◎メッセージ要約

☆毎週のメッセージの要約を掲載します。

 
 
 

[メッセージ要約]

「十字架によって」  コリントの信徒への手紙Ⅰ2:1~5(新約P300)   2024年3月24日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、皆さまと主の日の礼拝を行なうことができ、主に感謝いたします。新型コロナもインフルエンザも感染が治まっていません。皆さま方の健康の祝福を続けて祈ります。

本日から今年の受難週となります。受難週といえばやはり「十字架」でしょう。本日は「十字架」について語るように導かれています。ただ、福音書の十字架の場面ではなくコリントの信徒への手紙Ⅰ2章1節~5節を導かれました。この箇所から導かれ、十字架のすばらしさを覚えてまいりましょう。

パウロはコリントに到着した時、非常に衰弱していたことが本日の聖書箇所に記されています。迫害もあったかもしれませんが、何より直前のアテネ伝道があまりうまくいかなかったことがあると考えられます。パウロはアテネ伝道の反省からかコリントでは「イエスキリストの十字架」を語ることにしています。十字架はクリスチャンの私たちにとって最も価値のあるものです。イエス様が私たちのために罪を負って十字架に架かってくださったことにより、信じる者は救われるのです。十字架による救いを感謝いたします。

十字架はまた私たちを力づけるものです。私たちが十字架によって救いを受けるということは、私たちを愛する神を思い出させるのです。私が自分の無力を感じた時、十字架によって励ましを受けました。パウロは私たちを救い、私たちに力を与える何よりも大切な十字架を語ったのです。感謝いたします。

パウロはコリントで十字架を語りました。それはアテネ伝道の反省から、伝道に効果があるとしてのことだったのかもしれません。でもそれだけではないと思います。むしろ衰弱して苦しみの中にあるパウロが、すがるような思いで十字架を語ったのではないでしょうか。イエス様自らが苦しみの中で十字架に架かってくださり、私たちを救いました。パウロもそして私たちも十字架によって励ましを受けるのです。十字架によって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 
 

[メッセージ要約]

「言は神であり光である」 ヨハネによる福音書1:1~13(新約P163)   2024年3月17日 大竹敏生

 

本日も、このようにこの高松太田キリスト教会に集まって、皆さまと主の日の礼拝を守ることができましたことを主に感謝いたします。新型コロナもインフルエンザも感染が治まりません。皆さま方の健康にために続けて祈ります。

本日、主が導いてくださった聖書箇所はヨハネによる福音書1章1節~13節となります。ヨハネによる福音書のこの有名な冒頭の部分から導かれ、「言は神であり光である」ことを覚えてまいりましょう。

私どもの教会の2023年度の年度主題は「みことばに生きる」です。この「ことば」と本日の聖書の箇所の「言」は同じ発音ですが同じとは言えないでしょう。「言」は人格的なものを持っています。それに対して「みことば」は聖書を思わせます。でも決して無関係ではありません。「言」は神であることが記されています。そして「みことば」は神の言葉なのです。

「言」は神です。この言葉は「ロゴス」という言葉で「考え」「理性」「知性」などとも訳されます。神はそのお考えによって天地万物をお造りになられました。そして神はお考えで神ご自身の子イエスキリストを送ってくださり、私たちを救われたのです。「言」が神であり、私たちを救ってくださったことは聖書、つまり「みことば」に記されています。神による救いを感謝したします。

また「言」は「光」です。この世の人は皆罪人です。つまりこの世は暗闇なのです。「光」は罪がある私たちを救うのです。「言」は「光」として暗闇を照らします。信じる者を罪から救う「光」である神に感謝いたします。

また罪人である私たちは赦されました。しかし罪があるので弱いままです。いわば暗闇の中、どうして歩めばよいのか分からない者なのです。でも神は「光」として私たちの足元を照らし、行くべきところへ導くのです。弱い私たちはこの世において不安の中に迷っていますが、神は「光」として私たちを励ましながら導くのです。「言は神であり光である」ことを感謝いたします。

 
 
 

[メッセージ要約]

「行きなさい」     ヨハネによる福音書8:1~11(新約P180)   2024年3月10日 大竹敏生

 

本日も、皆さまとこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができました。主に感謝いたします。新型コロナもインフルエンザも感染が治まっていません。皆さま方の健康の祝福を続けて祈ります。

本日、導かれた聖書箇所はヨハネによる福音書8章1節~11節です。この「姦淫の女の記事」と呼ばれる箇所は、神の愛と権威と知恵に満ちた箇所で、私も好きな聖書箇所です。この箇所から導きを受けられることを感謝します。

律法学者やファリサイ派の人たちはイエス様を訴えようと姦通の場で捕らえられた女性をイエス様のもとに連れてきて「律法の決まりに従って石を投げるべきか」を訪ねます。もしイエス様が「投げるな」と言えば「律法をないがしろにした」と言い、「投げろ」と言ったなら「勝手に死刑を宣告した」とローマに訴えるつもりだったのです。それに対しイエス様は、あきれたように沈黙し、無視しているようです。彼らが問い続けるので、イエス様は「あなた方の中で罪を犯したことのない者が投げよ」と言うと、皆がそこを去ったのです。

イエス様はその後女性に「あなたを罰しない」と宣言されました。人には罪があり、人を裁く資格がありません。でもイエス様には人を罰する権威があったのですが、イエス様女性を罰しませんでした。私は、それはイエス様が権威を行使しなかったと言うより、イエス様は罪を赦す権威をもっていて、その権威をもって女性を罰しなかったと思います。罪を赦すお方に感謝します。

この女性はイエス様からさらに「これからは罪を犯さないように」と言われています。女性はおそらく生きていくために悪いことと分かっていながら「姦淫の罪」を犯したのです。ならば簡単にできることではないですね。しかしこの女性はイエス様に導かれ、罪を犯さなかったと信じます。この女性はイエス様の「行きなさい」の言葉によって励まされて歩んだことでしょう。私たちも状況が変わらなくてもイエス様に励まされて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が我らの喜び」  フィリピの信徒への手紙1:12~21(新約P361)   2024年3月3日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まり、皆さまと主の日の礼拝をもつことができましたことを主に感謝申し上げます。新型コロナは感染が治まらず、インフルエンザも流行中です。続けて皆さま方の健康の祝福を祈ります。

本日、導かれた聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙1章12節~21節です。この箇所は私の好きな箇所で、何回か取り次がせていただいていますが、前半部分と21節は別々に語らせていただいたことばかりだったと思います。本日は2つを関連して考えるよう導かれています。導きに感謝します。

前半はまるでおとぎ話のようですね。「災い転じて福となる」というようなことが記されています。パウロが獄中にあっても、パウロは語り、救われる者が起こされたようです。また、パウロの仲間たちはパウロを励ますために、それまで以上に福音を宣べ伝えるようになりました。そして何と同じキリスト者でありながらパウロを妬み、パウロを良く思っていない人たちもパウロの投獄を良い機会して福音を宣べ伝えました。パウロは「どちらにしてもキリストが宣べ伝えられている」として喜んだのです。パウロの投獄は喜ばしいことではありません。福音も停滞しそうでしたが、かえって前進したのです。

21節は有名なみ言葉です。キリストのために生き、最後は殉教したパウロにふさわしい言葉です。でもこの言葉はパウロの強さからのみ出た言葉ではないと思います。パウロの獄中での苦しみは大きかったと思います。特にパウロに良くない感情を持つ人たちが宣べ伝えていることは、パウロにとっては苦しみだったと思われます。そんな獄中での苦しみから解放されようと出てきたのが21節の言葉ではないでしょうか。主を第一に主の喜びを自分の喜びとしていくことで、パウロは獄中の苦しみを喜びとしたのです。感謝いたします。

私たちも新型コロナなどで苦しんでいます。でも全能の主を信じて喜びましょう。困難な時でも主を喜ぶ時、私たちも苦しみが喜びに変えられるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の言葉に力がある」  ヘブライ人への手紙4:11~16(新約P405)   2024年2月18日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まりまして、主の日の礼拝を行なうことができましたことを主に感謝いたします。新型コロナは今も感染者が出続けていて、インフルエンザも流行中です。皆さま方の健康の祝福を祈ります。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所はヘブライ人への手紙4章11節~16節です。本日はこの中の特に12節を中心に、神のみ言葉の大きな力を覚え、力ある神のみ言葉に導かれて歩むことを心がけて参りましょう。

11節に「安息」という言葉が出てきます。これは神からの「救い」を意味しています。私たちは信じて救いを受ける必要があります。そして信じ続けなくてはならないのです。信じて歩み、救いの達成に努めましょう。

そしてそのために必要なのが12節に出てくる「神の言葉」です。11節を受けて12節は「というのは」という言葉で始まっています。私たちは信仰者として神のみ言葉から導かれて歩む必要があるのです。そしてそのみ言葉は鋭いのです。私たちは時に神に導かれて歩んでいるのか、自分の考えで歩んでいるのか分からなくなることもあります。しかし神の言葉は「霊と精神」を切り分けるのです。つまり神の霊によっているのか、自分の考えなのかをあらわにするのです。ただ自分の考えは捨てられません。イエス様はゲッセマネで自分の考えを神に述べました。でも神のみ心を優先したのです。私たちも神に自分の考えを訴えてよいのです。ただ「神のみ心」を優先しましょう。そして神の言葉には力があります。そしてそのみ言葉は弱い私たちを助け、導くのです。直接献身して牧師になった人の多くが、神のみ言葉によって導きを受けています。そのみ言葉に導かれて弱い者でも主に用いられるのです。感謝します。

み言葉は私たちの罪をあらわにし、私たちの弱さや汚れをさらけ出します。そんな状況に陥ると誰の前にも出る気になりません。しかし神の前には進み出るべきです。神は弱い私たちを愛し、力をくださるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神のために」  フィリピの信徒への手紙2:1~13(新約P362)   2024年2月4日 大竹敏生

 

本日も、このようにこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができました。感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けていて、インフルエンザも流行中です。続けて皆さまの健康の祝福を祈ります。

本日は日本バプテスト連盟の協力伝道週間の最終日です。連盟は協力伝道するために集まっています。連盟の協力伝道の祝福をお祈りください。さてこの「協力」ですが、私たち一人一人も協力し合うことが大切なのです。

日本バプテスト連盟が協力伝道するのは、一つの教会ではできないことを教会が集まって協力して行なうためです。では個人についてはどうでしょうか。やはり私たち一人一人も弱いのです。でも協力し合うことで、私たちも神のために良いことを行なうことができるのです。私たちも、共に協力し合いながら、特に教会として神さまのために歩みを進めてまいりたいと思います。

「協力し合う」ことについて、単純に弱い私たちが少しでも大きなことを神のために行なうためということがあります。ただ、それ以上に大きな理由があります。本日導かれた聖書箇所はフィリピの信徒への手紙2章1節~13節です。この箇所の前半部分は、私たちが愛し合うこと、一つとなることが勧められています。これが、私たちが「協力し合う」ために必要なことなのです。「協力し合う」ために必要なことがへりくだって愛し合うこと、一つとなることだとあります。ならば、神さまは私たちが愛し合うこと、一つとなることを求めているのですから、「協力し合う」ことは神さまが喜ばれることなのです。そうです。私たちは神さまの求めることだから協力し合うのです。私たちは神さまを喜ばせるため、神のために協力し合って歩んでまいりましょう。

協力し合うことが神の喜ばれることならば、神が助けてくださることは間違いありません。フィリピの信徒への手紙2章13節を見ますと、実際、神がことを行なってくださると記されています。神のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が愛された」      イザヤ書43:1~7(旧約P1130)   2024年1月28日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まり、主の日の礼拝を行なうことができ、主に感謝いたします。新型コロナは相変わらずです。インフルエンザも流行しています。続けて皆さまの健康が守られますように祈ります。

本日は伝道礼拝ですが、主に導かれた聖書の箇所は、旧約聖書のイザヤ書43章1節~7節です。この中の4節を中心に、私たちを神が大きな愛をもって導き、救ってくださることを覚えてまいりたいと思います。

キリスト教では、神について特に「愛」を重要視します。神は創造主であり全知全能で、正しいお方など、神はすばらしいお方ですが、キリスト教ではその中でも「神の愛」を大切だと考えるのです。本日の聖書箇所イザヤ書43章4節では、神が私たちを愛しておられること、それも大きな愛でということが記されています。神に愛されている私たちは、この世において神に守られます。そして何よりも、神の愛によって救いを受けます。感謝いたします。

神は私たち一人一人を愛しておられます。イザヤ書43章4節にあるように「価高く」私たちを見ておられるのです。そして「わたしの目には」とあるのです。これは、私たちは罪があり、とても愛されるような資格が無いのに、神は愛することを意味しています。愛される資格が無いのに愛する神なのです。

ですから神の愛は人の愛のようにさめたり、無くなったりはしません。神の愛ほど確かなものはこの世にはありません。神は私たちを愛しておられます。その愛ゆえにみ子イエスキリストを送ってくださいました。そのイエス様が私たちの代わりに十字架に架かってくださったのです。このイエスキリストの十字架の贖いによる救いは消えることのない確かなものなのです。

神は私たちを愛し、私たちに救いを賜ってくださいました。私たちはその神の愛の救いを受けなくてはなりません。信じることが神の愛に応えることなのです。神の愛に応えて、信仰をもって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神のみ心のまま」  マルコによる福音書14:32~42(新約P92)   2024年1月21日 大竹敏生

 

本日も、このように高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができて感謝いたします。新型コロナは治まっていませんし、インフルエンザも流行中です。皆さまの健康が守られますように続けて祈ります。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所は、マルコによる福音書14章32節~42節です。いわゆる「ゲッセマネの祈り」の箇所です。この箇所から導きを受け、神のみ心のままに歩みことを心がけてまいりましょう。

私たちが神のみ心のままに歩むために必要なこと、まず一つは「神のみ心」を求めることです。神のみ心が最善なのです。イエス様は神のみ心である十字架に架かりたくはありませんでした。そんなイエス様ですが、ゲッセマネで「神のみ心」がなるように祈りました。それは「神のみ心」が実現すること、そしてその「神のみ心」のままに歩んでいくために、神の力を求める祈りでもあったのです。私たちは弱いので、神のみ心のまま歩むのが困難です。でも神が助けてくださいます。「神のみ心」を求めて祈りましょう。

次に考えたいのは、イエス様が「十字架に架かりたくない」と祈り、その上で「神のみ心」がなるように祈られたことです。この一見不信仰にも思える祈りの言葉が必要なのではないでしょうか。モーセは神に「民を率いて出エジプトをすることは無理」と言い、「約束の地に自分も」と祈りました。どちらもみ心は違いましたが、その祈りがあってモーセはみ心のままに歩めたのです。私たちも祈りの中で自分の思いを祈り、その上で神のみ心を優先しましょう。

もう一つは、祈っているのは一人ではないことです。寝ていたようですが、イエス様と一緒に祈ろうとした人がいました。イエス様はそんな弱い弟子たちの「祈り」を認め、「もうこれでいい」、「立て、行こう」と呼びかけました。

今のこの難しい時代こそ「神のみ心」が必要です。私たちは教会で兄弟姉妹と共に「神のみ心」を求めて祈り、神のみ心のままに歩み続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「み言葉によって力を」    ヨシュア記1:5~9(旧約P340)   2024年1月14日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まり、皆さまと主の日の礼拝を守ることができて感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けていて、インフルエンザも流行が続いています。続けて皆さまの健康の祝福のために祈ります。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所は、旧約聖書のヨシュア記1章5節~9節です。この箇所は多くの人に愛されている箇所で、私も好きな聖書の箇所です。この箇所から主の導きを受けてまいりましょう。

本日の聖書の箇所で「強く、雄々しくあれ」とヨシュアは3度命じられています。これはヨシュアが弱い人であったというより、求められる強さが大きかったということでしょう。そしてそのために7節後半から8節にかけてのことが勧められています。ここに出てくる「律法」ですが、イエス様が律法学者やファリサイ派の人と対立したことを思うとあまり良いイメージは無いかもしれません。でもそれは人の理解が間違っていたのであり「律法」は神がくださった良いものなのです。そしてヨシュアの時代には今のような聖書はありませんでした。この箇所で言う「律法」は今なら「聖書」と考えてよいでしょう。

そう考えて7節後半から8節にあることを考えますと、聖書を大切にし、その聖書への信頼を持ち続けることが7節後半の言葉から示されます。そして8節の「口ずさむ」という言葉から、いつも聖書のみ言葉に接しつつ歩み、口ずさむほど聖書を好きになり、口ずさむように聖書を喜ぶことが求められているということが分かります。また、人は困難な状況にある時に好きな言葉や歌を口ずさみ、力を得ていくことがあります。私たちも聖書のみ言葉から励ましや力を受けて歩む必要があるのです。そして口ずさむということは私たちの生活の中に溶け込んでいるということです。

主はみ言葉を通して私たちを導き、力をくださいます。み言葉の力によって歩む私たちに祝福をくださる神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の力によって」    イザヤ書43:16~20(旧約P1131)   2024年1月7日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集い、皆さまと主の日の礼拝をもつことができ、感謝申し上げます。新型コロナは感染が治まっていません。インフルエンザも流行中です。皆さま方の健康の祝福を続けて祈ります。

本日は2024年最初の主日礼拝です。今年も主が礼拝を守ってくださるように祈ります。本日、導かれた聖書の箇所は旧約聖書のイザヤ書43章16節~20節です。この箇所から主の導きを受けてまいりましょう。

本日の聖書の箇所の16節~17節に記されていることは、読んでお分かりの方も多いと思いますが、出エジプトの時の海が分かれてイスラエルの民が守られたことを示しています。そして18節には「過去のことを忘れよ」という命令が記されています。18節は16節~17節にあるような神のしてくれたことを忘れるように命じているのでしょうか。そう考える人は19節にある「神のなさる新しいこと」がすばらしいことを強調するためと考えます。ただ「神の恵みを忘れる」のは少し疑問ですね。18節をこう考える人もいます。イザヤの時代やバビロン捕囚の時期の民の苦しみを招いたのは、先祖が犯した罪が原因と民は考えていました。また先祖だけではなく自分たちにも責任があると考えた人もいました。どちらにしても神はその苦しみを除くのだから「過去を忘れよ」と記していると考えるのです。これらが皆正解だと思います。神は新たにすばらしいことを行ないます。そして私たちに他のせいにせず、落ち込まずに神のなさる新しいことを信じ、期待するように導いているのです。

神のなさる「新しいこと」はすべてが新しくなるという面があります。そして過去を否定するものでもありません。神のなさる「新しいこと」はリセットであり、良いものは生かしつつ新しくしていくのです。私たちは案外新しいことが受け入れがたい時があります。でも神のなさる「新しいこと」は私たちのためのものですから、神と共に歩み、祈りつつ神の力によって歩みましょう。

 
 
 

[メッセージ要約]

「神によって歩む」   ペトロの手紙Ⅰ1:13~21(新約P429)   2023年12月31日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に皆さまと集まり、主の日の礼拝を行なうことができました。感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けています。インフルエンザも流行しています。皆さま方の健康の祝福をお祈りします。

本日は2023年最後の主日礼拝となります。主が導いてくださった聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰ1章13節~21節です。主が今年も守り、導いてくださったことを感謝しつつ、み言葉から導きを受けてまいりましょう。

本日の聖書の箇所には「聖なる者として歩め」という神の命令が記されています。この命令を守るのは簡単なことではありません。そのためには前提があるのです。その前提とは18節以降にも記されていますが、私たちが神から救われたことです。これは神が私たちを愛してくださったからです。神は私たちを愛し、一方的に救ってくださいました。そうです。私たちは神に恩があるのです。私たちはその神の愛に報いるために、神の喜ぶ歩みを心がけましょう。「聖なる者として歩む」ことは神の喜ぶことなのです。

また神が私たちを愛してくださっているのですから、神が私たちを助けてくださるはずです。この手紙を記したペトロは大使徒ですが、失敗も多く、イエス様に怒られることもあったようです。イエス様のことを3度「知らない」と言って、裏切ったこともあります。でもペトロは神から愛され、神の力を受けて歩みました。そんなペトロだから「こんな私でも神は愛し、助けてくれた。だからあなたたちも神によって『聖なる者』とされる。」という思いで記しているのでしょう。確かに「聖なる者」となるのは簡単ではありません。でも、全知全能で私たちを愛する神が助けてくださるのです。感謝いたします。

2023年も神の助けを受けて歩んだ感謝な一年でした。そしてその神の助けはこれからも私たちに与えられ続けるのです。明日から始まる2024年も神の助けを受けましょう。神によって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「クリスマスはみ心のままに」  ルカによる福音書2:1~7(新約P102)    2023年12月24日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、皆さまと主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナはまた感染者が増えているようです。インフルエンザもそうです。皆さま方の健康の祝福を祈ります。

今年も本日クリスマス礼拝を迎えました。主が導いてくださった聖書の箇所はルカによる福音書2章1節~7節です。クリスマス礼拝にふさわしいこの箇所から導きを受けることができますことを主に感謝申し上げます。

ルカによる福音書2章はイエスキリストの誕生について記されています。そこには神が、救い主を一番良いかたちで誕生させたことが記されています。救い主はミカ書5章1節の預言通り、ベツレヘムでお生まれになりました。そのために神はローマ皇帝アウグストゥスを用い、彼が出した住民登録を利用されました。ナザレの住人であったヨセフとマリアは登録するために100キロ以上離れたベツレヘムに行き、登録することになったのです。そしてそのベツレヘムでイエス様は生まれたのです。またマリアたちは場所がなく、家畜小屋で寝泊まりすることになりました。その家畜小屋でイエス様は生まれました。これも神のご計画でした。誕生した救い主イエス様は上から救いを与えるというより、私たちと同じ人となられ、すべての人を救うために家畜小屋で誕生されたのです。人の中で、特別な人だけが救われるのではありません。どんなに弱い者も、居場所のない者も救われるのです。そのためにこのようなかたちでお生まれになったのです。神のみ心によって誕生されたイエス様を感謝します。

さて、今私たちはこの神の計画で進められた救い主の誕生を知っています。でもマリアたちは知らなかったと考えられます。彼らは「計画を知らなかったけど従った」のです。そこに信仰があるのです。私たちもこれに習う必要があります。神は私たちの知らないところで計画を進められるからです。知らなくても従ってまいりましょう。神のみ心による救い主の誕生を感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ヨセフは信じた」   マタイによる福音書1:18~25(新約P1)    2023年12月17日 大竹敏生

 

本日も、このようにこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができ、感謝申し上げます。新型コロナは相変わらずで、インフルエンザも感染が拡大中です。皆さま方の健康が守られますように祈ります。

今年のアドベント第三週の礼拝に、主が導いてくださった聖書の箇所はマタイによる福音書1章18節~25節です。この箇所もアドベントによく読む箇所です。この箇所から導きを受けることができますことを感謝いたします。

本日の聖書箇所に記されていることは、先週の「受胎告知」よりも後に起こったことです。マリアが妊娠したのが婚約者のヨセフにも分かったのです。まずヨセフは愛の人でした。だからマリアのことを表ざたにはせず、ひそかに縁を切ろうとしたのです。ヨセフが愛を大切にしたことが彼の信仰に影響を与えているのです。またヨセフはマリアの妊娠を知り、悩んで祈ったはずです。信じる者にとって祈りは大切です。信じるヨセフの祈りに主は応え、天使を遣わしたのです。天使は「マリアは聖霊によって身ごもった。恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」とヨセフに告げました。ヨセフはそれを信じたのです。ヨセフは祈っていたから天使の言葉を信じたのです。使徒言行録16章でパウロはマケドニア人の幻を見て、導きと信じましたが、やはり祈っていたからに他なりません。主は信じて祈る者に応えてくださるのです。またヨセフは天使の言葉を聞いて、マリアを妻に迎えても全てが守られると信じたのです。天使は「恐れず」と言っています。ヨセフはマリアを妻に迎えることで起こりうる災いからも守られると信じたのでしょう。そしてヨセフは自分の思いではなく神を第一にしています。これがヨセフの信仰です。ヨセフは生まれてくる子とマリアを思って行動し、天使が告げた通り、子にイエスと名付けたのです。

時代が進んでも人には罪があり、弱いものです。神の救いや導きが必要です。だからこそ今、神を信じましょう。信じてクリスマスを待ち望みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「マリアは信じた」   ルカによる福音書1:26~38(新約P100)   2023年12月10日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集い、主の日の礼拝を行なうことができ、感謝いたします。新型コロナは感染が続いており、インフルエンザも感染が拡大しています。続けて皆さま方の健康の祝福を祈ります。

今年2023年のアドベント第二週の礼拝に、神が導いてくださった聖書の箇所はルカによる福音書1章26節~38節です。アドベントによく読む「受胎告知」の場面です。この有名な箇所から神の導きを受けてまいりましょう。

マリアのもとに天使ガブリエルが現れ、マリアがまだ男の人を知らないのに聖霊によって男の子を身ごもることが告げられました。マリアは天使に「どうしてそのようなことが…」と尋ねます。それに対する天使の答えは「神にはできないことはない」でした。この天使の答えですが、マリアにとって物足りない答えのように感じます。なぜならマリアは婚約中で、そんなマリアが身ごもったら姦淫の罪を犯したとして、石で打ち殺されかねないことだったからです。マリアはそんなこともあって質問したのでしょう。それに対する天使の答えは一見マリアの心配に気づいていないような答えです。でもマリアは「お言葉どおりになりますように」と受け入れたのです。

マリアは覚悟を決めて悲痛な思いで「お言葉どおりになりますように」と言ったのでしょうか。そうではないと思います。天使はマリアが聖霊によって力が与えられ、聖霊によって身ごもったと告げています。マリアは聖霊が自分に力を与え、助けてくださると信じたのです。また天使は例としてマリアの親類エリサベトを上げています。マリアは、神は自分の親類で普通の人エリサベトを導き、懐妊させたように、自分のことも神は顧み、守ってくださると信じたのではないでしょうか。「マリアは信じた」のです。

今は難しい時代です。そんな時代こそマリアのように神を信じなくてはなりません。今年もマリアの信仰に倣いつつクリスマスを迎えましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたがたに託す」  マタイによる福音書28:16~20(新約P60)   2023年12月3日 大竹敏生

 

本日も、このように高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を守ることができ、感謝申し上げます。新型コロナはまだ感染が続いており、インフルエンザは感染が拡大中です。皆さま方の健康のためにお祈りいたします。

本日は今年の「世界バプテスト祈祷週間」の最終日です。先ほど女性会の方からアピールがありました。国外宣教の祝福のためにお祈りとご協力をどうぞよろしくお願いいたします。本日の礼拝のために主が導いてくださった聖書の箇所はマタイによる福音書28章16節~20節です。ここはイエス様の宣教の命令が記されています。そのことを本日は考えてみたいと思います。

世界宣教は私たちに神が命じられました。しかし、世界宣教の業は神がなさる業です。私たちはその神の業のために働く者なのです。礼拝の最初にコリントの信徒への手紙Ⅰ3章6節を読んでいただきました。そこには「パウロが植え、アポロが水を注いだが、大切なのは成長させた神」と記されています。世界宣教はそれと同じで、神が進める宣教の業のために私たちが働くということなのです。託された世界宣教のために励んでまいりましょう。

世界宣教は神の業です。神がこの業を進めるのです。マタイによる福音書28章19節に「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」とあります。これは私たちにできることでしょうか。いや神にしかできないことです。だから神の力が必要です。神がなしてくださる世界宣教のために励んでまいりましょう。

世界宣教のためにはいろいろな働きが必要です。神は私たちをそのために用いるのです。世界宣教のために祈りましょう。また献金にもご協力をお願いいたします。神が託してくださったことを感謝しつつ歩みたいと思います。

新型コロナで影響を受け、多くのことができなくなりました。でも世界宣教は止まることなく進められています。神の業だからでしょう。だから今こそ神に祈る必要があります。祈りをもって託されたことに励んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の和解」   ローマの信徒への手紙5:6~11(新約P279)   2023年11月26日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができました。主に感謝申し上げます。新型コロナは感染が続いており、インフルエンザは感染が拡大中です。皆さま方の健康の祝福をお祈りいたします。

本日は伝道礼拝です。その伝道礼拝に神が導いてくださった聖書の箇所はローマの信徒への手紙5章6節~11節です。本日はこの箇所から「和解」について導きを受け、神と和解することのすばらしさを覚えてまいりましょう。

「神との和解」ということは神と私たちは敵対関係にあったということになります。そうです。私たちには罪があり、それによって神と敵対することになりました。神と和解しなければ私たちは滅びに至るのです。だから「神との和解」が必要なのです。普通「和解」は敵対関係にあるもの同士が、お互いの言い分を出し合い、それを認め合いながら妥協点を見いだして和解に至ります。ですから加害者側が多くを譲歩するのが普通です。神と私たちの敵対関係については、神には全く責任がなく、むしろ私たちに責任があります。しかし「神との和解」に関して、私たちにできることは何もありません。それは旧約の歴史がそれを証明しています。ではどうしたら神と和解できるのでしょうか。「神との和解」については神が大きな犠牲を払ってくださいました。み子イエスキリストをこの世に贈り、イエス様が十字架に架かって死んでくださって和解が達成されたのです。なぜそのような大きな犠牲を払って和解してくださったのでしょうか。それは神が私たちを愛してくださっていたからです。神の愛による「和解」で私たちは永遠の命を得ることになったのです。

神がそのような、ありえない「和解」を、私たちを愛するがゆえにしてくださいました。ですから神は愛する私たちに「和解」を受けてもらいたいと切に願っておられます。神を信じて神の「和解」を受けようではありませんか。神の「愛の和解」を感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「呼ぶがよい祈るがよい」   詩編50:14~15(旧約P883)   2023年11月19日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を行なうことがでました。主に感謝いたします。新型コロナは感染が治まりません。インフルエンザは感染が拡大しています。皆さま方の健康の祝福をお祈りします。

本日、神が導いてくださった聖書の箇所は旧約聖書の詩編50編14節~15節です。本日は15節の言葉を中心に導きを受け、どのような状況でも神を呼び、神に祈る者とされてまいりたいと思います。

詩編50編15節のみ言葉からまず「日」という言葉を見ましょう。なぜ「時」ではないのでしょう。「時」の方が確かに神の助けが適切に、直接与えられるイメージです。でも「日」の方が、何か神はいつも共にいて、私たちの苦しみを理解し、寄り添ってくださる感じがします。次に「苦難」という言葉を考えましょう。「苦難」は大きな困難な状況を思わせます。どんなに大きな苦難であっても、苦しむ者の祈りを聞き、神は助けてくださるのです。また、「苦難」と呼ぶには適さないような小さな悩みを私たちは持つことがあります。神は大小は関係なく、すべての悩みに応えてくださるのです。「苦難」という言葉は大小にかかわらず、私たちのすべての苦しみ、悩みを含んでいるのです。そして神はありとあらゆる悩みを解決してくださるのです。もう一つ「呼ぶ」という言葉を見てください。この「呼ぶ」とは「祈り」を指します。なぜ「祈る」ではなく「呼ぶ」とあるのでしょうか。小さな子どもは困った時、「助けて」と親を呼ぶことができます。誰でも呼ぶことはできるのです。私たちも苦難に直面した時、案外祈れないことがあります。でもそんな時でも呼ぶことはできるでしょう。「呼ぶがよい」と言ってくださる主に感謝します。

14節と15節後半を見ると、私たちが呼ぶこと、祈ることを神が喜ぶことが分かります。神を呼びましょう。神に祈りましょう。「呼ぶがよい祈るがよい」と言ってくださる主に感謝申し上げます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に依り頼め」  エフェソの信徒への手紙6:10~20(新約P359)    2023年11月12日 大竹敏生

 

本日も、このように高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けています。インフルエンザも流行しています。皆さまの健康の祝福をお祈りいたします。

本日、導かれた聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙6章10節~20節です。この箇所には多くの武具が出てきます。その中でまず「祈り」を考えましょう。「祈り」は武具に例えられていません。なぜでしょうか。例えるのにふさわしい武具が無かったと考える人もいます。また「祈り」は特別だからと言う人もいます。また「祈り」は他の武具を用いるために必要なので、単なる武器ではないという人もいます。でも私は武器だと思っています。

また「神の言葉」は「霊の剣」に例えられています。これだけが攻撃用の武具で、後は守りの武具が多いのです。私たちが戦う相手はサタンです。私たちよりもはるかに強いのです。強い相手に勝つには、守りを固めて相手の隙をつくということしかできません。相手が強く私たちは弱い。だから守りが必要なのです。またサタンと私たちの戦いはハンデがあります。私たちはサタンの攻撃を耐え抜き、ボクシングで言えばノックアウトされなければ勝利なのです。ノックアウトとは具体的に何を指すのでしょうか。それは「信じるのを止める」「神から離れる」ということです。サタンにやられ、信仰がぐらついても神から離れなければ勝ちなのです。ペトロは三度も「主を知らない」と言いました。信仰的に大ピンチでした。でも神から離れず、勝利を得たのです。

本日の宣教の題は「主に依り頼め」です。これは10節の「主に依り頼み」という言葉から導かれました。他の訳の「主にあって」という言葉の方が原語に近いようです。でも「主に依り頼む」という方が、私たちの信仰の姿勢が表れるようです。神は依り頼む私たちに武具をくださり、サタンに勝利させてくださいます。主に依り頼みつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「死んでも生きる」  ヨハネによる福音書11:17~27(新約P189)   2023年11月5日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝を行なうことができることを感謝いたします。新型コロナは治まることを知らず、インフルエンザも流行中です。皆さまの健康が守られるようにお祈りいたします。

本日は、今年の「召天者記念礼拝」となります。その記念の礼拝に、主が導いてくださった聖書の箇所はヨハネによる福音書11章17節~27節です。この箇所から導かれ、先に天に召された方々を覚えて礼拝いたしましょう。

本日の聖書の箇所は、マルタとマリアの兄弟ラザロをイエス様がよみがえらせる記事が記されている箇所です。ここでイエス様はマルタと会話していて、その中で「死んでも生きる」という不思議な言葉を発しています。同じ人物が同時に死と生を体験することはできません。「死んでも生きる」とはどういうことでしょうか。この死と生が別のことを言っているということが一つ考えられます。ここで言うならば「肉体の死と永遠の命」ということです。でもイエス様はラザロをよみがえらせています。ならば「死んでも生き返る」ということでしょうか。それならば生き返る人が少なすぎると思います。信じる者はすべて「死んでも生きる」のです。イエス様はわざわざ「死んでも生きる」と言われたのだと思います。マルタはラザロが復活すること、永遠の命を信じていましたが、何か肉体の死という厳しい現実の前にあきらめて、淡い慰めのようなことを考えていたのではないでしょうか。主が与える永遠の命はそのようなものではなく、肉体の死をはるかに凌駕するすばらしいものであり、価値あるものです。それを教えるためにラザロをよみがえらせたのだと思います。

信じて神のもとに召された方々は永遠の命が与えられます。召天された方々は「死んでも生きて」いるのです。私たちも続きましょう。本日の聖書の箇所に、主を信じる者は「死んでも生きる」とあります。私たちも信じて「死んでも生きる」者とされましょう。信じて永遠の命を得て歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰の成長」    ルカによる福音書7:1~10(新約P114)    2023年10月29日 大竹敏生

 

本日も、このように高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けており、インフルエンザも流行しています。皆さまの健康の祝福を続けてお祈りいたします。

聖書に出てくる百人隊長はキリスト教にとって良い人が多くいます。コルネリウスやユリウス、また十字架の場にいた百人隊長などです。そして本日、主が導かれたルカによる福音書7章1節~10節に登場する百人隊長も先に挙げた百人隊長たちと比べてもそん色ないすばらしい人です。この百人隊長は信仰でイエス様を驚かせました。その信仰に倣う者とされてまいりましょう。

イエス様は信仰を大切にされています。癒しを行なった後、「あなたの信仰があなたを救った。」とよく言われています。そんなイエス様ですから、信仰をもたせるためにヨハネによる福音書9章では唾で土をこね、盲人の目に塗り、洗うことで癒しました。本日の聖書箇所でもその人のところに行こうとしています。これも信仰のためだったのではないでしょうか。でも百人隊長は「来てくださらなくても、イエス様がお言葉をくださればその権威で癒される」と信じていました。その信仰にイエス様は驚き、行くことなく癒したのです。

では百人隊長はどのようにしてそのような信仰をもつことができたのでしょう。百人隊長は謙遜で愛の人でした。これは彼が神を信じ、律法にも精通し、メシアが来られることを信じ、そのメシアがイエス様であると確信していたということなのでしょう。そして百人隊長である彼は部下に命じれば、部下はそれをすることを体験していました。それも彼の信仰を培うことになったのです。つまり神を信じ、神を愛し、神と共に歩みながら日々の生活の中で信仰は成長させられることになるということではないでしょうか。

私たちも神と共に、神を愛し、そして信じつつ信仰生活を送りましょう。そうすれば、信仰はいつの間にか成長させられるでしょう。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神との関係」    マタイによる福音書11:25~30(新約P20)  2023年10月22日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まり、皆さまと主の日の礼拝をもつことができ、感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けており、インフルエンザも流行中です。皆さまの健康が守られるようにお祈りいたします。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所はマタイによる福音書11章25節~30節です。この中の28節はよく知られたみ言葉で、神の招きの言葉です。この28節を中心に神の招きに応じる神との関係を考えてみましょう。

28節の招きの言葉ですが、まず一つは神の救いに招いているのです。ふつう、招いた側は一番良いものをもって招きます。神にとって最も大切なことは私たちの救いです。神は信じて救われるように招いてくださっているのです。

次に28節の「休ませてあげよう。」と言う言葉を考えてみましょう。疲れている者や重荷を負う者にこう言っているのです。何で「重荷を捨てろ」でも「重荷を解決してあげる」でもないのでしょうか。人にとって重荷は大切なものです。大切でないことや知らない人のことは重荷にはなりません。大事だから重荷になり、捨てられないのです。人を愛する神はそんな重荷を捨てられない人間のことをよくご存知です。だから「休ませてあげよう。」と言うのです。感謝します。また「解決してあげる。」とも言いません。人は大切にしていることは自分でしたいのです。神はそれもご存知です。29節~30節には「わたしの軛を負え」とあります。この軛を負うことにより、重荷は解決に導かれます。そうです。神は休みをくださり、私たちに重荷を解決する力や知恵をくださり、私たちの手で重荷を解決させてくださるのです。

神が招いてくださり、私たちが招きに応えるということが、神と私たちの関係となります。「休み」とはそこで終わりません。続いていくものです。神と私たちの関係も続いていく必要があります。多くの人が重荷にあえいでいる今こそ、神の招きに応え、神との関係を大切にしてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「み言葉によって」   マタイによる福音書4:1~11(新約P4)   2023年10月15日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができ、主に感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けています。インフルエンザも流行中です。皆さまの健康が祝福をされるように続けて祈ります。

私どもの教会の今年度の年度主題は「主のみことばに生きる」です。年度の初めに年度主題を考え、私はいくつかの聖書箇所を考えました。その箇所の一つが本日の聖書箇所マタイによる福音書4章1節~11節です。この箇所はサタンがイエス様を誘惑し、イエス様が勝利された箇所です。イエス様はみ言葉によって勝利されたことを覚え、「み言葉によって」歩んでまいりましょう。

この箇所ではサタンがイエス様を誘惑しています。私たちはイエス様とサタンの問題で自分の問題と考えないかもしれませんが、実はサタンは最初の人アダムとエバを誘惑したように私たちを誘惑するのです。また「誘惑」と聞いても案外深刻に考えないかもしれません。でも実は深刻なのです。イエス様が体験した3つの誘惑もたいしたことはないと思われるかもしれませんが、「「飢えている時に神を忘れて食べ物を求める。」「自分を優先して神を試す。」「神を離れて大きな欲望に負ける。」こんなことに私たちはなりかねないのです。どうしたらサタンの誘惑に負けないで歩めるのでしょうか。

イエス様は人としてサタンの誘惑に「み言葉によって」勝利しました。サタンはイエス様の空腹をねらい、み言葉を通して誘惑し、サタンを拝むように誘惑しました。その一つ一つに「み言葉によって」勝利されたのです。「み言葉によって」ということは聖書が関係しているのは間違いありません。聖書の言葉が今も私たちを助けるのです。ただそれだけではありません。「み言葉によって」ということは、今も生きておられる神の導きに従うことを意味しています。暗いこの世を弱い私たちが歩む時、サタンに誘惑される時もみ言葉が必要です。「み言葉によって」歩むことによってサタンの誘惑に勝ちましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「宣べ伝える人」  ローマの信徒への手紙10:14~17(新約P288)   2023年10月1日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を行なうことができました。感謝いたします。新型コロナは感染者が相変わらずです。インフルエンザも変わらず流行中です。皆さまの健康の祝福を続けて祈ります。

本日、神が導いてくださった聖書の箇所はローマの信徒への手紙10章14節~17節です。この箇所を通して、福音を「宣べ伝える」人について学び、福音を「宣べ伝える人」とされてまいりましょう。

本日の聖書箇所の15節に「宣べ伝える人の足が美しい」ということが記されています。身体の中で足は汚れやすく、汚れているものです。その足が福音を宣べ伝える時、美しいと言うのです。確かに、福音は知らせなければ届きません。福音を伝えるために聖書の時代は足が重要な働きをしていました。今も、世界に出て行って宣べ伝える働きがされていることを感謝いたします。

足の働きは地味です。人が福音を宣べ伝える時、足も間違いなく働いていますが、足が注目されることはあまりありません。私は1980年に行なわれたビリーグラハム国際大会に出席しましたが、ビリーグラハムさんの顔やしぐさは見ましたが、足には注目しませんでした。でも神さまは足をも見ておられ、「美しい」と言われるのです。足はまた身体のすべてを支えています。ということは足がすべてをあらわすのです。教会などの複数の人間が心を合わせて福音を宣べ伝える働きを担う時、いろいろな働きがあります。「宣べ伝える者の足が美しい」ということは、足はすべてをあらわすのですから、宣べ伝える働きのすべて、目立たないような働きも神は覚えてくださり、全ての働きを「美しい」と認めてくださるのです。神の愛に感謝します。

いよいよ来週は「音楽特伝」です。トラクト配布、祈り、司会、奏楽、接待、案内、受付などいろいろな働きがあります。神は全ての働きを覚え、「美しい」と認めてくださいます。神を宣べ伝える人として歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰による義」  ローマの信徒への手紙4:13~25(新約P278)   2023年9月24日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができましたことを主に感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けています。インフルエンザも流行しています。続けて皆さま健康の祝福を祈ります。

キリスト教では、人は信仰によって義とされると説きます。ただ一般の人たちや他の宗教では。人は行ないによって救われると考えます。私もかつては、この世で良いことをすれば天国に行けると思っていました。人は信仰による救いよりも行ないによる救いの方が分かりやすいと感じるかもしれません。ただキリスト教では、容易い救いを説いているのではありません。私たちが「信仰による義」を説くのは、これしか救いはないからです。私たちの罪は重く、自分がどんなにがんばっても自分で自分を救うことはできないのです。

キリスト教と関係が深いのはユダヤ教です。でもユダヤ教も「律法を守る」という行ないによって救われると教えます。律法が与えられるよりも前の人物、アブラハムもユダヤ人は行ないによって救われたと考えています。でも聖書は本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙4章13節~25節、創世記、ヘブライ人への手紙にもアブラハムは「信仰によって義とされた」とあります。そして実際、罪人である私たちは律法を守ることができないのです。だから律法で人は救われないのです。アブラハムは常識的に信じられないことを信じました。それは相手が常識を超えたお方、神だから信じられたのでしょう。私たちも全知全能の神、常識を超えた神を信じましょう。そうしたらアブラハムと同様、私たちも救われるのです。

本日の聖書の箇所のローマの信徒への手紙4章24節~25節に、イエスキリストが私たちの罪を贖うために十字架で死に、よみがえられたことが記され、それを信じることで救われることも記されています。私たちも主を信じて救いを受けましょう。信仰による義に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「揺るがない信頼」  テモテへの手紙Ⅰ1:12~17(新約P384)   2023年9月17日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に皆さまと集まり、主の日の礼拝を行なうことができました。感謝いたします。新型コロナは治まっていません。インフルエンザも流行しています。続けて皆さまの健康の祝福を祈ります。

本日は今年の「高齢者を覚える礼拝」です。その礼拝に導かれた聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅰ1章12節~17節です。この手紙は使徒パウロが、悩みの中にあった弟子のテモテを励ます目的で書かれた手紙と言われています。その手紙でパウロはキリストの救いについて語っています。テモテも知っていることをあらためて語っているのは、キリストの救いは、一方的な神の恵みですから、悩むテモテを神は愛し、助けることをパウロは教えているのでしょう。

さて、パウロは本日の箇所で罪について語っていますが、自分自身を「罪人の中で最たる者」と言っています。これは謙遜とかではなく本心でしょう。パウロは、キリストを迫害する者であった過去がありました。そして信じた後も年を重ねるにつれ、自分の罪意識が増していったのだと思います。パウロがこの手紙を記した時、高齢であったかは分かりません。ただ、一般的にご高齢の方は自分をよく知っています。だから自分の弱さ、自分の罪について意識が高くなるのです。パウロの「罪人の中で最たる者」という言葉ですが、決して悲観的になっているのでも、絶望しているのでもありません。むしろその告白には、ある意味、希望が見えるのです。その希望とは何でしょうか。

そのパウロの希望は、自分ではなく神への希望です。自分の罪は大きくてもキリストは救ってくださるという希望で、それを確信しているのです。そして本日の箇所で言えば、悩みの中にあるテモテも、神が解決してくださると信じているのです。その神への信頼は揺らぐことはありません。このパウロの信頼と同じような揺るがない信頼をご高齢の方は持っています。自分ではなく、全知全能で愛の神を信頼するご高齢の方にならって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の人の言葉どおりに」   列王記下5:9~14(旧約P584)   2023年9月10日 大竹敏生

 

本日も、このようにこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができ、感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けていて、気温の高い日も続いています。続けて皆さまの健康の祝福をお祈りいたします。

今年度の私たちの教会の年度主題は「主のみことばに生きる」です。その意味の一つに「神のみ言葉に従う」ということがあると思います。そのことに関して、本日の聖書箇所、列王記下5章9節~14節から学びたいと思います。

本日の聖書箇所を含む列王記下5章には、重い皮膚病を患っていたアラムの軍司令官ナアマンの癒しの記事が記されています。ナアマンは知らないところで神に用いられるような人物でした。また妻や召し使い、王、家来などに慕われる人物でした。召し使いであったイスラエルの少女の情報で北イスラエル王国に行きます。そこで神の人エリシャのところに行きました。そこでエリシャは使いを送り「ヨルダン川で七度身体を洗えば癒される。」と告げました。しかし、ナアマンは「エリシャが直接会って癒しをしないこと」と「小さなヨルダン川で身体を洗っても効果があるのかという疑問」により、怒って帰ろうとします。しかし家来の「もっと難しいことを命じられてもするつもりだったのだから…」という説得で、彼は神の人の言葉どおりにしました。すると癒されたのです。この家来の説得は見事ですね。私の知っている人は「まあ試しに信じてみたら」と言われて神を信じました。その人は「信じてよかった。」と言っています。この人にとって信じることが大切だったのです。ナアマンにとっても神の人の言葉どおりすることが大切で、それができたのです。

ナアマンは周りの多くの人に助けられ、重い皮膚病が癒されました。人に助けられ、神の人の言葉どおりにすることができました。私たちにも仲間がいます。仲間と共に励まし合い、助け合い、神に言葉どおりに歩みましょう。そして神をあがめつつ、神の言葉に従う歩みを続けてまいりましょう。

 
 
 

[メッセージ要約]

「神のみ言葉が」  コロサイの信徒への手紙4:2~6(新約P372)   2023年8月27日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、皆さまと主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナは感染が治まらず、暑い日も続いています。主によって皆さまの健康が守られるようにお祈りいたします。

今年度の私たちの教会の年度主題は「主のみことばに生きる」です。これは、私たちが考える以上に広く深い意味をもっています。そして本日、主に導かれて語らせていただくことも「主のみことばに生きる」ということなのです。それは「み言葉を伝える」ということです。「主のみことばに生きる」を主題として歩む私たちは「み言葉を伝える」者としても歩んでまいりましょう。

「み言葉を伝える」とはどういうことでしょうか。伝道ということでしょうか。確かにそういう意味があるでしょう。私たちは伝道に励んでまいりたいと思います。でも「み言葉を伝える」という言葉は、意外ですがあまり用いませんね。むしろ「福音を伝える」という言葉を用いることが多いでしょう。しかしこの「み言葉を伝える」という言葉が案外重要なのです。

「み言葉」とは「神の言葉」です。従って神が中心であるべきです。「み言葉を伝える」という時、私たちではなく、何よりも神が最優先されるべきなのです。そして「神の言葉」ですが、その神は今も生きているのです。今も生きている神のみ言葉を伝えるのですから、神のために愛をもって伝えましょう。

本日の聖書の箇所はコロサイの信徒への手紙4章2節~6節です。この手紙の著者パウロは、当時牢に入れられていました。つまり伝道するのに制限を受けていました。そんな中、神から何を語るべきかを導かれてきたはずです。そして神のために、愛をもって伝えたのです。どのような状況にあっても神が導いてくださいます。私たちも新型コロナなど、困難がありますが神が導いてくださいます。「私たちが」ではありません。「神のみ言葉が」導くのです。これからも神に導かれ、神のために愛をもって伝えてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神に感謝します。」  コリントの信徒への手紙Ⅱ9:6~15(新約P366)   2023年8月20日 大竹敏生

 

本日も、このように高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を行なうことができ、感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けていて、気温の高い、暑い日も続いています。皆さまの健康の祝福をお祈りいたします。

本日のメッセージのテーマは「感謝」です。この「感謝」に関して今回気づかされたことは「感謝」は「ほめたたえる」ということと密接な関係をもっているということです。神をほめたたえることと感謝することは密接な関係があり、どちらも大切なことです。そのことをまず押さえておきたいと思います。

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ9章6節~15節です。この箇所は、困窮の中にあるエルサレム教会のための献金が勧められています。そしてそれは献げた側の祝福につながると手紙の著者パウロは記しています。ここでは献金ですが、もっと大きくとらえてよいでしょう。つまり献金だけではなく、私たちの神への奉仕や働きなど、神の喜ばれることすべてが祝福を生むのです。この手紙には献金に協力したマケドニアの人々の祝福が記されています。またコリントの教会の人たちも祝福を体験し、主の働き人であるパウロももちろん祝福を体験しました。そして私たちも祝福を体験してきました。私たちの教会も神と共に歩み、神のために働き、神から恵みを受けてきたのです。この場所に土地と建物が与えられました。教会組織を行なうことができました。そして最近では、新型コロナで大変な状況の中、神の力で駐車場用地の取得が叶い、アスファルト舗装も終わりました。これらは神の力です。そして他にもたくさんの恵みの贈りものを受けてきました。感謝いたします。

私たちは与えられた贈り物に対してコリントの信徒への手紙Ⅱ9章15節にあるように感謝すべきです。神への感謝はそこで終わりません。神から与えられる恵みの関係は感謝によってさらに続きます。私たちはこれからも多くの恵みの贈りものを受けるでしょう。恵みの神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神から来る平和」   フィリピの信徒への手紙4:4~7(新約P366)   2023年8月13日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝をもつことができました。導いてくださった主に感謝いたします。新型コロナは相変わらずで、暑い日も続いています。皆さまの健康が守られるようにお祈りいたします。

毎年8月は、私たちの教会が属する日本バプテスト連盟では「平和」を覚える月間としています。そんな8月の本日、主に導かれた聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙4章4節~7節です。この箇所から、神から来る真の平和を受けて歩めることを感謝しつつ歩んでまいりましょう。

聖書の語る「平和」と世の言う「平和」はどういう違いがあるでしょうか。一つは世の平和が集団を見るのに対して、聖書の平和は一人一人、個を大切にします。そして世の平和は「何も無い状態」ということが強調されますが、聖書の平和は「平安」「繁栄」「成功」「勝利」など、喜びに通じる平和なのです。人は喜び満たされている時、平和です。一方、貧困などで人の心が荒む時、争いが起きたりするのです。外国の犯罪が多い地域のトップの人が「我々はもっと豊かにならなくては」と言っていました。平和が実現していくために一人一人が喜びに満たされることが大切なのです。

では聖書は「私たちは神によって何の苦しみも無く、この世を歩むことができる。」と言っているのでしょうか。それは違います。イエス様は私たちを罪から救うためにこの世に来てくださいました。それは神と私たちとの間に平和をもたらせたのです。ただ、罪は赦されましたが、無くなっていません。従ってこの世にある限り不安はあります。ですがその不安を取り除き、真の平和をくださるのが神なのです。確かに神は、私たちが何も苦しむことなく、お花畑を歩むようにしてくださることも可能です。でも神さまは最善の平和をくださいます。何も無い状態が真の平和ではなく、何があっても神がいてくださるということが真の平和なのです。神から来る平和を感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「み言葉に従う」    ルカによる福音書5:1~11(新約P109)   2023年8月6日 大竹敏生

 

本日も、このように高松太田キリスト教会に集まり、主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けています。また暑い日が続いています。皆さまの健康が祝福されるように祈らせていただきます。

私どもの教会の今年度の年度主題は「主のみことばに生きる」です。この主題については「神のみ言葉に従う」ということも含まれるでしょう。本日、導かれた聖書の箇所はルカによる福音書5章1節~11節です。この箇所から、神のみ言葉に従う者として歩むことを心掛けてまいりましょう。

本日の聖書箇所でペトロが主イエスの言葉に従っています。まず舟を貸しています。イエス様はその舟の上から群衆に語りました。知らない人や嫌いな人には大切な舟は貸せません。ペトロはイエス様を愛し、慕っていたので神の言葉に従い、舟をお貸ししたのでしょう。また話を終えたイエス様の「沖に漕ぎだして漁をしなさい。」という命令にも従いました。ペトロはこの時、落ち込んでいたはずです。そして漁をしてもとれるわけがないと思っていました。つまりイエス様の言葉に従うことは、全く無意味であると思っていたはずです。それでも従ったのですから、ペトロのイエス様に対する思いはそれほど強かったのです。そしてこの時、ペトロはイエス様の話を聞いていました。このことも大きかったのです。み言葉に従うためには、み言葉を聞くことが大切です。そしてペトロはイエス様の言葉に従って、何もかも捨ててイエス様の弟子になりました。これができたのは信仰だと思います。何もかも捨ててイエス様の弟子になるということは、人間的な保障は何もないことを意味しています。このような命令に従うためには、イエス様を信じなくてはならないのです。

さて神のみ言葉に従うために、主を愛すること、神のみ言葉を聞くこと、信仰をもって歩むことが大切です。私たちもその3つを心がけて歩みましょう。そうすれば神のみ言葉に従うことができるはずなのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の恵みゆえに主をたたえよ」   詩編103:1~5(旧約P939)   2023年7月30日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を行なうことができ、感謝申し上げます。新型コロナは相変わらずですし、暑いので、熱中症などにも注意が必要です。皆さまの健康の祝福を祈らせていただきます。

本日、導かれた聖書の箇所は旧約聖書の詩編103編1節~5節です。この箇所から導きを受け、主の御計らいや良くしてくださったこと、つまり恵みを忘れず、主をたたえるように心掛けてまいりましょう。

詩編103編は表題にありますようにダビデが記したものです。ダビデは主を愛し、主と共に歩んだ人です。そのダビデはまず1節~2節で「主をたたえよ。」と記しています。その理由は3節以降にありますが、ダビデは理由を述べる前に「主をたたえよ。」と記しています。そこにダビデの思いが見てとれるようです。とにかく「主をたたえよ。」というダビデの思いを覚えましょう。

2節に「主の御計らいを、何ひとつ忘れてはならない。」とあります。この「御計らい」は「良くしてくださったこと」「祝福」「恵み」などとも訳されています。3節以降の主をたたえる理由ですが、これが「御計らい」の内容とも言えるのです。この「御計らい」ですが、忘れないようにするということはめったに無いことではなく、むしろ数多くあるのです。私たちが「何ひとつ忘れていない」と思ったとしても、私たちには気が付かなかった、思い出せなかった「御計らい」「恵み」があるのです。「御計らい」をどれだけ覚えてもさらに多くあるのだから「何ひとつ忘れてはならない。」と記しているのです。

主の恵みを忘れないで歩みましょう。それが私たちを助けます。私たちは主によって救いを受けました。また主が悩む私たちを助けてくださいます。そのことを思い出すとき、救いを受けた喜びをもって歩めます。そして困っても主にゆだねて、今まで通り主に助けられて歩むことができるのです。私たちはこれからも、主の恵みゆえに主をたたえて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「確かな神の愛」   ヨハネによる福音書3:14~18(新約P167)   2023年7月23日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝を行なうことができました。感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けています。また暑くて、熱中症などにも注意が必要です。皆さまの健康の祝福を祈ります。

本日は久しぶりに伝道礼拝が開催でき、感謝いたします。再開した伝道礼拝、導かれた聖書の箇所はヨハネによる福音書3章14節~18節です。この箇所から導かれ、信じて、神の確かな愛によって救いを受けてまいりましょう。

世の人たちはどうしたら死後、天国に行けると考えるでしょうか。多くの人が、その人のこの世の生き方が関係すると思っているのではないでしょうか。キリスト教では、私たちのこの世の行ないは関係なく、神が私たちを救うためにみ子を送り、み子イエスキリストの贖いの十字架によって信じる者が救われることになったということが本日の聖書箇所にも記されています。私たちの力によっての救いはありません。神の愛の十字架によって私たちと神の間は埋められました。私たちが信じることで救われるのです。感謝いたします。

「神の愛によって信じる者が救われる。」と言うと「そんな上手い話が…」と思うかもしれません。本日の聖書箇所の3章16節に、神が私たちを愛してくださったことが記されています。世では詐欺まがいの「上手い話」があります。しかし主の贖いの救いは裏のある「上手い話」ではありません。それは神が私たちをこの上なく愛しておられるからです。ですから「上手い話」ではなくグッドニュース、良い知らせです。そう、つまり「福音」なのです。

