応えて、昔から現在に至るまで多くの人たちが出て行って、福音を宣べ伝えてきました。そういう働きのために祈り、献げてまいりましょう。

 では、主はこの命令を誰に命じたのでしょう。特別な賜物を持つ、選ばれた人たちでしょうか。14節を見ますと、不信仰な弟子たちがとがめられています。ですが、そのとがめられた弟子も省かれることなく、この命令を受けているのです。福音宣教は特別な人たちだけに命じられたのではありません。信仰的に十分ではないと思っている人にも、信仰的にダウンしている人にも、この命令は出されています。全ての人がこの命令に従わなくてはなりません。そうです。私たちもこの「大宣教命令」に従ってまいりましょう。

 使徒パウロは、現代で言えば宣教師のような働きをされていました。そのパウロはフィリピの教会の人たちが、物のやりとりでパウロの働きを助けたことを喜んでいます。そしてパウロはまた、フィリピの教会の人たちが福音にあずかってきたことを喜んでいます。パウロにとって自分と同じように福音を宣べ伝える働きをしている人たちを喜んでいるのです。私たちも福音宣教の働きに参与してまいりましょう。それが「全世界に行って」神のために働くこととなり、神が喜んでくださることなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしたちのために」    イザヤ書9:1~6(旧約P1073)   2021年11月28日 大竹敏生

 

本日も、皆さまと主の日の礼拝を守ることができまして、主なる神に感謝いたします。本日は今年2021年のアドベント第一週となります。今年も主のご降誕を祝うクリスマスを喜びと感謝をもって迎えましょう。

 その今年のアドベント第一週に導かれた聖書の箇所はイザヤ書9章1節~6節です。この箇所は旧約聖書にいくつか記されている「メシア誕生の預言」の一つで、「メシア誕生の預言」の中でも一番よく知られている箇所ではないでしょうか。この有名な箇所から導きを受けられることを感謝いたします。

 5節を見ましょう。ここで「生まれた」「与えられた」と訳された言葉が出てきます。この言葉の原語は完了形が用いられています。ですからこの訳は原語から考えると正しいのです。この5節はイザヤの時代から700年後に誕生されたイエス様のことなのです。700年後にお生まれになるのになぜ「生まれた」「与えられた」なのでしょうか。人間がすることに絶対はありません。大丈夫と思っても計画通りにいかないこともあるのです。でも神は絶対です。神に間違いはありません。人間は不確かですが、神は確かなのです。この5章にある出来事は、確かな神のなさることです。だから絶対に起こることなのです。だからまだ起こっていないのに完了形で記されているのでしょう。

 5章後半に記されているメシアの姿は正に神の姿です。与えられるお方は神なのです。ただ私たちの罪から救う救い主ということについてはあまり見えてきません。でもよく見ると見えてきます。このお方は「わたしたちのために」与えられたお方です。聖書の「わたしたち」という言葉は「わたし」の集まりで、私という個は消えません。私たち一人一人を救うために、このお方は来られました。「わたしたちのために」来られたイエス様に感謝いたします。

 神の救いのご計画は神によって進められてきました。そして神によって必ず成し遂げられるのです。私たちのための救い主に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が完全に」  テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:16~28(新約P379)  2021年11月21日 大竹敏生

 

本日も、主の日の礼拝を守ることができました。主に感謝いたします。本日の聖書箇所はテサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章16節~28節です。この箇所から導かれ、神によって完全な聖なる者に成長させられてまいりましょう。

 本日の箇所は16節~18節が特に有名な箇所です。ただ本日は23節~24節を中心に導かれています。ですが、その前後の箇所も考えることが23節~24節を理解するのに有効です。主の導きを受けてまいりましょう。

 23節~24節を見ると、23節は祈りの言葉で、24節はそれが必ず叶えられるという約束になっています。23節はテサロニケ教会の人たちが、完全な聖なる者に成るようにという祈りで、24節でそれは実現すると約束されています。完全な聖なる者になるということの意味は、一つは救いを指します。罪から完全に聖なる者にされ、救われるのです。救い主イエス様は、私たちを罪から救うためにこの世に来られ、十字架で救われたのです。そしてもう一つの意味は、罪によって汚れている者が、完全な聖なる者とされることです。主を信じて救われ、信じる神に従う結果、私たちは聖なる者に成長するのです。でも私たちは自分を冷静に見ると、とても完全な聖なる者とは言えないことに気づきます。神はペトロに「神が清めた物を清くないと言ってはならない」と言われました。神が清めたなら汚れていません。私たちを完全な聖なる者とするのは神です。ですから間違いなく完全な聖なる者とされるのです。

 17節や25節に「祈り」という言葉が記されています。完全な聖なる者には祈りは必要ないと思います。そう私たちはまだ完全な聖なる者ではありません。まだそこを目指して成長しているのです。だから神に祈って成長するのです。私たちが目指すのはイエス様です。この世にある限り、完全な聖なる者となるために成長しなくてはなりません。いつか私たちもこの世での歩みを終えますが、そこで私たちは完全な聖なる者となるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らは何者か」  コリントの信徒への手紙Ⅰ3:1~9(新約P302)   2021年11月14日 大竹敏生

 

本日も、主の日の礼拝をこのように行なうことができまして、感謝いたします。本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ3章1節~9節です。この箇所から導かれ、神のために力を合わせて働く者とされてまいりましょう。

 このコリントの信徒への手紙Ⅰは使徒パウロが記したものです。手紙の宛先のコリントの教会には問題がありました。自分により頼む者が多く、高慢となり、他者を裁き、愛が無く、分裂していたのです。パウロは今日の箇所でもそのことを諫め、そこから成長することを促しているのです。

 本日の聖書箇所の前半で、パウロはコリントの教会人たちを「乳飲み子」と言います。まだ子どもだと言うのです。これは自分の価値を高く見たい彼らにとってショッキングな言葉だったでしょう。ただパウロはコリントの教会の人たちを見捨ててはいません。彼らが「肉の人」から「霊の人」に成長することを信じ、それを切に願っているのです。実は私たちもコリントの教会の人たちと変わりありません。私たちも罪があるので「乳飲み子」「肉の人」です。ですから私たちも成長する必要があるのです。

 コリントの教会は4つの派に分裂していました。その内の2つがパウロ派とアポロ派でした。パウロを支持する人とアポロを支持する人、その他の派も含めて対立していたのです。そんな彼らにパウロは「パウロとアポロたちは対立していない。神のために力を合わせて働く者」と語ります。そして「パウロもアポロも偉くない。偉いのは成長させる神。」と語るのです。コリントの教会の人たちは「乳飲み子」「肉の人」でした。そこから成長しなくてはなりませんでした。成長のために必要なのは鍛錬や修行ではなく、パウロやアポロのように「自分ではなく神のため」という思いで歩むことなのです。

 私たちも「神のために力を合わせて働く者」となる必要があります。我らは何者でしょうか。そう「神のために力を合わせて働く者」なのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「人は神の民となる」   ヨハネの黙示録21:1~8(新約P477)   2021年11月7日 大竹敏生

 

本日も、このように集まって主の日の礼拝をもつことができまして感謝申し上げます。本日は私どもの教会の「召天者記念礼拝」となります。先に天に召された方々を覚えて礼拝をささげてまいりましょう。

 本日の「召天者記念礼拝」に際し、導かれた聖書の箇所は、ヨハネの黙示録21章1節~8節です。ヨハネの黙示録は、使徒ヨハネが迫害でパトモス島に流刑されたときに見せられた幻を記した書です。内容的には非常に難解な書です。それはヨハネの生きていた時代どころか、今もまだ起こっていない時、この世の終わりのことや、まだ見ていない天に召された方々の行くみ国について、幻を通して記しているからでしょう。でもだからこそヨハネの黙示録は「召天者記念礼拝」にふさわしいと言えるのではないでしょうか。

 神は新しいみ国をくださるのです。そのみ国は4節にありますように、死も悲しみも、嘆きも労苦もないのです。神は6節にあるように「アルファであり、オメガである」お方です。これは神が「初めであり、終わりである。」ことと「完全である」ことを意味しています。神の完全ですから全く欠けたところはありません。「涙をぬぐってくださる」ように私たちに愛をかけてくださいます。「完全」という言葉から感じかねない、人を寄せ付けないようなものではありません。そういう負のイメージのない、潤いある完全なみ国が、召された人たち、そして私たちが招かれて行くところなのです。このすばらしい約束は真実です。これを励みとして歩んでまいりましょう。

神は3節にありますように、この新しいみ国で共に住んでくださいます。そして私たちはそのみ国にて神の民となるのです。私たちはこの世でこれからも歩みを続けていきます。この世での歩みですから苦難があります。でも神は全てご存知で助けてくださるのです。先に召された人に続いて、私たちもいつかみ国ににて神の民とされます。それを励みとして歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「霊によって前に」  ガラテヤの信徒への手紙5:16~26(新約P349)   2021年10月31日 大竹敏生

 

本日も、主の日の礼拝が守ることができまして感謝いたします。本日の聖書箇所はガラテヤの信徒への手紙5章16節~26節です。この箇所から導かれ、霊の導きに従って進む者とされてまいりましょう。

 ガラテヤの信徒への手紙は「信仰による義」をテーマに記されていると言ってもよい手紙です。ただそのことだけが記されているのではなく、例えば本日の聖書の箇所は「聖霊」について記されています。他にもいろいろなことの記述があります。このように内容が豊富な手紙から学べることを感謝します。

 本日の宣教題は「霊によって前に」です。この題について16節と25節に「霊の導きに従って」という言葉があります。そしてそれぞれ「歩みなさい」「前進しましょう」と続いています。意味的には16節は「自由に歩むこと」25節は「隊列を組んで行進すること」なのです。

 17節以降に「肉」と「霊」という、相反することが記されています。私たちは「肉」なる者です。従って19節~21節に記されている「肉の業」は頼まれなくても行なってしまうのです。一方私たちは「霊」の実を結ぶことは困難なのです。でも私たちは霊の実を結ぶために歩まなければなりません。

 私たちが霊の実を結ぶためには神が助けてくださいます。それを信じて歩みましょう。私たちは「無理」とあきらめずに、少しでも霊の実を結ぶことを心掛けて歩みましょう。私たちができるわずかなことが、霊の実を結ぶことにつながるのです。また今日の聖書箇所に出てくる「霊の実」という言葉ですが単数形が用いられています。この単数は「愛」を指します。「愛」が他の実をすべて含んでいるのです。霊によって歩むこと、つまり「隊列を組んで行進する」ためには、お互い覚え合うことが必要です。つまり「愛」が霊の実を結ばせることにつながるのです。私たちはこれからも主を信じる者として、霊の実を結ぶために「愛」を求め、肉ではなく霊によって前に進みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「力と愛と思慮分別の霊」  テモテへの手紙Ⅱ1:3~14(新約P391)  2021年10月24日 大竹敏生

 

本日もこのように、主の日の礼拝が守れることを感謝します。本日の聖書箇所はテモテへの手紙Ⅱ1章3節~14節です。この箇所から導かれ、神がくださる「力と愛と思慮分別の霊」によって歩む者とされてまいりましょう。

 この手紙が記された時、手紙の受け取り手のテモテは苦難の中にあったようです。エフェソの教会の指導者としてテモテは遣わされていましたが、違った教えを説く者がいたり、テモテを見下げる者がいたり、また教会内で対立もあったようです。テモテはパウロに相談したのでしょう。テモテへの手紙のⅠとⅡは、悩むテモテにパウロが送った励ましの言葉が記されているのです。

 今日の聖書箇所にもパウロがテモテに送った励ましが記されています。見てみましょう。まず、パウロはテモテのために「祈っている」ことを告げています。祈りは神の力を引き出します。またパウロはテモテに「信じて、神の賜物を再び燃えたたせる」ように勧めています。誰にも与えられている神の賜物を燃えたたせることで悩みが解決に向かうのです。そして8節以降に記されていますが、主のために働く者は、パウロも含めて悩み苦しむのです。テモテだけが苦しんでいるのではありません。そしてテモテを主の働きに導いたのは神です。その神は主のために働く者の苦しみをご存知で、すべて主の導きの中でことが起こっているのです。すべてご存知で最善を成す主に感謝いたします。

 そして7節を見ましょう。主のために働く者には「力と愛と思慮分別の霊」が与えられているのです。人間は誰もが「おくびょう」になります。しかし「力と愛と思慮分別の霊」により、すべてを克服できるのです。テモテもパウロの励ましを受け、「おくびょう」を乗り越えて主のために働きをつづけました。私たちもいりいろなことで「おくびょう」になります。でも私たちにも「力と愛と思慮分別の霊」が与えられています。弱い私たち、おくびょうな私たちではありますが、主の霊の力によって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「いつも共にいる」  マタイによる福音書28:16~20(新約P60)   2021年10月17日 大竹敏生

 

本日もまたこのように主の日の礼拝が守れることを感謝いたします。そして本日は私たち高松太田キリスト教会の伝道開始から30年の記念の礼拝となります。30年の歩みを感謝しつつ礼拝をささげてまいりましょう。

 その記念の礼拝に導かれた箇所はマタイによる福音書28章16節~20節です。神はこの箇所に約束されている通りに、私たちの教会の誕生から共にいてくださいました。いつも共にいてくださった神に感謝いたします。

 今日の聖書箇所には有名なイエス様の「大宣教命令」が記されています。「宣教」とは単純に「宣べ伝える」こと「弟子とする」ことがそうですが、もっと意味の広いもので、神のための私たちの働きすべてが「宣教」なのです。私たちはこの貴い働きをする力はありません。神の助け、力が必要なのです。「宣教」は多様で、いろいろです。ということは、弱い私たちは、いろいろな助けや力が必要となります。神が私たちの働きのために共にいてくださり、その時その時、必要な助けを、共にいる神はくださるのです。感謝いたします。

 神は約束を違えることはありません。間違いなく共にいてくださいます。この神が共にいてくださることについて、私たちが心掛けなくてはならないことがあります。まずは「信じる」ことです。神は霊ですから見えません。信じなくては共にいる神が分かりません。神が共にてくださることを信じて歩んでまいりましょう。次に心掛けたいことは「確認する」ことです。この「確認」は上から目線で神がいるかを「確認」するのではなく、おられることが分かっていても思わず「確認」するようなものです。この「確認」のためには祈ることです。共にいる神に祈るのです。祈りによって神が共におられることを「確認」しましょう。そしてもう一つ、神が共におられることを「喜び」ましょう。愛する神が共にいて恵みをくださることは大きな「喜び」なのです。

 これからも、いつも共にいる神と歩んでまいりましょう。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「何よりもまず神」   マタイによる福音書6:25~34(新約P10)   2021年10月10日 大竹敏生

 

本日もまた集まっての礼拝ができますことを感謝いたします。本日の聖書の箇所はマタイによる福音書6章25節~34節です。この有名な箇所から導かれ、「何よりもまず神」という思いをもって歩んでまいりましょう。

 本日の聖書箇所は有名で、私もよく語らせていただく箇所です。本日は特に33節のみ言葉を中心に、改めてこの箇所から導きを受けたいと思います。

 本日は33節のみ言葉が中心ですが、他の節も考えなくてはなりません。それがまた、み言葉の理解を深めることになるのです。25節~32節に記されていることは「思い悩むな」で、以前の訳では「思い煩うな」です。これは同じ意味です。「思い悩む」ことは普通の「考える」こととは違います。考えることで解決に近づくことはあります。でも「思い悩む」ことで解決はありません。「思い悩む」ことは非生産的なのです。そして「思い悩み」は私たちの心と体を蝕みます。さらに「思い悩み」は私たちが、普段ならできることすらもできなくさせるのです。非生産的で私たちを蝕み、できることをさせない「『思い悩み』『思い煩い』を避けよ」という神の命令は当然と言えるのです。

 では33節を見ましょう。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」とあります。これは「神を第一にせよ」という意味です。神を第一にすることは神への信仰を表します。私たちの必要なものをご存知の神が、必要なものをすべて与え、弱い私たちを養ってくださるのです。信じて歩みましょう。また33節の言葉は「神の国」つまり「神の支配」を求めることであり、神に救われ、神の正しい支配の中、神のために励むことを意味しているのです。支配は人にはできません。完全な神だから支配できるのです。神は弱い人間と共に、人間を導きながら支配してくださるのです。33節の言葉どおりに、神のために励んでまいりましょう。私たちは神のために生きる者なのです。これからも「何よりもまず神」という信仰を持ちながら歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「感謝によって」   コロサイの信徒への手紙3:12~17(新約P371)    2021年10月3日 大竹敏生

 

本日からまた集まっての礼拝が再開できますことを感謝いたします。本日、導かれた聖書の箇所はコロサイの信徒への手紙3章12節~17節です。この箇所から、神への「感謝」によって歩むことの祝福を覚えてまいりましょう。

 先週の「恵み」、先々週の「愛」、そして3週前の「喜び」に続いて、本日のテーマである「感謝」についても聖書にはたくさんの記述があります。本日のテーマである「感謝」も私たちにとってとても大切なことなのです。「感謝」をもって歩めるように導かれてまいりましょう。

 12節~14節には「身に着けなさい」という言葉が出てきます。12節に出てくる「寛容」など5つを身に着けなさいとあり、14節では「愛」を身に着けなさいと命じられています。この「身に着けなさい」という言葉から、そこにあるものを着るということが思わされます。12節の5つのものと14節の「愛」はあるのです。これらはすべて神が私たちに身に着けさせてくださいます。神がくださるのですから感謝なのですね。神に感謝いたします。

 さて15節~17節には「感謝」という言葉が3回出てきます。16節は信仰者が集い、交わり、賛美したりしているので、ある人は礼拝だと言います。そこに「感謝」が記されています。礼拝は「感謝」をもって行うものです。私たちも感謝しつつ神を礼拝しましょう。15節にある「感謝」は聖書によくある「感謝」です。「いつも感謝」とあります。私たちの歩みは、いつも感謝な状況というわけではありません。でも「いつも感謝」すべきなのです。それは無理だと思う方もおられるでしょう。無理して感謝する必要は無いのかもしれません。「いつも感謝」はある意味、努力目標のようなものかもしれません。ただ人は「感謝しかない」「感謝せざるを得ない」ということもあります。神にすがりつくように、信じて感謝するようなこともあるのです。感謝は神がくださいます。神からの感謝によって祝福されてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みまた恵み」   ヨハネによる福音書1:14~18(新約P163)  2021年9月26日 大竹敏生

 

本日まで集まっての礼拝は休止です。本日もそれぞれの場所での礼拝が祝福されますようにお祈りします。本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書1章14節~18節です。この箇所から神の「恵み」の豊かさを覚えましょう。

 本日のメッセージのテーマは「恵み」です。先々週の「喜び」先週の「愛」に続いて本日のテーマ「恵み」も聖書にたくさんの記述があります。私たちにとってたいへん重要な「恵み」を共に考えてまいりましょう。

 「恵み」とは何でしょうか。聖書の語る「恵み」とは「いただく資格が無いのに与えられること」です。「憐れみ」という言葉が用いられる「負わなくてはならない責任を、その資格が無いのに免れること」も「恵み」と考えてよいのではないかと思います。数ある「恵み」の中で、最高のものはやはり「救い」でしょう。罪人である私たちは「滅び」に至るはずだったのですが、神によって「救い」を受けました。私たちは「憐れみ」によって負うはずだった「滅び」を免れ、「恵み」により受ける資格が無いのに「救い」を受けたのです。

この福音書を書いたヨハネは、イエス様の弟子の中でも、初期のころからの弟子で、ペトロやヤコブと並んで、特にイエス様と親しく交わりを持った人です。そのヨハネはイエス様の中に「恵み」を見ました。それは完全なお方である神が、不完全で罪を持っている人間になられたということを通してです。そのことが14節に記されています。神の「恵み」に感謝いたします。

 16節に「恵みの上に、さらに恵み」とあります。これは「救い」という「恵み」の上に、助けや導きなどの「恵み」が与えられることですが、「恵みの代わりに恵み」という意味もあります。つまり私たちは神の助けや導きという「恵み」を受けますが、その「恵み」は尽きずに与えられるのです。神はそのあふれる豊かさから「恵み」をくださいます。従ってこの「恵み」は無くなりません。「恵みまた恵み」と続けて与えられる「恵み」を喜びつつ歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「御子に望みをかけて」   ヨハネの手紙Ⅰ3:1~3(新約P443)   2021年9月19日 大竹敏生

 

本日も集まっての礼拝ができません、それぞれの場所での礼拝が守られますように祈っています。本日は「高齢者を覚える礼拝」となります。ご高齢の方々がいつまでもお元気で歩めるように祈りつつ礼拝いたしましょう。

 本日の「高齢者を覚える礼拝」に導かれた聖書の箇所は、ヨハネの手紙Ⅰの3章1節~3節です。先週、聖書には「喜び」について多くの記述があると申し上げましたが、それ以上に多くの記述があるのは「愛」についてです。聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネによる福音書3章16節や愛の賛歌とたたえられるコリントの信徒への手紙Ⅰの13章などが思い浮かびます。そして本日取り上げるヨハネの手紙Ⅰも「愛」について多くの、しかも有名な記述があります。特に3章から「愛」について多くのことが記されています。本日はその3章の最初の部分ですが、最初に「愛」について「見よ」「考えなさい」と記しているのです。何を見るのか、何を考えるのか、それは私たちが「神の愛によって、神の子とされる」ということです。私たちが神の子とされるのは、私たちが優れているからではなく、神が愛してくださったからです。そのことを忘れないようにしましょう。神の子としてくださった愛の神に感謝します。

 3節に「御子にこの望みをかけている」とあります。御子、つまり主なるイエス様に私たちは望みをかける必要があります。ただそれには障害があります。望みをかけることは信仰によらなくてはなりません。望みをかけるとは、見えない神に望みをかけるのです。不確かなこの世の歩みを神にゆだねるのです。まだ実現していない約束を信じるのです。神に望みをかけるために私たちはご高齢の方に倣う必要があります。ご高齢の方は自分を知っています。そして神の強さを知っているのです。だからご高齢の方こそ神に望みをかけて歩むのです。私たちも神の望みをかけて歩みましょう。神はその信仰に応えて祝福に満たしてくださるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「この上ない喜び」  ルカによる福音書10:21~24(新約P126)   2021年9月12日 大竹敏生

 

本日も集まっての礼拝ができません、どうぞそれぞれの場所で礼拝をお守りください。本日の聖書の箇所はルカによる福音書10章21節~24節です。この箇所から学び、神から来るこの上ない喜びを感謝して歩みましょう。

 キリスト教では「喜び」が大切で、聖書には「喜び」について多くの記述があります。今日の聖書の箇所もそうです。ただ今日の聖書の箇所は「喜び」が記されていますが、「喜び」に関してはもっと有名な箇所があると感じます。でも今日はこの箇所から「この上ない喜び」を導かれてまいりましょう。

 私たちにとってこの上ない、一番の喜びとは何でしょうか。それは救いの喜びではないでしょうか。今日の聖書個所の前で、イエス様は弟子たちに「悪霊が屈服すること以上に天に名が記されていることを喜べ」と言っています。これは「救いを喜べ」ということでしょう。またルカによる福音書の15章10節でも「一人の罪人が悔い改めると天で喜びがある」とあります。このように救いは、神にとっても救われた私たちにとっても大きな喜びなのです。でも今日の聖書の箇所の喜びは、救いの喜びとは違うように思えます。でも実は今日の箇所に記されていることも、実は救いと同じことを言っていると考えてよいのです。「知恵ある者や賢い者ではなく、幼子に与えられる」ということは救いと同じです。私たち人間がどんなに努力しても、自分を救うことはできません。救いは全ての人に与えられるものなのですが、人間の思いがときに救いから遠ざけるのです。イエス様を幼子のように受け入れ、信じることで私たちは救いというこの上ない喜びが与えられます。感謝いたします。

 また私たちは救いを受け、やがて天国に導かれますが、この世でも主が共に歩んでくださいます。このことも大きな喜びです。新型コロナで私たちは厳しい歩みを強いられていますが、全知全能の主が導いてくださいます。主が私たちを救い、今も私たちと共に歩まれる。この上ない喜びを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神さまの『大丈夫』」    ハガイ書2:1~5(旧約P1477)    2021年9月5日 大竹敏生

 

本日も集まっての礼拝ができませんので、それぞれの場所での礼拝をお守りください。本日の聖書の箇所は旧約聖書のハガイ書2章1節~5節です。この箇所から導きを受け、共にいる神の励ましを受けて歩んでまいりましょう。

 本日はハガイ書というあまりなじみのない箇所からです。ハガイは預言者ですが、どんな預言者だったのでしょうか。バビロン捕囚にあった民が、帰国が許されてエルサレムに帰って神殿再建をしました。しかし他国の妨害や物資不足、飢饉などの事情で頓挫します。その後、神が神殿再建のためにたてた預言者が二人いて、一人がゼカリヤ、そしてもう一人がハガイでした。

 今日の聖書個所の4節と5節に、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア、そして帰国した民に対して「勇気を出せ」「強くあれ」「恐れるな」との神の命令がハガイを通してあったことが記されています。これらの命令を守ることで、人はいろいろなことができるようになります。神殿再建もこの命令を守ることでできるのです。でも私たちは弱いのでこれらの命令を守ることができません。神はそんな弱い私たちと共にいてくださるので、私たちは命令を守ることができ得るのです。共にいてくださる神に感謝いたします。

 この4節と5節にあることは、私たちにとって耳新しいことではありません。むしろよく知っていることで、神の励ましの定番と言ってよいかもしれません。私たちはこういう神の励ましよりも、人間的なものを求めたりしてしまいます。神殿再建に対しても人間的な権力や財産などを求めたりします。確かにそれも大切ですが、限界があります。限界のない神に、より頼む必要があるのです。どんな状況にあっても、神は私たちと共にいて「大丈夫」と励ましてくださいます。神の「大丈夫」を信じて歩みましょう。

 今、新型コロナに悩む私たちを、神は「大丈夫」と励ましてくださっているのではないでしょうか。神さまの「大丈夫」に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「既に世に勝っている」 ヨハネによる福音書16:25~33(新約P201)   2021年8月29日 大竹敏生

 

本日も集まっての礼拝ができません。それぞれの場所での礼拝をお願いいたします。本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書16章25節~34節です。この箇所から導かれ、世に勝たれたイエス様を覚えて歩みましょう。

 ヨハネによる福音書の13章、14章あたりから17章までは、イエス様の「告別説教」と言われています。この内17章は、すべてがイエス様の祈りです。本日の聖書箇所は16章の終わりの部分です。つまりイエス様が十字架に架かる前に伝えたかったメッセージの一番終わりになるのです。イエス様が最後に伝えてくださったことから励まされてまいりましょう。

 今日の聖書の箇所のヨハネによる福音書16章29節~30節で、弟子たちが信仰の告白をしています。しかしそれに対し、31節~32節のイエス様の言葉は「信じるのが遅い」と言い、弟子たちがこの後、イエス様を見捨てて逃げてしまうことも告げています。そしてそれは現実になりました。信仰を持ったからといって安心はできないのです。罪人である私たちは、弟子たちのように不信仰になったり、失敗したりするのです。

 それに対してイエス様は33節のすばらしい言葉をくださいました。この33節の言葉は、世に勝たれたイエス様を信じて勇気を出せば、不信仰な行いや失敗はしないとも読めます。だとしたら失敗した弟子たちは33節の言葉を無にしてしまったのでしょうか。そうではありません。この33節の言葉は、失敗をしたり、不信仰な行為をしてしまった者への言葉でもあるのです。

イエス様は世に勝たれました。これは世の支配者であるサタンに勝利したことを意味します。従って主を信じる者は義とされ、救われるのです。そして世の困難を解決することも意味しています。世に勝たれた主を信じる私たちは失敗しても、そしてこの世で、例えば新型コロナで悩んでも、恐れなくてよいのです。既に世に勝たれ、今も勝ち続けておられる主と歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の言葉に従う喜び」     創世記12:1~9(旧約P15)  2021年8月22日 大竹敏生

 

香川県に「まん延防止等重点措置」が発令され、本日から集まっての礼拝を休止することになりました。それぞれの場所で礼拝しましょう。聖書の箇所は創世記12章1節~8節です。主の言葉に従う喜びを覚えましょう。

 今日の聖書の箇所に出てくるアブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。アブラハムの何がそう呼ばせるのかは確定できないほどアブラハムは信仰によって歩んだのです。その中でも本日の箇所に記されていることは、アブラハムの信仰のすばらしさを表しています。その信仰を見てまいりましょう。

 今日の聖書箇所でアブラハムは「カナンの地に行け」という神の言葉に従って行動したことが記されています。アブラハムはカルデアのウルという地にいました。そこから知らない地であるカナンに行くように神から命じられました。その命令に従うことは、財産や人間関係など、多くを失うことを意味します。アブラハムは安定を捨てて主の言葉に従いました。何よりも神を優先し、主の言葉に従ったのです。それによりアブラハムは多くの祝福を受けました。物質的にも恵まれました。多くのものを得て、アブラハムは王以上の力も得たのです。そして信じたことで彼は義とされました。つまりアブラハムは信仰により救われたのです。そんなアブラハムですが、彼も完全ではありませんでした。間違ったこともありました。不信仰と思えることもしています。でも主の言葉に従うアブラハムの行為の一つ一つが彼を成長させました。私たちもアブラハムの信仰に倣いつつ歩みましょう。そして主の言葉に従うことは、それによる祝福が喜びなのですが、それだけではありません。結果までの歩みも喜びなのです。主に従うこと自体が喜びなのです。アブラハムは神を信じて主の言葉に従い、喜びつつ歩みました。そして祝福という喜びも得たのです。

主の言葉に従うことにより、アブラハムの様に私たちも祝福されます。そして従うこと自体が喜びです。主の言葉に従う歩みを心がけましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられる平和」  ローマの信徒への手紙14:13~23(新約P294)   2021年8月15日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙14章13節~23節です。平和を覚える今、この箇所から、神から与えられる平和を喜び、平和を求めて歩む者とされて歩んでまいりましょう。

 1945年8月15日にあの悲劇的な戦争が日本の敗戦と共に終結しました。私たちは毎年この時期、もう戦争を繰り返すことなく歩むために平和を覚える時としています。そのことを変わらず語り続けてまいりましょう。