神の愛は確かです。人の愛は強くても失せることがあります。しかし神の愛は絶対に無くなりません。罪を犯したダビデも、イエスを見捨てたペトロや弟子たちも愛され続けました。ローマの信徒への手紙8章にありますが、神の愛は無くなることはありません。ですから私たちの救いは確かなのです。信じて、確かな神の愛による救いを受けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神を信頼すべき」   ヘブライ人への手紙11:1~3(新約P414)   2023年7月16日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができ、感謝申し上げます。新型コロナは感染者が出続けており、気温が高く、体調管理が難しい時期です。皆さまの健康の祝福を続けて祈ります。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所はヘブライ人への手紙11章1節~3節です。この箇所から導かれ、どんな状況にあっても最善を成す主なる神を信頼して歩む者とされてまいりましょう。

本日の聖書箇所に「信仰」という言葉が出てきます。この「信仰」は私たちに恵みをくださいます。その最も大切なものは「救い」でしょう。「信仰義認」という言葉がありますが、私たちは「信仰」によって救われるのです。

そして本日の聖書箇所の1節を見ますと、「信仰によって私たちの願いが叶う」と読めます。これは事実です。神は信じる私たちの祈りを聞いて叶えてくださるのです。ただこの「叶う」というのは単純ではありません。確かに私たちの願いがそのまま叶うことはあります。聖書にもいくつか例があります。後ろにエジプトの大軍が迫る中。神はモーセの祈りを聞き、目の前の海が分かれました。神はカルメル山でエリヤの祈りに応えて天から火を送り、その後雨を降らせました。神は願いをそのまま叶えることができるのです。ただ神は単純に私たちの願いを叶えるわけではありません。聖書には叶えられなかった祈りも出てきます。パウロのとげは取り除かれませんでした。そしてゲッセマネでのイエス様の祈りも叶えられず、イエス様は十字架に架かりました。なぜ叶えられないのでしょうか。「信仰」があっても叶えられないのでしょうか。そうではありません。神が願いを叶えないのは神が最善を成されるからです。叶えられなかったからこそ十字架による救いが達成されたのです。

難しい状況の中、神は最善を成されます。それを信じましょう。どんな状況でも最善を成す神に信頼をして歩んでまいりましょう。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「変わることのない」   ペトロの手紙Ⅰ1:22~25(新約P429)   2023年7月9日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を行なうことができ、感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けていますし、暑く、体調を崩しやすい時期です。皆さまの健康の祝福を祈らせていただきます。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰ1章22節~25節です。この箇所から導きを受け、「変わることのない」ものを思い、感謝し、「変わることのない」ものから力を受けて歩んでまいりましょう。

本日、「変わることのない」という題にしたのは、この「変わることのない」ものを大きく考えていただきたいからです。本日の聖書の箇所にある「変わることのない」のは「神の言葉」です。これを大きく考えてまいりましょう。

さて「変わることのない」とはどういうことを指すのでしょう。二つ意味があると考えられます。一つは原語の意味から「最後まで残る」「永遠に続く」という意味です。この世の終わりまで変わらず続くことを意味します。もう一つは文字通り「変わらない」ということです。でも神は寿命を延ばしたヒゼキヤや、滅ぼされなかったニネベのように変わることもあるようです。神は今も生きておられます。だから死んでいません。私たちの祈りに応え、願いを叶えてくれることもあるのです。では何が変わらないのでしょうか。それは神の大きな計画は変わらないのです。それが最善なのですから。イエス様はゲッセマネで祈りましたが、願いは叶わず十字架に架かりました。それで私たちは救われることになりました。神のみ心がなったのです。

本日の聖書の箇所では「変わることのない」のは「神の言葉」です。他の聖書箇所には、他にも「変わることない」ものとして「信仰」「希望」「愛」などが記されています。それはすべて神に関するものです。ヘブライ人への手紙13章8節にはイエスキリスト、つまり神が「変わることのない」ものとあります。「変わることのない」神と神の言葉に導かれて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神がさせる成長」  コリントの信徒への手紙Ⅰ3:1~9(新約P302)   2023年7月2日 大竹敏生

 

本日も、このように高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができました。感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けています。また、体調を崩しやすい時期です。体調に気をつけてお過ごしください。

本日は連盟の「神学校週間」の最終日です。どうぞ神学校と神学生のためにお祈りと献金のご協力をお願いいたします。そんな本日、主が導いてくださった聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ3章1節~9節です。この箇所から導かれ、神が与えてくださる成長のすばらしさを覚えてまいりましょう。

本日の聖書の箇所の6節~7節を見ると、神は人を用いて成長させることが分かります。そしてその成長させる神が大切なのです。この箇所に記されている「成長」はコリント教会の成長です。ただ教会の成長とは、そこに集う一人一人の成長です。つまり人間の成長でもあるのです。神は私たち一人一人をよくご存知です。そして全知全能です。ですから神のなさる成長は、何から何まで完全な成長です。一人一人を神が覚えて成長させてくださるのです。

私は西南学院大学神学部に在学している時、神学の学び以上に他者との交わりで成長させられたと思います。奉仕に行っていた教会での出会いや体験、またアルバイト先での出会いなどからもいろいろと学び、いつの間にか成長させられてきました。ただこれは私に必要なこととして神が導いたのです。他の神学生が私と同じような成長をしたわけではありません。すべて神がその人にとって一番ふさわしい良い成長をくださるのです。

神が成長させるのは神学生だけではありません。神は全ての人に「大宣教命令」を与えました。神は主を信じるすべての者を献身者として成長させてくださるのです。ですから皆さま方も神によって成長させていただくことができるのです。その成長はもう始まっています。今までもそうだったように、これからも神によって成長させられて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「大きな神の力を悟れ」 エフェソの信徒への手紙1:15~23(新約P352)   2023年6月25日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を行なうことができ、感謝いたします。新型コロナは相変わらずです。そして梅雨の最中、体調を崩しやすい時期です。皆さまも気をつけてお過ごしください。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙1章15節~23節です。この箇所の17節~19節を中心に、神のすばらしさと大いなる力を覚え、悟ることができるように心掛けてまいりましょう。

神はすばらしいお方です。大いなる力を持っています。本日の聖書佳代の前の3節~14節には、そのすばらしさとして、神の贖いによる救いが記されています。これは確かに神のすばらしい恵みです。贖いの救いには、神の愛と神の知恵、そして神の力が凝縮されているのです。神が私たちを愛し、私たちは救われました。それは単に天国行きの切符を手にしたということだけにとどまらず、この世においても神は愛する私たちを守り、導き、祝福してくださることも意味しているのです。先週礼拝で申しましたが、私たちは皆が大きい問題、そして身近の小さな問題を抱えています。私たちにそのすべてを解決するのは困難です。しかし神はそれができるのです。私たちを愛し、救ってくださり、この世においても必要を満たし、最善に導く神に感謝いたします。

本日の聖書箇所には、私たちがその神のすばらしさ、大きな神の力を悟るようにとこの手紙の著者パウロは記しています。ただこの「悟る」ということは、決して完全にできることではありません。私たちがどれほど神のすばらしさ、神の大きさを悟ったとしても悟りきることはできません。神は人知ではとうてい計り知ることができないお方なのです。どれだけ神のすばらしさ、大きな力を悟ってもまだまだ足らないのです。ですから、私たちは生涯神を信じ、神を追求する必要があるのです。神を求め続けましょう。どれだけ悟れたとしても、決して悟ることはできません。すばらしく大きな神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の言葉に動かされ」    列王記下22:8~13(旧約P617)   2023年6月18日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができました。感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けていますし、体調を崩しやすい時期です。皆さまの健康が守られるようにお祈りいたします。

本日は旧約聖書の列王記下22章8節~13節を神に導かれました。この箇所に登場するヨシヤは私の好きな人物です。南ユダ王国最後の善王と言われるヨシヤの記事を通して神の導きが受けられることを感謝いたします。

ヨシヤは南ユダ王国末期の王で主を信じる善い王でした。ヨシヤの前の王たちは主を信じない王が続いていて神殿が荒れはてていたようです。ヨシヤは導かれ、神殿の修復を行なっていました。その修復作業中に律法の書が発見されました。ヨシヤがその書の朗読を聞いた時、ヨシヤは衣を裂き、泣きました。自分たちと先祖たちが神の命令に従わないで来て、神が怒っておられることが示されたからです。ヨシヤはさらに神に立ちかえることを進めていきました。ヨシヤと盟友であるエレミヤも神のために働きましたが、この後、南ユダ王国は滅亡することになります。でもヨシヤたちの行動は決して無駄なものではなかったはずです。ヨシヤやエレミヤを神は喜び、彼らを祝福したのです。

ヨシヤは律法の書、つまりみ言葉に動かされました。これは私たちにとっても良い模範です。ヨシヤの時代、偶像崇拝などで王国の滅亡が迫る困難な時代でした。その難しい時代をヨシヤはみ言葉に動かされて力を受け、導かれつつ歩んできました。今の私たちも「新型コロナ」などの大きな問題から、身近の個人的な悩みまで様々な問題を抱えています。そんな中、悩みが多い時代をみ言葉に動かされて歩んだヨシヤに倣うべきです。難しい時代を生きる私たちにとって「神のみ言葉に動かされ」て歩むことが最善です。ヨシヤはみ言葉に動かされました。それによって導かれ、力を受けました。私たちもみ言葉に動かされることで難しい時代を乗り越えることができるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛を教えることにより」     申命記6:4~9(旧約P291)   2023年6月11日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まり、皆さまと主の日の礼拝を行なうことができ、感謝いたします。新型コロナは相変わらずです。また体調を崩しやすい時期でもあります。皆さまの健康の祝福をお祈りいたします。

本日は子ども祝福礼拝です。子どもたちの祝福を祈りつつ、礼拝いたしましょう。本日、導かれた聖書の箇所は旧約聖書の申命記6章4節~9節です。この箇所から導かれ、子どもたちが主を愛するように導き、愛の中、祝福を受けながら歩めるように祈ってまいりましょう。

イスラエルでは、今も家庭で子どもに神のことを教えるのだそうです。本日の聖書の箇所にも「子どもたちに教えるように」という神の命令が記されています。何を教えるのかと言うと「神の語ること」ですが、それは律法であり、律法の中でも最も重要であるとイエス様が言われた申命記6章5節ではないでしょうか。つまり「神を愛すること」を教えるのです。

子どもたちに「神を愛すること」を教えるためには、神について教えなくてはなりません。神を愛するのですから、神のすばらしさを聖書から教えるのです。神は全知全能で不可能はありません。その力で私たちのために恵みや祝福をくださるのです。そして何よりも大切なのは、主が罪人で滅びに至る私たちを救うために十字架に架かってくださったことです。それは私たちを愛しておられるからなのです。全知全能にして愛の神に感謝いたします。

私が子どもたちに知ってもらいたいことは、神があなたを愛しておられるということです。神が私たちを愛しておられるから、私たちも神を愛することができるのです。子どものころ、イエス様は神と人に愛されて成長しました。愛の中を歩んで祝福を受けたのです。子どもたちが神に愛され、神を愛し、愛の中、祝福を受けて歩めるように祈りたいと思います。そして私たちも神を愛し、神の祝福の中を歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みによる助け」   ヘブライ人への手紙4:14~16(新約P405)   2023年6月4日 大竹敏生

 

本日も、このようにこの高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝をもつことができました。主に感謝いたします。新型コロナはまだ治まっていません。皆さま方の健康が祝福されますようにお祈り申し上げます。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所はヘブライ人への手紙4章14節~16節です。この箇所から導きを受け、主なる神は私たちを愛し、同情してくださり、私たちを恵みによって助けてくださることを覚えてまいりましょう。

私たちのキリスト教の特長として挙げられることの一つが、本日の聖書箇所にも関係していることですが、神が人となられたことです。このことによって多くの恵みがもたらされるのです。その一つは何といっても罪の赦し、つまり救いです。十字架に架かってくださる救い主は、罪のない人間でなくてはならなかったのです。でも人間は誰も罪を克服できませんでした。だから、神であられながら人となってくださったイエス様が必要だったのです。神であられながら人となってくださった主に感謝します。

また本日の聖書箇所には、神が人となられたことによる別の恵みが記されています。イエス様には罪は無く、罪は犯されませんでしたが、試練には遭われたのです。その試練は厳しいものでした。このように私たちと同じように試練に遭われたので、私たちの弱さに同情してくださるのです。しかも大きな試練に遭われたのですから、その同情は途方もないものです。到底赦されないと思うような罪も赦されるのです。神の大きな愛、同情に感謝いたします。

さて、このように神は大きな愛で同情してくださいます。ですから神に躊躇することなく近づくことができます。神はその愛による恵みによって、私たちを適切な時に適切なやり方で助けてくださるのです。新型コロナなどで私たちは悩まされていますが、神は私たちに同情し、一番良いやり方で解決をくださるでしょう。神の愛による恵み、その恵みによる助けを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「聖霊が宿る体」  コリントの信徒への手紙Ⅰ6:12~20(新約P306)   2023年5月28日 大竹敏生

 

本日も、このように高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を行なうことができましたことを感謝いたします。新型コロナはまだ感染者が出ています。他の病気と共に続けて注意しつつ歩んでまいりましょう。

本日は今年のペンテコステとなります。イエス様が約束通り、助け手として与えてくださった聖霊を感謝いたします。本日、ペンテコステに導かれた聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ6章12節~18節です。この箇所から、聖霊が今も私たちの内に宿り、導いてくださることを覚えてまいりましょう。

聖霊は「風」や「息」に例えられます。風も息も目には見えません。しかし感じることはでき、必ず存在します。聖霊も目には見えませんが必ず存在します。そして導きや力を感じることができるのです。そして聖霊は風のようにご自身の思いのままに、私たちのために動き、神の息で私たちが生きる者とされたように、私たちに生きる力をくださいます。聖霊の助けを感謝します。

使徒言行録2章に聖霊が与えられた様子が記されています。その出来事から聖霊は人間にはできないことをされるお方と考える人がいます。そして信仰的にすばらしい特別な人にだけ聖霊が力を与えると考えるのです。聖霊はありとあらゆることを、ご自身の思いのままに、私たちのためにされるのです。そして誰にでも望んでくださいます。本日の聖書箇所の19節でパウロは、コリントの教会の人たちに「あなたがたに聖霊が宿っていることを知らないのか。」と言います。決して特別ではない、むしろ問題があったコリントの教会の人たちに聖霊が宿り、それを疑ってはならないとパウロは語っているようです。

私たちもコリントの教会の人たちと同じように特別ではありませんが、聖霊が宿っています。それを疑ってはなりません。私たちは聖霊が宿る神殿として、聖霊によって生きる力を受けましょう。そして聖霊が宿る神の子として神の栄光を現してまいりましょう。与えられる聖霊を感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に仕えることで」    ヨシュア記24:14~18(旧約P377)   2023年5月21日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を皆さまともつことができ、感謝を申し上げます。新型コロナは相変わらずです。他の病気と共に続けて注意しながら歩んでまいりましょう。

本日は旧約聖書のヨシュア記24章14節~18節からみ言葉を取り次ぐように主が導いてくださいました。この箇所の15節を中心に導きを受け、私たちの歩みが主に仕えることで守られ、祝福されることを学びましょう。

本日の聖書の箇所は、ヨシュアの告別説教が記されています。実際にこの24章の最後で、ヨシュアは神のみもとに召されています。師であるモーセの後を継いで、ヨシュアはイスラエルの民を率いてカナンの地に入り、そこに定着させました。それは簡単なことではありませんでした。敵との戦いはもちろんですが、身内であるイスラエルの民の不信仰にも悩まされてきました。そんな困難の中にあっても、ヨシュアは主に従うことで大きな働きを成したのです。そんなヨシュアはイスラエルの民に、神がしてきてくださったすばらしい恵みの数々を語り、この神に仕えるべきことを告げます。そして民が主を選ばなくても「わたしとわたしの家は主に仕えます。」と民に宣言したのです。

ここでヨシュアは「わたしとわたしの家は」と言います。「わたし」だけならば、ヨシュアが死ねば主に仕えることは終わります。しかし「わたしの家」とあるなら、たとえヨシュアが死んでも、主に仕えることが続くことを意味しています。困難な歩みを主に仕えて乗り越えてきたヨシュアは、残されるイスラエルの民の新たな歩みのために主に仕えることを説いているのです。

イスラエルの民はヨシュアが説いたように主に仕えることを選びました。ただ残念ながらイスラエルは偶像崇拝に走り、最後はバビロンに滅ぼされることになりました。主に仕え続けていれば守られたはずです。私たちも困難な時代を歩んでいます。主に仕えることで主の守りと祝福を受けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛によって万事を益に」 ローマの信徒への手紙8:26~30(新約P285)   2023年5月14日 大竹敏生

 

本日も、このようにこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナは治まっていません。続けて他の病気と共に注意しつつ歩んでまいりましょう。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙8章26節~30節です。この箇所の28節を中心に、愛によって万事を益としてくださる神を信じるように導かれてまいりましょう。

本日の聖書の箇所のローマの信徒への手紙8章26節~28節には「神が万事を益とする」というすばらしい約束が記されています。でも私は最初この「万事を益とする」ということを、人間的にとらえ「皆が一応納得する」とか「皆が少しずつ妥協していく」ようなものと考えていました。でもそれは「万事が益」なのでしょうか。神がなさることですから、全てが最善なはずです。神はその人間をはるかにしのぐ大いなる力と知恵で「万事を益とする」のです。

そのような「神が万事を益とする」ということは、実はさらにすばらしいものです。「万事を益とする」という時、そこに私たちの願いは入るのでしょうか。神が万事を益とするのですから、私たちは何も考えなくてよいと考えることもできるでしょう。でも私たちには願いがあります。神は私たちを愛しておられますので、私たちの願いを無視されたりしません。私たちのその時その時、そしてその場その場の思いを大切にしつつ「万事を益とする」のです。そうです。神は「愛によって万事を益に」してくださるお方でもあるのです。

神はその大いなる力で「万事を益とする」お方です。そして愛をもって「万事を益とする」お方でもあります。そのどちらも大切ですが、神はご自身の力より、弱い私たちを愛する方を誇りとされています。新型コロナなどで私たちの歩みは困難な状況です。しかし神は愛をもって私たちと共に働き、「万事を益とする」のです。「愛によって万事を益に」してくださる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「聖書による神の導き」  テモテへの手紙Ⅱ3:10~17(新約P394)   2023年5月7日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができました。感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けています。続けて皆さまも他の病気と共に気をつけて歩んでください。

本日導かれた聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅱ3章10節~17節です。この箇所から導かれ、私たちが困難な状況にあっても、神が聖書を通して働き、適切な助けや導きをくださることを信じて歩んでまいりましょう。

このテモテへの手紙Ⅱはパウロが著者ですが、パウロの書簡の中でも最後に記したもので、パウロが処刑される直前に記したものと考えられます。言うならばパウロの遺言のような手紙です。そして手紙の宛先のテモテも厳しい状況にありました。この手紙は厳しい中の遺言のようなものと考えられるのです。

ここでパウロは「聖書」について記しています。16節に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」とあります。これは神がパウロを通してこの手紙を記したことを意味します。ですから、ここでパウロは旧約聖書を取り上げているのですが、神が記したということで、旧約も新約もどちらの聖書も含むと考えてよいのです。そしてそういう聖書を通して神は働かれ、導くのです。

聖書はそこに神が働くのですが、聖書が神ではありません。だから聖書を祭り上げたりせず、日々聖書に親しんでまいりましょう。パウロは、テモテがパウロと共に迫害を耐え抜き、苦難をいとわなかったのは、幼いころから聖書に親しんできたからだと語っています。15節~16節を見ますと、聖書は私たちを救いに導き、私たちを教え、日々、助けをくださることが分かります。聖書を通して神は私たちを導き、力をくださるのです。感謝いたします。

私たちはパウロやテモテと同じ歩みをしているわけではありません。しかし新型コロナなどで困難な歩みを強いられています。だから神の力が必要です。聖書による神の導きに従ってこれからも歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「一つとなって喜ぶ教会」 ヨハネによる福音書17:6~13(新約P202)   2023年4月30日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を守ることができましたことを主に感謝いたします。新型コロナはまだ感染者が出続けています。他の病気と共に皆さまも気をつけて歩んでください。

本日導かれた聖書の箇所はヨハネによる福音書17章6節~13節です。この箇所の11節、13節を中心に、どんな状況にあっても私たちの教会が主に喜ばれる教会として歩んで行けるように導かれましょう。

本日の聖書箇所のヨハネによる福音書17章は全体がイエス様の祈りです。この後、イエス様はすぐに十字架に架かることになります。この17章は有名な告別説教の最後の祈りです。6節~10節ではイエス様が弟子たちのために執り成しの祈りをしています。これはイエス様の愛を示しています。弟子たちと共に私たちのためにも執り成してくださるイエス様の愛を感謝します。

11節を見ますと「一つとなる」ことが記されています。そしてこの「一つとなる」ことはこの17章の後半にも何回も出てきます。弟子たちも、そしてこの後に主を信じる者たちも、迫害で困難な歩みをすることになります。そんな人たちに主は「一つとなる」ことを説きます。「一つとなる」ことが困難を乗り越えさせるのです。そしてこれは私たちにも説かれています。私たちも主の助けによって「一つ」となり、困難を皆で励まし合って乗り越えましょう。

次に13節をご覧ください。ここでは「喜び」ということが記されています。聖書の中では「喜び」が大切なものとされています。厳しい困難な状況も「喜び」をもって乗り越えることができるのです。しかし苦しい時、人は喜べるでしょうか。13節を見ますと「喜び」はイエス様の内にあるようです。私たちが喜ぶために神から喜びをいただき、苦難を乗り越えましょう。

今、私たちは「一つとなって喜ぶ教会」として歩む必要があります。主の助けによって使徒言行録2章の教会のように祝福されてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「何もかも神に」    ペトロの手紙Ⅰ5:6~11(新約P434)   2023年4月23日 大竹敏生

 

本日も、このようにこの高松太田キリスト教会で、主の日の礼拝がもてますことを感謝いたします。新型コロナの感染はまだ治まっていません。インフルエンザやその他の病気と共に、続けて注意しつつ歩んでまいりましょう。

本日主が導いてくださった聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰ5章6節~11節です。本日はこの箇所の有名な7節を中心に導きを受け、何もかも神にお任せして歩む者とされてまいりましょう。

8節で悪魔が「ほえたける獅子」に例えられています。以前、サファリパークに行った時、そこで見たライオンは別にほえたけってはいませんでしたが、迫力がありました。ほえたける獅子は間違いなく恐いですが、人間には知恵があります。武器などを使用して獅子に勝つことができます。あのダビデも羊を護るために投てき器を用いて、獅子を倒していたはずです。ダビデは私たちよりは獅子を恐れなかったでしょう。ではライオンが賢かったら恐いですね。

実は悪魔は人よりも賢く、もちろん人よりも体力的に強いのです。そんな悪魔は私たちを攻撃してきます。でも人は悪魔を倒すことはできません。ただ私たちは悪魔を倒す必要はありません。ただ悪魔に攻撃されても耐え抜けばよいのです。悪魔はいろいろなやり方で、私たちを神から引き離そうとします。私たちは最後まで神を信じ続け、神から離れなければ私たちの勝利なのです。

私たちは耐え抜けばよい、信じ続ければよいのです。ただそれも弱い私たちには難しいのです。ただ悪魔よりはるかに強い神が私たちの味方です。神は私たちを愛しておられ、私たちを助けてくださいます。ペトロの手紙Ⅰ5章7節に「私たちの思い煩いを神にお任せせよ」ということが記されています。私たちは一人で悪魔と戦うのではなく神と共に戦うのです。

悪魔は強く狡猾です。いろいろな攻撃を私たちにしてきます。ですから私たち何もかも神にお任せし、神から離れないで歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主のみことば」   ヨハネによる福音書8:28~32(新約P182)   2023年4月16日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会で、主の日の礼拝がもてますことを感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けています。インフルエンザなど他の病気と共に、続けて気をつけて歩んでまいりましょう。

高松太田教会の今年度の年度主題は「主のみことばに生きる」で、年度聖句はヨハネによる福音書8章31節です。本日はその箇所を中心に、ヨハネによる福音書8章28節~32節を通して、主のみ言葉の豊かさを学びましょう。

31節からまず「み言葉」という言葉を考えましょう。み言葉は聖書です。ただその意味は、直接の「聖書」だけにとどまらず、もっと広く豊かな意味があるのです。聖書は今も生きている神の言葉です。神の意志が聖書を通して示されるのです。従って「み言葉イコール神」と言っても決して言い過ぎではないのです。「み言葉」に現れる神に感謝いたします。またみ言葉、つまり聖書はたいへん豊かで、いろいろな意味が秘められています。例えば、同じ言葉でも聖書の原語から考えると、聖書の言葉の意味がさらに深く理解できるのです。聖書の深さから、神の豊かさを感じてまいりましょう。

31節の言葉で次に考えたいのは「とどまる」です。私たちは日本人ですから、日本の決まりに従います。でも他の国に行けばその国の規則に従います。私たちは「み言葉にとどまる」のですから、み言葉、つまり神に従うのです。そして神は私たちに信じて救われることを望みます。信じて救われましょう。

31節では、さらにみ言葉にとどまるならば「わたしの弟子である」とイエス様がおっしゃっています。信じる者は主の弟子なのです。弟子は師を慕い、師に従います。そして師のなさることを弟子もします。イエス様は私たちを愛し、福音宣教にまい進されました。ですから弟子である私たちも主のために、福音を宣べ伝えてまいりましょう。必ず主は助けてくださいます。私たちを弟子として導き、助けてくださる「主のみことば」に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「心が燃やされて」   ルカによる福音書24:25~35(新約P160)   2023年4月9日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができました。感謝いたします。新型コロナは相変わらず感染者が出続けています。インフルエンザと共に、続けて注意しつつ歩んでまいりましょう。

本日は今年のイースターです。そのイースター礼拝に導かれた聖書の箇所は、ルカによる福音書24章25節~35節です。この箇所から導かれ、主の復活を喜び、主によって心が燃やされつつ歩む者とされてまいりましょう。

本日の聖書箇所はエマオ途上の出来事が記されている箇所です。クレオパともう一人の弟子が、エルサレムからエマオという村に逃げていく途中の道で、復活したイエス様が現れてくださったことが記されています。二人の弟子は会ったのがイエス様だとは分かりませんでした。十字架で死んだイエス様が、生き返ることを信じられなかったようです。彼らは強いメシアを求めていたので、十字架ですべての人の罪を贖うという神の計画を理解していませんでした。だから「イエス様も人間だった」と失望し、またユダヤ人を恐れてエマオに逃げようとしていたのです。そんな二人にイエス様は、すぐに「わたしだ」と名乗りませんでした。彼らの間違ったメシア像を正すため、主は十字架によって栄光を受けることを聖書全体から説明したのです。そして彼らは変えられつつあったようで、先に行こうとするイエス様を引き止め、食事を共にしている時、イエス様がパンを裂き、彼らに渡す時、イエス様だと分かったのです。その後、イエス様の姿は見えなくなりましたが、彼らはイエス様が話してくれた時「心が燃えていたではないか」と確認し、エルサレムに戻ったのです。

さて、復活されたイエス様は今も生きておられます。そして私たちの心も聖書を通して燃えたたせてくださるのです。難しい時代を生きる私たちにとって心が燃やされることは大切なことなのです。復活の主が私たちの心を燃やしてくださることを感謝します。主に心を燃やされて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「十字架の力で」  コリントの信徒への手紙Ⅰ1:18~25(新約P300)   2023年4月2日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を行なうことができ、感謝いたします。新型コロナは感染者が減ってはいますが、まだ治まってはいません。インフルエンザと共に、気をつけてまいりましょう。

来週の主日は今年のイースターとなります。ですから本日は「棕櫚の主日」で、本日から受難週に入ります。受難とはイエスキリストの十字架です。本日はコリントの信徒への手紙Ⅰ1章18節~25節を通して、主の十字架の価値を覚え、十字架の力によって歩むことを心がけてまいりましょう。

本日の聖書箇所のコリントの信徒への手紙Ⅰ1章18節に「十字架の言葉」とあります。これは「十字架の成すもの」、また「福音」という意味です。イエス様の十字架によって私たちは救われました。ですから「福音」なのです。なので私たちにとって十字架は価値が高いものです。ただ普通の人はその価値を知りません。だから無意味に思うのです。そして中には十字架に敵対心のようなものを持つ人もいます。異端の信者の人たちは十字架を「失敗」「ばからしい」と蔑むのです。イエス様はすべての人が救われることを願って十字架に架かってくださいました。すべての人が十字架の価値を知り、信じて救われるように祈り、また十字架を証ししてまいりましょう。

そしてこの十字架は私たちにとって力となります。一つは「十字架によって救われる」という事実がもたらすという側面があります。私たちは一方的な神の愛によって救われました。それは喜びであり感謝です。そして今も私たちは主の十字架によって救われ続けているのです。ですから、十字架は私たちにとって力なのです。また本日の聖書箇所で「十字架」は自分ではなく神を中心に生きるように勧めているように思います。私たちには罪があり、厳しいこの世を歩むには弱いのです。しかし神は全知全能で強いお方です。どんな状況でも主の十字架の力で歩んでまいりましょう。十字架の力を感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰によって感謝」  フィリピの信徒への手紙4:4~7(新約P366)   2023年3月26日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができ、感謝いたします。新型コロナはかなり落ち着いてきましたが、まだ治まってはいません。インフルエンザと共に、注意して歩んでまいりましょう。

本日は2023年度最後の主日礼拝です。その日の礼拝に導かれた聖書の箇所は、フィリピの信徒への手紙4章4節~7節です。この箇所から導かれ、神を信じて「何事につけ」感謝をもって歩むことを心がけて参りましょう。

本日の聖書箇所のフィリピの信徒への手紙4章4節~7節は、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章16節~18節と似ています。主要なテーマは3つあります。それは「喜び」「祈り」、そして本日はもう一つのテーマである「感謝」について神から導きを受けたいと思います。

ここで神は「感謝」について、「何事につけ」感謝するように命じています。普通は感謝すべきことがある時に感謝するのであり、「何事につけ」感謝することはできません。なぜ神はそのような「感謝」を求めるのでしょうか。それは「感謝」がさらなる祝福を生みだすからです。感謝をもって歩む人は肉体的にも祝福されると言います。聖書でも感謝することでさらに祝福を受けることが記されています。感謝をもって歩み、祝福を受けてまいりましょう。

ではどうしたら「何事につけ」感謝ができるのでしょう。本日の箇所では「感謝」と「祈り」を組み合わせています。祈りは神の力を願うのです。つまり「何事につけ」感謝するには神の力が必要なのです。7節にありますように神は私たちの祈りに応え、必ず感謝な状況に導くのです。そして神はいつも私たちを守り、多くの祝福をくださっています。私たちには当たり前にように感じるその恵みを覚え、感謝しましょう。そして神はいつも私たちを愛し、私たちを気にかけておられます。それも感謝なことです。神を信じて「何事につけ」感謝して歩みましょう。それが、まさに信仰によって感謝する歩みなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛と一致」    エフェソの信徒への手紙4:1~6(新約P355)   2023年3月19日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会において、主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナは感染者が減っていますが、治まってはいません。インフルエンザと共に、続けて気をつけて歩んでまいりましょう。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙4章1節~6節です。この箇所から導きを受け、神のために愛によって一致して歩むことを心がけて参りましょう。

このエフェソの信徒への手紙を記したのはパウロです。このパウロは本日の聖書箇所もそうですが、自身が記した手紙の中で「一致」を何回となく説いています。それぐらいこの「一致」をパウロは大切なものと考えていたのでしょう。そしてこの「一致」ですが、愛と密接な関係があるものです。2節に「一切高ぶらないこと」「柔和」「寛容」「忍耐」が記されていますが、これらのことを通して「一致」「一つとなること」が実現へと向かうのです。私たちの教会は2022年度「愛し合う群れに」を年度主題として歩んでまいりました。このことはまた「一致」を導くものでもあったのです。

一致は神を喜ばせるものです。ですから神は私たちが一致することを助けてくださいます。そして私たちを祝福に導くのです。一致は同じになるということではありません。聖書では私たちを「人間の体」に例えています。これが聖書の説く一致です。右手と左足は同じではありませんね。でもそれぞれが特性を生かして働いています。私たちもそれぞれが与えられた賜物を生かして、神のために働くこと、それが一致であり、一つとなることなのでしょう。マタイによる福音書18章19節に「心を一つにして」とありますが、これは正に神を中心に、それぞれが神のために一つとなって歩むことを記しています。神のためにそれぞれが愛をもって一致し、歩んでまいりましょう。愛は神から来ます。その愛をもって一致する、心を一つにすることができることを感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「先立ち、共におられる神」   申命記31:1~8(旧約P330)   2023年3月12日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まり、主の日の礼拝をもつことができ、感謝申し上げます。新型コロナは減少していますが、感染者が出ていて、インフルエンザも流行しています。続けて注意しつつ歩んでまいりましょう。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所は、旧約聖書の申命記31章1節~8節です。この箇所から導きを受け、神によって「強く、雄々しくあれ」のみ言葉を、私たちが実践して歩めるように心掛けてまいりましょう。

「強く、雄々しくあれ」というみ言葉はこの申命記31章だけではなく、ヨシュア記1章にもあります。どちらもヨシュアに命じられています。複数回言われているのですから、ヨシュアは他の人に比べて弱い人だったのでしょうか。いやそうではなく、まず「恐れるな」という命令のレベルが高いということがあるのでしょう。民数記13章~14章にありますが。カナンの地に入った偵察隊は、ヨシュアとカレブを除いて皆が恐れ、「カナン人は強い。我々は勝てない」と報告したのです。その地に入るわけですから「強く、雄々しくあれ」のレベルは高いのです。そして恐れもいろいろあるということです。本日の聖書箇所の2節にモーセがカナンの地に入れないことを語っています。理由は年齢とかつてイスラエルの民の不信仰で、モーセが怒り、神に栄光を帰さなかったことです。これも恐いですね。そうです。ヨシュアはイスラエルの民の弱さや、不信仰も恐れてはならないのです。

神は「強く、雄々しくあれ」と命じています。弱い私などは難しいと感じます。ただ神は恐れないで強く歩めるように約束してくれています。一つは神が共におられるということです。神は弱い私たちと共にいて助けてくださるのです。もう一つは神が先立ってくださるということです。神は私たちの先立ちとなり、適切に導いてくださるのです。私たちは困難の中にあっても先立ち、共におられる神を信じて「強く、雄々しくあれ」を実践してまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が必ず助ける」 コリントの信徒への手紙Ⅰ10:11~13(新約P312)   2023年3月5日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を守ることができ、感謝をいたします。新型コロナはまだ感染者が出続けていて、インフルエンザも流行しているようです。皆さまどうぞ気をつけて歩んでください。

本日、主に導かれた聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙Ⅰ10章11節~13節です。この箇所から導きを受け、神がどんな状況にあっても、私たちを助けてくださることを信じて歩む者とされてまいりましょう。

この箇所の13節は特に有名です。私たちの多くがこの箇所の言葉によって力を受けています。またこの箇所は多くの人に知られていて、クリスチャンでない人でも励まされているすばらしい聖書のみ言葉です。この13節の「試練」と訳されている苦難は、私たちの誰もが直面します。なぜならば「試練」だからです。私たちは困難を乗り越えることで、いろいろと成長しますが、特に私たちの信仰は苦難を乗り越えて成長していくのです。神は私たちが成長することを望んでおられます。ですから、私たちの歩みは苦難の歩みです。でも神が「逃れの道」を備えてくださっているので、乗り越えて成長していくのです。

その「逃れの道」ですが、具体的にどのようなものかは、その時の状況でいろいろです。ある時は困難が解消されることもあるでしょう。またある時は苦難に耐える力が与えられるということもあるでしょう。神が私たちにとって一番良い「逃れの道」を備えてくださっているのです。それを信じて私たちは歩む必要があるのです。詩編121編の最初で、その詩編の著者は「助けはどこから?」と問い、そして自ら自分に言い聞かすように「主から」と答えています。強い確信を感じさせます。私たちも神の助けを信じて歩みましょう。

この13節からクリスチャン以外の人も励ましを受けています。ならば私たちはもっともっと励まされ、力を受けるはすなのです。神がどんなに厳しい状況でも助けてくださることを信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛し合うことが」    ペトロの手紙Ⅰ4:7~11(新約P433)   2023年2月26日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができましたことを感謝いたします。新型コロナはまだ感染者が出ていて、インフルエンザも流行しています。皆さま続けて気をつけて歩んでください。

本日、導かれた聖書の箇所は、ペトロの手紙Ⅰ4章7節~11節です。この箇所を通して、私たちが愛し合うことによって得られる恵みを覚えましょう。

私どもの教会の2022年度の年度主題は「愛し合う群れに」です。この「愛し合うこと」は神の命令で、「愛し合うこと」で私たちは多くの恵みを得ます。本日の聖書の箇所にもその恵みが記されています。それを考えてみましょう。

まずは8節に「愛は多くの罪を覆うから」と記されています。ただ罪の赦し、つまり救いが愛し合う行為によるということはありえません。救いは信仰によって与えられるのです。主の愛で私たちは救われました。救いの根源に愛があります。ですから愛し合うことで、信仰は強くされます。感謝いたします。

またもう一つ考えたいと思います。本日の聖書箇所の最初に「万物の終わりが迫っています。」とあります。イエス様はこの世の終わりに、迫害や災害、苦難があることを語っています。この手紙が記された時代、そういうことが起こっていたのでしょう。その大変な時にペトロは「愛し合うこと」を命じているのです。「愛し合うこと」は大切ですが、むしろ「信仰を失わないようにすること」が記されている方が相応しいのではないかと思いました。ただパウロは自分一人で立ち向かおうとして、イエス様を「知らない」と三度言ってしまいました。しかしその後、他の裏切った弟子たちと共に歩み、細々としたものだったかもしれませんが愛し合いました。それで信仰が無くならなかったのです。だから苦難の中にある人たちが、信仰を保つために「愛し合うこと」を命じているのだと思います。私たちも苦難の中にあります。そんな中、信仰の成長のために愛し合ってまいりましょう。愛し合うことに力があるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんなときでも神を」    サムエル記上23:1~5(旧約P466)    2023年2月19日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝を守ることができました。主に感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けていて、インフルエンザも流行しています。続けて気をつけて歩んでまいりましょう。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所は、旧約聖書のサムエル記上23章1節~5節です。この箇所から導きを受け、どのような状況にあっても全能の神に祈り、神を信頼して歩む者とされてまいりましょう。

本日の聖書箇所に登場するのはダビデという人物です。イスラエルの第二代の王です。ただこの時は初代王のサウルにねたまれ、逃亡中でした。ダビデは信仰の人で、主が油注がれたサウルに敵対する意思は無かったのですが、ダビデの人気をねたむサウルが、ダビデの生命をねらっていたのです。従って一方的に逃げるダビデの逃亡は大変厳しいものでした。

そんな中、ケイラがペリシテに襲われているという知らせが届きました。ダビデは「助けに行くべきか」を神に聞いています。ペリシテは強く、逃亡中のダビデは勝てるのか、またそんなことをしている場合かということもありました。ダビデは神の指示を仰いだのです。神は「助けに行くように」指示を出しました。ダビデは神に従い、ペリシテに勝利しました。また神はサウルの手からもダビデを守り続けます。ダビデはいつも神に聞き従い、厳しい逃亡でしたが、最後まで守られ、第二代の王となったのです。そして王となってからも神により頼み、神と共に、神のために大きな働きを成したのです。

さて、私たちも今、ダビデとは違いますが、新型コロナなどで厳しい歩みを強いられています。ダビデのように神に祈り、導きを受けなくてはなりません。私たちは弱い者ですが、神は全知全能です。どんなに厳しい状況でも神は守ってくださいます。またダビデは王になっても神に頼みました。私たちもどんなときでも神を求め、神に祈りつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神から力を受けて」 ルカによる福音書22:31~34(新約P154)   2023年2月5日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会において、主の日の礼拝をもつことができ、主に感謝申し上げます。新型コロナはまだ治まっていません。インフルエンザも心配されます。続けて、祈りつつ注意して歩んでまいりましょう。

本日、日本バプテスト連盟の「協力伝道週間」の最終日に導かれた聖書の箇所は、ルカによる福音書22章31節~34節です。この箇所から、主から力を受けている者として、力づけ合って歩む者とされてまいりましょう。

本日の聖書の箇所は、いわゆる「ペトロの離反の予告」の場面です。ペトロはイエス様を知らないということを否定します。しかしイエス様が予告された通りになりました。イエス様はそうなると分かっていながらも、ペトロを見捨なかったのです。イエス様の大きな愛に感謝いたします。

この箇所からいくつかのことを学びましょう。まず、イエス様の信仰の強さを思います。ペトロは最悪な状況に陥り、イエス様を裏切りますが、主はペトロが立ち直ることを信じています。主の信仰の偉大さに感謝します。

そして次に考えたいのは祈りの強さです。主がペトロのために祈り、ペトロは立ち直りました。「イエス様が祈ったのだから」と考えるかもしれません。確かに私たちはイエス様と違って、罪人で弱い者です。しかし祈りは全知全能の神の力を引き出すのです。ですから私たちの祈りにも力があるのです。

もう一つ覚えたいのは、ペトロのために祈ってくださったイエス様は、私たちのためにも祈っておられるということです。主はペトロや弟子たちを愛したように、私たちのことも愛しておられます。そして今も力をくださるのです。主が祈ってくださることを信じ、励みとして歩んでまいりましょう。

ペトロは立ち直りました。そしてイエス様に命じられた通り、他の人たちを力づけたことでしょう。私たちも神から力を受けています。お互い愛し合い、励まし合い、力づけ合って歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みの助け」  コリントの信徒への手紙Ⅱ6:1~10(新約P331)    2023年1月29日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まり、主の日の礼拝を行なうことができました。主に感謝いたします。新型コロナはまだ多くの感染者が出ています。インフルエンザも心配です。続けて、気をつけて歩んでまいりましょう。

本日、導かれた聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ6章1節~10節です。この箇所から、主の、恵みの助けのすばらしさを覚えてまいりましょう。

この箇所の2節に出てくる「救い」ですが、一つは、罪があって滅びに至るはずだった私たちに、十字架によって永遠の命が与えられたことを意味します。そしてもう一つ、この世にあって困難がある私たちを助けてくださることも示しています。どちらにしても今、恵みの中にあることを感謝しましょう。

この手紙を記したのはパウロです。パウロたちには神のために、和解を説く務めが与えられました。しかしその務めによって彼らは困難を強いられることになります。パウロたちは当然祈ったでしょう。そして神はその祈りに応えてくださったのです。パウロたちの祈りの願いは困難の解消とかであったと思います。それに対して神はそれ以上のことをしてくださったのです。本日の聖書の箇所には、神のために働いたパウロたちが4節後半~5節に記されているような苦しみを味わったのに対し、神はそれに耐える力だけではなく、主を信じる者として証しとなるすばらしい対処をさせてくださったことが記されています。そして困難に直面するパウロたちは、表面上は大変な歩みに見えるかもしれないけれど、本当は祝福された歩みをしていたことが記されています。これは彼らがやせ我慢をしていたのではなく、本当に祝福されていたのです。

私たちもパウロたちと同じように神のために働く者です。そしてこの世において困難があります。しかし私たちには愛の神がおられます。神が必ず祈りに応え、私たちを守り、さらに祝福を加えてくださるでしょう。それが神の恵みの助けです。大胆に恵みの座に近づいていこうではありませんか。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恐れるな。わたしがいる。」  イザヤ書43:1~7(旧約P1130)    2023年1月22日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会において、主の日の礼拝をもつことができ、感謝いたします。新型コロナは変わらず多くの感染者が出ており、インフルエンザも流行しています。続けて、主に祈りつつ歩んでまいりましょう。

本日導かれた聖書の箇所は旧約聖書のイザヤ書43章1節~7節となります。この箇所から導かれ、主によって恐れず歩む者とされてまいりましょう。

聖書には「恐れるな」ということがたくさん記されています。それだけ「恐れるな」ということは大切な命令なのでしょう。恐れからくるストレスは、私たちの身体に悪影響を与えることが分かっています。そして恐れは私たちに、できることをできなくさせてしまうのです。また恐れは不信仰から来るものです。信じて歩む者は恐れず歩むことができます。聖書に「恐れるな」という命令が多く記されているのは、それが信じる者にとって大切だからなのです。

ではなぜ恐れなくてよいのでしょうか。本日の聖書を見てみましょう。まず一つは5節にあります。それは「主が共にいる」からです。先に「恐れるな」という記述が聖書にたくさんあると申しましたが、それらの箇所の中のかなりの箇所で「主が共にいる」ことが恐れなくてよい理由として記されています。本日の聖書箇所には、捕囚などで散らされ、もう戻れないと思われたイスラエルの民が、主によって戻ることが記されています。このような力を持つ主が共におられるのですから、恐れることはないのです。また4節にあるように、私たちを神は愛しておられます。1節~3節に記されていることは歴史的事実ですが、「贖い」という言葉が用いられています。これはイエス様の十字架の贖いについての預言と言われています。私たちは主の愛によって贖われ、信じることで救われる者とされました。このように主が愛してくださっているので恐れることはありません。「恐れるな。わたしがいる。」といってくださる主を信じて、恐れることなく歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストが教会の頭」 エフェソの信徒への手紙1:19~23(新約P353)   2023年1月15日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まり、皆で主の日の礼拝を行なうことができ、感謝いたします。新型コロナは多くの感染者が出ており、インフルエンザも流行しています。続けて注意し、祈りつつ歩んでまいりましょう。

本日導かれた聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙1章19節~23節です。この箇所から「キリストは教会の頭」ということを覚えたいと思います。

「教会」という言葉は新約聖書の原典のギリシャ語で「エクレシア」という言葉です。この言葉は「集まり」「集会」そして「呼び集められた者たち」という意味の言葉です。この呼び集めたお方はキリストですね。呼び集めた者と呼び集められた者は、どちらが上でしょうか。普通呼び集めた側が上です。そうです。教会も呼び集めたキリストが上で、つまり頭なのです。

本日の聖書の箇所には「すべてのものの上に立つキリストが、教会の頭として与えられた」ということが記されています。この「教会」とはすべてのキリスト者と見ることもできますが、マタイによる福音書18章20節から、小さな私たちのような教会も指すとも考えられます。小さな教会の頭として、すべてのものの上に立つキリストが頭として与えられました。感謝いたします。

では、キリストは教会の頭として何をしてくださるのでしょう。一つは、この世でどうしたらよいのか分からない私たち、教会を導いてくださるということです。神は私たちの思いに届いてくださり、導きます。私たち教会は、神のみ心は何かを考え、神のために働くのです。またキリストは頭として私たちを守りささえます。どんなに弱い者も、また小さい者も、誰も見捨てられることはありません。キリストはすべての者を愛し、守るのです。感謝いたします。

キリストは頭として私たちの教会にもおられます。エフェソの信徒への手紙1章23節にあるように、私たちの教会が、キリストが満ちあふれる教会として歩めるように祈ります。教会の頭であるキリストに感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の中を」  テサロニケの信徒への手紙Ⅰ3:11~13(新約P377)   2023年1月8日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を守ることができました。感謝いたします。新型コロナは感染者が増え続け、インフルエンザも心配です。皆さまも気をつけて、また祈りつつ歩んでください。

キリスト教では「愛」はとても大切なもので、聖書には愛の記述がたくさんあります。本日、神に導かれた聖書の箇所はテサロニケの信徒への手紙Ⅰ3章11節~13節です。この箇所にも愛についての記述があります。この箇所から導きを受け、その愛の中を歩む者とされてまいりましょう。

本日の聖書箇所には、パウロの3つの祈りが記されています。この3つの祈りは愛と関連していると思います。まず一つ目の祈りは「テサロニケを再訪できるように」です。パウロは迫害でやむをえずテサロニケを離れました。やり残したと思うこともあったでしょう。でもやはり、パウロがテサロニケの教会を愛していたことがあったと思います。またテサロニケ教会の人たちもパウロを愛し、パウロに会いたいと考えていました。つまり愛による祈りでした。

また二つ目の祈りは「テサロニケ教会の人たちが愛し合い、愛に満たされるように」です。まさに愛に関しての祈りです。罪人である私たちは愛することができません。神はまず私たちを愛してくださいました。そこから私たちも愛することができるのです。パウロは神に祈っています。神の助けによって愛し合い、愛に満たされて歩めるようにという祈りだったのです。

三つ目の祈りは「再臨までに非のうちどころのないものとされるように」でした。ここでパウロは「すぐに」と祈っていません。この祈りは時間をかけてつちかわれていくものです。それは神の愛、そして私たちが神と人を愛すること、そういう愛の中で成長し、実現する者なのです。

愛のない今の時代こそ、神の愛とそれに応える私たちの愛が必要とされています。これからも神と共に神の愛の中を歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛は苦難をも」   ローマの信徒への手紙5:1~11(新約P279)   2023年1月1日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を行なうことができ、全能の主に感謝申し上げます。新型コロナは感染者の数がさらに拡大しています。インフルエンザと共に注意しながら歩んでまいりましょう。

本日は今年2023年の最初の日で、この1月1日が主日となりました。今年の元日礼拝、そして最初の主日礼拝を感謝いたします。今年も私たち一人一人の歩み、そして教会の歩みの上に主の祝福がありますように祈ります。本日導かれた聖書の箇所はローマの信徒への手紙5章1節~11節です。この箇所から、苦難の中にあっても導いてくださる神の愛を覚えてまいりましょう。

この世の歩みは苦難がつきものです。私たちにはその苦難を乗り越える力はありません。私たちにできるのは、その苦難を忍耐することぐらいです。その忍耐を意味のあるものにする必要があります。そのために神の愛が必要です。神は私たちを愛しておられます。神はその愛ゆえに私たちを救ってくださいました。そしてその愛ゆえに、この世で苦難の中にある私たちを、忍耐させ、練達、そして希望へと導くのです。つまりこの世の苦難にあえぐ私たちと共にあって、私たちを成長、祝福へと導くのです。私たちは神の愛によって救われました。しかし罪は赦されたのですが、罪はまだあり、罪を犯してしまう者なのです。でも本日の聖書箇所にありますように、神は罪人である私たちを愛してくださいます。つまり私たちは今でも罪人ですが、神は愛をもって導き、この世で困難の中にある私たちを忍耐させ、練達、希望へと導かれるのです。

2023年が始まりました。今年も新型コロナなど、苦難は残念ながら避けられません。しかし神の愛を信じて歩みましょう。神は私たちを愛しておられますから、私たちの祈りに応え、私たちを苦難の中にも導き、さらに祝福してくださるのです。神の愛は苦難をものともせず、神のみ心を今年もなしてくださるのです。神の愛を信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神に従うことで」   マタイによる福音書2:13~23(新約P2)   2022年12月25日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができました。主なる神に感謝いたします。新型コロナは感染者の数が拡大しています。インフルエンザも心配です。気をつけて歩んでまいりましょう。

本日は今年2022年の最後の主日となります。今年もここまで守られましたことを主に感謝いたします。そして本日はクリスマス当日となります。そのようなこの日に導かれた聖書の箇所はマタイによる福音書2章13節~23節です。ここに目をそむけたくなるような出来事が記されています。そんな箇所ですが、この箇所から神に従う者への神の恵みを覚えたいと思います。

ここにはクリスマスの闇と言う人がいるような悲劇が記されています。残虐なヘロデ王が、自分の王位を脅かす存在と認識したイエス様を殺害するために16節の悲劇を起こしました。幼子イエス様にとって大きな危機でした。しかし神に遣わされた天使が、ヨセフに夢で「エジプトへの避難」を命じ、ヨセフがそれに従ったことで、イエス様は守られたのです。

このイエス様のエジプト行きについては、ホセア書で神が告げていたことだと記されています。イエス様は単純に危機を逃れただけではなく、神の導きで昔のイスラエルの民の出エジプトを体験することになったのです。

そしてヘロデの引き起こした惨劇についても、エレミヤ書で預言されていたことと記されています。世には、なぜこんなことがと感じることとか、理不尽だと感じることがあります。震災などの災害がそうですし、新型コロナやウクライナの出来事もそうです。答えは分かりませんが、神は全てご存知だということを覚えてまいりましょう。神が知っていることは大きな力です。

ヨセフたちは、神の命令に従うことで危機を脱しました。私たちの歩みも言うならば危機の中にあります。危機を乗り切るため、逆風の中を進むために、ヨセフにならって、神を信じて神に従いつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「東方の学者たち」   マタイによる福音書2:1~12(新約P2)   2022年12月18日 大竹敏生

 

本日も、このように高松太田キリスト教会に集まり、主の日の礼拝を行なうことができましたことを感謝申し上げます。新型コロナは感染者が増加しています。インフルエンザと共に、注意して歩んでまいりましょう。

本日は今年2022年のアドベント第四週の礼拝で、今年のクリスマス礼拝です。導かれた聖書の箇所はマタイによる福音書2章1節~12節で、有名な箇所です。誕生した主イエス様に、遠くから会いに来た東方の学者たちを覚えて、その信仰に倣いましょう。また主のご降誕を喜び、お祝いしましょう。

ここに出てくる「東方からの学者たち」については、正確にどこから来たとか、何名だったのかなどは分かっていません。また占星術の学者とありますが、これは天文学者というようなものだと推察できます。その学者たちは救い主にお会いするために、星に導かれて困難をいとわず、はるばるやってきました。その時、非常に高価で価値があり、それぞれ意味のある「黄金」「乳香」「没薬」を生まれてこられたお方への贈り物として持ってきました。そして学者たちは普通の家にいて、おそらく貧しい身なりのイエス様を見て、この子が約束されたユダヤ人の王だと信じ、拝みました。そして帰りは、夢で神から告げられた通り、ヘロデのもとに帰らず帰国したのです。

彼らはこのように主の導きを信じて、主を求めてやってきました。そして主の示した方を、外見などに惑わされることなく信じ、拝みました。そして学者でしたが自分の判断ではなく神の導き、そして命令に従ったのです。私たちもこの主を慕い求めること、自分の判断ではなく神を信じること、東方の学者たちのこういう信仰に倣って歩みたいと思います。

今は難しい時代です。そんな中、クリスマスを迎えました。こういう時代だからこそ主を慕い求めること、自分ではなく神の導きを信じること、学者たちのこういう信仰に倣って歩みましょう。クリスマスおめでとうございます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ダビデの子ヨセフ」  マタイによる福音書1:18~25(新約P1)   2022年12月11日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まり、主の日の礼拝を行なうことができ、主なる神に感謝申し上げます。相変わらず新型コロナは感染者が出ています。新型コロナとインフルエンザにも注意して歩んでまいりましょう。

本日は今年2022年のアドベント第三週の礼拝です。導かれた聖書の箇所はマタイによる福音書1章18節~25節となります。イエス様の父親として選ばれたヨセフを覚え、すばらしい救い主の誕生を喜んでまいりましょう。

なぜヨセフがイエス様の父として選ばれたのでしょうか。本日の聖書の箇所を見ますとヨセフは正しい人でした。この正しいとは律法を厳格に守るというような正しさではなく、婚約者マリアを思う愛ゆえの正しさです。生まれてくる救い主イエス様も、罪を憎まれますが、罪人である私たちをそれ以上に愛し、救うお方ですね。感謝いたします。またヨセフは主のみ使いが命じるとおりにする信仰の人でした。主のみ使いが命じたようにマリアを妻として迎え、生まれてくる子の父となったのです。そしてその子にみ使いが命じたように「イエス」という名を付けたのです。これはヨセフが徹底的に神を信頼し、神に従うことを選んだということです。ヨセフは正しい愛の人であり、信仰の人でした。イエス様はこのような父のもとで成長したのです。

確かにヨセフはイエス様の父親として選ばれるだけのものを持っています。でもヨセフが選ばれたのは一方的な神の恵みなのです。ナザレという辺境の町の人で、地位も無く無名の人ヨセフを神は選ばれました。これはイエス様が有名無名は関係なく、すべての人を救うために来られた方だということを意味します。主のみ使いはヨセフを「ダビデの子ヨセフ」と呼びました。無名であってもヨセフを価値ある者と見ておられます。そして神は世にあるすべての一人一人を価値ある者として救ってくださるのです。ダビデの子ヨセフを父としてお生まれになった救い主の誕生を今年も喜んで迎えましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「折が良くても悪くても」  テモテへの手紙Ⅱ4:1~8(新約P394)  2022年12月4日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を守ることができました。主なる神に感謝いたします。新型コロナは感染者が減っていません。インフルエンザも心配です。続けて注意して歩んでまいりましょう。

本日は今年のアドベント第二週の礼拝で、世界バプテスト祈祷週間の最終日となります。その日に導かれた聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅱ4章1節~8節です。この箇所から導きを受け、どのような時でも神に祈り、神から力を受けて、み言葉を折が良くても悪くても宣べ伝える者とされてまいりましょう。

テモテへの手紙Ⅱ4章2節に「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても」とありますが、これはどういう意味でしょうか。どんな困難な状況でも、あきらめずに宣べ伝えることを言っているのでしょうか。それはあるかもしれません。神には悪い時はないのです。では折の良い悪いは関係なく宣べ伝えよと言うのでしょうか。それもあるでしょう。ただやみくもに相手のことを考えずに、宣べ伝えるのは考えものです。私たちはみ言葉、そしてみ言葉が示す福音を語っているのです。また愛の神を伝える愛の使者なのです。神のために、神からの知恵をいただきながら宣べ伝えてまいりましょう。

また「折が良くても悪くても」と「良くても」が入っていることに注目しましょう。宣べ伝えること、つまり伝道は神の業です。神が私たちを用いて宣べ伝えさせてくださるのです。私たちも多くの人たちの働きで救われましたが、それは皆神がその人たちを用いた結果なのです。神に助けを祈りましょう。

テモテは当時困難な中にありました。そんな彼を叱咤するようにパウロは「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても」と命じます。ただこれは強いパウロだから発せられる命令ではありません。パウロは「私も弱かった。だけど神に導かれて宣べ伝えてきた。」と言っていると感じます。私たちも弱いのですが「折が良くても悪くても」宣べ伝える者とされてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「平和の救い主」     イザヤ書11:1~10(旧約P1078)  2022年11月27日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集い、皆さまと主の日の礼拝を行なうことができましたことを、主に感謝いたします。新型コロナは感染者が増えています。インフルエンザと共に気をつけて歩んでまいりましょう。

本日から2022年のアドベントに入ります。今年も喜びつつクリスマスを迎えましょう。今年のアドベント第一週の礼拝に導かれた聖書の箇所は、旧約聖書のイザヤ書11章1節~10節です。この有名な「救い主誕生の預言」から、平和をもたらす救い主を覚えてまいりましょう。

旧約聖書には救い主に関する預言がたくさんあり、その救い主の誕生に関する預言もあります。このイザヤ書の7章、9章、そしてこの11章がそうですし、ミカ書5章も有名です。これらの預言に共通するものは、この救い主は強さよりも愛の方で、弱い人を含むすべての人の救い主だということなのです。

イザヤ書11章1節と10節にエッサイという人の子孫として救い主が誕生することが記されています。エッサイは有名なダビデ王の父になります。つまりダビデという名を用いても同じなのです。救い主は有名で有能な人だけのための救い主ではなく、無名で弱い人も救うお方であることを示しています。またイエス様は「ナザレのイエス」と言われます。ナザレの名は1節にある「若枝」という言葉から来ています。ここに、ナザレという「良いものが出ない」という町の名を冠とする救い主だと預言されているのです。

そして「平和」です。6節~9節にその「平和」が記されています。こんなことは神にしかできません。獅子の穴に入れられたダニエルは、自分の力でライオンを倒したのではなく、神によって守られたのです。これが神の平和です。そしてもう一つ、この救い主は罪人である私たちと神との間に平和をもたらします。預言通り今から2000年前に来られた「平和の救い主」は、今も私たちに平和をくださっています。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の名によって祈る」  ヨハネによる福音書14:1~14(新約P196)    2022年11月20日 大竹敏生

 

本日も、このようにこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができました。導いてくださった主に感謝いたします。新型コロナは感染者がまた増えてきました。いっそう注意して歩んでまいりましょう。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所は、ヨハネによる福音書14章1節~14節です。本日はこの箇所の特に13節~14節を中心に「主の名によって祈る」ことを考えてまいりたいと思います。

私たちはなぜ主の名によって祈るのでしょうか。その理由の一つは、罪人である私たちの祈りは、主によってでなくては神に届かないので主の名によって祈るのです。主の名によって祈ることで、神に祈りが届くことを感謝します。

もう一つの理由は13節~14節にあるように、主の名によって祈ることでその祈りが叶えられるということがあります。ただ主の名によって祈ることが、祈りが叶えられるおまじないのようなものというのとは少し違います。主の名によって祈る時、神は叶えること以上のことをしてくださることすらあるのです。主の名によって祈る時、神は最善をなしてくださるのです。

主の名によって祈ることはまた、私たちの祈りが、主イエス様の祈りになることを意味します。これはすばらしい恵みです。私たちの祈りがイエス様の祈りになるからその祈りは聞かれます。そしてイエス様がその祈りの主となるのです。だからどのように叶えるかも主が導くのです。私たちは主の名によって祈り、13節にありますように主に栄光を帰しましょう。

主の名によって祈ることはこの後の15章、16章にも出てきます。このイエス様の告別説教の中で3回も語られているのです。イエス様は弟子たちを残して天に昇られますが、弟子たちに聖霊を与えることを約束し、主の名によって祈ることを教えてくれました。私たちも困難なこの世を歩む時、聖霊に助けられ、主の名によって祈りながら歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「荒れ野の民を愛する神」   出エジプト記33:12~17(旧約P149)    2022年11月13日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝を行なうことができましたことを、主に感謝いたします。新型コロナは感染者がまた増えています。これからもさらに気をつけて歩んでまいりましょう。

本日導かれた聖書の箇所は、旧約聖書の出エジプト記33章12節~17節です。私の神学校の卒論のテーマは「出エジプトのルートについて」でした。従って出エジプト記や民数記、申命記などには特別な思いがあります。本日その出エジプト記を示されました。感謝しつつ導きを受けたいと思います。

出エジプトした民は荒れ野で神やモーセに、ことあるごとに不平を言いました。そして本日の聖書箇所の直前には「金の子牛事件」という大きな罪も犯しました。「イスラエルの民はなぜこうなのか」と言いたくなりますね。ただ彼らは荒れ野にいたのです。荒れ野はいろいろな面で過酷です。そこに住むのは大変困難なのです。もし私がそこにいたなら、民と同じで不平を言っていた可能性は高く、罪を犯していたのかもしれません。

本日の聖書箇所は、モーセが民のために執り成しをしている箇所です。この執り成しは今日の箇所よりも前から続いてきています。神はモーセの執り成しで、少しずつ思いを直されてきているように読めます。モーセの執り成しのすばらしさを覚えたいと思います。ただ神が人間の言葉で思いを直すというのは不思議な気がします。私はここからむしろ変わらない神の愛を感じます。神は罪を見逃すようなことはしません。しかし神の愛は変わらないのです。それがこの神とモーセのやりとりに表れているように感じるのです。

神は過酷な荒れ野で、神を信じて歩んだ人だけを愛したのではありません。過酷な荒れ野で不平を言わず耐えた人を愛したのでもないのです。神は荒れ野で不平を言い、罪を犯した人をも愛しました。今、この世の荒れ野で不平を言い、罪を犯してしまうような私たちをも愛してくださる神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「死への勝利者」 コリントの信徒への手紙Ⅰ15:50~58(新約P322)   2022年11月6日 大竹敏生

 

本日も、皆さまとこの高松太田キリスト教会に集い、主の日の礼拝をもつことができました。主なる神に感謝をいたします。新型コロナは感染者が減りません。これからも気を抜くことなく、注意して歩んでまいりましょう。

本日は、私共高松太田キリスト教会の今年の「召天者記念礼拝」となります。その「召天者記念礼拝」に導かれた聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙Ⅰ15章50節~58節です。この箇所から導かれ、先に天に召された方々を覚え、私たちの信仰生活への糧としてまいりましょう。

50節に記されたことは次の2つのことを意味します。それは「主を信じる者は再臨の時に朽ちないものに変えられるということ」と、「主を信じる者は神によって救われ、永遠の命が与えられるということ」です。そしてこれは再臨の時に生きている者も召天されていた方もどちらもです。感謝いたします。

この手紙の著者パウロは、54節~55節で旧約聖書を引用し、「死への勝利」を記しています。そしてこのコリントの信徒への手紙Ⅰの15章は「イエスの復活」について記されています。つまり強い「死」に勝利したのはイエスキリストであるということです。ですが、まるで勝利したのは召天者、そして私たちだというように語ってきました。それについては57節に「イエス様から勝利を賜った」ことが記されています。私たちは死に勝つことができません。死にはイエス様が勝利したのですが、「私たちも勝利したこと」にしてくださったのです。私たちも、そして召された方々もこの勝利によって朽ちないものにされます。勝利を賜ってくださったイエス様に感謝いたします。

さて、私たちもこの世の歩みを終えて神のみもとに召された方々に続いて信仰を全うしましょう。私たちは「死への勝利者」とされるのです。この世においての歩みは、神が共にいる歩みです。イエス様によって「死への勝利者」とされた者として主の業に常に励んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「イエスの焼き印」 ガラテヤの信徒への手紙6:11~18(新約P350)   2022年10月30日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集まって、皆さまと主の日の礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。新型コロナは感染者が出続けています。これからも油断せず、注意して歩んでまいりましょう。

本日、主が導いてくださった聖書の箇所はガラテヤの信徒への手紙6章11節~18節です。この箇所の特に17節から、「イエスの焼き印」という言葉について学び、主の恵みと祝福の中を歩んでまいりましょう。

ガラテヤの信徒への手紙は、ガラテヤ教会を導いたパウロが、ガラテヤ教会で起こっていた「信じるだけではなく、律法に定められている割礼も受けるべき」という間違った教えに惑わされているという問題を危惧して書かれた手紙です、本日の箇所はこの手紙の最後の部分ですが、本日の箇所にもそのことに対する記述があります。パウロの熱い思いが見えてまいりますね。

さて17節の「イエスの焼き印」とはどういうことでしょうか。「焼き印」というのは家畜や奴隷に所有者が押すものです。ですからイエス様のものであることを意味します。私たちも「イエスの焼き印」を受けていますから、イエス様のものなのです。イエスさもの所有であるということは、イエス様の恵みや祝福を受ける権利を持つことを意味します。イエス様の恵みと言えば、何と言っても「救い」です。私たち「イエスの焼き印」を受けた者は、救いや導きなど、必要なものをすべていただくことができるのです。そして「焼き印」は所有者が押すものです。そうです。イエス様の方から私たちを、主のものとしてくださいました。一方的な恵みを感謝いたします。そして「焼き印」は消えません。イエス様の救いや恵みは消えることは無いのです。感謝します。

今は難しい時代で確かなものはほとんどありません。そんな中、「イエスの焼き印」は確かです。確かな「イエスの焼き印」を受けた私たちは、これからもイエス様に用いられ、主のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「大いなる愛に根ざし」 エフェソの信徒への手紙3:14~21(新約P355)    2022年10月23日 大竹敏生

 

本日も、このようにこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を行なうことができました。主なる神に感謝いたします。新型コロナはまだまだ油断できません。神に祈りつつ、気をつけて歩んでまいりましょう。

本日、主に導かれた聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙3章14節~21節です。この箇所から、神の愛の強さ、大きさについて学び、その愛を信じ、愛に根ざして歩む者とされてまいりましょう。

キリスト教では「愛」というものがとても大切なものです。聖書には「愛」について多くの記述があります。その中には、本日の聖書箇所にもありますが「神の愛が大きい」ことが数多く記されています。その「大きい」ことの内容ですが、それは文字通り「大きく強い」ということが一つあります。ヨハネによる福音書3章16節に、神が愛する私たちのためにみ子イエスキリストを贈ってくださり、そのイエス様が私たちのために十字架に架かって死んでくださったことが記されています。愛によって、大きな犠牲を払ってくださったのです。そしてもう一つのことは、神の愛は「無くならない」ということです。神は、罪があり、愛される価値がないような私たちを愛してくださいました。そんな愛ですからこの愛は無くならないのです。私たちは神のために、神の喜ばれる歩みをしたいと思っていても、罪によってそれができなくなることがあります。でも神の愛はそれで消えてしまうことはありません。このような神の大きな愛をおぼえて、信じて歩んでまいりましょう。

さて、では私たちはどうしたら良いのでしょうか。エフェソの信徒への手紙3章17節には「愛に根ざし、立つ」ことが記されています。「立つ」にはしっかりとしたものの上にでなくてはなりません。そして「根ざす」とはそこから生きるのに必要なものを得ることが大切です。神の大いなる愛に根ざし、神から必要なものをいただき、しっかりと立ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神によって」   コリントの信徒への手紙Ⅰ3:1~9(新約P302)   2022年10月16日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に皆で集まり、このように主の日の礼拝をもつことができまして感謝いたします。新型コロナは一時に比べ落ち着いているようです。でも油断せずに気をつけて歩んでまいりましょう。

本日、導かれた聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ3章1節~9節です。この箇所から、神によって歩むことを学んでまいりましょう。

コリントの教会は多くの問題を抱えていました。パウロはこのコリントの信徒への手紙ⅠとⅡでも厳しい言葉を記しています。コリントの教会の問題の最たるものは、やはり分裂でしょう。パウロは分裂するコリントの教会に対してコリントの信徒への手紙Ⅰ3章1節で「キリストとの関係において乳飲み子」と記しています。自分の知恵や知識、能力や体験を誇りとし、他を見下し分裂していた彼らにとって屈辱的な言葉とも言えます。確かに分裂して子どものようなコリントの教会を、パウロは厳しく断じているのです。

ただパウロはコリントの教会の人たちを見捨ててはいません。「キリストとの関係において」というのは、クリスチャンであるという意味と言えます。彼らの信仰を認め、救われていると認めているのです。そしてまた「乳飲み子」というのは成長します。人生で子どものころは、霊肉共に一番成長するころです。パウロは「乳飲み子」という言葉の中に「あなたがたは成長する」という意味を持たせているのです。その成長は、コリントの信徒への手紙Ⅰ3章1節で「乳飲み子」であったコリントの教会の人たちが、9節では「神の畑、神の建物」となるとしています。クリスチャンは誰でも、神のために働く者と成りたいと考えます。神の畑、神の建物となって神のお役に立ちたいのです。神によって成長させられることを感謝いたします。

今は難しい時代です。だからこそ神によって歩んでまいりましょう。神は私たちを成長させ、恵みや祝福に満たしてくださいます。感謝いたします、

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしたちは主の群れ」   詩編100:1~5(旧約P937)    2022年10月9日 大竹敏生

 

本日も、皆さまとこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を守ることができ、主に感謝を申し上げます。新型コロナはだいぶ感染者が減っているようですが、引き続き十分に気をつけて歩んでまいりましょう。

私どもの教会の2022年度の年度主題は「愛し合う群れに」です。本日はこの主題から「群れ」という言葉について、旧約聖書の詩編100編1節~5節から考えるように主に導かれています。主の導きを感謝いたします。

詩編100編の中で3節に「群れ」という言葉が出てきます。そしてそこから「私たちは主の群れ」ということを示されます。「主の群れ」というのはどうあるべきでしょうか。「羊の群れ」とありますが、羊といってもそれぞれ性格が違うでしょう。しかしその群れには、どの羊にも居場所があるのです。「群れ」とは「教会」を指します。教会はキリストのからだで、私たちは部分です。誰も不必要な人はいません。全ての人が必要とされるのが教会なのです。

また「主の群れ」であるなら主がその群れにおられます。主の名によって集うところに主がおられます。主は群れである教会に共におられ、私たちを助けてくださるのです。「愛し合うこと」も主の助けなしにはできません。主から助けを受けて歩んでまいりましょう。ルカによる福音書12章32節に「小さな群れよ、恐れるな。」とあります。昔も今もこのイエス様の言葉に教会は励まされ、支えられています。私たちの教会も、主の群れとして主から必要をいただき、主によって守られ、励まされて歩んでまいりましょう。

詩編100編は礼拝の招きの言葉として、多くの教会で用いられています。またこの詩編は、神殿に入場する際に歌われていたそうです。そして内容的には、賛美と喜びなどが記されています。まさに礼拝ですね。主の群れである教会は礼拝を大切にし、礼拝し続けることが大切です。これからも主の群れとして、皆で、主と共に、主のために主を礼拝しつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛するがゆえに助ける神」  イザヤ書41:8~13(旧約P1126)    2022年10月2日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝をもつことができますことを、主に感謝いたします。新型コロナはだいぶ落ち着いているようですが、引き続き注意して、神に祈りつつ歩んでまいりましょう。

本日、神に導かれた聖書の箇所は旧約聖書のイザヤ書41章8節~13節です。この箇所の特に10節は多くの人に愛されている聖句で、ユーバージョンという聖書アプリで2020年に一番読まれた聖句だそうです。2020年と言えば、新型コロナが猛威をふるいはじめた年です。その年、新型コロナに悩んだ人が、聖書から励ましを受けました。その一番の箇所がイザヤ書41章10節だったのです。この箇所から、神の愛による助けを学びましょう。

私たちは弱い者です。神の助けが必要です。私たちが神の助けを必要とする時、なぜ神に頼るのでしょうか。私は以前、神が大きな力を持っているから神に頼ると感じていました。それは間違いではありません。私たちにはどうすることもできないので、全知全能で不可能が無い神に助けを求めるということは当然あります。ただ聖書では、むしろ神が私たちを愛しておられるがゆえに、神に頼るべきことが記されています。本日の箇所もそうです。神は取るに足らない者を愛ゆえに選びました。愛ゆえに共におられます。愛ゆえに私たち一人一人の神であると宣言します。愛ゆえにその大いなる力で、私たちを完全に助けられるのです。また神は愛ゆえに、私たちに直接かかわってくださり、助けてくださるのです。私たちは確かに、全知全能の神に助けを求めます。でも私たちは困難な状況の時、神の愛が必要です。神が私たちをその愛によって助けてくださいます。神の愛による助けを信じて歩んでまいりましょう。

新型コロナが流行しはじめた時、多くの人が恐怖しました。今日の箇所には「恐れることはない」とあります。私たちを愛する神の助けは、弱くて恐怖に陥ってしまう私たちを守ります。神の愛による助けを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストにならいて」  フィリピの信徒への手紙2:1~11(新約P362)   2022年9月25日 大竹敏生

 

本日も、このように高松太田キリスト教会に集まって、主日の礼拝を守ることができることを、感謝いたします。新型コロナは感染者が減っているようではありますが、続けて祈りつつ気をつけて歩んでまいりましょう。

本日導かれました聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙2章1節~11節です。この箇所からは前に「一致」をテーマにみ言葉をとりつがせていただきました。本日の箇所はそれにふさわしい箇所です。ただ本日は「一致」にも触れますが、キリストにならって歩むことを考えたいと思います。

本日の宣教題は「キリストにならいて」です。これは中世の神学者として有名なトマス・ア・ケンピスという人の代表的著作と同じ題です。先生には申し訳ありませんがこの「キリストにならいて」という言葉から学びましょう。

「キリストにならいて」とは、まず神の力を受けることを意味します。弱い私たちは神の力を受けなければ、本日の箇所にある一致や愛し合うことを成すことができません。大切なこのことを神の力によってなしてまいりましょう。また「キリストにならいて」とは神の喜ぶことをするという意味があります。一致や愛し合うことは神が喜ばれることです。そして何よりも11節にある信仰の告白が神を喜ばせます。キリストにならって神を喜ばせる歩みをしてまいりましょう。そしてもう一つ「キリストにならいて」の意味として、キリストの真似をするということがあります。真似は子どもでもする簡単なことです。でも私たちに大きな恵みをもたらします。キリストは人が一致し、愛し合うために模範として謙遜の限りを尽くされました。神であられながら人間となってくださったのです。私たちもキリストの真似をして、謙虚となり愛をもって一つとされましょう。人は師の真似をして成長し、弟子と呼ばれるようになります。何と私たちはキリストの真似をして、キリストの弟子とされるのです。「キリストにならいて」弟子とされることを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰によって」   ヘブライ人への手紙11:1~3(新約P414)    2022年9月18日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を行なうことができましたことを、感謝いたします。新型コロナは少し感染者が減っているようです。でも続けて注意して歩み、主の守りを祈ってまいりましょう。

本日は今年の「高齢者を覚える礼拝」となります。聖書ではご高齢の方を敬い、大切にすべきことが記されています。そして誰もがいつか高齢者となります。神と共に年を重ね、ご高齢の方を敬いつつ歩んでまいりましょう。

今年の「高齢者を覚える礼拝」に導かれた聖書の箇所はヘブライ人への手紙11章1節~3節です。この箇所は「信仰」について記されています。「信仰」と言えばアブラハムという人物を思い浮かべる人も多いと思います。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれる人です。そのアブラハムの信仰の行為の一つとして知られるのは、神の導きに従って住み慣れた故郷を離れ、未知のカナンの地に向かったことでしょう。アブラハムがハランからカナンに向かったのは、創世記12章4節にありますが75歳の時のことです。言うならばアブラハムが高齢になってからのことと言えるのです。

ご高齢の方は長く生きているので、人生経験が豊富です。そして神は、私たちがまだ神を信じていない時から、すでに私たちを導かれているのです。つまりご高齢の方は若い人たちに比べ、人生経験と共に神経験も豊富なのです。ヨハネによる福音書8章の「姦淫の場で捕らえられた女」の記事で、イエス様の「罪のない者が石を…」の言葉に、年長者からそこを去ったことが記されています。高齢の人こそ自分の罪、弱さを知っています。そして絶対なお方である神を信じていくのです。アブラハムは75歳にもかかわらず、神を信じて未知のカナンに向かいましたが、同時に75歳だからこそ信じることができたと言えるでしょう。新型コロナなどで先が見えない今こそ、この「信仰」が必要とされています。アブラハムのように信仰によって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「深く熱く愛し合おう」   ペトロの手紙Ⅰ1:22~25(新約P429)    2022年8月28日 大竹敏生

 

本日も、この高松太田キリスト教会に集い、主の日の礼拝をもつことができましたことを、主に感謝いたします。新型コロナは相変わらずで、猛暑も続いています。気をつけてお過ごしください。主の守りをお祈りいたします。

本日、主に導かれた聖書箇所は、ペトロの手紙Ⅰ1章22節~25節です。今年度の教会の年度主題「愛し合う群れに」にある「愛し合うこと」はヨハネ文書に多くの記述があります。ただ聖書全体が「愛し合うこと」に関する記述にあふれているのです。本日の聖書箇所は、ヨハネと同じイエス様の十二弟子の一人で、いつもイエス様と一緒だったペトロが記したものです。ヨハネと同じように主に愛されたペトロは、やはり「愛し合うこと」を勧めています。私たちにとって大切な「愛し合うこと」を学び、実践してまいりましょう。

「愛し合うこと」は神の命令です。だから私たちは愛し合わなければなりません。そして私たちは「愛し合うこと」で祝福を受けるのです。その祝福ですが、例えば教会の教勢的な祝福があります。ただそういう物質的な祝福だけではありません。パウロは問題のあるコリントの教会に「一致」を命じます。これは「愛し合うこと」が教会の問題の解決につながることを示しています。

さてペトロがこの手紙を記した理由ですが、迫害に苦しむ人への助言と励ましという目的で記されたようです。苦しむ人に「愛し合うこと」を命じていますが、何か「愛し合うこと」というのは、余裕がある時にできることという印象があります。でも小さい子どもは、苦しい状況の時に親の愛を必要としているのではないでしょうか。私たちが困難な状況にある時、むしろ「愛し合うこと」が必要なのです。ペトロは「余裕があれば、少しでも愛し合え」と言っているのではなく、「苦しい時こそ、熱心に愛し合え」と命じているのです。これは「愛し合うこと」が、困難を乗りこえさせるということです。神によって深く熱く愛し合い、これからも困難を乗りこえてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛は離れない」   ローマの信徒への手紙8:31~39(新約P285)    2022年8月21日 大竹敏生

 

本日も、高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝を行なうことができまして、主に感謝いたします。相変わらず新型コロナは猛威を振るっており、暑い日も続いています。神に守りを祈りつつ歩んでまいりましょう。

本日導かれた聖書箇所はローマの信徒への手紙8章31節~39節です。この箇所については、著者のパウロが面白い書き方をしています。いくつかの神に関する歓迎できない状況を上げ、その後にそれを強く否定しているのです。そして特に「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」という事柄に関しては、35節~39節をさいて記しています。これはこのことが特に大切だということを示しています。また他に上げられていることも、この「神の愛」に関連しているのです。本日はこの「神の愛が離れない」ということを考えてまいりましょう。

「神の愛は離れない」ということを、人間の愛のように考えては理解ができません。人間は愛する価値のあるものを愛するのです。だからその価値が無くなれば、愛が消えることもあるのです。しかし神は罪ある私たちを愛します。それは罪に目をつぶっているのではなく、その罪に汚れた私たちを罪ごと愛しておられるのです。従って愛される資格のない私たちを愛し、その愛が私たちから引き離されることがないのです。強く大きな神の愛に感謝いたします。

神の愛は離れません。その離れない愛に対して私たちはどうしたらよいのでしょうか。私たちは離れない神の愛にただ甘えていてはならないのです。私たちは、神が間違いなく愛してくださることを覚え、その愛は離れることは無いことを忘れてはなりません。いつも神に愛されていることを覚えましょう。

私たちは神の愛によって生かされ、愛によって恵みや力を受けます。ちょうどヨハネによる福音書15章にあるブドウの木につながる枝のように、神の愛から離れずに歩んでまいりましょう。離れない神の愛に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神と平和」   コリントの信徒への手紙Ⅱ13:11~13(新約P341)    2022年8月14日 大竹敏生

 

本日もこのように、この高松太田キリスト教会に集い、主の日の礼拝をもつことができましたことを感謝いたします。新型コロナは相変わらず猛威を振るっていて、暑さも続いています。皆さま方の守りをお祈りいたします。

今は私たちの日本バプテスト連盟の「信仰宣言推進月間」の最中です。導きを祈ってまいりましたところ、やはり世界が平和を必要としている今、真の「平和」について語るように導かれました。神の導きを感謝します。

聖書の「平和」は単に戦争が無い、ということだけではありません。意味も「平安」「安全」などの意味もあります。またこの世的には、「平和」は国のような大きな集団に用いる言葉ですが、聖書の「平和」は私たち一人一人、個人にも用いられるのです。つまり、その大きな集団に属する者のすべてが、一人一人「平和」だということなのです。聖書の「平和」を感謝いたします。

このような「平和」を、私たちが造り出すことができるのでしょうか。無理だと思います。ではどうしたらよいのでしょうか。まず祈ることが大切です。神に「平和」の実現を祈り求め、神の助けを受けましょう。

またマタイによる福音書5章9節によれば「平和を実現する人々は神の子どもとよばれる」のです。子どもは親から必要なものをいただくことができます。私たちには「平和」を実現することはできませんが、神の子どもとして神の力で「平和」の実現に参与できます。神の力を受けて歩んでまいりましょう。

またコリントの信徒への手紙Ⅱ13章11節~13節に記されている、愛し合うことをはじめ、主を信じる者として、主に喜ばれることを実践することが大切です。そしてそのために「愛と平和の神」と共に歩み、神からの影響を受けてまいりましょう。私たちは環境や周りの影響を受けるものです。愛と平和の神から影響を受ける時、真の「平和」を実現できないはずの私たちが、主と共に神の真の「平和」の実現に参与することができるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神は我らを愛された」  ヨハネによる福音書3:16~18(新約P167)    2022年8月7日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナが相変わらず猛威を振るっています。続けて気をつけて歩んでまいりましょう。そして早い終息を続けて祈りましょう。

本日、導かれた聖書箇所は、ヨハネによる福音書3章16節~18節です。この中の16節は特に有名です。「聖書の中の聖書」「聖書の全てが凝縮されている箇所」などと言われ、あのマルチンルターも「聖書の縮図で、小さな福音書である。」とたたえています。この箇所から学べることを感謝いたします。

この16節は特にまだ主を信じていない方に、主を信じて救われるように語っています。では主を信じている人は必要がない箇所なのでしょうか。そうではありません。マルチンルターは先に挙げたあの言葉の後に「私たちはこの節を暗唱し、絶えず唱えるべきである。」と語ったそうです。神は私たちを愛して、私たちを救ってくださったのです。私たちはその神の愛の救いを忘れてはなりません。神を信じて救いを受け、今も愛されていることを覚えましょう。

私たちは罪人です。従って私たちは滅びに至るのです。私たちは救われなくてはなりません。この救いですが、私たちの行ないや私たちの人間的価値では救われないのです。神の律法を守ることは誰もできません。私たちは自分で自分を救うことはできないのです。神はそれに対して私たちが滅ぶことを望んでおられないのです。神は私たちを愛しておられ、私たちを救いたいのです。それで神の側から救いの道を開いてくださいました。それがイエスキリストの十字架です。罪のないイエス様が、私たちの罪を負って十字架に架かってくださいました。私たちと神の関係は回復したのです。感謝をいたします。

私たちは神の愛によって救われました。私たちが成すべきことは信じることです。私たちが神を信じて救われることは、神が求めておられることです。私たちは神を信じて、神の愛に応えてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神がすでに助けを」    エステル記4:10~5:2(旧約P767)    2022年7月31日 大竹敏生

 

本日もこのようにこの高松太田キリスト教会に集い、主の日の礼拝を行なうことができました。感謝いたします。新型コロナが猛威を振るっています。続けて気をつけてお過ごしいただき、新型コロナの早い終息を祈りましょう。

本日、導かれた聖書の箇所は、旧約聖書のエステル記4章10節~5章2節です。この箇所から、神はいつも私たちを助けるために、祈りに応え、最善に導いてくださる方であることを覚えてまいりましょう。

南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、民はバビロンに連れて行かれました。いわゆるバビロン捕囚です。その後、覇権を握ったペルシア帝国のキュロス王によって、エルサレムへの帰還が認められたのです。しかし、帰らなかった人たちもたくさんいました。エステル記はそういう人たちに起こった神の恵みが記されています。エステルは両親がいなくて、いとこのモルデカイの養女として育ち、後にペルシア王のクセルクセスの妻となりました。王に仕える大臣のハマンという人をモルデカイが拝礼しなかったことでハマンは怒り、モルデカイだけではなくユダヤ人を皆殺しにしようとしたのです。それを知ったモルデカイは、王に執り成すようにエステルに頼みます。しかし、内庭にいる王のところに、呼ばれていないのに行くことは、王の赦しが無ければ死刑になってしまいます。エステルはユダヤ人に祈るように求め、自分も祈って王のところに行きました。神は王の心を導いてくださり、王は呼ばれないのにやってきたエステルを赦し、最終的にエステルの執り成しにより、ハマンの策略は成功せず、かえってハマンが処刑されることになったのです。

神はこのように、私たちがどのような厳しい状況に陥ったとしても、全てを導いておられ、私たちを助けてくださいます。私たちは、時に大変な状況に悩まされることもありますが、神はそんな中にあっても一番良い方法で、私たちを助けてくださいます。神の愛の導きを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「互いに愛し合うために」   ヨハネの手紙Ⅰ3:19~24(新約P444)   2022年7月24日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナの感染者が過去にも無いほどとなっています。どうぞ気をつけてお過ごしください。そして早い終息を祈り続けましょう。

本日の聖書箇所はヨハネの手紙Ⅰ3章19節~24節です。私どもの教会の今年度の年度主題は「愛し合う群れに」です。この主題に関しては「ヨハネによる福音書」と、この「ヨハネの手紙Ⅰ」に多くが記されています。本日の箇所もそうです。この箇所から愛し合うために必要なことを考えてみましょう。

私たちは何故に「愛し合う」のでしょうか。一つはそれが神の命令だからです。そしてこれが神の望んでおられることでもあるからです。自分のためにはできなくても愛する神のために、「お言葉ですから」とイエスの言葉に従ったペトロのように神の求めることをしたいものですね。

そして本日の聖書の箇所には「愛し合うこと」による祝福が記されています。それは「救いの確信による平安」「願いがかなえられる」「神が内におり、我らが神の内にいる」です。どれもすばらしい祝福です。感謝いたします。

このように「愛し合うこと」は、愛する神の求めることであり、私たちの祝福につながります。しかし、愛のない私たちは「愛し合うこと」ができないのです。私たちはできないことは専門家に助けを求めますね。愛の専門家は神です。私たちは愛し合うために、神の助けが必要なのです。神の助けの一つは、神が私たちを愛しておられるということです。神の愛を受けて互いに愛し合ってまいりましょう。またヨハネの手紙Ⅰ3章23節をご覧ください。そこには「信じること」と「愛し合うこと」という大切な命令が記されています。これは別々の命令ではなく、関係があるのです。私たちは神を信じなければ、愛し合うことは困難なのです。愛せない自分に気づかされた時、神を信じ、神の助けを受けましょう。神が私たちを、愛し合うように導いてくださるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の言葉の大いなる力」   イザヤ書55:8~13(旧約P1153)   2022年7月17日 大竹敏生

 

本日もこのように高松太田キリスト教会に集まって、主の日の礼拝を行なうことができ、感謝申し上げます。新型コロナがまた猛威を振るっています。皆さまも気をつけてお過ごしください。そして続けて早い終息を祈りましょう。

本日の聖書箇所は旧約聖書のイザヤ書55章8節~13節です。本日はこの箇所を通して神の言葉の大いなる力、すばらしさを感じてまいりましょう。

11節の「わたしの言葉」とは神の言葉です。神の言葉は神の思い、考えです。聖書の時代、神が直接人に語ることもありました。ただ多くの場合、預言者などを通して神が人間に言葉を語られ、導かれたのです。今は多くの場合、聖書がその役割を果たします。神の言葉イコール聖書と考えてよいのではないでしょうか。神の言葉ですから、神の言葉は神の思いを実現させるものです。天地創造も「光あれ」など、神の言葉が実現に導いたのです。また神は、ご自身の言葉によって、人を助けたり、導いたりもしています。感謝します。

11節にありますが、神の言葉は、神の思いを必ず実現させます。それは神の言葉だからです。人間の言葉なら、その思いの実現に近づくことができても、実現できるとは限りません。しかし神の言葉は必ず実現します。そしてその成せる業は、天地創造や神の助け、そして10節に記されている大地を潤す雨や雪など、ことごとく力あるすばらしいものなのです。その神の言葉による神のみ心の大きさとすばらしさは、8節~9節にあるように、私たちの考えをはるかに超えて高いのです。私たちの思いをはるかに超えてすばらしいのが神の言葉による、神のみ心なのです。ですから私たちは、時に、その大きさ、高さを理解できないのです。しかし13節にあるように、神の成せる業は有害なものも最高なものに変えます。新型コロナも、いつか神の言葉で、神が最善なかたちで解決してくださるでしょう。12節にありますように、神の言葉による神の業の大きさ、すばらしさを感謝し、喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛し合うべき」   マタイによる福音書18:21~35(新約P35)  2022年7月10日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に集まり、主の日の礼拝を皆で守ることができまして、感謝いたします。新型コロナの感染者がまた増加しています。皆さまも気をつけてお過ごしいただき、早い終息を続けて祈りましょう。

本日は先々週の聖書の箇所に続く箇所で、マタイによる福音書18章21節~35節を導かれています。この箇所から導きを受け、私たちは互いに愛し合うべきであることを覚えてまいりましょう。

本日の聖書箇所には「仲間を赦さない家来のたとえ」が記されています。家来は実に一万タラントン、一日の労働賃金を一万円とすると6000億円という借金を主君から免除されたのに、自分が貸した百デナリ、つまり100万円を返せない仲間を赦すことができませんでした。なぜでしょうか。家来は赦されたことを喜んでいなかったのでしょう。そして赦してくれた主君に対しても良い感情を持っていなかったのかもしれません。どちらにしてもこの家来は、主君の愛を恩に感じることなく、仲間を赦さなかったのです。

このたとえで主君は神です。そして家来と仲間は人間です。一万タラントンの赦しは罪の赦し、救いです。私たちが神に赦され救われたことは、とてつもない大きな恵みなのです。私たちは救いを喜び、感謝いたしましょう。主君が家来を愛したように、神は愛される資格のない罪人である私たちを愛しておられます。私たちは神から愛されているから、愛することができるのです。そして神は愛し合うことを求めています。互いに愛し合いましょう。

本日のたとえにはおもしろいことに、主君に仲間の投獄を知らせる別の仲間たちが出てきます。これは何を意味しているのでしょうか。これは家来やその家来に投獄された者にも仲間がいたということではないでしょうか。そうです。私たちにも愛し合う仲間がいます。愛し合うという行為は一人ではできません。これからも主にある者として互いに愛し合ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「それぞれの必要が」  マタイによる福音書6:25~34(新約P10)   2022年7月3日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に皆で集まり、主の日の礼拝を行なうことができ、感謝申し上げます。新型コロナは治っていません。皆さまも続けて気をつけてお過ごしください。また、少しでも早い終息を祈りましょう。

本日は今年の神学校週間の最終日です。日本バプテスト連盟の指導者養成の働きのためにお祈りと献金へのご協力をよろしくお願いいたします。そんな本日、導かれました聖書の箇所はマタイによる福音書6章25節~34節です。この箇所は有名で、私もこの箇所から何回も宣べ伝えさせていただいた経験があります。この箇所はそれぐらい有名で、なじみ深い箇所だということが言えるのではないでしょうか。またこの箇所からはいろいろなテーマでメッセージを語ることができます。「思い悩まないこと」「神を第一にすること」「その時を大事にすること」などのテーマで私も語らせていただいたことがあります。本日は「神が私たちの必要を満たすこと」を考えたいと思います。

 私たちの必要は神が満たしてくれます。フィリピの信徒への手紙4章6節~7節に、神に祈ることで必要が満たされることが記されています。ただ、私たちは自分の必要が全て分かっているわけではありません。分からない必要を私たちはどうやって得たらよいのでしょうか。それは本日の箇所に答えがあります。神は私たちそれぞれの必要をご存知です。私たちは神を第一に思い、祈ることで神はいつの間にか私たちの必要を満たしてくださるのです。私が神学生のころ、私は自分の必要が分かりませんでした。しかし主を思い、祈りつつ歩むときに、主は私にいつの間にか必要なものくださったのです。感謝します。

 今、神学校で学んでいる人たちも必要が与えられるようにお祈りください。そして、神は皆さまの必要にも応えてくださいます。神に必要を求めて祈りましょう。神は私たちの願うものをくださいます。そして神が必要と判断されたものも与えてくださいます。神に必要を祈りつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしもその中にいる」  マタイによる福音書18:18~20(新約P35)   2022年6月26日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝をもつことができ、感謝いたします。新型コロナは相変わらずです。皆さまも続けて気をつけてお過ごしください。また、早い終息を祈り続けてまいりましょう。

 私どもの教会の2022年度の年度主題は「愛し合う群れに」です。この「群れ」とは「教会」と考えることができます。本日はマタイによる福音書18章18節~20節を導かれました。この箇所から「教会」はどうあるべきかを考え、また神が教会と共にいてくださることを覚えたいと思います。

 19節に「願い事」「求める」とあります。これは祈ることを意味します。教会は祈る必要があるのです。祈りは意味が広く、賛美することやみ言葉を読むことも祈ることに含まれると考えられます。賛美やみ言葉、そして祈りは教会のなすべき礼拝に欠かせません。私たち教会にとって祈ることが不可欠で、大切なことなのです。また19節に「心を一つにして」と記されています。これは、教会のメンバーが同じ考えになるということではなく、一人一人がそれぞれの賜物で神のために歩むことを意味しています。「心を一つにして」は、他の訳で「心を合わせて」と訳されています。つまり心を一つにするために、考えをすり合わせることが必要です。そのすり合わせのために、教会は互いに覚え合い、愛し合うことが求められています。教会は「祈ること」そして「心を一つにする」ために「愛し合うこと」が必要なのです。

 そして20節には「主の名によって二人または三人が集うところには、神が共におられる」ということが記されています。教会には神が共におられなければなりません。神がいなければ教会とは言えないのです。そして神が共におられるから、教会が祈ることも、愛し合うこともできるのです。感謝します。私たちは小さな群れです。しかし神が共におられます。何も恐れることはありません。神が私たちの中にいてくださることを信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信頼すべき神」     創世記32:23~33(旧約P56)   2022年6月19日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会において、主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナの感染は続いています。皆さまも感染しないようにお過ごしください。また、続けて早い終息を祈ってまいりましょう。

 本日導かれた聖書の箇所は旧約聖書の創世記32章23節~33節です。この箇所から、本当に信頼すべきは神であることを覚えたいと思います。

 本日の聖書の箇所の主人公ともいうべきヤコブは、頭がよく、狡猾な人物でした。また神への思いが強く、兄エサウの長子の特権、そして祝福を奪い取ったのです。そのことでエサウから憎まれ、ヤコブは母の兄のラバンのもとに避難することとなりました。そこで苦労をし、故郷に戻ることになったのです。 ヤコブは自分を憎む兄エサウとの再会を間近に控えて、不安と葛藤の中にありました。そんなときヤコブは、神またはみ使いと格闘したのです。

この格闘を見ますと、まずこの戦いは神の側が仕掛けています。つまり苦しむヤコブに神の側から働きかけてくださったのです。そしてこの戦いはどうみてもヤコブの勝利とは見えないのに、神はヤコブが勝ったと言われました。神は弱い私たちに勝利を賜るのです。またヤコブは力いっぱい格闘しました。子どものように力いっぱい神に縋り付いたのです。私たちは大人で、子どものように考え無しに行動ができないこともあります。しかし神の前には力いっぱい縋り付いてよいのです。あのゲッセマネの祈りのように神に力いっぱい祈り、神に縋ってまいりましょう。

ヤコブは頭が良い人物でした。エサウとの再会を前に、いろいろと考え、人としてできる限りのことをしていました。しかしヤコブの不安は消えませんでした。そんなヤコブに神は働きかけました。この格闘を通してヤコブは、神に信頼するしかないことを知ったのです。神は私たちを愛して、気にかけておられます。愛と全能の神に信頼をおいてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祝福が祝福を」    詩編118:26~29(旧約P958)    2022年6月12日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会におきまして、皆さまと共に主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。新型コロナはまだ続いています。皆さまも感染に気をつけてお過ごしくださり、早い終息を続けて祈りましょう。

 本日は「子ども祝福礼拝」です。本日は祝福について考えるように示されています。そこで導かれた聖書の箇所は旧約聖書の詩編118編26節~29節です。この箇所から、神から与えられる祝福を覚えてまいりましょう。

 本日の聖書箇所、詩編118編26節の「主の御名によって来る人」とは、「主の導きで神殿に来た人」と「メシアであるイエス様」の2つ意味があります。ただイエス様は神です。祝福の源は神なのに、神に「祝福あれ」というのは何かおかしい気がします。これはこの「祝福」という言葉の意味が豊かだということを意味しています。「祝福」は「良いこと」であり、「たたえる」とか「賛美する」という意味もあるのです。つまり「神はすばらしい」ということでしょうか。私たちにとって神を賛美することは大切です。神に祝福を、神をほめたたえて歩んでまいりましょう。

 26節の言葉は「祝福が祝福を」生みだすことが記されています。神は私たちを祝福してくださいます。その内容は救いや恵み、また導きなど、それは多岐にわたります。そしてその祝福を受けた私たちは、神を祝福、つまり賛美します。すると神はさらに私たちを祝福してくださるのです。また神は他の人のために祝福を祈ることを命じておられます。その命令を守ることで、神は他の人を祝福するばかりか、祝福を祈る私たちをも祝福してくださるのです。主を賛美することも、他者の祝福を祈ることも神の命令です。そして神の命令を守ることは、私たちの祝福につながるのです。神からの祝福は尽きることはありません。神には限界がないのです。私たちは神を賛美し、自分だけではなく、他者の祝福を祈りましょう。その祝福がさらに祝福を生みだすのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「聖霊を受けて歩む」   使徒言行録2:37~42(新約P216)   2022年6月5日 大竹敏生

 

本日も皆さまと共に高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を守ることができました。感謝いたします。新型コロナは相変わらずです。感染しないように気をつけてお過ごしくださり、早い終息を祈ってまいりましょう。

 本日は今年のペンテコステです。キリスト教では、ペンテコステは聖霊が与えられたことを祝う日です。そしてペンテコステは教会の誕生した日とされています。そのペンテコステに導かれました聖書の箇所は、使徒言行録2章37節~42節です。この箇所から聖霊について導きを受けてまいりましょう。

 聖霊降臨の出来事は使徒言行録2章1節~4節に記されています。その聖霊降臨の出来事に驚く人たちに、ペトロが「これはヨエル書で預言されていたこと」と語り、そしてダビデの言葉から「イエス様がメシアだ」と聖霊に満たされて語りました。本日の聖書の箇所は、その後のことが記されています。

 聖霊は多くのことをしてくださいます。聖霊は神ですから、使徒言行録2章1節~4節のような人にはできないこともします。そして14節以降にあるようにペトロは聖霊に導かれて、知恵と力を受けて語りました。それを聞く人たちも聖霊が導いています。その他、42節にある「使徒の教え」とはみ言葉を読むことや学ぶこと、そして「交わり」これは食事も含みます。その他、主の晩餐式や祈りなどもすべて聖霊の助けによるものです。このように聖霊は私たちにとって必要なこと、また神が喜ばれることをさせてくださるのです。

 では聖霊を受けるにはどうしたらよいのでしょうか。38節は、バプテスマを受けたら初めて聖霊を受けるように読めますが、聖霊は私たちが救われるために、信仰を与え、私たちがバプテスマを受けるよりも前から働いておられます。ルカによる福音書11章13節に「求める者に聖霊が与えられる」とあります。聖霊は信じて求める者に与えられます。私たちに必要なものをくださり、神に喜ばれることをさせてくださる聖霊を受けて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神から与えられる」  コロサイの信徒への手紙2:1~5(新約P369)   2022年5月29日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に皆で集い、主の日の礼拝を守ることができて感謝いたします。新型コロナの感染は治まっていません。感染しないように気をつけてお過ごしください。また続けて早い終息を祈りましょう。

 本日、神に導かれた聖書の箇所はコロサイの信徒への手紙2章1節~5節です。この箇所の特に3節を中心に導きを受け、私たちにとって必要な「知恵」と「知識」、そして「恵み」や「祝福」を、神から得てまいりましょう。

 コロサイの信徒への手紙は、コロサイの教会にグノーシス主義、律法主義などの異端が入り込みつつあることを聞いたパウロが、正しい福音を信じ続けるようにと警告した手紙です。これらの異端はキリストをないがしろにする教えです。だからパウロはこの手紙でキリストについて多くを記しているのです。

 3節に「知恵や知識の宝がキリストの内に隠れていること」が記されています。ここで「知恵」「知識」とありますが、これはグノーシス主義が「知恵」や「知識」を大切にすることを意識してのことで、そこには「恵み」や「祝福」なども含まれているのです。さて「隠れている」ということが記されていますが、神は私たちに与えたくなくて隠しているのではありません。ヤコブの手紙1章5節にもありますように、むしろ神は私たちに「知恵」と「知識」、そして「恵み」や「祝福」を与えたいと考えておられるのです。「隠れている」というのは知恵や知識が目に見えないこと、そして計り知れないほど多くの私たちにとって必要なものがキリストの内にあることを示しているのです。

 では私たちはそれをどうしたら得ることができるのでしょうか。例えば人から何かを得ようとするなら、その人と付き合う必要がありますね。私たちも神とお付き合いをするべきなのです。それは神の喜ばれることをすることが大切です。神が聖書で命じている「愛すること」「祈ること」「献げること」「主を例はすること」などを心掛け、神から必要を受けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神からの平和」  ヨハネによる福音書14:25~31(新約P197)   2022年5月22日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会におきまして、主の日の礼拝を守ることができました。感謝いたします。新型コロナの感染者の数は減っていません。感染に気をつけてお過ごしください。また少しでも早い終息を祈りましょう。

 本日導かれました聖書の箇所はヨハネによる福音書14章25節~31節です。この箇所から学び、神がくださる平和、平安のすばらしさを知り、世ではなく、神からの平和を受けて歩むことを心掛けてまいりましょう。

 本日の聖書の箇所には「聖霊が与えられる」という神の約束が記されています。そしてその聖霊は数多くのものをくださいますが、その与えるものの一つとして「平和」「平安」あるのです。ヨハネによる福音書14章27節は、わたし、つまりイエス様が平和をくださるように読めますが、そのイエス様と聖霊は一体です。ですから聖霊が平和をくださると言っても間違いないのです。

 神からの平和は世の与える平和とは違います。世の与える平和は人の平和と言えます。世の与える平和は時に魅力的です。人は不安の中で平安を得ようとします。ただそれは世の平和で、それが良いように見えるのです。でも人は不完全ですから、世の与える平和は完全ではありません。人は、たとえ世が与える平和を得たとしても、その平和はいつの間にか消えていたりします。それに対し、神からの平和は完全です。フィリピの信徒への手紙4章7節に「あらゆる人知を超える神の平和」とあります。もしかするとその時は神の平和を理解できないかもしれません。しかし最終的に神からの平和は私たちに真の平和をくださいます。そしてこの神からの平和は私たちを離れることはありません。

 私たちは神からの平安を受けなくてはなりません。不安は私たちに悪いものをもたらします。神のために歩むために神からの平安を受けて歩みましょう。今は新型コロナで多くの人たちが不安の中にあります。だから今こそ神からの真の平和を受けて、神のために神と共に歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんなときでも神は」    イザヤ書43:16~20(旧約P1127)   2022年5月15日 大竹敏生

 

本日もこのように高松太田キリスト教会に集まり、主の日の礼拝を守ることができまして感謝いたします。新型コロナの感染は治まっていません。感染に気をつけてお過ごしいただき、少しでも早い終息を祈ってまいりましょう。

 本日は旧約聖書のイザヤ書43章16節~20節を導かれました。この箇所から導きを受け、どんな状況にあっても新しいことをなしてくださる全知全能にして、愛の神を覚えたいと思います。

 まずイザヤ書43章16節~17節を見ましょう。ここに記されていることは、あの出エジプトの時の葦の海の奇跡を指しています。それに続いて18節で昔のことを思い出すなと記されています。これは16節~17節を指しているとも考えられますが、神に背きながら「神は守ってくださる」と考えていたことを思い出すなという意味にもとれます。どちらにしても神はさらにすばらしい新しいことをしてくださるということを信じましょう。

 では神のなす「新しいこと」を考えてみましょう。まずは19節後半にありますが「荒れ野に道」「砂漠に大河」をくださるということです。これはとてつもない力を意味しています。荒れ野は生きるにも困難です。そこに道を敷くのです。水がほとんどない砂漠に大河を流れさすのも大変です。これは神の大きな力の故のことなのです。また荒れ野の道は誰が必要なのでしょうか。それは私たち人間です。また水は人間が生きていくのに必要不可欠です。20節に神は人に水を飲ませるためにそれをすることが記されています。神は私たちのために新しいことをしてくださるのです。また神は荒れ野や砂漠という悪条件の中、道や大河をくださるのです。神はどんな状況にあっても新しいことをしてくださいます。今、私たちは新型コロナで困難の中にありますが、神は必ず新しいことを、その大きな力で、私たちのためにしてくださるのです。どんな状況にあっても変わりなく導いてくださる神に従ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛しなさい」   ヨハネによる福音書21:15~19(新約P211)   2022年5月8日 大竹敏生

 

本日もこの高松太田キリスト教会に集い、主の日の礼拝がもてますことを感謝いたします。新型コロナの感染はまだ続いています。感染に気をつけてお過ごしください。また早く終息に導かれますように祈ってまいりましょう。

 本日、神に導かれました聖書の箇所は、ヨハネによる福音書21章15節~19節です。この箇所は復活後のイエス様が弟子たちにガリラヤで現れ、その弟子たちの中でも、特に失敗してしまったペトロのためにイエス様がペトロと語っている箇所です。この箇所から導きを受けてまいりましょう。

 イエス様はペトロに「わたしを愛するか」と3回言われました。それに対してペトロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と3回答えています。この3回というのが重要なのです。ペトロの失敗とは、イエス様のことを「知らない」と3回言ってしまったことです。それはイエス様を裏切ることでした。このことをイエス様が先に予告された時、ペトロは「どんなことがあってもわたしはあなたを離れない」と言いましたが、結局イエス様の告げた通りになりました。ペトロは失敗に打ちのめされていたでしょう。そしてどうしたらよいのか分からなかったでしょう。ただペトロはイエス様に祈ったのではないでしょうか。それに主が応えられたのです。

 主を3回「知らない」と言ってしまったペトロを助けるため、主は3回「わたしを愛しているか」と言われました。ペトロは謙遜な言い方で「愛している」と告げたのです。これでペトロは助けられました。「主を愛する」ことは人を助けるのです。そして主は人をも愛することを命じています。「わたしの羊を飼い、世話をしなさい。」とペトロに言っています。ペトロにはかつて「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と主は命じているのです。

 主は私たちに「愛しなさい。」と命じています。これは私たちを助けるための、愛の命令です。この「愛しなさい。」の命令に応えてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「変わることのない方」  ヘブライ人への手紙13:1~8(新約P418)   2022年5月1日 大竹敏生

 

本日も皆さまとこの高松太田キリスト教会に集まって礼拝がもてますことを感謝いたします。新型コロナの感染は続いています。どうぞ感染に気をつけてお過ごしください。そして早く終息しますように続けて祈りましょう。

 本日、神に導かれました聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙13章1節~8節です。本日は特に8節の言葉を中心に考えたいと思います。

 1節~3節はキリスト者として愛することが勧められています。主を信じる者のつとめとして、互いに愛し合い、旅人をもてなし、迫害で苦しんでいる仲間を思いやることがその愛の行為です。しかし弱い私たちには愛する力はありません。神が愛してくださったがゆえに、私たちでも愛することができるのです。神によって愛してまいりましょう。また4節~5節前半には、キリスト者のなすべきつとめが記されています。「健全な結婚生活」「高い性的モラル」「貪欲を避ける」などです。そして5節後半と6節に旧約聖書による神の励ましの約束が記されています。キリスト者は神の喜ばれる歩みを成さなくてはなりません。しかしそれをする力はありません。でも神が力をくださいます。神によって神に喜ばれる歩みを心掛けてまいりましょう。

 では8節をご覧ください。ここに変わることない神とあります。何が変わらないのでしょう。それはまず力です。神は全知全能で、衰えたりすることはありません。また神のみ心も変わりません。神は私たちの祈りを聞いて叶えてくださいます。しかし神のみ心は変わりません。それは神のみ心が最善だからです。変わらないみ心に感謝します。もう一つ神の変わらないものを考えましょう。それは神の愛です。放蕩息子のたとえで、弟に対する父の愛は、弟が放蕩の限りを尽くしても変わりませんでした。変わらない神の愛を感謝します。

 私たちは今も悩みがあります。苦しんでいます。しかし変わらない神が私たちに力をくださいます。変わらない神から力を受けて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「教会はキリストの体」 エフェソの信徒への手紙1:15~23(新約P352)   2022年4月24日 大竹敏生

 

本日もこのように皆さまと共に集まって礼拝がもてますことを感謝いたします。新型コロナは相変わらずです。どうぞ感染に気をつけてお過ごしください。そして少しでも早く終息しますように続けて祈らせていただきます。

 私たちの教会の今年度の年度主題は「愛し合う群れに」です。この主題は「愛し合う」という言葉に目が行きます。しかし「群れ」という言葉も重要です。本日はこの「群れ」という言葉と関係する「教会」について、エフェソの信徒への手紙1章15節~23節から導きを受けてまいりましょう。この手紙は「教会」について多くのことが記されています。この手紙から「教会」について考えることは当然と言えるかもしれません。感謝いたします。

 この箇所の15節~21節あたりまで、パウロはキリストのすばらしさを記し、エフェソの教会の人たちにそのことを知るように命じています。そしてキリストは全てのものの上に立ち、教会に与えられたのです。教会とは「呼び集められたもの」という意味のエクレシアという言葉が用いられています。呼び集められたということは特別な者が集っているのではありません。しかし、誰でもよいから適当に集めたのでもないのです。神は私たちの力を見て集めたのではなく、むしろ愛するがゆえに集めてくださったのです。感謝いたします。

 ということは弱い者が集う「教会」も弱いということになります。そんな教会は何をするべきなのでしょうか。教会の成すべきこと、それは神のために働くことです。でも弱い私たちにそれができるでしょうか。22節に「すべてのもの上にあるキリストを、頭として教会にくださった。」とあります。教会は与えられたキリストによって、弱くても神のために働くことができるのです。

 教会はキリストの体です。誰も不必要な者はいません。皆で体として歩んでまいりましょう。また23節にあるように、教会は神が満ちていなくてはなりません。愛と聖霊に満ちた教会として神のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「見て、信じた。」   ヨハネによる福音書20:1~10(新約P209)   2022年4月17日 大竹敏生

 

本日も皆さまと共に教会に集まって礼拝がもてますことを感謝いたします。新型コロナはまだ感染が止まりません。皆さま方も感染に気をつけてお過ごしください。そして早く終息に導かれますように続けて祈ってまいりましょう。

 本日は今年のイースターとなります。今年も主の復活を祝うイースターを迎え、喜びつつ礼拝がもてますことを感謝いたします。今年のイースターに導かれた聖書の箇所は、ヨハネによる福音書20章1節~10節です。この箇所から学び、復活の主を信じて歩んでまいりましょう。

 聖書にある主の復活に関する記述は、墓を訪れた人が見たのは空の墓だったと記しています。ある先生は「だから復活は事実だ。もし創作なら、もっと事実らしく書くはずだ。」と言います。そうですね。本日の箇所に記されていることも、事実だからそのまま書かれているのでしょう。そしてその先生は「イエス様はなぜもっと劇的で、疑いようのないかたちで復活しなかったのか?」とも言っています。なぜ墓は空だったのでしょう。それを考えてみましょう。

 昨年のイースターでは「空の墓」はそこにおられるイエス様が、もうすでに生きて働いていることを示すパワーを感じることを語らせていただきました。本日はそれとは別の意味を考えましょう。本日の箇所の8節にあるヨハネの「見て、信じた。」という言葉ですが、これは「主の復活を信じた。」ということです。そうです。ヨハネは「空の墓」を「見て、信じた。」のです。私たちもヨハネに倣って信じなくてはなりません。主の復活もイエス様を目で見なくても信じなくてはならないのです。そして復活だけではありません。私たちの悩み、祈りの課題になる問題など、いつも見通しが明るいわけはありません。解決が見えない、まるで「空の墓」を見るような状況もあるのです。そんな状況でも信じなくてはなりません。新型コロナも、それぞれの問題も、先行きは暗いかもしれません。でも復活の主が解決すると「見て、信じ」ましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛し合いなさい」   ヨハネによる福音書13:31~35(新約P195)   2022年4月10日 大竹敏生

 

本日も教会に集まって礼拝がもてますことを神に感謝いたします。新型コロナは相変わらずです。皆さま方も感染に気をつけてお過ごしください。そして何よりも、この感染が早く終息に導かれますように祈らせていただきます。

 2022年度の私どもの教会の年度主題聖句は、ヨハネによる福音書13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」です。本日の聖書の箇所はそこを含むヨハネによる福音書13章31節~35節です。ここから学び、愛し合う教会として歩んでまいりましょう。

 本日の聖書の箇所に「愛し合いなさい」とは新しい掟だとあります。古い掟は律法を指しますが、律法に「愛し合いなさい」という命令はないのでしょうか。そんなことはありません。「隣人を愛せよ」という言葉があります。ではなぜ「新しい」とあるのでしょうか。新しい掟の方がもっと強い愛を求めていると考える人もいますが、むしろ、愛し合うことが何よりも大切だということではないでしょうか。大切な愛し合うことを実践してまいりましょう。