 「平和」とは戦争のない状態です。ただ聖書が語る「平和」はもっと意味が広く、深いのです。言語的には「安全」「無事」「安息」「平安」などの意味もあるのです。私たちが普通「平和」という言葉を考えると、国と国、民族と民族のような多数の人たちの問題と考えますが、聖書の「平和」は国や民族の中の一人一人、つまり個人の問題としています。確かに私たち一人一人が「平和」であるならば、国も民族も平和なのです。そして聖書の語る「平和」によれば、例えば戦争のない状態でも「平和」とは限りません。今日の聖書個所を読むと、ローマの教会の中に対立があったことがうかがえます。ローマの教会は「平和」でありませんでした。この対立に対してパウロは、どちらが正しいとは言わず、互いに愛し合うことを勧めます。考え方の違いはもちろんあるでしょう。そこで裁き合うのではなく、互いに理解し合い、認め合うことが「平和」につながるのです。私たちも互いに愛し合い、「平和」に歩んでまいりましょう。

 ただ私たちは愛のない者です。「平和」から遠い存在なのです。しかし私たちが信じる神は愛の方です。この方から愛を受けることができるのです。そして17節を見ますと、神が平和そのものをくださることが分かります。神に愛と平和を求めて歩んでまいりましょう。新型コロナの中、私たちは戦争をしていなくても「平和」ではありません。私たちは「平和」を追い求め、神から真の「平和」をいただいて歩みましょう。「平和」は私たちの喜びなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主を待ち望む人は幸い」  イザヤ書30:15~26(旧約P1108)  2021年8月1日 大竹敏生

 

本日、主に導かれた聖書の箇所は、旧約聖書イザヤ書30章15節~26節です。この箇所から学び、自分など見えるものに信頼せず、見えない神に信頼し、主を待ち望む者とされて歩んでまいりましょう。

 イザヤ書を読むときに注意したいことは、そこに記されている預言がイザヤの生きた時代に対してなのか、またバビロン捕囚とそこからの解放の時期のことか、あるいは主イエスキリストについての預言かを考えることです。今日の聖書箇所はイザヤの生きた時代についての預言です。このイザヤ書30章に記されているのは、南ユダ王国に攻撃を仕掛けてきたアッシリア帝国に対して、エジプトと同盟を結ぼうとしている南ユダ王国に対してのイザヤの警告です。この警告を自分とは関係ないと片づけてはなりません。私たちも困難な状況に陥ることがあります。そんな時に、自分とか、見えるものにより頼んでしまいます。イザヤは南ユダ王国に対して「見えるものではなく、神により頼め」と警告しています。私たちは主に信頼する者とされてまいりましょう。

 南ユダ王国の王と民はアッシリアに攻められたとき、主に信頼しませんでした。しかし神は18節で、南ユダ王国の人たちが主に信頼しなかったのに「それゆえ」助けるとあるのです。人が神を裏切っても、神はすべてご存じのうえで助けてくださるのです。主の愛に感謝いたします。

 18節に「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は」とあります。主を待ち望む人とは、主を信頼する人でしょう。主を信頼する人には、その人の信頼がどんなに弱くても主は助けてくださいます。主を待ち望む人にも助けや恵みが与えられるのです。感謝いたします。

 主を待ち望む人になりましょう。そのためには祈ることが最善です。今、新型コロナで私たちも苦難の中にあります。そんな時だからこそ、主に信頼しましょう。主を待ち望む人となりましょう。神は必ず助けてくださるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰と喜び」   ヘブライ人への手紙11:1~7(新約P414)   2021年7月25日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はヘブライ人への手紙11章1節~7節です。この箇所から導かれ、主を信じることで、私たちは喜びに満たされ、また神を喜ばせることを覚えて歩みを続けてまいりましょう。

 今日の聖書箇所のヘブライ人への手紙11章1節の言葉は「信仰の定義」と言えますが、例えばパウロなら「信仰とはイエスキリストを信じること」と言いそうですね。ヘブライ人への手紙の定義とは少し違うように思います。これは信仰というものの深さ、広さを表しています。4節以降の旧約聖書の人たちも、同じ神を信じていましたが、信仰による行動は様々でした。主を信じることは奥が深いと言えます。信仰の先輩に倣い、主を信じて歩みましょう。

 主を信じることで私たちには喜びが与えられます。一つは、信仰は私たちに救いをもたらします。神を信じることで滅びから救われるのです。このすばらしい恵みに勝る喜びはありません。また信じることが、私たちの厳しいこの世の歩みを祝福に導きます。神無しに私たちは歩むことはできません。神への信仰がこの世での祝福につながります。これもまた喜びですね。感謝します。

 ヘブライ人への手紙11章5節~6節にかけて、私たちの神への信仰が神を喜ばせることが記されています。神は私たちが誰一人滅びることなく、信じて救われることを望んでおられます。従って私たちが神を信じることが、神の喜びなのです。また神を信じるということは、神を信頼することです。私たちも親しい人から信頼されることは喜びです。信頼されること、期待されることは神にとっても喜びなのです。神を喜ばせるために神を信じて歩みましょう。

 そしてこう考えましょう。それは神を喜ばせることを心掛けることです。私たちは神を愛しています。その愛する神を喜ばせることは私たちの喜びのはずです。神を喜ばせて歩むことが信仰につながり、神を喜んで歩む信仰者こそ、神を喜ばせることができます。信じて喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「満たされる喜び」  フィリピの信徒への手紙4:15~20(新約P366)  2021年7月18日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙4章15節~20節です。この箇所から、主のために私たちが歩むとき、神がそのみ力によって恵みに満たしてくださることを覚え、喜びつつ歩んでまいりましょう。

 聖書のみ言葉は非常に広く深いのです。ときにその奥底に隠れているものを見つけ出すのは喜びです。しかし神のみ言葉は奥底だけではありません。み言葉がそのまま語ることも大切なのです。み言葉の奥にあるものからも、そしてそのままストレートに語ることも大切にしてまいりましょう。

 本日の聖書の箇所は、フィリピの教会の人たちが久しぶりにパウロに贈り物をしたことに対するパウロのお礼の言葉の部分です。パウロは贈り物をとても喜んでいます。しかしパウロは「贈り物が無くて困った」と言うのではありません。パウロは神によってどんな状況にも対処できるからだと記しています。ならばなぜパウロは喜んでいるのでしょうか。いくつかの理由があります。苦労を共にする仲間となったこと、そしてフィリピの教会の人たち行為を神が受けてくださり、フィリピの教会の人たちを神が祝福するからだとあるのです。

 19節を見ましょう。ここに記されていることを本日はそのまま受けたいと思います。神はフィリピの教会の人たち、そして神のために歩むパウロ、そして私たちを恵みに満たしてくださるのです。私たちの必要をすべてご存知で満たしてくださるのです。その方法も、時期もすべて神が一番良い時に、最善の方法で与えられます。そしてその力は大きいのです。出エジプトしたイスラエルの民は何もない荒野で養われました。多くの人たちは詩編23編1節にあるように、神は何も欠けることが無いように導く神を証ししているのです。

 神に満たされることは大きな喜びです。どんな状況でも神が導き助けてくださることを覚えて、私たちも主のために励んでまいりましょう。神が、困難の中にあっても満たしてくださることを喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が共にいて導く」 コリントの信徒への手紙Ⅱ13:11~13(新約P341)  2021年7月11日 大竹敏生

 

本日、神から示された聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ13章11節~13節です。この箇所から導かれ、私たちが神から恵みや導きを受け、それを生かし、広げていく者とされてまいりましょう。

 この手紙の著者はパウロで、宛先はコリントの教会です。コリントの教会は不一致、分裂、高慢などの問題を抱えていました。それを戒める内容がこの手紙にも表れています。今日の聖書の箇所はその手紙の最後の部分です。最後の部分もコリントの教会宛だからの内容でもあるのです。

 11節でパウロは5つのことを命じています。それは「喜べ」「完全になれ」「励まし合え」「一致せよ」「平和を保て」です。これらをする力は神から一人一人に分け隔てなく与えられます。コリントの教会の人たちはこれを理解していませんでした。喜びは自分の喜びを追求し、共に喜び合うことは無かったでしょう。完全になることは、自分の力でそれを成し遂げようとしていたのです。神からの励ましは求めず、励まし合うこともありませんでした。一致とは正反対の状態で、分裂していました。平和は無く、いがみ合っていました。パウロはコそんなリントの教会に神から受けて、広げることをすすめているのです。

そして12節に記されていることもそうです。接吻は親愛を表します。神から来る愛を受け、互いに愛し合うことが求められています。そして13節もそうです。13節は祝祷です。祝福を祈っているのです。祝福はやはり神から来ます。祝福を喜びつつ歩むことが求められています。

コリントの教会の人たちは神から受け、それを広めていかなくてはならなかったのですが、彼らは自分の力で、自分のためにという意識が強かったようです。パウロは最後までコリントの教会を戒め続けたのです。私たちも皆が、神から恵みや導きを受けています。それを喜び、分かち合いましょう。神はこれからも私たちと共にいて導いてくださるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主のために歩む」    テモテへの手紙Ⅱ4:1~8(新約P394)   2021年7月4日 大竹敏生

 

本日、神に示された聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅱ4章1節~8節です。この箇所から導かれ、神を信じる者として、どんな時でも主のために歩むことを心掛けてまいりましょう。

 この手紙の著者はパウロです。パウロが愛する弟子のテモテに送った手紙です。手紙には神の働き人として歩むテモテへの細かい指示が記されています。テモテはキリスト教の指導者、伝道者でした。普通の人とは違うように思えます。今日の聖書箇所も、牧師とか特別な立場の人にとって参考になる箇所と思われるかもしれません。本日は神学校週間の最終日です。神学生や献身者に向けての記述として相応しい箇所と言えるかもしれません。しかし実は信じる者すべてが献身者なのです。私たちにも語られていると信じましょう。

 2節の言葉は有名です。ただ時間も場所も考えず、福音を宣べ伝えるのだと短絡に考えてはなりません。宣べ伝える時と場所は考慮に入れなくてはならないでしょう。伝道は口だけでするのではありません。相手の話を聞く耳も必要です。全身全霊をもって私たちは福音を宣べ伝えるのです。言うならば耳で聞いていて、口で語っていない時も宣べ伝えているのです。また福音を宣べ伝えるのに、有名な伝道者の全てが語っています。伝道に何よりも必要なのは祈りです。祈る時も福音を宣べ伝えているのです。祈りをもって主の知恵と力を受けて、主のために歩んでまいりましょう。

 また2節の言葉は確かに命令です。内容から厳しい命令と感じる人もいるのではないでしょうか。ただそれだけではないと思います。新型コロナで私たちも多くのことができませんでした。今もできないことがあります。新型コロナでできない苦しみを世界中の教会が味わいました。でも2節の言葉は、できなくて苦しむ私たちに励ましをくださいます。世界中が新型コロナに悩む今は折が悪いといえます。そんな今こそ主のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の子供である」  ローマの信徒への手紙8:12~17(新約P284)  2021年6月27日 大竹敏生

 

本日、神が示してくださった聖書の箇所はローマの信徒への手紙8章12節~17節です。この箇所を通して、神の霊に導かれ、神の子とされる時、すばらしい恵みが与えられること覚えて歩んでまいりましょう。

 今日の聖書の箇所の14節には「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」とあります。これは言い方を変えると「神を信じて救われる者は神の子である」ということになります。私たちは神の霊が求めるように神を信じて、救いを受け、神の子として歩むことが求められています。

 神の子とされる時、すばらしい恵みを受けます。その一つは、罪から来る刑罰を免れるという恵みです。神の霊に従うとき、私たちは神の子とされ、神を信じて救われ、神の子供である私たちの罪が赦されるのです。肉ではなく霊に従って歩むときに与えられるこのすばらしい恵みを感謝します。

 恵みの二つ目は「アッバ、父よ」と神を呼ぶほど、神との親しい交わりに入れられるということです。「アッバ」とはイエス様も用いていたアラム語の「お父ちゃん」というような意味の言葉です。私たちは、本当は神を「お父ちゃん」とは呼べない存在なのです。しかし神の子供とされる時、罪人である私たちも父を親しみを込めて「お父ちゃん」と呼ぶことが許されているのです。このように神の子供は神との親しい交わりに入れられます。感謝します。

 神の子とされる時に与えられる恵みがもう一つあります。それは「相続人である」ということです。何を相続するのでしょうか。それは「神の相続人」だと記されています。この「神の相続人」というのは、神の持っている全てで、ありとあらゆるものを相続できるのです。イエスキリスト共に神の相続人として、神のために神と共に励んでまいりましょう。

 このように神は私たちを神の子供として、すばらしい恵みをくださいます。これは神が私たちを愛しておられるからです。神の愛に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りの助け合い」   出エジプト記17:8~16(旧約P122)   2021年6月20日 大竹敏生

 

本日導かれました聖書の箇所は旧約聖書の出エジプト記17章8節~16節です。この箇所を通して、私たちに祈りが与えられていることを喜び、祈り合い、助け合いつつ神と共に歩む者とされてまいりましょう。

 長く厳しい荒野の旅が始まり、イスラエルの民は食べ物や飲み物が無かったりで疲弊していました。そしてそのイスラエルの民は、戦いの経験も無く弱い民だったのです。そこにアマレク人が戦いを挑んできました。モーセは若いヨシュアを導き出し、同じように若い男たちをアマレクとの戦いにあたらせました。そしてモーセは祈っていたのです。モーセは手を上げて祈っていたのですが、手を上げている時はイスラエルが優勢で、手を下ろすとアマレクが優勢になるのです。そこでアロンとフルがモーセの手を支え、手が下がることがなくなり、つまり祈り続けることができて、ついにイスラエルが勝利しました。これは祈りによる勝利であり、神の力無しには勝てなかったのです。

 このように祈りはとても大切なものです。私たちも祈ることができることを感謝いたします。私たちは自分ためによく祈ります。それは大切なことですが、祈りのすばらしいところは、他人のために祈ることもできることです。そして他者に代わって祈ることすらもできるのです。私たちは祈る者であり、祈られている者でもあります。共に祈り、助け合って歩んでまいりましょう。

 アマレクとの戦いで若い人たちが実際に戦い、高齢のモーセが祈り、それを支えたのも高齢のアロンたちでした。おそらくこの時、モーセの姉ミリアムも神を賛美していたのではないでしょうか。教会も同じです。老若男女すべてが神のために、実際の奉仕や、見えない働き、そして祈りをするのです。

神は代々アマレクと戦うと16節にあります。アマレクは肉的なものの象徴です。私たちは肉と戦い続けなくてはなりません。神と共にこの世の歩みを続けましょう。そのために祈り、助け合いつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「むしろ弱さを」  コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1~10(新約P339)  2021年6月13日 大竹敏生

 

本日、神に導かれました聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ12章1節~10節です。この箇所を通して、私たちの罪からくる「弱さ」をも神は愛し、助けてくださることを覚え、その「弱さ」を誇りとして歩んでまいりましょう。

 この手紙の受け取り手であるコリント教会は問題をもっていました。それは自分の能力や体験を誇りとすることからくる分裂や愛の欠如でした。この手紙の著者のパウロは、この手紙の前に書いた手紙でも「誇る者は主を誇れ」と記しています。そしてこの手紙の今日の箇所でもそのことが記されています。この問題はコリントの教会に深く刻まれた深刻な問題だったのです。

 コリントの教会は自分により頼む者が多くいました。それで恩人であるパウロの使徒性を疑ったり、能力や体験を疑問視していた人もいたようです。それでパウロは自分の体験を記しています。しかし他人のことのように記しています。それぐらいパウロは、コリントの教会の人たちが自分を誇らないように配慮し、慎重に進めているのです。パウロは自分に与えられた「とげ」を取り除いてくださいと神に願いました。この「とげ」とは病気とか肉体のハンデだと思われます。つまり「とげ」は「弱さ」なのです。パウロはその「弱さ」を誇ると記しています。その理由は「神の力は弱さの中でこそ十分に発揮される」からだと記しています。確かに私たちは、自分では解決できない、自分の「弱さ」に関することについては躊躇せずに神に助けを求めます。神は「弱さ」の中に力を発揮されるのです。そして神は私たちの「弱さ」を愛しています。つまり神は私たちの「弱さ」はあってもかまわないと言っているのではなく、神は私たちの「弱さ」はあった方がよいと言っているのです。私たちの「弱さ」をも愛してくださる神に感謝をいたします。

 私たちはそんな神の愛につつまれています。私たちの「弱さ」も愛されています。私たちはそんな「弱さ」をむしろ誇りとして歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神からの喜びの広がり」   詩編133:1~3(旧約P975)    2021年6月6日 大竹敏生

 

本日、導かれました聖書の箇所は旧約聖書の詩編133編1節~3節です。この箇所を通して、神から与えられる恵みを喜び、その喜びをくださる神と神を信じる仲間と共に喜びを証しし、広げていく者とされてまいりましょう。

 今日の聖書の箇所の詩編133編1節に「何という恵み」「何という喜び」と記されています。この「何という」という言葉は「あり得ないほど」「信じられないほど」という意味です。つまり非常に大きな恵みであり、非常に大きな喜びということです。この大きな喜びについて考えてみましょう。

 まず2節と3節を見ます。2節に記されている「アロンに油が注がれる」これは何を意味するのでしょう。油は神の霊を象徴します。油が祭司アロンに注がれ全体に行きわたります。このように神の霊が私たちすべてを完全に満たすのです。また3節の「ヘルモン山の露」とは何を意味するのでしょうか。ヘルモン山はイスラエルの地方で一番高い山で、ほぼ一年中雪があります。そのヘルモン山の雪が露となって、乾いたイスラエルの地を潤すのです。このように神は私たちの必要なものをくださり、潤してくださるのです。3節の後半には私たちに神が「祝福」と「とこしえの命」をくださるとあります。救いと日々の祝福が与えられる、これは私たちへの神の恵みであり、喜びなのです。

「アロンに注がれた油」も「ヘルモン山の露」も上から下へと流れます。上の神から下の私たちに恵みが与えられます。1節に「兄弟が共に座っていることが喜び」とあります。これは私たちが仲間と共にいることの喜びを示しています。そしてその交わりの中には、私たちに上から恵みをくださる神がいなくてはなりません。マタイによる福音書18章20節には「主の名によって集う人たちの中に神が共にいる」とあります。これも私たちの喜びなのです。

神の恵みは私たちの喜びです。上からの喜びは私たちに注がれ、私たちを通して広がっていきます。神からの喜びを感謝し、証ししてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛を喜ぶ」  ヨハネによる福音書12:20~26(新約P192)  2021年5月30日 大竹敏生

 

本日、神に導かれた聖書の箇所はヨハネによる福音書12章20節~26節です。有名な24節を含むこの箇所を通して、神に愛されていること覚え、その神の愛を喜び、神のために生きる者とされてまいりましょう。

 今日の聖書個所はイエス様がエルサレム入場をしたすぐ後に起こったことです。過越祭に、礼拝するためにエルサレムに来たギリシャ人が「イエス様に会いたい」とやってきたのです。イエス様はそのとき「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われました。これは何を指しているのでしょうか。

 イスラエルの人たちにとっては、救い主とはユダヤ人をローマから解放する方、つまりユダヤ人のための地上の王、政治的な救い主でした。しかし真の救い主はそうではありません。ユダヤ人のためだけではなく、全ての人のための救い主で、贖いの十字架によって全ての人を救うお方だったのです。24節のみ言葉はイエス様が一粒の麦となってくださり、十字架で死んで、全ての信じる者を救う、贖いの救いのことを指しています。これがイエス様にとっての栄光だったのです。イエス様のところにユダヤ人ではなく、異邦人であるギリシャ人が来ました。全ての人を救う救い主イエス様は、これを「時が来た」と宣言し十字架に向かわれ、栄光を受けたのです。

 私たちを神はなぜ救ってくださったのでしょうか。それは私たちを愛しておられたからに他なりません。神は愛される資格のない私たちをこの上なく愛してくださっておられます。私たちの罪の責任は神にはなく、私たちにありました。でも私たちはどんなに頑張っても自分を救うことができません。そこで神の方が私たちのためにご自身のみ子を救い主として送ってくださいました。これは神が愛してくださっているからです。感謝します。

 神は今も私たちを愛し、私たちを救い、導いてくださっています。私たちはこの神の愛を喜び、神のために歩んでまいりましょう。神の愛に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ただわが霊によって」   ゼカリヤ書4:4~14(旧約P1483)    2021年5月23日 大竹敏生

 

本日は今年のペンテコステとなります。聖霊が降臨した記念のこの日の聖書個所は旧約聖書のゼカリヤ書4章4節~14節です。この箇所から導かれ、人の力ではなく、神の霊、聖霊によって歩む者とされてまいりましょう。

 ペンテコステは使徒言行録2章に記述されている聖霊が約束通り与えられたことを記念する日です。ただ聖霊はこの時初めて登場したのではありません。旧約の時代から、いや聖霊は神ですから、初めからおられたのです。ゼカリヤ書の時代も聖霊は働いておられました。感謝します。

 このゼカリヤの時代に、バビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民は、ペルシャ王によってエルサレムへの帰還が許されました。戻った民は崩壊した神殿を再建しようとしましたが、もともと民の力は不足している上に、他国の妨害があり、イスラエルの民は疲弊して工事は中断してしまいます。再度神殿建築のために動き出す民を励ました預言者がハガイとゼカリヤでした。そのゼカリヤの言葉がこのゼカリヤ書に記されているのです。

 この神殿再建は総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアが導いていました。ゼカリヤは幻を通して二人を励まします。今日の箇所はゼルバベルに向けて語っています。ゼカリヤ書4章6節にありますように「神の霊によって」歩むようにとです。「武力」や「権力」を私たちは求めます。しかし神は「わが霊によって」と命じるのです。神の霊は聖霊です。大きな力を持っています。妨害も除かれます。必要も満たされます。神の霊によって歩んだゼルバベルとヨシュア、彼らにひきいられたイスラエルの民はついに神殿再建を成し遂げたのです。

 私たちにも神の霊、聖霊が与えられています。私たちも聖霊によって歩まねばなりません。聖霊を信じて導きに従いましょう。聖霊を信じて働きましょう。聖霊を信じてすべてをゆだねましょう。聖霊によって歩む私たちには神の助けがいつもあるのです。私たちも神の霊によって歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じる喜び」     ヤコブの手紙1:1~8(新約P421)   2021年5月16日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヤコブの手紙1章1節~8節です。この箇所から導かれ、私たちが試練を通して神によって成長させられること、天において大いなる報いがあることを信じて、喜びつつ歩んでまいりましょう。

 このヤコブの手紙を書いたのは、エルサレム教会の指導者で、主イエス様の兄弟であったヤコブだと言われています。そんなヤコブは1節で自分のことを「神と主イエス・キリストの僕」と自己紹介しています。「エルサレム教会の指導者」とか「主の兄弟」のようなことは記していません。ヤコブは自分の地位は関係なく、ただ主の僕と思っていたのでしょう。またヤコブは、初めは主の兄弟でありながら信じていませんでした。そんなヤコブは「主の兄弟」とも記さなかったのです。ヤコブに倣い、主の僕として歩んでまいりましょう。

 私たちには試練があります。試練は避けられません。ヤコブはそんな試練にあうとき喜ぶことを命じます。その理由として、私たちは試練を通して「何一つ欠けたところのない人」に成長させられると記しています。またマタイによる福音書5章12節には「天において大いなる報いがある」ことが記されています。避けられない試練ですが、私たちは試練を喜ぶことができるのです。

 ただ、試練を乗り越えるのは困難です。私たちが自分の力で試練に立ち向かってもつぶされてしまうでしょう。5節に「神に知恵を求めよ」とあります。この知恵とは、私たちがこの世を歩むために適応する能力です。試練あるこの世を歩むために、試練を乗り越えるために知恵が必要なのです。神に知恵を求めましょう。完全な神の知恵が必要です。そして疑わず、信じて求めなくてはならないとありますが、これは私たちが目指すべきところです。疑ってしまうような者かもしれませんが信じて祈りましょう。神は知恵をくださいます。

 新型コロナで試練の中を歩む私たちですが、主がこの試練を通して私たちを成長させ、喜びに至らせると信じましょう。信じる喜びに感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が守ってくださる」    詩編91:1~16(旧約P930)     2021年5月9日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の詩編91編1節~16節です。この箇所から導きを受け、私たちが苦難の中にあっても、神が守ってくださることを信じ、神に信頼して歩んでまいりましょう。

 この詩編91編は、苦難の中にある人に希望や平安を与える詩編です。誰が書いたのかは記されていません。ダビデやモーセという説があるようです。ダビデもモーセも苦難の中を歩み、神からの助けを受けた人たちです。どちらも著者の資格をもっています。またどちらでもなかったとしてもその人はやはり苦難の中、神から守られ、助けられた人であったでしょう。

 この詩編の中で、神は苦しむ者の避けどころとなり、神のみ翼の下にかばわれることを約束してくださっています。罪ある私たちは、誰もが苦しみ悩むのです。その苦しみは「疫病」「敵の攻撃」「猛獣の攻撃」など、いろいろな災難が記されています。でも神さまはありとあらゆる苦しみから私たちを守ってくださるのです。そして例えば「み翼の下にかばう」とありますから、神は遠くにいて守るのではなく、私たちと共にいてくださるのです。つまり私たちと同じ苦しみを味わって守ってくださるのです。感謝いたします。私たちはその神の守りを信じなくてはなりません。神に信頼しなくてはならないのです。もし私たちが自分の判断で動き、神を避けどころとしなかったり、神のみ翼の下から出てきてしまったとしたら、神の守りは受けられなくなるのです。神の守りに信頼しましょう。必ず神は守ってくださるのです。

 神に信頼するために、神と親子のような親しい関係となりましょう。子が親をしたうように神をしたっていきましょう。そして神を呼び求めましょう。子どもは具体的にどうしたらよいのか分からなくても親を呼びます。新型コロナの中、私たちは「神さま」と呼びましょう。そんな私たちの叫びのような祈りに神さまは応え、神は必ず守ってくださるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「罪ある者を愛する神」  ヘブライ人への手紙2:14~18(新約P403)  2021年5月2日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙2章14節~18節です。この箇所から導かれ、罪ある私たちを救うため、そして苦しみから助けてくださるため、人となってくださった愛の主を覚え、主と共に歩んでまいりましょう。

 今日の聖書個所はヘブライ人への手紙からです。この手紙はヘブライ人が対象であり、また原点のギリシャ語も流麗であると評価されていることなどから、何か高度で専門的で、初心者向けではないというようなイメージを持たれるかと思います。しかしこの手紙は「イエスキリストについて」「信仰による救いについて」など、キリスト教の神髄、すばらしさが多く記されています。本日の箇所もキリストの特に「受肉」について記されているのです。

 今日の聖書箇所には「神が人となられたこと」が記されています。その理由として2つのことが記されています。1つは罪ある私たちを救うためです。救いは十字架によって与えられますが、その十字架に架かるのは人間でなくてはなりませんでした。しかも罪があってはならないのです。従って罪のない神の子であるイエスキリストが人間としてこの世に来られ、十字架に架かってくださったのです。また罪のないお方でしたが、罪ある私たちと同じ試練にあわれたのです。だから私たちの苦しみを理解してくださるのです。そして同情してくださり私たちを助けてくださるのです。人となってくださった神に心から感謝をいたします。

 ではなぜ神は人なって私たちを救い、助けてくださるのでしょうか。それは私たちを愛してくださっておられるからに違いありません。ヘブライ人への手紙2章16節にありますように、神は価値がある天使ではなく、罪ある私たちを救うのです。ローマの信徒への手紙5章8節にありますが、罪がある私たちを愛してくださるのです。神は罪ある私たちをこの上なく愛します。だからこの愛は私たちから離れません。愛による救いと助けを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主は我らの先に」  マタイによる福音書28:1~10(新約P59)  2021年4月25日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書28章1節~10節です。この箇所から導かれ、私たちの先に立って行き。私たちのために備え、導いてくださる主に従って歩んでまいりましょう。

 今日の聖書の箇所は主の復活の箇所です。今日はイースターではありませんが、この箇所から導かれたいと思います。復活された主は弟子たちに「ガリラヤに行け、そこでわたしに会える。」と言われました。しかもこのことは主が十字架に架かる前から言っておられたことでした。つまりこのことは、かねてから計画されていたことで、重要なことだったのです。

 「ガリラヤ」とは弟子たちにとっての原点でした。そこで弟子たちはイエス様と出会い、弟子としての歩みを始めたのです。主を裏切ってしまった弟子たちはもう一度出発しなくてはなりません。それはかつて弟子として歩みだした地、ガリラヤから再び出発させられることになったのです。そしてかつてイエス様もガリラヤで伝道を開始しました。そして復活後、いよいよ福音は世界に広がっていくのです。その出発が大都市ではなく、辺境の地ガリラヤでした。ガリラヤで始まった福音宣教は、改めてガリラヤから世界に広がるのです。

 主は先に立ってガリラヤに行きます。弟子たちは先立つ主に従い、ガリラヤから歩み出すのです。かつてヨシュアはイスラエルの民を率いてカナンの地に入りました。その時、不安や恐れがあって当然でした。しかしヨシュアの前に主が先だってくださっていたのです。私たちの前にも主がおられます。どんな状況にあっても必ず私たちの前に行ってくださるのです。そして先立つ主は私たちを待っていてくださるのです。感謝いたします。

 今も続く新型コロナの影響を、私たちも受けています。不安や恐れは当然あります。しかし信じましょう。こんな状況でも私たちの前を言ってくださる方がおられます。我らの先に立つ主に従ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の主を誇れ」  コリントの信徒への手紙Ⅰ1:26~31(新約P300)  2021年4月18日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ1章26節~31節です。この箇所から導かれ、私たちを愛し救ってくださる、そんな愛の主を誇りとして歩むことを心掛けてまいりましょう。

 この手紙の宛先のコリントの教会は分派などの問題があったようです。このコリントの信徒への手紙Ⅰは使徒パウロが記しましたが、そのパウロはその問題の原因がコリントの教会の人たちが自分の能力や経験を誇りとしていたことにあると分かっていました。従って今日の箇所などはコリント教会宛の手紙だからこそのものとも言えるのです。しかし神のみ言葉はさすがです。この箇所はコリント教会だけではなくすべての人を導くのです。感謝いたします。

 26節の「召された」は「救いに導かれた」と同じ意味です。コリント教会の人たちは自分の才能が理由で救いにあずかったと考えていたのかもしれません。だから自分を誇っていたのです。それに対してパウロは能力などは全く関係がないことを「むしろ能力のない者を選んだ」というコリントの教会の人たちには厳しい言葉で説明しています。救われた人はすべて能力などではなく救われました。理由があるとすれば、それは愛です。神の愛を感謝いたします。

 では私たちは価値のない者なのでしょうか。そんなことはありません。私たちにはそれぞれすばらしい賜物が与えられています。そしてその賜物をくださった神が賜物を生かし、用いてくださるのです。与えられた賜物を感謝し、神のために賜物を用いて励んでまいりましょう。