 「愛し合いなさい」は掟ですから、言うなれば命令です。これは神の命令ですから、命令を守ることは神を喜ばせるのです。この神は私たちを愛する神です。だから命令を守ることで祝福されるのです。一つは35節にありますようにキリストの弟子と認められることがあります。そして愛し合うことでキリストの弟子として成長させられるのです。また初代教会は愛し合うことを実践していました。その初代教会は人々に好意を持たれ、祝福されたと使徒言行録2章にあります。神の命令を守る群れ、すなわち教会は神からの祝福を受けることが分かります。これは昔の教会だけのことではないはずです。主なる神は今も生きておられます。従って、今も私たちが神の命令に従って互いに愛し合えば、神は祝福してくださるでしょう。私たちの教会は、今年度特に「愛し合いなさい」という命令を大切にし、祝福をいただいて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「成し遂げられた」   ヨハネによる福音書19:28~30(新約P208)   2022年4月3日 大竹敏生

 

本日もこのように教会に集まって礼拝がもてますことを感謝いたします。ただ、新型コロナの感染者はあまり減ってはいません。感染に気をつけてお過ごしください。そして早く感染が終息しますように祈らせていただきます。

 本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書19章28節~30節です。ここはイエス様の十字架の箇所です。この短い箇所に2回同じ言葉が出てきます。それは「成し遂げられた」という言葉です。この言葉を考えてみましょう。

 この成し遂げられたのは十字架です。十字架はキリスト教にとって大切なものです。その十字架は主が成し遂げてくださったものなのです。「成し遂げられた」と聞いてどう思われますか。一つは「すばらしいことをやり遂げた」というイメージがあります。十字架は私たちを救うものであり、私たちに力をくださるすばらしいものです。感謝ですね。また「成し遂げられた」のイメージとして「長い時間をかけてやり遂げる」ということがあります。十字架による救いの計画は主が旧約聖書で預言されています。本日はヨハネによる福音書の十字架の場面ですが、ヨハネによる福音書の十字架の記事は、旧約の成就ということが多く記されています。神はずっと前から私たちを救うために、救い主による十字架を進められてきて、計画通りに十字架を成し遂げてくださいました。感謝いたします。「成し遂げられた」のイメージとして、もう一つ考えましょう。それは「苦労の末にやり遂げられた」ということです。主は神ですから不可能はありません。能力的に苦労することはありません。しかしイエス様にとってゲッセマネでの祈りで分かりますが、十字架に架かることは大変な苦しみだったのです。主は長い期間をかけ、苦しみを忍耐されながら着々とすばらしい価値のある十字架を成し遂げられたのです。感謝いたします。

 私たちを救い、私たちに力をくださる十字架、そんな十字架を成し遂げられた主に感謝します。十字架を喜びつつこの世の歩みを続けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「希望の源である神」  ローマの信徒への手紙15:7~13(新約P295)   2022年3月27日 大竹敏生

 

香川県のまん延防止等重点措置は解除されました。本日は久しぶりに集まっての礼拝ができますことを感謝いたします。ただ、まだ感染が治まったわけではありません。早く感染が終息するようにも祈らせていただきます。

 本日は2022年3月27日です。2021年度の最後の主日となります。今年度、私たちの教会では「希望をもって喜ぶ」を主題として歩んでまいりました。2021年度の歩みも新型コロナによって困難な歩みでした。「希望をもって喜ぶ」の主題にふさわしい歩みができなかったと感じておられる方もおられるかもしれませんね。しかし私たちは希望をもって喜べたはずなのです。私たちが求めた希望は神を源とした希望なのです。神によって困難の中にも希望をもって喜べたことを確認して振り返ってみましょう。

本日示された聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙15章7節~13節です。このローマの信徒への手紙は、今年度の年度主題の聖句もそうですし、本日の箇所や他にも「希望」と「喜び」の事柄に関する記述が出てきます。この大切な「希望」と「喜び」についてこれからも求め続けてまいりましょう。

13節に「希望の源である神」と記されています。これを本日の宣教題とさせていただきました。ここにありますように希望は神から来るのです。神が私たちに希望をくださるのです。神からの希望ですから、失望に終わりません。最善に導くのです。ローマの教会は不一致という、解決が難しい問題を抱えていました。しかし神がその問題を解決してくださるので、希望をもつようにとパウロは勧めているのです。神からの希望は、神への希望です。その希望は必ず成し遂げられます。希望の源である神から希望を受けてまいりましょう。

私たちも困難の中にあります。とても希望をもって喜べない状況だと感じる方もおられるでしょう。しかし信じましょう。神が源として失望に終わることのない希望をくださるのです。希望の源である神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「前に向かって」  フィリピの信徒への手紙3:12~16(新約P365)   2022年3月20日 大竹敏生

 

香川県のまん延防止等重点措置は今もが発令中です。従って本日もこのようなかたちでの礼拝です。皆さま方お一人一人の礼拝が祝福されますようにお祈りします。そして早く新型コロナが終息するようにも祈らせていただきます。

 本日、導かれた聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙3章12節~16節です。この箇所を読んで、この手紙の著者パウロは「神のためにひたすら励め」と言っているようで、パウロは厳しいことを言っているように思われるかもしれませんね。実際、パウロの生涯は神のためにひたすら励む、厳しいものでした。パウロにこのように言われたフィリピの教会の人たち、また私たちは「パウロと違って、弱いから」と言いたくなります。でも実際この「前に進め」というパウロの言葉は、ただの厳しい戒めなのでしょうか。

 私たち、そして教会の歩みは、困難の中にあっても前に進まないとなりません。前に進むことで生かされ、祝福されるのです。そして前に進むことで励ましを受けるのです。出エジプトしたイスラエルの民は、敵を恐れ、躊躇し、また旅の苦しさに弱音を吐き、引き返しそうになりました。しかし神が民を前に押し進めたのです。パウロも迫害や誤解、敵対者からの妨害など、多くの様々な困難に逢いました。しかし神によって励まされ、前に進みました。そしてこの手紙の受け取り手のフィリピの教会の人たちも困難な歩みをしていました。しかし「神によって前に」と励ましを受けたのです。私たちも弱いですが、神が前に進めてくださいます。神が前に進めるのですから、大切なのは、神への信仰ということになります。神を信じて、神によって前に進みましょう。

 私たちは今も、新型コロナで悩まされています。またお一人お一人それぞれの苦しみがあります。「前に進むことなんかできない」と考えてしまうような状況にあるかもしれません。しかし神は厳しくではなく、むしろ愛をもって「前に向かって進め」と励まし、導いてくださっています。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神からの喜び」  ヨハネによる福音書16:16~24(新約P200)   2022年3月13日 大竹敏生

 

香川県ではまん延防止等重点措置が発令中で、本日もこのようなかたちでの礼拝となりました。皆さまのそれぞれの礼拝が祝福されますようにお祈りします。また新型コロナが早く終息しますように祈らせていただきます。

 本日、神に導かれました聖書の箇所はヨハネによる福音書16章16節~24節です。今年も3月2日からレント、受難節に入りました。本日の聖書箇所はイエス様が十字架に架かる直前のいわゆる告別説教の中からです。この箇所から導きが受けられることを感謝いたします。

 弟子たちはイエス様の「しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくすると見えるようになる。」という言葉の意味が分からなかったようです。それに対してイエス様は十字架と復活、そして聖霊降臨などのことと言い、そして「あなた方の悲しみは、喜びに変わる。」と言われました。そして現実にイエス様は十字架に架かって死に、復活され、天に昇りその後、聖霊降臨が起こったのです。弟子たちの目には見えなくなりましたが、また見えるようになりました。また悲しい出来事であったイエス様の十字架によって、私たちは救われることになるのです。弟子たちに与えられた聖霊は、私たちにも与えられ、今も聖霊の神によって導かれているのです。感謝いたします。そしてさらに言うと、イエス様ご自身も十字架に架かることは苦しみでした。その苦しみを乗り越えて、愛する私たちの救いを達成されたのです。感謝いたします。

 苦しみはいつまで続くか分からないことが、さらに苦しみを増すように思わせます。そしてなぜ苦しむのか分からないことは、苦しみに耐える力を失わせます。いつまで、そしてどうして苦しまなければならないのか、すべて神がご存知です。そして神は、一番良い時に、良いやり方で苦しみを喜びに変えてくださるのです。今、新型コロナで苦しむ私たちの涙を覚え、いつか必ず喜びに変えてくださるでしょう。神からのすばらしい喜びに感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神はすべてを共に」 エフェソの信徒への手紙6:10~20(新約P359)  2022年3月6日 大竹敏生

 

香川県ではまん延防止等重点措置が発令中です。従って本日もこのようなかたちでの礼拝となりました。皆さまのそれぞれの場での礼拝が祝福されますようにお祈りいたします。また新型コロナの早い終息も祈らせていただきます。

 本日導かれた聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙6章10節~20節です。聖書は一つの箇所からいくつものメッセージがなされます。本日の箇所もそうです。そして本日の箇所は、特に記されている内容が多岐にわたっております。本日はこの箇所全体を通して、どんな時でも私たちと共に働き、共にこの世の歩みを忍耐し、導いてくださる神を覚えたいと思います。

 私たちはこの世を歩んでいます、そしてこの世の支配者は人間ではなく「悪魔」「悪の諸霊」と呼ばれる神に敵対する存在なのです。そんな存在が支配するこの世を正しく歩むために、私たちはこの支配者と戦わなくてはならないのですが、そんな強い相手と戦わなくてはならないのに私たちは弱いのです。

 本日の聖書箇所には、そのために私たちに「神によって強くさせられなさい」と記されています。そして「神の武具をくださる」とも記されています。感謝いたします。神は、何のとりえもない弱い私たちを、恵みとして強くしてくださるのです。そして神のくださる武具は、神無しでは役に立たないものばかりです。神によってこの世を歩めることを感謝いたします。

 私たちは弱いのです。それに対してこの世の支配者は強いのです。神から強くされも、武具を身に着けても、それだけでは不十分です。私たちは相手を打ち倒す必要はありません。私たちは相手の攻撃を受けます。そして痛めつけられます。でも最後まで耐え、神から離れなければ私たちの勝利なのです。そして私たちと神が共にいて、共に戦い、共にこの世を歩んでくださるのです。

 この世の歩みは困難です。しかし神はどんな時でも間違いなく共にいてくださるのです。神を信じ、神と共にこの世の歩みを全うしてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神を思い、忍耐強く」  ヘブライ人への手紙12:1~3(新約P416)   2022年2月27日 大竹敏生

 

香川県に続けてまん延防止等重点措置が発令されています。本日もこのようなかたちでの礼拝です。皆さまのそれぞれの場での礼拝が祝福されますように祈ります。そして早くこの新型コロナが終息しますように祈りましょう。

 本日神によって示された聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙12章1節~3節です。この箇所を通して、苦難の中にある私たちにとって必要な神の励ましを受けてまいりたいと思います。

 私たちは今、新型コロナで忍耐を強いられています。そんな私たちに聖書のみ言葉は豊かな励ましをくださいます。それは例えば「恐れるな、わたしは共にいる」というようなみ言葉があります。そして本日のみ言葉のように「神のためにガンバレ」というようなみ言葉もあるのです。私たちはこの苦しみの中、み言葉を通して励まされ、忍耐しつつ歩まねばならないのです。

 神は私たちの忍耐の歩みを助けてくださいます。ヘブライ人への手紙12章2節に「イエスを見つめながら」と記されています。神を見ること、つまり神を思いつつ歩むことを通して、私たちは忍耐しつつ走り抜くことができるのです。私たちはイエス様を愛しています。その方がおられることを、神を見て確認しましょう。そしてそのお方は私たちの困難な歩みを正しく導いてくださいます。私たちは忍耐することさえも難しいのです。そんな私たちが神無しに歩めば、忍耐できずに倒れてしまうでしょう。忍耐しつつ歩むために正しく導く神から目を離してはならないのです。またイエス様は私たちを救うために十字架に架かってくださいました。これはとてつもない苦しみでしたが、忍耐してくださったのです。イエス様も忍耐されました。忍耐された主に感謝いたします。そして主は今も生きておられます。今も私たちと同じ苦しみを味わっていてくださるのです。一緒に苦しみを共にして、いつか共に走り抜き、喜ぶことができることを感謝します。神を思い、忍耐強く歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「苦難の中に神が」   エレミヤ書29:10~14(旧約P1230)   2022年2月20日 大竹敏生

 

香川県のまん延防止等重点措置は延長されました。本日もこのようなかたちでの礼拝となります。皆さまのそれぞれの場での礼拝が祝福されますように祈ります。そして少しでも早く新型コロナが終息しますように祈りましょう。

 本日神に導かれた聖書の箇所は、旧約聖書エレミヤ書29章10節~14節です。エレミヤ書の主人公のエレミヤは「涙の預言者」と呼ばれるほど、苦難の中を歩んだ人でした。そんなエレミヤの預言から導かれ、私たちは苦難の中にあっても、神が共にいてくださることを覚えてまいりましょう。

 11節に「将来と希望」を神が与えることが記されています。その希望とはどんなものなのでしょうか。一つは10節と14節にあることです。バビロンに連れて行かれた人たちが「連れ戻される」「帰らされる」とあります。これはバビロンに連れて行かれた人たちを苦しめる、バビロン捕囚からの回復を意味します。神はこのように苦難を根本から解決することができるお方なのです。また12節には、神は祈りを聞かれることが記されています。これも私たちに与えられる希望です。私たちには苦難を乗り越える力はありません。しかし神は全知全能です。どのような苦難であっても神は解決に導いてくださるのです。神への祈りに希望をおきましょう。また13節~14節に、求めれば神を見つけることができる、神と出会うことができる、ということが記されています。私たちが苦難の中で悩む時、往々にして神を見いだせなくなっているのです。神は間違いなくおられるのですから、神に目を向けることで神を見いだすことができます。もっとはっきり言うと神を信じることで神を見いだすことができるのです。神は苦難を解決してくださいます。その力に期待し、神に祈り、神を信じて神に希望を置いて歩んでまいりましょう。

 神は苦難の中にある私たち一人一人を覚えてくださいます。私たちと共に苦難の中にあって歩んで導いてくださる神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「そこを何とか」   ルカによる福音書11:5~8(新約P127)   2022年2月13日 大竹敏生

 

新型コロナの感染が続いており、本日も集まっての礼拝が行なえません。皆さまの、ZOOMなどでの礼拝が神に祝福されますように願っております。そして少しでも早く新型コロナが終息に導かれますように祈りましょう。

 本日導かれた聖書の箇所はルカによる福音書11章5節~8節です。ここにはイエス様のたとえ話が記されています。この時代のイスラエルでは、暑い日中を避けて、夜に旅をすることがよくありました。従って真夜中に旅人が訪ねてくることはありうることで、旅人をもてなすことはイスラエルでは皆がするべきことだったのです。ここではある人が旅人をもてなすパンが無くて、友人に助けを求めたのでした。

 8節に「しつように頼む」と記されています。これは断られても、あきらめないで頼み続けることを意味します。ここから学ぶことは、あきらめずに神に祈り続けることです。このことはルカによる福音書18章の「やもめと裁判官のたとえ」でも語られています。あきらめないで祈り続けましょう。

またこの「しつように」とは「恥知らず」と訳せるそうです。ここでは、もてなすパンを備えていなかった人に非があります。だから友人に頼みに行くのは、恥を忍んでの行為です。断られて当然でもありました。でもこの人は頼み続けたのです。本日のメッセージの題は「そこを何とか」です。これは連盟のある先生の祈りの口ぐせだったそうです。神は絶対に正しいお方です。私たちの祈りが叶えられなかったとしても神に非はありません。正しくないのは私たちです。しかし私たちは「そこを何とか」と神に祈ることができるのです。

私たちは「しつように祈る」ことが求められています。「そこを何とか」と神に祈り続けましょう。本日のたとえ話でこの二人の友人関係は壊れることなく続いたと思われます。私たちと神の関係は「そこを何とか」と祈っても続くのです。それを信じて神に祈り続けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしを呼ぶがよい」    詩編50:8~15(新約P883)   2022年2月6日 大竹敏生

 

新型コロナの影響で本日も集まっての礼拝がもてない状況です。皆さまの、それぞれの場所での礼拝が祝福されるように願っております。そして新型コロナが少しでも早く終息するように祈ってまいりましょう。

 本日の聖書の箇所は旧約聖書の詩編50編8節~15節です。この箇所の14節~15節、特に有名な15節を中心に神の導きを受けたいと思います。

 まず8節~13節を見ましょう。8節の言葉はイスラエルの民の献げ物について認めています。でも9節以降は献げ物はいらないと言っているようです。8節は皮肉なのでしょうか。皮肉というより、献げる物ではなく、思いを大切にせよということでしょう。感謝をもって献げてまいりましょう。

 14節にある「告白」は「感謝」という意味です。私たちの感謝は物以上に献げる思いが大切だと言うことがこの14節からも分かります。私たちは神からたくさんの恵みを受けています。神への感謝、賛美を心掛けましょう。

 さて15節を見ましょう。多くの人に愛されている箇所です。この15節の前半は以前の訳や他の訳では「悩みの日にわたしを呼べ、わたしは助ける。」というような意味です。苦しい時に呼べば助けるということですね。感謝なことです。ただ新共同訳を見ると、まず呼ぶことが強調されているのです。確かに私たちは苦しい時に祈ります。ですが、祈りは苦しい時だけのものではありません。私たちはいつも神を覚えて、神を呼び続けたいものです。

 また15節の後半の部分は、私たちが神の助けを受けたら、神をあがめることが記されています。神はあがめてほしくてこう記されているのでしょうか。そうではありません。これは私たちのためです。神をあがめること、感謝することは神との生きた交わりになります。この交わりが私たちの力となるのです。神は私たちを助けることを喜びとしています。「わたしを呼ぶがよい」と言ってくださる神との生きた交わりを続けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんな時でも主は共にいる」   ヨシュア記1:1~9(新約P340)   2022年1月30日 大竹敏生

 

本日も集まっての礼拝がもてません。皆さま方一人お一人の、それぞれの場所での礼拝が祝福されるようにお祈りいたします。そして新型コロナが少しでも早く終息しますようにもつづけて祈らせていただきます。

 本日の聖書の箇所は旧約聖書ヨシュア記1章1節~9節です。この箇所に何回も出てくる言葉があります。それは「強く、雄々しくあれ」です。この有名でよく知られている言葉から神の導きを受けてまいりましょう。

 ヨシュアはこの「強く、雄々しくあれ」と何回も言われています。だからヨシュアという人は弱い人だったと考える人もいますが、モーセと比べられたりで、求められているレベルが高かったと考えられます。ヨシュアが主のために働くために「強く、雄々しくあれ」と言われたのでしょう。人の弱さは恐れを生みだします。その恐れは、人ができることをできなくさせます。私たちは主のために恐れないで歩まなくてはなりません。

 ヨシュアはこの時、これから進んでいく地の人たちを恐れていました。またイスラエルの民が、新しいリーダーの自分に従うだろうかも恐れていました。そして主から託された働きを全うできるかを心配し恐れていたのです。このようにヨシュアはいくつもの恐れを持っていましたが、それに対する主の答えは一つでした。それは9節に出てくる「あなたの神、主は共にいる。」です。全知全能の神は、どんな状況にあっても、弱い私たちと共にいて助けてくださるのです。神は約束を違えることはありません。たから私たちは心掛けなくてはならないことがあります。神は見えません。ですから神が共にいることを信じなければならないのです。共におられる神を信じて歩みましょう。

 恐れなく歩むことができたなら「強く、雄々しく」ある必要はないのでしょうか。いや神が共におられることを、信じるために「強く、雄々しく」歩みましょう。主はどんな時にも共におられるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリスト者として」  ローマの信徒への手紙13:8~14(新約P293)  2022年1月23日 大竹敏生

 

香川県に「まん延防止等重点措置」が発令されました。本日からしばらく、集まっての礼拝をお休みすることになりました。皆さま方のそれぞれの場所における礼拝が祝福されると信じてお祈りさせていただきます。

 本日の聖書の箇所はローマの信徒への手紙13章8節~14節です。ローマの信徒への手紙の12章以降は、キリスト者のすべきことが記されています。本日の聖書箇所はその中に含まれています。従って本日の聖書箇所にも、キリスト者として成すべきことが出てきます。それを見てみましょう。

まず一つは8節~10節に記されていますが「互いに愛し合う」ことです。そしてこれはお互いだけではなく神をも愛することを意味しています。私たちが救われるのは、信仰によってであり、行ないによってではありません。ユダヤ人は律法の行ないによって義とされると考えていて、律法を大切にしていました。ユダヤ人が大切にした律法は、実は愛によって全うされるのです。律法の示すのは愛なのです。律法を全うする愛は神を喜ばせるものです。私たちはキリスト者として、神と人を愛しつつ歩んでまいりましょう。

次に11節~14節を見ましょう。14節に「主イエス・キリストを身にまといましょう。」とあります。これがキリスト者として成すべきことです。私たちは武具を身に着けることで守られます。着る服は寒さから守ってくれます。キリストを身にまとうことで、私たちは守られるのです。また私たちは着るものの色で「あの赤い服の人」のように表されるのです。私たちがキリストを身にまとうことは、キリストを証しすることと言えるのではないでしょうか。そして私たちは大切なものを肌身離さず身に着けていたりします。私たちはキリストを身にまとい、キリストを大切にしてまいりましょう。

私たちは、キリスト者として「神と人を愛する」ことと「キリストを身にまとう」ことを心掛け、主に喜ばれる歩みを成してまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんなときでも神は」   ルカによる福音書19:1~10(新約P146)   2022年1月16日 大竹敏生

 

本日も、このように主の日の礼拝を守ることができ、主なる神に感謝いたします。本日の聖書の箇所はルカによる福音書19章1節~10節です。このザアカイの記事から、どんなときでも神が我らを導くことを学びましょう。

 ここに出てくるザアカイは徴税人で、その頭でした。徴税人はユダヤ人にとってローマの手先であり、裏切者でした。また異邦人と接触することから罪人と同じでした。徴税人も税を決められた額よりも多く集め、それを自分のものにしたりしていました。ザアカイは徴税人の頭として不正に集めた金で私腹を肥やしていたのです。従ってザアカイはエリコの町で嫌われていたのです。一方そのエリコにイエス様がやってきました。イエス様はザアカイとは逆に皆から支持され、人気があったのです。そんなイエス様を見たいと願ったザアカイに「今日はあなたの家に泊まりたい。」とイエス様は言われたのです。これに感激したザアカイは「財産を半分貧しい人々に施し、不正に取り立てた金は4倍にして返す。」と言ったのです。これでザアカイは救われました。ただザアカイは善行で救われたのではありません。お金しか頼れなかったザアカイは、イエス様と出会い、イエス様を信じ、主の導きにゆだねました。ザアカイは主を信じたから救われたのです。

 エリコの町の人たち、また弟子たちも、ザアカイを顧みない中、イエス様だけがザアカイを見ていました。ザアカイを救いに導いたのです。この時、エリコの町の中でイエス様だけが違う視点で歩まれていました。イエス様はエリコの町で、誰も顧みなかったザアカイを愛し、救いに導いたのです。

 今私たちは、新型コロナで悩みの中にあります。皆が右往左往しているような状況です。主はそんな苦難の歩みをしている私たちの中におられ、悩みを共にしてくださっています。そして正しい視点をもって歩まれるのです。主はどんなときにも正しく、そして私たちを愛をもって導かれるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が愛されたのですから」   ヨハネの手紙Ⅰ4:7~12(新約P445)   2022年1月9日 大竹敏生

 

本日も、皆さまと主の日の礼拝を守ることができました。心より神に感謝いたします。本日導かれた聖書の箇所はヨハネの手紙Ⅰ4章7節~12節です。この有名な箇所から、神の愛の豊かさについて学びましょう。

 まず7節を見ましょう。そこに「愛は神から出たもの」とあります。これは何よりも前に神が愛することを示しています。普通、私たちは理由があって愛します。例えば愛の対象者が「すばらしい能力を持っている」とか「素敵だ」とか理由があって愛するのです。神はそういう理由なく愛するのです。私たちは愛される存在でしょうか。神は罪を憎みます。だとすれば、罪人である私たちは愛されない存在なのです。私たちがどのような存在なのかをすべてご存知であるのに、神は愛してくださるのです。神に大きな愛に感謝します。

 神は私たちを愛しておられます。神は私たちを守り、恵みをくださいます。そして私たちを救うために救い主イエスキリストを送ってくださり、私たちの代わりに十字架に架かってくださいました。この神の大きな愛に応えてまいりましょう。そのためには、まず神を信じて救われることです。神は全ての人が信じて救われることを願っているのです。そしてもう一つ、ヨハネの手紙Ⅰ4章11節に「神がわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」とあります。ヨハネはここで「神が愛された」ことに対して「神を愛せ」と記していません。これは神を愛することは、愛された者として当然だという意味と、神を愛することと人を愛することは一つだという意味があるのです。私たちは神を愛し、互いに愛し合うべきです。私たちが互いに愛し合うとき、神は私たちの中にいて、愛を成熟させてくださるでしょう。

 今、新型コロナで世界中が蝕まれ、信じられない事件も起きています。神の愛が必要な時代です。すべての人が神から愛されていることを知ることができるように祈り、神と共に励んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じて従う喜び」   ルカによる福音書5:1~11(新約P109)  2022年1月2日 大竹敏生

 

本日も、皆さまと共に主の日の礼拝を守ることができ、感謝いたします。本日は2022年の最初の主日礼拝です。新しい年も昨年同様、厳しくても守られるはずです。新年の導きと祝福を神に願いつつ礼拝いたしましょう。

 本日、新年最初の主日礼拝に導かれた聖書の箇所は、ルカによる福音書5章1節~11節です。この箇所からはいろいろなメッセージが語られています。本日は、主に従う者に喜びが与えられることを学んでまいりましょう。

 私たちはいつも容易く主に従えるわけではありません。私たちはどうしたら主に従うことができるのでしょうか。本日の聖書箇所のペトロから学んでみましょう。まずは「信じる」ことです。私たちは信じられないものに従うことはできません。ペトロはイエス様から「人間をとる漁師に」と言われ、網を捨てて従いました。主なるイエス様を信じて従ったのです。ヤコブやヨハネもそうですし、主に従う者は皆、主を信じて従うのです。私たちも主を信じて、主に従ってまいりましょう。もう一つ信じるために必要なことがあります。それは「愛する」ことです。イエス様がペトロに「沖に出て網を降ろしなさい」と命じましたが、ペトロがそうすると舟が沈みそうになるほどの大漁となりました。ペトロはそうなると信じて従ったのでしょうか。そうは思えません。ペトロは長年の経験で、もうすでに魚がとれない時間になっていると知っていました。「とれるわけがないのに」という思いで従ったのです。でも実際はとてつもない大漁となりました。「あり得ないことが起こった」とペトロは驚き、イエス様を「主」と呼びました。なぜペトロはイエス様の「沖に出て、網を降ろせ」という命令に従ったのでしょうか。それはペトロがイエス様を愛していたからです。私たちは主を信じ、主を愛して従ってまいりましょう。

主は従う者を支えます。従う力もくださいます。新しい年も従うべきお方、主に従いましょう。主は従う者を祝福してくださるに違いありません。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の祝福はつづく」    民数記6:22~27(旧約P221)  2021年12月26日 大竹敏生

 

本日も、皆さまと主の日の礼拝を守ることができますことを神に感謝いたします。本日は今年2021年の最後の主日礼拝となります。今年も大変な一年でしたが守られました。導きと祝福を感謝しつつ礼拝いたしましょう。

 本日、今年最後の主日礼拝に導かれた聖書の箇所は、旧約聖書の民数記6章22節~27節です。この箇所は、ある先生は「民数記で一番有名な箇所」と言います。どうしてかと思う人もおられるかもしれません。それはこの箇所の24節~26節を「祝祷」として用いる先生がおられるからです。ただ本日は「祝祷」というより「祝福」に関して考えたいと思います。

 24節~26節に祝福の内容が「守り」「恵み」「平安」とあります。これらは、私たちにとって大切で、必要なものです。与えられる祝福を感謝します。

私たちは例えば無いものを求められたら困ってしまいます。求められても、その要求に応えることができませんから。でも神の祝福は必ずあるのです。神の祝福は尽きることはありません。だから「祝福を祈れ」とあるのです。ヨハネによる福音書1章16節にありますが、神は豊かで。恵みに満ちあふれています。その方が惜しみなく祝福をくださるのです。私たちは神に期待して、祝福を求めてまいりましょう。神のくださる祝福を感謝いたします。

私たちはまだまだ神の祝福を祈り、期待しなくてはなりません。ただ私たちも祝福を求めてきたのです。「祝福」という言葉ではなくても「導き」や「助け」また「恵み」などを神に願ってきたはずです。そして祈っているのですから、与えられているはずなのです。それなのに私たちはその与えられた祝福に気づいていないのです。今年も守られました。恵まれました。導かれました。祈りに応えて与えられた祝福を感謝いたします。

私たちは神からの祝福を途絶えさせてはなりません。コリントの信徒への手紙Ⅱ9章15節にありますように祝福を感謝し、祈り続けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「大きな喜びを告げる」  ルカによる福音書2:8~21(新約P103)  2021年12月19日 大竹敏生

 

本日も、このように皆さまと主の日の礼拝を守ることができました。感謝いたします。本日は今年のクリスマス礼拝となります。今年も私たちを救うためにお生まれになってくださった主のご降誕を喜び、感謝いたしましょう。

 本日導かれた聖書の箇所はルカによる福音書2章8節~21節です。ここでみ使いは主のご降誕を羊飼いに知らせています。羊飼いは安息日を守ることができず、また貧しい存在でした。そんな羊飼いに「救い主誕生」の知らせが語られました。これはどんなに貧しく弱い者、また罪人でも救うお方がお生まれになったことを意味しています。10節から分かりますが、このお方は「民全体」を救うお方なのです。この大いなる喜びを感謝いたします。

 使徒パウロは、テモテへの手紙Ⅰ1章15節で「自分は罪人の最たる者」と記しています。私たちは自分を振り返ると、罪の意識はむしろ増すのではないでしょうか。私たちも羊飼いと同じように、神に従いたくてもそれができない弱い者なのです。そんな弱く愚かな罪人を救うために、イエス様は家畜小屋でお生まれになり、飼い葉桶に寝かされていました。そんなお生まれをしてくださったお方だからこそ、私たちを救ってくださいます。救われるはずのない者が、神の愛によって救われるのです。そのためにこのお方はお生まれになりました。これがみ使いが告げる「大きな喜び」なのです。感謝いたします。

 羊飼いたちは、み使いの言葉を信じ、人々に語りました。そしてまた神をあがめ、賛美したとあります。私たちも同じ喜びを受けています。主のために主を証ししていきましょう。そして主を信じてほめたたえてまいりましょう。それが主のくださった「大きな喜び」に報いることになるのです。

 今年ももうすぐ終わります。今年も新型コロナに悩まされ、私たちが主のためにできたことはわずかでした。でも弱い羊飼いを顧みた神は、弱い私たちの歩みを喜んでくださいます。そんな愛の主のくださる喜びを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の救い主誕生へ」  マタイによる福音書1:18~25(新約P1)  2021年12月12日 大竹敏生

 

本日も、皆さまと今年のアドベント第三週の礼拝を守ることができました。感謝いたします。いよいよ2021年もクリスマスが近づいてきました。私たちを愛し、救うために来られたイエス様の誕生を喜び、感謝いたしましょう。

 本日導かれた聖書の箇所はマタイによる福音書1章18節~25節です。イエス様の母となられたマリアは聖書でもよく取り上げられています。一方父となられたヨセフはマリアに比べると影が薄いイメージですね。でも今日の聖書個所などから見るヨセフもすばらしい人物です。このヨセフを父としてイエス様はお生まれになりました。それにふさわしいヨセフを見てみましょう。

 ヨセフは今日の聖書箇所の19節にありますが、正しい人でした。その正しさは、律法的な正しさではありません。ヨセフは神と人を愛する正しい人だったのです。マリアは聖霊によって身ごもりました。しかしそんなことは今まで起こったことがありませんでした。ヨセフと婚約中だったのに身ごもったのです。マリアが不貞を働いたと考えても不思議はありません。そして律法ではこういう不貞は石打の刑に処せられることになっていました。しかしヨセフはマリアを表ざたにすることをせず、ひそかに縁を切ろうとしたのです。こういう愛の人を神は選び、救い主イエス様の父としたのです。

 そのヨセフの夢に神はみ使いを送りました。「マリアは聖霊によって身ごもったのだから、妻として迎えよ。」と命じたのです。また子どもを「イエス」と名付けることも命じられました。ヨセフはこの命令を守りました。夢の中のみ使いのお告げをヨセフが信じたのは、おそらく祈っていたからでしょう。どうしたらよいかを悩みつつ祈り続けてきたヨセフだから、夢の中のみ使いの言葉を信じ、従えたのでしょう。ヨセフは正に愛と信仰の人だったのです。

 イエス様は神のご計画の中、私たちを救う、愛の救い主として誕生しました。愛の救い主が、愛と信仰あふれる家庭に誕生しました。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「全世界に行って」  マルコによる福音書16:14~20(新約P98)  2021年12月5日 大竹敏生

 

本日、皆さまと2021年のアドベント第二週の礼拝を守ることができ、感謝いたします。また本日は今年の世界バプテスト祈禱週間の最終日です。本日は世界宣教の推進とその働きの祝福のために祈りつつ礼拝いたしましょう。

 本日導かれた聖書の箇所は、マルコによる福音書16章14節~20節です。いわゆる主イエスの「大宣教命令」の箇所からです。イエス様が天に昇る前に命じられたこの命令に応える者とされてまいりましょう。

 ここでは「全世界に」福音を宣べ伝えることが命じられています。つまり福音はすべての地域、すべての人たちに宣べ伝えられなくてはなりません。この命令に応えて、昔から現在に至るまで多くの人たちが出て行って、福音を宣べ伝えてきました。そういう働きのために祈り、献げてまいりましょう。

 では、主はこの命令を誰に命じたのでしょう。特別な賜物を持つ、選ばれた人たちでしょうか。14節を見ますと、不信仰な弟子たちがとがめられています。ですが、そのとがめられた弟子も省かれることなく、この命令を受けているのです。福音宣教は特別な人たちだけに命じられたのではありません。信仰的に十分ではないと思っている人にも、信仰的にダウンしている人にも、この命令は出されています。全ての人がこの命令に従わなくてはなりません。そうです。私たちもこの「大宣教命令」に従ってまいりましょう。

 使徒パウロは、現代で言えば宣教師のような働きをされていました。そのパウロはフィリピの教会の人たちが、物のやりとりでパウロの働きを助けたことを喜んでいます。そしてパウロはまた、フィリピの教会の人たちが福音にあずかってきたことを喜んでいます。パウロにとって自分と同じように福音を宣べ伝える働きをしている人たちを喜んでいるのです。私たちも福音宣教の働きに参与してまいりましょう。それが「全世界に行って」神のために働くこととなり、神が喜んでくださることなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしたちのために」    イザヤ書9:1~6(旧約P1073)   2021年11月28日 大竹敏生

 

本日も、皆さまと主の日の礼拝を守ることができまして、主なる神に感謝いたします。本日は今年2021年のアドベント第一週となります。今年も主のご降誕を祝うクリスマスを喜びと感謝をもって迎えましょう。

 その今年のアドベント第一週に導かれた聖書の箇所はイザヤ書9章1節~6節です。この箇所は旧約聖書にいくつか記されている「メシア誕生の預言」の一つで、「メシア誕生の預言」の中でも一番よく知られている箇所ではないでしょうか。この有名な箇所から導きを受けられることを感謝いたします。

 5節を見ましょう。ここで「生まれた」「与えられた」と訳された言葉が出てきます。この言葉の原語は完了形が用いられています。ですからこの訳は原語から考えると正しいのです。この5節はイザヤの時代から700年後に誕生されたイエス様のことなのです。700年後にお生まれになるのになぜ「生まれた」「与えられた」なのでしょうか。人間がすることに絶対はありません。大丈夫と思っても計画通りにいかないこともあるのです。でも神は絶対です。神に間違いはありません。人間は不確かですが、神は確かなのです。この5章にある出来事は、確かな神のなさることです。だから絶対に起こることなのです。だからまだ起こっていないのに完了形で記されているのでしょう。

 5章後半に記されているメシアの姿は正に神の姿です。与えられるお方は神なのです。ただ私たちの罪から救う救い主ということについてはあまり見えてきません。でもよく見ると見えてきます。このお方は「わたしたちのために」与えられたお方です。聖書の「わたしたち」という言葉は「わたし」の集まりで、私という個は消えません。私たち一人一人を救うために、このお方は来られました。「わたしたちのために」来られたイエス様に感謝いたします。

 神の救いのご計画は神によって進められてきました。そして神によって必ず成し遂げられるのです。私たちのための救い主に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が完全に」  テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:16~28(新約P379)  2021年11月21日 大竹敏生

 

本日も、主の日の礼拝を守ることができました。主に感謝いたします。本日の聖書箇所はテサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章16節~28節です。この箇所から導かれ、神によって完全な聖なる者に成長させられてまいりましょう。

 本日の箇所は16節~18節が特に有名な箇所です。ただ本日は23節~24節を中心に導かれています。ですが、その前後の箇所も考えることが23節~24節を理解するのに有効です。主の導きを受けてまいりましょう。

 23節~24節を見ると、23節は祈りの言葉で、24節はそれが必ず叶えられるという約束になっています。23節はテサロニケ教会の人たちが、完全な聖なる者に成るようにという祈りで、24節でそれは実現すると約束されています。完全な聖なる者になるということの意味は、一つは救いを指します。罪から完全に聖なる者にされ、救われるのです。救い主イエス様は、私たちを罪から救うためにこの世に来られ、十字架で救われたのです。そしてもう一つの意味は、罪によって汚れている者が、完全な聖なる者とされることです。主を信じて救われ、信じる神に従う結果、私たちは聖なる者に成長するのです。でも私たちは自分を冷静に見ると、とても完全な聖なる者とは言えないことに気づきます。神はペトロに「神が清めた物を清くないと言ってはならない」と言われました。神が清めたなら汚れていません。私たちを完全な聖なる者とするのは神です。ですから間違いなく完全な聖なる者とされるのです。

 17節や25節に「祈り」という言葉が記されています。完全な聖なる者には祈りは必要ないと思います。そう私たちはまだ完全な聖なる者ではありません。まだそこを目指して成長しているのです。だから神に祈って成長するのです。私たちが目指すのはイエス様です。この世にある限り、完全な聖なる者となるために成長しなくてはなりません。いつか私たちもこの世での歩みを終えますが、そこで私たちは完全な聖なる者となるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らは何者か」  コリントの信徒への手紙Ⅰ3:1~9(新約P302)   2021年11月14日 大竹敏生

 

本日も、主の日の礼拝をこのように行なうことができまして、感謝いたします。本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ3章1節~9節です。この箇所から導かれ、神のために力を合わせて働く者とされてまいりましょう。

 このコリントの信徒への手紙Ⅰは使徒パウロが記したものです。手紙の宛先のコリントの教会には問題がありました。自分により頼む者が多く、高慢となり、他者を裁き、愛が無く、分裂していたのです。パウロは今日の箇所でもそのことを諫め、そこから成長することを促しているのです。

 本日の聖書箇所の前半で、パウロはコリントの教会人たちを「乳飲み子」と言います。まだ子どもだと言うのです。これは自分の価値を高く見たい彼らにとってショッキングな言葉だったでしょう。ただパウロはコリントの教会の人たちを見捨ててはいません。彼らが「肉の人」から「霊の人」に成長することを信じ、それを切に願っているのです。実は私たちもコリントの教会の人たちと変わりありません。私たちも罪があるので「乳飲み子」「肉の人」です。ですから私たちも成長する必要があるのです。

 コリントの教会は4つの派に分裂していました。その内の2つがパウロ派とアポロ派でした。パウロを支持する人とアポロを支持する人、その他の派も含めて対立していたのです。そんな彼らにパウロは「パウロとアポロたちは対立していない。神のために力を合わせて働く者」と語ります。そして「パウロもアポロも偉くない。偉いのは成長させる神。」と語るのです。コリントの教会の人たちは「乳飲み子」「肉の人」でした。そこから成長しなくてはなりませんでした。成長のために必要なのは鍛錬や修行ではなく、パウロやアポロのように「自分ではなく神のため」という思いで歩むことなのです。

 私たちも「神のために力を合わせて働く者」となる必要があります。我らは何者でしょうか。そう「神のために力を合わせて働く者」なのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「人は神の民となる」   ヨハネの黙示録21:1~8(新約P477)   2021年11月7日 大竹敏生

 

本日も、このように集まって主の日の礼拝をもつことができまして感謝申し上げます。本日は私どもの教会の「召天者記念礼拝」となります。先に天に召された方々を覚えて礼拝をささげてまいりましょう。

 本日の「召天者記念礼拝」に際し、導かれた聖書の箇所は、ヨハネの黙示録21章1節~8節です。ヨハネの黙示録は、使徒ヨハネが迫害でパトモス島に流刑されたときに見せられた幻を記した書です。内容的には非常に難解な書です。それはヨハネの生きていた時代どころか、今もまだ起こっていない時、この世の終わりのことや、まだ見ていない天に召された方々の行くみ国について、幻を通して記しているからでしょう。でもだからこそヨハネの黙示録は「召天者記念礼拝」にふさわしいと言えるのではないでしょうか。

 神は新しいみ国をくださるのです。そのみ国は4節にありますように、死も悲しみも、嘆きも労苦もないのです。神は6節にあるように「アルファであり、オメガである」お方です。これは神が「初めであり、終わりである。」ことと「完全である」ことを意味しています。神の完全ですから全く欠けたところはありません。「涙をぬぐってくださる」ように私たちに愛をかけてくださいます。「完全」という言葉から感じかねない、人を寄せ付けないようなものではありません。そういう負のイメージのない、潤いある完全なみ国が、召された人たち、そして私たちが招かれて行くところなのです。このすばらしい約束は真実です。これを励みとして歩んでまいりましょう。

神は3節にありますように、この新しいみ国で共に住んでくださいます。そして私たちはそのみ国にて神の民となるのです。私たちはこの世でこれからも歩みを続けていきます。この世での歩みですから苦難があります。でも神は全てご存知で助けてくださるのです。先に召された人に続いて、私たちもいつかみ国ににて神の民とされます。それを励みとして歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「霊によって前に」  ガラテヤの信徒への手紙5:16~26(新約P349)   2021年10月31日 大竹敏生

 

本日も、主の日の礼拝が守ることができまして感謝いたします。本日の聖書箇所はガラテヤの信徒への手紙5章16節~26節です。この箇所から導かれ、霊の導きに従って進む者とされてまいりましょう。

 ガラテヤの信徒への手紙は「信仰による義」をテーマに記されていると言ってもよい手紙です。ただそのことだけが記されているのではなく、例えば本日の聖書の箇所は「聖霊」について記されています。他にもいろいろなことの記述があります。このように内容が豊富な手紙から学べることを感謝します。

 本日の宣教題は「霊によって前に」です。この題について16節と25節に「霊の導きに従って」という言葉があります。そしてそれぞれ「歩みなさい」「前進しましょう」と続いています。意味的には16節は「自由に歩むこと」25節は「隊列を組んで行進すること」なのです。

 17節以降に「肉」と「霊」という、相反することが記されています。私たちは「肉」なる者です。従って19節~21節に記されている「肉の業」は頼まれなくても行なってしまうのです。一方私たちは「霊」の実を結ぶことは困難なのです。でも私たちは霊の実を結ぶために歩まなければなりません。

 私たちが霊の実を結ぶためには神が助けてくださいます。それを信じて歩みましょう。私たちは「無理」とあきらめずに、少しでも霊の実を結ぶことを心掛けて歩みましょう。私たちができるわずかなことが、霊の実を結ぶことにつながるのです。また今日の聖書箇所に出てくる「霊の実」という言葉ですが単数形が用いられています。この単数は「愛」を指します。「愛」が他の実をすべて含んでいるのです。霊によって歩むこと、つまり「隊列を組んで行進する」ためには、お互い覚え合うことが必要です。つまり「愛」が霊の実を結ばせることにつながるのです。私たちはこれからも主を信じる者として、霊の実を結ぶために「愛」を求め、肉ではなく霊によって前に進みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「力と愛と思慮分別の霊」  テモテへの手紙Ⅱ1:3~14(新約P391)  2021年10月24日 大竹敏生

 

本日もこのように、主の日の礼拝が守れることを感謝します。本日の聖書箇所はテモテへの手紙Ⅱ1章3節~14節です。この箇所から導かれ、神がくださる「力と愛と思慮分別の霊」によって歩む者とされてまいりましょう。

 この手紙が記された時、手紙の受け取り手のテモテは苦難の中にあったようです。エフェソの教会の指導者としてテモテは遣わされていましたが、違った教えを説く者がいたり、テモテを見下げる者がいたり、また教会内で対立もあったようです。テモテはパウロに相談したのでしょう。テモテへの手紙のⅠとⅡは、悩むテモテにパウロが送った励ましの言葉が記されているのです。

 今日の聖書箇所にもパウロがテモテに送った励ましが記されています。見てみましょう。まず、パウロはテモテのために「祈っている」ことを告げています。祈りは神の力を引き出します。またパウロはテモテに「信じて、神の賜物を再び燃えたたせる」ように勧めています。誰にも与えられている神の賜物を燃えたたせることで悩みが解決に向かうのです。そして8節以降に記されていますが、主のために働く者は、パウロも含めて悩み苦しむのです。テモテだけが苦しんでいるのではありません。そしてテモテを主の働きに導いたのは神です。その神は主のために働く者の苦しみをご存知で、すべて主の導きの中でことが起こっているのです。すべてご存知で最善を成す主に感謝いたします。

 そして7節を見ましょう。主のために働く者には「力と愛と思慮分別の霊」が与えられているのです。人間は誰もが「おくびょう」になります。しかし「力と愛と思慮分別の霊」により、すべてを克服できるのです。テモテもパウロの励ましを受け、「おくびょう」を乗り越えて主のために働きをつづけました。私たちもいりいろなことで「おくびょう」になります。でも私たちにも「力と愛と思慮分別の霊」が与えられています。弱い私たち、おくびょうな私たちではありますが、主の霊の力によって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「いつも共にいる」  マタイによる福音書28:16~20(新約P60)   2021年10月17日 大竹敏生

 

本日もまたこのように主の日の礼拝が守れることを感謝いたします。そして本日は私たち高松太田キリスト教会の伝道開始から30年の記念の礼拝となります。30年の歩みを感謝しつつ礼拝をささげてまいりましょう。

 その記念の礼拝に導かれた箇所はマタイによる福音書28章16節~20節です。神はこの箇所に約束されている通りに、私たちの教会の誕生から共にいてくださいました。いつも共にいてくださった神に感謝いたします。

 今日の聖書箇所には有名なイエス様の「大宣教命令」が記されています。「宣教」とは単純に「宣べ伝える」こと「弟子とする」ことがそうですが、もっと意味の広いもので、神のための私たちの働きすべてが「宣教」なのです。私たちはこの貴い働きをする力はありません。神の助け、力が必要なのです。「宣教」は多様で、いろいろです。ということは、弱い私たちは、いろいろな助けや力が必要となります。神が私たちの働きのために共にいてくださり、その時その時、必要な助けを、共にいる神はくださるのです。感謝いたします。

 神は約束を違えることはありません。間違いなく共にいてくださいます。この神が共にいてくださることについて、私たちが心掛けなくてはならないことがあります。まずは「信じる」ことです。神は霊ですから見えません。信じなくては共にいる神が分かりません。神が共にてくださることを信じて歩んでまいりましょう。次に心掛けたいことは「確認する」ことです。この「確認」は上から目線で神がいるかを「確認」するのではなく、おられることが分かっていても思わず「確認」するようなものです。この「確認」のためには祈ることです。共にいる神に祈るのです。祈りによって神が共におられることを「確認」しましょう。そしてもう一つ、神が共におられることを「喜び」ましょう。愛する神が共にいて恵みをくださることは大きな「喜び」なのです。

 これからも、いつも共にいる神と歩んでまいりましょう。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「何よりもまず神」   マタイによる福音書6:25~34(新約P10)   2021年10月10日 大竹敏生

 

本日もまた集まっての礼拝ができますことを感謝いたします。本日の聖書の箇所はマタイによる福音書6章25節~34節です。この有名な箇所から導かれ、「何よりもまず神」という思いをもって歩んでまいりましょう。

 本日の聖書箇所は有名で、私もよく語らせていただく箇所です。本日は特に33節のみ言葉を中心に、改めてこの箇所から導きを受けたいと思います。

 本日は33節のみ言葉が中心ですが、他の節も考えなくてはなりません。それがまた、み言葉の理解を深めることになるのです。25節~32節に記されていることは「思い悩むな」で、以前の訳では「思い煩うな」です。これは同じ意味です。「思い悩む」ことは普通の「考える」こととは違います。考えることで解決に近づくことはあります。でも「思い悩む」ことで解決はありません。「思い悩む」ことは非生産的なのです。そして「思い悩み」は私たちの心と体を蝕みます。さらに「思い悩み」は私たちが、普段ならできることすらもできなくさせるのです。非生産的で私たちを蝕み、できることをさせない「『思い悩み』『思い煩い』を避けよ」という神の命令は当然と言えるのです。

 では33節を見ましょう。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」とあります。これは「神を第一にせよ」という意味です。神を第一にすることは神への信仰を表します。私たちの必要なものをご存知の神が、必要なものをすべて与え、弱い私たちを養ってくださるのです。信じて歩みましょう。また33節の言葉は「神の国」つまり「神の支配」を求めることであり、神に救われ、神の正しい支配の中、神のために励むことを意味しているのです。支配は人にはできません。完全な神だから支配できるのです。神は弱い人間と共に、人間を導きながら支配してくださるのです。33節の言葉どおりに、神のために励んでまいりましょう。私たちは神のために生きる者なのです。これからも「何よりもまず神」という信仰を持ちながら歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「感謝によって」   コロサイの信徒への手紙3:12~17(新約P371)    2021年10月3日 大竹敏生

 

本日からまた集まっての礼拝が再開できますことを感謝いたします。本日、導かれた聖書の箇所はコロサイの信徒への手紙3章12節~17節です。この箇所から、神への「感謝」によって歩むことの祝福を覚えてまいりましょう。

 先週の「恵み」、先々週の「愛」、そして3週前の「喜び」に続いて、本日のテーマである「感謝」についても聖書にはたくさんの記述があります。本日のテーマである「感謝」も私たちにとってとても大切なことなのです。「感謝」をもって歩めるように導かれてまいりましょう。

 12節~14節には「身に着けなさい」という言葉が出てきます。12節に出てくる「寛容」など5つを身に着けなさいとあり、14節では「愛」を身に着けなさいと命じられています。この「身に着けなさい」という言葉から、そこにあるものを着るということが思わされます。12節の5つのものと14節の「愛」はあるのです。これらはすべて神が私たちに身に着けさせてくださいます。神がくださるのですから感謝なのですね。神に感謝いたします。

 さて15節~17節には「感謝」という言葉が3回出てきます。16節は信仰者が集い、交わり、賛美したりしているので、ある人は礼拝だと言います。そこに「感謝」が記されています。礼拝は「感謝」をもって行うものです。私たちも感謝しつつ神を礼拝しましょう。15節にある「感謝」は聖書によくある「感謝」です。「いつも感謝」とあります。私たちの歩みは、いつも感謝な状況というわけではありません。でも「いつも感謝」すべきなのです。それは無理だと思う方もおられるでしょう。無理して感謝する必要は無いのかもしれません。「いつも感謝」はある意味、努力目標のようなものかもしれません。ただ人は「感謝しかない」「感謝せざるを得ない」ということもあります。神にすがりつくように、信じて感謝するようなこともあるのです。感謝は神がくださいます。神からの感謝によって祝福されてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みまた恵み」   ヨハネによる福音書1:14~18(新約P163)  2021年9月26日 大竹敏生

 

本日まで集まっての礼拝は休止です。本日もそれぞれの場所での礼拝が祝福されますようにお祈りします。本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書1章14節~18節です。この箇所から神の「恵み」の豊かさを覚えましょう。

 本日のメッセージのテーマは「恵み」です。先々週の「喜び」先週の「愛」に続いて本日のテーマ「恵み」も聖書にたくさんの記述があります。私たちにとってたいへん重要な「恵み」を共に考えてまいりましょう。

 「恵み」とは何でしょうか。聖書の語る「恵み」とは「いただく資格が無いのに与えられること」です。「憐れみ」という言葉が用いられる「負わなくてはならない責任を、その資格が無いのに免れること」も「恵み」と考えてよいのではないかと思います。数ある「恵み」の中で、最高のものはやはり「救い」でしょう。罪人である私たちは「滅び」に至るはずだったのですが、神によって「救い」を受けました。私たちは「憐れみ」によって負うはずだった「滅び」を免れ、「恵み」により受ける資格が無いのに「救い」を受けたのです。

この福音書を書いたヨハネは、イエス様の弟子の中でも、初期のころからの弟子で、ペトロやヤコブと並んで、特にイエス様と親しく交わりを持った人です。そのヨハネはイエス様の中に「恵み」を見ました。それは完全なお方である神が、不完全で罪を持っている人間になられたということを通してです。そのことが14節に記されています。神の「恵み」に感謝いたします。

 16節に「恵みの上に、さらに恵み」とあります。これは「救い」という「恵み」の上に、助けや導きなどの「恵み」が与えられることですが、「恵みの代わりに恵み」という意味もあります。つまり私たちは神の助けや導きという「恵み」を受けますが、その「恵み」は尽きずに与えられるのです。神はそのあふれる豊かさから「恵み」をくださいます。従ってこの「恵み」は無くなりません。「恵みまた恵み」と続けて与えられる「恵み」を喜びつつ歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「御子に望みをかけて」   ヨハネの手紙Ⅰ3:1~3(新約P443)   2021年9月19日 大竹敏生

 

本日も集まっての礼拝ができません、それぞれの場所での礼拝が守られますように祈っています。本日は「高齢者を覚える礼拝」となります。ご高齢の方々がいつまでもお元気で歩めるように祈りつつ礼拝いたしましょう。

 本日の「高齢者を覚える礼拝」に導かれた聖書の箇所は、ヨハネの手紙Ⅰの3章1節~3節です。先週、聖書には「喜び」について多くの記述があると申し上げましたが、それ以上に多くの記述があるのは「愛」についてです。聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネによる福音書3章16節や愛の賛歌とたたえられるコリントの信徒への手紙Ⅰの13章などが思い浮かびます。そして本日取り上げるヨハネの手紙Ⅰも「愛」について多くの、しかも有名な記述があります。特に3章から「愛」について多くのことが記されています。本日はその3章の最初の部分ですが、最初に「愛」について「見よ」「考えなさい」と記しているのです。何を見るのか、何を考えるのか、それは私たちが「神の愛によって、神の子とされる」ということです。私たちが神の子とされるのは、私たちが優れているからではなく、神が愛してくださったからです。そのことを忘れないようにしましょう。神の子としてくださった愛の神に感謝します。

 3節に「御子にこの望みをかけている」とあります。御子、つまり主なるイエス様に私たちは望みをかける必要があります。ただそれには障害があります。望みをかけることは信仰によらなくてはなりません。望みをかけるとは、見えない神に望みをかけるのです。不確かなこの世の歩みを神にゆだねるのです。まだ実現していない約束を信じるのです。神に望みをかけるために私たちはご高齢の方に倣う必要があります。ご高齢の方は自分を知っています。そして神の強さを知っているのです。だからご高齢の方こそ神に望みをかけて歩むのです。私たちも神の望みをかけて歩みましょう。神はその信仰に応えて祝福に満たしてくださるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「この上ない喜び」  ルカによる福音書10:21~24(新約P126)   2021年9月12日 大竹敏生

 

本日も集まっての礼拝ができません、どうぞそれぞれの場所で礼拝をお守りください。本日の聖書の箇所はルカによる福音書10章21節~24節です。この箇所から学び、神から来るこの上ない喜びを感謝して歩みましょう。

 キリスト教では「喜び」が大切で、聖書には「喜び」について多くの記述があります。今日の聖書の箇所もそうです。ただ今日の聖書の箇所は「喜び」が記されていますが、「喜び」に関してはもっと有名な箇所があると感じます。でも今日はこの箇所から「この上ない喜び」を導かれてまいりましょう。

 私たちにとってこの上ない、一番の喜びとは何でしょうか。それは救いの喜びではないでしょうか。今日の聖書個所の前で、イエス様は弟子たちに「悪霊が屈服すること以上に天に名が記されていることを喜べ」と言っています。これは「救いを喜べ」ということでしょう。またルカによる福音書の15章10節でも「一人の罪人が悔い改めると天で喜びがある」とあります。このように救いは、神にとっても救われた私たちにとっても大きな喜びなのです。でも今日の聖書の箇所の喜びは、救いの喜びとは違うように思えます。でも実は今日の箇所に記されていることも、実は救いと同じことを言っていると考えてよいのです。「知恵ある者や賢い者ではなく、幼子に与えられる」ということは救いと同じです。私たち人間がどんなに努力しても、自分を救うことはできません。救いは全ての人に与えられるものなのですが、人間の思いがときに救いから遠ざけるのです。イエス様を幼子のように受け入れ、信じることで私たちは救いというこの上ない喜びが与えられます。感謝いたします。

 また私たちは救いを受け、やがて天国に導かれますが、この世でも主が共に歩んでくださいます。このことも大きな喜びです。新型コロナで私たちは厳しい歩みを強いられていますが、全知全能の主が導いてくださいます。主が私たちを救い、今も私たちと共に歩まれる。この上ない喜びを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神さまの『大丈夫』」    ハガイ書2:1~5(旧約P1477)    2021年9月5日 大竹敏生

 

本日も集まっての礼拝ができませんので、それぞれの場所での礼拝をお守りください。本日の聖書の箇所は旧約聖書のハガイ書2章1節~5節です。この箇所から導きを受け、共にいる神の励ましを受けて歩んでまいりましょう。

 本日はハガイ書というあまりなじみのない箇所からです。ハガイは預言者ですが、どんな預言者だったのでしょうか。バビロン捕囚にあった民が、帰国が許されてエルサレムに帰って神殿再建をしました。しかし他国の妨害や物資不足、飢饉などの事情で頓挫します。その後、神が神殿再建のためにたてた預言者が二人いて、一人がゼカリヤ、そしてもう一人がハガイでした。