 31節の「誇る者は主を誇れ」という言葉は旧約聖書のエレミヤ書からの引用です。そして31節の意味は「自分を誇るな」が主な意味です。しかし「主を誇れ」を主な意味としても良いのではないでしょうか。主は私たちを救ってくださいました。賜物をくださいました。そんな愛の主を誇りましょう。私たちはさらに祝され、喜びに満たされるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「苦難が喜びへ」   ローマの信徒への手紙12:9~21(新約P292)   2021年4月11日 大竹敏生

 

2021年度の年度聖句はローマの信徒への手紙12章12節です。本日はその聖句が含まれる。ローマの信徒への手紙12章9節~21節を通して、主の助けにより、苦難にあっても喜びをもって歩めるように導かれましょう。

 私たちの教会の今年度の主題は「希望をもって喜ぶ」です。つまり「喜び」が中心のテーマなのです。聖書ではこの「喜び」は大切なものであり、私たちは喜ぶこと、またいつも喜ぶことが求められています。私たちはうれしければたやすく喜ぶことができます。でもいつもうれしいことばかりの歩みができるわけはありません。いつも喜ぶことは、いつもうれしいことばかりではない私たちには困難です。ならば私たちが喜べない状況にあっても喜ぶことがば良いのでしょうが、それはそれでまた困難なのです。

 いつも喜ぶためには「喜び」の反対の「苦しみ」が無い状態が必要と考えることもできます。ただローマの信徒への手紙12章12節を見ますと、そうとも言えません。「喜び」と「苦難」が近くにあるように思えます。暑さの対策法として「地肌にラップを巻き、暑さに耐え、ラップをはがす」という方法があるそうです。肩をもむことや痒い箇所をかくというのもそうです。暑さや肩こり、痒みなどの苦しみが解消された時、喜びがあるということです。ヨハネによる福音書16章33節にあるように、この世の歩みに苦難は当然あります。そんな私たちにとって、苦難の解消が喜びとなるということは、喜びが近いということです。感謝いたします。では苦難の解消のためにどうすればよいのでしょうか。12節に「希望」と「祈り」が出てきます。これは主にある希望であり、主に祈ることです。どちらも主に頼ることを意味します。主によって苦難を解消していただき、喜びをもって歩んでまいりましょう。

 新型コロナで多くの人が悩みの中にあります。主によって私たちが喜ぶことが求められます。いつも主によって喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活なさったのだ」   ルカによる福音書24:1~12(新約P159)  2021年4月4日 大竹敏生

 

本日は今年のイースターとなります。導かれた聖書の箇所はルカによる福音書24章1節~12節です。この箇所から導かれ、イエス様の復活が確かであることを信じ、復活された主と共に歩んでまいりましょう。

 イエス様が復活された時のことは4つの福音書に記されています。その内容から復活は日曜日に起こったこと、最初に墓に赴いたのは女性であったこと、そして最初に復活の主に最初にお会いしたのはマグダラのマリアであったこと、み使いが主の復活を告げたことなどが分かります。そして復活について分かっていることの中でも、本日は墓を訪れた女性たち、そして弟子たちが見たのは「何も無い墓」だったことを考えてみたいと思います。

 4つの福音書すべてで程度の差はありますが、人間が墓を訪れた時、すでにイエス様は復活されていて、そこにおられなかったことが記されています。何かそこにイエス様がおられて「見よ、私は復活した。」と告げた方が、皆にイエス様の復活を知らしめたのではないかと感じます。でもイエス様はそうはされなかったのです。イエス様がそこにおられなかったということは、どこで何をしておられたのでしょうか。遊んでいたわけではないでしょう。復活されたイエス様は、復活後の歩みのために何か必要なことをしておられたのだと思います。私の想像ですが、祈っておられたのではないでしょうか。祈って十字架に向かわれたイエス様です。復活されてすぐ祈っていたのだと思います。

 またイエス様がおられなかったということが、むしろ復活の確かさ、また力を示しているように思います。まるで寝ていた人が起きて活動を始めたように「何も無い墓」は感じさせます。死という強大な敵に主は圧倒的な勝利を収めました。「何も無い墓」はそれを証明しているように思います。

 主の復活によって救いは完成しました。復活の主を信じて永遠の命を得ましょう。これからも今も生きている主と共に歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救い主ゆえの十字架」  ルカによる福音書23:32~49(新約P158)   2021年3月28日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はルカによる福音書23章32節~49節です。イエス様の十字架の箇所であるこの箇所から、救い主ゆえに十字架に架かってくださったイエス様を信じて歩む者とされてまいりましょう。

 本日から受難週となります。この週の金曜日に十字架に架かられたイエス様を覚えましょう。そして本日は2020年度最後の主日です。2020年度、私たちは「福音を伝える」ことをテーマとしてきました。十字架は福音の大切な要素です。2020年度最後の主日、十字架について考えてみましょう。

 私たちは罪人です。従って罪のない神から離れてしまっているのです。その責任は罪を犯した私たち人間にあるのです。しかし神は私たちを愛しておられ、神と人との間を埋めるために、神のみ子であるイエス様は、十字架に架かられたのです。イエス様は人間としてお生まれになり、同時に神の子であり、罪が無い救い主でした。そんなお方が十字架に架かったのです。架かる必要がないお方が十字架に架かられました。間違いが起こったともいえるのです。しかしある先生はこう言われます。「神の子であり、罪のない救い主だからこそ十字架に架かってくださったのだ」とです。その通り救い主だから十字架に架かってくださったのです。十字架の周りで見ていた人たちは「メシアなら十字架から降りてみろ。そうしたら信じるから」とイエス様をののしりました。確かにイエス様は十字架から降りることができました。でも降りませんでした。天の軍勢を呼び寄せることもできました。でもそれもしませんでした。それは救い主として立ち続けるためだったのです。

 イエス様のこのすばらしい十字架に感謝いたします。イエス様が人として、神の子として苦しみの中で十字架に架かり続けてくださいました。それはすべての人が救われるためでした。これからも主を信じて、救い主ゆえに十字架に架かってくださったイエス様を証ししてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんなときでも主をほめよ」   詩編34:2~8(旧約P864)   2021年3月21日 大竹敏生

 

本日、主に導かれた聖書の箇所は旧約聖書の詩編34編2節~8節です。この箇所から学び、私たちはどんなときでも主が助けてくださることを信じて、主をたたえて歩む者とされてまいりましょう。

 この詩編34編を記したのは1節の表題にありますようにダビデです。またその表題には、サムエル記上21章の出来事が起きたときに記されたとあります。ダビデは、イスラエルの初代王のサウルから妬みを受け、サウルから命を狙われることになりました。ダビデはサウルと戦うつもりはありません。サウルが「主から油注がれた者」だったからです。だから逃亡することになったのです。イスラエル国内ではサウルが追ってきます。そこでダビデは、サウルの敵であるペリシテのガトに逃れました。さすがにサウルもそこまで追ってきませんでしたが、かつてゴリアトを倒したダビデは、ペリシテではむしろサウル以上に危険人物とされていました。ガトの王の家臣からダビデだと見抜かれて、ダビデは狂気の人を装ったとあります。このことについてはダビデの行為は失敗と言う人もいますが、詩編34編のダビデの言葉から判断すると、神の指示でなかったとしても、少なくても神は容認していたのでしょう。

 ただサウルからいわれのない悪意を受け、逃亡し、狂気の人を装うようなことまで行うダビデは、どんな思いだったでしょうか。神に文句の一つでも言いたい思いだったとしてもおかしくはありません。しかしそんな状況にあったダビデは詩編34編で「主をたたえて」いるのです。それは「苦難から常に救ってくださった」からだとあります。彼の逃亡は終わっていません。苦難はまだ続いているのにも関わらず、ダビデは主をたたえるのです。つまり結果が出たからたたえるのではなく、ダビデはこれからも主の助けがあると信じて主をたたえているのです。今、新型コロナの中にありますが、私たちもどんなときでも信じて主をたたえましょう。主は最善に導くのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神を中心に一つ」  フィリピの信徒への手紙2:1~11(新約P362)  2021年3月14日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙2章1節~11節です。この箇所から導かれ、私たちは十字架による救いを受けた者として、主に倣い自分を低くし、思い合い、神を中心に一つとされてまいりましょう。

 フィリピの信徒への手紙を記したのは使徒パウロです。パウロは自分の記した手紙の中でいくつかのことを強調しています。そのうちの一つが「一致」です。パウロは自分の記したいくつかの手紙の中で「一つとなること」を勧めています。「一致」は私たちが考える以上に大切なことなのです。逆に言えば「不一致」は私たちが考える以上に深刻な問題と言えるのかもしれません。

 では「一つとなる」ためにはどうしたらよいのでしょうか。それを知れば、単に「不一致」が良くないということだけではなく、「一致する」ことが神に喜ばれ、信仰者としてふさわしいものだということが分かります。今日の聖書個所のフィリピの信徒への手紙12章1節~12節には、神でありながら人となられ、さらに一番低いものとされた主に倣って、へりくだって相手を思うことが記されています。まず「主を模範」とし、「謙遜」になるのです。そしてそれは相手を思うこととなり、相手を愛することにつながるのです。これらのことは一つ一つが神を信じる者のなすべきことです。私たちが「一つとなること」は信じる者がなすべき大切なことを積み重ねて実現していくのです。

 でもこれは簡単なことではありません。「主を模範とすること」「へりくだること」「愛し合うこと」その一つ一つが難しいのです。「一つとなること」は大変困難なのです。でも私たちが一つとなることは神の喜ばれることです。神が私たちを助けてくださいます。神は一つとなる私たちの中心におられます。私たちは主を仰ぎ見て、一つとされてまいりましょう。

 新型コロナの中、皆が自分本位に考えているように思います。私たちは神を中心に一つとされてまいりましょう。それが良い証しとなるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神に喜ばれるキリスト者」 ローマの信徒への手紙12:1~2(新約P291)  2021年3月7日 大竹敏生

 

本日、導かれました聖書の箇所はローマの信徒への手紙12章1節~2節です。この箇所から学び、神の愛の導きによって信じ、救われたキリスト者として、神を喜ばせる歩みをなす者とされてまいりましょう。

 今日の聖書個所の前の11章までで、パウロはキリストの愛による十字架で、信じる者が救われることを記しています。そして12章から信じて救われた「キリスト者」がどのように歩むべきかを記しているのです。そして今日の聖書箇所には「神に喜ばれる」という言葉が出てきます。私たち「キリスト者」は「神に喜ばれる」存在になるべきなのです。

 ではどうしたら神に喜ばれる存在になるのでしょうか。今日の聖書個所に「生けるいけにえとなりなさい。」ということが記されています。この言葉の意味は「神のために生きる」ことです。自分ではなく、神を第一に、神のために生きることが神を喜ばせるのです。私たちのつたない「奉仕」「伝道」などを神さまは喜んでくださいます。神を喜ばせるために私たちは存在しているのです。私たちは神のために自分を神に献げましょう。しかもそれは私たちの一部分を神のために献げるのではなく、全身全霊、つまりすべてを献げるのです。キリスト者は神を喜ばせる者であり、全身全霊で神のために生きるのです。

 でもそれは簡単なことではありません。私たちは自分ために生きてしまう者です。また私たちは神ではなく、この世に倣って歩んでしまう者です。私たちが神のために生きるには、神の助けが必要なのです。今日の聖書の箇所には「私たちは神に変えていただける」ことが記されています。神によって変えられ、神のために生きるように、神を喜ばせるようにされてまいりましょう。

 私たちが神のために歩むとき、神は助けてくださいます。また厳しいはずのその歩みは喜びとされます。私たちは主を愛しています。神を喜ばせることは私たちにとっても喜びとなるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰による歩み」  ヘブライ人への手紙11:1~3(新約P414)  2021年2月28日 大竹敏生

 

本日、神に導かれた聖書の箇所はヘブライ人への手紙11章1節~3節です。「信仰」について記されているこの箇所から学び、信仰によって歩む者とされてまいりましょう。

 今日の聖書個所のヘブライ人への手紙11章1節~3節のテーマはやはり「信仰」でしょう。「信仰」という言葉は他宗教でも使われる言葉かもしれません。でも私たちキリスト教では特に「信仰」は大切なものだと思います。「信仰」によって多くの恵みを受けます。それを考えてみましょう。

 「信仰」によって与えられる恵みですが、まず最初に取り上げなくてはならないことは「信仰による救い」です。キリスト教で強調されることですが、私たちが救われるのは「行い」ではなく「信仰」によってです。これ以外に救いはありません。この手紙の中にもそれが記されています。どんな偉大な人物でも自分の力では救われません。神への信仰によって救われるのです。

 「信仰による恵み」の2つ目は、この世での導きです。旧約聖書の創世記に出てくるアブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。それは彼が、神の命令に従って「行先も知らずに出発した」ことからそう言われているのです。この世での歩みは分からないことばかりです。しかし神を信じる者には「導き」が与えられます。そして信じて従った者には、アブラハムのように祝福が与えられます。信仰によって導かれ、祝福が与えられるのです。

 そして3つ目は「私たちの望みはすべて叶えられる」ということです。ただ「なんでも思い通りになる」ということではありません。私たちの望みは正しいとは限りません。むしろ我々の望みは悪い結果を生むこともあります。神は私たちにとって「最善の良いもの」を必ずくださるのです。

 私たちの歩みは苦難の時もあります。しかし信仰をもって歩むとき、神は必ず最善に導いてくださいます。神への信仰をもって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛は大きい」  ルカによる福音書15:11~24(新約P139)  2021年2月21日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はルカによる福音書15章11節~24節で、有名な「放蕩息子のたとえ」からとなります。この箇所を通して、神の大きな愛を学び、また神の愛を受け、神の愛を信じて歩む者とされてまいりましょう。

 今日の聖書個所の「放蕩息子のたとえ」ですが、何かしっくりこないものを感じます。それはこの弟が父から愛される資格があるのかと思うからです。弟は父から遺産を貰い、その遺産を自由に使うために父のもとを離れ、遠い国に旅立ちました。そこで財産を使い果たしてしまうのです。そしてひどい状況に陥るのですが、それは弟の自業自得と言えるのです。父から貰った財産を自分のために使い果たし、何も無しに父のもとに帰ってきた弟、どこに父の愛を受ける資格があるのでしょうか。過保護な父に見えてしまうほどです。

 これは例え話ですから、その例えの教える意味をまず覚えましょう。それは愛される資格のない者をも愛する神、それくらい神の愛は大きいということを覚えましょう。だいたい私たちも罪を持っていますから、愛される資格のない者なのです。「私はあの弟のようにはならない」と感じておられる方も多いと思います。でも私たちの罪は恐ろしいものです。私たちにしたくないことをさせるのです。そういう状況に陥った時、人は自分に絶望します。イエス様を否定したくなんかなかったのに、3度イエス様を「知らない」と言ったペトロはものすごいショックを受けました。しかしペトロはイエス様の愛のまなざしを受け、愛されていることを知り、絶望から歩み始めました。弟も父の愛を受けて最悪の状況から回復させられたのです。私もそういう経験をしています。ショックでしたが神の愛に助けられました。神の大きな愛に感謝します。

 私たちも残念ながら罪を持っています。その罪でしたくないことをしてしまい、ショックを受けることもあるかもしれません。しかし私たちも間違いなく愛されています。その神の愛の中を歩みましょう。神の大きな愛に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の教会として」   ペトロの手紙Ⅰ4:7~11(新約P433)  2021年2月14日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰ4章7節~11節です。この箇所を通して、どんな状況にあっても神に祈り、また神の愛を受け、互いに愛し合いつつ歩む者とされて歩んでまいりましょう。

 今日の聖書個所の7節の冒頭に「万物の終わりが迫っています。」とペトロは記しています。「万物の終わり」とは大変切羽詰まった状況ですね。そしてこの手紙の受け取り手の人たちは、迫害などで厳しい状況にあったと思われます。そんな人たちにペトロは以下のように勧めているのです。

 まず一つ目として「祈ること」です。私たちはどんな時でも祈るべきなのですが、困難な状況にあるときこそ祈るべきです。私たちが厳しい状況にあるとき、そこを脱しようといろいろと試みます。しかし弱い私たちの力では逃れられるとは限りません。全知全能の神に祈り、神の力によって歩むべきなのです。また二つ目として「互いに愛し合うこと」が勧められています。この互いに愛し合うことは、大切な神の掟です。神が私たちに切に求めておられることなのです。私たちは、お互い愛し合うことによって、罪を覆い合うことができるのです。その「互いに愛し合うこと」の中には「もてなし合うこと」「賜物を生かして仕え合うこと」も含まれています。困難な状況にあっても神に祈り、互いに愛し合って歩んでまいりましょう。

 私たちは普通、困難な状況に陥ったら不安になります。そしてパニックになりかねないのです。でもペトロはそんな状況を迎えた人たちに、不安にならず、むしろ平安であれと勧めています。「祈ること」と「互いに愛し合うこと」はどちらも平安の中に行なうことです。平安の内に歩みましょう。

 今、新型コロナの影響もあって厳しい状況にありますが、今こそ祈り、互いに愛し合って歩みましょう。これからも私たちは神に喜ばれる愛の教会として神と共に歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛と信仰による勝利」   ヨハネの手紙Ⅰ5:1~5(新約P446)  2021年2月7日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はヨハネの手紙Ⅰ5章1節~5節です。この箇所から学び、神によって信仰を与えられたことを感謝し、神と人を愛し、神の命令に従いつつ歩んでまいりましょう。

 今日の聖書個所のキーワードは「愛」と「信仰」だと思われます。この2つが結び合わされるように記されています。まず1節を見ましょう。「イエスがメシアであると信じる人」とはキリスト者のことでしょう。そしてそのキリスト者は神から生まれた者だとあります。私たちは「自分の判断で信じた」と思いがちですが、神によって信仰が与えられたのです。だからその信仰を疑うことは一切ないのです。そして神から生まれた私たちは神の家族なのだということも覚えましょう。神の家族である私たちは家族同士愛する必要があります。生みだしてくださった神を愛し、神から生まれた者同士愛し合うのです。それはクリスチャンだけに留まらず、全ての人を愛することにつなげましょう。

 2節と3節にある「掟」とは「命令」です。この掟とは今日のキーワードである「愛」と「信仰」がそこに含まれていると思われます。私たちが神を信じ、神と人を愛すること、それが神の掟、命令なのです。3節には「神の掟は難しいものではありません。」とあります。これは神の命令が容易いと言っているのではありません。私たちクリスチャンにとって難しくないということです。まず「愛」です。私たちが神を愛するとき、自分ではなく神が優先されます。ルカによる福音書5章でペトロはしたくなかったこと愛するイエス様の言葉だから従いました。愛する方の命令ならば従えるのです。また4節にあるように私たちは「世に打ち勝つ者」です。神の助けによって私たちは力が与えられ、神の掟に従うことができるのです。感謝します。

 この世の歩みは困難です。しかし私たちは神によって勝利が与えられています。神を信じ、神と人を愛し、神の命令に従いつつ歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「無条件の愛」   ヨハネによる福音書8:1~11(新約P180)  2021年1月31日 大竹敏生

 

本日、主に導かれた聖書の箇所はヨハネによる福音書8章1節~13節です。この箇所から学び、神が私たちを無条件の、そして大きな愛によって罪を赦してくださることを覚え、感謝しつつ歩んでまいりましょう。

 ここでイエス様の前に連れてこられた女性は「姦通の場」で捕らえられていました。律法学者たちやファリサイ派の人たちはイエス様を訴える口実を得るために「律法に従い、石を投げるべきか?」とイエス様に問うています。「投げるな」と言えば「律法を犯している」「投げろ」と言えば「愛がない」また「ローマ帝国にしか認められていない死刑をイエスが命じた」と告発できます。どう答えても訴えられる。イエスを窮地に追い込めたと彼らはほくそ笑んでいたことでしょう。しかしイエス様は「罪のない者が石を投げよ。」と答えました。結果、誰も石を投げられませんでした。

 イエス様はこの女性に対して罪を赦しました。これは簡単に赦したのではありません。主は罪を憎むお方です。しかしそれ以上に愛のお方です。愛される資格のない罪を持つ人間を愛するお方なのです。イエス様を「主よ」と呼び、主から離れず、罪の解決を願ったこの女性は、罪が赦されたのです。

 私たちも罪人です。その罪は恐ろしいものです。一人の女性の生命を、イエス様を訴えるだけの目的でもてあそぶようなこと人にさせるのです。そしてイエス様の教えを聞いていた人たちがいたはずです。彼らはどこに行ったのでしょう。この女性が連れてこられた時、すぐにこの場を離れた人もいたでしょう。しかしこの場に残り、この女性を裁く側に立った者もいたのではないでしょうか。罪はこのように愛のない行為に走らせる恐ろしいものなのです。

 私たちの中にも罪があります。この罪ゆえに、愛のない行為に走りかねません。私たちも罪を赦していただく必要があります。この女性のように主の無条件の愛によって罪赦されて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「永遠の大牧者によって」 ヘブライ人への手紙13:18~25(新約P419)  2021年1月24日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はヘブライ人への手紙の13章18節~25節です。この箇所から、神が私たちの「永遠の大牧者」であることを覚え、神に導かれつつ歩んでまいりましょう。

 本日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙の一番終わりのところとなります。記されている内容の多くが「祈り」に関してです。「祈りの依頼」「祝祷」「著者の受け取り手への祈り」が記されています。本日は特に「祝祷」についてくわしく見ていきたいと思います。

 20節に「永遠の契約の血による大牧者」とあります。また20節には「主のよみがえり」についても記されています。「血による」の血は十字架を指します。イエス様の十字架と復活がここには記されていることになります。そのお方は「大牧者」とあります。「大牧者」イエスキリストであり、「大牧者」が牧する「羊」は私たちです。「羊」である私たちは「大牧者」に従わなくてはなりません。「羊」は弱いので「羊飼い」に従わなければ生きていけないのです。その「大牧者」と私たちの関係は「永遠」とあります。イエス様は今から2000年前に1回十字架に架かりました。信じる者の救いは、その1回の十字架で足りるのです。私たち信じる者は永遠に救われるのです。そして「大牧者」と私たちの関係も永遠なのです。途中で「大牧者」でなくなることは絶対にありません。「永遠の大牧者」であるイエスキリストに感謝いたします。

 そしてその「大牧者」は私たちを助けてくださいます。21節には「良いものをあなたがたに備える」とあります。罪がある私たちは神の助け必要です。「大牧者」は「備える」と約束してくださっています。完全な「大牧者」によって助けられる私たちはその助けによって完全な者とされるのです。

 この世の歩みは困難です。また新型コロナもあります。「永遠の大牧者」に導かれて歩みましょう。それが弱い私たちにとって必要なことなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「最も大いなるもの」 コリントの信徒への手紙Ⅰ13:1~13(新約P317)  2021年1月17日 大竹敏生

 

本日、神に導かれた聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰの13章1節~13節です。神が私たちを愛し、愛する力をもくださる神に感謝しつつ歩んでまいりましょう。

 まず今日の聖書箇所の1節~3節を見ましょう。そこには「異言」「預言」「信仰」「すばらしい行い」なども、もしそれぞれに「愛」がなければ無に等しいのだと記されています。コリントの教会は「異言」「預言」「信仰」「すばらしい行い」を価値あるものとしていましたが、「愛」がそこになくて、他者をさげすんだりして、分裂などが起こっていました。せっかくのすばらしい「賜物」や「働き」も愛がなければ、良くないものとなるのです。私たちにも「賜物」が与えられています。主のために働くことも許されています。それらを無価値にしないように愛をもって歩みましょう。

 4節~7節は愛のすばらしい内容が記されています。ここの箇所の「愛」という主語を自分に置き換えますと、4節~7節にあることはほとんどできないことに気づかされます。自分は本当に愛がないと分かるのです。では主語をイエス様に置き換えますとすべてしっくり当てはまります。神は愛あるお方なのです。だから愛のない私たちは、愛のある神に愛をいただく必要があります。愛は神のくださる賜物なのです。

 8節~13節見ますと「信仰」「希望」「愛」の3つがいつまでも残ることが分かります。そしてその中で最も大いなるものが「愛」だと記されているのです。今日の聖書箇所に記されていることからも「愛」が最も大いなるものであることが分かります。また神ご自身の本質が「愛」です。「神は愛なり」とある通りです。最も大いなるものである「愛」をもって歩んでまいりましょう。

 今こそ私たちは「愛」をもって歩む必要があります。神から「愛」を受けて神と他者を愛して歩みましょう。すると私たちはさらに祝福されるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が共におられる喜び」 マタイによる福音書18:18~20(新約P35)  2021年1月10日 大竹敏生

 

本日導かれた聖書の箇所はマタイによる福音書18章18節~20節です。私たちを愛し、私たちと共におられ、私たちの中にいてくださる神を覚え、神に力づけられつつ歩んでまいりましょう。

 今日の聖書個所の18節はどういう意味でしょうか。それは天上、つまり神さまの業である伝道や宣教を、神さまは地上の私たち教会に任せてくださっていることを意味していると思われます。これは神が私たちを愛してくださっているからです。愛にこたえて任された任務に励みましょう。

 しかし任されたと言っても私たちは罪人です。弱いのです。大切な伝道や宣教を任されても成し遂げる力はありません。神はそれをご存じです。だから助けてくださいます。私たちの内「二人」が神のために心を一つにするなら、私たちの願いを適えてくださると19節に記されています。これは神の愛を示しています。「心を一つに」と言いますが、これは全く同じことを考え、行うということではなく、「神のために」という部分が同じで、それぞれが神のために働くことを意味しています。私たちも皆で神のために心を一つにして歩んでまいりましょう。それは神の喜ぶことでもあります。

 20節には、神の名によって「二人または三人」が集まるところに、神はその中にいてくださるとあります。神は私たちと共におられる方です。この20節から、その共におられる内容が分かります。そこには「その中にいる」とあるのです。神は上からではなく私たちと同じ高さとなってそこにいてくださるのです。キリスト教の特長の一つに「神が人となられた」ことがあります。神でありながら、人となってくださり、私たちと共に喜び、共に悲しむのです。そして苦難の中に私たちを捨て置かず、共にいて助けてくださるのです。

今も新型コロナなど私たちは苦難の中にありますが、これからも神と共におられることを喜び、導かれて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みの力によって」  コリントの信徒への手紙Ⅱ6:1~10(新約P331)   2021年1月3日 大竹敏生

 

本日は2021年の最初の主日礼拝となります。その日に神に導かれた聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ6章1節~10節です。神の恵みに力づけられ、神と共に歩んでまいりましょう。

 今日の聖書個所の2節に「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とありますが、この「恵み」と「救い」は「主を信じて救われる」ことでしょうか。それとも「神の助け、導き」のことでしょうか。どちらも正解です。私たちは主を信じて救われる必要があります。そしてその後、救われ続ける必要があるのです。私たちには「和解させる」任務が与えられています。これは神と人間の和解です。それは福音宣教に励むことなどがそうです。福音を広める働きをするには、私たちが和解されている必要があります。信じて救われていることを確認しつつ歩みましょう。また4節以降に記されていますが、和解させる働きを担う時、苦難があります。その苦難に対して神の恵みがあるのです。神に助けられ、導かれて和解の任務を果たしてまいりましょう。

 恵みとは「無条件で与えられる」ものです。私たちはそれを受ける資格を持っていません。それにもかかわらず、私たちを愛する神は、私たちに恵みをくださるのです。罪人であり、そしてその罪を嫌う神ですが、私たちのためにイエス様を送ってくださり、その十字架で信じる者を救ってくださるお方なのです。神は私たちが苦難の中にある時、恵みをくださるのです。また「恵みの時」とありますが、そうは思えないこともあるでしょう。しかし、神は間違いなく恵みをくださいます。神の恵みは必ずあるのです。そうなると苦難も恵みです。神は今も生きておられ、私たちを今、恵まれているのです。

 2021年も新型コロナもあり、困難な年となるかもしれません。でも間違いなく神の恵みが与えられます。神の恵みを信じて、その恵みに生かされて歩みを進めてまいりましょう。2021年の祝福を祈ります。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神を信じて感謝しよう」    詩編107:1~9(旧約P947)   2020年12月27日 大竹敏生

 

本日は今年2020年の最後の主日礼拝となります。その主日に導かれた聖書の箇所は旧約聖書の詩編107編1節~9節です。苦難の中にあっても神を信じて、神に感謝しつつ歩んでまいりましょう。

 詩編の言葉は非常にストレートに神について証しします。今日の聖書個所の107編1節は他の訳と合わせて考えると「神の恵みと慈しみはとても深いものであり、共に永遠である」ということを言っています。確かにすばらしいことが書かれています。でもそれは新しい知識というよりよく知られていることでしょう。私も、ともするとあっさり読み進めてしまいます。でもこの世の荒波にもまれて、苦難の中にある人にとってはこのみ言葉は心に響くのではないでしょうか。2020年、困難、苦難の中に歩んだ方もおられるでしょう。新型コロナは世界中の人たち、また教会を苦しめました。そんな2020年の最後の主日礼拝に、詩編107編から導かれ、感謝しつつ歩んでまいりましょう。

 今日に聖書の箇所にも「感謝せよ」とあります。今年2020年は新型コロナもありました。またそれぞれが苦難の中、歩んでまいりました。「とても感謝なんかできない」と感じておられる方もいるでしょう。しかし神は苦しみを喜びに変えることができるのです。そして私たちを神は愛しています。必ず神は私たちの苦難の中の祈りに応えてくださいます。そしてみ言葉にありますように感謝しましょう。

苦しいのに感謝するということは、我慢するということでしょうか。そうではありません。我慢はいつまでも続けられるものではないのです。詩編107編1節にあるように神の恵みと慈しみは永遠です。私たちは我慢して感謝するのではなく、とこしえの恵みと慈しみを信じて感謝してまいりましょう。2020年を感謝をもって終え、2021年も神を信じて感謝しつつ歩み続けましょう。神は私たちと共に歩み、必ず苦難を喜びに導いてくださいます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救い主誕生は着々と」   ルカによる福音書2:1~7(新約P102)  2020年12月20日 大竹敏生

 

本日は今年2020年のクリスマス礼拝となります。本日導かれた聖書の箇所はルカによる福音書2章1節~7節です。神の完全で偉大な計画の中、救い主が誕生されたことを覚え、神の愛の中を信じて歩んでまいりましょう。