 今日の聖書個所の4節と5節に、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア、そして帰国した民に対して「勇気を出せ」「強くあれ」「恐れるな」との神の命令がハガイを通してあったことが記されています。これらの命令を守ることで、人はいろいろなことができるようになります。神殿再建もこの命令を守ることでできるのです。でも私たちは弱いのでこれらの命令を守ることができません。神はそんな弱い私たちと共にいてくださるので、私たちは命令を守ることができ得るのです。共にいてくださる神に感謝いたします。

 この4節と5節にあることは、私たちにとって耳新しいことではありません。むしろよく知っていることで、神の励ましの定番と言ってよいかもしれません。私たちはこういう神の励ましよりも、人間的なものを求めたりしてしまいます。神殿再建に対しても人間的な権力や財産などを求めたりします。確かにそれも大切ですが、限界があります。限界のない神に、より頼む必要があるのです。どんな状況にあっても、神は私たちと共にいて「大丈夫」と励ましてくださいます。神の「大丈夫」を信じて歩みましょう。

 今、新型コロナに悩む私たちを、神は「大丈夫」と励ましてくださっているのではないでしょうか。神さまの「大丈夫」に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「既に世に勝っている」 ヨハネによる福音書16:25~33(新約P201)   2021年8月29日 大竹敏生

 

本日も集まっての礼拝ができません。それぞれの場所での礼拝をお願いいたします。本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書16章25節~34節です。この箇所から導かれ、世に勝たれたイエス様を覚えて歩みましょう。

 ヨハネによる福音書の13章、14章あたりから17章までは、イエス様の「告別説教」と言われています。この内17章は、すべてがイエス様の祈りです。本日の聖書箇所は16章の終わりの部分です。つまりイエス様が十字架に架かる前に伝えたかったメッセージの一番終わりになるのです。イエス様が最後に伝えてくださったことから励まされてまいりましょう。

 今日の聖書の箇所のヨハネによる福音書16章29節~30節で、弟子たちが信仰の告白をしています。しかしそれに対し、31節~32節のイエス様の言葉は「信じるのが遅い」と言い、弟子たちがこの後、イエス様を見捨てて逃げてしまうことも告げています。そしてそれは現実になりました。信仰を持ったからといって安心はできないのです。罪人である私たちは、弟子たちのように不信仰になったり、失敗したりするのです。

 それに対してイエス様は33節のすばらしい言葉をくださいました。この33節の言葉は、世に勝たれたイエス様を信じて勇気を出せば、不信仰な行いや失敗はしないとも読めます。だとしたら失敗した弟子たちは33節の言葉を無にしてしまったのでしょうか。そうではありません。この33節の言葉は、失敗をしたり、不信仰な行為をしてしまった者への言葉でもあるのです。

イエス様は世に勝たれました。これは世の支配者であるサタンに勝利したことを意味します。従って主を信じる者は義とされ、救われるのです。そして世の困難を解決することも意味しています。世に勝たれた主を信じる私たちは失敗しても、そしてこの世で、例えば新型コロナで悩んでも、恐れなくてよいのです。既に世に勝たれ、今も勝ち続けておられる主と歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の言葉に従う喜び」     創世記12:1~9(旧約P15)  2021年8月22日 大竹敏生

 

香川県に「まん延防止等重点措置」が発令され、本日から集まっての礼拝を休止することになりました。それぞれの場所で礼拝しましょう。聖書の箇所は創世記12章1節~8節です。主の言葉に従う喜びを覚えましょう。

 今日の聖書の箇所に出てくるアブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。アブラハムの何がそう呼ばせるのかは確定できないほどアブラハムは信仰によって歩んだのです。その中でも本日の箇所に記されていることは、アブラハムの信仰のすばらしさを表しています。その信仰を見てまいりましょう。

 今日の聖書箇所でアブラハムは「カナンの地に行け」という神の言葉に従って行動したことが記されています。アブラハムはカルデアのウルという地にいました。そこから知らない地であるカナンに行くように神から命じられました。その命令に従うことは、財産や人間関係など、多くを失うことを意味します。アブラハムは安定を捨てて主の言葉に従いました。何よりも神を優先し、主の言葉に従ったのです。それによりアブラハムは多くの祝福を受けました。物質的にも恵まれました。多くのものを得て、アブラハムは王以上の力も得たのです。そして信じたことで彼は義とされました。つまりアブラハムは信仰により救われたのです。そんなアブラハムですが、彼も完全ではありませんでした。間違ったこともありました。不信仰と思えることもしています。でも主の言葉に従うアブラハムの行為の一つ一つが彼を成長させました。私たちもアブラハムの信仰に倣いつつ歩みましょう。そして主の言葉に従うことは、それによる祝福が喜びなのですが、それだけではありません。結果までの歩みも喜びなのです。主に従うこと自体が喜びなのです。アブラハムは神を信じて主の言葉に従い、喜びつつ歩みました。そして祝福という喜びも得たのです。

主の言葉に従うことにより、アブラハムの様に私たちも祝福されます。そして従うこと自体が喜びです。主の言葉に従う歩みを心がけましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられる平和」  ローマの信徒への手紙14:13~23(新約P294)   2021年8月15日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙14章13節~23節です。平和を覚える今、この箇所から、神から与えられる平和を喜び、平和を求めて歩む者とされて歩んでまいりましょう。

 1945年8月15日にあの悲劇的な戦争が日本の敗戦と共に終結しました。私たちは毎年この時期、もう戦争を繰り返すことなく歩むために平和を覚える時としています。そのことを変わらず語り続けてまいりましょう。

 「平和」とは戦争のない状態です。ただ聖書が語る「平和」はもっと意味が広く、深いのです。言語的には「安全」「無事」「安息」「平安」などの意味もあるのです。私たちが普通「平和」という言葉を考えると、国と国、民族と民族のような多数の人たちの問題と考えますが、聖書の「平和」は国や民族の中の一人一人、つまり個人の問題としています。確かに私たち一人一人が「平和」であるならば、国も民族も平和なのです。そして聖書の語る「平和」によれば、例えば戦争のない状態でも「平和」とは限りません。今日の聖書個所を読むと、ローマの教会の中に対立があったことがうかがえます。ローマの教会は「平和」でありませんでした。この対立に対してパウロは、どちらが正しいとは言わず、互いに愛し合うことを勧めます。考え方の違いはもちろんあるでしょう。そこで裁き合うのではなく、互いに理解し合い、認め合うことが「平和」につながるのです。私たちも互いに愛し合い、「平和」に歩んでまいりましょう。

 ただ私たちは愛のない者です。「平和」から遠い存在なのです。しかし私たちが信じる神は愛の方です。この方から愛を受けることができるのです。そして17節を見ますと、神が平和そのものをくださることが分かります。神に愛と平和を求めて歩んでまいりましょう。新型コロナの中、私たちは戦争をしていなくても「平和」ではありません。私たちは「平和」を追い求め、神から真の「平和」をいただいて歩みましょう。「平和」は私たちの喜びなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主を待ち望む人は幸い」  イザヤ書30:15~26(旧約P1108)  2021年8月1日 大竹敏生

 

本日、主に導かれた聖書の箇所は、旧約聖書イザヤ書30章15節~26節です。この箇所から学び、自分など見えるものに信頼せず、見えない神に信頼し、主を待ち望む者とされて歩んでまいりましょう。

 イザヤ書を読むときに注意したいことは、そこに記されている預言がイザヤの生きた時代に対してなのか、またバビロン捕囚とそこからの解放の時期のことか、あるいは主イエスキリストについての預言かを考えることです。今日の聖書箇所はイザヤの生きた時代についての預言です。このイザヤ書30章に記されているのは、南ユダ王国に攻撃を仕掛けてきたアッシリア帝国に対して、エジプトと同盟を結ぼうとしている南ユダ王国に対してのイザヤの警告です。この警告を自分とは関係ないと片づけてはなりません。私たちも困難な状況に陥ることがあります。そんな時に、自分とか、見えるものにより頼んでしまいます。イザヤは南ユダ王国に対して「見えるものではなく、神により頼め」と警告しています。私たちは主に信頼する者とされてまいりましょう。

 南ユダ王国の王と民はアッシリアに攻められたとき、主に信頼しませんでした。しかし神は18節で、南ユダ王国の人たちが主に信頼しなかったのに「それゆえ」助けるとあるのです。人が神を裏切っても、神はすべてご存じのうえで助けてくださるのです。主の愛に感謝いたします。

 18節に「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は」とあります。主を待ち望む人とは、主を信頼する人でしょう。主を信頼する人には、その人の信頼がどんなに弱くても主は助けてくださいます。主を待ち望む人にも助けや恵みが与えられるのです。感謝いたします。

 主を待ち望む人になりましょう。そのためには祈ることが最善です。今、新型コロナで私たちも苦難の中にあります。そんな時だからこそ、主に信頼しましょう。主を待ち望む人となりましょう。神は必ず助けてくださるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰と喜び」   ヘブライ人への手紙11:1~7(新約P414)   2021年7月25日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はヘブライ人への手紙11章1節~7節です。この箇所から導かれ、主を信じることで、私たちは喜びに満たされ、また神を喜ばせることを覚えて歩みを続けてまいりましょう。

 今日の聖書箇所のヘブライ人への手紙11章1節の言葉は「信仰の定義」と言えますが、例えばパウロなら「信仰とはイエスキリストを信じること」と言いそうですね。ヘブライ人への手紙の定義とは少し違うように思います。これは信仰というものの深さ、広さを表しています。4節以降の旧約聖書の人たちも、同じ神を信じていましたが、信仰による行動は様々でした。主を信じることは奥が深いと言えます。信仰の先輩に倣い、主を信じて歩みましょう。

 主を信じることで私たちには喜びが与えられます。一つは、信仰は私たちに救いをもたらします。神を信じることで滅びから救われるのです。このすばらしい恵みに勝る喜びはありません。また信じることが、私たちの厳しいこの世の歩みを祝福に導きます。神無しに私たちは歩むことはできません。神への信仰がこの世での祝福につながります。これもまた喜びですね。感謝します。

 ヘブライ人への手紙11章5節~6節にかけて、私たちの神への信仰が神を喜ばせることが記されています。神は私たちが誰一人滅びることなく、信じて救われることを望んでおられます。従って私たちが神を信じることが、神の喜びなのです。また神を信じるということは、神を信頼することです。私たちも親しい人から信頼されることは喜びです。信頼されること、期待されることは神にとっても喜びなのです。神を喜ばせるために神を信じて歩みましょう。

 そしてこう考えましょう。それは神を喜ばせることを心掛けることです。私たちは神を愛しています。その愛する神を喜ばせることは私たちの喜びのはずです。神を喜ばせて歩むことが信仰につながり、神を喜んで歩む信仰者こそ、神を喜ばせることができます。信じて喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「満たされる喜び」  フィリピの信徒への手紙4:15~20(新約P366)  2021年7月18日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙4章15節~20節です。この箇所から、主のために私たちが歩むとき、神がそのみ力によって恵みに満たしてくださることを覚え、喜びつつ歩んでまいりましょう。

 聖書のみ言葉は非常に広く深いのです。ときにその奥底に隠れているものを見つけ出すのは喜びです。しかし神のみ言葉は奥底だけではありません。み言葉がそのまま語ることも大切なのです。み言葉の奥にあるものからも、そしてそのままストレートに語ることも大切にしてまいりましょう。

 本日の聖書の箇所は、フィリピの教会の人たちが久しぶりにパウロに贈り物をしたことに対するパウロのお礼の言葉の部分です。パウロは贈り物をとても喜んでいます。しかしパウロは「贈り物が無くて困った」と言うのではありません。パウロは神によってどんな状況にも対処できるからだと記しています。ならばなぜパウロは喜んでいるのでしょうか。いくつかの理由があります。苦労を共にする仲間となったこと、そしてフィリピの教会の人たち行為を神が受けてくださり、フィリピの教会の人たちを神が祝福するからだとあるのです。

 19節を見ましょう。ここに記されていることを本日はそのまま受けたいと思います。神はフィリピの教会の人たち、そして神のために歩むパウロ、そして私たちを恵みに満たしてくださるのです。私たちの必要をすべてご存知で満たしてくださるのです。その方法も、時期もすべて神が一番良い時に、最善の方法で与えられます。そしてその力は大きいのです。出エジプトしたイスラエルの民は何もない荒野で養われました。多くの人たちは詩編23編1節にあるように、神は何も欠けることが無いように導く神を証ししているのです。

 神に満たされることは大きな喜びです。どんな状況でも神が導き助けてくださることを覚えて、私たちも主のために励んでまいりましょう。神が、困難の中にあっても満たしてくださることを喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が共にいて導く」 コリントの信徒への手紙Ⅱ13:11~13(新約P341)  2021年7月11日 大竹敏生

 

本日、神から示された聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ13章11節~13節です。この箇所から導かれ、私たちが神から恵みや導きを受け、それを生かし、広げていく者とされてまいりましょう。

 この手紙の著者はパウロで、宛先はコリントの教会です。コリントの教会は不一致、分裂、高慢などの問題を抱えていました。それを戒める内容がこの手紙にも表れています。今日の聖書の箇所はその手紙の最後の部分です。最後の部分もコリントの教会宛だからの内容でもあるのです。

 11節でパウロは5つのことを命じています。それは「喜べ」「完全になれ」「励まし合え」「一致せよ」「平和を保て」です。これらをする力は神から一人一人に分け隔てなく与えられます。コリントの教会の人たちはこれを理解していませんでした。喜びは自分の喜びを追求し、共に喜び合うことは無かったでしょう。完全になることは、自分の力でそれを成し遂げようとしていたのです。神からの励ましは求めず、励まし合うこともありませんでした。一致とは正反対の状態で、分裂していました。平和は無く、いがみ合っていました。パウロはコそんなリントの教会に神から受けて、広げることをすすめているのです。

そして12節に記されていることもそうです。接吻は親愛を表します。神から来る愛を受け、互いに愛し合うことが求められています。そして13節もそうです。13節は祝祷です。祝福を祈っているのです。祝福はやはり神から来ます。祝福を喜びつつ歩むことが求められています。

コリントの教会の人たちは神から受け、それを広めていかなくてはならなかったのですが、彼らは自分の力で、自分のためにという意識が強かったようです。パウロは最後までコリントの教会を戒め続けたのです。私たちも皆が、神から恵みや導きを受けています。それを喜び、分かち合いましょう。神はこれからも私たちと共にいて導いてくださるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主のために歩む」    テモテへの手紙Ⅱ4:1~8(新約P394)   2021年7月4日 大竹敏生

 

本日、神に示された聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅱ4章1節~8節です。この箇所から導かれ、神を信じる者として、どんな時でも主のために歩むことを心掛けてまいりましょう。

 この手紙の著者はパウロです。パウロが愛する弟子のテモテに送った手紙です。手紙には神の働き人として歩むテモテへの細かい指示が記されています。テモテはキリスト教の指導者、伝道者でした。普通の人とは違うように思えます。今日の聖書箇所も、牧師とか特別な立場の人にとって参考になる箇所と思われるかもしれません。本日は神学校週間の最終日です。神学生や献身者に向けての記述として相応しい箇所と言えるかもしれません。しかし実は信じる者すべてが献身者なのです。私たちにも語られていると信じましょう。

 2節の言葉は有名です。ただ時間も場所も考えず、福音を宣べ伝えるのだと短絡に考えてはなりません。宣べ伝える時と場所は考慮に入れなくてはならないでしょう。伝道は口だけでするのではありません。相手の話を聞く耳も必要です。全身全霊をもって私たちは福音を宣べ伝えるのです。言うならば耳で聞いていて、口で語っていない時も宣べ伝えているのです。また福音を宣べ伝えるのに、有名な伝道者の全てが語っています。伝道に何よりも必要なのは祈りです。祈る時も福音を宣べ伝えているのです。祈りをもって主の知恵と力を受けて、主のために歩んでまいりましょう。

 また2節の言葉は確かに命令です。内容から厳しい命令と感じる人もいるのではないでしょうか。ただそれだけではないと思います。新型コロナで私たちも多くのことができませんでした。今もできないことがあります。新型コロナでできない苦しみを世界中の教会が味わいました。でも2節の言葉は、できなくて苦しむ私たちに励ましをくださいます。世界中が新型コロナに悩む今は折が悪いといえます。そんな今こそ主のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の子供である」  ローマの信徒への手紙8:12~17(新約P284)  2021年6月27日 大竹敏生

 

本日、神が示してくださった聖書の箇所はローマの信徒への手紙8章12節~17節です。この箇所を通して、神の霊に導かれ、神の子とされる時、すばらしい恵みが与えられること覚えて歩んでまいりましょう。

 今日の聖書の箇所の14節には「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」とあります。これは言い方を変えると「神を信じて救われる者は神の子である」ということになります。私たちは神の霊が求めるように神を信じて、救いを受け、神の子として歩むことが求められています。

 神の子とされる時、すばらしい恵みを受けます。その一つは、罪から来る刑罰を免れるという恵みです。神の霊に従うとき、私たちは神の子とされ、神を信じて救われ、神の子供である私たちの罪が赦されるのです。肉ではなく霊に従って歩むときに与えられるこのすばらしい恵みを感謝します。

 恵みの二つ目は「アッバ、父よ」と神を呼ぶほど、神との親しい交わりに入れられるということです。「アッバ」とはイエス様も用いていたアラム語の「お父ちゃん」というような意味の言葉です。私たちは、本当は神を「お父ちゃん」とは呼べない存在なのです。しかし神の子供とされる時、罪人である私たちも父を親しみを込めて「お父ちゃん」と呼ぶことが許されているのです。このように神の子供は神との親しい交わりに入れられます。感謝します。

 神の子とされる時に与えられる恵みがもう一つあります。それは「相続人である」ということです。何を相続するのでしょうか。それは「神の相続人」だと記されています。この「神の相続人」というのは、神の持っている全てで、ありとあらゆるものを相続できるのです。イエスキリスト共に神の相続人として、神のために神と共に励んでまいりましょう。

 このように神は私たちを神の子供として、すばらしい恵みをくださいます。これは神が私たちを愛しておられるからです。神の愛に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りの助け合い」   出エジプト記17:8~16(旧約P122)   2021年6月20日 大竹敏生

 

本日導かれました聖書の箇所は旧約聖書の出エジプト記17章8節~16節です。この箇所を通して、私たちに祈りが与えられていることを喜び、祈り合い、助け合いつつ神と共に歩む者とされてまいりましょう。

 長く厳しい荒野の旅が始まり、イスラエルの民は食べ物や飲み物が無かったりで疲弊していました。そしてそのイスラエルの民は、戦いの経験も無く弱い民だったのです。そこにアマレク人が戦いを挑んできました。モーセは若いヨシュアを導き出し、同じように若い男たちをアマレクとの戦いにあたらせました。そしてモーセは祈っていたのです。モーセは手を上げて祈っていたのですが、手を上げている時はイスラエルが優勢で、手を下ろすとアマレクが優勢になるのです。そこでアロンとフルがモーセの手を支え、手が下がることがなくなり、つまり祈り続けることができて、ついにイスラエルが勝利しました。これは祈りによる勝利であり、神の力無しには勝てなかったのです。

 このように祈りはとても大切なものです。私たちも祈ることができることを感謝いたします。私たちは自分ためによく祈ります。それは大切なことですが、祈りのすばらしいところは、他人のために祈ることもできることです。そして他者に代わって祈ることすらもできるのです。私たちは祈る者であり、祈られている者でもあります。共に祈り、助け合って歩んでまいりましょう。

 アマレクとの戦いで若い人たちが実際に戦い、高齢のモーセが祈り、それを支えたのも高齢のアロンたちでした。おそらくこの時、モーセの姉ミリアムも神を賛美していたのではないでしょうか。教会も同じです。老若男女すべてが神のために、実際の奉仕や、見えない働き、そして祈りをするのです。

神は代々アマレクと戦うと16節にあります。アマレクは肉的なものの象徴です。私たちは肉と戦い続けなくてはなりません。神と共にこの世の歩みを続けましょう。そのために祈り、助け合いつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「むしろ弱さを」  コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1~10(新約P339)  2021年6月13日 大竹敏生

 

本日、神に導かれました聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ12章1節~10節です。この箇所を通して、私たちの罪からくる「弱さ」をも神は愛し、助けてくださることを覚え、その「弱さ」を誇りとして歩んでまいりましょう。

 この手紙の受け取り手であるコリント教会は問題をもっていました。それは自分の能力や体験を誇りとすることからくる分裂や愛の欠如でした。この手紙の著者のパウロは、この手紙の前に書いた手紙でも「誇る者は主を誇れ」と記しています。そしてこの手紙の今日の箇所でもそのことが記されています。この問題はコリントの教会に深く刻まれた深刻な問題だったのです。

 コリントの教会は自分により頼む者が多くいました。それで恩人であるパウロの使徒性を疑ったり、能力や体験を疑問視していた人もいたようです。それでパウロは自分の体験を記しています。しかし他人のことのように記しています。それぐらいパウロは、コリントの教会の人たちが自分を誇らないように配慮し、慎重に進めているのです。パウロは自分に与えられた「とげ」を取り除いてくださいと神に願いました。この「とげ」とは病気とか肉体のハンデだと思われます。つまり「とげ」は「弱さ」なのです。パウロはその「弱さ」を誇ると記しています。その理由は「神の力は弱さの中でこそ十分に発揮される」からだと記しています。確かに私たちは、自分では解決できない、自分の「弱さ」に関することについては躊躇せずに神に助けを求めます。神は「弱さ」の中に力を発揮されるのです。そして神は私たちの「弱さ」を愛しています。つまり神は私たちの「弱さ」はあってもかまわないと言っているのではなく、神は私たちの「弱さ」はあった方がよいと言っているのです。私たちの「弱さ」をも愛してくださる神に感謝をいたします。

 私たちはそんな神の愛につつまれています。私たちの「弱さ」も愛されています。私たちはそんな「弱さ」をむしろ誇りとして歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神からの喜びの広がり」   詩編133:1~3(旧約P975)    2021年6月6日 大竹敏生

 

本日、導かれました聖書の箇所は旧約聖書の詩編133編1節~3節です。この箇所を通して、神から与えられる恵みを喜び、その喜びをくださる神と神を信じる仲間と共に喜びを証しし、広げていく者とされてまいりましょう。

 今日の聖書の箇所の詩編133編1節に「何という恵み」「何という喜び」と記されています。この「何という」という言葉は「あり得ないほど」「信じられないほど」という意味です。つまり非常に大きな恵みであり、非常に大きな喜びということです。この大きな喜びについて考えてみましょう。

 まず2節と3節を見ます。2節に記されている「アロンに油が注がれる」これは何を意味するのでしょう。油は神の霊を象徴します。油が祭司アロンに注がれ全体に行きわたります。このように神の霊が私たちすべてを完全に満たすのです。また3節の「ヘルモン山の露」とは何を意味するのでしょうか。ヘルモン山はイスラエルの地方で一番高い山で、ほぼ一年中雪があります。そのヘルモン山の雪が露となって、乾いたイスラエルの地を潤すのです。このように神は私たちの必要なものをくださり、潤してくださるのです。3節の後半には私たちに神が「祝福」と「とこしえの命」をくださるとあります。救いと日々の祝福が与えられる、これは私たちへの神の恵みであり、喜びなのです。

「アロンに注がれた油」も「ヘルモン山の露」も上から下へと流れます。上の神から下の私たちに恵みが与えられます。1節に「兄弟が共に座っていることが喜び」とあります。これは私たちが仲間と共にいることの喜びを示しています。そしてその交わりの中には、私たちに上から恵みをくださる神がいなくてはなりません。マタイによる福音書18章20節には「主の名によって集う人たちの中に神が共にいる」とあります。これも私たちの喜びなのです。

神の恵みは私たちの喜びです。上からの喜びは私たちに注がれ、私たちを通して広がっていきます。神からの喜びを感謝し、証ししてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛を喜ぶ」  ヨハネによる福音書12:20~26(新約P192)  2021年5月30日 大竹敏生

 

本日、神に導かれた聖書の箇所はヨハネによる福音書12章20節~26節です。有名な24節を含むこの箇所を通して、神に愛されていること覚え、その神の愛を喜び、神のために生きる者とされてまいりましょう。

 今日の聖書個所はイエス様がエルサレム入場をしたすぐ後に起こったことです。過越祭に、礼拝するためにエルサレムに来たギリシャ人が「イエス様に会いたい」とやってきたのです。イエス様はそのとき「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われました。これは何を指しているのでしょうか。

 イスラエルの人たちにとっては、救い主とはユダヤ人をローマから解放する方、つまりユダヤ人のための地上の王、政治的な救い主でした。しかし真の救い主はそうではありません。ユダヤ人のためだけではなく、全ての人のための救い主で、贖いの十字架によって全ての人を救うお方だったのです。24節のみ言葉はイエス様が一粒の麦となってくださり、十字架で死んで、全ての信じる者を救う、贖いの救いのことを指しています。これがイエス様にとっての栄光だったのです。イエス様のところにユダヤ人ではなく、異邦人であるギリシャ人が来ました。全ての人を救う救い主イエス様は、これを「時が来た」と宣言し十字架に向かわれ、栄光を受けたのです。

 私たちを神はなぜ救ってくださったのでしょうか。それは私たちを愛しておられたからに他なりません。神は愛される資格のない私たちをこの上なく愛してくださっておられます。私たちの罪の責任は神にはなく、私たちにありました。でも私たちはどんなに頑張っても自分を救うことができません。そこで神の方が私たちのためにご自身のみ子を救い主として送ってくださいました。これは神が愛してくださっているからです。感謝します。

 神は今も私たちを愛し、私たちを救い、導いてくださっています。私たちはこの神の愛を喜び、神のために歩んでまいりましょう。神の愛に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ただわが霊によって」   ゼカリヤ書4:4~14(旧約P1483)    2021年5月23日 大竹敏生

 

本日は今年のペンテコステとなります。聖霊が降臨した記念のこの日の聖書個所は旧約聖書のゼカリヤ書4章4節~14節です。この箇所から導かれ、人の力ではなく、神の霊、聖霊によって歩む者とされてまいりましょう。

 ペンテコステは使徒言行録2章に記述されている聖霊が約束通り与えられたことを記念する日です。ただ聖霊はこの時初めて登場したのではありません。旧約の時代から、いや聖霊は神ですから、初めからおられたのです。ゼカリヤ書の時代も聖霊は働いておられました。感謝します。

 このゼカリヤの時代に、バビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民は、ペルシャ王によってエルサレムへの帰還が許されました。戻った民は崩壊した神殿を再建しようとしましたが、もともと民の力は不足している上に、他国の妨害があり、イスラエルの民は疲弊して工事は中断してしまいます。再度神殿建築のために動き出す民を励ました預言者がハガイとゼカリヤでした。そのゼカリヤの言葉がこのゼカリヤ書に記されているのです。

 この神殿再建は総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアが導いていました。ゼカリヤは幻を通して二人を励まします。今日の箇所はゼルバベルに向けて語っています。ゼカリヤ書4章6節にありますように「神の霊によって」歩むようにとです。「武力」や「権力」を私たちは求めます。しかし神は「わが霊によって」と命じるのです。神の霊は聖霊です。大きな力を持っています。妨害も除かれます。必要も満たされます。神の霊によって歩んだゼルバベルとヨシュア、彼らにひきいられたイスラエルの民はついに神殿再建を成し遂げたのです。

 私たちにも神の霊、聖霊が与えられています。私たちも聖霊によって歩まねばなりません。聖霊を信じて導きに従いましょう。聖霊を信じて働きましょう。聖霊を信じてすべてをゆだねましょう。聖霊によって歩む私たちには神の助けがいつもあるのです。私たちも神の霊によって歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じる喜び」     ヤコブの手紙1:1~8(新約P421)   2021年5月16日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヤコブの手紙1章1節~8節です。この箇所から導かれ、私たちが試練を通して神によって成長させられること、天において大いなる報いがあることを信じて、喜びつつ歩んでまいりましょう。

 このヤコブの手紙を書いたのは、エルサレム教会の指導者で、主イエス様の兄弟であったヤコブだと言われています。そんなヤコブは1節で自分のことを「神と主イエス・キリストの僕」と自己紹介しています。「エルサレム教会の指導者」とか「主の兄弟」のようなことは記していません。ヤコブは自分の地位は関係なく、ただ主の僕と思っていたのでしょう。またヤコブは、初めは主の兄弟でありながら信じていませんでした。そんなヤコブは「主の兄弟」とも記さなかったのです。ヤコブに倣い、主の僕として歩んでまいりましょう。

 私たちには試練があります。試練は避けられません。ヤコブはそんな試練にあうとき喜ぶことを命じます。その理由として、私たちは試練を通して「何一つ欠けたところのない人」に成長させられると記しています。またマタイによる福音書5章12節には「天において大いなる報いがある」ことが記されています。避けられない試練ですが、私たちは試練を喜ぶことができるのです。

 ただ、試練を乗り越えるのは困難です。私たちが自分の力で試練に立ち向かってもつぶされてしまうでしょう。5節に「神に知恵を求めよ」とあります。この知恵とは、私たちがこの世を歩むために適応する能力です。試練あるこの世を歩むために、試練を乗り越えるために知恵が必要なのです。神に知恵を求めましょう。完全な神の知恵が必要です。そして疑わず、信じて求めなくてはならないとありますが、これは私たちが目指すべきところです。疑ってしまうような者かもしれませんが信じて祈りましょう。神は知恵をくださいます。

 新型コロナで試練の中を歩む私たちですが、主がこの試練を通して私たちを成長させ、喜びに至らせると信じましょう。信じる喜びに感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が守ってくださる」    詩編91:1~16(旧約P930)     2021年5月9日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の詩編91編1節~16節です。この箇所から導きを受け、私たちが苦難の中にあっても、神が守ってくださることを信じ、神に信頼して歩んでまいりましょう。

 この詩編91編は、苦難の中にある人に希望や平安を与える詩編です。誰が書いたのかは記されていません。ダビデやモーセという説があるようです。ダビデもモーセも苦難の中を歩み、神からの助けを受けた人たちです。どちらも著者の資格をもっています。またどちらでもなかったとしてもその人はやはり苦難の中、神から守られ、助けられた人であったでしょう。

 この詩編の中で、神は苦しむ者の避けどころとなり、神のみ翼の下にかばわれることを約束してくださっています。罪ある私たちは、誰もが苦しみ悩むのです。その苦しみは「疫病」「敵の攻撃」「猛獣の攻撃」など、いろいろな災難が記されています。でも神さまはありとあらゆる苦しみから私たちを守ってくださるのです。そして例えば「み翼の下にかばう」とありますから、神は遠くにいて守るのではなく、私たちと共にいてくださるのです。つまり私たちと同じ苦しみを味わって守ってくださるのです。感謝いたします。私たちはその神の守りを信じなくてはなりません。神に信頼しなくてはならないのです。もし私たちが自分の判断で動き、神を避けどころとしなかったり、神のみ翼の下から出てきてしまったとしたら、神の守りは受けられなくなるのです。神の守りに信頼しましょう。必ず神は守ってくださるのです。

 神に信頼するために、神と親子のような親しい関係となりましょう。子が親をしたうように神をしたっていきましょう。そして神を呼び求めましょう。子どもは具体的にどうしたらよいのか分からなくても親を呼びます。新型コロナの中、私たちは「神さま」と呼びましょう。そんな私たちの叫びのような祈りに神さまは応え、神は必ず守ってくださるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「罪ある者を愛する神」  ヘブライ人への手紙2:14~18(新約P403)  2021年5月2日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙2章14節~18節です。この箇所から導かれ、罪ある私たちを救うため、そして苦しみから助けてくださるため、人となってくださった愛の主を覚え、主と共に歩んでまいりましょう。

 今日の聖書個所はヘブライ人への手紙からです。この手紙はヘブライ人が対象であり、また原点のギリシャ語も流麗であると評価されていることなどから、何か高度で専門的で、初心者向けではないというようなイメージを持たれるかと思います。しかしこの手紙は「イエスキリストについて」「信仰による救いについて」など、キリスト教の神髄、すばらしさが多く記されています。本日の箇所もキリストの特に「受肉」について記されているのです。

 今日の聖書箇所には「神が人となられたこと」が記されています。その理由として2つのことが記されています。1つは罪ある私たちを救うためです。救いは十字架によって与えられますが、その十字架に架かるのは人間でなくてはなりませんでした。しかも罪があってはならないのです。従って罪のない神の子であるイエスキリストが人間としてこの世に来られ、十字架に架かってくださったのです。また罪のないお方でしたが、罪ある私たちと同じ試練にあわれたのです。だから私たちの苦しみを理解してくださるのです。そして同情してくださり私たちを助けてくださるのです。人となってくださった神に心から感謝をいたします。

 ではなぜ神は人なって私たちを救い、助けてくださるのでしょうか。それは私たちを愛してくださっておられるからに違いありません。ヘブライ人への手紙2章16節にありますように、神は価値がある天使ではなく、罪ある私たちを救うのです。ローマの信徒への手紙5章8節にありますが、罪がある私たちを愛してくださるのです。神は罪ある私たちをこの上なく愛します。だからこの愛は私たちから離れません。愛による救いと助けを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主は我らの先に」  マタイによる福音書28:1~10(新約P59)  2021年4月25日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書28章1節~10節です。この箇所から導かれ、私たちの先に立って行き。私たちのために備え、導いてくださる主に従って歩んでまいりましょう。

 今日の聖書の箇所は主の復活の箇所です。今日はイースターではありませんが、この箇所から導かれたいと思います。復活された主は弟子たちに「ガリラヤに行け、そこでわたしに会える。」と言われました。しかもこのことは主が十字架に架かる前から言っておられたことでした。つまりこのことは、かねてから計画されていたことで、重要なことだったのです。

 「ガリラヤ」とは弟子たちにとっての原点でした。そこで弟子たちはイエス様と出会い、弟子としての歩みを始めたのです。主を裏切ってしまった弟子たちはもう一度出発しなくてはなりません。それはかつて弟子として歩みだした地、ガリラヤから再び出発させられることになったのです。そしてかつてイエス様もガリラヤで伝道を開始しました。そして復活後、いよいよ福音は世界に広がっていくのです。その出発が大都市ではなく、辺境の地ガリラヤでした。ガリラヤで始まった福音宣教は、改めてガリラヤから世界に広がるのです。

 主は先に立ってガリラヤに行きます。弟子たちは先立つ主に従い、ガリラヤから歩み出すのです。かつてヨシュアはイスラエルの民を率いてカナンの地に入りました。その時、不安や恐れがあって当然でした。しかしヨシュアの前に主が先だってくださっていたのです。私たちの前にも主がおられます。どんな状況にあっても必ず私たちの前に行ってくださるのです。そして先立つ主は私たちを待っていてくださるのです。感謝いたします。

 今も続く新型コロナの影響を、私たちも受けています。不安や恐れは当然あります。しかし信じましょう。こんな状況でも私たちの前を言ってくださる方がおられます。我らの先に立つ主に従ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の主を誇れ」  コリントの信徒への手紙Ⅰ1:26~31(新約P300)  2021年4月18日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ1章26節~31節です。この箇所から導かれ、私たちを愛し救ってくださる、そんな愛の主を誇りとして歩むことを心掛けてまいりましょう。

 この手紙の宛先のコリントの教会は分派などの問題があったようです。このコリントの信徒への手紙Ⅰは使徒パウロが記しましたが、そのパウロはその問題の原因がコリントの教会の人たちが自分の能力や経験を誇りとしていたことにあると分かっていました。従って今日の箇所などはコリント教会宛の手紙だからこそのものとも言えるのです。しかし神のみ言葉はさすがです。この箇所はコリント教会だけではなくすべての人を導くのです。感謝いたします。

 26節の「召された」は「救いに導かれた」と同じ意味です。コリント教会の人たちは自分の才能が理由で救いにあずかったと考えていたのかもしれません。だから自分を誇っていたのです。それに対してパウロは能力などは全く関係がないことを「むしろ能力のない者を選んだ」というコリントの教会の人たちには厳しい言葉で説明しています。救われた人はすべて能力などではなく救われました。理由があるとすれば、それは愛です。神の愛を感謝いたします。

 では私たちは価値のない者なのでしょうか。そんなことはありません。私たちにはそれぞれすばらしい賜物が与えられています。そしてその賜物をくださった神が賜物を生かし、用いてくださるのです。与えられた賜物を感謝し、神のために賜物を用いて励んでまいりましょう。

 31節の「誇る者は主を誇れ」という言葉は旧約聖書のエレミヤ書からの引用です。そして31節の意味は「自分を誇るな」が主な意味です。しかし「主を誇れ」を主な意味としても良いのではないでしょうか。主は私たちを救ってくださいました。賜物をくださいました。そんな愛の主を誇りましょう。私たちはさらに祝され、喜びに満たされるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「苦難が喜びへ」   ローマの信徒への手紙12:9~21(新約P292)   2021年4月11日 大竹敏生

 

2021年度の年度聖句はローマの信徒への手紙12章12節です。本日はその聖句が含まれる。ローマの信徒への手紙12章9節~21節を通して、主の助けにより、苦難にあっても喜びをもって歩めるように導かれましょう。

 私たちの教会の今年度の主題は「希望をもって喜ぶ」です。つまり「喜び」が中心のテーマなのです。聖書ではこの「喜び」は大切なものであり、私たちは喜ぶこと、またいつも喜ぶことが求められています。私たちはうれしければたやすく喜ぶことができます。でもいつもうれしいことばかりの歩みができるわけはありません。いつも喜ぶことは、いつもうれしいことばかりではない私たちには困難です。ならば私たちが喜べない状況にあっても喜ぶことがば良いのでしょうが、それはそれでまた困難なのです。

 いつも喜ぶためには「喜び」の反対の「苦しみ」が無い状態が必要と考えることもできます。ただローマの信徒への手紙12章12節を見ますと、そうとも言えません。「喜び」と「苦難」が近くにあるように思えます。暑さの対策法として「地肌にラップを巻き、暑さに耐え、ラップをはがす」という方法があるそうです。肩をもむことや痒い箇所をかくというのもそうです。暑さや肩こり、痒みなどの苦しみが解消された時、喜びがあるということです。ヨハネによる福音書16章33節にあるように、この世の歩みに苦難は当然あります。そんな私たちにとって、苦難の解消が喜びとなるということは、喜びが近いということです。感謝いたします。では苦難の解消のためにどうすればよいのでしょうか。12節に「希望」と「祈り」が出てきます。これは主にある希望であり、主に祈ることです。どちらも主に頼ることを意味します。主によって苦難を解消していただき、喜びをもって歩んでまいりましょう。

 新型コロナで多くの人が悩みの中にあります。主によって私たちが喜ぶことが求められます。いつも主によって喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活なさったのだ」   ルカによる福音書24:1~12(新約P159)  2021年4月4日 大竹敏生

 

本日は今年のイースターとなります。導かれた聖書の箇所はルカによる福音書24章1節~12節です。この箇所から導かれ、イエス様の復活が確かであることを信じ、復活された主と共に歩んでまいりましょう。

 イエス様が復活された時のことは4つの福音書に記されています。その内容から復活は日曜日に起こったこと、最初に墓に赴いたのは女性であったこと、そして最初に復活の主に最初にお会いしたのはマグダラのマリアであったこと、み使いが主の復活を告げたことなどが分かります。そして復活について分かっていることの中でも、本日は墓を訪れた女性たち、そして弟子たちが見たのは「何も無い墓」だったことを考えてみたいと思います。

 4つの福音書すべてで程度の差はありますが、人間が墓を訪れた時、すでにイエス様は復活されていて、そこにおられなかったことが記されています。何かそこにイエス様がおられて「見よ、私は復活した。」と告げた方が、皆にイエス様の復活を知らしめたのではないかと感じます。でもイエス様はそうはされなかったのです。イエス様がそこにおられなかったということは、どこで何をしておられたのでしょうか。遊んでいたわけではないでしょう。復活されたイエス様は、復活後の歩みのために何か必要なことをしておられたのだと思います。私の想像ですが、祈っておられたのではないでしょうか。祈って十字架に向かわれたイエス様です。復活されてすぐ祈っていたのだと思います。

 またイエス様がおられなかったということが、むしろ復活の確かさ、また力を示しているように思います。まるで寝ていた人が起きて活動を始めたように「何も無い墓」は感じさせます。死という強大な敵に主は圧倒的な勝利を収めました。「何も無い墓」はそれを証明しているように思います。

 主の復活によって救いは完成しました。復活の主を信じて永遠の命を得ましょう。これからも今も生きている主と共に歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救い主ゆえの十字架」  ルカによる福音書23:32~49(新約P158)   2021年3月28日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はルカによる福音書23章32節~49節です。イエス様の十字架の箇所であるこの箇所から、救い主ゆえに十字架に架かってくださったイエス様を信じて歩む者とされてまいりましょう。

 本日から受難週となります。この週の金曜日に十字架に架かられたイエス様を覚えましょう。そして本日は2020年度最後の主日です。2020年度、私たちは「福音を伝える」ことをテーマとしてきました。十字架は福音の大切な要素です。2020年度最後の主日、十字架について考えてみましょう。

 私たちは罪人です。従って罪のない神から離れてしまっているのです。その責任は罪を犯した私たち人間にあるのです。しかし神は私たちを愛しておられ、神と人との間を埋めるために、神のみ子であるイエス様は、十字架に架かられたのです。イエス様は人間としてお生まれになり、同時に神の子であり、罪が無い救い主でした。そんなお方が十字架に架かったのです。架かる必要がないお方が十字架に架かられました。間違いが起こったともいえるのです。しかしある先生はこう言われます。「神の子であり、罪のない救い主だからこそ十字架に架かってくださったのだ」とです。その通り救い主だから十字架に架かってくださったのです。十字架の周りで見ていた人たちは「メシアなら十字架から降りてみろ。そうしたら信じるから」とイエス様をののしりました。確かにイエス様は十字架から降りることができました。でも降りませんでした。天の軍勢を呼び寄せることもできました。でもそれもしませんでした。それは救い主として立ち続けるためだったのです。

 イエス様のこのすばらしい十字架に感謝いたします。イエス様が人として、神の子として苦しみの中で十字架に架かり続けてくださいました。それはすべての人が救われるためでした。これからも主を信じて、救い主ゆえに十字架に架かってくださったイエス様を証ししてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんなときでも主をほめよ」   詩編34:2~8(旧約P864)   2021年3月21日 大竹敏生

 

本日、主に導かれた聖書の箇所は旧約聖書の詩編34編2節~8節です。この箇所から学び、私たちはどんなときでも主が助けてくださることを信じて、主をたたえて歩む者とされてまいりましょう。

 この詩編34編を記したのは1節の表題にありますようにダビデです。またその表題には、サムエル記上21章の出来事が起きたときに記されたとあります。ダビデは、イスラエルの初代王のサウルから妬みを受け、サウルから命を狙われることになりました。ダビデはサウルと戦うつもりはありません。サウルが「主から油注がれた者」だったからです。だから逃亡することになったのです。イスラエル国内ではサウルが追ってきます。そこでダビデは、サウルの敵であるペリシテのガトに逃れました。さすがにサウルもそこまで追ってきませんでしたが、かつてゴリアトを倒したダビデは、ペリシテではむしろサウル以上に危険人物とされていました。ガトの王の家臣からダビデだと見抜かれて、ダビデは狂気の人を装ったとあります。このことについてはダビデの行為は失敗と言う人もいますが、詩編34編のダビデの言葉から判断すると、神の指示でなかったとしても、少なくても神は容認していたのでしょう。

 ただサウルからいわれのない悪意を受け、逃亡し、狂気の人を装うようなことまで行うダビデは、どんな思いだったでしょうか。神に文句の一つでも言いたい思いだったとしてもおかしくはありません。しかしそんな状況にあったダビデは詩編34編で「主をたたえて」いるのです。それは「苦難から常に救ってくださった」からだとあります。彼の逃亡は終わっていません。苦難はまだ続いているのにも関わらず、ダビデは主をたたえるのです。つまり結果が出たからたたえるのではなく、ダビデはこれからも主の助けがあると信じて主をたたえているのです。今、新型コロナの中にありますが、私たちもどんなときでも信じて主をたたえましょう。主は最善に導くのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神を中心に一つ」  フィリピの信徒への手紙2:1~11(新約P362)  2021年3月14日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙2章1節~11節です。この箇所から導かれ、私たちは十字架による救いを受けた者として、主に倣い自分を低くし、思い合い、神を中心に一つとされてまいりましょう。

 フィリピの信徒への手紙を記したのは使徒パウロです。パウロは自分の記した手紙の中でいくつかのことを強調しています。そのうちの一つが「一致」です。パウロは自分の記したいくつかの手紙の中で「一つとなること」を勧めています。「一致」は私たちが考える以上に大切なことなのです。逆に言えば「不一致」は私たちが考える以上に深刻な問題と言えるのかもしれません。

 では「一つとなる」ためにはどうしたらよいのでしょうか。それを知れば、単に「不一致」が良くないということだけではなく、「一致する」ことが神に喜ばれ、信仰者としてふさわしいものだということが分かります。今日の聖書個所のフィリピの信徒への手紙12章1節~12節には、神でありながら人となられ、さらに一番低いものとされた主に倣って、へりくだって相手を思うことが記されています。まず「主を模範」とし、「謙遜」になるのです。そしてそれは相手を思うこととなり、相手を愛することにつながるのです。これらのことは一つ一つが神を信じる者のなすべきことです。私たちが「一つとなること」は信じる者がなすべき大切なことを積み重ねて実現していくのです。

 でもこれは簡単なことではありません。「主を模範とすること」「へりくだること」「愛し合うこと」その一つ一つが難しいのです。「一つとなること」は大変困難なのです。でも私たちが一つとなることは神の喜ばれることです。神が私たちを助けてくださいます。神は一つとなる私たちの中心におられます。私たちは主を仰ぎ見て、一つとされてまいりましょう。

 新型コロナの中、皆が自分本位に考えているように思います。私たちは神を中心に一つとされてまいりましょう。それが良い証しとなるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神に喜ばれるキリスト者」 ローマの信徒への手紙12:1~2(新約P291)  2021年3月7日 大竹敏生

 

本日、導かれました聖書の箇所はローマの信徒への手紙12章1節~2節です。この箇所から学び、神の愛の導きによって信じ、救われたキリスト者として、神を喜ばせる歩みをなす者とされてまいりましょう。

 今日の聖書個所の前の11章までで、パウロはキリストの愛による十字架で、信じる者が救われることを記しています。そして12章から信じて救われた「キリスト者」がどのように歩むべきかを記しているのです。そして今日の聖書箇所には「神に喜ばれる」という言葉が出てきます。私たち「キリスト者」は「神に喜ばれる」存在になるべきなのです。

 ではどうしたら神に喜ばれる存在になるのでしょうか。今日の聖書個所に「生けるいけにえとなりなさい。」ということが記されています。この言葉の意味は「神のために生きる」ことです。自分ではなく、神を第一に、神のために生きることが神を喜ばせるのです。私たちのつたない「奉仕」「伝道」などを神さまは喜んでくださいます。神を喜ばせるために私たちは存在しているのです。私たちは神のために自分を神に献げましょう。しかもそれは私たちの一部分を神のために献げるのではなく、全身全霊、つまりすべてを献げるのです。キリスト者は神を喜ばせる者であり、全身全霊で神のために生きるのです。

 でもそれは簡単なことではありません。私たちは自分ために生きてしまう者です。また私たちは神ではなく、この世に倣って歩んでしまう者です。私たちが神のために生きるには、神の助けが必要なのです。今日の聖書の箇所には「私たちは神に変えていただける」ことが記されています。神によって変えられ、神のために生きるように、神を喜ばせるようにされてまいりましょう。

 私たちが神のために歩むとき、神は助けてくださいます。また厳しいはずのその歩みは喜びとされます。私たちは主を愛しています。神を喜ばせることは私たちにとっても喜びとなるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰による歩み」  ヘブライ人への手紙11:1~3(新約P414)  2021年2月28日 大竹敏生

 

本日、神に導かれた聖書の箇所はヘブライ人への手紙11章1節~3節です。「信仰」について記されているこの箇所から学び、信仰によって歩む者とされてまいりましょう。

 今日の聖書個所のヘブライ人への手紙11章1節~3節のテーマはやはり「信仰」でしょう。「信仰」という言葉は他宗教でも使われる言葉かもしれません。でも私たちキリスト教では特に「信仰」は大切なものだと思います。「信仰」によって多くの恵みを受けます。それを考えてみましょう。

 「信仰」によって与えられる恵みですが、まず最初に取り上げなくてはならないことは「信仰による救い」です。キリスト教で強調されることですが、私たちが救われるのは「行い」ではなく「信仰」によってです。これ以外に救いはありません。この手紙の中にもそれが記されています。どんな偉大な人物でも自分の力では救われません。神への信仰によって救われるのです。

 「信仰による恵み」の2つ目は、この世での導きです。旧約聖書の創世記に出てくるアブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。それは彼が、神の命令に従って「行先も知らずに出発した」ことからそう言われているのです。この世での歩みは分からないことばかりです。しかし神を信じる者には「導き」が与えられます。そして信じて従った者には、アブラハムのように祝福が与えられます。信仰によって導かれ、祝福が与えられるのです。

 そして3つ目は「私たちの望みはすべて叶えられる」ということです。ただ「なんでも思い通りになる」ということではありません。私たちの望みは正しいとは限りません。むしろ我々の望みは悪い結果を生むこともあります。神は私たちにとって「最善の良いもの」を必ずくださるのです。

 私たちの歩みは苦難の時もあります。しかし信仰をもって歩むとき、神は必ず最善に導いてくださいます。神への信仰をもって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛は大きい」  ルカによる福音書15:11~24(新約P139)  2021年2月21日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はルカによる福音書15章11節~24節で、有名な「放蕩息子のたとえ」からとなります。この箇所を通して、神の大きな愛を学び、また神の愛を受け、神の愛を信じて歩む者とされてまいりましょう。

 今日の聖書個所の「放蕩息子のたとえ」ですが、何かしっくりこないものを感じます。それはこの弟が父から愛される資格があるのかと思うからです。弟は父から遺産を貰い、その遺産を自由に使うために父のもとを離れ、遠い国に旅立ちました。そこで財産を使い果たしてしまうのです。そしてひどい状況に陥るのですが、それは弟の自業自得と言えるのです。父から貰った財産を自分のために使い果たし、何も無しに父のもとに帰ってきた弟、どこに父の愛を受ける資格があるのでしょうか。過保護な父に見えてしまうほどです。

 これは例え話ですから、その例えの教える意味をまず覚えましょう。それは愛される資格のない者をも愛する神、それくらい神の愛は大きいということを覚えましょう。だいたい私たちも罪を持っていますから、愛される資格のない者なのです。「私はあの弟のようにはならない」と感じておられる方も多いと思います。でも私たちの罪は恐ろしいものです。私たちにしたくないことをさせるのです。そういう状況に陥った時、人は自分に絶望します。イエス様を否定したくなんかなかったのに、3度イエス様を「知らない」と言ったペトロはものすごいショックを受けました。しかしペトロはイエス様の愛のまなざしを受け、愛されていることを知り、絶望から歩み始めました。弟も父の愛を受けて最悪の状況から回復させられたのです。私もそういう経験をしています。ショックでしたが神の愛に助けられました。神の大きな愛に感謝します。

 私たちも残念ながら罪を持っています。その罪でしたくないことをしてしまい、ショックを受けることもあるかもしれません。しかし私たちも間違いなく愛されています。その神の愛の中を歩みましょう。神の大きな愛に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の教会として」   ペトロの手紙Ⅰ4:7~11(新約P433)  2021年2月14日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰ4章7節~11節です。この箇所を通して、どんな状況にあっても神に祈り、また神の愛を受け、互いに愛し合いつつ歩む者とされて歩んでまいりましょう。

 今日の聖書個所の7節の冒頭に「万物の終わりが迫っています。」とペトロは記しています。「万物の終わり」とは大変切羽詰まった状況ですね。そしてこの手紙の受け取り手の人たちは、迫害などで厳しい状況にあったと思われます。そんな人たちにペトロは以下のように勧めているのです。

 まず一つ目として「祈ること」です。私たちはどんな時でも祈るべきなのですが、困難な状況にあるときこそ祈るべきです。私たちが厳しい状況にあるとき、そこを脱しようといろいろと試みます。しかし弱い私たちの力では逃れられるとは限りません。全知全能の神に祈り、神の力によって歩むべきなのです。また二つ目として「互いに愛し合うこと」が勧められています。この互いに愛し合うことは、大切な神の掟です。神が私たちに切に求めておられることなのです。私たちは、お互い愛し合うことによって、罪を覆い合うことができるのです。その「互いに愛し合うこと」の中には「もてなし合うこと」「賜物を生かして仕え合うこと」も含まれています。困難な状況にあっても神に祈り、互いに愛し合って歩んでまいりましょう。

 私たちは普通、困難な状況に陥ったら不安になります。そしてパニックになりかねないのです。でもペトロはそんな状況を迎えた人たちに、不安にならず、むしろ平安であれと勧めています。「祈ること」と「互いに愛し合うこと」はどちらも平安の中に行なうことです。平安の内に歩みましょう。

 今、新型コロナの影響もあって厳しい状況にありますが、今こそ祈り、互いに愛し合って歩みましょう。これからも私たちは神に喜ばれる愛の教会として神と共に歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛と信仰による勝利」   ヨハネの手紙Ⅰ5:1~5(新約P446)  2021年2月7日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はヨハネの手紙Ⅰ5章1節~5節です。この箇所から学び、神によって信仰を与えられたことを感謝し、神と人を愛し、神の命令に従いつつ歩んでまいりましょう。

 今日の聖書個所のキーワードは「愛」と「信仰」だと思われます。この2つが結び合わされるように記されています。まず1節を見ましょう。「イエスがメシアであると信じる人」とはキリスト者のことでしょう。そしてそのキリスト者は神から生まれた者だとあります。私たちは「自分の判断で信じた」と思いがちですが、神によって信仰が与えられたのです。だからその信仰を疑うことは一切ないのです。そして神から生まれた私たちは神の家族なのだということも覚えましょう。神の家族である私たちは家族同士愛する必要があります。生みだしてくださった神を愛し、神から生まれた者同士愛し合うのです。それはクリスチャンだけに留まらず、全ての人を愛することにつなげましょう。

 2節と3節にある「掟」とは「命令」です。この掟とは今日のキーワードである「愛」と「信仰」がそこに含まれていると思われます。私たちが神を信じ、神と人を愛すること、それが神の掟、命令なのです。3節には「神の掟は難しいものではありません。」とあります。これは神の命令が容易いと言っているのではありません。私たちクリスチャンにとって難しくないということです。まず「愛」です。私たちが神を愛するとき、自分ではなく神が優先されます。ルカによる福音書5章でペトロはしたくなかったこと愛するイエス様の言葉だから従いました。愛する方の命令ならば従えるのです。また4節にあるように私たちは「世に打ち勝つ者」です。神の助けによって私たちは力が与えられ、神の掟に従うことができるのです。感謝します。

 この世の歩みは困難です。しかし私たちは神によって勝利が与えられています。神を信じ、神と人を愛し、神の命令に従いつつ歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「無条件の愛」   ヨハネによる福音書8:1~11(新約P180)  2021年1月31日 大竹敏生

 

本日、主に導かれた聖書の箇所はヨハネによる福音書8章1節~13節です。この箇所から学び、神が私たちを無条件の、そして大きな愛によって罪を赦してくださることを覚え、感謝しつつ歩んでまいりましょう。

 ここでイエス様の前に連れてこられた女性は「姦通の場」で捕らえられていました。律法学者たちやファリサイ派の人たちはイエス様を訴える口実を得るために「律法に従い、石を投げるべきか?」とイエス様に問うています。「投げるな」と言えば「律法を犯している」「投げろ」と言えば「愛がない」また「ローマ帝国にしか認められていない死刑をイエスが命じた」と告発できます。どう答えても訴えられる。イエスを窮地に追い込めたと彼らはほくそ笑んでいたことでしょう。しかしイエス様は「罪のない者が石を投げよ。」と答えました。結果、誰も石を投げられませんでした。

 イエス様はこの女性に対して罪を赦しました。これは簡単に赦したのではありません。主は罪を憎むお方です。しかしそれ以上に愛のお方です。愛される資格のない罪を持つ人間を愛するお方なのです。イエス様を「主よ」と呼び、主から離れず、罪の解決を願ったこの女性は、罪が赦されたのです。

 私たちも罪人です。その罪は恐ろしいものです。一人の女性の生命を、イエス様を訴えるだけの目的でもてあそぶようなこと人にさせるのです。そしてイエス様の教えを聞いていた人たちがいたはずです。彼らはどこに行ったのでしょう。この女性が連れてこられた時、すぐにこの場を離れた人もいたでしょう。しかしこの場に残り、この女性を裁く側に立った者もいたのではないでしょうか。罪はこのように愛のない行為に走らせる恐ろしいものなのです。

 私たちの中にも罪があります。この罪ゆえに、愛のない行為に走りかねません。私たちも罪を赦していただく必要があります。この女性のように主の無条件の愛によって罪赦されて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「永遠の大牧者によって」 ヘブライ人への手紙13:18~25(新約P419)  2021年1月24日 大竹敏生

 

本日、導かれた聖書の箇所はヘブライ人への手紙の13章18節~25節です。この箇所から、神が私たちの「永遠の大牧者」であることを覚え、神に導かれつつ歩んでまいりましょう。

 本日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙の一番終わりのところとなります。記されている内容の多くが「祈り」に関してです。「祈りの依頼」「祝祷」「著者の受け取り手への祈り」が記されています。本日は特に「祝祷」についてくわしく見ていきたいと思います。

 20節に「永遠の契約の血による大牧者」とあります。また20節には「主のよみがえり」についても記されています。「血による」の血は十字架を指します。イエス様の十字架と復活がここには記されていることになります。そのお方は「大牧者」とあります。「大牧者」イエスキリストであり、「大牧者」が牧する「羊」は私たちです。「羊」である私たちは「大牧者」に従わなくてはなりません。「羊」は弱いので「羊飼い」に従わなければ生きていけないのです。その「大牧者」と私たちの関係は「永遠」とあります。イエス様は今から2000年前に1回十字架に架かりました。信じる者の救いは、その1回の十字架で足りるのです。私たち信じる者は永遠に救われるのです。そして「大牧者」と私たちの関係も永遠なのです。途中で「大牧者」でなくなることは絶対にありません。「永遠の大牧者」であるイエスキリストに感謝いたします。

 そしてその「大牧者」は私たちを助けてくださいます。21節には「良いものをあなたがたに備える」とあります。罪がある私たちは神の助け必要です。「大牧者」は「備える」と約束してくださっています。完全な「大牧者」によって助けられる私たちはその助けによって完全な者とされるのです。

 この世の歩みは困難です。また新型コロナもあります。「永遠の大牧者」に導かれて歩みましょう。それが弱い私たちにとって必要なことなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「最も大いなるもの」 コリントの信徒への手紙Ⅰ13:1~13(新約P317)  2021年1月17日 大竹敏生

 

本日、神に導かれた聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰの13章1節~13節です。神が私たちを愛し、愛する力をもくださる神に感謝しつつ歩んでまいりましょう。

 まず今日の聖書箇所の1節~3節を見ましょう。そこには「異言」「預言」「信仰」「すばらしい行い」なども、もしそれぞれに「愛」がなければ無に等しいのだと記されています。コリントの教会は「異言」「預言」「信仰」「すばらしい行い」を価値あるものとしていましたが、「愛」がそこになくて、他者をさげすんだりして、分裂などが起こっていました。せっかくのすばらしい「賜物」や「働き」も愛がなければ、良くないものとなるのです。私たちにも「賜物」が与えられています。主のために働くことも許されています。それらを無価値にしないように愛をもって歩みましょう。

 4節~7節は愛のすばらしい内容が記されています。ここの箇所の「愛」という主語を自分に置き換えますと、4節~7節にあることはほとんどできないことに気づかされます。自分は本当に愛がないと分かるのです。では主語をイエス様に置き換えますとすべてしっくり当てはまります。神は愛あるお方なのです。だから愛のない私たちは、愛のある神に愛をいただく必要があります。愛は神のくださる賜物なのです。

 8節~13節見ますと「信仰」「希望」「愛」の3つがいつまでも残ることが分かります。そしてその中で最も大いなるものが「愛」だと記されているのです。今日の聖書箇所に記されていることからも「愛」が最も大いなるものであることが分かります。また神ご自身の本質が「愛」です。「神は愛なり」とある通りです。最も大いなるものである「愛」をもって歩んでまいりましょう。

 今こそ私たちは「愛」をもって歩む必要があります。神から「愛」を受けて神と他者を愛して歩みましょう。すると私たちはさらに祝福されるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が共におられる喜び」 マタイによる福音書18:18~20(新約P35)  2021年1月10日 大竹敏生

 

本日導かれた聖書の箇所はマタイによる福音書18章18節~20節です。私たちを愛し、私たちと共におられ、私たちの中にいてくださる神を覚え、神に力づけられつつ歩んでまいりましょう。

 今日の聖書個所の18節はどういう意味でしょうか。それは天上、つまり神さまの業である伝道や宣教を、神さまは地上の私たち教会に任せてくださっていることを意味していると思われます。これは神が私たちを愛してくださっているからです。愛にこたえて任された任務に励みましょう。

 しかし任されたと言っても私たちは罪人です。弱いのです。大切な伝道や宣教を任されても成し遂げる力はありません。神はそれをご存じです。だから助けてくださいます。私たちの内「二人」が神のために心を一つにするなら、私たちの願いを適えてくださると19節に記されています。これは神の愛を示しています。「心を一つに」と言いますが、これは全く同じことを考え、行うということではなく、「神のために」という部分が同じで、それぞれが神のために働くことを意味しています。私たちも皆で神のために心を一つにして歩んでまいりましょう。それは神の喜ぶことでもあります。

 20節には、神の名によって「二人または三人」が集まるところに、神はその中にいてくださるとあります。神は私たちと共におられる方です。この20節から、その共におられる内容が分かります。そこには「その中にいる」とあるのです。神は上からではなく私たちと同じ高さとなってそこにいてくださるのです。キリスト教の特長の一つに「神が人となられた」ことがあります。神でありながら、人となってくださり、私たちと共に喜び、共に悲しむのです。そして苦難の中に私たちを捨て置かず、共にいて助けてくださるのです。

今も新型コロナなど私たちは苦難の中にありますが、これからも神と共におられることを喜び、導かれて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みの力によって」  コリントの信徒への手紙Ⅱ6:1~10(新約P331)   2021年1月3日 大竹敏生

 

本日は2021年の最初の主日礼拝となります。その日に神に導かれた聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ6章1節~10節です。神の恵みに力づけられ、神と共に歩んでまいりましょう。

 今日の聖書個所の2節に「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とありますが、この「恵み」と「救い」は「主を信じて救われる」ことでしょうか。それとも「神の助け、導き」のことでしょうか。どちらも正解です。私たちは主を信じて救われる必要があります。そしてその後、救われ続ける必要があるのです。私たちには「和解させる」任務が与えられています。これは神と人間の和解です。それは福音宣教に励むことなどがそうです。福音を広める働きをするには、私たちが和解されている必要があります。信じて救われていることを確認しつつ歩みましょう。また4節以降に記されていますが、和解させる働きを担う時、苦難があります。その苦難に対して神の恵みがあるのです。神に助けられ、導かれて和解の任務を果たしてまいりましょう。

 恵みとは「無条件で与えられる」ものです。私たちはそれを受ける資格を持っていません。それにもかかわらず、私たちを愛する神は、私たちに恵みをくださるのです。罪人であり、そしてその罪を嫌う神ですが、私たちのためにイエス様を送ってくださり、その十字架で信じる者を救ってくださるお方なのです。神は私たちが苦難の中にある時、恵みをくださるのです。また「恵みの時」とありますが、そうは思えないこともあるでしょう。しかし、神は間違いなく恵みをくださいます。神の恵みは必ずあるのです。そうなると苦難も恵みです。神は今も生きておられ、私たちを今、恵まれているのです。

 2021年も新型コロナもあり、困難な年となるかもしれません。でも間違いなく神の恵みが与えられます。神の恵みを信じて、その恵みに生かされて歩みを進めてまいりましょう。2021年の祝福を祈ります。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神を信じて感謝しよう」    詩編107:1~9(旧約P947)   2020年12月27日 大竹敏生

 

本日は今年2020年の最後の主日礼拝となります。その主日に導かれた聖書の箇所は旧約聖書の詩編107編1節~9節です。苦難の中にあっても神を信じて、神に感謝しつつ歩んでまいりましょう。

 詩編の言葉は非常にストレートに神について証しします。今日の聖書個所の107編1節は他の訳と合わせて考えると「神の恵みと慈しみはとても深いものであり、共に永遠である」ということを言っています。確かにすばらしいことが書かれています。でもそれは新しい知識というよりよく知られていることでしょう。私も、ともするとあっさり読み進めてしまいます。でもこの世の荒波にもまれて、苦難の中にある人にとってはこのみ言葉は心に響くのではないでしょうか。2020年、困難、苦難の中に歩んだ方もおられるでしょう。新型コロナは世界中の人たち、また教会を苦しめました。そんな2020年の最後の主日礼拝に、詩編107編から導かれ、感謝しつつ歩んでまいりましょう。

 今日に聖書の箇所にも「感謝せよ」とあります。今年2020年は新型コロナもありました。またそれぞれが苦難の中、歩んでまいりました。「とても感謝なんかできない」と感じておられる方もいるでしょう。しかし神は苦しみを喜びに変えることができるのです。そして私たちを神は愛しています。必ず神は私たちの苦難の中の祈りに応えてくださいます。そしてみ言葉にありますように感謝しましょう。

苦しいのに感謝するということは、我慢するということでしょうか。そうではありません。我慢はいつまでも続けられるものではないのです。詩編107編1節にあるように神の恵みと慈しみは永遠です。私たちは我慢して感謝するのではなく、とこしえの恵みと慈しみを信じて感謝してまいりましょう。2020年を感謝をもって終え、2021年も神を信じて感謝しつつ歩み続けましょう。神は私たちと共に歩み、必ず苦難を喜びに導いてくださいます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救い主誕生は着々と」   ルカによる福音書2:1~7(新約P102)  2020年12月20日 大竹敏生

 

本日は今年2020年のクリスマス礼拝となります。本日導かれた聖書の箇所はルカによる福音書2章1節~7節です。神の完全で偉大な計画の中、救い主が誕生されたことを覚え、神の愛の中を信じて歩んでまいりましょう。

 今から二千年前に私たちのために救い主がお生まれになりました。そのご降誕に関しては神の配慮された計画の中、着々と進められたことを感謝します。イエス様は神の子でありながら人間でした。生まれたときは普通の赤ん坊と同じで親の守りがなければ生きられない存在でした。イエス様が生まれた時代は平和な時代でした。幼いイエス様は平和な時代に憂いなく誕生したのです。

そして預言されていたようにベツレヘムでお生まれになりました。ナザレにいたヨセフとマリアは皇帝の「住民登録をせよ」との勅令が出たため、ナザレからベツレヘムに行き、そこでイエス様がお生まれになりました。イエス様は生まれは預言通りベツレヘムでしたが、ナザレで育ちました。「ナザレのイエス」と呼ばれることが神の御心だったのでしょう。

またマリアがベツレヘムに同行していますが、登録はヨセフだけでよかったようです。しかし、マリアを好奇の目にさらしたくないヨセフの配慮でか、マリアもベツレヘムに来て預言が実現したのです。これも神の計画です。

またベツレヘムで宿屋が満室でヨセフとマリアの泊まる場所はなく、家畜小屋で泊まることになり、そこでイエス様はお生まれになりました。これも神のご計画で、全ての人を救うためにこのような形でお生まれになったのです。

救い主誕生の計画は着々と神によって進められました。皇帝はもちろん、宿屋の人や宿泊者も神の計画を知りませんでした。ヨセフとマリアでさえも知らなかったと思います。全知全能の神によって計画通り救い主は誕生しました。新型コロナの感染が拡大する中でのクリスマスですが、神がその力で最善に導くことを信じましょう。今年も言います。クリスマスおめでとうございます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じる者は幸い」    ルカによる福音書1:39~45(新約P100)   2020年12月13日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第三週の主日となります。本日導かれた聖書の箇所はルカによる福音書1章39節~45節です。受胎告知を受け、それを信じたマリアにならって信じる者として歩み続けましょう。

 受胎告知を受けたマリアはそれを信じました。そして今日の箇所で親類のエリサベトのもとを訪れています。この訪問の目的は何だったのでしょうか。み使いが告げた「高齢のエリサベトの懐妊」を疑っていたわけではないでしょう。むしろ信じて、主の導きによって身ごもった者同士で励まし合ったり、支え合うことを求めたのではないでしょうか。そして主の導きと信じ、急いで100キロ以上離れたエリサベトの家を訪れたのです。そしてそこでは期待以上のことが起こりました。マリアがまだ何も説明していないのに、エリサベトは聖霊に満たされて「マリアの祝福」「マリアの懐妊」そして驚くことに「マリアの宿している子は主」と高らかに言ったのです。聖霊に導かれての言葉です。ある人はこれは預言だと言っているのです。面白いことにエリサベトの胎内の子も喜んだとあります。さすが主の道備えをするバプテスマのヨハネです。

 そしてエリサベトは45節で「主を信じる人は幸い」と宣言しています。ルカによる福音書11章27節で、ある女が「イエス様の母となった方は幸いだ」と言いました。また受胎告知のとき、み使いはマリアに「恵まれた方」と言っています。これではマリアのみが幸いとなります。エリサベトは「主を信じる人は幸い」と言います。またルカによる福音書11章27節の言葉に対してイエス様は「神の言葉を聞き、それを守る人が幸い」と言いました。神の言葉を守るためには神を信じることが不可欠です。私たちにとって神を信じることが幸いであり、大切なのです。

 私たちも神を信じて歩みましょう。そのために祈り合い、励まし合いましょう。信じて救われ、恵みを受けて歩めるのです。何と幸いなことでしょうか。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「今こそ祈りによって」    創世記18:22~33(旧約P24)    2020年12月6日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第二週の主日です。そして世界バプテスト祈祷週間の最終日です。本日導かれた聖書の箇所は旧約聖書の創世記18章22節~33節です。アブラハムの執り成しの祈りから学び、私たちも世界の国々の方々とそこで働く宣教師の方々を覚えて執り成しの祈りをしてまいりましょう。

 本日の聖書の箇所では、神とみ使いがアブラハムのもとに来て、アブラハムの妻サラに子どもが生まれることが告げられています。そしてその後、ソドムとゴモラの町に裁きをくだすとアブラハムに神は告げているのです。それに対してアブラハムは町を滅ぼさないように執り成しています。「正しい人が五十人いたら、それでも滅ぼすのですか」から始まり、最後は「正しい人が十人でも滅ぼしますか」と神に訴え、主はすべてに「滅ぼさない」と答えました。アブラハムはソドムとゴモラの悪を否定しません。しかしそんなソドムとゴモラをも愛する神の憐れみを期待して執り成しています。またソドムにはアブラハムの甥のロトが住んでいました。しかしアブラハムは自分の私的感情は出さず、ひたすらソドムとゴモラのために執り成しているのです。結局ソドムとゴモラには、正しい人がロトたちだけでした。そしてロトと娘だけが助けられ、ソドムとゴモラは滅びることになったのです。アブラハムの執り成しは無意味だったのでしょうか。そうではありません。ロトたちが助けられたのはアブラハムの執り成しのゆえです。またアブラハムの愛の執り成しは神を喜ばせるものでした。私たちも他の人のために執り成す者とされてまいりましょう。

 今、世界中が新型コロナに苦しめられています。今こそ祈りが必要です。世界宣教の祝福のために、自分のことだけではなく他者のために祈りましょう。人間は弱いのですが、神は全知全能の強いお方です。マタイ18章19節にありますように、私たちは心を一つにして祈りましょう。今こそ執り成しの祈りに励んでまいりましょう。神は必ず願いをかなえてくださいます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「共におられる方が」    イザヤ書7:10~17(旧約P1071)   2020年11月29日 大竹敏生

 

本日から今年のアドベントとなります。その第一週の主日礼拝に導かれた聖書の箇所は旧約聖書イザヤ書7章10節~17節です。この有名なメシア誕生の預言から、共におられる神を覚えて歩んでまいりましょう。

 本日の箇所の14節はマタイによる福音書1章22節~23節で示されている通り、今から二千年前に誕生した救い主イエスキリストのことで間違いありません。でもイザヤ書7章で問題になっていた南ユダ王国のピンチに関して14節は何を語っているのかが難解なのです。諸説いろいろあるのですが、結局は共におられる神が南ユダ王国を守られたのです。

この14節の預言はアハズという王の不信仰の言葉を経て与えられました。これは私たちの救いと同じです。救われる資格が無いのに神は私たちを愛して私たちのために十字架に架かってくださいました。私たちは信じることで救われるのです。私たちは罪を犯します。それでも神は見捨てません。私たちを愛し、共にいてくださるのです。

インマヌエルとは「神は我々と共におられる。」という意味です。この「神が共にいてくださる」ということはとてもすばらしい恵みです。人は一人で生きるのは困難なのです。しかし罪ゆえに孤独を感じることがあります。しかし神が必ず共におられるので一人ではありません。神が共におられることを信じましょう。また神はクリスチャンのグループや団体と共にいるのではなく、私たち一人一人と共にいてくださるのです。そして一人一人の問題に向き合ってくださり、一人一人を助けるのです。共にある神の恵みを感謝いたします。

共にいてくださる神は、私たちの不安を消してくださいます。新型コロナの感染拡大の中、今年もクリスマスを迎えようとしています。多くの人たちが不安を覚えているこの時、インマヌエルの名を持つお方の誕生を証ししてまいりましょう。今年も喜びつつクリスマスを迎えましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛につつまれ」  マタイによる福音書10:26~31(新約P18)   2020年11月22日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書10章26節~31節です。この箇所の特に30節のみ言葉を中心に、神の大きな愛を覚え、その愛に包まれて歩む者とされてまいりましょう。

 本日の箇所は、ルカによる福音書にある並行箇所もそうですがテーマは「恐れるな」です。ただ今日は30節を中心に神の愛について考えたいと思います。

 30節には「神が私たちの髪の毛の数まで数えている」ことが記されています。髪の毛の数のような、知っていてもどれほどに意味があるのか疑問に思うようなことでも神は知っておられるのです。これは神の愛を表しています。その愛が私たちの恐れを消すのです。イエス様の弟子たちも、イエス様の十字架の直前、ペトロは三度イエス様を「知らない」と言いましたし。他の弟子も恐れて逃げてしまいました。皆恐れたのです。でも彼らは復活したイエス様にお会いして、再び主のために歩みだしました。恐れていた彼らは最後までその恐れに負けず、多くが殉教の死を遂げたと言われています。恐れは私たちを厳しい状況に追い込みます。でも神に愛される私たちはその愛によって恐れないで歩めるのです。恐れを消す神の愛に感謝いたします。

 30節は「数えている」とあります。「数えている」より「知っている」の方が神の力の大きさを表すように思うかもしれません。でも「数える」ということはその対象と共に歩み、取り組んでくださることを意味します。また「数える」ということは「足りないときは補う」ことにつながります。私たちの髪の毛の数をすべて数えるほどに愛してくださる神は、私たちと共に歩み、欠けだらけの私たちを補い、助けてくださるのです。

 この世を歩む私たちには神の愛が必要です。恐れないで歩むために、弱い私たちが助けを受けるために神の愛が必要なのです。愛の神と共に歩んでまいりましょう。神の愛につつまれて歩んでいこうではありませんか。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主はあなたを愛している」   イザヤ書43:1~7(旧約P1130)   2020年11月15日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書のイザヤ書43章1節~7節です。この箇所の4節の有名なみ言葉を中心に、神が一方的に私たちを愛してくださっていることを覚え、その愛の中を歩む者とされてまいりましょう。

 イザヤ書は預言者イザヤが自分の生きた時代と、さらに後代のことなどの預言が記されています。今日の個所もイザヤの時代からかなり後の、バビロン捕囚にあった民の回復が記されています。揺るがぬ神の愛に感謝します。

 1節では神が創造主であることが記されています。人間も神によって造られました。神はご自身が創造されたものを「極めて良かった」と評価しました。私たちも作ったものを愛します。神はまして良いものを造られました。神は造られたものを愛し、特にその中でも人間を愛しておられるのです。

 3節はイスラエルの民のエルサレム帰還を認めたペルシャに、エジプトとその周辺の国が与えられることを示しています。そしてこのこと確かには実現しました。またこの節はイエス様の十字架の贖いも示していると言われます。神は私たちを愛してくださり、イエス様の十字架によって信じる者を救ってくださいました。愛の救いを感謝いたします。

 そして4節です。神の私たちへの評価は非常に高いのです。私たちは罪人であるのに、神は値高く見てくださるのです。これは神が私たち一人一人を愛しておられるがゆえのことです。神は私たちの能力や実績を見て評価しません。罪人であり無価値な私たちを神は一方的に愛してくださっているのです。人はときに悩み、罪に陥ります。自分でも情けなくなることがあるのです。しかし神はそんな者を値高いと愛してくださるのです。感謝いたします。

 私たちはこの無価値な者を愛する神によって励まされています。新型コロナなどで悩み、心に潤いなく歩む現代の人たちに「わたしの目にはあなたは値高く、貴い」と見てくださる神を証ししてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りによって歩もう」  コロサイの信徒への手紙4:2~6(新約P372)   2020年11月8日 大竹敏生

 

本日導かれた聖書の箇所はコロサイの信徒への手紙4章2節~6節です。この箇所から学び、どんな状況にあっても祈りをもって神から導きを受け、神のために歩む者とされてまいりましょう。

 パウロは多くの手紙を書いています。そしてそれぞれの手紙で同じテーマで語っている箇所もあります。同じパウロが同じテーマを語るのですから似た主張になることはもちろんあります。たとえ結論は同じでもそれぞれが宛先のことを親身になって考え、祈って記しているのです。ですから「パウロの主張はきっと同じ」と考えなくて良いのです。パウロの宛先を思う心を感謝します。

 今日の聖書個所にもそれをうかがわせる記述があります。2節の「目を覚まして」という言葉です。コロサイの教会は当時、間違った教えに悩まされていました。パウロは惑わされず正しい福音、つまりキリストを信じ続けなさいとこの手紙で警告していいます。惑わされないために「目を覚まして」いなくてはなりません。そのためにたゆまず祈ることが必要だと言っているのです。

 また3節と4節でコロサイの人たちに「自分たちが語り続けることができるように祈ってほしい」と記しています。当時投獄されていたパウロは語るのが困難な状況でした。しかし神に不可能はありません。どんな状況にあっても祈りによって前進できるのです。私たちも新型コロナの影響でいろいろと厳しい状況にありますが、祈って歩んでまいりましょう。

 また5節と6節でふるまいと語る言葉について記しています。案外どちらも難しいのです。人がその時、どんな言葉を求めているか、どんな行動が喜ばれるのか、それはなかなか分かりません。適切な言葉とふるまいを主に祈り求めましょう。神は賢いふるまいと快い言葉をくださるのです。

 私たちは主のためにこれからも祈りをもって歩みましょう。神は私たちの必要をすべてご存じです。主から受けて、喜びをもって歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしたちの本国」  フィリピの信徒への手紙3:17~21(新約P365)   2020年11月1日 大竹敏生

 

本日は今年の召天者記念礼拝です。先に天に召された方々を覚えて礼拝しましょう。そして私たちも召天された方々の信仰に倣って歩んでまいりましょう。導かれた聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙3章17節~21節です。

 まず17節を見ましょう。そこには「わたしに倣う者になりなさい」とあります。これはこの手紙の著者パウロが「すべて自分の真似をしろ」と言っているのではなく「私のようにキリストに倣う者になれ」と言っているのです。そしてさらに「私のようにキリストを信じて救いを受けよ」とも言っているのです。だいたいキリストを信じていなければキリストに倣う者にはなれないのではないでしょうか。キリストを信じて、キリストに倣う者になりましょう。

 先に召された召天者の人たちは、キリストを信じて救われ、キリストに倣う者でありました。そして今は天の本国でなんの憂いもなく過ごしているのです。「本国」という言葉は「国籍」と訳している聖書があります。国籍があればその国から守られます。権利も受けます。私たちはキリストを信じて「天の本国」に入る資格を得ました。私たちにはすばらしい保障があるのです。 またヘブライ人の手紙に「天の故郷」という言葉があります。私たちの天の御国は故郷であり、つまり私たちの心のよりどころです。私たちはいつか天の故郷に帰り、そこで懐かしい人たちと会うことができるのです。

 そしてこの「わたしたちの本国は天にあります。」という約束は、いつか私たちも訪れる天の御国についてだけではなく、今のこの世を困難の中、歩んでいる私たちにも関係するものです。私たちには「天国行き」が約束されていますが、それだけではなく私たちのこの世での歩み、苦難の中のキリストのための歩みが、すべて天の神に覚えられているということも意味しているのです。

 私たちはこの世での歩みが続きます。召天された方々に倣い、主を信じて主のために歩んでまいりましょう。私たちには「天の本国」が約束されています。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「憐れみが生かす」  テモテへの手紙Ⅰ1:12~17(新約P384)   2020年10月25日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅰ1章12節~17節です。この箇所から導かれ、私たちがどんな状況にあっても神は憐れんでくださり、救いと助けを変わりなく与えてくださることをおぼえてまいりましょう。

 このテモテへの手紙Ⅰはパウロが愛する弟子のテモテに書いた手紙です。テモテが遣わされていたエフェソの教会にも問題がありました。それがこの手紙の記された理由の1つですが、それ以上にテモテ個人の問題が大きかったようです。それはテモテが自分自身に限界を感じ、働きを全うできないと弱気になっていた面があったようです。それに対してパウロが叱咤激励や具体的なアドバイスをしているのがこの手紙です。今日の箇所もパウロのテモテに対するアドバイスの箇所になります。

 ここでパウロは、かつてキリストと敵対していた自分の救いの体験を記しています。そして「主は私たち人間を救うためにこの世に来られた」とさらに記しています。このことをテモテが知らないはずはありません。信仰を持つテモテに、さらに信じ続けることを勧めていることはあるでしょう。また迷うテモテはどうしたらよいのか分からなかったのかもしれません。そんなテモテに主を証し続けなさいと命じている可能性もあります。ただもう一つ大きな理由があるのです。かつては迫害者であったパウロは神の憐れみにより救われました。神は何もその資格がないものを憐れんで救いに導くのです。今、弱さがむき出しとなり、みじめな状態にあるテモテですが、そんな状態のテモテも神は憐れに思ってくださるのです。パウロはテモテにどんな状態にあっても憐れんでくださる主に助けを求めなさいと言いたいのではないでしょうか。パウロも落ち込むことがあったはずです。でも助けられてきたのです。

 そして神の憐れみは私たちにも注がれます。どんな状況にあっても主にすがりましょう。憐れみの主は必ず助けをくださるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰は神によって」  コリントの信徒への手紙Ⅰ2:1~5(新約P300)   2020年10月18日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ2章1節~5節となります。この箇所から導きを受け、神によって与えられる信仰が、また神によって守られ支えられることをおぼえてまいりましょう。

 パウロはコリントに初めて来たとき「衰弱していた」と3節に記されています。迫害にあっていたことや、アテネで自分の思いで語ってしまい、後悔の思いをもっていたことなどが理由だったと思われます。そしてコリントに着いたとき「イエスキリスト、それも十字架につけられたキリスト」を語ろうと決心していました。そしてそのことで多くの祝福をコリント教会は受けたのです。

 その1つは十字架のメッセージでコリントでも多くの人が救いに導かれました。神は罪人である私たちを愛し、私たちを救うために十字架に架かってくださいました。このイエスの十字架以外に救いはありません。十字架からは神の愛と救いが確かであることが示されているのです。この十字架のメッセージは多くの人たちを、今も昔も救いに導いてくださっています。

また十字架による救いは神の一方的な力によるものです。私たちは何もできません。コリントの教会の人たちは、自分の能力や業績などにより頼む傾向が強かったようです。それが教会の問題でもありました。しかしそのコリント教会の人たちも神の力によって信仰に導かれ救われたのです。神の力によるものだから間違いなく確かなものなのです。

そしてその与えられた信仰は神が守ります。5節の言葉は「神の力によって信仰が支えられる」と訳している聖書があります。私たちは何か厳しい状況に陥ると信仰から離れてしまいそうになります。でも神は私たちを守り、助けてくださいます。だから私たちは信仰をもち続けることができるのです。

私たちは皆、神の力によって信仰に至りました。そして私たちのその信仰を神はささえてくださいます。信仰はすべて神によってなのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「何という神の愛か」 ローマの信徒への手紙8:31~39(新約P285)   2020年10月4日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はローマの信徒への手紙8章31節~39節です。キリスト教では「愛」が大切です。神は愛であり、その愛は私たちに向けられています。その神の愛のすばらしさを覚えてまいりましょう。

 本日の聖書の箇所の中のローマの信徒への手紙8章31節に、神が私たちの味方であることが記されています。神が私たちの味方であることで、私たちにはだれも敵対できません。またすべて必要なものが与えられます。そして何よりも私たちは救われるのです。神が味方であるということはすばらしいことなのです。ではなぜ神は私たちの味方となってくださるのでしょうか。それは神が私たちを愛しておられるからです。神が愛してくださるがゆえに私たちの味方となってくださるのです。従って神はいつも私たちの味方なのです。

今日の聖書箇所にはその神の愛は私たちから離れないことが記されています。35節にあることはすべてが私たちにとって体験したくない肉体的にも精神的にも圧迫を与えるものです。これらはすべてこの手紙の著者パウロが体験していたものです。そんな苦しみの中でもパウロは主から離れませんでした。でもパウロ自身は自分が離れなかったのではなく、神の愛がパウロから離れなかったのだと記しているのです。それがパウロの実感なのでしょう。つまりどんな苦しい状況も、神の愛から私たちを引き離せないのです。また38節と39節には多くのものが出てきます。その中には「天使」のような良いものも含まれています。そのありとあらゆるものも神の愛から私たちを引き離せません。つまり何があっても、どんなことがあっても神の愛が私たちから離れることがないということでしょう。感謝いたします。

私たちが罪人であるときから、神は私たちを愛してくださいました。それくらい神の愛は大きいのです。また神の愛は離れません。今も私たちの罪を赦し、救い続けてくださる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神と我らの和解」 コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16~21(新約P331)   2020年9月27日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ5章16節~21節です。この手紙はパウロの思いや感情が至る所に表れています。またパウロの個人的な話もよく出てきます。そんなパウロのメッセージ性あふれる手紙のこの箇所から、神との「和解」のすばらしさを心に留めてまいりましょう。

 「救い」は聖書でもいろいろな言われ方をされています。例えば「義」「永遠の命」「罪の贖い」などです。そして本日取り上げる「和解」も言い方を変えれば「救い」なのです。神と私たちの和解ということは、神と人間は仲たがいをしていたことを意味します。私たちは皆、罪を持っています。この罪ゆえに神との間に溝ができました。仲直りする必要があります。そしてこの「和解」は神の側が積極的に進めて下さるのです。実は神は罪を非常に憎みます。罪人である私たちに強い怒りを持っているのです。しかしそれ以上に私たちを愛しておられます。だから私たちと「和解」して下さるのです。感謝します。

 この手紙の著者パウロはファリサイ派に属していました。ということはかつては自分のために生きていました。正に肉に従っていたのです。しかし主イエス様に出会って神と和解しました。その喜びは今日の箇所にも見うけられます。そして神に和解していただいたのですから、パウロは人々を和解させる働きをしているのです。そのパウロは神との和解を、主に代わって切に願っています。自分が一方的に神から受けた和解の恵みを、神に感謝しつつ、その神の願う和解を勧めているのです。

 私たちも神と和解しなくてはなりません。クリスチャンであっても神から離れてしまうことがないとは言えません。神との和解を受け続ける必要があります。そのために神を信じ続けましょう。またパウロのように神との和解を広める働きに参与してまいりましょう。私たちも神の愛によって和解をさせていただいたのです。神の愛の恵みの和解を感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「たとえ我らが弱くても」    詩編71:9~19(旧約P905)   2020年9月20日 大竹敏

 

本日は「高齢者を覚える礼拝」です。教会に関係するご高齢の方々がいつまでもお元気に過ごせるように祈りつつ礼拝しましょう。聖書の箇所は旧約聖書の詩編71編9節~19節です。この箇所から、弱くても力を与え、助けてくださる主なる神を覚えてまいりましょう。

 ご高齢の方々からは何か強さのようなものを感じます。それはご高齢の方々の経験や知識などによるのかもしれません。そして主を信じるご高齢の方々はそれに加えて強いものを感じさせます。それが何かを考えたいと思います。 詩編71編は誰が記したのかは不明です。ダビデやエレミヤなどが候補にあがっていますが、誰が著者なのか分からないのです。でも誰であってもこの詩編は著者が高齢になって記したものであろうと言われています。この詩編71編9節~19節を通して強さの秘訣を学びましょう。

 まず1つはおのれの弱さを認めることです。10節と11節あたりで自分の置かれている状況を記しています。つまり弱さを記しているのです。弱さは私たちの罪から来ます。弱さを認めることは自分の罪を認めることなのです。私たちは弱くても神は見捨てません。必ず助けてくださるのです。それを信じなくてはなりません。また14節にありますが神を賛美することも大切です。神への賛美が私たちを導き、助けます。また賛美は喜びを生み出します。たとえ喜べない状況でも、神への賛美は私たちを喜びに導くでしょう。そして15節以降に記されていますが、神の「御業」「御救い」を語ることです。これは「証しする」とか「伝道する」という意味にとれますが、もっと広くとらえて良いと思います。それは「神のために歩む」ということなのです。

私たちは自分の弱さを認め、強い神を信じましょう。神を賛美し喜びをもって歩みましょう。神のために働きましょう。これは私たちがこの世にある限り心がけて歩み続けなくてはならないことです。愛と力の神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰によってさらに」  ペトロの手紙Ⅰ1:3~9(新約P428)   2020年9月6日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰ1章3節~9節です。イエスの一番弟子と言ってよいペトロの書いた手紙のこの箇所から「信仰」によって歩むことの大切さを学び、その「信仰」によって祝福を受けてまいりましょう。

 今日の聖書の箇所からはいろいろな先生が「喜び」「愛」「希望」などいろいろな内容でメッセージを語っています。そのどれもが正しいのです。つまり大変内容が深いということです。今日はその内容豊富なこの箇所から「信仰」について語るように導かれています。

 「信仰」が私たちにもたらすものとして絶対に忘れてはならないのが私たちの救いです。罪ある私たちはこのままでは滅びる運命なのです。しかし私たちが滅びることを良しとしない神は、私たちを救うために御子イエスキリストを十字架につけられました。イエス様は死からよみがえられて救いの道を開きました。私たちをその神を信じる「信仰」で救われるのです。「信仰」によって救われることはペトロの手紙Ⅰ1章9節にも記されています。感謝します。

 では「信仰」が与えるのは、私たちの死後の「永遠の生命」だけなのでしょうか。それも大きな恵みですが「信仰」が与えるのは私たちの次の世に関することだけではありません。ペトロの手紙Ⅰ1章5節にあるように「信仰」はこの世での歩みも守るのです。この手紙の受け取り手の人たちは皆迫害にあっていたようです。この人たちにとって「信仰」が守るという約束は大きな励ましだったでしょう。そして現代の私たちもそれぞれが苦難の中にあります。現代の私たちにもその励ましの約束はあるのです。「信仰」によってこの世での苦難や試練を乗り越えていきましょう。ペトロの手紙Ⅰ1章7節にありますが、そのことによって「信仰」はさらに強められ、本物と成るのです。

 多くの人たちが苦難の中にある今こそ「信仰」です。生涯「信仰」をもって歩み、この世でも次の世でも守りと救いを受けてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「望みをおいて新たな力を」  イザヤ書40:27~31(旧約1125)   2020年8月30日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書のイザヤ書40章27節~31節です。この箇所から学び、主に望みをおいて、主から新たな力を受けて歩めるように導かれてまいりましょう。

 イザヤ書の著者イザヤが生きていた時代も、このイザヤ書40章で預言されているバビロン捕囚にあっている時代もどちらもイスラエルの民は主から離れて厳しい状況にありました。27節のように民が叫ぶのもありえる時代でした。人は厳しい状況のとき、主に「おられるのですか」「お忘れですか」と言いたくなるのです。そんな民にイザヤは厳しくいさめます。「神に失礼」として人に我慢を強いているのではありません。イザヤは民に「主はおられる」「助けは必ずある」と語っているのです。

 31節を見ましょう。この節で「新たな力」が約束されています。それを得るのは「主に望みをおく」者だとあります。別の訳では「主を待ち望む」とあります。これはどういう意味でしょうか。もともとの意味は「他のものには一切頼らず、主にだけ期待する」という意味だそうです。つまりこの「主に望みをおく」とは「主を信じる」ということと言えるのです。主を信じることで私たちはまず「救い」を受けます。主を信じること以外に「救い」はありません。また31節には「新たな力」とあります。これが私たちに与えられる力であり、私たちへの助けなのです。私たちは30節にあるように「疲れ」「倒れる」ものです。しかし主に望みをおくとき「新たな力」が与えられ、疲れることなく歩み続けることができるのです。これは大きな恵みです。主に望みをおいて歩んで参りましょう。

 新型コロナなどで多くの人が厳しい歩みをしています。こんな時だからこそ主に望みを置いて疲れることなくいつものようにクリスチャンらしく歩んでまいりましょう。それが周りの人にとっても大きな証になるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「内に働く御力により」 エフェソの信徒への手紙3:14~21(新約P355)  2020年8月23日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙3章14節~21節です。この箇所から、私たちの内に働きかけてくださる神を学び、その神の大いなる力に導かれつつ歩んでまいりましょう。

 本日の聖書箇所エフェソの信徒への手紙3章14節~21節は著者パウロの祈りが記されています。口述筆記をしていたパウロが手紙の中で思わず祈りに導かれたようです。しかもこの手紙で祈るのはここが2回目です。祈りの言葉が神のすばらしさを表しています。そこを見てみましょう。

 この箇所でパウロは「神がわたしたちの内に働く」と記しています。「内」ということは当然「外」もあります。「外」とは「肉体」を指すという考えもあります。そして文字通り「私たちの外面」ということもあるでしょう。10節に「内なる人」という言葉が出てきます。これは「肉体」と対称にある言葉で「新たにされた人」を指すということが考えられます。また「内」は私たちの内部を指すこともあると思います。どちらにしても「内」とは私たちの心や魂を含んでいると思われます。「内に働く神」を覚えたいと思います。

 「内に働く」とは何でしょうか。「内に働く」ことは困難です。完全に働くことは神にしかできないでしょう。そして「内に働く」ことは大きな力です。病気の治療では手術や投薬で治します。そしてその内部への神の働きかけは自然です。いつの間にか癒やしが起こっていると感じたり、いつの間にか力を付けていたと感じたりもするのです。自分の力ではなく、「内に働く」神の力です。それを忘れてはなりません。そして感謝なことに、神は私たちの内に住んでくださいます。神は私たちの内ですべてを導いてくださるのです。

 20節によれば、神が「内に働く」ことで大いなることが起きるのです。私たちの思いをはるかに超えて働きかけてくださいます。内に住んでくださる神を信じ、大いなる力を発揮される神を信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「従いなさい」    マタイによる福音書9:9~13(新約P15)   2020年8月16日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書9章9節~13節です。この箇所の特に9節を中心に学び、躊躇することなく主を信じて、主の「従いなさい」の呼びかけに応えて歩んでまいりましょう。

 本日の聖書箇所の前の部分に「マタイを弟子にする」と表題がつけられています。それを見て、この箇所は牧師などの献身者向けのみ言葉であって、一般の信徒や求道者とはあまり関係のないところだと考えてはなりません。信じることと従うことは別にあるものではなく、むしろ一緒にあるべきものです。私たちすべてが、神を信じて従うべきなのです。

 今日の聖書箇所に出てくるマタイは徴税人でした。徴税人はローマの手先として、同胞から税を徴収する裏切者と憎まれていたのです。また徴税人も不正に税を上乗せして集め、自分のものにしたりしていてさらに激しく嫌われていました。マタイがどうして徴税人になったのかは分かりません。人々から嫌われ、おそらく希望のない、あきらめのような日々を送っていたのでしょう。そんなとき、イエス様から「わたしに従いなさい」と声をかけられたのです。マタイはイエス様をこのとき初めて知ったわけではないと思います。かねてから、イエス様のことを見聞きし、知っていたのでしょう。自分とは反対に人々から慕われるイエス様をあこがれをもって見ていたのでしょう。でもマタイにはどうすることもできなかったのです。そんな中でのイエス様の「信じて従え」の呼びかけにマタイは躊躇することなく応えました。私たちも信じて従うことに躊躇する必要はありません。むしろ主はそれを望んでおられるのです。

 従うことは喜びでもあります。詩編1編3節には主に従う者の祝福が記されています。マタイは一切を捨てて従いました。最後はイエス様のために殉教の死をとげたと言われています。そこまで従い続けたのはその歩みが祝福であり、喜びだったのです。私たちも主を信じて従ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神は必ず」   コリントの信徒への手紙Ⅰ10:11~13(新約P312)   2020年8月9日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰの10章11節~13節です。この箇所の13節を中心に学び、どんな試練の中にあっても神が必ず助けてくださることを信じて、歩むことを心がけてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の13節は、特に有名で多くの人に愛され、励ましを与えている箇所です。私たちは試練を通して成長させられます。つまり試練を通して祝福されるのです。この世での私たちの歩みは試練が間違いなくあります。しかし恐れることはありません。試練は神が与えるのであって、私たちが耐えられない試練を神は与えないのです。しかし試練に直面すると私たちは平安でいられません。もし完ぺきな信仰があれば、慌てたりせず神に祈り、じっくりと神の助けを待つことができることになります。しかし弱い私たちはそれができず。むしろあがいて動いてしまうのです。案外、何かしていないと助けを待てないのが私たちの姿なのではないでしょうか。

 13節を見ますと私たちに試練を与えるのは神です。しかもその試練は、私たちが耐えられないものではないのです。そして神は同時に試練の苦しみからの「逃れの道」を備えておられるのです。神は真実な方ですから間違いはありません。私たちは試練に遭っても必ず「逃れの道」つまり適切な助けが与えられるのです。その助けは神が与えるものですから、私たちにとって最善なものが与えられるのです。私たちは試練による苦しみが去ることを求めるかもしれません。「逃れる道」はその求めたものなのかもしれません。でも違うこともあるのです。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱ12章に記しています。自分の身に与えられた「トゲ」を去らせて欲しいと願ったのです。しかし神の助けは「トゲ」は去らず、その「トゲ」を通して神の力がパウロに宿ることでした。

 神は試練を通して私たちを祝福します。だから助けは必ず与えられます。神を信じましょう。私たちを助け祝福される神を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じて期待する」   マルコによる福音書10:46~52(新約P83)   

 

本日の聖書の箇所はマルコによる福音書10章46節~52節です。この箇所から導かれ、全知全能の神を信じて、神にどんなことでも期待して歩むことを心がけてまいりましょう。

 本日の聖書箇所は、盲人バルテマイが見えるようになった記事です。バルテマイはイエス様を信じていました。「ナザレのイエスがお通りだ」と聞くと「ダビデの子イエス様」と主を呼んだのです。この「ダビデの子」とは「メシア」すなわち「キリスト」という意味です。おそらくバルテマイはイエス様のことを聞いて知っていたのでしょう。奇跡を行ない、自分のような目が見えない者の目を見えるようにしたことを知っていたのです。そんなお方は神からの救い主に違いないと信じていたのです。また、バルテマイは信じていたからこそイエス様の「何をしてほしいのか?」の問いに「施し」ではなく「目が見えるように」とイエス様に願ったのです。

バルテマイは主に対する信仰をもっていました。信仰とは何でしょうか。ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」バルテマイは目が見えるようになることを望んでいました。そしてそれはイエス様によって実現すると確信しています。バルテマイは正に信仰をもっていたのです。そしてその信仰によってバルテマイは主に期待していたのです。主はバルテマイの信仰による期待に応えられました。バルテマイは望み通り目が見えるようになったのです。そして信仰は、彼を救いに導きました。私たちも主を信じて主に期待して、自分たちの望みが主によって叶えられると確信しましょう。また信仰によって救いを受けてまいりましょう。主は最善を成してくださるでしょう。

私たちには祈りの課題がたくさんあります。それはすべてが私たちの望みです。主を信じて主に期待しましょう。そして喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の計画は続く」     詩編33:8~15(旧約P863)   2020年7月19日 大竹敏生

 

本日導かれた聖書の箇所は旧約聖書の詩編33編8節~15節です。この箇所を通して学び、私たちのための神のご計画を信じ、続いていく神の計画のために励む者とされてまいりましょう。

 私はあまり計画をたてない方です。理由としては面倒なのが1つの理由です。そしてもう1つあるのは計画通り進められるか分からないということもあります。人は弱いものであり、何か想定外なことがあるとそれに対処できないのです。詩編33編10節には人の計画のもろさが記されています。一方神の計画は11節を見ると必ず成ると読めます。神は全知全能ですべてをご存知です。想定外などは無く着実に計画は進められます。イエス様の十字架による救いの計画は、人の悪意や裏切り、無力の中で進められました。そういう非協力の中に、神は罪ある私たちを救うご計画を進められたのです。すばらしい神のご計画の通りに主を信じて救いを受けてまいりましょう。神の計画は必ず成るのです。心より感謝いたします。

 また神のご計画は私たち人間を無視するものではありません。詩編33編の12節以降には、神が私たちを見ていてくださることが記されています。神は人間を覚えつつ計画を進めます。これには2つの意味があります。1つは神の計画推進のために人間を用いるということです。神はすべての人が信じて救われることを計画されました。その働きに弱い私たちを用いてくださるのです。これは神が私たちを愛しているゆえのことです。またもう1つの意味は、神の計画は私たちのための計画だと言うことです。先に挙げた十字架による救いの計画はもちろん私たちのための計画です。神は私たちを愛しておられるので、誰も滅びないように救いの計画をたてました。愛の神に感謝します。

 新型コロナなど「どうしてこんなことが?」と感じることも起きます。しかしすべてをご存知で、計画を続けて推進される神を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「良い知らせを」   ローマの信徒への手紙10:14~17(新約P288)  2020年7月12日 大竹敏生

 

本日導かれた聖書の箇所はローマの信徒への手紙10章14節~17節です。この箇所から学び、救われている私たちは「良い知らせ」を伝えることを喜び、感謝して励んでまいりましょう。

 今日の聖書箇所の前の部分で、この手紙の著者パウロは「信じる者すべてが救われる」ことを記しています。これはパウロにとって何よりも大切なことだったのです。そしてその後の今日の箇所では、救われた者の使命が記されています。人間には罪があります。それゆえに誰もが生まれながらに神を知りません。だから伝え聞かなくては神を知らないのです。知らないと言うことは信じることはもちろんできません。救われた者も皆が伝えられて神を知り、信仰に至りました。伝えられ信じた私たちは伝える者とされてまいりましょう。

 15節のカギかっこの中の「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか」という言葉はイザヤ書52章7節の引用です。足を美しいと評価してくださる神に感謝します。私たちが福音を伝えるとき、神は小さな目に見えないような働きをも喜んでくださることを感謝いたします。また私たちの伝えるのは「良い知らせ」だということも感謝です。「良い知らせ」に関して現在はなかなか信用できません。例えば、聞いた知らせが確かに良いものであっても、正しいかどうかは分かりません。間違っていたらもちろん「良い知らせ」ではなくなるのです。また現代は「うまい話」は無いと警告がなされたりします。悪意をもって詐欺まがいの行為を働く者がいるのです。さて神の福音は「良い知らせ」です。私たちは神に愛され、神を信じることで無償で救われるのです。これが神の「良い知らせ」です。この「良い知らせ」は間違いがありません。また悪意ではなく、神の愛による救いです。感謝いたします。

 私たちはこのすばらしい「良い知らせ」を伝えるのです。これは喜びであり、名誉なことです。いつも福音を宣べ伝えることを心がけてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に願いなさい」   マタイによる福音書9:35~38(新約P17)   2020年7月5日 大竹敏生

 

本日は今年の神学校週間の最終日です。今日、導かれた聖書の箇所はマタイによる福音書9章35節~38節です。「働き手」のために祈り、また私たち一人一人も「働き手」として歩めるように祈ってまいりましょう。

 本日の聖書の箇所のマタイによる福音書9章37節~38節は有名な言葉です。ルカによる福音書10章2節にも同じ言葉があります。この箇所から神学校に導かれた人も多く、神学校週間にふさわしいところだと言えるのです。

「収穫は多い」とありますが、クリスチャンの数が少ない日本では疑問を持ってしまう方もおられるでしょう。また収穫を喜びとつなげて考えても、現在の多くの教会では希望や喜びが見えないかもしれません。また一人一人も苦しみの中にあり、どこに収穫があるのか見えない状態の方も多いでしょう。ただこの「収穫」は人のものではなく「神の収穫」なのです。人の目には厳しい、苦しい状況でも神の目には「収穫が多い」のです。それを信じましょう。

また「働き手は少ない」ので「働き手を送ってくださるように祈れ」とあります。これはまず文字通りの意味があります。昨今神学生の数が少なくなっています。これに関しては主に願うことが大切です。主のご用をなす働き人を、主が導き、おこしてくださるように祈りましょう。またこの言葉は単純に「足りないので補充をお願いする」というものだけではないと思います。働き手を導き、支え、必要を満たすのは神です。神はそのために働き手を成長させてくださるのです。働き手のためにありとあらゆることを祈ることも含まれているのです。そして働き手として歩み始めても祈りが必要です。祈りましょう。

また働き手とは決して特別な人たちだけではありません。私たち一人一人が働き手なのです。お互いおぼえて祈り合いましょう。祈ることでさらに祝福を私たちは受けるのです。希望や喜びを持てなくても、神には収穫が見えています。神を信じ、神に愛され、導かれて、祈りつつ歩んでまいりましょう

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「むしろ任せなければ」   ペトロの手紙Ⅰ5:6~14(新約P434)   2020年6月28日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰ5章6節~14節です。この箇所から導びかれ、思い煩いを神にお任せし、信仰に固く立って歩んでまいりましょう。

 本日の聖書の箇所の7節と8節以降の内容はかなりギャップがあります。「思い煩いを神にお任せしなさい」という愛の言葉から一転「悪魔がだれかを食い尽くそうと探し回っている」というのです。だからここは新たな話が展開されているとも読めますが、今日はつながりをおぼえてみ言葉を考えていきたいと思います。むしろみ言葉の豊かさを感じることができるでしょう。

 8節を見ましょう。そこには悪魔の恐ろしさが記されています。しかしその恐ろしさは単純ではないのです。ライオンは確かに恐ろしいですが、近づかなければ危険はありません。しかし悪魔は恐ろしい姿で近づいてこないのです。狡猾にいつの間にか私たちを攻撃するのです。9節で「信仰にしっかり踏みとどまりなさい」と勧められているのです。

 ある先生は「思い煩い」は神への信仰と自分など限界があるものへの思いに揺れ動くことが生み出すと言われます。そうかもしれません。この「思い煩い」も悪魔の攻撃で起こるものです。神への信仰と不信仰に揺り動かされるのです。悪魔の目的は私たちを神から引き離すことです。私たちは神を選び取らなくてはなりません。神への信仰に固く立ちましょう。私たちには神が「思い煩いを神に任せなさい」と命じておられます。これは「任せてよい」という単なる許可だけではなく、それを超えてむしろ「神に任せなければならない」と言っておられるのです。なぜなら「思い煩い」は信仰と不信仰の間に揺れ動いている状態であって、「思い煩い」を神にお任せすることによって、神への信仰を選び取り、信仰にしっかりと踏みとどまることができるからです。

 私たちは日々悩みの中にあります。思い煩ってしまう者です。私たちの弱さを知る神への信仰にしっかり踏みとどまって歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の慰めと希望」  コリントの信徒への手紙Ⅱ1:3~11(新約P325)   2020年6月21日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ1章3節~11節です。この箇所から導かれ、苦難の中にあっても神の慰めと力に希望をおいて歩んでまいりましょう。

 この手紙の冒頭で、いきなり著者パウロは自分の体験した苦難について記しています。これはこの手紙の宛先のコリントの教会の人たちが苦難の中にあったからでしょう。当時のキリスト者は皆迫害の苦しみを味わっていたのです。またパウロ自身は、神から主のために苦しむことが示されていて、つまりパウロの苦しみは神から遣わされた使徒であることの証でもあったのです。パウロは苦難に際しての主の導きを記しています。それを見てみましょう。

 パウロは苦難に対して神は「慰め」をくださると証ししています。この「慰め」ですが、何か弱いイメージがあります。「同情」や後に出てくる「希望」もそうですね。しかし例えば「希望」は主にある希望なのです。すると「あざむことのない希望」だし「失望に終わることのない希望」なのです。弱くありません。この「慰め」も主からのものです。弱くないのです。「慰め」という言葉の言語が人格的に変化すると「助け主」「慰め主」となります。つまり聖霊なる神です。主からの完全な「慰め」を感謝します。また「慰め」は広がりをもちます。主から慰められた者は他者を慰めることができます。これは教会の業なのです。また「慰め」は私たちが苦難に遭った時、すぐに私たちに届くのです。苦難の中にあっても慰められることを感謝します。

 私たちはこの神の「慰め」と死から復活された神の「力」に希望をおくべきなのです。パウロもそのように勧めていますし、パウロがそうして苦難を乗り越えてきたのです。これからも苦難は私たちを訪れるでしょう。しかし私たちには神の慰めと力があります。慰め主である愛の神に希望を持ち、歩んでまいりましょう。必ず助けと慰めが与えられるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「栄光を現すため」 コリントの信徒への手紙Ⅰ10:23~11:1(新約P313)   2020年6月14日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ10章23節~11章1節です。この箇所から導かれ、神の栄光を現しつつ歩むことを心がけましょう。

 今日の聖書箇所に出てくる「偶像に供えられた肉」についての問題は、当時の教会にとって大きな問題でした。普通に売っている肉が偶像に供えられた肉である可能性があったのです。偶像崇拝を恐れる人は間違えないように肉を食べず、それを誇りにしていたのです。一方何を食べても許されていると主張する人たちも誇りを持っていました。それが対立を生み出していたのです。パウロはどちらが正しいとは言わず、弱者への配慮と10章31節で「神の栄光を現すため」にすることを命じているのです。 今の私たちにはこの「偶像に供えられた肉」の問題はありません。でもどうしたらよいのか分からないことはたくさんあります。そんな時に「神の栄光を現す」ことが助けとなるのです。

 「神の栄光を現す」とはどういうことでしょうか。まず思いつくのは神のために生きるということです。私たちは普通自分のために生きます。でも愛する者のために生きることもできます。愛する主のために生きるのです。具体的には神を第一にすることです。マタイによる福音書6章33節ではそうすれば全てが与えられるとあります。感謝です。また神の喜ばれる歩みをすることもそうです。分からない問題も「どうすれば神が喜ばれるか?」と考えることで答えが見えてきます。神を喜ばせることは大切なことです。ローマの信徒への手紙12章1節にあるように、主のために自分を神のものとして歩みましょう。「神の栄光を現す」とはまた主をほめたたえることもそうです。主を証しし、主を賛美し、主のために生きることを心がけましょう。

 私たちは罪人です。弱い者なのです。知恵も力もないのです。しかし神は全知全能です。この方に栄光を帰しつつ歩みましょう。新型コロナに悩む私たちですが、「神の栄光を現す」ことで祝福と導きを受けられるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主への信頼が助ける」    エレミヤ書17:5~8(旧約P1208)   2020年6月7日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は今週も旧約聖書からです。エレミヤ書17章5節~8節を通して、主に信頼して歩む者とされてまいりましょう。

 「信頼」とは何でしょうか。信頼とはあるものを信じ、頼りにし、大胆で確信に満ちた安心感です。今日の聖書の箇所では「主に信頼する」ことが勧められています。そして8節のみ言葉によれば、どんなに大変な厳しい状況にあっても、主に信頼することによって護られ、助けられることが記されています。実際、聖書には主に信頼して困難を乗り越えた人たちが登場します。例えばパウロは迫害により石打ちに遭ったり、投獄されたり、多くの苦しみに遭ったのですが、主に信頼することで困難を乗り越えました。また今日の聖書箇所の主人公のエレミヤも「涙の預言者」「悲劇の預言者」と呼ばれる人です。彼は民の無理解や不信仰に悩まされ、命の危険もあったのです。そしてエルサレムの陥落も体験しました。しかしエレミヤも主への信頼を失いませんでした。生涯で多くの苦しみに遭いましたが、主に信頼して、最後まで歩んだのです。

 では主に信頼して歩むために、私たちはどうしたら良いでしょうか。まず主の力を知るべきです。主は全知全能です。こんなに頼りになる方はおられません。頼るべき主に信頼しましょう。また逆に頼る私たちは弱いことを覚えましょう。今日の聖書箇所の5節や箴言3章5節に「人間」「自分」などに頼ることが愚かだと教えてくれます。また主に助けを求めましょう。つまり祈ることです。主に祈ることは私たちの主への信頼を増すのです。そして主を愛することです。主は誰も頼る必要がないのに、私たちを信頼して宣教などの主の業を任せてくださいます。これは私たちを愛してくださっておられるからです。主の力を知り、おのれの弱さを覚え、祈り、愛し、主に信頼して歩みましょう。

 私たちの歩みも困難が避けられません。新型コロナもまだ終息していません。主に信頼して助けを受けて、平安の内に歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「聖霊はだれにでも」     ヨエル書3:1~5(旧約P1425)   2020年5月31日 大竹敏生

 

本日は今年のペンテコステとなります。そして本日の聖書の箇所は旧約聖書ヨエル書3章1節~5節です。聖霊の降臨を預言したこの箇所から導きを受け、聖霊による恵みを覚えてまいりましょう。

 聖霊による恵みを今日の箇所を中心に見てみましょう。まず聖霊は驚くべきこと、奇跡的なことができます。使徒言行録2章に聖霊降臨の日についての出来事が記されていて、ペトロはこのことはヨエル書3章に記されていることだと証言しています。聖霊に導かれた人たちが他国の言葉で話すのを見た人たちは驚いています。奇跡的なことが起こりました。聖霊は父と子と共に神なのです。神は全知全能です。不可能はありません。人間の力をはるかに超えたことも起こすのです。また聖霊は、私たちにとって必要な善いものをくださいます。ヨエル書3章1節に「預言」「夢」「幻」が与えられるとあります。預言はみ言葉です。私たちはみ言葉によって神に導かれて歩む必要があります。生きるために必要なものなのです。夢と幻ははかなくて、必要価値が高くないと感じるかもしれません。ただ聖霊が与えるのですからはかなくはないのです。私たちを導き、実現に至らせます。また欽定訳聖書の箴言29章18節には「幻のない民は滅びる」とあります。聖霊が与える夢や幻も、私たちにとって必要なもので生きるのに必要なのです。そして聖霊は誰にでも臨んでくださいます。今日の聖書箇所に身分や年齢、性別に関係なく与えられることが記されています。誰にでも、そして私たちがどんな状況であっても聖霊が臨んでくださるのです。ヨハネによる福音書14章16節に聖霊は永遠に私たちと共にあることが記されています。状況によっていなくならないのです。罪人であり、神の前に出ることもはばかれる私たちに届いてくださる神に感謝します。

 聖霊による恵みを信じましょう。そして祈りましょう。助け主であり弁護者である聖霊は、私たちに臨み、助け、導いてくださいます。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「変わらない恵みによって」 ヘブライ人への手紙13:7~16(新約P419)   2020年5月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙13章7節~16節です。この箇所から導かれ、変わらぬ神の恵みによって強められてまいりましょう。

 今日の聖書の箇所の7節以降は、著者が手紙を終えようとしていて重要なことを思いつき記したところと言われています。実際大切なことが書かれています。まず8節に注目ください。ここに「変わらない神」とあります。神は完全ですから「変わらない」のです。ただ人間は罪があり、弱いのです。「変わる」必要があります。これを別の言い方をすると「成長する」と言います。私たちは神に向かって「成長」してまいりましょう。