 今から二千年前に私たちのために救い主がお生まれになりました。そのご降誕に関しては神の配慮された計画の中、着々と進められたことを感謝します。イエス様は神の子でありながら人間でした。生まれたときは普通の赤ん坊と同じで親の守りがなければ生きられない存在でした。イエス様が生まれた時代は平和な時代でした。幼いイエス様は平和な時代に憂いなく誕生したのです。

そして預言されていたようにベツレヘムでお生まれになりました。ナザレにいたヨセフとマリアは皇帝の「住民登録をせよ」との勅令が出たため、ナザレからベツレヘムに行き、そこでイエス様がお生まれになりました。イエス様は生まれは預言通りベツレヘムでしたが、ナザレで育ちました。「ナザレのイエス」と呼ばれることが神の御心だったのでしょう。

またマリアがベツレヘムに同行していますが、登録はヨセフだけでよかったようです。しかし、マリアを好奇の目にさらしたくないヨセフの配慮でか、マリアもベツレヘムに来て預言が実現したのです。これも神の計画です。

またベツレヘムで宿屋が満室でヨセフとマリアの泊まる場所はなく、家畜小屋で泊まることになり、そこでイエス様はお生まれになりました。これも神のご計画で、全ての人を救うためにこのような形でお生まれになったのです。

救い主誕生の計画は着々と神によって進められました。皇帝はもちろん、宿屋の人や宿泊者も神の計画を知りませんでした。ヨセフとマリアでさえも知らなかったと思います。全知全能の神によって計画通り救い主は誕生しました。新型コロナの感染が拡大する中でのクリスマスですが、神がその力で最善に導くことを信じましょう。今年も言います。クリスマスおめでとうございます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じる者は幸い」    ルカによる福音書1:39~45(新約P100)   2020年12月13日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第三週の主日となります。本日導かれた聖書の箇所はルカによる福音書1章39節~45節です。受胎告知を受け、それを信じたマリアにならって信じる者として歩み続けましょう。

 受胎告知を受けたマリアはそれを信じました。そして今日の箇所で親類のエリサベトのもとを訪れています。この訪問の目的は何だったのでしょうか。み使いが告げた「高齢のエリサベトの懐妊」を疑っていたわけではないでしょう。むしろ信じて、主の導きによって身ごもった者同士で励まし合ったり、支え合うことを求めたのではないでしょうか。そして主の導きと信じ、急いで100キロ以上離れたエリサベトの家を訪れたのです。そしてそこでは期待以上のことが起こりました。マリアがまだ何も説明していないのに、エリサベトは聖霊に満たされて「マリアの祝福」「マリアの懐妊」そして驚くことに「マリアの宿している子は主」と高らかに言ったのです。聖霊に導かれての言葉です。ある人はこれは預言だと言っているのです。面白いことにエリサベトの胎内の子も喜んだとあります。さすが主の道備えをするバプテスマのヨハネです。

 そしてエリサベトは45節で「主を信じる人は幸い」と宣言しています。ルカによる福音書11章27節で、ある女が「イエス様の母となった方は幸いだ」と言いました。また受胎告知のとき、み使いはマリアに「恵まれた方」と言っています。これではマリアのみが幸いとなります。エリサベトは「主を信じる人は幸い」と言います。またルカによる福音書11章27節の言葉に対してイエス様は「神の言葉を聞き、それを守る人が幸い」と言いました。神の言葉を守るためには神を信じることが不可欠です。私たちにとって神を信じることが幸いであり、大切なのです。

 私たちも神を信じて歩みましょう。そのために祈り合い、励まし合いましょう。信じて救われ、恵みを受けて歩めるのです。何と幸いなことでしょうか。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「今こそ祈りによって」    創世記18:22~33(旧約P24)    2020年12月6日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第二週の主日です。そして世界バプテスト祈祷週間の最終日です。本日導かれた聖書の箇所は旧約聖書の創世記18章22節~33節です。アブラハムの執り成しの祈りから学び、私たちも世界の国々の方々とそこで働く宣教師の方々を覚えて執り成しの祈りをしてまいりましょう。

 本日の聖書の箇所では、神とみ使いがアブラハムのもとに来て、アブラハムの妻サラに子どもが生まれることが告げられています。そしてその後、ソドムとゴモラの町に裁きをくだすとアブラハムに神は告げているのです。それに対してアブラハムは町を滅ぼさないように執り成しています。「正しい人が五十人いたら、それでも滅ぼすのですか」から始まり、最後は「正しい人が十人でも滅ぼしますか」と神に訴え、主はすべてに「滅ぼさない」と答えました。アブラハムはソドムとゴモラの悪を否定しません。しかしそんなソドムとゴモラをも愛する神の憐れみを期待して執り成しています。またソドムにはアブラハムの甥のロトが住んでいました。しかしアブラハムは自分の私的感情は出さず、ひたすらソドムとゴモラのために執り成しているのです。結局ソドムとゴモラには、正しい人がロトたちだけでした。そしてロトと娘だけが助けられ、ソドムとゴモラは滅びることになったのです。アブラハムの執り成しは無意味だったのでしょうか。そうではありません。ロトたちが助けられたのはアブラハムの執り成しのゆえです。またアブラハムの愛の執り成しは神を喜ばせるものでした。私たちも他の人のために執り成す者とされてまいりましょう。

 今、世界中が新型コロナに苦しめられています。今こそ祈りが必要です。世界宣教の祝福のために、自分のことだけではなく他者のために祈りましょう。人間は弱いのですが、神は全知全能の強いお方です。マタイ18章19節にありますように、私たちは心を一つにして祈りましょう。今こそ執り成しの祈りに励んでまいりましょう。神は必ず願いをかなえてくださいます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「共におられる方が」    イザヤ書7:10~17(旧約P1071)   2020年11月29日 大竹敏生

 

本日から今年のアドベントとなります。その第一週の主日礼拝に導かれた聖書の箇所は旧約聖書イザヤ書7章10節~17節です。この有名なメシア誕生の預言から、共におられる神を覚えて歩んでまいりましょう。

 本日の箇所の14節はマタイによる福音書1章22節~23節で示されている通り、今から二千年前に誕生した救い主イエスキリストのことで間違いありません。でもイザヤ書7章で問題になっていた南ユダ王国のピンチに関して14節は何を語っているのかが難解なのです。諸説いろいろあるのですが、結局は共におられる神が南ユダ王国を守られたのです。

この14節の預言はアハズという王の不信仰の言葉を経て与えられました。これは私たちの救いと同じです。救われる資格が無いのに神は私たちを愛して私たちのために十字架に架かってくださいました。私たちは信じることで救われるのです。私たちは罪を犯します。それでも神は見捨てません。私たちを愛し、共にいてくださるのです。

インマヌエルとは「神は我々と共におられる。」という意味です。この「神が共にいてくださる」ということはとてもすばらしい恵みです。人は一人で生きるのは困難なのです。しかし罪ゆえに孤独を感じることがあります。しかし神が必ず共におられるので一人ではありません。神が共におられることを信じましょう。また神はクリスチャンのグループや団体と共にいるのではなく、私たち一人一人と共にいてくださるのです。そして一人一人の問題に向き合ってくださり、一人一人を助けるのです。共にある神の恵みを感謝いたします。

共にいてくださる神は、私たちの不安を消してくださいます。新型コロナの感染拡大の中、今年もクリスマスを迎えようとしています。多くの人たちが不安を覚えているこの時、インマヌエルの名を持つお方の誕生を証ししてまいりましょう。今年も喜びつつクリスマスを迎えましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛につつまれ」  マタイによる福音書10:26~31(新約P18)   2020年11月22日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書10章26節~31節です。この箇所の特に30節のみ言葉を中心に、神の大きな愛を覚え、その愛に包まれて歩む者とされてまいりましょう。

 本日の箇所は、ルカによる福音書にある並行箇所もそうですがテーマは「恐れるな」です。ただ今日は30節を中心に神の愛について考えたいと思います。

 30節には「神が私たちの髪の毛の数まで数えている」ことが記されています。髪の毛の数のような、知っていてもどれほどに意味があるのか疑問に思うようなことでも神は知っておられるのです。これは神の愛を表しています。その愛が私たちの恐れを消すのです。イエス様の弟子たちも、イエス様の十字架の直前、ペトロは三度イエス様を「知らない」と言いましたし。他の弟子も恐れて逃げてしまいました。皆恐れたのです。でも彼らは復活したイエス様にお会いして、再び主のために歩みだしました。恐れていた彼らは最後までその恐れに負けず、多くが殉教の死を遂げたと言われています。恐れは私たちを厳しい状況に追い込みます。でも神に愛される私たちはその愛によって恐れないで歩めるのです。恐れを消す神の愛に感謝いたします。

 30節は「数えている」とあります。「数えている」より「知っている」の方が神の力の大きさを表すように思うかもしれません。でも「数える」ということはその対象と共に歩み、取り組んでくださることを意味します。また「数える」ということは「足りないときは補う」ことにつながります。私たちの髪の毛の数をすべて数えるほどに愛してくださる神は、私たちと共に歩み、欠けだらけの私たちを補い、助けてくださるのです。

 この世を歩む私たちには神の愛が必要です。恐れないで歩むために、弱い私たちが助けを受けるために神の愛が必要なのです。愛の神と共に歩んでまいりましょう。神の愛につつまれて歩んでいこうではありませんか。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主はあなたを愛している」   イザヤ書43:1~7(旧約P1130)   2020年11月15日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書のイザヤ書43章1節~7節です。この箇所の4節の有名なみ言葉を中心に、神が一方的に私たちを愛してくださっていることを覚え、その愛の中を歩む者とされてまいりましょう。

 イザヤ書は預言者イザヤが自分の生きた時代と、さらに後代のことなどの預言が記されています。今日の個所もイザヤの時代からかなり後の、バビロン捕囚にあった民の回復が記されています。揺るがぬ神の愛に感謝します。

 1節では神が創造主であることが記されています。人間も神によって造られました。神はご自身が創造されたものを「極めて良かった」と評価しました。私たちも作ったものを愛します。神はまして良いものを造られました。神は造られたものを愛し、特にその中でも人間を愛しておられるのです。

 3節はイスラエルの民のエルサレム帰還を認めたペルシャに、エジプトとその周辺の国が与えられることを示しています。そしてこのこと確かには実現しました。またこの節はイエス様の十字架の贖いも示していると言われます。神は私たちを愛してくださり、イエス様の十字架によって信じる者を救ってくださいました。愛の救いを感謝いたします。

 そして4節です。神の私たちへの評価は非常に高いのです。私たちは罪人であるのに、神は値高く見てくださるのです。これは神が私たち一人一人を愛しておられるがゆえのことです。神は私たちの能力や実績を見て評価しません。罪人であり無価値な私たちを神は一方的に愛してくださっているのです。人はときに悩み、罪に陥ります。自分でも情けなくなることがあるのです。しかし神はそんな者を値高いと愛してくださるのです。感謝いたします。

 私たちはこの無価値な者を愛する神によって励まされています。新型コロナなどで悩み、心に潤いなく歩む現代の人たちに「わたしの目にはあなたは値高く、貴い」と見てくださる神を証ししてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りによって歩もう」  コロサイの信徒への手紙4:2~6(新約P372)   2020年11月8日 大竹敏生

 

本日導かれた聖書の箇所はコロサイの信徒への手紙4章2節~6節です。この箇所から学び、どんな状況にあっても祈りをもって神から導きを受け、神のために歩む者とされてまいりましょう。

 パウロは多くの手紙を書いています。そしてそれぞれの手紙で同じテーマで語っている箇所もあります。同じパウロが同じテーマを語るのですから似た主張になることはもちろんあります。たとえ結論は同じでもそれぞれが宛先のことを親身になって考え、祈って記しているのです。ですから「パウロの主張はきっと同じ」と考えなくて良いのです。パウロの宛先を思う心を感謝します。

 今日の聖書個所にもそれをうかがわせる記述があります。2節の「目を覚まして」という言葉です。コロサイの教会は当時、間違った教えに悩まされていました。パウロは惑わされず正しい福音、つまりキリストを信じ続けなさいとこの手紙で警告していいます。惑わされないために「目を覚まして」いなくてはなりません。そのためにたゆまず祈ることが必要だと言っているのです。

 また3節と4節でコロサイの人たちに「自分たちが語り続けることができるように祈ってほしい」と記しています。当時投獄されていたパウロは語るのが困難な状況でした。しかし神に不可能はありません。どんな状況にあっても祈りによって前進できるのです。私たちも新型コロナの影響でいろいろと厳しい状況にありますが、祈って歩んでまいりましょう。

 また5節と6節でふるまいと語る言葉について記しています。案外どちらも難しいのです。人がその時、どんな言葉を求めているか、どんな行動が喜ばれるのか、それはなかなか分かりません。適切な言葉とふるまいを主に祈り求めましょう。神は賢いふるまいと快い言葉をくださるのです。

 私たちは主のためにこれからも祈りをもって歩みましょう。神は私たちの必要をすべてご存じです。主から受けて、喜びをもって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしたちの本国」  フィリピの信徒への手紙3:17~21(新約P365)   2020年11月1日 大竹敏生

 

本日は今年の召天者記念礼拝です。先に天に召された方々を覚えて礼拝しましょう。そして私たちも召天された方々の信仰に倣って歩んでまいりましょう。導かれた聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙3章17節~21節です。

 まず17節を見ましょう。そこには「わたしに倣う者になりなさい」とあります。これはこの手紙の著者パウロが「すべて自分の真似をしろ」と言っているのではなく「私のようにキリストに倣う者になれ」と言っているのです。そしてさらに「私のようにキリストを信じて救いを受けよ」とも言っているのです。だいたいキリストを信じていなければキリストに倣う者にはなれないのではないでしょうか。キリストを信じて、キリストに倣う者になりましょう。

 先に召された召天者の人たちは、キリストを信じて救われ、キリストに倣う者でありました。そして今は天の本国でなんの憂いもなく過ごしているのです。「本国」という言葉は「国籍」と訳している聖書があります。国籍があればその国から守られます。権利も受けます。私たちはキリストを信じて「天の本国」に入る資格を得ました。私たちにはすばらしい保障があるのです。 またヘブライ人の手紙に「天の故郷」という言葉があります。私たちの天の御国は故郷であり、つまり私たちの心のよりどころです。私たちはいつか天の故郷に帰り、そこで懐かしい人たちと会うことができるのです。

 そしてこの「わたしたちの本国は天にあります。」という約束は、いつか私たちも訪れる天の御国についてだけではなく、今のこの世を困難の中、歩んでいる私たちにも関係するものです。私たちには「天国行き」が約束されていますが、それだけではなく私たちのこの世での歩み、苦難の中のキリストのための歩みが、すべて天の神に覚えられているということも意味しているのです。

 私たちはこの世での歩みが続きます。召天された方々に倣い、主を信じて主のために歩んでまいりましょう。私たちには「天の本国」が約束されています。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「憐れみが生かす」  テモテへの手紙Ⅰ1:12~17(新約P384)   2020年10月25日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅰ1章12節~17節です。この箇所から導かれ、私たちがどんな状況にあっても神は憐れんでくださり、救いと助けを変わりなく与えてくださることをおぼえてまいりましょう。

 このテモテへの手紙Ⅰはパウロが愛する弟子のテモテに書いた手紙です。テモテが遣わされていたエフェソの教会にも問題がありました。それがこの手紙の記された理由の1つですが、それ以上にテモテ個人の問題が大きかったようです。それはテモテが自分自身に限界を感じ、働きを全うできないと弱気になっていた面があったようです。それに対してパウロが叱咤激励や具体的なアドバイスをしているのがこの手紙です。今日の箇所もパウロのテモテに対するアドバイスの箇所になります。

 ここでパウロは、かつてキリストと敵対していた自分の救いの体験を記しています。そして「主は私たち人間を救うためにこの世に来られた」とさらに記しています。このことをテモテが知らないはずはありません。信仰を持つテモテに、さらに信じ続けることを勧めていることはあるでしょう。また迷うテモテはどうしたらよいのか分からなかったのかもしれません。そんなテモテに主を証し続けなさいと命じている可能性もあります。ただもう一つ大きな理由があるのです。かつては迫害者であったパウロは神の憐れみにより救われました。神は何もその資格がないものを憐れんで救いに導くのです。今、弱さがむき出しとなり、みじめな状態にあるテモテですが、そんな状態のテモテも神は憐れに思ってくださるのです。パウロはテモテにどんな状態にあっても憐れんでくださる主に助けを求めなさいと言いたいのではないでしょうか。パウロも落ち込むことがあったはずです。でも助けられてきたのです。

 そして神の憐れみは私たちにも注がれます。どんな状況にあっても主にすがりましょう。憐れみの主は必ず助けをくださるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰は神によって」  コリントの信徒への手紙Ⅰ2:1~5(新約P300)   2020年10月18日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ2章1節~5節となります。この箇所から導きを受け、神によって与えられる信仰が、また神によって守られ支えられることをおぼえてまいりましょう。

 パウロはコリントに初めて来たとき「衰弱していた」と3節に記されています。迫害にあっていたことや、アテネで自分の思いで語ってしまい、後悔の思いをもっていたことなどが理由だったと思われます。そしてコリントに着いたとき「イエスキリスト、それも十字架につけられたキリスト」を語ろうと決心していました。そしてそのことで多くの祝福をコリント教会は受けたのです。

 その1つは十字架のメッセージでコリントでも多くの人が救いに導かれました。神は罪人である私たちを愛し、私たちを救うために十字架に架かってくださいました。このイエスの十字架以外に救いはありません。十字架からは神の愛と救いが確かであることが示されているのです。この十字架のメッセージは多くの人たちを、今も昔も救いに導いてくださっています。

また十字架による救いは神の一方的な力によるものです。私たちは何もできません。コリントの教会の人たちは、自分の能力や業績などにより頼む傾向が強かったようです。それが教会の問題でもありました。しかしそのコリント教会の人たちも神の力によって信仰に導かれ救われたのです。神の力によるものだから間違いなく確かなものなのです。

そしてその与えられた信仰は神が守ります。5節の言葉は「神の力によって信仰が支えられる」と訳している聖書があります。私たちは何か厳しい状況に陥ると信仰から離れてしまいそうになります。でも神は私たちを守り、助けてくださいます。だから私たちは信仰をもち続けることができるのです。

私たちは皆、神の力によって信仰に至りました。そして私たちのその信仰を神はささえてくださいます。信仰はすべて神によってなのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「何という神の愛か」 ローマの信徒への手紙8:31~39(新約P285)   2020年10月4日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はローマの信徒への手紙8章31節~39節です。キリスト教では「愛」が大切です。神は愛であり、その愛は私たちに向けられています。その神の愛のすばらしさを覚えてまいりましょう。

 本日の聖書の箇所の中のローマの信徒への手紙8章31節に、神が私たちの味方であることが記されています。神が私たちの味方であることで、私たちにはだれも敵対できません。またすべて必要なものが与えられます。そして何よりも私たちは救われるのです。神が味方であるということはすばらしいことなのです。ではなぜ神は私たちの味方となってくださるのでしょうか。それは神が私たちを愛しておられるからです。神が愛してくださるがゆえに私たちの味方となってくださるのです。従って神はいつも私たちの味方なのです。

今日の聖書箇所にはその神の愛は私たちから離れないことが記されています。35節にあることはすべてが私たちにとって体験したくない肉体的にも精神的にも圧迫を与えるものです。これらはすべてこの手紙の著者パウロが体験していたものです。そんな苦しみの中でもパウロは主から離れませんでした。でもパウロ自身は自分が離れなかったのではなく、神の愛がパウロから離れなかったのだと記しているのです。それがパウロの実感なのでしょう。つまりどんな苦しい状況も、神の愛から私たちを引き離せないのです。また38節と39節には多くのものが出てきます。その中には「天使」のような良いものも含まれています。そのありとあらゆるものも神の愛から私たちを引き離せません。つまり何があっても、どんなことがあっても神の愛が私たちから離れることがないということでしょう。感謝いたします。

私たちが罪人であるときから、神は私たちを愛してくださいました。それくらい神の愛は大きいのです。また神の愛は離れません。今も私たちの罪を赦し、救い続けてくださる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神と我らの和解」 コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16~21(新約P331)   2020年9月27日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ5章16節~21節です。この手紙はパウロの思いや感情が至る所に表れています。またパウロの個人的な話もよく出てきます。そんなパウロのメッセージ性あふれる手紙のこの箇所から、神との「和解」のすばらしさを心に留めてまいりましょう。

 「救い」は聖書でもいろいろな言われ方をされています。例えば「義」「永遠の命」「罪の贖い」などです。そして本日取り上げる「和解」も言い方を変えれば「救い」なのです。神と私たちの和解ということは、神と人間は仲たがいをしていたことを意味します。私たちは皆、罪を持っています。この罪ゆえに神との間に溝ができました。仲直りする必要があります。そしてこの「和解」は神の側が積極的に進めて下さるのです。実は神は罪を非常に憎みます。罪人である私たちに強い怒りを持っているのです。しかしそれ以上に私たちを愛しておられます。だから私たちと「和解」して下さるのです。感謝します。

 この手紙の著者パウロはファリサイ派に属していました。ということはかつては自分のために生きていました。正に肉に従っていたのです。しかし主イエス様に出会って神と和解しました。その喜びは今日の箇所にも見うけられます。そして神に和解していただいたのですから、パウロは人々を和解させる働きをしているのです。そのパウロは神との和解を、主に代わって切に願っています。自分が一方的に神から受けた和解の恵みを、神に感謝しつつ、その神の願う和解を勧めているのです。

 私たちも神と和解しなくてはなりません。クリスチャンであっても神から離れてしまうことがないとは言えません。神との和解を受け続ける必要があります。そのために神を信じ続けましょう。またパウロのように神との和解を広める働きに参与してまいりましょう。私たちも神の愛によって和解をさせていただいたのです。神の愛の恵みの和解を感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「たとえ我らが弱くても」    詩編71:9~19(旧約P905)   2020年9月20日 大竹敏

 

本日は「高齢者を覚える礼拝」です。教会に関係するご高齢の方々がいつまでもお元気に過ごせるように祈りつつ礼拝しましょう。聖書の箇所は旧約聖書の詩編71編9節~19節です。この箇所から、弱くても力を与え、助けてくださる主なる神を覚えてまいりましょう。

 ご高齢の方々からは何か強さのようなものを感じます。それはご高齢の方々の経験や知識などによるのかもしれません。そして主を信じるご高齢の方々はそれに加えて強いものを感じさせます。それが何かを考えたいと思います。 詩編71編は誰が記したのかは不明です。ダビデやエレミヤなどが候補にあがっていますが、誰が著者なのか分からないのです。でも誰であってもこの詩編は著者が高齢になって記したものであろうと言われています。この詩編71編9節~19節を通して強さの秘訣を学びましょう。

 まず1つはおのれの弱さを認めることです。10節と11節あたりで自分の置かれている状況を記しています。つまり弱さを記しているのです。弱さは私たちの罪から来ます。弱さを認めることは自分の罪を認めることなのです。私たちは弱くても神は見捨てません。必ず助けてくださるのです。それを信じなくてはなりません。また14節にありますが神を賛美することも大切です。神への賛美が私たちを導き、助けます。また賛美は喜びを生み出します。たとえ喜べない状況でも、神への賛美は私たちを喜びに導くでしょう。そして15節以降に記されていますが、神の「御業」「御救い」を語ることです。これは「証しする」とか「伝道する」という意味にとれますが、もっと広くとらえて良いと思います。それは「神のために歩む」ということなのです。

私たちは自分の弱さを認め、強い神を信じましょう。神を賛美し喜びをもって歩みましょう。神のために働きましょう。これは私たちがこの世にある限り心がけて歩み続けなくてはならないことです。愛と力の神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰によってさらに」  ペトロの手紙Ⅰ1:3~9(新約P428)   2020年9月6日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰ1章3節~9節です。イエスの一番弟子と言ってよいペトロの書いた手紙のこの箇所から「信仰」によって歩むことの大切さを学び、その「信仰」によって祝福を受けてまいりましょう。

 今日の聖書の箇所からはいろいろな先生が「喜び」「愛」「希望」などいろいろな内容でメッセージを語っています。そのどれもが正しいのです。つまり大変内容が深いということです。今日はその内容豊富なこの箇所から「信仰」について語るように導かれています。

 「信仰」が私たちにもたらすものとして絶対に忘れてはならないのが私たちの救いです。罪ある私たちはこのままでは滅びる運命なのです。しかし私たちが滅びることを良しとしない神は、私たちを救うために御子イエスキリストを十字架につけられました。イエス様は死からよみがえられて救いの道を開きました。私たちをその神を信じる「信仰」で救われるのです。「信仰」によって救われることはペトロの手紙Ⅰ1章9節にも記されています。感謝します。

 では「信仰」が与えるのは、私たちの死後の「永遠の生命」だけなのでしょうか。それも大きな恵みですが「信仰」が与えるのは私たちの次の世に関することだけではありません。ペトロの手紙Ⅰ1章5節にあるように「信仰」はこの世での歩みも守るのです。この手紙の受け取り手の人たちは皆迫害にあっていたようです。この人たちにとって「信仰」が守るという約束は大きな励ましだったでしょう。そして現代の私たちもそれぞれが苦難の中にあります。現代の私たちにもその励ましの約束はあるのです。「信仰」によってこの世での苦難や試練を乗り越えていきましょう。ペトロの手紙Ⅰ1章7節にありますが、そのことによって「信仰」はさらに強められ、本物と成るのです。

 多くの人たちが苦難の中にある今こそ「信仰」です。生涯「信仰」をもって歩み、この世でも次の世でも守りと救いを受けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「望みをおいて新たな力を」  イザヤ書40:27~31(旧約1125)   2020年8月30日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書のイザヤ書40章27節~31節です。この箇所から学び、主に望みをおいて、主から新たな力を受けて歩めるように導かれてまいりましょう。

 イザヤ書の著者イザヤが生きていた時代も、このイザヤ書40章で預言されているバビロン捕囚にあっている時代もどちらもイスラエルの民は主から離れて厳しい状況にありました。27節のように民が叫ぶのもありえる時代でした。人は厳しい状況のとき、主に「おられるのですか」「お忘れですか」と言いたくなるのです。そんな民にイザヤは厳しくいさめます。「神に失礼」として人に我慢を強いているのではありません。イザヤは民に「主はおられる」「助けは必ずある」と語っているのです。

 31節を見ましょう。この節で「新たな力」が約束されています。それを得るのは「主に望みをおく」者だとあります。別の訳では「主を待ち望む」とあります。これはどういう意味でしょうか。もともとの意味は「他のものには一切頼らず、主にだけ期待する」という意味だそうです。つまりこの「主に望みをおく」とは「主を信じる」ということと言えるのです。主を信じることで私たちはまず「救い」を受けます。主を信じること以外に「救い」はありません。また31節には「新たな力」とあります。これが私たちに与えられる力であり、私たちへの助けなのです。私たちは30節にあるように「疲れ」「倒れる」ものです。しかし主に望みをおくとき「新たな力」が与えられ、疲れることなく歩み続けることができるのです。これは大きな恵みです。主に望みをおいて歩んで参りましょう。

 新型コロナなどで多くの人が厳しい歩みをしています。こんな時だからこそ主に望みを置いて疲れることなくいつものようにクリスチャンらしく歩んでまいりましょう。それが周りの人にとっても大きな証になるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「内に働く御力により」 エフェソの信徒への手紙3:14~21(新約P355)  2020年8月23日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙3章14節~21節です。この箇所から、私たちの内に働きかけてくださる神を学び、その神の大いなる力に導かれつつ歩んでまいりましょう。

 本日の聖書箇所エフェソの信徒への手紙3章14節~21節は著者パウロの祈りが記されています。口述筆記をしていたパウロが手紙の中で思わず祈りに導かれたようです。しかもこの手紙で祈るのはここが2回目です。祈りの言葉が神のすばらしさを表しています。そこを見てみましょう。

 この箇所でパウロは「神がわたしたちの内に働く」と記しています。「内」ということは当然「外」もあります。「外」とは「肉体」を指すという考えもあります。そして文字通り「私たちの外面」ということもあるでしょう。10節に「内なる人」という言葉が出てきます。これは「肉体」と対称にある言葉で「新たにされた人」を指すということが考えられます。また「内」は私たちの内部を指すこともあると思います。どちらにしても「内」とは私たちの心や魂を含んでいると思われます。「内に働く神」を覚えたいと思います。

 「内に働く」とは何でしょうか。「内に働く」ことは困難です。完全に働くことは神にしかできないでしょう。そして「内に働く」ことは大きな力です。病気の治療では手術や投薬で治します。そしてその内部への神の働きかけは自然です。いつの間にか癒やしが起こっていると感じたり、いつの間にか力を付けていたと感じたりもするのです。自分の力ではなく、「内に働く」神の力です。それを忘れてはなりません。そして感謝なことに、神は私たちの内に住んでくださいます。神は私たちの内ですべてを導いてくださるのです。

 20節によれば、神が「内に働く」ことで大いなることが起きるのです。私たちの思いをはるかに超えて働きかけてくださいます。内に住んでくださる神を信じ、大いなる力を発揮される神を信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「従いなさい」    マタイによる福音書9:9~13(新約P15)   2020年8月16日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書9章9節~13節です。この箇所の特に9節を中心に学び、躊躇することなく主を信じて、主の「従いなさい」の呼びかけに応えて歩んでまいりましょう。

 本日の聖書箇所の前の部分に「マタイを弟子にする」と表題がつけられています。それを見て、この箇所は牧師などの献身者向けのみ言葉であって、一般の信徒や求道者とはあまり関係のないところだと考えてはなりません。信じることと従うことは別にあるものではなく、むしろ一緒にあるべきものです。私たちすべてが、神を信じて従うべきなのです。

 今日の聖書箇所に出てくるマタイは徴税人でした。徴税人はローマの手先として、同胞から税を徴収する裏切者と憎まれていたのです。また徴税人も不正に税を上乗せして集め、自分のものにしたりしていてさらに激しく嫌われていました。マタイがどうして徴税人になったのかは分かりません。人々から嫌われ、おそらく希望のない、あきらめのような日々を送っていたのでしょう。そんなとき、イエス様から「わたしに従いなさい」と声をかけられたのです。マタイはイエス様をこのとき初めて知ったわけではないと思います。かねてから、イエス様のことを見聞きし、知っていたのでしょう。自分とは反対に人々から慕われるイエス様をあこがれをもって見ていたのでしょう。でもマタイにはどうすることもできなかったのです。そんな中でのイエス様の「信じて従え」の呼びかけにマタイは躊躇することなく応えました。私たちも信じて従うことに躊躇する必要はありません。むしろ主はそれを望んでおられるのです。

 従うことは喜びでもあります。詩編1編3節には主に従う者の祝福が記されています。マタイは一切を捨てて従いました。最後はイエス様のために殉教の死をとげたと言われています。そこまで従い続けたのはその歩みが祝福であり、喜びだったのです。私たちも主を信じて従ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神は必ず」   コリントの信徒への手紙Ⅰ10:11~13(新約P312)   2020年8月9日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰの10章11節~13節です。この箇所の13節を中心に学び、どんな試練の中にあっても神が必ず助けてくださることを信じて、歩むことを心がけてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の13節は、特に有名で多くの人に愛され、励ましを与えている箇所です。私たちは試練を通して成長させられます。つまり試練を通して祝福されるのです。この世での私たちの歩みは試練が間違いなくあります。しかし恐れることはありません。試練は神が与えるのであって、私たちが耐えられない試練を神は与えないのです。しかし試練に直面すると私たちは平安でいられません。もし完ぺきな信仰があれば、慌てたりせず神に祈り、じっくりと神の助けを待つことができることになります。しかし弱い私たちはそれができず。むしろあがいて動いてしまうのです。案外、何かしていないと助けを待てないのが私たちの姿なのではないでしょうか。

 13節を見ますと私たちに試練を与えるのは神です。しかもその試練は、私たちが耐えられないものではないのです。そして神は同時に試練の苦しみからの「逃れの道」を備えておられるのです。神は真実な方ですから間違いはありません。私たちは試練に遭っても必ず「逃れの道」つまり適切な助けが与えられるのです。その助けは神が与えるものですから、私たちにとって最善なものが与えられるのです。私たちは試練による苦しみが去ることを求めるかもしれません。「逃れる道」はその求めたものなのかもしれません。でも違うこともあるのです。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱ12章に記しています。自分の身に与えられた「トゲ」を去らせて欲しいと願ったのです。しかし神の助けは「トゲ」は去らず、その「トゲ」を通して神の力がパウロに宿ることでした。

 神は試練を通して私たちを祝福します。だから助けは必ず与えられます。神を信じましょう。私たちを助け祝福される神を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じて期待する」   マルコによる福音書10:46~52(新約P83)   

 

本日の聖書の箇所はマルコによる福音書10章46節~52節です。この箇所から導かれ、全知全能の神を信じて、神にどんなことでも期待して歩むことを心がけてまいりましょう。

 本日の聖書箇所は、盲人バルテマイが見えるようになった記事です。バルテマイはイエス様を信じていました。「ナザレのイエスがお通りだ」と聞くと「ダビデの子イエス様」と主を呼んだのです。この「ダビデの子」とは「メシア」すなわち「キリスト」という意味です。おそらくバルテマイはイエス様のことを聞いて知っていたのでしょう。奇跡を行ない、自分のような目が見えない者の目を見えるようにしたことを知っていたのです。そんなお方は神からの救い主に違いないと信じていたのです。また、バルテマイは信じていたからこそイエス様の「何をしてほしいのか?」の問いに「施し」ではなく「目が見えるように」とイエス様に願ったのです。

バルテマイは主に対する信仰をもっていました。信仰とは何でしょうか。ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」バルテマイは目が見えるようになることを望んでいました。そしてそれはイエス様によって実現すると確信しています。バルテマイは正に信仰をもっていたのです。そしてその信仰によってバルテマイは主に期待していたのです。主はバルテマイの信仰による期待に応えられました。バルテマイは望み通り目が見えるようになったのです。そして信仰は、彼を救いに導きました。私たちも主を信じて主に期待して、自分たちの望みが主によって叶えられると確信しましょう。また信仰によって救いを受けてまいりましょう。主は最善を成してくださるでしょう。

私たちには祈りの課題がたくさんあります。それはすべてが私たちの望みです。主を信じて主に期待しましょう。そして喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の計画は続く」     詩編33:8~15(旧約P863)   2020年7月19日 大竹敏生

 

本日導かれた聖書の箇所は旧約聖書の詩編33編8節~15節です。この箇所を通して学び、私たちのための神のご計画を信じ、続いていく神の計画のために励む者とされてまいりましょう。

 私はあまり計画をたてない方です。理由としては面倒なのが1つの理由です。そしてもう1つあるのは計画通り進められるか分からないということもあります。人は弱いものであり、何か想定外なことがあるとそれに対処できないのです。詩編33編10節には人の計画のもろさが記されています。一方神の計画は11節を見ると必ず成ると読めます。神は全知全能ですべてをご存知です。想定外などは無く着実に計画は進められます。イエス様の十字架による救いの計画は、人の悪意や裏切り、無力の中で進められました。そういう非協力の中に、神は罪ある私たちを救うご計画を進められたのです。すばらしい神のご計画の通りに主を信じて救いを受けてまいりましょう。神の計画は必ず成るのです。心より感謝いたします。

 また神のご計画は私たち人間を無視するものではありません。詩編33編の12節以降には、神が私たちを見ていてくださることが記されています。神は人間を覚えつつ計画を進めます。これには2つの意味があります。1つは神の計画推進のために人間を用いるということです。神はすべての人が信じて救われることを計画されました。その働きに弱い私たちを用いてくださるのです。これは神が私たちを愛しているゆえのことです。またもう1つの意味は、神の計画は私たちのための計画だと言うことです。先に挙げた十字架による救いの計画はもちろん私たちのための計画です。神は私たちを愛しておられるので、誰も滅びないように救いの計画をたてました。愛の神に感謝します。

 新型コロナなど「どうしてこんなことが?」と感じることも起きます。しかしすべてをご存知で、計画を続けて推進される神を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「良い知らせを」   ローマの信徒への手紙10:14~17(新約P288)  2020年7月12日 大竹敏生

 

本日導かれた聖書の箇所はローマの信徒への手紙10章14節~17節です。この箇所から学び、救われている私たちは「良い知らせ」を伝えることを喜び、感謝して励んでまいりましょう。

 今日の聖書箇所の前の部分で、この手紙の著者パウロは「信じる者すべてが救われる」ことを記しています。これはパウロにとって何よりも大切なことだったのです。そしてその後の今日の箇所では、救われた者の使命が記されています。人間には罪があります。それゆえに誰もが生まれながらに神を知りません。だから伝え聞かなくては神を知らないのです。知らないと言うことは信じることはもちろんできません。救われた者も皆が伝えられて神を知り、信仰に至りました。伝えられ信じた私たちは伝える者とされてまいりましょう。

 15節のカギかっこの中の「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか」という言葉はイザヤ書52章7節の引用です。足を美しいと評価してくださる神に感謝します。私たちが福音を伝えるとき、神は小さな目に見えないような働きをも喜んでくださることを感謝いたします。また私たちの伝えるのは「良い知らせ」だということも感謝です。「良い知らせ」に関して現在はなかなか信用できません。例えば、聞いた知らせが確かに良いものであっても、正しいかどうかは分かりません。間違っていたらもちろん「良い知らせ」ではなくなるのです。また現代は「うまい話」は無いと警告がなされたりします。悪意をもって詐欺まがいの行為を働く者がいるのです。さて神の福音は「良い知らせ」です。私たちは神に愛され、神を信じることで無償で救われるのです。これが神の「良い知らせ」です。この「良い知らせ」は間違いがありません。また悪意ではなく、神の愛による救いです。感謝いたします。

 私たちはこのすばらしい「良い知らせ」を伝えるのです。これは喜びであり、名誉なことです。いつも福音を宣べ伝えることを心がけてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に願いなさい」   マタイによる福音書9:35~38(新約P17)   2020年7月5日 大竹敏生

 

本日は今年の神学校週間の最終日です。今日、導かれた聖書の箇所はマタイによる福音書9章35節~38節です。「働き手」のために祈り、また私たち一人一人も「働き手」として歩めるように祈ってまいりましょう。

 本日の聖書の箇所のマタイによる福音書9章37節~38節は有名な言葉です。ルカによる福音書10章2節にも同じ言葉があります。この箇所から神学校に導かれた人も多く、神学校週間にふさわしいところだと言えるのです。

「収穫は多い」とありますが、クリスチャンの数が少ない日本では疑問を持ってしまう方もおられるでしょう。また収穫を喜びとつなげて考えても、現在の多くの教会では希望や喜びが見えないかもしれません。また一人一人も苦しみの中にあり、どこに収穫があるのか見えない状態の方も多いでしょう。ただこの「収穫」は人のものではなく「神の収穫」なのです。人の目には厳しい、苦しい状況でも神の目には「収穫が多い」のです。それを信じましょう。

また「働き手は少ない」ので「働き手を送ってくださるように祈れ」とあります。これはまず文字通りの意味があります。昨今神学生の数が少なくなっています。これに関しては主に願うことが大切です。主のご用をなす働き人を、主が導き、おこしてくださるように祈りましょう。またこの言葉は単純に「足りないので補充をお願いする」というものだけではないと思います。働き手を導き、支え、必要を満たすのは神です。神はそのために働き手を成長させてくださるのです。働き手のためにありとあらゆることを祈ることも含まれているのです。そして働き手として歩み始めても祈りが必要です。祈りましょう。

また働き手とは決して特別な人たちだけではありません。私たち一人一人が働き手なのです。お互いおぼえて祈り合いましょう。祈ることでさらに祝福を私たちは受けるのです。希望や喜びを持てなくても、神には収穫が見えています。神を信じ、神に愛され、導かれて、祈りつつ歩んでまいりましょう

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「むしろ任せなければ」   ペトロの手紙Ⅰ5:6~14(新約P434)   2020年6月28日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰ5章6節~14節です。この箇所から導びかれ、思い煩いを神にお任せし、信仰に固く立って歩んでまいりましょう。

 本日の聖書の箇所の7節と8節以降の内容はかなりギャップがあります。「思い煩いを神にお任せしなさい」という愛の言葉から一転「悪魔がだれかを食い尽くそうと探し回っている」というのです。だからここは新たな話が展開されているとも読めますが、今日はつながりをおぼえてみ言葉を考えていきたいと思います。むしろみ言葉の豊かさを感じることができるでしょう。

 8節を見ましょう。そこには悪魔の恐ろしさが記されています。しかしその恐ろしさは単純ではないのです。ライオンは確かに恐ろしいですが、近づかなければ危険はありません。しかし悪魔は恐ろしい姿で近づいてこないのです。狡猾にいつの間にか私たちを攻撃するのです。9節で「信仰にしっかり踏みとどまりなさい」と勧められているのです。

 ある先生は「思い煩い」は神への信仰と自分など限界があるものへの思いに揺れ動くことが生み出すと言われます。そうかもしれません。この「思い煩い」も悪魔の攻撃で起こるものです。神への信仰と不信仰に揺り動かされるのです。悪魔の目的は私たちを神から引き離すことです。私たちは神を選び取らなくてはなりません。神への信仰に固く立ちましょう。私たちには神が「思い煩いを神に任せなさい」と命じておられます。これは「任せてよい」という単なる許可だけではなく、それを超えてむしろ「神に任せなければならない」と言っておられるのです。なぜなら「思い煩い」は信仰と不信仰の間に揺れ動いている状態であって、「思い煩い」を神にお任せすることによって、神への信仰を選び取り、信仰にしっかりと踏みとどまることができるからです。

 私たちは日々悩みの中にあります。思い煩ってしまう者です。私たちの弱さを知る神への信仰にしっかり踏みとどまって歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の慰めと希望」  コリントの信徒への手紙Ⅱ1:3~11(新約P325)   2020年6月21日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ1章3節~11節です。この箇所から導かれ、苦難の中にあっても神の慰めと力に希望をおいて歩んでまいりましょう。

 この手紙の冒頭で、いきなり著者パウロは自分の体験した苦難について記しています。これはこの手紙の宛先のコリントの教会の人たちが苦難の中にあったからでしょう。当時のキリスト者は皆迫害の苦しみを味わっていたのです。またパウロ自身は、神から主のために苦しむことが示されていて、つまりパウロの苦しみは神から遣わされた使徒であることの証でもあったのです。パウロは苦難に際しての主の導きを記しています。それを見てみましょう。

 パウロは苦難に対して神は「慰め」をくださると証ししています。この「慰め」ですが、何か弱いイメージがあります。「同情」や後に出てくる「希望」もそうですね。しかし例えば「希望」は主にある希望なのです。すると「あざむことのない希望」だし「失望に終わることのない希望」なのです。弱くありません。この「慰め」も主からのものです。弱くないのです。「慰め」という言葉の言語が人格的に変化すると「助け主」「慰め主」となります。つまり聖霊なる神です。主からの完全な「慰め」を感謝します。また「慰め」は広がりをもちます。主から慰められた者は他者を慰めることができます。これは教会の業なのです。また「慰め」は私たちが苦難に遭った時、すぐに私たちに届くのです。苦難の中にあっても慰められることを感謝します。

 私たちはこの神の「慰め」と死から復活された神の「力」に希望をおくべきなのです。パウロもそのように勧めていますし、パウロがそうして苦難を乗り越えてきたのです。これからも苦難は私たちを訪れるでしょう。しかし私たちには神の慰めと力があります。慰め主である愛の神に希望を持ち、歩んでまいりましょう。必ず助けと慰めが与えられるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「栄光を現すため」 コリントの信徒への手紙Ⅰ10:23~11:1(新約P313)   2020年6月14日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ10章23節~11章1節です。この箇所から導かれ、神の栄光を現しつつ歩むことを心がけましょう。

 今日の聖書箇所に出てくる「偶像に供えられた肉」についての問題は、当時の教会にとって大きな問題でした。普通に売っている肉が偶像に供えられた肉である可能性があったのです。偶像崇拝を恐れる人は間違えないように肉を食べず、それを誇りにしていたのです。一方何を食べても許されていると主張する人たちも誇りを持っていました。それが対立を生み出していたのです。パウロはどちらが正しいとは言わず、弱者への配慮と10章31節で「神の栄光を現すため」にすることを命じているのです。 今の私たちにはこの「偶像に供えられた肉」の問題はありません。でもどうしたらよいのか分からないことはたくさんあります。そんな時に「神の栄光を現す」ことが助けとなるのです。

 「神の栄光を現す」とはどういうことでしょうか。まず思いつくのは神のために生きるということです。私たちは普通自分のために生きます。でも愛する者のために生きることもできます。愛する主のために生きるのです。具体的には神を第一にすることです。マタイによる福音書6章33節ではそうすれば全てが与えられるとあります。感謝です。また神の喜ばれる歩みをすることもそうです。分からない問題も「どうすれば神が喜ばれるか?」と考えることで答えが見えてきます。神を喜ばせることは大切なことです。ローマの信徒への手紙12章1節にあるように、主のために自分を神のものとして歩みましょう。「神の栄光を現す」とはまた主をほめたたえることもそうです。主を証しし、主を賛美し、主のために生きることを心がけましょう。

 私たちは罪人です。弱い者なのです。知恵も力もないのです。しかし神は全知全能です。この方に栄光を帰しつつ歩みましょう。新型コロナに悩む私たちですが、「神の栄光を現す」ことで祝福と導きを受けられるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主への信頼が助ける」    エレミヤ書17:5~8(旧約P1208)   2020年6月7日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は今週も旧約聖書からです。エレミヤ書17章5節~8節を通して、主に信頼して歩む者とされてまいりましょう。

 「信頼」とは何でしょうか。信頼とはあるものを信じ、頼りにし、大胆で確信に満ちた安心感です。今日の聖書の箇所では「主に信頼する」ことが勧められています。そして8節のみ言葉によれば、どんなに大変な厳しい状況にあっても、主に信頼することによって護られ、助けられることが記されています。実際、聖書には主に信頼して困難を乗り越えた人たちが登場します。例えばパウロは迫害により石打ちに遭ったり、投獄されたり、多くの苦しみに遭ったのですが、主に信頼することで困難を乗り越えました。また今日の聖書箇所の主人公のエレミヤも「涙の預言者」「悲劇の預言者」と呼ばれる人です。彼は民の無理解や不信仰に悩まされ、命の危険もあったのです。そしてエルサレムの陥落も体験しました。しかしエレミヤも主への信頼を失いませんでした。生涯で多くの苦しみに遭いましたが、主に信頼して、最後まで歩んだのです。

 では主に信頼して歩むために、私たちはどうしたら良いでしょうか。まず主の力を知るべきです。主は全知全能です。こんなに頼りになる方はおられません。頼るべき主に信頼しましょう。また逆に頼る私たちは弱いことを覚えましょう。今日の聖書箇所の5節や箴言3章5節に「人間」「自分」などに頼ることが愚かだと教えてくれます。また主に助けを求めましょう。つまり祈ることです。主に祈ることは私たちの主への信頼を増すのです。そして主を愛することです。主は誰も頼る必要がないのに、私たちを信頼して宣教などの主の業を任せてくださいます。これは私たちを愛してくださっておられるからです。主の力を知り、おのれの弱さを覚え、祈り、愛し、主に信頼して歩みましょう。

 私たちの歩みも困難が避けられません。新型コロナもまだ終息していません。主に信頼して助けを受けて、平安の内に歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「聖霊はだれにでも」     ヨエル書3:1~5(旧約P1425)   2020年5月31日 大竹敏生

 

本日は今年のペンテコステとなります。そして本日の聖書の箇所は旧約聖書ヨエル書3章1節~5節です。聖霊の降臨を預言したこの箇所から導きを受け、聖霊による恵みを覚えてまいりましょう。

 聖霊による恵みを今日の箇所を中心に見てみましょう。まず聖霊は驚くべきこと、奇跡的なことができます。使徒言行録2章に聖霊降臨の日についての出来事が記されていて、ペトロはこのことはヨエル書3章に記されていることだと証言しています。聖霊に導かれた人たちが他国の言葉で話すのを見た人たちは驚いています。奇跡的なことが起こりました。聖霊は父と子と共に神なのです。神は全知全能です。不可能はありません。人間の力をはるかに超えたことも起こすのです。また聖霊は、私たちにとって必要な善いものをくださいます。ヨエル書3章1節に「預言」「夢」「幻」が与えられるとあります。預言はみ言葉です。私たちはみ言葉によって神に導かれて歩む必要があります。生きるために必要なものなのです。夢と幻ははかなくて、必要価値が高くないと感じるかもしれません。ただ聖霊が与えるのですからはかなくはないのです。私たちを導き、実現に至らせます。また欽定訳聖書の箴言29章18節には「幻のない民は滅びる」とあります。聖霊が与える夢や幻も、私たちにとって必要なもので生きるのに必要なのです。そして聖霊は誰にでも臨んでくださいます。今日の聖書箇所に身分や年齢、性別に関係なく与えられることが記されています。誰にでも、そして私たちがどんな状況であっても聖霊が臨んでくださるのです。ヨハネによる福音書14章16節に聖霊は永遠に私たちと共にあることが記されています。状況によっていなくならないのです。罪人であり、神の前に出ることもはばかれる私たちに届いてくださる神に感謝します。

 聖霊による恵みを信じましょう。そして祈りましょう。助け主であり弁護者である聖霊は、私たちに臨み、助け、導いてくださいます。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「変わらない恵みによって」 ヘブライ人への手紙13:7~16(新約P419)   2020年5月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙13章7節~16節です。この箇所から導かれ、変わらぬ神の恵みによって強められてまいりましょう。

 今日の聖書の箇所の7節以降は、著者が手紙を終えようとしていて重要なことを思いつき記したところと言われています。実際大切なことが書かれています。まず8節に注目ください。ここに「変わらない神」とあります。神は完全ですから「変わらない」のです。ただ人間は罪があり、弱いのです。「変わる」必要があります。これを別の言い方をすると「成長する」と言います。私たちは神に向かって「成長」してまいりましょう。

 9節の言葉は食物律法や禁欲主義のことを言っているようです。律法を守ったり、質素な食事は益をもたらさないのです。むしろ恵みによって強められる必要があるのです。哀歌は悲劇の預言者と言われるエレミヤが記したと言われています。エレミヤは民の不信仰や無理解に悩みました。そしてエルサレム陥落を目の当たりにしたのです。なぜこんなことが起こるのかと思ったでしょう。哀歌3章22節~23節には「神の愛は尽きない」と記しています。これはエレミヤが恵みによって強められていたからこその言葉です。私たちは自分のしたことや能力によって強められるのではありません。主を信じて変わらない神の恵みによって強められましょう。

 13節には「宿営の外へ」とあります。主は宿営の外で十字架にかけられ、私たちの救いを成し遂げられました。主と共に積極的に主のために歩むことが求められています。見える儀式や祭壇ではなく、神の恵みによって歩むべきなのです。この手紙の受取人の人たちは迫害の苦しみにあっていました。私たちも苦しむことがあります。そういうときも主の恵みによって歩みましょう。

 恵みによって強められる歩みをしていくためには、主を信じることが大切です。信仰をもって賛美しつつ、主を喜ばせる歩みを心がけましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主と共に。主のために。」 マタイによる福音書28:16~20(新約P60)  2020年5月17日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書28章16節~20節です。この箇所の神の命令と励ましを受け、福音宣教に励む者とされてまいりましょう。

 今週の木曜日5月21日が今年2020年の昇天日となります。イエス様が天に昇られた日です。イエス様が復活されてから昇天される前までに弟子たちに語られたことの中に「宣教命令」があります。今日の聖書箇所の19節~20節もそれにあたると考えて良いでしょう。ここには4つの命令が書かれているように見えます。順番に「行きなさい」「弟子としなさい」「バプテスマを授けなさい」「教えなさい」です。でも新約聖書のギリシャ語の原文で命令形が用いられているのはこの中で「弟子としなさい」だけです。これは他の命令も「弟子としなさい」の内容としてかかっているということです。つまり積極的に福音を宣べ伝え、人を神と出会わせ、そしてバプテスマに導き、神との1対1の深い関係に至らせ、さらに教え成長させること、これら全てが宣教なのです。人は信じるのに多くの人のいろいろなかかわりが積み重なり信じます。そしてさらに神の導きで信仰が成長させられるのです。これら全てが宣教です。深く、また尊い宣教の業が私たちにも託されていることを感謝いたします。

 でも弱い私たちは宣教なんてできないと思うことがあるでしょう。でも神はすばらしい約束をしておられます。それは「共にいる」という約束です。主は共にいて助け、見守りつつ励まし、変わりなく愛してくださいます。モーセの後を継いだヨシュアも、ヨシュア記1章9節でこの約束を受けて主の業を成し遂げました。今日の箇所の弟子たちも、この期に及んで疑う者までいたのです。でもこの後の弟子たちは、使徒言行録に記されていますがすばらしい働きをいたしました。主が共におられ、聖霊の導きを受けたからです。感謝します。

 この「共におられる」という約束は、私たちにも与えられています。弱い私たちも主と共に、主ために福音宣教に励んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活された主が」  マタイによる福音書28:1~10(新約P59)   2020年4月12日 大竹敏生

 

本日は今年2020年のイースターです。主の復活を喜びつつ礼拝しましょう。聖書の箇所はマタイによる福音書28章1節~10節です。この箇所から学び、主の復活に希望を置き、復活の主に導かれて歩んでまいりましょう。

 復活の日の朝、マグダラのマリアたちが墓を訪れたとき、すでに主イエスはよみがえられていて墓には遺体は無かったのです。イエス様は死者の中からよみがえられたのです。ローマの信徒への手紙6章23節に「罪が支払う報酬は死です。」とあります。その死に打ち勝った主は、私たちの罪から来る死にも打ち勝つのです。罪により滅ぶ運命だった私たちは、十字架に架かって死んでよみがえられた主を信じることで救いの希望を持てるのです。感謝します。

 最初に主の復活を告げられ、復活の主にお会いしたのはマグダラのマリアたちでした。彼女たちの主に対する熱い思いがそれをさせたのです。しかし彼女たちも復活を信じていたわけではありませんでした。マルコによる福音書の平行記事を見ると、イエスの遺体に油を塗りに行くのが目的だったのです。また他の福音書やパウロの手紙によりますと、イエス様はおびえて隠れている弟子たちやエルサレムから逃げていく弟子を含めて500人以上の弟子に出会ってくださいました。その中で誰一人も主がよみがえることを信じていませんでした。そんな不信仰の弟子たちに主は出会ってくださったのです。それで彼らは主の復活を信じたのです。主によって信じることができたのです。

またマグダラのマリアたちには「兄弟たちにガリラヤに行くように」と告げられました。ガリラヤでは彼らはイエス様により、弟子として主に従う力が改めて与えられました。復活の主は信じて従う力を与えたのです。

復活された主は今も生きておられ、弟子たちだけではなく私たちにも出会ってくださるのです。復活は私たちのためでもあるのです。主によって導かれ、主に助けられて信仰を保ちつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「福音は神の力」  ローマの信徒への手紙1:16~17(新約P273)  2020年4月5日 大竹敏生

 

本日は2020年度最初の主日です。2020年度の主題聖句を含むローマの信徒への手紙1章16節~17節から、神の福音のすばらしさを学び、福音に生かされ、福音のために歩む者とされてまいりましょう。

 今日は今年のイースターの前の週で、今日から受難週です。イエス様が十字架に架かられた受難日は今週の金曜日です。主の十字架による死は、信じる者を救いに導きます。福音は十字架と切っても切り離せないものなのです。そのことを覚えておきましょう。

今日の聖書の箇所の16節に「わたしは福音を恥とはしない」とあります。この「恥」の内容は何でしょうか。16節にユダヤ人とギリシャ人が出てきます。このローマの信徒への手紙と同じくパウロを著者とするコリントの信徒への手紙Ⅰの1章23節に、十字架は「ユダヤ人にはつまずき」「異邦人には愚か」とあります。律法を仰ぐユダヤ人には十字架はつまずきであり、知恵を追い求めるギリシャ人には十字架は愚かなのです。しかし私たち信じる者にはつまずきでも愚かでもなく、救いをもたらすものなのです。私たちのために十字架に架かって死んでくださった主を信じること以外に救いはありません。福音は恥ではなく、完全な神の力なのです。神の前に正しい人とは神への信仰を持つ人です。十字架よりも前の時代の人たちも信じることで義とされました。そのことはヘブライ人への手紙11章に記されています。そして17節に「正しい者は信仰によって生きる」とハバクク書2章4節が引用されています。信じる者に救いをもたらす十字架の福音を喜び、感謝しましょう。

さてそのすばらしい福音を宣べ伝えることが私たちに託されているのです。これは私たちにとって栄誉なことです。福音は神の愛であり、信じる者を救う神の力です。私たちも福音を知らされました。信仰者とは神を信じて従う人です。信仰者である私たちは福音を宣べ伝え、神に喜びつつ従いましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰と祈り」 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:16~28(新約P379)  2020年3月29日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はテサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章16節~28節です。この箇所の特に16節~18節を中心に祈りの大切さを学び、信仰をもって祈り続ける者とされてまいりましょう。

 今日の聖書の箇所の16節~18節には3つのことが私たちに勧められています。「喜び」「祈り」「感謝」です。ただこの3つは別々ではなく、むしろ1つと言っても良いほど強い関係をもっています。決して別々ではないと考えることが大事です。まずそのことを覚えましょう。

私たちにとって「祈り」はとても大切なものです。本日の聖書の箇所でもそれを知ることができます。私たちはなぜ祈るのでしょうか。まず祈ることが喜びだからです。それはまず、祈ること自体が喜びであるということです。また祈りは聞かれるということもあります。祈れば神の知恵と力により最善が成るのです。「祈り」には「喜び」「感謝」が伴うのです。また祈る理由として、祈ることは神の命令だということもあります。17節に「絶えず祈りなさい」とあります。私たちは罪からくる弱さゆえに、祈ることができないこともあるでしょう。しかし私たちが愛し、信じる神が命じておられるのです。それにこたえて歩む者でありたいものです。また祈る理由として神の命令だけではなく、神がそれを望んでおられるということもあるのです。18節にそれが記されています。私たちを愛し、信じる我らを救って下さった神がそれを望んでいるというのです。またこの箇所を「み心」と訳している聖書があります。神のみ心は最善なのです。私たちは主の望みどおり祈る者として歩みつづけましょう。

さて、以上の理由は「信仰」をもって祈ることを教えます。信じている方の命令であり、望みです。また祈りは聞かれると信じて祈るのです。今日の箇所はこの手紙の最後の部分です。教会が祈り続けていくとき、教会は恵みや祝福、導きを受けます。私たちの教会も祈りつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らの救いのために」 ヨハネによる福音書15:11~17(新約P199)  2020年3月22日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書15章11節~17節です。この箇所から、私たちは神が愛してくださることによって救われることを学び、神を信じて救いに導かれましょう。

 今日の聖書箇所の15節に「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とあります。「友」という言葉からは「親しみ」を感じます。神の愛は広く深いのです。その1つの要素は「親しさ」なのです。ただ「友」という言葉からは対等な関係を感じます。イエス様と弟子たちは決して対等ではありません。それどころかこの弟子たちは、この後ペトロをはじめとして皆がイエス様を見捨てて逃げてしまうのです。そしてイエス様はそのことを知っておられました。それでも弟子たちを「友」と呼ぶのです。私たちも罪があるゆえにとてもイエス様の「友」となる資格はないように思えるときがあるでしょう。しかし裏切る弟子たちを「友」とするイエス様は、私たちも「友」としてくださいます。そしてイエス様はそんな「友」を救うために十字架に架かって死んでくださったのです。

 今日の聖書箇所の16節に「わたしがあなたがたを選んだ」とあります。これは「友」と同じように、弟子だけではなく私たちも含まれています。私たちも主に選ばれたのです。救いに至る道は人それぞれです。しかしそのすべてが「神の選び」なのです。自分で信じたように思う人もいるでしょう。しかしそれも神が信仰を与え、導いたのです。またこれでいいのか、自分は信じているのかと思っている人もいるかもしれません。でも「神の選び」です。私たちは全く確かではありません。しかし神は確かです。だとすれば愛の神の選びも確かなのです。教会に導かれてくるのも神の導きです。神が選んでくださったのですから、皆さま方の神への信仰は確かなものと信じましょう。

 私たちを「友」と呼び、私たちのために十字架に架かってくださり、私たちを選んでくださった主の愛に感謝し、主を信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信頼すべきお方は主」    箴言3:1~12(旧約P993)  2020年3月15日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は箴言3章1節~12節です。この箇所の特に5節~6節のみ言葉に導かれ、私たちは何を信頼して歩むべきかを学びましょう。

 「主を信じて歩む者には祝福が与えられる」この言葉は間違いではありません。今日の聖書箇所の2節、4節、8節、10節にも信じる者への祝福の約束が記されています。しかしこの「信じる」ことがかなり困難なのです。私たちは頭では何に信頼すべきかが分かっています。主なる神に信頼することを知っているのです。でも実際にそれができるのかというとなかなかできないのが現実でしょう。いったい何が主を信じることを邪魔するのでしょうか。主なる神は見えません。そうです私たちは見えない神よりも、見える例えば自分に頼ってしまうのです。