 9節の言葉は食物律法や禁欲主義のことを言っているようです。律法を守ったり、質素な食事は益をもたらさないのです。むしろ恵みによって強められる必要があるのです。哀歌は悲劇の預言者と言われるエレミヤが記したと言われています。エレミヤは民の不信仰や無理解に悩みました。そしてエルサレム陥落を目の当たりにしたのです。なぜこんなことが起こるのかと思ったでしょう。哀歌3章22節~23節には「神の愛は尽きない」と記しています。これはエレミヤが恵みによって強められていたからこその言葉です。私たちは自分のしたことや能力によって強められるのではありません。主を信じて変わらない神の恵みによって強められましょう。

 13節には「宿営の外へ」とあります。主は宿営の外で十字架にかけられ、私たちの救いを成し遂げられました。主と共に積極的に主のために歩むことが求められています。見える儀式や祭壇ではなく、神の恵みによって歩むべきなのです。この手紙の受取人の人たちは迫害の苦しみにあっていました。私たちも苦しむことがあります。そういうときも主の恵みによって歩みましょう。

 恵みによって強められる歩みをしていくためには、主を信じることが大切です。信仰をもって賛美しつつ、主を喜ばせる歩みを心がけましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主と共に。主のために。」 マタイによる福音書28:16~20(新約P60)  2020年5月17日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書28章16節~20節です。この箇所の神の命令と励ましを受け、福音宣教に励む者とされてまいりましょう。

 今週の木曜日5月21日が今年2020年の昇天日となります。イエス様が天に昇られた日です。イエス様が復活されてから昇天される前までに弟子たちに語られたことの中に「宣教命令」があります。今日の聖書箇所の19節~20節もそれにあたると考えて良いでしょう。ここには4つの命令が書かれているように見えます。順番に「行きなさい」「弟子としなさい」「バプテスマを授けなさい」「教えなさい」です。でも新約聖書のギリシャ語の原文で命令形が用いられているのはこの中で「弟子としなさい」だけです。これは他の命令も「弟子としなさい」の内容としてかかっているということです。つまり積極的に福音を宣べ伝え、人を神と出会わせ、そしてバプテスマに導き、神との1対1の深い関係に至らせ、さらに教え成長させること、これら全てが宣教なのです。人は信じるのに多くの人のいろいろなかかわりが積み重なり信じます。そしてさらに神の導きで信仰が成長させられるのです。これら全てが宣教です。深く、また尊い宣教の業が私たちにも託されていることを感謝いたします。

 でも弱い私たちは宣教なんてできないと思うことがあるでしょう。でも神はすばらしい約束をしておられます。それは「共にいる」という約束です。主は共にいて助け、見守りつつ励まし、変わりなく愛してくださいます。モーセの後を継いだヨシュアも、ヨシュア記1章9節でこの約束を受けて主の業を成し遂げました。今日の箇所の弟子たちも、この期に及んで疑う者までいたのです。でもこの後の弟子たちは、使徒言行録に記されていますがすばらしい働きをいたしました。主が共におられ、聖霊の導きを受けたからです。感謝します。

 この「共におられる」という約束は、私たちにも与えられています。弱い私たちも主と共に、主ために福音宣教に励んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活された主が」  マタイによる福音書28:1~10(新約P59)   2020年4月12日 大竹敏生

 

本日は今年2020年のイースターです。主の復活を喜びつつ礼拝しましょう。聖書の箇所はマタイによる福音書28章1節~10節です。この箇所から学び、主の復活に希望を置き、復活の主に導かれて歩んでまいりましょう。

 復活の日の朝、マグダラのマリアたちが墓を訪れたとき、すでに主イエスはよみがえられていて墓には遺体は無かったのです。イエス様は死者の中からよみがえられたのです。ローマの信徒への手紙6章23節に「罪が支払う報酬は死です。」とあります。その死に打ち勝った主は、私たちの罪から来る死にも打ち勝つのです。罪により滅ぶ運命だった私たちは、十字架に架かって死んでよみがえられた主を信じることで救いの希望を持てるのです。感謝します。

 最初に主の復活を告げられ、復活の主にお会いしたのはマグダラのマリアたちでした。彼女たちの主に対する熱い思いがそれをさせたのです。しかし彼女たちも復活を信じていたわけではありませんでした。マルコによる福音書の平行記事を見ると、イエスの遺体に油を塗りに行くのが目的だったのです。また他の福音書やパウロの手紙によりますと、イエス様はおびえて隠れている弟子たちやエルサレムから逃げていく弟子を含めて500人以上の弟子に出会ってくださいました。その中で誰一人も主がよみがえることを信じていませんでした。そんな不信仰の弟子たちに主は出会ってくださったのです。それで彼らは主の復活を信じたのです。主によって信じることができたのです。

またマグダラのマリアたちには「兄弟たちにガリラヤに行くように」と告げられました。ガリラヤでは彼らはイエス様により、弟子として主に従う力が改めて与えられました。復活の主は信じて従う力を与えたのです。

復活された主は今も生きておられ、弟子たちだけではなく私たちにも出会ってくださるのです。復活は私たちのためでもあるのです。主によって導かれ、主に助けられて信仰を保ちつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「福音は神の力」  ローマの信徒への手紙1:16~17(新約P273)  2020年4月5日 大竹敏生

 

本日は2020年度最初の主日です。2020年度の主題聖句を含むローマの信徒への手紙1章16節~17節から、神の福音のすばらしさを学び、福音に生かされ、福音のために歩む者とされてまいりましょう。

 今日は今年のイースターの前の週で、今日から受難週です。イエス様が十字架に架かられた受難日は今週の金曜日です。主の十字架による死は、信じる者を救いに導きます。福音は十字架と切っても切り離せないものなのです。そのことを覚えておきましょう。

今日の聖書の箇所の16節に「わたしは福音を恥とはしない」とあります。この「恥」の内容は何でしょうか。16節にユダヤ人とギリシャ人が出てきます。このローマの信徒への手紙と同じくパウロを著者とするコリントの信徒への手紙Ⅰの1章23節に、十字架は「ユダヤ人にはつまずき」「異邦人には愚か」とあります。律法を仰ぐユダヤ人には十字架はつまずきであり、知恵を追い求めるギリシャ人には十字架は愚かなのです。しかし私たち信じる者にはつまずきでも愚かでもなく、救いをもたらすものなのです。私たちのために十字架に架かって死んでくださった主を信じること以外に救いはありません。福音は恥ではなく、完全な神の力なのです。神の前に正しい人とは神への信仰を持つ人です。十字架よりも前の時代の人たちも信じることで義とされました。そのことはヘブライ人への手紙11章に記されています。そして17節に「正しい者は信仰によって生きる」とハバクク書2章4節が引用されています。信じる者に救いをもたらす十字架の福音を喜び、感謝しましょう。

さてそのすばらしい福音を宣べ伝えることが私たちに託されているのです。これは私たちにとって栄誉なことです。福音は神の愛であり、信じる者を救う神の力です。私たちも福音を知らされました。信仰者とは神を信じて従う人です。信仰者である私たちは福音を宣べ伝え、神に喜びつつ従いましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰と祈り」 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:16~28(新約P379)  2020年3月29日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はテサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章16節~28節です。この箇所の特に16節~18節を中心に祈りの大切さを学び、信仰をもって祈り続ける者とされてまいりましょう。

 今日の聖書の箇所の16節~18節には3つのことが私たちに勧められています。「喜び」「祈り」「感謝」です。ただこの3つは別々ではなく、むしろ1つと言っても良いほど強い関係をもっています。決して別々ではないと考えることが大事です。まずそのことを覚えましょう。

私たちにとって「祈り」はとても大切なものです。本日の聖書の箇所でもそれを知ることができます。私たちはなぜ祈るのでしょうか。まず祈ることが喜びだからです。それはまず、祈ること自体が喜びであるということです。また祈りは聞かれるということもあります。祈れば神の知恵と力により最善が成るのです。「祈り」には「喜び」「感謝」が伴うのです。また祈る理由として、祈ることは神の命令だということもあります。17節に「絶えず祈りなさい」とあります。私たちは罪からくる弱さゆえに、祈ることができないこともあるでしょう。しかし私たちが愛し、信じる神が命じておられるのです。それにこたえて歩む者でありたいものです。また祈る理由として神の命令だけではなく、神がそれを望んでおられるということもあるのです。18節にそれが記されています。私たちを愛し、信じる我らを救って下さった神がそれを望んでいるというのです。またこの箇所を「み心」と訳している聖書があります。神のみ心は最善なのです。私たちは主の望みどおり祈る者として歩みつづけましょう。

さて、以上の理由は「信仰」をもって祈ることを教えます。信じている方の命令であり、望みです。また祈りは聞かれると信じて祈るのです。今日の箇所はこの手紙の最後の部分です。教会が祈り続けていくとき、教会は恵みや祝福、導きを受けます。私たちの教会も祈りつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らの救いのために」 ヨハネによる福音書15:11~17(新約P199)  2020年3月22日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書15章11節~17節です。この箇所から、私たちは神が愛してくださることによって救われることを学び、神を信じて救いに導かれましょう。

 今日の聖書箇所の15節に「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とあります。「友」という言葉からは「親しみ」を感じます。神の愛は広く深いのです。その1つの要素は「親しさ」なのです。ただ「友」という言葉からは対等な関係を感じます。イエス様と弟子たちは決して対等ではありません。それどころかこの弟子たちは、この後ペトロをはじめとして皆がイエス様を見捨てて逃げてしまうのです。そしてイエス様はそのことを知っておられました。それでも弟子たちを「友」と呼ぶのです。私たちも罪があるゆえにとてもイエス様の「友」となる資格はないように思えるときがあるでしょう。しかし裏切る弟子たちを「友」とするイエス様は、私たちも「友」としてくださいます。そしてイエス様はそんな「友」を救うために十字架に架かって死んでくださったのです。

 今日の聖書箇所の16節に「わたしがあなたがたを選んだ」とあります。これは「友」と同じように、弟子だけではなく私たちも含まれています。私たちも主に選ばれたのです。救いに至る道は人それぞれです。しかしそのすべてが「神の選び」なのです。自分で信じたように思う人もいるでしょう。しかしそれも神が信仰を与え、導いたのです。またこれでいいのか、自分は信じているのかと思っている人もいるかもしれません。でも「神の選び」です。私たちは全く確かではありません。しかし神は確かです。だとすれば愛の神の選びも確かなのです。教会に導かれてくるのも神の導きです。神が選んでくださったのですから、皆さま方の神への信仰は確かなものと信じましょう。

 私たちを「友」と呼び、私たちのために十字架に架かってくださり、私たちを選んでくださった主の愛に感謝し、主を信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信頼すべきお方は主」    箴言3:1~12(旧約P993)  2020年3月15日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は箴言3章1節~12節です。この箇所の特に5節~6節のみ言葉に導かれ、私たちは何を信頼して歩むべきかを学びましょう。

 「主を信じて歩む者には祝福が与えられる」この言葉は間違いではありません。今日の聖書箇所の2節、4節、8節、10節にも信じる者への祝福の約束が記されています。しかしこの「信じる」ことがかなり困難なのです。私たちは頭では何に信頼すべきかが分かっています。主なる神に信頼することを知っているのです。でも実際にそれができるのかというとなかなかできないのが現実でしょう。いったい何が主を信じることを邪魔するのでしょうか。主なる神は見えません。そうです私たちは見えない神よりも、見える例えば自分に頼ってしまうのです。

 本日の聖書箇所の5節に「心を尽くして主に信頼し」とあります。主に信頼するのが正解なのですが、それができない現実に対して「心を尽くして主に信頼」せよと命じているのです。私たちは何に信頼すべきか迷うことなく、ただ主に信頼することが勧められているのです。この箴言を記したのは、イスラエル王朝の三代目の王ソロモンです。ソロモンは神から知恵をいただきました。マタイによる福音書6章29節には「栄華を極めたソロモン」とあるほど人間的に優れていたのです。しかしそのソロモンが「主に信頼せよ」と言うのです。確かに主は人間よりもはるかに優れています。全知全能なのです。知恵の面では人間の中で最も優れていたソロモンでも神には遠く及ばないのです。このように人間に頼るよりも神を信頼する方が良いのに、実際はできないのが弱い私たちの現実なのです。

 ではどうしたら良いのでしょうか。やはり祈りでしょう。神をいつも身近に感じていくことが大切です。祈りをもっていつも主と共にあれば、弱い私たちでも神を信頼して歩めるのではないでしょうか。主に信頼して歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛することを求めて」  マルコによる福音書12:28~34(新約P87)  2020年3月8日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマルコによる福音書12章28節~34節です。この箇所から導きを受け、愛することを主に求めてまいりましょう。

キリスト教は愛を特に尊びます。それは神が私たちを愛してくださるからであり、そこからキリストの救いをはじめとして、キリスト教のすべてがあるのです。今日の聖書箇所も、まず前提として神が私たちを愛してくださっていることがあります。そのことをおぼえておきましょう。

今日の聖書箇所28節では、イエス様が一人の律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と質問を受けています。律法の掟は600以上あると言われます。その中から2つ挙げて神と人を愛することが何よりも大切だと教えてくれているのです。つまり要約しますと「律法は愛」だということです。神に愛され、神を愛して歩むことそれが私たちの務めなのです。

では私たちが神と人を愛することはたやすいことなのでしょうか。確かに小さな子どもでも愛することをします。愛に力や技術は必要ではありません。でも誰でも「愛せない」ことがあります。私たちは愛さなくてはならないことが分かっていても、愛することができないのです。はっきり言えば、私たちには罪があり「愛すること」ができません。でも望みがあります。それは「愛せよ」と命じたお方が、そんな私たちでも「愛すること」が出来るようにしてくださるということです。神が私たちに愛する力をくださることを感謝いたします。

質問した律法学者はイエス様の言葉に賛同しました。するとイエス様は「あなたは、神の国から遠くない」と告げられたのです。愛することは救いと強い関係をもっています。救いは信仰者に与えられます。神を愛することと信じることは結び付いているのです。私たちも神を愛して、神を信じ続けましょう。そのために神に「愛することを」求めていきましょう。祈りをもって神に願い、

神の恵みを受けて歩み続けていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんなときにも神を」    詩編56:2~14(旧約P889)  2020年3月1日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は詩編56編2節~14節です。この詩編から導かれ、ダビデのようにどんな時にも神に依り頼む者とされてまいりましょう。

この詩編56編は1節の表題にあるようにダビデの作です。ダビデが嫉妬に駆られたサウル王から逃れて、ペリシテ人のところに逃げた時のことを覚えてのものです。主から油注がれたサウル王と戦うことを良しとせず、サウルの敵であり、ダビデにとっても敵であるペリシテ人のところへ逃げたのです。サウルは確かにそこまでは追わなかったようです。ただペリシテはダビデにとっても敵ですから、ダビデは落ち着きはしませんでした。気が狂ったふりをして窮地を逃れたりしています。ダビデは「戦いたくない相手に追われて逃げたが、逃げた先も敵」という状況だったのです。

そんなダビデが頼るのは神でした。ダビデは自分の弱さ、愚かさを知っていました。そして全知全能なる主なる神を信じていたのです。この詩編56編には、2節~3節、6節~7節にダビデの置かれた大変厳しい状況が記されています。しかしそんな状況にあってもダビデは主に信頼しました。主を賛美しました。ダビデは決して能力的に劣っているというわけではなかったでしょう。しかしたとえ人間的に優れていたとしても神のそれに勝ることは絶対にありません。厳しい時、苦しい時、ダビデは主なる神を呼び、主なる神に依り頼んだのです。神はそんなダビデを、ダビデが信じていたように救われたのです。ダビデにとって自分は一人の弱い罪人でした。ただダビデにとって神は全知全能で信じる者を助けてくださる愛のお方だと信じていたのです。

ダビデも武器を集めたりして人間的な努力もしたようです。しかし結論的に言えば、結局は頼むべきは神だったと経験をとおして記しているのではないでしょうか。私たちもどんな時にも神に依り頼みましょう。神を呼び、神に依り頼み、神を賛美しましょう。そうですそれは正に祈りなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「善い業を始められた方」 フィリピの信徒への手紙1:1~6(新約P361)  2020年2月23日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節~6節です。この箇所から学び、神とパウロを喜ばせたフィリピの教会のように歩みましょう。

このフィリピの信徒への手紙は、他のコリント書などと違い、著者のパウロの喜びが最初からあふれ出ています。確かに他の教会への手紙は、パウロの嘆きや、怒り、悲しみなどが見えるものがあります。ただパウロはどの教会も変わりなく愛していました。そしてそのパウロの愛は神の愛でもあります。私どもの教会も含め、すべての教会が主に愛されていることを感謝します。

でもフィリピの教会はなぜこんなにもパウロを喜ばせていたのでしょう。それは本日の聖書箇所の5節にありますが「福音に預かって」いたからなのです。「福音に預かる」とは「福音を広める」ことです。それも主によって救われた喜びに突き動かされるように福音のために歩むことではないでしょうか。フィリピ教会がそういう教会だったからこそパウロは喜んでいたのです。

では6節に出てくる「善い業」とは何でしょうか。これは「救いの業」のことです。ただこれは「福音に預かる」こととつながっています。「救い」は神の業ですが、神はそれを人を通して広めるのです。従ってフィリピ教会の福音に預かる行ないも神の力によってなのです。

私たちは「福音に預かる」ことも「神の業」であることを意識する必要があります。ときに私たちの目には福音の前進が見えません。停滞や後退に見えることすらあります。でも神の業ですから必ず前に進んでいるのです。弱い私たちと歩調を合わせるように確実に一歩一歩前に進んでいるのです。そして主の再臨の時までに、神御自身が私たちを用いて完成させるのです。感謝します。

私たちも福音に預かっていきましょう。そのために日々祈りつつ歩む者とされてまいりましょう。それがフィリピの教会のように神を喜ばせる教会とさせられていくことになると信じます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「どんな時でも神の力が」  ハバクク書3:16~19(旧約P1468)   2020年2月9日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書のハバクク書3章16節~19節です。この箇所から導かれ、どんな状況にあっても主を信じて祈り、神の力で歩む者とされてまいりましょう。

ハバクク書の名に出てくるハバククは、ハバクク書に預言者と記されています。そしてハバクク書には「カルデア人(バビロニア人)からの圧迫」が記されているので、南ユダ王国末期の預言者であろうと推測されます。つまりエレミヤと同じ時代の預言者だろうと言われているのです。

このハバクク書の1章と2章は、神とハバククとの問答のように記されています。神と問答するということは、神との親しさを表しています。アブラハムやモーセも神との対話をしています。それくらい親しかったのでしょう。ただ注意しなくてはならないのは、問答しているからといって、私たちと神は対等ではありません。親しくても神が上だということは押さえておかなくてはならないのです。

ハバククの祈りは「カルデア人(バビロニア人)の攻撃が止み、南ユダ王国が守られること」でした。しかしその願いに対する神の答えは、ハバククにとってショックなものでした。「南ユダ王国は敵であるバビロンから壊滅状態にされる。ただそのバビロンも滅びる。」というものでした。今日の聖書の箇所の16節にはハバククのショックが記されています。でもハバククは信じて受け入れたのです。17節にありますが、カルデア人(バビロニア人)の攻撃はものすごいものです。徹底的に滅ぼされてしまうのです。でもハバククは信じます。神は力を与えてくださり守られると信仰告白しているのです。

私たちもいつも良い状況で歩めるわけではありません。でも私たちには神がおられるのです。どんな時にも神は共にいて、信じる者には神の力が与えられるのです。信じる私たちの力である神に祈りつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の力、神の知恵」 コリントの信徒への手紙Ⅰ1:18~25(新約P300)  2020年2月2日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ1章18節~25節です。この箇所から導かれ、神の力、神の知恵によって歩む者とされてまいりましょう。

コリントの教会の信徒たちは、自分の能力や知恵などを誇りとしていました。それゆえ教会は問題を抱えていました。実は、私たち人間の知恵や力は弱いのです。21節にあるようにどんな知恵のある者でも神を認められなかったのです。まして自分を救うこともできなかったのです。私たちを救うのは主イエスの十字架です。18節には十字架が神の力と記されています。私たちは神の知恵である宣教と神の力である十字架によって救われているのです。コリントの教会の人たちは、人には愚かに見える「宣教と十字架」によって救われていることを思い出す必要があるのです。

でもコリントの教会の人たちだけの問題ではありません。私たちも自分の知恵や力に依り頼んでしまう傾向があるでしょう。まず私たちは「神の力、神の知恵」のすばらしさを覚えましょう。一般的に大きな力や高い知恵は、弱いものを置き去りにしてしまいます。神の力や知恵は25節にあるように、人と比べたら比較にならないほどのものです。でも神の「宣教や十字架」は弱い私たちを置き去りにせず、救うのです。ただ大きいだけではなく、弱さを覚える愛の知恵と力なのです。このようなすばらしい「神の力、神の知恵」に導かれて私たちは歩む必要があるのです。またもう一つ心がけたいことは、自分より神を優先することです。そのために神と交わり、神の力と神の愛のすばらしさをいつも覚えてまいりましょう。神を第一に歩むとき、私たちは自分ではなく神に依り頼むことができるのです。

24節には「神の力、神の知恵」はキリストだとあります。神に依り頼むとき、弱い私たちも祝福されます。そのために祈りをもって歩みましょう。キリスト共に歩む者は祝福や恵みに満たされるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたは今日楽園に」  ルカによる福音書23:39~43(新約P158)  2020年1月26日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書23章39節~43節で、十字架の場面です。この箇所から、主を信じて歩むように導かれてまいりましょう。

この箇所で一人の犯罪人が救いに導かれました。彼も最初はもう一人の犯罪人と一緒にイエス様をののしっていたようです。十字架上のイエス様を見ているうちに変えられたようです。彼はまず罪を悔い改めました。その悔い改めは、罪を認めることから始まります。彼は自分自身の罪を認めていました。そしてイエス様を神と信じました。42節で「あなたの御国」と言っています。偉大な信仰の先輩たち、アブラハム、モーセ、ダビデ、エリヤ、イザヤなども天国にいます。でも彼らの国とは言われません。そこは神がつかさどる神の国なのです。それをこの犯罪人は「あなたの御国」と言いました。イエス様を神と信じていたのです。その信仰ゆえにイエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と救いの宣言をされたのです。「わたしを思い出してください。」の願いを大きく超えて、信仰により救いが与えられたのです。

ではこのイエス様の救いの宣言はどのような思いで語られたのでしょうか。褒美として救いを与えるという感じでしょうか。救いの許可を与えるような感じでしょうか。私はもっと喜びに満ちた感じだと思います。十字架上ですから、宣言されただけでしたが、普通の状況ならこの犯罪人の手を取り、喜んでいたと思います。本当にこの犯罪人の信仰による救いを喜んでいたと思うのです。イエス様は人を救うために十字架に架かって下さったのですから。

十字架の場面には多くの人たちが出てきます。私たちが実際そこにいたらどこにいるでしょうか。「十字架につけよ」と叫ぶ群衆ですか。群衆をそそのかした律法学者たちですか。逃げ去った弟子たちですか。そのどれであっても、犯罪人と同じように立ち返ることを主は願っています。そんな主ですから、私たちも救われるのです。主を信じて従ってまいりましょう

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の言葉は生きており」 ヘブライ人への手紙4:12~16(新約P405)  2020年1月19日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヘブライ人への手紙4章12節~16節です。この箇所にありますように、生きている神の言葉に導かれてまいりましょう。

12節に「神の言葉は生きており」とあります。「神の言葉」とは聖書と考えてもよいと思います。また神の業績や力、また神そのものと考えてもよいでしょう。「生きており」とあるのは、まるで生きているように力を発揮するということです。今も生きておられる神の言葉ですから当然と言えます。

この「神の言葉」は私たちの全てをあらわにします。私たち自身も認めたくないようなものも明らかにされるのです。そのあらわにされるものとは罪です。この罪ゆえに私たちは神と断絶させられており、救いが必要なのです。罪を悔い改めて、神を信じて歩む必要があるのです。またこの罪のゆえに私たちは弱いのです。神の助けが必要なのです。神は私たちの全てをご存知です。罪があることも、そしてその問題を解決できないことも、罪ゆえに弱い者であることもです。しかし神は私たちに同情してくれるのです、私たちを憐れに思うのです。それは正に神の愛だといえるのではないでしょうか。私たちは何も神の前に隠し通すことはできません。だからこそすべてご存知の方に依り頼んでまいりましょう、その神の愛ゆえに、救われる資格のない私たちでも救われ、とるに足らない私たちでも助けられるのです。

一番新しいものでも2000年近く前に記された聖書ですが、今も私たちを導きます。生きている神の言葉だからです。また私たち一人一人置かれている状況は違いますし、求めているものも違います。そんな違いがあっても神の言葉はそれぞれに力を発揮するのです。また私たちはそれぞれ良い時も悪い時もあります。神の言葉は置かれている状況がどうであれ、その時に必要なものを与えて下さるのです。神に導かれて歩みましょう。日々の祈りとみ言葉は、これからも生きている神の導きとして私たちに届くのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りつつ歩む恵み」 ローマの信徒への手紙15:22~33(新約P296)   2020年1月12日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙15章22節~33節です。この箇所から導かれ、パウロのように祈りつつ主のご用に励んでまいりましょう。

この手紙の著者はパウロです。パウロは、この手紙を記したこの時点では、まだ宛先のローマに行ったことが無かったようです。パウロはローマそしてその先のイスパニアにまで行きたいと考えておりました。パウロはなぜローマ、イスパニアに行きたいと考えていたのでしょうか。それは当時の世界の中心であるローマ、そして西の果てであったイスパニアに福音を宣べ伝えたいと考えていたからです。主の命令に応え、主のために伝道したいがために願っていたのです。福音宣教のために生きるパウロらしい願いだったのです。

ただ驚くことにその前にエルサレムに行くというのです。この手紙が執筆されたのはコリントあたりだと言われています。コリントからエルサレムは直線でも1000キロ以上離れています。しかもローマとは反対方向です。とんでもない遠回りとなります。またこのエルサレムへの旅はパウロにとって大変危険なものでした。使徒言行録でも預言者が警告していました。パウロ自身もそれを知っていたようです。でもパウロはエルサレムの貧しい信者のために集めた献金を持って行くというのです。愛の施しにより、励ますためでした。

実際パウロはエルサレムで危うく殉教の死をむかえるところでした。またその後、導きによりローマに護送されることになりましたが、危うく命を落としかねない体験もしました。しかしパウロが「主の導きにより、必ず行ける」と信じていたローマに行くことができたのです。またイスパニアにも行ったという説もあります。主のために歩むパウロを神は守り、導いたのです。

伝道と愛により励まし合うことは、パウロだけではなく私たちの教会の務めでもあります。パウロは祈りをもって伝道や施しなどの神のご用をいたしました。私たちも祈りをもって教会の業を行なってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「必要なものが」   マタイによる福音書6:25~34(旧約P10)   2020年1月5日 大竹敏生

 

本日は2020年最初の主日礼拝です。示された聖書の箇所はマタイによる福音書6章25節~34節です。この有名な箇所から導かれ、恵みや祝福をくださる神に感謝し、祈りつつ歩む者とされていきましょう。

33節に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」とあります。主を信じる者が、神を何よりもまず神を優先することは当然です。主によって救われた私たちは、神が第一であるべきなのです。しかしここではそれが理由とは記していません。今日の箇所全体から、私たちが「思い悩まない」ためにだと読めます。思い悩まないためには神への信仰が不可欠です。神以外に私たちの「思い悩み」を解決できないのです。神を第一にすることは、神への信仰なしにはできません。だから神を第一にすることが求められるのです。

今日の聖書箇所から神は私たちの必要をご存知で、それをくださると約束していることが分かります。ただ私たちは勘違いをしてはいけません。それはこの「必要」を私たちが判断するのではないということです。神が何が必要かを知っておられるということです。何か私たちは「神は必要最低限をくださる」とか「物質的な祝福はない」とか考えたりしてしまうかもしれません。確かにそういう場合もあるでしょう。ただ神が必要と考えることが成るのです。パウロが祈ってもトゲは取り除かれませんでした。人が祈っても叶えられないことがあります。ソロモンは栄華を極めました。必要以上に与えられることもあるのです。どちらも神が必要だと判断されたのです。パウロは貧しくても、豊かでもどちらでも対処できる方法を授かっているとフィリピ書に記しています。私たちもそのように歩めればと思います。

2020年も神に導かれて歩みましょう。神を第一に祈りつつ歩みましょう。神は私たちにとって必要とあらば、ありとあらゆるものをくださるのです。神に期待し、喜びつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「賛美せよ。ハレルヤ」    詩編150:1~6(旧約P989)    2019年12月29日 大竹敏生

 

本日は2019年最後の主日礼拝で、聖書の箇所は詩編150編1節~6節です。この箇所から学び、神を賛美して歩む者とされていきましょう。

詩編は全部で150編からなります。つまり今日の聖書の箇所詩編150編は詩編の最後になり、合計6節からなる短い詩編です。この詩編150編は多くのことを記していません。むしろ「賛美せよ」という言葉が11回も出てきていてこの詩編は「賛美せよ」とだけ語っているとも思えます。ただ実はかなり多くのことをこの詩編は教えてくれるのです。

まず1節には「どこで賛美するのか」が記されています。まず「聖所」で、次に「大空の砦」でとあります。聖所とは神殿でしょう。今なら教会でしょうか。大空の砦とは大空の神の力の及ぶ場と言えます。つまりどこも全てがそうだと言えます。どこで賛美してもよいのです。でも賛美するのに適しているところを持っていれば賛美を止めないで賛美し続けることができます。私たちが賛美し続けることを神は求めておられます。2節には「賛美する理由」が記されています。「力強い御業」「大きな御力」がその理由と記されています。神の力ですから、まず私たちの救いがあげられます。私たちを救うことは神にしかできません。救われている私たちは賛美すべきなのです。また私たちに、神のしてくださることは、大きなこともあれば小さなこともあります。私たちはそういう神のしてくださる恵みや祝福のゆえに、神を賛美するべきなのです。3節~5節は、私たちがありとあらゆるやり方で神をほめたたえて良いことが記されています。心から精一杯神を賛美しましょう。最後に「息あるもの」はこぞって賛美せよと記されています。この世のもの全てが神に守られ支えられています。生きているものすべてが神をほめたたえるのです。

この1年間、私たちは神から、大きなこと、小さなこと、いろいろな恵みや祝福をいただきました。感謝をもって神をほめたたえてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛と信仰の中で」   マタイによる福音書1:18~25(新約P1)  2019年12月22日 大竹敏生

 

本日はクリスマス礼拝です。示された聖書の箇所はマタイによる福音書1章18節~25節です。この箇所から、救い主イエスキリストは、愛と信仰があふれる中で生まれてこられたことを覚えましょう。

まず愛ですが、神の愛があります。今日の聖書箇所には、救い主は2つの名で呼ばれることが記されています。そのうちの1つは「イエス」です。これは「主は救い」という意味で救い主にふさわしい名前です。私たち罪人が、主の十字架を信じて救われるのは、神が私たちを愛したからで、他に何もないのです。愛による救いなのです。またもう1つの名前は「インマヌエル」です。これは「神われらと共にいる」という意味です。私たちのような者と共にいてくださるのは、神が私たちを愛してくださっているからに他ならないのです。

次に人間の愛を見ましょう。今日の聖書箇所にはイエスの父となったヨセフという人物が出てきます。この人はイエス様の母となったマリアと婚約していました。二人は愛し合っていたのです。そしてまた神を愛していたのです。ヨセフは、婚約中のマリアが身ごもってしまったことで、彼女のことを表ざたにしたくなく、こっそり離縁しようと考えたと19節に記されています。それはマリアを愛していたからでしょう。また神を愛していたからでもあるのです。このように神と人間の愛の中で主イエスキリストは誕生されたのです。

また信仰についても見てみましょう。ヨセフは神を信じていたから、夢のお告げを信じました。また25節にあっさりと記されていますが、子どもの名前を「イエス」と名づけました。名づけに関しては父親に権限があったようです。でもヨセフは自分の思いではなく、御使いが命じた通り「イエス」と名づけたのです。神を信じて神に従ったのです。それは正に信仰だったと言えるのです。

救い主はこのように神と人間の愛、そして信仰の中に誕生しました。感謝いたします。私たちはこの救い主を喜び、信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「マリアの賛歌」   ルカによる福音書1:46~56(新約P101)  2019年12月15日 大竹敏生

 

今年もアドベントの第三週をむかえました。本日の聖書の箇所はルカによる福音書1章46節~56節です。この有名なマリアの賛歌に表されているマリアの信仰から学んでいきましょう。

このマリアの賛歌は、何となくマリアが受胎告知の直後に歌ったと思っていました。しかし聖書を見ると、受胎告知の後、エリサベトのもとに行き、対面直後で歌われています。思いめぐらすことの多かったマリアは、救い主を宿すという出来事に浮かれたわけではなく、熟慮してこの歌を歌ったのです。

マリアの賛歌はマグニフィカートと呼ばれます。これはラテン語で「あがめる」という意味です。男の人を知らない自分が救い主を宿すという状況をじっくりと考えた上で、マリアは主をあがめたのです。私たちも困難な時や迷う時もあるでしょう。でもマリアのように主を信じて主をあがめていきましょう。

マリアはなぜ主をあがめたのでしょう。それは「とるに足らない自分にも目を留めてくださった」からだとあります。マリアの謙遜さがあらわれているという人もいますが、むしろこれは本当にそうだったのだと思われます。ただでさえ身分的に下と見られていた女性であり、また身分が高いわけでもない自分に、主は目を向けてくださっているのだと歌っているのです。神は人の外面で判断しません。むしろ内面や本質を見るのです。そして主は、すべての人に目を注いでいてくださるのです。私たちにも目を留めてくださる神に感謝し、神を信じて歩んでまいりましょう。

神の力は偉大で、全世界の主を信じる者に届きます。たとえどんな状況に置かれていても、主は助け出し、ひっくり返すほどの大きな力を発揮されるのです。そしてその力は、あわれみで注がれるのです。身分や外面は関係なく、間違いなく神は愛されています。マリアのように神の愛と力を信じましょう。そしてやはりマリアのように神をあがめてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「進む主の救いの計画」  ルカによる福音書1:5~20(新約P99)  2019年12月8日 大竹敏生

 

先週から今年もアドベントに入っています。本日の聖書の箇所はルカによる福音書1章5節~20節です。このバプテスマのヨハネの誕生の予告の記事から主の偉大な愛の救いの計画を見てまいりましょう。

私たちを救うために神が与えて下さった救い主イエスキリストの誕生に関する聖書の箇所を読むと、私たちを救うために最善のかたちでお生まれになったことが感じられます。神の救いの計画は完全で絶妙だと感じられるのです。その計画の中に今日の聖書箇所に出てくる「バプテスマのヨハネの誕生」も含まれるのです。救い主と違ってバプテスマのヨハネは完全に人間でした。彼も救われなくてはならなかったのです。ただ、ヨハネは主の道備えを成すエリヤの役割を与えられていたのです。だからそのバプテスマのヨハネの誕生には神の力が大きく働いています。ヨハネの父と母として選ばれたのはザカリヤとエリサベト、二人とも祭司の家計であったようです。また何よりも6節にあるように、二人とも神の前に正しい人であり、非のうちどころがない人たちであったようです。こういう人たちがバプテスマのヨハネの両親だったのです。そして高齢だった二人からからヨハネは生まれました。つまり神の成せる業でした。そのことが後のイエス様を身ごもったマリヤの励みとなったのです。そしてバプテスマのヨハネが、イエス様の道備えの役割を立派につとめたことは聖書にしるされているとおりです。

このような神の完全な救いの計画の中に、驚くべきことですが人の個人的な祈りがありました。ザカリヤは子どもが欲しいと祈っていました。また祭司として香をたく役割も求めていたでしょう。神はそんな祈りを無視せず、救いの計画を確実に進められたのです。感謝をいたします。

神の愛による救いを感謝いたします。主を信じて歩んでまいりましょう。また神は祈りを無視しません。主の前に祈りつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が導く福音宣教」   使徒言行録8:1~8(新約P227)   2019年12月1日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は使徒言行録8章1節~8節です。この箇所から導かれ、主の導きによって福音を宣べ伝える者とされていきましょう。

今日の箇所は直前であのステファノの殉教の出来事が起こっています。そのステファノの殉教は、続いて他のキリスト者にも影響を与えていきました。多くのキリスト者が迫害によりエルサレムを追われて地方に散らされていきました。しかし散らされた人たちはそれを利用するように、福音を散らされた地で宣べ伝えたのです。福音はピンチにもかかわらずかえって前進したのです。

散らされたキリスト者はなぜそのようなことができたのでしょうか。1つはやはりステファノの殉教のことがあるでしょう。賜物豊かですばらしい人物で執事でもあったステファノですが、使徒だったわけではありません。散らされた人たちにとっても身近な人物だったと思われます。そんなステファノが最後まで福音を語りつつ殉教したことを思うとき「自分たちも宣べ伝えなくては」と考えたのではないでしょうか。

また私は祈りの結果ではないかとも思います。「迫害で散らされてもそれを利用して福音を宣べ伝える」という出来事は、何か「強さ」や「したたかさ」を感じさせます。しかし散らされた人たちはそんな強い人たちばかりではありません。むしろ弱い人が多数だったと思います。弱い人が困難な状況に陥った時は祈るでしょう。神の助け、導きを求めて祈ったはずなのです。そして示されたのは「宣べ伝える」ことだったのではないでしょうか。そこには約束がともないます。あなたがたを護るとの約束です。散らされた人たちは祈りの中でかつて主が命じたこと「福音を宣べ伝えよ」「神の国と神の国を第一に」などを思い出し宣べ伝えたのだと信じます。そして祈り合ったのだと思うのです。

私たちも祈りをもって、主の助けを受けて歩みましょう。これからも主に用いられる者として祈り合い歩んでまいりましょう。

 
 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が愛されたゆえに」  ヨハネによる福音書3:16~18(新約P167)  2019年11月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書3章16節~18節です。多くの人に愛されるこの有名な箇所から、神が私たちを愛するゆえに架かられた十字架を覚え、神を信じて救われて歩む者とされていきましょう。

キリスト教は「愛の宗教」と言われます。その意味は「神が私たちを愛した」ということです。16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあります。この「お与えになった」とは、具体的にはイエス様の十字架の死を指します。神は私たちのために、ご自身の子を犠牲としてくださったのです。それは、イエス様の十字架以外に、私たちの救いは無いからです。私たちを愛するお方は、すべての人間、誰一人滅んで欲しくなかったのです。それほどに愛してくださる神に感謝いたします。

私たちは誰一人罪の無い者はおりません。この罪は大変厄介な問題で、私たちを滅びに至らせます。神との関係を断絶させてしまったのです。そしてこの罪は私たちを落胆、絶望に至らせもします。罪の問題を解決してくださるのがイエス様の十字架です。イエス様を信じることで私たちは救いが与えられます。残念ながら罪が消えるわけではありませんが、罪から遠ざかることは、主の導きや助けによって可能です。主を信じて永遠の命を受け、神の嫌う罪から少しでも離れて歩みたいと思います。

私たちは神を信じなくてはなりません。罪が私たちに入ったことで、神と私たちの関係は断絶してしまいました。私たちは神を知らない状態になったのです。イエス様の十字架によって関係が改善されました。私たちは神を信じることで、その関係改善を確認できます。罪がある状況の私たちですが、罪が赦されているのです。神との関係改善を、主を信じることで確認しましょう。

罪を憎む神ですが、それ以上に罪人である私たちを愛してくださいました。その神の愛に感謝して、主を信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 

[メッセージ要約]

「これに聞け」    マタイによる福音書17:1~13(新約P32)  2019年11月17日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書17章1節~13節です。この有名な箇所から導かれ、いつも神に聞き、信じて歩むことを心がけましょう。

今日の聖書箇所はいわゆる「イエスの姿が変わる」「イエスの変貌」の箇所です。他の平行記事も合わせ見て、どうやら顔が輝き、服は真っ白くなったようです。その姿はまさに「栄光に満たされた」姿でした。ある意味でこれがイエス様の本来の姿で、その栄光は、罪のない真っ白なイエス様が十字架に架かって下さり、復活で死に打ち勝って完全になるのです。またモーセとエリヤが出てきます。ルカによる福音書の平行記事を見ると、彼らとイエス様はこの後起こるイエス様の十字架について語り合っていたようです。つまりイエス様の十字架は、旧約の時代から全く変わりなくつづく神のご遺志だったのです。これらを見たペトロは、何を言ってよいか分からず、そぐわないことを言っています。神の偉大なご意思に比べ、人間の弱さからくる無知が表されました。

ただそのとき光り輝く雲の中から声がかかります。その内容は、かつてイエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたときに聞こえてきた声とほぼ同じ内容でした。ただ最後に「これに聞け」と告げられたのです。この言葉の意味の1つは「従え」でしょう。私たちを愛し、私たちのために十字架に架かって下さった栄光の主に従うことが求められます。そしてもう1つは文字通り「聞く」ことであり、言い換えるならば「祈る」ことでしょう。主に祈り、主に従うことが私たちの務めなのです。

私たちはペトロと同じように、いやそれ以上に弱いのです。全知全能の主なる神に聞き従う必要があるのです。「先に来るはずのエリヤは?」という疑問にも主は答えられました。私たちも分からないこと、どうしたら良いか迷うことなど日々あります。日々主に聞きましょう。日々主に祈り求めましょう。神は「これに聞け」と言って下さっています。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主を呼び、主に叫べ」    詩編145:17~21(旧約P986)   2019年11月10日 大竹敏生

 

本日示された聖書の箇所は詩編145編17節~21節です。この箇所から導かれ、飾ることなく本心から祈ることを心がけてまいりましょう。

今日の聖書箇所が含まれる詩編145編は、ダビデによる神を讃美する詩です。そしてこの17節~21節は祈りについて記されているようです。まず18節に出てくる「呼ぶ」という言葉に注目しましょう。「呼ぶ」という行為を祈りとして見ると、基本的な祈りと考えられます。小さな子どもは、どうしたらよいか分からない状況になると、親など大人を呼びます。どうしてよいか分からず「これをこうして」などと言えなくても、力ある大人を呼ぶことができるのです。人間には罪があり、実は弱いのです。私たちでもどうしてよいか分からないことがあります。でも祈りがあります。主を呼ぶことができるのです。

次に19節の「叫び」という言葉を考えましょう。これも祈りです。同じダビデの詩編142編などでも「叫び」の祈りが推奨されています。「叫ぶ」という行為は、飾ることのできていない本心から出てくることです。弱い私たちは主の助けが必要です。それもときに飾ることができないほど追い込まれてしまうこともあるのです。そんなとき叫びたくなることもあるでしょう。叫ばざるおえないこともあると思います。イエス様もゲッセマネで叫ぶような祈りをなさいました。本当に叫ばなくても、心で叫ぶように祈ることもよいのではないでしょうか。

ダビデは波乱万丈の歩みをしていました。信仰あついビデは、困ったとき、どうしてよいか分からないとき、命の危険が迫るとき、主を呼び、主に叫ぶように祈ったことでしょう。そして主はその祈りを聞いて彼を助けたのです。私たちもダビデのように主を信じましょう。そしてこの詩編にあるように主を呼び、主に声を出さなくても叫ぶように祈りましょう。そんな心からの祈りを主は必ず聞いてくださるのです。感謝をいたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らも義の栄冠を」   テモテへの手紙Ⅱ4:6~8(新約P394)  2019年11月3日 大竹敏生

 

本日は召天者記念礼拝です。示された聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅱ4章6節~8節です。この箇所から学び、先に召された方々に続いて「義の栄冠」を受け継いでいくことを心がけてまいりましょう。

この「テモテへの手紙Ⅱ」は、パウロが殉教の死を遂げる直前に愛する弟子テモテに書いた、パウロの最後の手紙とも言われています。つまり遺言のような手紙なのです。内容的にも今日の聖書箇所などがそれを表しています。つまりまだ死んではいませんが、間もなく召されるパウロが、これからもしばらくこの世で歩むテモテに書いた手紙です。召された方々が私たちに言いたいことが、この手紙に記されているように思えるのです。

7節に記されている内容はどういうことでしょうか。それは最後の「信仰を守り抜きました。」という言葉につきます。確かにパウロは主のために誰にもまして働きました。しかしパウロはそんな自分の働きによる成果ではなく、信仰を守り抜いたことを誇りとしています。7節の行為による報酬は8節にある「義の栄冠」です。その「義の栄冠」も働きによる成果などではなく、信仰を守り抜いたからこそ与えられると言うのです。すでに召されたパウロの考えは今も全く変わっていないはずです。そして私たちが知っている先に召された方々と共に「信仰を守り抜け」と私たちを今も励まして下さっているのです。

ただ「守る」という言葉からのイメージは「耐える」とか「忍耐」を思い浮かべます。この世の歩みは確かに「忍耐」も必要なのです。でもパウロはこの遺言とも言うべき手紙で言いたいのは、もっとアクティブなものでしょう。

私たちに与えられる「義の栄冠」を得るには確かに「忍耐」も必要です。でも私たちに召された後の「住まい」が約束されていることは、私たちにとってもっと大きな喜びです。そしてそれが私たちの信仰生活を喜びに導いてくださるのです。主のためにこれからも働き、「義の栄冠」目指して歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「思い煩いを神に」   ペトロの手紙Ⅰ5:6~11(新約P434)  2019年10月27日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰ5章6節~11節です。この箇所から学び、思い煩いを主にゆだねて歩む者とされてまいりましょう。

いわゆる「心」や「精神」などについては最近やっと知られてきました。「心」や「精神」の病気は現代病とも言われています。しかし聖書には「思い悩み」とか「思い煩い」などの言葉があります。これらは決して新しい病気ではなく、罪ある人間がいつも抱えている問題なのです。

聖書では「思い悩むな」「思い煩うな」とあります。でも人間には罪があり、実際それは無理なのです。では「思い悩むな」「思い煩うな」は無理な要求をされているのでしょうか。まず押さえておきたいことは、これは「何も考えないでいこう」ということではないということです。ただ深刻になりすぎて、思うことが非建設的な状況になることを避けるべきだということだと思います。そしてまた「思い悩む」「思い煩う」状況がつづくことを避けなさいということではないでしょうか、私たちはどれだけ悩んでも、どれだけ考えても限界があります。思い悩んだり、思い煩ったりして信仰や日々の歩みに支障をきたすことはできるだけ避けて歩みましょう。

それでも人間は思い悩みます。思い煩います。どうしたら良いでしょうか。今日の聖書箇所の7節に「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」とあります。またパウロはフィリピの信徒への手紙4章6節でほぼ同じことを記しています。ペトロもパウロも思い悩み、思い煩ったのです。そしてそれを神にお任せして信仰を全うしたのです。私たちもそれにならって歩みましょう。

「思い悩み」「思い煩い」は私たちの手に余るから起こるのです。全知全能で、私たちを愛しておられる神にお任せすることが何よりも大切なことです。神にお任せするのに何が必要でしょうか。それは祈りでしょう。私たちは日々祈り、少しでも「思い悩み」「思い煩い」から離れていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りによって、行こう」 マルコによる福音書14:32~42(新約P92)  2019年10月13日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマルコによる福音書14章32節~42節です。この有名な「ゲッセマネの祈り」の記事から導きを受け、祈りによって主に従う者とされてまいりましょう。

「ゲッセマネの祈り」は主イエス様の祈りです。ただそのイエス様の祈りはきかれなかったとも言えるのです。イエス様は36節で「この杯をわたしから取りのけてください。」と祈ります。ここで言う杯は十字架です。イエス様は神の子ですから罪が無く、罪を憎む者です。だから最も大きな罪を犯した者が架かる十字架は、私たちの想像を絶するほど嫌悪するものだったのです。ただイエス様はつづけて「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈りました。結局「わたしの願い」ではなく「神の御心」が行われることになり、イエス様は十字架に架かったのです。

今日の聖書箇所にありますが、イエス様にとって十字架は本当に嫌で、もだえ苦しむほどでした。イエス様はそれぐらい十字架に架かりたくなかったのです。でもイエス様は自分の思いではなく「神の御心」に従って十字架に架かって下さったのです。それによって私たちは救われました。「神の御心」のすばらしさに感謝します。

では、きかれなかったゲッセマネの祈りは無意味だったのでしょうか。そうではないと思います。祈りがあったからこそ、イエス様は神の御心に従えたのではないでしょうか。ゲッセマネで祈ったからこそ、あれほど嫌だった十字架に、私たちのために架かってくださることができたと信じます。

「神の御心」は時に私たちの願いと違うことがあります。でも信じる私たちは「神の御心」に従わなければなりません。これは困難なことでもあります。イエス様と同じように私たちも祈りましょう。祈りによって「神の御心」に従いましょう。「神の御心」は私たちのとっても最善なのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストの絶大な価値」 フィリピの信徒への手紙3:1~11(新約P364)  2019年10月6日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙3章1節~11節です。この箇所から導かれ、「主は絶大な価値」を持つと信じて歩んでまいりましょう。

今日の箇所の3節でパウロは「わたしたちはキリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」と主張します。そして肉に頼ることの空しさ、一方キリストのすばらしさを今日の箇所で記しています。パウロにとっての肉に関しては、実はヘブライ人の誰もがうらやむものでした。しかしパウロはそれらを7節と8節で「損失」と言い、やはり8節で「塵あくた」とすら語るのです。どうしてでしょうか。1つはパウロにとってこれらがキリストから自分を遠ざけていたと思っているのでしょう。「損失」としているところにそれがあらわれているようです。6節にあるように彼は迫害者でした。それほどにキリストと敵対していたのです。それはパウロの肉についてと無関係ではなかったのでしょう。

もう1つは8節にありますが「キリストがあまりにすばらしい」からです。すばらしさが圧倒的で他がかすんでしまうほどなのでしょう。ではこのすばらしさとは具体的に何なのでしょうか。いくつもありますが、まず救いに関してです。6節に「律法の義」とありますが、律法の行ないでは人は救われません。一方キリストの十字架は私たちを完全に救うのです。これ以外に救いはありません。イエスキリストの十字架は私たちを救う、すばらしく価値あるものなのです。罪ある私たちに救われる資格は、本当はありません。そんな私たちが救われるのは、神が私たちを愛しているからです。迫害者であったパウロも、裏切ったペトロも、イエスを見捨てた他の弟子たちも、一方的に主が愛して主が救ってくださったのです。そして同じように罪人の私たちも主が一方的に愛してくださっています。主は本当に素晴らしいお方なのです。感謝します。

主のすばらしさをいつもおぼえていきましょう。そのために必要なのが、日々の祈り、み言葉、賛美だと信じます。日々主と交わっていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の導きを求めて」   使徒言行録8:26~40(新約P228)  2019年9月29日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は使徒言行録8章26節~40節です。この箇所から、神の導きを求めて歩み、そこからさらに恵みを受けていきましょう。

この箇所には「フィリポ」という人が出てきます。「フィリポ」という名前の人物は12使徒の中にも出てきます。ただ本日の箇所に出てくるのは別人で使徒言行録6章に出てくるステファノたちと共に選ばれた7人の内の1人です。そして彼は「福音宣教者フィリポ」と呼ばれます。そう呼ばれるほど主に用いられたフィリポから学びましょう。

フィリポは迫害から逃れサマリアで福音を宣べ伝えました。その後、神に導かれてエルサレムからガザに下る道に来ました。そして主に示されて通りかかった馬車に近づいていきました。その馬車にはエチオピアの高官が乗っていて、イザヤ書を読んでいました。そしてちょうどそのとき読んでいたのは「苦難の僕」に関するところだったのです。イエスキリストに関して旧約聖書の中でも話しやすい箇所がありますが、この箇所はその中でも有数な箇所だと思います。神が導かれたとき、高官は理解できないながらも声に出して読んでいたのです。もしかすると分からないから声を出して読んでいたのかもしれません。高価な聖書を買い求め、分からなくても一生懸命読む高官を、神は放ってはおかれません。ちょうど良い時に神はフィリポを遣わしました。そして馬車の外から聖書を読む声を聞いたのです。急に現れたフィリポでしたが、聖書を理解したいと欲していた高官はフィリポを馬車に招きました。そしてそこからフィリポはイエスキリストについて話をして、結局高官はイエスキリストを信じ、バプテスマへと導かれたのです。主の備えた導きを感謝いたします。

私たちもフィリポのように神の導きを受けたいものです。神の導きは確かで完全です。そして導きを受けること自体が恵みなのです。日々祈り、み言葉によって導きを受けましょう。主の祝福は私たちにも注がれるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救いはなおさら」  ローマの信徒への手紙5:1~11(新約P279)  2019年9月22日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はローマの信徒への手紙5章1節~11節です。この箇所から、私たちを愛する神が、御子イエスキリストの十字架をとおして、信じる者を必ず救ってくださることを覚え、感謝してまいりましょう。

本日の聖書箇所から、まず「和解」という言葉を考えてみましょう。今日の聖書箇所の10節と11節に出てきています。「和解」とは敵であった者たちが、関係の回復をすることです。ここでは神と私たち人間の「和解」が記されています。つまり私たち人間と神は敵対関係にあり、関係は断絶していたのです。これは私たち人間に罪があるからであり、罪という性質が無く、罪を憎む神とは断絶されていたのです。罪があって神と断絶している私たちは永遠の死をまぬがれません。ただ8節にありますが、私たちを愛する神の御子イエスキリストが私たちの代わりに十字架で死んでくださったのです。このことによって神を信じる者は罪から解放され、救われるのです。これが神と私たちの「和解」なのです。ただ一方的に神の側からによる「和解」を感謝します。

もう一つ今日注目したい言葉は「なおさら」です。今日の箇所では9節と10節に出てきます。今日の聖書箇所の後にも出てきています。「なおさら」とは「さらにそうだ」「いっそう」「一段と」「ますます」のような意味です。今日の箇所から何が「なおさら」かというと、私たちの「救い」だということです。つまり私たちの救いは疑う余地がありません。それくらいイエスキリストの十字架の力は絶大なのです。この手紙の著者であるパウロは、他の手紙では自分を「罪人の頭」と記しています。現実にパウロはかつてイエスを憎み、最初の殉教者ステファノの殺害に関与し、多くのキリスト者を迫害していました。そんなパウロが「救いはなおさら」記すのです。救いは間違い無いのです。

主イエスは私たちを愛し、私たちのために十字架に架かって下さいました。神を信じましょう。それによる救いは完全で間違いないのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「日々新たにされて」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:16~18(新約P329)  2019年9月15日 大竹敏生

 

本日は「高齢者をおぼえる礼拝」で、聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節~18節です。ご高齢の方々を覚え、祝福を祈りつつ神のみ言葉から学びましょう。

本日の聖書箇所のコリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節に「外なる人」と「内なる人」という言葉が出てきます。この「外なる人」とは私たちの肉体のことです。一方「内なる人」とは私たちの精神や心や魂のような内面のことを指すのです。この16節を見ると「神をもってしても肉体の衰えはどうしようもない。ただ内面は何とかなる」というようにも読めます。もちろんそうではありません。神に不可能は無いのです。ここは「神にとっては内面がより大切なのだ」という意味でしょう。内面を大切にあつかってくださる神に感謝します。

18節に「見えないものに目を注ぎます。」とあります。このことに関しては若い人よりご高齢の方が得意です。若い人ほど「見えるもの」例えばその時の状況や自分の力などに目を奪われます。そして限界を感じるとパニックになったりします。ご高齢の方は経験などをとおして「見えないもの」を意識し易いのです。これはまさに「信仰」です。ご高齢の方こそ「信仰」をもって神と共に歩んでいることを意識できているのではないでしょうか。

私たちの「内なる人」は日々新たにされます。これは何を意味するでしょう。1つは「内なる人」は最新だということです。新品であり、最新なのです。2つ目として「内なる人」に新たな力が常に注がれるということです。私たちの内面には力が与え続けられるのです。そして3つ目として私たちの「内なる人」は日々神の取り扱いを受けているということです。私たちは日々神と共に歩み、神から力を受け、いつも新たにされていくのです。感謝します。

ご高齢の方々がいつまでも神の力でお元気であられるように祈ります。そしてその神の力は私たちにも生涯にわたって注がれるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「み言葉によって勝つ」   マタイによる福音書5:1~11(新約P4)  2019年9月1日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書4章1節~11節です。この箇所から、み言葉によってサタンの誘惑に勝利された主をおぼえ、私たちも神と神のみ言葉の力を信じて歩んでまいりましょう。

今日の聖書の箇所には、イエスキリストが荒野でサタンの誘惑を受けられたことが記されています。イエスキリストは神の子でありながら人間でした。従って私たちと同じようにサタンの誘惑を受けられたのです。聖書には3つの誘惑が記されています。「空腹のときに石をパンに変えること」「神が天使に命じて助けるから飛び降りてみろ」「私(サタン)を拝めば世界の全てを与える」とです。それに対してイエス様は1つ1つみ言葉によって誘惑に打ち勝ったのです。誘惑はこの3つだけではなかったかもしれません。でもどちらにしても主イエスキリストは、すべての誘惑にみ言葉をもって勝利したのです。

サタンの誘惑は厳しいものです。勝つのは困難です。しかし神の子であるならば間違いなくどんな方法でも勝てるのです。そんな方なのに、主はみ言葉で誘惑に勝利されたのです。どうしてなのか、そしてどんな意味があるのでしょうか。主はどんなやり方でも勝てますが、私たちはそうはいきません。私たちがサタンの誘惑に勝つには、主イエス様が模範に見せて下さったように、み言葉で勝つしかないのです。私たちに与えられている神のみ言葉、聖書によって誘惑に打ち勝ってまいりましょう。実はサタンに勝つことができるのは神しかおられません。聖書は神のみ言葉であり、言うなればそこに神の力が宿っています。罪があって弱い私たちは神のみ言葉をもって勝利していきましょう。