 本日の聖書箇所の5節に「心を尽くして主に信頼し」とあります。主に信頼するのが正解なのですが、それができない現実に対して「心を尽くして主に信頼」せよと命じているのです。私たちは何に信頼すべきか迷うことなく、ただ主に信頼することが勧められているのです。この箴言を記したのは、イスラエル王朝の三代目の王ソロモンです。ソロモンは神から知恵をいただきました。マタイによる福音書6章29節には「栄華を極めたソロモン」とあるほど人間的に優れていたのです。しかしそのソロモンが「主に信頼せよ」と言うのです。確かに主は人間よりもはるかに優れています。全知全能なのです。知恵の面では人間の中で最も優れていたソロモンでも神には遠く及ばないのです。このように人間に頼るよりも神を信頼する方が良いのに、実際はできないのが弱い私たちの現実なのです。

 ではどうしたら良いのでしょうか。やはり祈りでしょう。神をいつも身近に感じていくことが大切です。祈りをもっていつも主と共にあれば、弱い私たちでも神を信頼して歩めるのではないでしょうか。主に信頼して歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛することを求めて」  マルコによる福音書12:28~34(新約P87)  2020年3月8日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマルコによる福音書12章28節~34節です。この箇所から導きを受け、愛することを主に求めてまいりましょう。

キリスト教は愛を特に尊びます。それは神が私たちを愛してくださるからであり、そこからキリストの救いをはじめとして、キリスト教のすべてがあるのです。今日の聖書箇所も、まず前提として神が私たちを愛してくださっていることがあります。そのことをおぼえておきましょう。

今日の聖書箇所28節では、イエス様が一人の律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と質問を受けています。律法の掟は600以上あると言われます。その中から2つ挙げて神と人を愛することが何よりも大切だと教えてくれているのです。つまり要約しますと「律法は愛」だということです。神に愛され、神を愛して歩むことそれが私たちの務めなのです。

では私たちが神と人を愛することはたやすいことなのでしょうか。確かに小さな子どもでも愛することをします。愛に力や技術は必要ではありません。でも誰でも「愛せない」ことがあります。私たちは愛さなくてはならないことが分かっていても、愛することができないのです。はっきり言えば、私たちには罪があり「愛すること」ができません。でも望みがあります。それは「愛せよ」と命じたお方が、そんな私たちでも「愛すること」が出来るようにしてくださるということです。神が私たちに愛する力をくださることを感謝いたします。

質問した律法学者はイエス様の言葉に賛同しました。するとイエス様は「あなたは、神の国から遠くない」と告げられたのです。愛することは救いと強い関係をもっています。救いは信仰者に与えられます。神を愛することと信じることは結び付いているのです。私たちも神を愛して、神を信じ続けましょう。そのために神に「愛することを」求めていきましょう。祈りをもって神に願い、

神の恵みを受けて歩み続けていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんなときにも神を」    詩編56:2~14(旧約P889)  2020年3月1日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は詩編56編2節~14節です。この詩編から導かれ、ダビデのようにどんな時にも神に依り頼む者とされてまいりましょう。

この詩編56編は1節の表題にあるようにダビデの作です。ダビデが嫉妬に駆られたサウル王から逃れて、ペリシテ人のところに逃げた時のことを覚えてのものです。主から油注がれたサウル王と戦うことを良しとせず、サウルの敵であり、ダビデにとっても敵であるペリシテ人のところへ逃げたのです。サウルは確かにそこまでは追わなかったようです。ただペリシテはダビデにとっても敵ですから、ダビデは落ち着きはしませんでした。気が狂ったふりをして窮地を逃れたりしています。ダビデは「戦いたくない相手に追われて逃げたが、逃げた先も敵」という状況だったのです。

そんなダビデが頼るのは神でした。ダビデは自分の弱さ、愚かさを知っていました。そして全知全能なる主なる神を信じていたのです。この詩編56編には、2節~3節、6節~7節にダビデの置かれた大変厳しい状況が記されています。しかしそんな状況にあってもダビデは主に信頼しました。主を賛美しました。ダビデは決して能力的に劣っているというわけではなかったでしょう。しかしたとえ人間的に優れていたとしても神のそれに勝ることは絶対にありません。厳しい時、苦しい時、ダビデは主なる神を呼び、主なる神に依り頼んだのです。神はそんなダビデを、ダビデが信じていたように救われたのです。ダビデにとって自分は一人の弱い罪人でした。ただダビデにとって神は全知全能で信じる者を助けてくださる愛のお方だと信じていたのです。

ダビデも武器を集めたりして人間的な努力もしたようです。しかし結論的に言えば、結局は頼むべきは神だったと経験をとおして記しているのではないでしょうか。私たちもどんな時にも神に依り頼みましょう。神を呼び、神に依り頼み、神を賛美しましょう。そうですそれは正に祈りなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「善い業を始められた方」 フィリピの信徒への手紙1:1~6(新約P361)  2020年2月23日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節~6節です。この箇所から学び、神とパウロを喜ばせたフィリピの教会のように歩みましょう。

このフィリピの信徒への手紙は、他のコリント書などと違い、著者のパウロの喜びが最初からあふれ出ています。確かに他の教会への手紙は、パウロの嘆きや、怒り、悲しみなどが見えるものがあります。ただパウロはどの教会も変わりなく愛していました。そしてそのパウロの愛は神の愛でもあります。私どもの教会も含め、すべての教会が主に愛されていることを感謝します。

でもフィリピの教会はなぜこんなにもパウロを喜ばせていたのでしょう。それは本日の聖書箇所の5節にありますが「福音に預かって」いたからなのです。「福音に預かる」とは「福音を広める」ことです。それも主によって救われた喜びに突き動かされるように福音のために歩むことではないでしょうか。フィリピ教会がそういう教会だったからこそパウロは喜んでいたのです。

では6節に出てくる「善い業」とは何でしょうか。これは「救いの業」のことです。ただこれは「福音に預かる」こととつながっています。「救い」は神の業ですが、神はそれを人を通して広めるのです。従ってフィリピ教会の福音に預かる行ないも神の力によってなのです。

私たちは「福音に預かる」ことも「神の業」であることを意識する必要があります。ときに私たちの目には福音の前進が見えません。停滞や後退に見えることすらあります。でも神の業ですから必ず前に進んでいるのです。弱い私たちと歩調を合わせるように確実に一歩一歩前に進んでいるのです。そして主の再臨の時までに、神御自身が私たちを用いて完成させるのです。感謝します。

私たちも福音に預かっていきましょう。そのために日々祈りつつ歩む者とされてまいりましょう。それがフィリピの教会のように神を喜ばせる教会とさせられていくことになると信じます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんな時でも神の力が」  ハバクク書3:16~19(旧約P1468)   2020年2月9日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書のハバクク書3章16節~19節です。この箇所から導かれ、どんな状況にあっても主を信じて祈り、神の力で歩む者とされてまいりましょう。

ハバクク書の名に出てくるハバククは、ハバクク書に預言者と記されています。そしてハバクク書には「カルデア人(バビロニア人)からの圧迫」が記されているので、南ユダ王国末期の預言者であろうと推測されます。つまりエレミヤと同じ時代の預言者だろうと言われているのです。

このハバクク書の1章と2章は、神とハバククとの問答のように記されています。神と問答するということは、神との親しさを表しています。アブラハムやモーセも神との対話をしています。それくらい親しかったのでしょう。ただ注意しなくてはならないのは、問答しているからといって、私たちと神は対等ではありません。親しくても神が上だということは押さえておかなくてはならないのです。

ハバククの祈りは「カルデア人(バビロニア人)の攻撃が止み、南ユダ王国が守られること」でした。しかしその願いに対する神の答えは、ハバククにとってショックなものでした。「南ユダ王国は敵であるバビロンから壊滅状態にされる。ただそのバビロンも滅びる。」というものでした。今日の聖書の箇所の16節にはハバククのショックが記されています。でもハバククは信じて受け入れたのです。17節にありますが、カルデア人(バビロニア人)の攻撃はものすごいものです。徹底的に滅ぼされてしまうのです。でもハバククは信じます。神は力を与えてくださり守られると信仰告白しているのです。

私たちもいつも良い状況で歩めるわけではありません。でも私たちには神がおられるのです。どんな時にも神は共にいて、信じる者には神の力が与えられるのです。信じる私たちの力である神に祈りつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の力、神の知恵」 コリントの信徒への手紙Ⅰ1:18~25(新約P300)  2020年2月2日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ1章18節~25節です。この箇所から導かれ、神の力、神の知恵によって歩む者とされてまいりましょう。

コリントの教会の信徒たちは、自分の能力や知恵などを誇りとしていました。それゆえ教会は問題を抱えていました。実は、私たち人間の知恵や力は弱いのです。21節にあるようにどんな知恵のある者でも神を認められなかったのです。まして自分を救うこともできなかったのです。私たちを救うのは主イエスの十字架です。18節には十字架が神の力と記されています。私たちは神の知恵である宣教と神の力である十字架によって救われているのです。コリントの教会の人たちは、人には愚かに見える「宣教と十字架」によって救われていることを思い出す必要があるのです。

でもコリントの教会の人たちだけの問題ではありません。私たちも自分の知恵や力に依り頼んでしまう傾向があるでしょう。まず私たちは「神の力、神の知恵」のすばらしさを覚えましょう。一般的に大きな力や高い知恵は、弱いものを置き去りにしてしまいます。神の力や知恵は25節にあるように、人と比べたら比較にならないほどのものです。でも神の「宣教や十字架」は弱い私たちを置き去りにせず、救うのです。ただ大きいだけではなく、弱さを覚える愛の知恵と力なのです。このようなすばらしい「神の力、神の知恵」に導かれて私たちは歩む必要があるのです。またもう一つ心がけたいことは、自分より神を優先することです。そのために神と交わり、神の力と神の愛のすばらしさをいつも覚えてまいりましょう。神を第一に歩むとき、私たちは自分ではなく神に依り頼むことができるのです。

24節には「神の力、神の知恵」はキリストだとあります。神に依り頼むとき、弱い私たちも祝福されます。そのために祈りをもって歩みましょう。キリスト共に歩む者は祝福や恵みに満たされるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたは今日楽園に」  ルカによる福音書23:39~43(新約P158)  2020年1月26日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書23章39節~43節で、十字架の場面です。この箇所から、主を信じて歩むように導かれてまいりましょう。

この箇所で一人の犯罪人が救いに導かれました。彼も最初はもう一人の犯罪人と一緒にイエス様をののしっていたようです。十字架上のイエス様を見ているうちに変えられたようです。彼はまず罪を悔い改めました。その悔い改めは、罪を認めることから始まります。彼は自分自身の罪を認めていました。そしてイエス様を神と信じました。42節で「あなたの御国」と言っています。偉大な信仰の先輩たち、アブラハム、モーセ、ダビデ、エリヤ、イザヤなども天国にいます。でも彼らの国とは言われません。そこは神がつかさどる神の国なのです。それをこの犯罪人は「あなたの御国」と言いました。イエス様を神と信じていたのです。その信仰ゆえにイエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と救いの宣言をされたのです。「わたしを思い出してください。」の願いを大きく超えて、信仰により救いが与えられたのです。

ではこのイエス様の救いの宣言はどのような思いで語られたのでしょうか。褒美として救いを与えるという感じでしょうか。救いの許可を与えるような感じでしょうか。私はもっと喜びに満ちた感じだと思います。十字架上ですから、宣言されただけでしたが、普通の状況ならこの犯罪人の手を取り、喜んでいたと思います。本当にこの犯罪人の信仰による救いを喜んでいたと思うのです。イエス様は人を救うために十字架に架かって下さったのですから。

十字架の場面には多くの人たちが出てきます。私たちが実際そこにいたらどこにいるでしょうか。「十字架につけよ」と叫ぶ群衆ですか。群衆をそそのかした律法学者たちですか。逃げ去った弟子たちですか。そのどれであっても、犯罪人と同じように立ち返ることを主は願っています。そんな主ですから、私たちも救われるのです。主を信じて従ってまいりましょう

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の言葉は生きており」 ヘブライ人への手紙4:12~16(新約P405)  2020年1月19日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヘブライ人への手紙4章12節~16節です。この箇所にありますように、生きている神の言葉に導かれてまいりましょう。

12節に「神の言葉は生きており」とあります。「神の言葉」とは聖書と考えてもよいと思います。また神の業績や力、また神そのものと考えてもよいでしょう。「生きており」とあるのは、まるで生きているように力を発揮するということです。今も生きておられる神の言葉ですから当然と言えます。

この「神の言葉」は私たちの全てをあらわにします。私たち自身も認めたくないようなものも明らかにされるのです。そのあらわにされるものとは罪です。この罪ゆえに私たちは神と断絶させられており、救いが必要なのです。罪を悔い改めて、神を信じて歩む必要があるのです。またこの罪のゆえに私たちは弱いのです。神の助けが必要なのです。神は私たちの全てをご存知です。罪があることも、そしてその問題を解決できないことも、罪ゆえに弱い者であることもです。しかし神は私たちに同情してくれるのです、私たちを憐れに思うのです。それは正に神の愛だといえるのではないでしょうか。私たちは何も神の前に隠し通すことはできません。だからこそすべてご存知の方に依り頼んでまいりましょう、その神の愛ゆえに、救われる資格のない私たちでも救われ、とるに足らない私たちでも助けられるのです。

一番新しいものでも2000年近く前に記された聖書ですが、今も私たちを導きます。生きている神の言葉だからです。また私たち一人一人置かれている状況は違いますし、求めているものも違います。そんな違いがあっても神の言葉はそれぞれに力を発揮するのです。また私たちはそれぞれ良い時も悪い時もあります。神の言葉は置かれている状況がどうであれ、その時に必要なものを与えて下さるのです。神に導かれて歩みましょう。日々の祈りとみ言葉は、これからも生きている神の導きとして私たちに届くのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りつつ歩む恵み」 ローマの信徒への手紙15:22~33(新約P296)   2020年1月12日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙15章22節~33節です。この箇所から導かれ、パウロのように祈りつつ主のご用に励んでまいりましょう。

この手紙の著者はパウロです。パウロは、この手紙を記したこの時点では、まだ宛先のローマに行ったことが無かったようです。パウロはローマそしてその先のイスパニアにまで行きたいと考えておりました。パウロはなぜローマ、イスパニアに行きたいと考えていたのでしょうか。それは当時の世界の中心であるローマ、そして西の果てであったイスパニアに福音を宣べ伝えたいと考えていたからです。主の命令に応え、主のために伝道したいがために願っていたのです。福音宣教のために生きるパウロらしい願いだったのです。

ただ驚くことにその前にエルサレムに行くというのです。この手紙が執筆されたのはコリントあたりだと言われています。コリントからエルサレムは直線でも1000キロ以上離れています。しかもローマとは反対方向です。とんでもない遠回りとなります。またこのエルサレムへの旅はパウロにとって大変危険なものでした。使徒言行録でも預言者が警告していました。パウロ自身もそれを知っていたようです。でもパウロはエルサレムの貧しい信者のために集めた献金を持って行くというのです。愛の施しにより、励ますためでした。

実際パウロはエルサレムで危うく殉教の死をむかえるところでした。またその後、導きによりローマに護送されることになりましたが、危うく命を落としかねない体験もしました。しかしパウロが「主の導きにより、必ず行ける」と信じていたローマに行くことができたのです。またイスパニアにも行ったという説もあります。主のために歩むパウロを神は守り、導いたのです。

伝道と愛により励まし合うことは、パウロだけではなく私たちの教会の務めでもあります。パウロは祈りをもって伝道や施しなどの神のご用をいたしました。私たちも祈りをもって教会の業を行なってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「必要なものが」   マタイによる福音書6:25~34(旧約P10)   2020年1月5日 大竹敏生

 

本日は2020年最初の主日礼拝です。示された聖書の箇所はマタイによる福音書6章25節~34節です。この有名な箇所から導かれ、恵みや祝福をくださる神に感謝し、祈りつつ歩む者とされていきましょう。

33節に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」とあります。主を信じる者が、神を何よりもまず神を優先することは当然です。主によって救われた私たちは、神が第一であるべきなのです。しかしここではそれが理由とは記していません。今日の箇所全体から、私たちが「思い悩まない」ためにだと読めます。思い悩まないためには神への信仰が不可欠です。神以外に私たちの「思い悩み」を解決できないのです。神を第一にすることは、神への信仰なしにはできません。だから神を第一にすることが求められるのです。

今日の聖書箇所から神は私たちの必要をご存知で、それをくださると約束していることが分かります。ただ私たちは勘違いをしてはいけません。それはこの「必要」を私たちが判断するのではないということです。神が何が必要かを知っておられるということです。何か私たちは「神は必要最低限をくださる」とか「物質的な祝福はない」とか考えたりしてしまうかもしれません。確かにそういう場合もあるでしょう。ただ神が必要と考えることが成るのです。パウロが祈ってもトゲは取り除かれませんでした。人が祈っても叶えられないことがあります。ソロモンは栄華を極めました。必要以上に与えられることもあるのです。どちらも神が必要だと判断されたのです。パウロは貧しくても、豊かでもどちらでも対処できる方法を授かっているとフィリピ書に記しています。私たちもそのように歩めればと思います。

2020年も神に導かれて歩みましょう。神を第一に祈りつつ歩みましょう。神は私たちにとって必要とあらば、ありとあらゆるものをくださるのです。神に期待し、喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「賛美せよ。ハレルヤ」    詩編150:1~6(旧約P989)    2019年12月29日 大竹敏生

 

本日は2019年最後の主日礼拝で、聖書の箇所は詩編150編1節~6節です。この箇所から学び、神を賛美して歩む者とされていきましょう。

詩編は全部で150編からなります。つまり今日の聖書の箇所詩編150編は詩編の最後になり、合計6節からなる短い詩編です。この詩編150編は多くのことを記していません。むしろ「賛美せよ」という言葉が11回も出てきていてこの詩編は「賛美せよ」とだけ語っているとも思えます。ただ実はかなり多くのことをこの詩編は教えてくれるのです。

まず1節には「どこで賛美するのか」が記されています。まず「聖所」で、次に「大空の砦」でとあります。聖所とは神殿でしょう。今なら教会でしょうか。大空の砦とは大空の神の力の及ぶ場と言えます。つまりどこも全てがそうだと言えます。どこで賛美してもよいのです。でも賛美するのに適しているところを持っていれば賛美を止めないで賛美し続けることができます。私たちが賛美し続けることを神は求めておられます。2節には「賛美する理由」が記されています。「力強い御業」「大きな御力」がその理由と記されています。神の力ですから、まず私たちの救いがあげられます。私たちを救うことは神にしかできません。救われている私たちは賛美すべきなのです。また私たちに、神のしてくださることは、大きなこともあれば小さなこともあります。私たちはそういう神のしてくださる恵みや祝福のゆえに、神を賛美するべきなのです。3節~5節は、私たちがありとあらゆるやり方で神をほめたたえて良いことが記されています。心から精一杯神を賛美しましょう。最後に「息あるもの」はこぞって賛美せよと記されています。この世のもの全てが神に守られ支えられています。生きているものすべてが神をほめたたえるのです。

この1年間、私たちは神から、大きなこと、小さなこと、いろいろな恵みや祝福をいただきました。感謝をもって神をほめたたえてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛と信仰の中で」   マタイによる福音書1:18~25(新約P1)  2019年12月22日 大竹敏生

 

本日はクリスマス礼拝です。示された聖書の箇所はマタイによる福音書1章18節~25節です。この箇所から、救い主イエスキリストは、愛と信仰があふれる中で生まれてこられたことを覚えましょう。

まず愛ですが、神の愛があります。今日の聖書箇所には、救い主は2つの名で呼ばれることが記されています。そのうちの1つは「イエス」です。これは「主は救い」という意味で救い主にふさわしい名前です。私たち罪人が、主の十字架を信じて救われるのは、神が私たちを愛したからで、他に何もないのです。愛による救いなのです。またもう1つの名前は「インマヌエル」です。これは「神われらと共にいる」という意味です。私たちのような者と共にいてくださるのは、神が私たちを愛してくださっているからに他ならないのです。

次に人間の愛を見ましょう。今日の聖書箇所にはイエスの父となったヨセフという人物が出てきます。この人はイエス様の母となったマリアと婚約していました。二人は愛し合っていたのです。そしてまた神を愛していたのです。ヨセフは、婚約中のマリアが身ごもってしまったことで、彼女のことを表ざたにしたくなく、こっそり離縁しようと考えたと19節に記されています。それはマリアを愛していたからでしょう。また神を愛していたからでもあるのです。このように神と人間の愛の中で主イエスキリストは誕生されたのです。

また信仰についても見てみましょう。ヨセフは神を信じていたから、夢のお告げを信じました。また25節にあっさりと記されていますが、子どもの名前を「イエス」と名づけました。名づけに関しては父親に権限があったようです。でもヨセフは自分の思いではなく、御使いが命じた通り「イエス」と名づけたのです。神を信じて神に従ったのです。それは正に信仰だったと言えるのです。

救い主はこのように神と人間の愛、そして信仰の中に誕生しました。感謝いたします。私たちはこの救い主を喜び、信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「マリアの賛歌」   ルカによる福音書1:46~56(新約P101)  2019年12月15日 大竹敏生

 

今年もアドベントの第三週をむかえました。本日の聖書の箇所はルカによる福音書1章46節~56節です。この有名なマリアの賛歌に表されているマリアの信仰から学んでいきましょう。

このマリアの賛歌は、何となくマリアが受胎告知の直後に歌ったと思っていました。しかし聖書を見ると、受胎告知の後、エリサベトのもとに行き、対面直後で歌われています。思いめぐらすことの多かったマリアは、救い主を宿すという出来事に浮かれたわけではなく、熟慮してこの歌を歌ったのです。

マリアの賛歌はマグニフィカートと呼ばれます。これはラテン語で「あがめる」という意味です。男の人を知らない自分が救い主を宿すという状況をじっくりと考えた上で、マリアは主をあがめたのです。私たちも困難な時や迷う時もあるでしょう。でもマリアのように主を信じて主をあがめていきましょう。

マリアはなぜ主をあがめたのでしょう。それは「とるに足らない自分にも目を留めてくださった」からだとあります。マリアの謙遜さがあらわれているという人もいますが、むしろこれは本当にそうだったのだと思われます。ただでさえ身分的に下と見られていた女性であり、また身分が高いわけでもない自分に、主は目を向けてくださっているのだと歌っているのです。神は人の外面で判断しません。むしろ内面や本質を見るのです。そして主は、すべての人に目を注いでいてくださるのです。私たちにも目を留めてくださる神に感謝し、神を信じて歩んでまいりましょう。

神の力は偉大で、全世界の主を信じる者に届きます。たとえどんな状況に置かれていても、主は助け出し、ひっくり返すほどの大きな力を発揮されるのです。そしてその力は、あわれみで注がれるのです。身分や外面は関係なく、間違いなく神は愛されています。マリアのように神の愛と力を信じましょう。そしてやはりマリアのように神をあがめてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「進む主の救いの計画」  ルカによる福音書1:5~20(新約P99)  2019年12月8日 大竹敏生

 

先週から今年もアドベントに入っています。本日の聖書の箇所はルカによる福音書1章5節~20節です。このバプテスマのヨハネの誕生の予告の記事から主の偉大な愛の救いの計画を見てまいりましょう。

私たちを救うために神が与えて下さった救い主イエスキリストの誕生に関する聖書の箇所を読むと、私たちを救うために最善のかたちでお生まれになったことが感じられます。神の救いの計画は完全で絶妙だと感じられるのです。その計画の中に今日の聖書箇所に出てくる「バプテスマのヨハネの誕生」も含まれるのです。救い主と違ってバプテスマのヨハネは完全に人間でした。彼も救われなくてはならなかったのです。ただ、ヨハネは主の道備えを成すエリヤの役割を与えられていたのです。だからそのバプテスマのヨハネの誕生には神の力が大きく働いています。ヨハネの父と母として選ばれたのはザカリヤとエリサベト、二人とも祭司の家計であったようです。また何よりも6節にあるように、二人とも神の前に正しい人であり、非のうちどころがない人たちであったようです。こういう人たちがバプテスマのヨハネの両親だったのです。そして高齢だった二人からからヨハネは生まれました。つまり神の成せる業でした。そのことが後のイエス様を身ごもったマリヤの励みとなったのです。そしてバプテスマのヨハネが、イエス様の道備えの役割を立派につとめたことは聖書にしるされているとおりです。

このような神の完全な救いの計画の中に、驚くべきことですが人の個人的な祈りがありました。ザカリヤは子どもが欲しいと祈っていました。また祭司として香をたく役割も求めていたでしょう。神はそんな祈りを無視せず、救いの計画を確実に進められたのです。感謝をいたします。

神の愛による救いを感謝いたします。主を信じて歩んでまいりましょう。また神は祈りを無視しません。主の前に祈りつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が導く福音宣教」   使徒言行録8:1~8(新約P227)   2019年12月1日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は使徒言行録8章1節~8節です。この箇所から導かれ、主の導きによって福音を宣べ伝える者とされていきましょう。

今日の箇所は直前であのステファノの殉教の出来事が起こっています。そのステファノの殉教は、続いて他のキリスト者にも影響を与えていきました。多くのキリスト者が迫害によりエルサレムを追われて地方に散らされていきました。しかし散らされた人たちはそれを利用するように、福音を散らされた地で宣べ伝えたのです。福音はピンチにもかかわらずかえって前進したのです。

散らされたキリスト者はなぜそのようなことができたのでしょうか。1つはやはりステファノの殉教のことがあるでしょう。賜物豊かですばらしい人物で執事でもあったステファノですが、使徒だったわけではありません。散らされた人たちにとっても身近な人物だったと思われます。そんなステファノが最後まで福音を語りつつ殉教したことを思うとき「自分たちも宣べ伝えなくては」と考えたのではないでしょうか。

また私は祈りの結果ではないかとも思います。「迫害で散らされてもそれを利用して福音を宣べ伝える」という出来事は、何か「強さ」や「したたかさ」を感じさせます。しかし散らされた人たちはそんな強い人たちばかりではありません。むしろ弱い人が多数だったと思います。弱い人が困難な状況に陥った時は祈るでしょう。神の助け、導きを求めて祈ったはずなのです。そして示されたのは「宣べ伝える」ことだったのではないでしょうか。そこには約束がともないます。あなたがたを護るとの約束です。散らされた人たちは祈りの中でかつて主が命じたこと「福音を宣べ伝えよ」「神の国と神の国を第一に」などを思い出し宣べ伝えたのだと信じます。そして祈り合ったのだと思うのです。

私たちも祈りをもって、主の助けを受けて歩みましょう。これからも主に用いられる者として祈り合い歩んでまいりましょう。

 
 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が愛されたゆえに」  ヨハネによる福音書3:16~18(新約P167)  2019年11月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書3章16節~18節です。多くの人に愛されるこの有名な箇所から、神が私たちを愛するゆえに架かられた十字架を覚え、神を信じて救われて歩む者とされていきましょう。

キリスト教は「愛の宗教」と言われます。その意味は「神が私たちを愛した」ということです。16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあります。この「お与えになった」とは、具体的にはイエス様の十字架の死を指します。神は私たちのために、ご自身の子を犠牲としてくださったのです。それは、イエス様の十字架以外に、私たちの救いは無いからです。私たちを愛するお方は、すべての人間、誰一人滅んで欲しくなかったのです。それほどに愛してくださる神に感謝いたします。

私たちは誰一人罪の無い者はおりません。この罪は大変厄介な問題で、私たちを滅びに至らせます。神との関係を断絶させてしまったのです。そしてこの罪は私たちを落胆、絶望に至らせもします。罪の問題を解決してくださるのがイエス様の十字架です。イエス様を信じることで私たちは救いが与えられます。残念ながら罪が消えるわけではありませんが、罪から遠ざかることは、主の導きや助けによって可能です。主を信じて永遠の命を受け、神の嫌う罪から少しでも離れて歩みたいと思います。

私たちは神を信じなくてはなりません。罪が私たちに入ったことで、神と私たちの関係は断絶してしまいました。私たちは神を知らない状態になったのです。イエス様の十字架によって関係が改善されました。私たちは神を信じることで、その関係改善を確認できます。罪がある状況の私たちですが、罪が赦されているのです。神との関係改善を、主を信じることで確認しましょう。

罪を憎む神ですが、それ以上に罪人である私たちを愛してくださいました。その神の愛に感謝して、主を信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 

[メッセージ要約]

「これに聞け」    マタイによる福音書17:1~13(新約P32)  2019年11月17日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書17章1節~13節です。この有名な箇所から導かれ、いつも神に聞き、信じて歩むことを心がけましょう。

今日の聖書箇所はいわゆる「イエスの姿が変わる」「イエスの変貌」の箇所です。他の平行記事も合わせ見て、どうやら顔が輝き、服は真っ白くなったようです。その姿はまさに「栄光に満たされた」姿でした。ある意味でこれがイエス様の本来の姿で、その栄光は、罪のない真っ白なイエス様が十字架に架かって下さり、復活で死に打ち勝って完全になるのです。またモーセとエリヤが出てきます。ルカによる福音書の平行記事を見ると、彼らとイエス様はこの後起こるイエス様の十字架について語り合っていたようです。つまりイエス様の十字架は、旧約の時代から全く変わりなくつづく神のご遺志だったのです。これらを見たペトロは、何を言ってよいか分からず、そぐわないことを言っています。神の偉大なご意思に比べ、人間の弱さからくる無知が表されました。

ただそのとき光り輝く雲の中から声がかかります。その内容は、かつてイエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたときに聞こえてきた声とほぼ同じ内容でした。ただ最後に「これに聞け」と告げられたのです。この言葉の意味の1つは「従え」でしょう。私たちを愛し、私たちのために十字架に架かって下さった栄光の主に従うことが求められます。そしてもう1つは文字通り「聞く」ことであり、言い換えるならば「祈る」ことでしょう。主に祈り、主に従うことが私たちの務めなのです。

私たちはペトロと同じように、いやそれ以上に弱いのです。全知全能の主なる神に聞き従う必要があるのです。「先に来るはずのエリヤは?」という疑問にも主は答えられました。私たちも分からないこと、どうしたら良いか迷うことなど日々あります。日々主に聞きましょう。日々主に祈り求めましょう。神は「これに聞け」と言って下さっています。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主を呼び、主に叫べ」    詩編145:17~21(旧約P986)   2019年11月10日 大竹敏生

 

本日示された聖書の箇所は詩編145編17節~21節です。この箇所から導かれ、飾ることなく本心から祈ることを心がけてまいりましょう。

今日の聖書箇所が含まれる詩編145編は、ダビデによる神を讃美する詩です。そしてこの17節~21節は祈りについて記されているようです。まず18節に出てくる「呼ぶ」という言葉に注目しましょう。「呼ぶ」という行為を祈りとして見ると、基本的な祈りと考えられます。小さな子どもは、どうしたらよいか分からない状況になると、親など大人を呼びます。どうしてよいか分からず「これをこうして」などと言えなくても、力ある大人を呼ぶことができるのです。人間には罪があり、実は弱いのです。私たちでもどうしてよいか分からないことがあります。でも祈りがあります。主を呼ぶことができるのです。

次に19節の「叫び」という言葉を考えましょう。これも祈りです。同じダビデの詩編142編などでも「叫び」の祈りが推奨されています。「叫ぶ」という行為は、飾ることのできていない本心から出てくることです。弱い私たちは主の助けが必要です。それもときに飾ることができないほど追い込まれてしまうこともあるのです。そんなとき叫びたくなることもあるでしょう。叫ばざるおえないこともあると思います。イエス様もゲッセマネで叫ぶような祈りをなさいました。本当に叫ばなくても、心で叫ぶように祈ることもよいのではないでしょうか。

ダビデは波乱万丈の歩みをしていました。信仰あついビデは、困ったとき、どうしてよいか分からないとき、命の危険が迫るとき、主を呼び、主に叫ぶように祈ったことでしょう。そして主はその祈りを聞いて彼を助けたのです。私たちもダビデのように主を信じましょう。そしてこの詩編にあるように主を呼び、主に声を出さなくても叫ぶように祈りましょう。そんな心からの祈りを主は必ず聞いてくださるのです。感謝をいたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らも義の栄冠を」   テモテへの手紙Ⅱ4:6~8(新約P394)  2019年11月3日 大竹敏生

 

本日は召天者記念礼拝です。示された聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅱ4章6節~8節です。この箇所から学び、先に召された方々に続いて「義の栄冠」を受け継いでいくことを心がけてまいりましょう。

この「テモテへの手紙Ⅱ」は、パウロが殉教の死を遂げる直前に愛する弟子テモテに書いた、パウロの最後の手紙とも言われています。つまり遺言のような手紙なのです。内容的にも今日の聖書箇所などがそれを表しています。つまりまだ死んではいませんが、間もなく召されるパウロが、これからもしばらくこの世で歩むテモテに書いた手紙です。召された方々が私たちに言いたいことが、この手紙に記されているように思えるのです。

7節に記されている内容はどういうことでしょうか。それは最後の「信仰を守り抜きました。」という言葉につきます。確かにパウロは主のために誰にもまして働きました。しかしパウロはそんな自分の働きによる成果ではなく、信仰を守り抜いたことを誇りとしています。7節の行為による報酬は8節にある「義の栄冠」です。その「義の栄冠」も働きによる成果などではなく、信仰を守り抜いたからこそ与えられると言うのです。すでに召されたパウロの考えは今も全く変わっていないはずです。そして私たちが知っている先に召された方々と共に「信仰を守り抜け」と私たちを今も励まして下さっているのです。

ただ「守る」という言葉からのイメージは「耐える」とか「忍耐」を思い浮かべます。この世の歩みは確かに「忍耐」も必要なのです。でもパウロはこの遺言とも言うべき手紙で言いたいのは、もっとアクティブなものでしょう。

私たちに与えられる「義の栄冠」を得るには確かに「忍耐」も必要です。でも私たちに召された後の「住まい」が約束されていることは、私たちにとってもっと大きな喜びです。そしてそれが私たちの信仰生活を喜びに導いてくださるのです。主のためにこれからも働き、「義の栄冠」目指して歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「思い煩いを神に」   ペトロの手紙Ⅰ5:6~11(新約P434)  2019年10月27日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰ5章6節~11節です。この箇所から学び、思い煩いを主にゆだねて歩む者とされてまいりましょう。

いわゆる「心」や「精神」などについては最近やっと知られてきました。「心」や「精神」の病気は現代病とも言われています。しかし聖書には「思い悩み」とか「思い煩い」などの言葉があります。これらは決して新しい病気ではなく、罪ある人間がいつも抱えている問題なのです。

聖書では「思い悩むな」「思い煩うな」とあります。でも人間には罪があり、実際それは無理なのです。では「思い悩むな」「思い煩うな」は無理な要求をされているのでしょうか。まず押さえておきたいことは、これは「何も考えないでいこう」ということではないということです。ただ深刻になりすぎて、思うことが非建設的な状況になることを避けるべきだということだと思います。そしてまた「思い悩む」「思い煩う」状況がつづくことを避けなさいということではないでしょうか、私たちはどれだけ悩んでも、どれだけ考えても限界があります。思い悩んだり、思い煩ったりして信仰や日々の歩みに支障をきたすことはできるだけ避けて歩みましょう。

それでも人間は思い悩みます。思い煩います。どうしたら良いでしょうか。今日の聖書箇所の7節に「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」とあります。またパウロはフィリピの信徒への手紙4章6節でほぼ同じことを記しています。ペトロもパウロも思い悩み、思い煩ったのです。そしてそれを神にお任せして信仰を全うしたのです。私たちもそれにならって歩みましょう。

「思い悩み」「思い煩い」は私たちの手に余るから起こるのです。全知全能で、私たちを愛しておられる神にお任せすることが何よりも大切なことです。神にお任せするのに何が必要でしょうか。それは祈りでしょう。私たちは日々祈り、少しでも「思い悩み」「思い煩い」から離れていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りによって、行こう」 マルコによる福音書14:32~42(新約P92)  2019年10月13日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマルコによる福音書14章32節~42節です。この有名な「ゲッセマネの祈り」の記事から導きを受け、祈りによって主に従う者とされてまいりましょう。

「ゲッセマネの祈り」は主イエス様の祈りです。ただそのイエス様の祈りはきかれなかったとも言えるのです。イエス様は36節で「この杯をわたしから取りのけてください。」と祈ります。ここで言う杯は十字架です。イエス様は神の子ですから罪が無く、罪を憎む者です。だから最も大きな罪を犯した者が架かる十字架は、私たちの想像を絶するほど嫌悪するものだったのです。ただイエス様はつづけて「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈りました。結局「わたしの願い」ではなく「神の御心」が行われることになり、イエス様は十字架に架かったのです。

今日の聖書箇所にありますが、イエス様にとって十字架は本当に嫌で、もだえ苦しむほどでした。イエス様はそれぐらい十字架に架かりたくなかったのです。でもイエス様は自分の思いではなく「神の御心」に従って十字架に架かって下さったのです。それによって私たちは救われました。「神の御心」のすばらしさに感謝します。

では、きかれなかったゲッセマネの祈りは無意味だったのでしょうか。そうではないと思います。祈りがあったからこそ、イエス様は神の御心に従えたのではないでしょうか。ゲッセマネで祈ったからこそ、あれほど嫌だった十字架に、私たちのために架かってくださることができたと信じます。

「神の御心」は時に私たちの願いと違うことがあります。でも信じる私たちは「神の御心」に従わなければなりません。これは困難なことでもあります。イエス様と同じように私たちも祈りましょう。祈りによって「神の御心」に従いましょう。「神の御心」は私たちのとっても最善なのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストの絶大な価値」 フィリピの信徒への手紙3:1~11(新約P364)  2019年10月6日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙3章1節~11節です。この箇所から導かれ、「主は絶大な価値」を持つと信じて歩んでまいりましょう。

今日の箇所の3節でパウロは「わたしたちはキリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」と主張します。そして肉に頼ることの空しさ、一方キリストのすばらしさを今日の箇所で記しています。パウロにとっての肉に関しては、実はヘブライ人の誰もがうらやむものでした。しかしパウロはそれらを7節と8節で「損失」と言い、やはり8節で「塵あくた」とすら語るのです。どうしてでしょうか。1つはパウロにとってこれらがキリストから自分を遠ざけていたと思っているのでしょう。「損失」としているところにそれがあらわれているようです。6節にあるように彼は迫害者でした。それほどにキリストと敵対していたのです。それはパウロの肉についてと無関係ではなかったのでしょう。

もう1つは8節にありますが「キリストがあまりにすばらしい」からです。すばらしさが圧倒的で他がかすんでしまうほどなのでしょう。ではこのすばらしさとは具体的に何なのでしょうか。いくつもありますが、まず救いに関してです。6節に「律法の義」とありますが、律法の行ないでは人は救われません。一方キリストの十字架は私たちを完全に救うのです。これ以外に救いはありません。イエスキリストの十字架は私たちを救う、すばらしく価値あるものなのです。罪ある私たちに救われる資格は、本当はありません。そんな私たちが救われるのは、神が私たちを愛しているからです。迫害者であったパウロも、裏切ったペトロも、イエスを見捨てた他の弟子たちも、一方的に主が愛して主が救ってくださったのです。そして同じように罪人の私たちも主が一方的に愛してくださっています。主は本当に素晴らしいお方なのです。感謝します。

主のすばらしさをいつもおぼえていきましょう。そのために必要なのが、日々の祈り、み言葉、賛美だと信じます。日々主と交わっていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の導きを求めて」   使徒言行録8:26~40(新約P228)  2019年9月29日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は使徒言行録8章26節~40節です。この箇所から、神の導きを求めて歩み、そこからさらに恵みを受けていきましょう。

この箇所には「フィリポ」という人が出てきます。「フィリポ」という名前の人物は12使徒の中にも出てきます。ただ本日の箇所に出てくるのは別人で使徒言行録6章に出てくるステファノたちと共に選ばれた7人の内の1人です。そして彼は「福音宣教者フィリポ」と呼ばれます。そう呼ばれるほど主に用いられたフィリポから学びましょう。

フィリポは迫害から逃れサマリアで福音を宣べ伝えました。その後、神に導かれてエルサレムからガザに下る道に来ました。そして主に示されて通りかかった馬車に近づいていきました。その馬車にはエチオピアの高官が乗っていて、イザヤ書を読んでいました。そしてちょうどそのとき読んでいたのは「苦難の僕」に関するところだったのです。イエスキリストに関して旧約聖書の中でも話しやすい箇所がありますが、この箇所はその中でも有数な箇所だと思います。神が導かれたとき、高官は理解できないながらも声に出して読んでいたのです。もしかすると分からないから声を出して読んでいたのかもしれません。高価な聖書を買い求め、分からなくても一生懸命読む高官を、神は放ってはおかれません。ちょうど良い時に神はフィリポを遣わしました。そして馬車の外から聖書を読む声を聞いたのです。急に現れたフィリポでしたが、聖書を理解したいと欲していた高官はフィリポを馬車に招きました。そしてそこからフィリポはイエスキリストについて話をして、結局高官はイエスキリストを信じ、バプテスマへと導かれたのです。主の備えた導きを感謝いたします。

私たちもフィリポのように神の導きを受けたいものです。神の導きは確かで完全です。そして導きを受けること自体が恵みなのです。日々祈り、み言葉によって導きを受けましょう。主の祝福は私たちにも注がれるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救いはなおさら」  ローマの信徒への手紙5:1~11(新約P279)  2019年9月22日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はローマの信徒への手紙5章1節~11節です。この箇所から、私たちを愛する神が、御子イエスキリストの十字架をとおして、信じる者を必ず救ってくださることを覚え、感謝してまいりましょう。

本日の聖書箇所から、まず「和解」という言葉を考えてみましょう。今日の聖書箇所の10節と11節に出てきています。「和解」とは敵であった者たちが、関係の回復をすることです。ここでは神と私たち人間の「和解」が記されています。つまり私たち人間と神は敵対関係にあり、関係は断絶していたのです。これは私たち人間に罪があるからであり、罪という性質が無く、罪を憎む神とは断絶されていたのです。罪があって神と断絶している私たちは永遠の死をまぬがれません。ただ8節にありますが、私たちを愛する神の御子イエスキリストが私たちの代わりに十字架で死んでくださったのです。このことによって神を信じる者は罪から解放され、救われるのです。これが神と私たちの「和解」なのです。ただ一方的に神の側からによる「和解」を感謝します。

もう一つ今日注目したい言葉は「なおさら」です。今日の箇所では9節と10節に出てきます。今日の聖書箇所の後にも出てきています。「なおさら」とは「さらにそうだ」「いっそう」「一段と」「ますます」のような意味です。今日の箇所から何が「なおさら」かというと、私たちの「救い」だということです。つまり私たちの救いは疑う余地がありません。それくらいイエスキリストの十字架の力は絶大なのです。この手紙の著者であるパウロは、他の手紙では自分を「罪人の頭」と記しています。現実にパウロはかつてイエスを憎み、最初の殉教者ステファノの殺害に関与し、多くのキリスト者を迫害していました。そんなパウロが「救いはなおさら」記すのです。救いは間違い無いのです。

主イエスは私たちを愛し、私たちのために十字架に架かって下さいました。神を信じましょう。それによる救いは完全で間違いないのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「日々新たにされて」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:16~18(新約P329)  2019年9月15日 大竹敏生

 

本日は「高齢者をおぼえる礼拝」で、聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節~18節です。ご高齢の方々を覚え、祝福を祈りつつ神のみ言葉から学びましょう。

本日の聖書箇所のコリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節に「外なる人」と「内なる人」という言葉が出てきます。この「外なる人」とは私たちの肉体のことです。一方「内なる人」とは私たちの精神や心や魂のような内面のことを指すのです。この16節を見ると「神をもってしても肉体の衰えはどうしようもない。ただ内面は何とかなる」というようにも読めます。もちろんそうではありません。神に不可能は無いのです。ここは「神にとっては内面がより大切なのだ」という意味でしょう。内面を大切にあつかってくださる神に感謝します。

18節に「見えないものに目を注ぎます。」とあります。このことに関しては若い人よりご高齢の方が得意です。若い人ほど「見えるもの」例えばその時の状況や自分の力などに目を奪われます。そして限界を感じるとパニックになったりします。ご高齢の方は経験などをとおして「見えないもの」を意識し易いのです。これはまさに「信仰」です。ご高齢の方こそ「信仰」をもって神と共に歩んでいることを意識できているのではないでしょうか。

私たちの「内なる人」は日々新たにされます。これは何を意味するでしょう。1つは「内なる人」は最新だということです。新品であり、最新なのです。2つ目として「内なる人」に新たな力が常に注がれるということです。私たちの内面には力が与え続けられるのです。そして3つ目として私たちの「内なる人」は日々神の取り扱いを受けているということです。私たちは日々神と共に歩み、神から力を受け、いつも新たにされていくのです。感謝します。

ご高齢の方々がいつまでも神の力でお元気であられるように祈ります。そしてその神の力は私たちにも生涯にわたって注がれるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「み言葉によって勝つ」   マタイによる福音書5:1~11(新約P4)  2019年9月1日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書4章1節~11節です。この箇所から、み言葉によってサタンの誘惑に勝利された主をおぼえ、私たちも神と神のみ言葉の力を信じて歩んでまいりましょう。

今日の聖書の箇所には、イエスキリストが荒野でサタンの誘惑を受けられたことが記されています。イエスキリストは神の子でありながら人間でした。従って私たちと同じようにサタンの誘惑を受けられたのです。聖書には3つの誘惑が記されています。「空腹のときに石をパンに変えること」「神が天使に命じて助けるから飛び降りてみろ」「私(サタン)を拝めば世界の全てを与える」とです。それに対してイエス様は1つ1つみ言葉によって誘惑に打ち勝ったのです。誘惑はこの3つだけではなかったかもしれません。でもどちらにしても主イエスキリストは、すべての誘惑にみ言葉をもって勝利したのです。

サタンの誘惑は厳しいものです。勝つのは困難です。しかし神の子であるならば間違いなくどんな方法でも勝てるのです。そんな方なのに、主はみ言葉で誘惑に勝利されたのです。どうしてなのか、そしてどんな意味があるのでしょうか。主はどんなやり方でも勝てますが、私たちはそうはいきません。私たちがサタンの誘惑に勝つには、主イエス様が模範に見せて下さったように、み言葉で勝つしかないのです。私たちに与えられている神のみ言葉、聖書によって誘惑に打ち勝ってまいりましょう。実はサタンに勝つことができるのは神しかおられません。聖書は神のみ言葉であり、言うなればそこに神の力が宿っています。罪があって弱い私たちは神のみ言葉をもって勝利していきましょう。

イエスキリストを誘惑したサタンは、残念ながら私たちも誘惑し、攻撃してきます。弱い私たちがその攻撃に勝つには、主イエス様が見せて下さったようにみ言葉で勝つしかないのです。日々聖書を読み、また主なる神に祈りつつ歩んでまいりましょう。必ず主は私たちを勝たせてくださるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が導いてくださる」   マタイによる福音書5:13~16(新約P6)   2019年8月25日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書5章13節~16節です。この箇所から、私たちを用いてくださる主をおぼえ、祈りつつ歩んでまいりましょう。

本日の箇所には「塩」と「光」が出てきます。私たちは「地の塩、世の光」として歩むように命じられています。そのために何が必要でしょうか。それを考えてみましょう。

「塩」と「光」どちらも重要なものです。そしていろいろな共通点があります。人は生きるのに塩が必要です。また塩は食物の味付けや保存にも用いられ、除菌などにも効果があると言われます。また光は私たちの意思伝達や、暗闇の中にあって迷っている者を導いたりできます。このように「塩」も「光」も私たちにとって大変重要なものなのです。

ただ「塩」と「光」どちらも加減を間違えてはならないものです。食物に塩を多く入れると塩辛くなりすぎます。また研究はいろいろあるようですが、塩分のとりすぎは身体に良くないと言われます。また海の近くなどでは錆びなどのものの傷みが早いと言われます。また光も強すぎてはまぶし過ぎて、逆に見えなくなってしまいます。どちらも加減が大切なのです。

また「塩」と「光」はどちらもその必要性が劇的には分かりにくい部分があります。塩分が少ない食物を食べ続けると塩が欲しくなります。保存のための塩はその働きは見えにくいのです。光も暗闇の中で必要性を強く感じます。塩も光もあって当然であり、無くなってその必要性に気づきます。

「塩」と「光」はいつも存在していなくてはならず、加減が大切です。いつもあって、ケースバイケースで加減しなくてはなりません。まして「地の塩、世の光」です。神の力が必要なのです。私たちがこの世にあって「地の塩、世の光」として歩むために神に頼らなくてはなりません。神に祈り、その時々にどうすべきかを導いていただき歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の導きを祈ろう」   使徒言行録27:21~38(新約P268)  2019年8月18日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は使徒言行録27章21節~38節です。この箇所から、祈りによって導きを受けることへの恵みをおぼえてまいりましょう。

本日の箇所は,パウロがローマ皇帝に上訴したため、ローマに向けて護送されていく途中の出来事です。パウロたち一行はクレタ島の「良い港」という場所から、冬を越すのに適している同じ島のフェニックスに行こうとしたのです。ただパウロは主の導きでしょうが、危険だと進言しました。でも隊長は船長らの意見でフェニックスに向かったのです。すると暴風に襲われ、流されてしまいました。暴風はつづき、彼らの助かる望みは消え失せようとしていました。

パウロの進言は聞き入れられず、神の導きは無視されました。しかし神は彼らを見捨てませんでした。さらに導きを与えたのです。神は導き続けてくださるのです。また神は約束されます。22節や34節で「命を失う者はない」と約束しました。じっさいそのとおりになったのです。神は導きとして、これから何が起こるかを知らせ、そしてこれからどうすれば良いかを教えてくださいます。そして見捨てず最後まで導き続けてくださるのです。そしてときに神の導きは確かな約束で、私たちを守ります。すばらしい神の導きを感謝します。

さて神の導きを受けたパウロはどうしたでしょうか。まず神の導きから何をすべきかを語ります。そして神の導きを語り続けています。またパウロは絶望する人たちを励ましています。「元気を出しなさい」と22節と25節で語っているのです。また絶望する人たちに、必要なこととして食事をするように勧めてもいます。パウロが絶望せず、神の導きを語り、励ましたりできるのはなぜでしょうか。25節でパウロは「わたしは神を信じています。」と語ります。パウロの揺るぎない信仰がそれをさせたのです。

私たちも神を信じて祈り、神の導きを受けましょう。それは私たちの恵みなのです。そして導きを受け、パウロのように用いられてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に望みをおくために」  ルカによる福音書6:46~49(新約P114)  2019年8月4日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書6章46節~49節です。この箇所から導かれ、祈りをもって、主なるイエスキリストに望みをおきつつ歩む者とされてまいりましょう。

この箇所では「信仰者としての行動」が問題とされています。神を信じる者は「主の言葉を聞いて、それを行なえ」と勧められているのです。そしてそれこそ「固い岩を掘り下げて、そこに土台を据えた家」のようだというのです。洪水が来てもその家は揺り動かないのです。土台は普段はその働きは見えません。もしもの時に力を発揮します。「主の言葉を聞いても行わない」と、そのもしもの時に困るのです。

私たち信仰者の歩みは継続されなくてはなりません。どんな状況においても神を信じ、神に従う必要があるのです。もしもの時や厳しい状況は、いつ私たちに来るかは分かりません。そんな時に備えていつも確かな神に望みをおいて歩んでまいりましょう。

では私たちがそんな信仰者としての正しい歩みをしていくために何が必要なのでしょうか。今日の聖書箇所の46節に「わたしを『主よ主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とあります。『主よ主よ』というのは祈りとも言えます。ただ、信仰を持つ者の祈りです。信じるお方の言うことを行わなくてはならないのです。正しく信仰者として祈り、神に従いつつ歩まなくてはなりません。そうするときに私たちは、確かな土台を据えて歩むことができます。全知全能で、私たちをこの上なく愛してくださる神に望みをおいて歩んでまいりましょう。

では私たちは確かなお方である主なる神に、望みをおいて歩むためにどうしたらよいのでしょうか。それはやはり祈りです。日々祈りつつ歩み、主への信仰、愛などを増して、主なる神に望みをおいて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救い主の愛」   ヨハネによる福音書4:16~26(新約P169)  2019年7月28日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書4章16節~26節で、有名な「サマリアの女の話」「スカルの女の話」などと呼ばれる個所です。この箇所から、神が一人一人を知っておられ、愛して救ってくださること学びましょう。

このヨハネによる福音書4章の42節までが1つの記事で、イエス様と、ユダヤ人と対立するサマリアの一人の女のやり取りが多く記されています。初めは「水」についてのやり取りでした。イエス様の言う「私が与える水」をサマリアの女が求めたところ、16節でイエス様はいきなり女に「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われたのです。まるで違う話になってしまったかのようです。しかし女は「わたしに夫はいません」と答えました。これはこのことがこの女性にとって大きな問題であったことを物語ります。イエス様はこのサマリアの女のすべてを知っておられました。それはこの女の他人には言えない、知られたくないことをイエス様が容認されていたことを意味します。イエス様はこの女性の罪を知り、赦してくださったのです。

この女性はイエス様に自分の罪や知られたくないことを言い当てられたことで、イエス様を「預言者」ではと考えました。さらになにか期待するように「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。」と語りました。するとイエス様は「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と宣言されました。それを聞いた女は皆に知らせに走ったのです。

イエス様はこのサマリアの女と同じように私たちのこともすべてご存じです。私たちもそれぞれ問題を抱えています。他人には言えないようなこともあるでしょう。そしてそれは私たちの罪に根ざしているのです。イエス様はそれをすべて知っておられるのです。そしてその罪を赦してくださるのです。

イエス様は21節で「婦人よ、わたしを信じなさい。」と語ります。私たちもイエス様を信じ、罪赦されて、救いを受けて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りをわたしは聞いた」   列王記下19:14~20(旧約P612)  2019年7月21日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の列王記下19章14節~20節です。この箇所のヒゼキヤ王の祈りから学び、私たちの祈りを聞いてくださる神に感謝し、ますます祈る者とされてまいりましょう。

アッシリア帝国は北イスラエル王国を含む多くの国を滅ぼしてきました。その強大なアッシリア帝国が南ユダ王国に迫ります。その時の南ユダ王国の王はヒゼキヤという人でした。ヒゼキヤは神を信じる王でした。アッシリア帝国の使者は「神が助けてくれると思っているのか」とヒゼキヤが信じる主なる神をも罵倒しました。ヒゼキヤの出来ることは神に祈ることでした。

ヒゼキヤは15節にあるように、まず神をほめたたえました。神を讃美したのです。神を信じ、神を愛していたヒゼキヤは神を讃美したのです。讃美も祈りです。ヒゼキヤは、自分の願いよりも先に神をほめたたえたのです。また16節では、ヒゼキヤは神に「ご覧ください」「聞いてください」と祈ります。すべてをご存じで知っておられる神にです。つまりこれはむしろヒゼキヤ自身のためにそうしているのでしょう。人は時にすべてを知っておられる神に叫ぶように祈る者なのです。そして19節でヒゼキヤは神に栄光を帰しています。すべての王国で「あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください。」と祈っているのです。

私たちもヒゼキヤと同じように祈りましょう。神を第一に神を讃美しましょう。またすべてをご存じの神に、すべてをありのままに祈りましょう。そうしないでいられないことが私たちにもあるのです。そして神に栄光を帰しましょう。神の喜びが私たちの喜びでもあるのです。

ヒゼキヤの祈りに対し、神は預言者イザヤをとおして語ります。その20節に「あなたがわたしにささげた祈りをわたしは聞いた。」とあります。そして私たちの祈りも神は聞いてくださるのです。聞いてくださる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りは大きな力」    ヤコブの手紙5:13~18(新約P426)  2019年7月14日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヤコブの手紙5章13節~18節です。この箇所から神への祈りの大きさ、すばらしさを学び、日々祈る者とされてまいりましょう。

このヤコブの手紙は信仰義認を強調するガラテヤの信徒への手紙とよく対比されます。ヤコブの手紙では「行ない」が大切と主張していると思える面があるからです。でもこの手紙は信仰を否定しているのではなく、むしろ信仰の中身を問うているのです。私たちは信仰者として歩むのです。だからこの手紙をとおして信仰者としてあるべき生き方を学ぶことができるのです。その手紙の最初と、この終わりのところで「祈り」について記されています。それは信仰者にとっては「祈り」がとても大切なものだと言えるのではないでしょうか。

本日の聖書箇所の13節は喜んでいる人は祈らなくてよいともとれそうです。でもそうではありません。賛美も祈りです。ここはむしろどんな状況でも祈るように勧めているのです。14節の「教会の長老を招いて」と16節の「正しい人の」というのは「特別な人が祈るべきだ」ということではありません。むしろすべての人が祈るべきであり、互いのために祈る必要があるのです。「正しい人」とは主を信じる者です。主を信じているのですから、祈りの力を信じなくてはなりません。神に不可能はありません。私たちは疑わないで信じて祈りましょう。17節~18節にあるように、神はエリヤの祈りによって驚くべき大きなことをしてくださったのです。ただ同時に覚えておかなくてはならないことがあります。信じる者は主を第一とします。それは祈りでもです。自分のこと以上に神のみ心を第一とするのです。最善を成してくださる神のみ心を第一とし、神に栄光を帰していきましょう。それが「信仰に基づく祈り」です。

祈りは、お願いだけではありません。賛美したり、聖書を読みましょう。そして神はどんなことでもできると、また神は最善を成してくださると信じて祈りましょう。これからも「信仰に基づいて」祈ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神に打ち明けなさい」  フィリピの信徒への手紙4:4~7(新約P366)  2019年7月7日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙4章4節~7節です。この箇所から導かれ、祈りをもって神に打ち明けて、神の平安を得てまいりましょう。

このフィリピの信徒への手紙が書かれた時代から、そしてイエス様が私たちのために救い主として十字架に架かって下さった時代から二千年近くが経っています。それだけ時が経てば現代の問題の前には効力が無いかのように思えます。しかし、主イエスは今も生きておられ、聖書は神の言葉です。そして人間は昔も今も罪があり弱いのです。昔も今も神により救われ、助けられなくてはならない存在なのです。今日に聖書箇所にありますように、弱い私たちは思い煩う者です。現代の多くの人たちは特に「思い煩い」「悩み」「不安」の只中にあります。この問題は私たちにとってかなり深刻な問題なのです。

「思い煩い」「悩み」「不安」などの問題は解決がなかなか困難です。例えば「気にしない」ことは解決に有効です。でも私たちは自分や家族など大切な者のために思い煩ったりするのです。従ってあっさり「気にしない」ことができないのが私たちです。私たちは知らない人のことでは悩まないのです。また解決が容易にできるのならば悩みません。自分では解決が困難なので悩むのです。私たちは「気にしない」ことができず、解決ができないから「思い煩い」「悩み」「不安」に陥るのです。

ではどうしたら良いのでしょうか。それは私たちにできないことをなしてくださる神さまに祈りをもって、6節にありますように打ち明けていくことです。愛の神は私たちが「気にしない」でいられないこともご存じです。また神に打ち明けることで与えられる「平和」「平安」は7節にあるように「あらゆる人知を超える」ものです。これは私たちが考えうる「平和」「平安」を超えるものなのです。どうしても思い煩う私たちはあらゆることを神に打ち明けていきましょう。与えられる「平和」「平安」を信じ、感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りのひろがり」  エフェソの信徒への手紙6:10~20(新約P359)  2019年6月30日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はエフェソの信徒への手紙6章10節~20節です。この箇所から学び、自分のことだけ祈るのではなく他者のことも祈ることを心がけ、そこから祈りが広がっていくことを覚えてまいりましょう。

聖書では他者のことを祈ることが勧められています。主は私たち一人一人を愛しています。私も愛されていますが、他者も愛されているのです。どちらも愛する神は、私たちが他の人のために祈ることを喜ばれるのです。祈りには限界がありません。どれだけ祈っても減ることはありません。他の人のためにどれだけ祈っても、神の恵みや祝福は減りません。まして無くなることもないのです。私たちが覚え合い、祈り合う、それは互いに愛し合うことにつながり、他の人のために祈ることは主を喜ばせるのです。

また「祈り」のすばらしいところはノンクリスチャンにも受け入れやすいところです。クリスチャンはもちろん、ノンクリスチャンの方も「あなたのために祈ります」と言われたら喜ばれることが多くあります。祈りは伝道や証しになるのです。積極的に祈りたいものです。

聖書では「他者のための祈り」が推奨されています。今日の聖書の箇所の18節にも「すべての聖なる者たち」のために祈るように記されています。つまり私たちは「知らない人たち」のためにも祈ることがときに求められているのです。私たちも「よく知らない」あるいは「知らない」人をも覚えて祈ってまいりましょう。また20節ではこの手紙の著者のパウロが「自分たちのためにも」祈ってほしいと記しています。祈りに上下は神と私たちにしかありません。パウロにとってエフェソの教会の人たちは弟子のようなものです。つまり「パウロ>エフェソの教会の人」なのです。しかし祈りに関しては共に祈り合うのです。私たちは祈られています。そして私たちはまた祈ります。祈りは神を中心にどんどん広がるのです。私たちも祈りの広がりを担ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「御心にかなうことを」   ヨハネの手紙Ⅰ5:13~15(新約P447)   2019年6月23日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネの手紙Ⅰ5章13節~15節です。この箇所から私たちの祈りをきいてくださる愛の神をおぼえてまいりましょう。

本日の聖書箇所の14節に「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」とあります。一見「神は私たちの願いは関係なく、神の思うようにしかならない」と言っているように思う言葉です。それにしては14節後半から15節にかけて読むと感じられるのは「祈りはきかれる」という強い確信です。私たちは「神の御心」を小さくとらえてはいないでしょうか。神は私たちを愛しておられます。私たち人間でも、ときに自分以上に愛する存在のために行動します。まして愛の神は私たちを愛しています。私たちの願うことを無視せず、祈りを聞いてくださるのです。

ただ私たちは神を最優先しなくてはなりません。それが信仰者の姿勢として求められているのです。祈りも神優先であるべきなのです。そして神は私たちにとって最善を成してくださいます。罪ある私たちです。私たちの願うことが、実は善くない場合があります。そんな時は祈りはきかれないこともあるでしょう。そちらの方が私たちにとっても善いのです。「神の御心に適う」という言葉はそういうことをすべて含めた上での言葉なのです。

では私たちは、祈りについてどのように考えていけば良いのでしょうか。15節に「神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」と記されています。私たちは「祈りはかなえられる」と信じて歩む必要があります。ときに私たちの願ったとおりにいかないこともあります。それなのに信じるのでしょうか。私たちは祈るとき「願ったようになる。あるいはそれ以上に祝福されたことが起こる」と信じて歩むことが大切なのです。それが「神の御心に適う」という言葉にあらわれているのです。安心して祈りましょう。愛の神は私たちにとって最善のかたちで祈りをかなえてくださいます。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「失望せずに祈る」   ルカによる福音書18:1~8(新約P143)  2019年6月16日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書18章1節~8節です。この箇所から学び、失望せずに祈り続ける者とされていきましょう。

祈りについて1節に「気を落とさずに」とあります。別の訳では「失望せずに」と訳されている言葉です。私たちは「失望せず」「気を落とさず」祈り続ける必要があるのです。私たちは神に祈るのです。つまり祈りは神が聞かれるのです。神が相手なのですから「失望」はないはずなのです。ただ問題なのは私たちがそれを忘れてしまうことです。祈っていてもいつのまにか失望したり、気落ちしていたりするのです。しかし「失望」ないのですから、失望したり気落ちしたりして祈れなくなるのは避けなくてはならないことなのです。

では「失望せず」「気を落とさず」祈り続けるためにどうしたら良いのでしょうか。今日の聖書箇所に登場するやもめから見ていきましょう。まずやもめは裁判官に頼み続けています。やもめは失望していないから頼み続けたのかもしれません。でもその頼み続けたことが失望しない理由の一つだったのではないでしょうか。私たちは失望しないために祈り続けることが大切です。またやもめは夫はいなくて、やもめ自身も弱く、裁判官しか頼っていません。それが失望しなかった理由ではないでしょうか。人は頼みとするものが、自分を含めていくつかあります。しかしそれらは完全ではありません。本当に頼るべき方は全知全能の神なのです。本当に頼るべき方に祈り続けることが、失望せずに祈り続けることにつながるのです。またやもめに学ぶべきことは、このやもめは裁判官を疑っていないことです。「必ず自分にとって善い裁判をしてくれる」と信じていたようです。やもめのように私たちも主にのみ祈り続け、主のなさることは最善なのだと信じて祈り続けましょう。

私たちが祈るお方は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」ではなく、力と愛の神です。全知全能で私たちを愛してくださる神に祈り続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたの罪は赦される」   マルコによる福音書2:1~12(新約P63)  2019年6月9日 大竹敏生

 

本日は「子ども祝福礼拝」で聖書箇所はマルコによる福音書2章1節~12節です。この箇所から、罪を赦してくださる愛の神をおぼえましょう。

ここでは、中風の者の友人たちがイエス様のもとに「友人を癒やしていただこう」と連れてきた様子が記されています。たくさんの人だかりでイエス様のおられる家に入れず、屋根をはがしてイエス様のもとに中風の者を下ろしています。その行為にイエス様は「あなたの罪は赦される」と言われたのです。この言葉は驚きです。彼らは「癒やし」を求めていました。しかし主は「罪の赦し」を宣言したのです。そこにいた律法学者は心の中で「イエスは神を冒涜している」と思いました。主はそれを見抜いておられ「罪の赦し」と「癒やし」はどちらが易しいかと問われました。そしてご自身の権威を証明するために、その後中風の者を癒したのです。

「罪の赦し」と「癒やし」はどちらもイエスキリストでなければできないことです。ただ主は先に「罪の赦し」を宣言しました。主にとってこれが何よりも大切なことだったのです。「罪の赦し」はその人に信仰がなくてはなりません。どこに信仰があったのでしょう。今から2000年前の家ですし、雨量も日本により少ないので、家の屋根もそれほど頑丈ではなかったでしょう。とはいえやはりかなりの重労働だったでしょう。でも彼らは友人のためにそれを厭わずそこまでしたのです。そしてその中風の者も友人たちにすべて任せていました。そこに彼らのイエス様に対する信仰があったのです。

イエス様にとって「罪の赦し」は何よりも大切なことでした。また私たちにとっても「罪の赦し」は最高の恵みなのです。私たちを愛し、私たちの罪を赦し、私たちを救う神に感謝いたします。また祈りに応え、私たちを癒してくださる神に感謝いたします。私たちはこれからも「罪の赦し」と「癒やし」をいただくために主イエスキリストを信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「約束された聖霊により」   使徒言行録1:3~11(新約P213)  2019年6月2日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は使徒言行録1章3節~11節です。この箇所から、約束どおり与えられた聖霊により歩むことができる恵みをおぼえましょう。

イエスキリストが私たちのために十字架に架かってくださり、死からよみがえられた後、天に昇っていかれました。今日の箇所にそのことが記されています。ここが最初ではないのですが、主はこの時も天に昇っていかれる主イエスキリストの代わりに聖霊が与えられると約束されています。そしてそれはこの後すぐに実現したのです。その様子は2章に記されています。その聖霊は今も私たちを助け、導いてくださっておられることを感謝いたします。

聖霊は、父なる神と子なるイエスキリストと共に三位一体の神です。でも私はかつて聖霊は父なる神やイエスキリストと何か違うような印象をもちました。聖書を読むと、父なる神は人に語ります。時に怒ります。感情があるように思えます。またイエスキリストは人間として歩まれました。喜ばれたり、悲しまれたり、また怒りをあらわにされたりもしました。「イエス様は感情が豊かであられた」と語られたメッセージを聞いたこともあります。では聖霊はどうでしょうか。聖書からのイメージでは、聖霊は語ることも無く、淡々といつのまにか仕事をしているような感じで、何か機械的に感じていたのです。

でも実際はそうではありません。主イエスキリストの代わりに来られた方です。私たちのことをすべてご存じで、私たちの感情を無視されません。人の喜びや悲しみに寄り添ってすべての必要に応えてくださるのです。使徒のペトロやパウロが悩む時、共にいて励まし助けてくださったのです。またその力は使徒言行録に出てきますが、正に神の力です。人にはできないことをされています。聖霊は大いなる力と愛をもって弱い使徒たちと歩まれたのです。

聖霊は今も使徒たち以上に弱い私たちに寄り添い、大いなる力と愛をもって導いてくださいます。助け主なる聖霊と共にこれからも歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「一人も滅びないで」   ヨハネによる福音書3:14~18(新約P167)   2019年5月26日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書3章14節~18節です。この箇所から、私たちの救いを切に願う神の愛を学びましょう。

本日の聖書箇所の16節は特に有名で重要な箇所です。「聖書全体に記されていることが、この節のまとめられている」と言ってもよいほどです。イエスキリストは救い主です。私たちに「救い」を与えて下さるのです。この神がくださる「救い」ですが、神はどのような思いで私たちに下さるのでしょうか。神にとって「本当はあげたくない」のでしょうか。また「ご褒美のように得る資格のある者には上げたい」と思っているのでしょうか。また「欲しければどうぞ」なのでしょうか。どれも違うと思います。

今日のメッセージの題にもしましたが、16節に「一人も滅びないで」とあります。ここに神の思いがあらわれています。私たちには罪があり、その罪によって私たちは「滅びる者」なのです。私たちの力では、どんなに努力しても、頑張っても救われることはありません。私たちが救われるためには、罪が無いのにその私たちの罪を負って、私たちの代わりに十字架に架かって下さったイエスキリストを信じるしかないのです。イエス様にとって十字架は、本当は耐え難い苦しみでした。人として、そして神の子として想像を絶する苦しみだったのです。しかし私たちを愛する主イエスキリストは、私たちを救うために十字架に架かって下さったのです。神はこのように成し遂げて下さった「救い」を全ての人に受けてほしいと考えておられます。「特別な人」や「欲しい人」にあげたいのではなく、「すべての人」が滅びから救われてほしいと、切に願っておられるのです。

私たちが救われるためには、今日の聖書箇所にも15節、16節、18節にありますが「信じる」ことによってなのです。私たちのために十字架に架かって下さった主を信じましょう。それが主ご自身の切に願うことなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らの祈りにも」   使徒言行録12:1~17(新約P236)   2019年5月19日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は使徒言行録12章1節~17節です。この箇所から、神は弱い私たちの祈りを聞いてくださるということをおぼえましょう。

この時代、クリスチャンの多くが迫害を受けていました。この箇所にも迫害の様子が記されています。残虐なヘロデ王は使徒ヤコブを殺害しました。それがユダヤ人に喜ばれると、次に使徒ペトロを捕らえたのです。しかしペトロは神によって救い出されました。そのことが記されています。

捕らえられたペトロのために、教会の人たちは祈っていました。しかしペトロが神に助けられて、祈っている皆のところに行っても彼らは信じられませんでした。これはある意味「不信仰」だと言えます。しかし神はそんな不完全な信仰の祈りに応えられたのです。感謝します。

ただこのことから別のことも分かります。それは「彼らがいつも祈っていた」ということです。彼らがその時初めて祈ったのなら「祈りの効果」に期待するでしょう。しかし彼らにそういう様子はありません。迫害の中にある当時のクリスチャンは、問題があるごとに祈っていたのでしょう。彼らにできたのは、祈ること位だったのかもしれません。そういう祈りに神は応えられたのです。

また12節によると彼らは集まって祈っていました。集まって祈るということは、皆が心を合わせて祈ったということでしょう。マタイによる福音書18章19節に「心を一つにして祈る」ことが勧められています。そういう祈りを主は喜び、応えられたのです。

主は不完全な信仰の祈り、特別でないいつもの祈り、共に集っての心を合わせての祈りに応えられました。これは私たちにもできることではないでしょうか。私たちも弱く不信仰な者です。祈ることしかできない者です。でもそんな私たちの祈りにも主は応えてくださり、大いなる力を発揮してくださるのです。共に祈り続けましょう。私たちは弱くても主は強いのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「福音のために」  コリントの信徒への手紙Ⅰ9:19~23(新約P311)  2019年5月12日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ9章19節~23節です。この箇所から学び「福音のために」歩む者とされてまいりましょう。

この手紙を書いたパウロは、迫害を受けたりして、厳しい歩みをしていました。そんなパウロは「福音のためにどんなことでも」すると記しています。「そういう気概をもつ」ことは必要でしょう。そしてある時は驚くようなことをしなくてはならないこともあるかもしれないのです。ただこれは「福音のためにはモラルや法律をも無視する」ことを勧めているというより、パウロは自分を自由にしてくださった主のために、主を第一に、福音のために歩むことを勧めているのだと思います。自分のためにではなく、主の福音のために歩むことをパウロは使徒として心がけ、コリントの教会の人たち、そして私たちにも勧めているのではないでしょうか。

また「どんなことでも」というのは「出来うる限りのことを」という意味があるのではないでしょうか。「主のために」「福音のために」といったとき、直接的なこともあれば、間接的、さらに意外とも感じることもするというような場合もありえるのです。「福音のためならこんなこともする」という感じです。たとえば「祈り」は「伝道」には不可欠なのですが、直接的とは言えないかもしれません。でも「伝道」のために「祈り」は必要なのです。

私たちの教会ではこのところ「伝道」や「成長」を大切にしてきています。私たちはこれらのことのためにいろいろなことをしてきました。そしてこれからも直接的なこと、また間接的なこと、さらにこんなことまでと思うようなことでも、出来ることをしていきましょう。直接的ではないかもしれませんが「祈り」「聖書」「讃美」など日々の神との交わりを大切にしていきましょう。そこから私たちは養われ、「福音のために」歩む者へとさせられるのです。そして私たちもパウロのように「福音に共にあずかる者」とされることを感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「静かにささやく声」   列王記上19:1~18(旧約P565)  2019年5月5日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の列王記上19章1節~18節です。この箇所から祈りに応え、どんな状況にあっても導いてくださる主をおぼえましょう。

この箇所は預言者エリヤが、カルメル山にてバアルの預言者450人とアシュラの預言者400人を相手に1人で勝利した記事の後に記されています。バアルとアシュラの預言者たちに圧勝したエリヤでしたが、今日の箇所では恐れて逃げ出す弱いエリヤが記されています。エリヤは南に向かって逃げ、ベエル・シェバまで来て、そこに従者を残してさらに逃げました。そこで神に「命を取って下さい」というほど落ち込んでいました。そこから御使いに導かれて神の山ホレブまで来ました。このホレブ山で神はエリヤを導かれたのです。

神はエリヤに声をかけ、エリヤが神に愚痴のようなことを言う。そんなやり取りの中で主は「山の中で主の前に立ちなさい」と声をかけられました。そのとき主が通り過ぎて行かれ、山を裂き、岩を砕くほどの激しい風が起こりました。しかしその中に主はおられませんでした。またその後、地震そして火が起きました。しかしそれらの中にも主はおられなかったと記されています。そして火の後、エリヤは「静かにささやく声」を聞いたのです。その後、神とエリヤはやりとりをします。このやりとですが、風と地震と火の前のやりとりと言葉は同じでした。しかしその後の神の言葉は弱さをさらけ出したエリヤを励まし、導くものでした。そこに神の愛と力を見ることができます。

エリヤは、風や地震、火の強さの中に神を見出せませんでした。しかし弱いエリヤに合わせるような「静かにささやく声」を聞くことができたのです。このときのエリヤは「静かにささやく声」にしか神を見る(聞く)ことができなかったのです。私たちも弱い者です。置かれている状況によって、ときに神を見出すことができなくなります。しかし神はエリヤにそうだったように、私たちにも最善な方法で導いてくださいます。祈って神の声を聞き続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたのために祈った」 ルカによる福音書22:31~34(新約P154)   2019年4月28日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書22章31節~34節です。この箇所から祈りのすばらしさを学び、おぼえてまいりましょう。

この箇所はペトロが3度「主を知らない」と言うことを主イエスが予告された箇所です。ここで主はそんなペトロのために祈りました。その祈りから分かることがあります。それはイエス様にとって「人が主を信じること」そして「信じ続けること」それが大切であり、主が強く願っているということです。一方ペトロにとって、自分が「主を知らない」と言うことはあり得ないことで「ご一緒なら死んでも」とペトロは言いました。しかし主の言われた通りになったのです。ペトロにとっては「自ら死を」とか「自棄になり信仰を捨てる」となってもおかしくないことでした。でもペトロは主から離れなかったのです。主は「ペトロの信仰が無くならないように」祈られました。その祈りにより、今にも消えてそうだったペトロの信仰は、かろうじて踏みとどまったのです。

また主の言葉で知らされることがあります。それは祈りのすばらしさです。ペトロの信仰は今にも消えそうだったのです。しかし信仰は無くなりませんでした。イエス様はペトロが3度「主を知らない」と言うことが分かっておられました。またその結果ペトロがどんな思いにかられるかも、どんな状況に陥るかもすべて知っておられました。知っていたにもかかわらず主は「祈り」がかなえられ、ペトロが立ち直ると信じていたのです。ペトロに「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と告げています。祈りがかなえられると確信し、その後のことを指示しているのです。祈りのすばらしさに感謝します。

ペトロのために祈り、ペトロや他の弟子たちを信じた主は、私たちのためにも祈り、信頼してくださるのです。感謝して信頼に応えましょう。信仰を保ちつづけましょう。そして私たちのつたない祈りにも力があります。祈りは神の力を引き出します。祈りつつ主の喜ばれる者として歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活はわたしにも」 コリントの信徒への手紙Ⅰ15:1~11(新約P320)   2019年4月21日 大竹敏生

 

本日は今年のイースターです。主の復活を感謝いたします。今年のイースターに導かれた聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ15章1節~11節です。この箇所から恵みの復活をおぼえてまいりましょう。

主の復活から、私たちは死に打ち勝つ主の力を思います。このことはおざなりになってはなりません。今年もイースターに、死に勝利してよみがえられたイエス様をおぼえましょう。ただ私たちは、主の復活から力だけではなく、神の愛を感じていく必要があります。コリントの信徒への手紙Ⅰの15章は、全体が「復活」について記されています。今日の箇所はその最初のところです。1節に「福音」について記すとあり、そしてそれが「復活」についてと展開していくのです。「福音」は「復活」と密接な関係があるといえるでしょう。「福音」は神の愛によって私たちにもたらされたものです。主は私たちを愛するがゆえに、私たちのために復活してくださったのです。

4節以降に、主が復活されていろいろな人に現れてくださったことが記されています。そして8節にはこの手紙の著者のパウロにも現れてくださったと記されています。ペトロたちに現れたのは、主が天に昇る前のことでした。パウロにはその後です。しかしパウロは自分を「月足らずで生まれたような」と記していますが、主が現れてくださったのはペトロたちと自分に、何もかわりがないと語っているようです。復活された主が現れたのは、ペトロたちとパウロに何の違いもなく、どちらも一方的に神の愛ゆえなのです。

パウロはペトロたちとかわりないと強調し、復活された主がパウロを用いて働いていると記しています。パウロに現れた復活の主は、私たちにも現れてくださいます。そして復活された主は今も生きておられ、私たちを用いて働いてくださるのです。復活された愛と力の主は、その愛と力をもって私たちにも現れ、私たちを用いて働いてくださいます。復活された主に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「御心のままに十字架へ」 マルコによる福音書15:32~42(新約P92)  2019年4月14日 大竹敏生

 

来週の主日が今年イースターです。従って本日は「棕梠の主日」で、今日から受難週となります。主の十字架を覚えて歩みましょう。本日の聖書箇所はマルコによる福音書14章32節~42節です。主が十字架に架かる前にゲッセマネで祈った出来事から学んでまいりましょう。

このゲッセマネの出来事から思わされるのは「イエス様は十字架に架かるのをこんなにも嫌がっていたのか」ということです。イエス様はどうしてこんなにも十字架に架かりたくなかったのでしょうか。人間的な理由ならば「死にたくない」「恥をかきたくない」「苦痛は嫌だ」などでしょう。しかし主の十字架への嫌悪の理由はそういうものではなく、主ならではのものであったと思われます。神の子であり、罪のないイエス様が、神に対して最も重い罪を犯した者が架かる十字架、神の呪いの十字架に架かるのは想像を絶する苦しみであったと思います。主の苦しみあえぐ思いがゲッセマネでの祈りになったのです。

しかしイエス様はそんな中でも「わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ります。そして神の御心が実現したのです。それは「イエス様が十字架に架かる」ことでした。そしてその神の御心の十字架により、主を信じる私たちは救われることになったのです。

イエス様はゲッセマネで十字架を嫌がっていたのですが、その後は十字架に向かうときも、十字架上でもそういう様子はありませんでした。そのイエス様を見て、一緒に十字架にかけられていた犯罪人が改心し、百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。ゲッセマネでのイエス様は何だったのかと思うほどです。主イエス様の御心への信頼、神を第一にとの思いが見えます。そして祈りの力でしょう。祈りによって神への信頼をますます強くすることができるのです。私たちも主に倣って祈りつつ歩みましょう。神の御心を求めましょう。その偉大な御心の十字架によって救われたのですから。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りによって」   ローマの信徒への手紙12:9~21(新約P292)  2019年4月7日 大竹敏生

 

本日は2019年度最初の主日礼拝です。今年度の主題は「希望をもって祈る」主題聖句は「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。(ローマの信徒への手紙12:12)」です。本日はその箇所を含むローマの信徒への手紙12章9節~21節から導かれたいと思います。

今日の聖書箇所には「キリスト者はどうあるべきか」というような内容が、箇条書きのようにたくさん記されています。12節もそうです。まず「希望」と「喜び」という言葉が出てきます。どちらも聖書では重要な言葉です。ただ聖書ではこの世的なものと少し違う意味がある言葉です。まず「希望」はこの世的には、はかなさを感じます。しかし聖書では「あざむくことがない」「失望に終わることのない」ものです。また「喜び」はこの世的には、結果として得るものですが、聖書では「いつも」すべきことであり、ここでも「希望をもって喜ぶ」とあるのです。また「苦難を耐え忍ぶ」とあります。当時主を信じることは大きな苦難を伴いました。多くの殉教者を出した時代です。迫害の中にある人たちに向けての言葉でもあるのです。

この箇所でいう「希望」「喜び」「忍耐」は人の力ではどうしようもありません。神無しには無理なのです。神を信じ愛するがゆえに「希望」「喜び」「忍耐」ができます。神を信じなければ「希望」は、はかなくなり「喜び」は結果としてしかできなくなります。また愛するお方のために「忍耐」できるのです。人間は、神を信じ愛するそのために「たゆまず祈る」必要があるのです。

さて、このことは私たちも同じです。私たちも神を信じて「希望をもって喜ぶ」必要があります。またこの手紙が記された時代のような「迫害」は、今はありません。ただキリスト者として歩む中で、困難や苦しむことはあります。それに耐えるためにも主を愛しましょう。そのために私たちには「祈り」があります。今年度も「希望をもって祈る」歩みを心がけてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「霊は生かします」   コリントの信徒への手紙Ⅱ3:4~6(新約P328)   2019年3月31日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ3章4節~6節です。この箇所の特に6節を中心に、2018年度最後の主日礼拝を導かれたいと思います。

この箇所の6節に「文字は殺しますが、霊は生かします。」とあります。「文字」とは前後の文脈で考えると「律法」であると分かります。また「霊」は神の霊すなわち聖霊と言うことができます。イエス様は「律法」の教えの本質は「愛」だと教えてくださいました。それを理解していなかったこともあるのですが、結局私たちは律法の行ないでは救われないことが分かります。律法は私たちに「このままでは滅ぶ」ことを教えるのです。私たちは神を信じることで「霊」によって義とされるのです。また「文字」は生きていません。私たちの弱さ故、私たちを間違った方向に向けることすらあります。しかし「霊」は生きておられ、愛する私たちの生き方を神の喜ぶものにしてくださるのです。

私たちはクリスチャンとして成長させられる必要があります。その成長は神によってなされるのです。世の一般的な意味での成長は、大人や親の導きで独り立ちしていくという面があります。しかし私たちキリスト者としての成長は神から離れてはできないのです。木の枝が幹につながっているから成長し、実を結ぶように、私たちは「霊」から離れず、「霊」によって生かされ、成長するのです。また私たちの成長はゴールが、この世に生きている間はありません。生きている限り神に向かって成長していくのです。この世での歩みを続けていく間「霊」によって生かされていきましょう。私たちもいつかこの世での歩みを終えます。その時まで私たちの成長は続くのです。

私たちはこれからも「霊」に生かされて歩みましょう。ただ「霊」は見えません。「霊」である神を信じなくてはならないのです。「霊」によって救われましょう。そして「霊」によって生かされ、成長をつづけましょう。そのためにこれからも「霊」である神と共にありつづけたいと思います。

 
 
 

[メッセージ要約]

「信じるべきお方」     詩編23:1~6(旧約P894)  2019年3月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の詩編23編1節~6節です。詩編の中でも最もよく知られているこの詩編から、信じるべきお方を信じて歩む者とされるように導かれてまいりましょう。

まず注目したいのはこの詩編が「わたし」という一人称単数で語られていることです。これは著者ダビデが自分中心だったとか、他の人について関心が無かったということではなく、弱い自分にとって「この方しかない」という思いが表れているのではないでしょうか。神はダビデ個人を知り、愛し、救われたのです。そして実は私たちも親しく神に知られ、愛され、信じる私たちを一人の子として救われるのです。私たちではなく「わたし」が救われるのです。

またダビデは自分を弱い羊に例えています。実は私たちは弱いのです。その弱さは私たちの罪から来るのです。この罪は私たちを神から断絶させ、私たちは滅びに至る者になっているのです。また罪の影響は私たちの行動を支配し、私たちがしたくないこと、罪の行為をさせるのです。ダビデもウリヤという人の妻を得たいと、策略を用いてウリヤを死に至らしめたりしたのです。罪はこのように恐ろしいもので、私たちはこれを解決する必要があるのです。

この詩編でダビデは、主が「わたし」の羊飼いだと記しています。羊は羊飼いを信じているから従えるのです。つまりダビデは主を信じているから、主を羊飼いと告白しているのです。羊飼いは羊のために時に生命さえ厭いません。私たちの主も私たち一人一人を愛し、私たちのために生命を捨てたのです。実は私たちの罪は「主を信じる」ことでしか解決できません。「主を信じる」ことでしか救われないのです。私たちの主は信じるに足るお方です。信じるべきお方です。私たちを愛し、私たちが信じて救われるのを望んでおられるのです。

「信じるべきお方」である主を信じて歩みましょう。信じることによって罪が赦されるのです。そして主と共に少しでも罪を犯さず歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神に仕える人」   テモテへの手紙Ⅱ3:10~17(新約P394)  2019年3月10日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅱの3章10節~17節です。この箇所から、神によって神に仕える人とされていきましょう。

パウロが刑死する直前に、書いた手紙とも言われるこの「テモテへの手紙Ⅱ」の中で、パウロは愛するテモテに向けて「主から離れてはならない」と勧めています。そしてテモテが幼いころから親しんできた聖書の大切さを説いています。15節で聖書は私たちを信仰を通して救いに導くことが記されています。16節には聖書が私たちを教え、戒め、誤りを正し、義に導くとあります。そして17節に「神に仕える人」という言葉が出てきます。「神に仕える人」は「どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられる」と約束されているのです。これは考えてみるとすごいことです。罪ある私たちは「善い業」を行うことができません。しかし「神に仕える人」は「どんな善い業」も行うことができるのです。これは人の力では無理なのです。神によって「神に仕える人」にさせられていく必要があるのです。そのために私たちには聖書、すなわち神のみ言葉があります。感謝いたします。

考えてみると聖書は私たちに大きな恵みや祝福を与えてくださいます。私たちを神に向かわせ「神に仕える人」にしてくださるのです。この手紙が書かれた時代は特に迫害が強い時代でした。そして12節には、キリスト者は必ず迫害を受けると記されています。しかし「神に仕える人」とされるとき、迫害を耐え抜くことができるのです。そしてできないはずの「善い業」を神のためにすることができるようになるのです。

この手紙を受け取ったテモテは決して強い人ではありませんでした。パウロはそんなテモテに「主から離れず、神に仕える人となれ」と勧めます。私たちもそうです。聖書をとおして神を愛し、神から離れず、神に仕える人となりましょう。私たちがどんなに弱くても導いてくださる主なる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛を信じて歩む」  ルカによる福音書24:13~35(新約P160)  2019年3月3日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書24章13節~25節です。この箇所から神の愛を学び、神の愛を証しする者とされていきましょう。

今日の聖書箇所には、私たちのために十字架に架かって死んで、復活されたイエス様がエマオに向かう弟子に現れた出来事が記されています。主イエスが十字架で死んでよみがえることは、他ならぬイエス様が預言していました。預言のとおりになったのですが、多くの弟子たちがその預言を信じられずにいたのです。このエマオに向かう弟子たちもそうで、しかも彼らは「主が本当に復活されたそうだ」という証言を聞いていたにもかかわらずエルサレムを離れ、エマオに向かっていたのです。

そんな信仰的に下り坂で、言い訳できない状況の彼らにイエス様は現れたのです。彼らはイエス様の弟子として全くふさわしくない状況でした。そんな彼らを見捨てず、イエス様は彼らを信仰に引き戻すため現れたのです。

途中から自分たちと一緒に歩んだお方が、復活されたイエス様だと気が付いた彼らは、逃げ出したエルサレムに帰って証しをしました。彼らはすべての出来事を話したでしょう。主イエスは「本当に復活された」「聖書のお話をしてくださった」「お話を聞いていた時、心が内に燃えた」「私たちのためにパンをさいてくださった」「信じないでエルサレムから逃げ出した我らに現れてくださった」などと彼らは証しをしたのではないでしょうか。その証しは多くのものを励まし、力づけたはずです。また証しを聞いたものは、神の愛を感じたことでしょう。そして今もそれは続いていて、現代の私たちもこの証言を聞いて祝福されます。感謝をいたします。

復活された主イエス様は、今も生きておられ、弟子たちと同じように私たちを愛してくださっておられます。私たちは喜んでその愛を証しつづけたいと思います。主はつたない私たちの証しをとおしてすべてを祝福に導くのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「自分の十字架を」  ルカによる福音書9:21~27(新約P122)  2019年2月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書9章21節~27節です。この箇所から特に23節を中心に導きを受けたいとと思います。

23節に「自分の十字架を背負って」とあります。この言葉は「主のためには死をもいとわず」という厳しい内容の言葉と考えてしまいます。確かにそのとおりなのです。ただ、そんな短絡的な意味だけではないことをおぼえましょう。また「自分の十字架を背負って」という言葉から「自分に与えられたトゲや重荷」のような意味にもとれます。ただ、ここではそのことを語っているのではないと思われます。でも無関係ではありませんが。

今日の箇所は、主イエス様がご自身の死と復活について語っている箇所です。そして23節の言葉が語られています。従ってそんなイエス様に従っていくために「主のためには死をもいとわず」という意味は確かにあるのです。でもすぐに「主のために死ぬ」ことに突き進むようなことを言ってはいないと思います。23節には「