イエスキリストを誘惑したサタンは、残念ながら私たちも誘惑し、攻撃してきます。弱い私たちがその攻撃に勝つには、主イエス様が見せて下さったようにみ言葉で勝つしかないのです。日々聖書を読み、また主なる神に祈りつつ歩んでまいりましょう。必ず主は私たちを勝たせてくださるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が導いてくださる」   マタイによる福音書5:13~16(新約P6)   2019年8月25日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書5章13節~16節です。この箇所から、私たちを用いてくださる主をおぼえ、祈りつつ歩んでまいりましょう。

本日の箇所には「塩」と「光」が出てきます。私たちは「地の塩、世の光」として歩むように命じられています。そのために何が必要でしょうか。それを考えてみましょう。

「塩」と「光」どちらも重要なものです。そしていろいろな共通点があります。人は生きるのに塩が必要です。また塩は食物の味付けや保存にも用いられ、除菌などにも効果があると言われます。また光は私たちの意思伝達や、暗闇の中にあって迷っている者を導いたりできます。このように「塩」も「光」も私たちにとって大変重要なものなのです。

ただ「塩」と「光」どちらも加減を間違えてはならないものです。食物に塩を多く入れると塩辛くなりすぎます。また研究はいろいろあるようですが、塩分のとりすぎは身体に良くないと言われます。また海の近くなどでは錆びなどのものの傷みが早いと言われます。また光も強すぎてはまぶし過ぎて、逆に見えなくなってしまいます。どちらも加減が大切なのです。

また「塩」と「光」はどちらもその必要性が劇的には分かりにくい部分があります。塩分が少ない食物を食べ続けると塩が欲しくなります。保存のための塩はその働きは見えにくいのです。光も暗闇の中で必要性を強く感じます。塩も光もあって当然であり、無くなってその必要性に気づきます。

「塩」と「光」はいつも存在していなくてはならず、加減が大切です。いつもあって、ケースバイケースで加減しなくてはなりません。まして「地の塩、世の光」です。神の力が必要なのです。私たちがこの世にあって「地の塩、世の光」として歩むために神に頼らなくてはなりません。神に祈り、その時々にどうすべきかを導いていただき歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の導きを祈ろう」   使徒言行録27:21~38(新約P268)  2019年8月18日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は使徒言行録27章21節~38節です。この箇所から、祈りによって導きを受けることへの恵みをおぼえてまいりましょう。

本日の箇所は,パウロがローマ皇帝に上訴したため、ローマに向けて護送されていく途中の出来事です。パウロたち一行はクレタ島の「良い港」という場所から、冬を越すのに適している同じ島のフェニックスに行こうとしたのです。ただパウロは主の導きでしょうが、危険だと進言しました。でも隊長は船長らの意見でフェニックスに向かったのです。すると暴風に襲われ、流されてしまいました。暴風はつづき、彼らの助かる望みは消え失せようとしていました。

パウロの進言は聞き入れられず、神の導きは無視されました。しかし神は彼らを見捨てませんでした。さらに導きを与えたのです。神は導き続けてくださるのです。また神は約束されます。22節や34節で「命を失う者はない」と約束しました。じっさいそのとおりになったのです。神は導きとして、これから何が起こるかを知らせ、そしてこれからどうすれば良いかを教えてくださいます。そして見捨てず最後まで導き続けてくださるのです。そしてときに神の導きは確かな約束で、私たちを守ります。すばらしい神の導きを感謝します。

さて神の導きを受けたパウロはどうしたでしょうか。まず神の導きから何をすべきかを語ります。そして神の導きを語り続けています。またパウロは絶望する人たちを励ましています。「元気を出しなさい」と22節と25節で語っているのです。また絶望する人たちに、必要なこととして食事をするように勧めてもいます。パウロが絶望せず、神の導きを語り、励ましたりできるのはなぜでしょうか。25節でパウロは「わたしは神を信じています。」と語ります。パウロの揺るぎない信仰がそれをさせたのです。

私たちも神を信じて祈り、神の導きを受けましょう。それは私たちの恵みなのです。そして導きを受け、パウロのように用いられてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に望みをおくために」  ルカによる福音書6:46~49(新約P114)  2019年8月4日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書6章46節~49節です。この箇所から導かれ、祈りをもって、主なるイエスキリストに望みをおきつつ歩む者とされてまいりましょう。

この箇所では「信仰者としての行動」が問題とされています。神を信じる者は「主の言葉を聞いて、それを行なえ」と勧められているのです。そしてそれこそ「固い岩を掘り下げて、そこに土台を据えた家」のようだというのです。洪水が来てもその家は揺り動かないのです。土台は普段はその働きは見えません。もしもの時に力を発揮します。「主の言葉を聞いても行わない」と、そのもしもの時に困るのです。

私たち信仰者の歩みは継続されなくてはなりません。どんな状況においても神を信じ、神に従う必要があるのです。もしもの時や厳しい状況は、いつ私たちに来るかは分かりません。そんな時に備えていつも確かな神に望みをおいて歩んでまいりましょう。

では私たちがそんな信仰者としての正しい歩みをしていくために何が必要なのでしょうか。今日の聖書箇所の46節に「わたしを『主よ主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とあります。『主よ主よ』というのは祈りとも言えます。ただ、信仰を持つ者の祈りです。信じるお方の言うことを行わなくてはならないのです。正しく信仰者として祈り、神に従いつつ歩まなくてはなりません。そうするときに私たちは、確かな土台を据えて歩むことができます。全知全能で、私たちをこの上なく愛してくださる神に望みをおいて歩んでまいりましょう。

では私たちは確かなお方である主なる神に、望みをおいて歩むためにどうしたらよいのでしょうか。それはやはり祈りです。日々祈りつつ歩み、主への信仰、愛などを増して、主なる神に望みをおいて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救い主の愛」   ヨハネによる福音書4:16~26(新約P169)  2019年7月28日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書4章16節~26節で、有名な「サマリアの女の話」「スカルの女の話」などと呼ばれる個所です。この箇所から、神が一人一人を知っておられ、愛して救ってくださること学びましょう。

このヨハネによる福音書4章の42節までが1つの記事で、イエス様と、ユダヤ人と対立するサマリアの一人の女のやり取りが多く記されています。初めは「水」についてのやり取りでした。イエス様の言う「私が与える水」をサマリアの女が求めたところ、16節でイエス様はいきなり女に「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われたのです。まるで違う話になってしまったかのようです。しかし女は「わたしに夫はいません」と答えました。これはこのことがこの女性にとって大きな問題であったことを物語ります。イエス様はこのサマリアの女のすべてを知っておられました。それはこの女の他人には言えない、知られたくないことをイエス様が容認されていたことを意味します。イエス様はこの女性の罪を知り、赦してくださったのです。

この女性はイエス様に自分の罪や知られたくないことを言い当てられたことで、イエス様を「預言者」ではと考えました。さらになにか期待するように「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。」と語りました。するとイエス様は「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と宣言されました。それを聞いた女は皆に知らせに走ったのです。

イエス様はこのサマリアの女と同じように私たちのこともすべてご存じです。私たちもそれぞれ問題を抱えています。他人には言えないようなこともあるでしょう。そしてそれは私たちの罪に根ざしているのです。イエス様はそれをすべて知っておられるのです。そしてその罪を赦してくださるのです。

イエス様は21節で「婦人よ、わたしを信じなさい。」と語ります。私たちもイエス様を信じ、罪赦されて、救いを受けて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りをわたしは聞いた」   列王記下19:14~20(旧約P612)  2019年7月21日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の列王記下19章14節~20節です。この箇所のヒゼキヤ王の祈りから学び、私たちの祈りを聞いてくださる神に感謝し、ますます祈る者とされてまいりましょう。

アッシリア帝国は北イスラエル王国を含む多くの国を滅ぼしてきました。その強大なアッシリア帝国が南ユダ王国に迫ります。その時の南ユダ王国の王はヒゼキヤという人でした。ヒゼキヤは神を信じる王でした。アッシリア帝国の使者は「神が助けてくれると思っているのか」とヒゼキヤが信じる主なる神をも罵倒しました。ヒゼキヤの出来ることは神に祈ることでした。

ヒゼキヤは15節にあるように、まず神をほめたたえました。神を讃美したのです。神を信じ、神を愛していたヒゼキヤは神を讃美したのです。讃美も祈りです。ヒゼキヤは、自分の願いよりも先に神をほめたたえたのです。また16節では、ヒゼキヤは神に「ご覧ください」「聞いてください」と祈ります。すべてをご存じで知っておられる神にです。つまりこれはむしろヒゼキヤ自身のためにそうしているのでしょう。人は時にすべてを知っておられる神に叫ぶように祈る者なのです。そして19節でヒゼキヤは神に栄光を帰しています。すべての王国で「あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください。」と祈っているのです。

私たちもヒゼキヤと同じように祈りましょう。神を第一に神を讃美しましょう。またすべてをご存じの神に、すべてをありのままに祈りましょう。そうしないでいられないことが私たちにもあるのです。そして神に栄光を帰しましょう。神の喜びが私たちの喜びでもあるのです。

ヒゼキヤの祈りに対し、神は預言者イザヤをとおして語ります。その20節に「あなたがわたしにささげた祈りをわたしは聞いた。」とあります。そして私たちの祈りも神は聞いてくださるのです。聞いてくださる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りは大きな力」    ヤコブの手紙5:13~18(新約P426)  2019年7月14日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヤコブの手紙5章13節~18節です。この箇所から神への祈りの大きさ、すばらしさを学び、日々祈る者とされてまいりましょう。

このヤコブの手紙は信仰義認を強調するガラテヤの信徒への手紙とよく対比されます。ヤコブの手紙では「行ない」が大切と主張していると思える面があるからです。でもこの手紙は信仰を否定しているのではなく、むしろ信仰の中身を問うているのです。私たちは信仰者として歩むのです。だからこの手紙をとおして信仰者としてあるべき生き方を学ぶことができるのです。その手紙の最初と、この終わりのところで「祈り」について記されています。それは信仰者にとっては「祈り」がとても大切なものだと言えるのではないでしょうか。

本日の聖書箇所の13節は喜んでいる人は祈らなくてよいともとれそうです。でもそうではありません。賛美も祈りです。ここはむしろどんな状況でも祈るように勧めているのです。14節の「教会の長老を招いて」と16節の「正しい人の」というのは「特別な人が祈るべきだ」ということではありません。むしろすべての人が祈るべきであり、互いのために祈る必要があるのです。「正しい人」とは主を信じる者です。主を信じているのですから、祈りの力を信じなくてはなりません。神に不可能はありません。私たちは疑わないで信じて祈りましょう。17節~18節にあるように、神はエリヤの祈りによって驚くべき大きなことをしてくださったのです。ただ同時に覚えておかなくてはならないことがあります。信じる者は主を第一とします。それは祈りでもです。自分のこと以上に神のみ心を第一とするのです。最善を成してくださる神のみ心を第一とし、神に栄光を帰していきましょう。それが「信仰に基づく祈り」です。

祈りは、お願いだけではありません。賛美したり、聖書を読みましょう。そして神はどんなことでもできると、また神は最善を成してくださると信じて祈りましょう。これからも「信仰に基づいて」祈ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神に打ち明けなさい」  フィリピの信徒への手紙4:4~7(新約P366)  2019年7月7日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙4章4節~7節です。この箇所から導かれ、祈りをもって神に打ち明けて、神の平安を得てまいりましょう。

このフィリピの信徒への手紙が書かれた時代から、そしてイエス様が私たちのために救い主として十字架に架かって下さった時代から二千年近くが経っています。それだけ時が経てば現代の問題の前には効力が無いかのように思えます。しかし、主イエスは今も生きておられ、聖書は神の言葉です。そして人間は昔も今も罪があり弱いのです。昔も今も神により救われ、助けられなくてはならない存在なのです。今日に聖書箇所にありますように、弱い私たちは思い煩う者です。現代の多くの人たちは特に「思い煩い」「悩み」「不安」の只中にあります。この問題は私たちにとってかなり深刻な問題なのです。

「思い煩い」「悩み」「不安」などの問題は解決がなかなか困難です。例えば「気にしない」ことは解決に有効です。でも私たちは自分や家族など大切な者のために思い煩ったりするのです。従ってあっさり「気にしない」ことができないのが私たちです。私たちは知らない人のことでは悩まないのです。また解決が容易にできるのならば悩みません。自分では解決が困難なので悩むのです。私たちは「気にしない」ことができず、解決ができないから「思い煩い」「悩み」「不安」に陥るのです。

ではどうしたら良いのでしょうか。それは私たちにできないことをなしてくださる神さまに祈りをもって、6節にありますように打ち明けていくことです。愛の神は私たちが「気にしない」でいられないこともご存じです。また神に打ち明けることで与えられる「平和」「平安」は7節にあるように「あらゆる人知を超える」ものです。これは私たちが考えうる「平和」「平安」を超えるものなのです。どうしても思い煩う私たちはあらゆることを神に打ち明けていきましょう。与えられる「平和」「平安」を信じ、感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りのひろがり」  エフェソの信徒への手紙6:10~20(新約P359)  2019年6月30日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はエフェソの信徒への手紙6章10節~20節です。この箇所から学び、自分のことだけ祈るのではなく他者のことも祈ることを心がけ、そこから祈りが広がっていくことを覚えてまいりましょう。

聖書では他者のことを祈ることが勧められています。主は私たち一人一人を愛しています。私も愛されていますが、他者も愛されているのです。どちらも愛する神は、私たちが他の人のために祈ることを喜ばれるのです。祈りには限界がありません。どれだけ祈っても減ることはありません。他の人のためにどれだけ祈っても、神の恵みや祝福は減りません。まして無くなることもないのです。私たちが覚え合い、祈り合う、それは互いに愛し合うことにつながり、他の人のために祈ることは主を喜ばせるのです。

また「祈り」のすばらしいところはノンクリスチャンにも受け入れやすいところです。クリスチャンはもちろん、ノンクリスチャンの方も「あなたのために祈ります」と言われたら喜ばれることが多くあります。祈りは伝道や証しになるのです。積極的に祈りたいものです。

聖書では「他者のための祈り」が推奨されています。今日の聖書の箇所の18節にも「すべての聖なる者たち」のために祈るように記されています。つまり私たちは「知らない人たち」のためにも祈ることがときに求められているのです。私たちも「よく知らない」あるいは「知らない」人をも覚えて祈ってまいりましょう。また20節ではこの手紙の著者のパウロが「自分たちのためにも」祈ってほしいと記しています。祈りに上下は神と私たちにしかありません。パウロにとってエフェソの教会の人たちは弟子のようなものです。つまり「パウロ>エフェソの教会の人」なのです。しかし祈りに関しては共に祈り合うのです。私たちは祈られています。そして私たちはまた祈ります。祈りは神を中心にどんどん広がるのです。私たちも祈りの広がりを担ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「御心にかなうことを」   ヨハネの手紙Ⅰ5:13~15(新約P447)   2019年6月23日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネの手紙Ⅰ5章13節~15節です。この箇所から私たちの祈りをきいてくださる愛の神をおぼえてまいりましょう。

本日の聖書箇所の14節に「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」とあります。一見「神は私たちの願いは関係なく、神の思うようにしかならない」と言っているように思う言葉です。それにしては14節後半から15節にかけて読むと感じられるのは「祈りはきかれる」という強い確信です。私たちは「神の御心」を小さくとらえてはいないでしょうか。神は私たちを愛しておられます。私たち人間でも、ときに自分以上に愛する存在のために行動します。まして愛の神は私たちを愛しています。私たちの願うことを無視せず、祈りを聞いてくださるのです。

ただ私たちは神を最優先しなくてはなりません。それが信仰者の姿勢として求められているのです。祈りも神優先であるべきなのです。そして神は私たちにとって最善を成してくださいます。罪ある私たちです。私たちの願うことが、実は善くない場合があります。そんな時は祈りはきかれないこともあるでしょう。そちらの方が私たちにとっても善いのです。「神の御心に適う」という言葉はそういうことをすべて含めた上での言葉なのです。

では私たちは、祈りについてどのように考えていけば良いのでしょうか。15節に「神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」と記されています。私たちは「祈りはかなえられる」と信じて歩む必要があります。ときに私たちの願ったとおりにいかないこともあります。それなのに信じるのでしょうか。私たちは祈るとき「願ったようになる。あるいはそれ以上に祝福されたことが起こる」と信じて歩むことが大切なのです。それが「神の御心に適う」という言葉にあらわれているのです。安心して祈りましょう。愛の神は私たちにとって最善のかたちで祈りをかなえてくださいます。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「失望せずに祈る」   ルカによる福音書18:1~8(新約P143)  2019年6月16日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書18章1節~8節です。この箇所から学び、失望せずに祈り続ける者とされていきましょう。

祈りについて1節に「気を落とさずに」とあります。別の訳では「失望せずに」と訳されている言葉です。私たちは「失望せず」「気を落とさず」祈り続ける必要があるのです。私たちは神に祈るのです。つまり祈りは神が聞かれるのです。神が相手なのですから「失望」はないはずなのです。ただ問題なのは私たちがそれを忘れてしまうことです。祈っていてもいつのまにか失望したり、気落ちしていたりするのです。しかし「失望」ないのですから、失望したり気落ちしたりして祈れなくなるのは避けなくてはならないことなのです。

では「失望せず」「気を落とさず」祈り続けるためにどうしたら良いのでしょうか。今日の聖書箇所に登場するやもめから見ていきましょう。まずやもめは裁判官に頼み続けています。やもめは失望していないから頼み続けたのかもしれません。でもその頼み続けたことが失望しない理由の一つだったのではないでしょうか。私たちは失望しないために祈り続けることが大切です。またやもめは夫はいなくて、やもめ自身も弱く、裁判官しか頼っていません。それが失望しなかった理由ではないでしょうか。人は頼みとするものが、自分を含めていくつかあります。しかしそれらは完全ではありません。本当に頼るべき方は全知全能の神なのです。本当に頼るべき方に祈り続けることが、失望せずに祈り続けることにつながるのです。またやもめに学ぶべきことは、このやもめは裁判官を疑っていないことです。「必ず自分にとって善い裁判をしてくれる」と信じていたようです。やもめのように私たちも主にのみ祈り続け、主のなさることは最善なのだと信じて祈り続けましょう。

私たちが祈るお方は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」ではなく、力と愛の神です。全知全能で私たちを愛してくださる神に祈り続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたの罪は赦される」   マルコによる福音書2:1~12(新約P63)  2019年6月9日 大竹敏生

 

本日は「子ども祝福礼拝」で聖書箇所はマルコによる福音書2章1節~12節です。この箇所から、罪を赦してくださる愛の神をおぼえましょう。

ここでは、中風の者の友人たちがイエス様のもとに「友人を癒やしていただこう」と連れてきた様子が記されています。たくさんの人だかりでイエス様のおられる家に入れず、屋根をはがしてイエス様のもとに中風の者を下ろしています。その行為にイエス様は「あなたの罪は赦される」と言われたのです。この言葉は驚きです。彼らは「癒やし」を求めていました。しかし主は「罪の赦し」を宣言したのです。そこにいた律法学者は心の中で「イエスは神を冒涜している」と思いました。主はそれを見抜いておられ「罪の赦し」と「癒やし」はどちらが易しいかと問われました。そしてご自身の権威を証明するために、その後中風の者を癒したのです。

「罪の赦し」と「癒やし」はどちらもイエスキリストでなければできないことです。ただ主は先に「罪の赦し」を宣言しました。主にとってこれが何よりも大切なことだったのです。「罪の赦し」はその人に信仰がなくてはなりません。どこに信仰があったのでしょう。今から2000年前の家ですし、雨量も日本により少ないので、家の屋根もそれほど頑丈ではなかったでしょう。とはいえやはりかなりの重労働だったでしょう。でも彼らは友人のためにそれを厭わずそこまでしたのです。そしてその中風の者も友人たちにすべて任せていました。そこに彼らのイエス様に対する信仰があったのです。

イエス様にとって「罪の赦し」は何よりも大切なことでした。また私たちにとっても「罪の赦し」は最高の恵みなのです。私たちを愛し、私たちの罪を赦し、私たちを救う神に感謝いたします。また祈りに応え、私たちを癒してくださる神に感謝いたします。私たちはこれからも「罪の赦し」と「癒やし」をいただくために主イエスキリストを信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「約束された聖霊により」   使徒言行録1:3~11(新約P213)  2019年6月2日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は使徒言行録1章3節~11節です。この箇所から、約束どおり与えられた聖霊により歩むことができる恵みをおぼえましょう。

イエスキリストが私たちのために十字架に架かってくださり、死からよみがえられた後、天に昇っていかれました。今日の箇所にそのことが記されています。ここが最初ではないのですが、主はこの時も天に昇っていかれる主イエスキリストの代わりに聖霊が与えられると約束されています。そしてそれはこの後すぐに実現したのです。その様子は2章に記されています。その聖霊は今も私たちを助け、導いてくださっておられることを感謝いたします。

聖霊は、父なる神と子なるイエスキリストと共に三位一体の神です。でも私はかつて聖霊は父なる神やイエスキリストと何か違うような印象をもちました。聖書を読むと、父なる神は人に語ります。時に怒ります。感情があるように思えます。またイエスキリストは人間として歩まれました。喜ばれたり、悲しまれたり、また怒りをあらわにされたりもしました。「イエス様は感情が豊かであられた」と語られたメッセージを聞いたこともあります。では聖霊はどうでしょうか。聖書からのイメージでは、聖霊は語ることも無く、淡々といつのまにか仕事をしているような感じで、何か機械的に感じていたのです。

でも実際はそうではありません。主イエスキリストの代わりに来られた方です。私たちのことをすべてご存じで、私たちの感情を無視されません。人の喜びや悲しみに寄り添ってすべての必要に応えてくださるのです。使徒のペトロやパウロが悩む時、共にいて励まし助けてくださったのです。またその力は使徒言行録に出てきますが、正に神の力です。人にはできないことをされています。聖霊は大いなる力と愛をもって弱い使徒たちと歩まれたのです。

聖霊は今も使徒たち以上に弱い私たちに寄り添い、大いなる力と愛をもって導いてくださいます。助け主なる聖霊と共にこれからも歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「一人も滅びないで」   ヨハネによる福音書3:14~18(新約P167)   2019年5月26日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書3章14節~18節です。この箇所から、私たちの救いを切に願う神の愛を学びましょう。

本日の聖書箇所の16節は特に有名で重要な箇所です。「聖書全体に記されていることが、この節のまとめられている」と言ってもよいほどです。イエスキリストは救い主です。私たちに「救い」を与えて下さるのです。この神がくださる「救い」ですが、神はどのような思いで私たちに下さるのでしょうか。神にとって「本当はあげたくない」のでしょうか。また「ご褒美のように得る資格のある者には上げたい」と思っているのでしょうか。また「欲しければどうぞ」なのでしょうか。どれも違うと思います。

今日のメッセージの題にもしましたが、16節に「一人も滅びないで」とあります。ここに神の思いがあらわれています。私たちには罪があり、その罪によって私たちは「滅びる者」なのです。私たちの力では、どんなに努力しても、頑張っても救われることはありません。私たちが救われるためには、罪が無いのにその私たちの罪を負って、私たちの代わりに十字架に架かって下さったイエスキリストを信じるしかないのです。イエス様にとって十字架は、本当は耐え難い苦しみでした。人として、そして神の子として想像を絶する苦しみだったのです。しかし私たちを愛する主イエスキリストは、私たちを救うために十字架に架かって下さったのです。神はこのように成し遂げて下さった「救い」を全ての人に受けてほしいと考えておられます。「特別な人」や「欲しい人」にあげたいのではなく、「すべての人」が滅びから救われてほしいと、切に願っておられるのです。

私たちが救われるためには、今日の聖書箇所にも15節、16節、18節にありますが「信じる」ことによってなのです。私たちのために十字架に架かって下さった主を信じましょう。それが主ご自身の切に願うことなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らの祈りにも」   使徒言行録12:1~17(新約P236)   2019年5月19日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は使徒言行録12章1節~17節です。この箇所から、神は弱い私たちの祈りを聞いてくださるということをおぼえましょう。

この時代、クリスチャンの多くが迫害を受けていました。この箇所にも迫害の様子が記されています。残虐なヘロデ王は使徒ヤコブを殺害しました。それがユダヤ人に喜ばれると、次に使徒ペトロを捕らえたのです。しかしペトロは神によって救い出されました。そのことが記されています。

捕らえられたペトロのために、教会の人たちは祈っていました。しかしペトロが神に助けられて、祈っている皆のところに行っても彼らは信じられませんでした。これはある意味「不信仰」だと言えます。しかし神はそんな不完全な信仰の祈りに応えられたのです。感謝します。

ただこのことから別のことも分かります。それは「彼らがいつも祈っていた」ということです。彼らがその時初めて祈ったのなら「祈りの効果」に期待するでしょう。しかし彼らにそういう様子はありません。迫害の中にある当時のクリスチャンは、問題があるごとに祈っていたのでしょう。彼らにできたのは、祈ること位だったのかもしれません。そういう祈りに神は応えられたのです。

また12節によると彼らは集まって祈っていました。集まって祈るということは、皆が心を合わせて祈ったということでしょう。マタイによる福音書18章19節に「心を一つにして祈る」ことが勧められています。そういう祈りを主は喜び、応えられたのです。

主は不完全な信仰の祈り、特別でないいつもの祈り、共に集っての心を合わせての祈りに応えられました。これは私たちにもできることではないでしょうか。私たちも弱く不信仰な者です。祈ることしかできない者です。でもそんな私たちの祈りにも主は応えてくださり、大いなる力を発揮してくださるのです。共に祈り続けましょう。私たちは弱くても主は強いのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「福音のために」  コリントの信徒への手紙Ⅰ9:19~23(新約P311)  2019年5月12日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ9章19節~23節です。この箇所から学び「福音のために」歩む者とされてまいりましょう。

この手紙を書いたパウロは、迫害を受けたりして、厳しい歩みをしていました。そんなパウロは「福音のためにどんなことでも」すると記しています。「そういう気概をもつ」ことは必要でしょう。そしてある時は驚くようなことをしなくてはならないこともあるかもしれないのです。ただこれは「福音のためにはモラルや法律をも無視する」ことを勧めているというより、パウロは自分を自由にしてくださった主のために、主を第一に、福音のために歩むことを勧めているのだと思います。自分のためにではなく、主の福音のために歩むことをパウロは使徒として心がけ、コリントの教会の人たち、そして私たちにも勧めているのではないでしょうか。

また「どんなことでも」というのは「出来うる限りのことを」という意味があるのではないでしょうか。「主のために」「福音のために」といったとき、直接的なこともあれば、間接的、さらに意外とも感じることもするというような場合もありえるのです。「福音のためならこんなこともする」という感じです。たとえば「祈り」は「伝道」には不可欠なのですが、直接的とは言えないかもしれません。でも「伝道」のために「祈り」は必要なのです。

私たちの教会ではこのところ「伝道」や「成長」を大切にしてきています。私たちはこれらのことのためにいろいろなことをしてきました。そしてこれからも直接的なこと、また間接的なこと、さらにこんなことまでと思うようなことでも、出来ることをしていきましょう。直接的ではないかもしれませんが「祈り」「聖書」「讃美」など日々の神との交わりを大切にしていきましょう。そこから私たちは養われ、「福音のために」歩む者へとさせられるのです。そして私たちもパウロのように「福音に共にあずかる者」とされることを感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「静かにささやく声」   列王記上19:1~18(旧約P565)  2019年5月5日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の列王記上19章1節~18節です。この箇所から祈りに応え、どんな状況にあっても導いてくださる主をおぼえましょう。

この箇所は預言者エリヤが、カルメル山にてバアルの預言者450人とアシュラの預言者400人を相手に1人で勝利した記事の後に記されています。バアルとアシュラの預言者たちに圧勝したエリヤでしたが、今日の箇所では恐れて逃げ出す弱いエリヤが記されています。エリヤは南に向かって逃げ、ベエル・シェバまで来て、そこに従者を残してさらに逃げました。そこで神に「命を取って下さい」というほど落ち込んでいました。そこから御使いに導かれて神の山ホレブまで来ました。このホレブ山で神はエリヤを導かれたのです。

神はエリヤに声をかけ、エリヤが神に愚痴のようなことを言う。そんなやり取りの中で主は「山の中で主の前に立ちなさい」と声をかけられました。そのとき主が通り過ぎて行かれ、山を裂き、岩を砕くほどの激しい風が起こりました。しかしその中に主はおられませんでした。またその後、地震そして火が起きました。しかしそれらの中にも主はおられなかったと記されています。そして火の後、エリヤは「静かにささやく声」を聞いたのです。その後、神とエリヤはやりとりをします。このやりとですが、風と地震と火の前のやりとりと言葉は同じでした。しかしその後の神の言葉は弱さをさらけ出したエリヤを励まし、導くものでした。そこに神の愛と力を見ることができます。

エリヤは、風や地震、火の強さの中に神を見出せませんでした。しかし弱いエリヤに合わせるような「静かにささやく声」を聞くことができたのです。このときのエリヤは「静かにささやく声」にしか神を見る(聞く)ことができなかったのです。私たちも弱い者です。置かれている状況によって、ときに神を見出すことができなくなります。しかし神はエリヤにそうだったように、私たちにも最善な方法で導いてくださいます。祈って神の声を聞き続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたのために祈った」 ルカによる福音書22:31~34(新約P154)   2019年4月28日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書22章31節~34節です。この箇所から祈りのすばらしさを学び、おぼえてまいりましょう。

この箇所はペトロが3度「主を知らない」と言うことを主イエスが予告された箇所です。ここで主はそんなペトロのために祈りました。その祈りから分かることがあります。それはイエス様にとって「人が主を信じること」そして「信じ続けること」それが大切であり、主が強く願っているということです。一方ペトロにとって、自分が「主を知らない」と言うことはあり得ないことで「ご一緒なら死んでも」とペトロは言いました。しかし主の言われた通りになったのです。ペトロにとっては「自ら死を」とか「自棄になり信仰を捨てる」となってもおかしくないことでした。でもペトロは主から離れなかったのです。主は「ペトロの信仰が無くならないように」祈られました。その祈りにより、今にも消えてそうだったペトロの信仰は、かろうじて踏みとどまったのです。

また主の言葉で知らされることがあります。それは祈りのすばらしさです。ペトロの信仰は今にも消えそうだったのです。しかし信仰は無くなりませんでした。イエス様はペトロが3度「主を知らない」と言うことが分かっておられました。またその結果ペトロがどんな思いにかられるかも、どんな状況に陥るかもすべて知っておられました。知っていたにもかかわらず主は「祈り」がかなえられ、ペトロが立ち直ると信じていたのです。ペトロに「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と告げています。祈りがかなえられると確信し、その後のことを指示しているのです。祈りのすばらしさに感謝します。

ペトロのために祈り、ペトロや他の弟子たちを信じた主は、私たちのためにも祈り、信頼してくださるのです。感謝して信頼に応えましょう。信仰を保ちつづけましょう。そして私たちのつたない祈りにも力があります。祈りは神の力を引き出します。祈りつつ主の喜ばれる者として歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活はわたしにも」 コリントの信徒への手紙Ⅰ15:1~11(新約P320)   2019年4月21日 大竹敏生

 

本日は今年のイースターです。主の復活を感謝いたします。今年のイースターに導かれた聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ15章1節~11節です。この箇所から恵みの復活をおぼえてまいりましょう。

主の復活から、私たちは死に打ち勝つ主の力を思います。このことはおざなりになってはなりません。今年もイースターに、死に勝利してよみがえられたイエス様をおぼえましょう。ただ私たちは、主の復活から力だけではなく、神の愛を感じていく必要があります。コリントの信徒への手紙Ⅰの15章は、全体が「復活」について記されています。今日の箇所はその最初のところです。1節に「福音」について記すとあり、そしてそれが「復活」についてと展開していくのです。「福音」は「復活」と密接な関係があるといえるでしょう。「福音」は神の愛によって私たちにもたらされたものです。主は私たちを愛するがゆえに、私たちのために復活してくださったのです。

4節以降に、主が復活されていろいろな人に現れてくださったことが記されています。そして8節にはこの手紙の著者のパウロにも現れてくださったと記されています。ペトロたちに現れたのは、主が天に昇る前のことでした。パウロにはその後です。しかしパウロは自分を「月足らずで生まれたような」と記していますが、主が現れてくださったのはペトロたちと自分に、何もかわりがないと語っているようです。復活された主が現れたのは、ペトロたちとパウロに何の違いもなく、どちらも一方的に神の愛ゆえなのです。

パウロはペトロたちとかわりないと強調し、復活された主がパウロを用いて働いていると記しています。パウロに現れた復活の主は、私たちにも現れてくださいます。そして復活された主は今も生きておられ、私たちを用いて働いてくださるのです。復活された愛と力の主は、その愛と力をもって私たちにも現れ、私たちを用いて働いてくださいます。復活された主に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「御心のままに十字架へ」 マルコによる福音書15:32~42(新約P92)  2019年4月14日 大竹敏生

 

来週の主日が今年イースターです。従って本日は「棕梠の主日」で、今日から受難週となります。主の十字架を覚えて歩みましょう。本日の聖書箇所はマルコによる福音書14章32節~42節です。主が十字架に架かる前にゲッセマネで祈った出来事から学んでまいりましょう。

このゲッセマネの出来事から思わされるのは「イエス様は十字架に架かるのをこんなにも嫌がっていたのか」ということです。イエス様はどうしてこんなにも十字架に架かりたくなかったのでしょうか。人間的な理由ならば「死にたくない」「恥をかきたくない」「苦痛は嫌だ」などでしょう。しかし主の十字架への嫌悪の理由はそういうものではなく、主ならではのものであったと思われます。神の子であり、罪のないイエス様が、神に対して最も重い罪を犯した者が架かる十字架、神の呪いの十字架に架かるのは想像を絶する苦しみであったと思います。主の苦しみあえぐ思いがゲッセマネでの祈りになったのです。

しかしイエス様はそんな中でも「わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ります。そして神の御心が実現したのです。それは「イエス様が十字架に架かる」ことでした。そしてその神の御心の十字架により、主を信じる私たちは救われることになったのです。

イエス様はゲッセマネで十字架を嫌がっていたのですが、その後は十字架に向かうときも、十字架上でもそういう様子はありませんでした。そのイエス様を見て、一緒に十字架にかけられていた犯罪人が改心し、百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。ゲッセマネでのイエス様は何だったのかと思うほどです。主イエス様の御心への信頼、神を第一にとの思いが見えます。そして祈りの力でしょう。祈りによって神への信頼をますます強くすることができるのです。私たちも主に倣って祈りつつ歩みましょう。神の御心を求めましょう。その偉大な御心の十字架によって救われたのですから。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「祈りによって」   ローマの信徒への手紙12:9~21(新約P292)  2019年4月7日 大竹敏生

 

本日は2019年度最初の主日礼拝です。今年度の主題は「希望をもって祈る」主題聖句は「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。(ローマの信徒への手紙12:12)」です。本日はその箇所を含むローマの信徒への手紙12章9節~21節から導かれたいと思います。

今日の聖書箇所には「キリスト者はどうあるべきか」というような内容が、箇条書きのようにたくさん記されています。12節もそうです。まず「希望」と「喜び」という言葉が出てきます。どちらも聖書では重要な言葉です。ただ聖書ではこの世的なものと少し違う意味がある言葉です。まず「希望」はこの世的には、はかなさを感じます。しかし聖書では「あざむくことがない」「失望に終わることのない」ものです。また「喜び」はこの世的には、結果として得るものですが、聖書では「いつも」すべきことであり、ここでも「希望をもって喜ぶ」とあるのです。また「苦難を耐え忍ぶ」とあります。当時主を信じることは大きな苦難を伴いました。多くの殉教者を出した時代です。迫害の中にある人たちに向けての言葉でもあるのです。

この箇所でいう「希望」「喜び」「忍耐」は人の力ではどうしようもありません。神無しには無理なのです。神を信じ愛するがゆえに「希望」「喜び」「忍耐」ができます。神を信じなければ「希望」は、はかなくなり「喜び」は結果としてしかできなくなります。また愛するお方のために「忍耐」できるのです。人間は、神を信じ愛するそのために「たゆまず祈る」必要があるのです。

さて、このことは私たちも同じです。私たちも神を信じて「希望をもって喜ぶ」必要があります。またこの手紙が記された時代のような「迫害」は、今はありません。ただキリスト者として歩む中で、困難や苦しむことはあります。それに耐えるためにも主を愛しましょう。そのために私たちには「祈り」があります。今年度も「希望をもって祈る」歩みを心がけてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「霊は生かします」   コリントの信徒への手紙Ⅱ3:4~6(新約P328)   2019年3月31日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ3章4節~6節です。この箇所の特に6節を中心に、2018年度最後の主日礼拝を導かれたいと思います。

この箇所の6節に「文字は殺しますが、霊は生かします。」とあります。「文字」とは前後の文脈で考えると「律法」であると分かります。また「霊」は神の霊すなわち聖霊と言うことができます。イエス様は「律法」の教えの本質は「愛」だと教えてくださいました。それを理解していなかったこともあるのですが、結局私たちは律法の行ないでは救われないことが分かります。律法は私たちに「このままでは滅ぶ」ことを教えるのです。私たちは神を信じることで「霊」によって義とされるのです。また「文字」は生きていません。私たちの弱さ故、私たちを間違った方向に向けることすらあります。しかし「霊」は生きておられ、愛する私たちの生き方を神の喜ぶものにしてくださるのです。

私たちはクリスチャンとして成長させられる必要があります。その成長は神によってなされるのです。世の一般的な意味での成長は、大人や親の導きで独り立ちしていくという面があります。しかし私たちキリスト者としての成長は神から離れてはできないのです。木の枝が幹につながっているから成長し、実を結ぶように、私たちは「霊」から離れず、「霊」によって生かされ、成長するのです。また私たちの成長はゴールが、この世に生きている間はありません。生きている限り神に向かって成長していくのです。この世での歩みを続けていく間「霊」によって生かされていきましょう。私たちもいつかこの世での歩みを終えます。その時まで私たちの成長は続くのです。

私たちはこれからも「霊」に生かされて歩みましょう。ただ「霊」は見えません。「霊」である神を信じなくてはならないのです。「霊」によって救われましょう。そして「霊」によって生かされ、成長をつづけましょう。そのためにこれからも「霊」である神と共にありつづけたいと思います。

 
 
 

[メッセージ要約]

「信じるべきお方」     詩編23:1~6(旧約P894)  2019年3月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の詩編23編1節~6節です。詩編の中でも最もよく知られているこの詩編から、信じるべきお方を信じて歩む者とされるように導かれてまいりましょう。

まず注目したいのはこの詩編が「わたし」という一人称単数で語られていることです。これは著者ダビデが自分中心だったとか、他の人について関心が無かったということではなく、弱い自分にとって「この方しかない」という思いが表れているのではないでしょうか。神はダビデ個人を知り、愛し、救われたのです。そして実は私たちも親しく神に知られ、愛され、信じる私たちを一人の子として救われるのです。私たちではなく「わたし」が救われるのです。

またダビデは自分を弱い羊に例えています。実は私たちは弱いのです。その弱さは私たちの罪から来るのです。この罪は私たちを神から断絶させ、私たちは滅びに至る者になっているのです。また罪の影響は私たちの行動を支配し、私たちがしたくないこと、罪の行為をさせるのです。ダビデもウリヤという人の妻を得たいと、策略を用いてウリヤを死に至らしめたりしたのです。罪はこのように恐ろしいもので、私たちはこれを解決する必要があるのです。

この詩編でダビデは、主が「わたし」の羊飼いだと記しています。羊は羊飼いを信じているから従えるのです。つまりダビデは主を信じているから、主を羊飼いと告白しているのです。羊飼いは羊のために時に生命さえ厭いません。私たちの主も私たち一人一人を愛し、私たちのために生命を捨てたのです。実は私たちの罪は「主を信じる」ことでしか解決できません。「主を信じる」ことでしか救われないのです。私たちの主は信じるに足るお方です。信じるべきお方です。私たちを愛し、私たちが信じて救われるのを望んでおられるのです。

「信じるべきお方」である主を信じて歩みましょう。信じることによって罪が赦されるのです。そして主と共に少しでも罪を犯さず歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神に仕える人」   テモテへの手紙Ⅱ3:10~17(新約P394)  2019年3月10日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はテモテへの手紙Ⅱの3章10節~17節です。この箇所から、神によって神に仕える人とされていきましょう。

パウロが刑死する直前に、書いた手紙とも言われるこの「テモテへの手紙Ⅱ」の中で、パウロは愛するテモテに向けて「主から離れてはならない」と勧めています。そしてテモテが幼いころから親しんできた聖書の大切さを説いています。15節で聖書は私たちを信仰を通して救いに導くことが記されています。16節には聖書が私たちを教え、戒め、誤りを正し、義に導くとあります。そして17節に「神に仕える人」という言葉が出てきます。「神に仕える人」は「どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられる」と約束されているのです。これは考えてみるとすごいことです。罪ある私たちは「善い業」を行うことができません。しかし「神に仕える人」は「どんな善い業」も行うことができるのです。これは人の力では無理なのです。神によって「神に仕える人」にさせられていく必要があるのです。そのために私たちには聖書、すなわち神のみ言葉があります。感謝いたします。

考えてみると聖書は私たちに大きな恵みや祝福を与えてくださいます。私たちを神に向かわせ「神に仕える人」にしてくださるのです。この手紙が書かれた時代は特に迫害が強い時代でした。そして12節には、キリスト者は必ず迫害を受けると記されています。しかし「神に仕える人」とされるとき、迫害を耐え抜くことができるのです。そしてできないはずの「善い業」を神のためにすることができるようになるのです。

この手紙を受け取ったテモテは決して強い人ではありませんでした。パウロはそんなテモテに「主から離れず、神に仕える人となれ」と勧めます。私たちもそうです。聖書をとおして神を愛し、神から離れず、神に仕える人となりましょう。私たちがどんなに弱くても導いてくださる主なる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛を信じて歩む」  ルカによる福音書24:13~35(新約P160)  2019年3月3日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書24章13節~25節です。この箇所から神の愛を学び、神の愛を証しする者とされていきましょう。

今日の聖書箇所には、私たちのために十字架に架かって死んで、復活されたイエス様がエマオに向かう弟子に現れた出来事が記されています。主イエスが十字架で死んでよみがえることは、他ならぬイエス様が預言していました。預言のとおりになったのですが、多くの弟子たちがその預言を信じられずにいたのです。このエマオに向かう弟子たちもそうで、しかも彼らは「主が本当に復活されたそうだ」という証言を聞いていたにもかかわらずエルサレムを離れ、エマオに向かっていたのです。

そんな信仰的に下り坂で、言い訳できない状況の彼らにイエス様は現れたのです。彼らはイエス様の弟子として全くふさわしくない状況でした。そんな彼らを見捨てず、イエス様は彼らを信仰に引き戻すため現れたのです。

途中から自分たちと一緒に歩んだお方が、復活されたイエス様だと気が付いた彼らは、逃げ出したエルサレムに帰って証しをしました。彼らはすべての出来事を話したでしょう。主イエスは「本当に復活された」「聖書のお話をしてくださった」「お話を聞いていた時、心が内に燃えた」「私たちのためにパンをさいてくださった」「信じないでエルサレムから逃げ出した我らに現れてくださった」などと彼らは証しをしたのではないでしょうか。その証しは多くのものを励まし、力づけたはずです。また証しを聞いたものは、神の愛を感じたことでしょう。そして今もそれは続いていて、現代の私たちもこの証言を聞いて祝福されます。感謝をいたします。

復活された主イエス様は、今も生きておられ、弟子たちと同じように私たちを愛してくださっておられます。私たちは喜んでその愛を証しつづけたいと思います。主はつたない私たちの証しをとおしてすべてを祝福に導くのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「自分の十字架を」  ルカによる福音書9:21~27(新約P122)  2019年2月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書9章21節~27節です。この箇所から特に23節を中心に導きを受けたいとと思います。

23節に「自分の十字架を背負って」とあります。この言葉は「主のためには死をもいとわず」という厳しい内容の言葉と考えてしまいます。確かにそのとおりなのです。ただ、そんな短絡的な意味だけではないことをおぼえましょう。また「自分の十字架を背負って」という言葉から「自分に与えられたトゲや重荷」のような意味にもとれます。ただ、ここではそのことを語っているのではないと思われます。でも無関係ではありませんが。

今日の箇所は、主イエス様がご自身の死と復活について語っている箇所です。そして23節の言葉が語られています。従ってそんなイエス様に従っていくために「主のためには死をもいとわず」という意味は確かにあるのです。でもすぐに「主のために死ぬ」ことに突き進むようなことを言ってはいないと思います。23節には「自分を捨て」という言葉があります。私たちは頼まれなくても「自分」を大切にします。でもここではその「自分」ではないものを大切にすることが求められているのです。私たちが何よりも大切にすべきお方は「主なる神」です。主に従う道は決して楽とは限りません。時に忍耐や苦難があります。私たちは大切にすべきお方を第一にするために「自分」を捨てる必要があるのです。「十字架」は私たちに「永遠の生命」をもたらします。そして「自分を捨て」従うときに私たちは祝福を受けるのです。

また「自分の十字架」は神が愛する私たちにくださるものと関係しています。それは私たちの「賜物」だったり「置かれている状況」もそうです。主のために「自分を捨て」主のためにすべてを受け入れて歩む必要があるのです。他人の「賜物」を羨んだり、自分の状況を呪ったりするのではなく、主のために歩みましょう。それが「自分の十字架を背負って従うこと」につながるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰をもって見る」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:16~18(新約P329)  2019年2月10日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節~18節です。この箇所から、信仰をもって歩めるように導かれたいと思います。

今日の聖書の箇所にはいわゆる対句的な言葉が2つ出てきます。1つは16節に出てきますが、「外なる人」と「内なる人」です。この「外なる人」とは私たちの肉体のことでしょう。そして「内なる人」は私たちの内面の心や精神といったものだと思われます。確かに肉体は衰えます。しかし私たちの内面は神が働くとき、逆に日々新たにされるのです。肉体にハンデを負った人はこのみ言葉に励まされるでしょう。肉体は完全ではなく衰えます。しかし17節にありますがその艱難は一時なのです。

もう1つは18節にありますが、「見えるもの」と「見えないもの」です。ここでいう「見えるもの」とはこの世的、そして人間的なものでしょう。それに対して「見えないもの」とは霊である神であり、キリストご自身を復活させ、私たちも同じように復活させて永遠の命をくださるお方とその力を指すのです。人は「見えるもの」に価値をおきます。また「見えるもの」人にとって分かりやすいのです。つまり人間的、そしてこの世的なものなので、人がコントロールできるのです。一方「見えないもの」は私たちにはかり知ることのできないものです。「見えるもの」には限界があり、過ぎ去ります。しかし「見えないもの」の力は人の力をはるかに超えるもので、また永遠に続くのです。私たちは当然「見えないもの」を選び取る必要があります。

18節に「見えないものに目を注ぎます。」とあります。「見えないもの」に目を注ぐことは、人間的には不可能です。「信仰によって」見るのです。この世的、人間的には「見えないもの」は存在しないことになります。しかし私たちは見えない神を信じましょう。見えない神ですが、間違いなくおられ、私たちにその無限の愛と力をくださるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神を喜ばせることで」  ローマの信徒への手紙12:1~8(新約P291)  2019年2月3日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙12章1節~8節です。この箇所から、賜物によって神を喜ばせられるようにされていきたいと思います。

今日の聖書の箇所は「こういうわけで」という言葉で始まります。これは直前の11章35節~36節を受けているとか、1章から11章まですべてを受けているとか考えられます。どちらにしてもここでは思い切って「キリスト者であるなら」「神の愛を受けている者なら」と考えたいと思います。そういう者であるなら「神の喜ばれるいけにえ」としてささげられなければならないのです。でも「神の喜ばれる」というのはかなり難しそうです。私たちが相手を喜ばせようとして、どうしたら喜ばれるかは悩むことがあります。こんなプレゼントを喜ぶかどうか判断に迷ったりもします。神様は何を喜ばれるのでしょうか。判断が難しいように思えます。

ただそう難しく考えなくても良いのです。なぜなら神は私たちを愛しています。愛する者からの好意は相手を喜ばせます。私たちを愛しておられる神は、たとえ弱くつたなくても、私たちのキリストの体の部分としての行ないを喜ばれるのです。また6節には、神の恵みによって私たちに賜物が与えられているとあります。賜物は神が下さったのです。その与えられた賜物を用いることは神を喜ばせるはずです。しかもキリストの体の部分としての働きに用いるのです。神を喜ばせるために、賜物を用いて、キリストに結ばされた部分として歩んでいきましょう。また主なる神は恵みによって賜物を私たちに下さいました。罪ある私たちは弱く、つたないことしかできません。しかし賜物を下さった神は、その賜物をとおして私たちに力を下さるのです。神は私たちと共に歩み、私たちに力を与え、私たちの働きを喜んで下さるでしょう。

神は私たちを愛して下さっています。私たちも神を愛しましょう。愛する神を喜ばせることが私たちのさらなる祝福につながるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主は見つめられた」  ルカによる福音書22:54~62(新約P156)  2019年1月27日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書の22章54節~62節です。この箇所から、神の大きな愛をおぼえ、神を信じて歩んでまいりましょう。

今日の聖書の箇所は有名な「ペトロが主イエスを3度知らないと言った」箇所です。イスカリオテのユダが主イエスを裏切ったことはよく知られていますが、ペトロも主イエスが十字架に架かる直前に「主イエスを3度知らない」と言いました。ペトロも主を裏切ったのです。このことを主イエスは予告していました。ペトロはイエス様の言葉を否定して「どこまでもついていく」とイエス様に申し上げました。しかし現実は、ペトロは弱さを見せて、イエス様が言われたとおり、3度も「知らない」と言ったのです。

ペトロが「知らない」と言ったとき、ちょうどイエス様がペトロを見つめていました。このときのイエス様はどんな思いでペトロを見ていたのでしょう。どんな目で見つめていたのでしょう。「ほら見ろ私が言ったとおりだ」でしょうか。「やっぱり裏切ったか、憐れな奴だ」でしょうか。そのようなペトロを非難するようなものではなかったと思います。ペトロはこの後「外に出て激しく泣いた」のです。ペトロを非難するまなざしだったら、彼は否定し続けるか、せいぜいうなだれるかでしょう。イエス様の目は決してペトロを咎めるものではなく、むしろそんな弱いペトロをさらに愛するまなざしだったのでしょう。自分を裏切る者を「赦す」を超えて「愛」しておられるのです。感謝します。

ここはペトロにとってやり直したい場面でしょう。でも主を信じる私たちはこの主イエスのまなざしを忘れずに宣べ伝えてきました。確かにこの場面で、主イエスが愛のまなざしを向けたのはペトロです。しかし、その愛の対象はペトロだけではありません。私たちも主の前には赦されない罪人です。そんな救いようのない私たちを、主はペトロと同じように愛して下さっているのです。その愛を信じましょう。主は罪人である私たちを愛し、救って下さるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「大いなる力を持つ神」   ダニエル書6:12~25(旧約P1390)  2019年1月20日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書のダニエル書6章12節~25節です。この有名な箇所から、大いなる力を持つ神をおぼえて歩んでまいりましょう。

ダニエルはバビロン捕囚にあってバビロンに連れていかれたユダヤ人の内の一人でした。ダニエルは神に恵まれ、知識と才能に満ちた能力の高い人物でした。ダニエルはその賢明さにより、バビロンの王に徴用され、後にはバビロンに代わって治めたペルシャでも、王に愛され高い地位が与えられました。今日の箇所はペルシャの王ダレイオスにダニエルが仕えていたころの話です。ダニエルが他の高い地位にある大臣たちと比べても優れているので、王は特にダニエルを用いました。それに嫉妬した他の大臣たちがダニエルを陥れようとしたのです。彼らの策略によって王が出した勅令により、神を拝んだダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになったのです。

15節によると王は悩み、ダニエルを助けたいと、ありとあらゆる努力をしたようです。しかしダニエルを救うことはできませんでした。ダレイオスは王です。自身の能力の他に権力もあります。しかし人間としていくら力があっても、この状況のダニエルを助けることはできませんでした。ダレイオス王は万策尽きましたが、17節によるとダニエルの信じる神に祈ったのです。すると神の導きにより、ダニエルは獅子から危害を受けることなく助けられました。23節によれば「神は天使を送って獅子の口を閉ざした」結果でした。大いなる力を持つ神のなせる業だったのです。

ダニエルは能力ある人間でしたが、それ以上に神を信じていました。またダレイオス王は、やはり力を持っていましたが、万策尽きて神に願いました。私たちの信じる神は全知全能の大いなる力を持つお方です。そして神はその力を愛ゆえに私たちのために用いるのです。たとえ万策尽きても、たとえ限界が来ても、大いなる力を持つ神は私たちを導いてくださるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主と共に福音を」  フィリピの信徒への手紙1:3~6(新約P361)  2019年1月13日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章3節~6節です。この箇所から、共に歩みつつ福音宣教を成し遂げてくださる神をおぼえましょう。

聖書にある教会あての手紙は、内容的に厳しいものも少なくありません。中には冒頭から厳しい言葉が記されているものもあります。一方このフィリピの信徒への手紙は内容的にも喜びや賞賛があふれる手紙です。今日の聖書箇所でもフィリピの教会がほめたたえられています。それはフィリピの教会が「福音にあずかって」きたからです。これは「福音を広めてきた」ということでつまり「伝道」に励んできたことを意味しています。ただ「伝道」には直接的なものから間接的なものまでいろいろな要素があります。この「福音にあずかって」というのは教会で行われるありとあらゆる営みすべてがそうなのです。

フィリピの信徒への手紙1章6節によるとこの「福音にあずかる善い業」を神がキリスト再臨までに成し遂げてくださるとあります。この成し遂げるまでのプロセスは、ある時急に到達するのではなく、階段を一段一段登るように積み重ねられ到達するのです。全知全能の神には不可能はありません。急に成し遂げることもできるのです。でも「一段一段」「一歩一歩」進められるのです。どうしてでしょうか。それは私たちと共に歩みつつ「福音の宣教」を成してくださるからです。神と違い弱い私たちは少しずつしか進めません。神はそんな私たちと共に歩んでくださるのです。ですから時に進んでいるのか分からないようなときもあるでしょう。しかし神の業でもあります。着実に進んでいるのです。また弱弱しい歩みのようにも感じるでしょう。しかし神の業ですから力強いのです。神が共に歩んでくださることを感謝いたします。

私たちの教会も及ばずながらフィリピの教会のように神の始められた「善い業」に取り組んでまいりました。これからも主と共に歩んでまいりましょう。「一段一段」「一歩一歩」主と共に福音にあずかってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛することで与えられ」 マタイによる福音書22:34~40(新約P44)  2019年1月6日 大竹敏生

 

本日は2019年最初の主日礼拝です。有名なマタイによる福音書22章34節~40節をとおして、神を愛することによる祝福を学びましょう。

今日の聖書箇所では「愛する」ことが大切なことと記されています。その愛の対象は神と隣人です。ただ「神を愛すること」と「隣人を愛すること」は別々ではなく「神を愛する」ならば「隣人を愛する」べきなのです。どうして神を愛するのでしょう。それは、私たちは救いをはじめとして神から多くの恵みを受けているからです。どれほど感謝しても、どれほど愛しても足りないほどなのです。ただ「愛」という言葉から感じるイメージはどうでしょうか。そんなに高くないかもしれません。「愛」は本能的な面があります。人は別に深く考えなくても「愛して」しまう面があります。何か探求したりして得られるようなものではない面も「愛」にはあるのです。ただ私たちは「愛しつづける」必要があります。確かに主は私たちを愛し、私たちを罪から救ってくださり、恵みや祝福をくださるすばらしいお方です。私たちが愛すべきお方です。でも私たちがこの方を「愛し続ける」のは弱い私たちには困難なのです。愛の主の恵みや祝福、そして何より救いを思い、愛しつづけましょう。

また神への「愛」は私たちをさらに祝福するのです。私たちの信仰の歩みについてはいろいろなものを必要としています。その必要なものを主からいただく必要があります。「愛」はある面本能的に感じます。また「愛」は理由があってするものに感じます。私たちが愛するのは、その対象が「愛される」理由があるのであり、その上本能的に「愛」は出てくるように思えるのです。従って私たちが「愛する」ことによって、何かが生まれてくることには思いが行きません。しかし、実は私たちが「愛する」ことにより、私たちにはいろいろな祝福が与えられるのです。聖書で私たちに「愛する」ことが命じられているのは、それにより私たちに必要な祝福が与えられるからなのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「万事を益と信じて」  ローマの信徒への手紙8:26~30(新約P285)  2018年12月30日 大竹敏生

 

本日は今年最後の主日礼拝です。ローマの信徒への手紙8章26節~30節をとおして導かれ、2018年の祝福を感謝し、2019年を迎えましょう。

本日の聖書箇所は有名な箇所で「人の弱さ」に対して「神の強さ」が記されています。人は26節によると祈ることすらおぼつかないほど弱いのに、神は28節によれば「万事を益に」するほどの強さを持っておられるのです。この「万事を益に」というのは並大抵の力ではできないことです。神は弱い私たちを用いてくださいます。その上で「万事を益に」するのですから大変なことなのです。私たちでも計画とは違うことが起きたとき、それを補うのは困難です。まして「万事を益に」するのですから大変です。「万事を益に」というのは全知全能の神だから出来、全知全能の神にしか出来ないことなのです。

神は「万事を益に」して下さるのですが、その益は誰の益でしょうか。まず最優先されるのは神です。神のための益が最優先されるのは当然のことです。ただ神は私たち人間を愛しておられます。従ってこの「万事を益に」ということは私たちにとっての益にもなるのです。私たち人間でも愛する人のために、時に自分以上にその人のために行動します。まして神はこの上なく私たちを愛しておられます。神は私たちにとって最も益なことをして下さるのです。このような愛と力の神を感謝いたします。

だとすれば私たちはどうしたら良いのでしょう。それは神のその愛と力を信じることです。今年ももうすぐ終わり、新しい年を迎えます。私たちの歩みは継続されていくのです。弱い私たちの出来ることは限りがあります。しかし限りない力を持つ神が「万事を益に」してくださいます。それを信じて神さまのために歩みましょう。神は私たちと共に歩んでくださり、今年がそうだったように新しい年も神は「万事を益に」してくださるのです。私たちはこれからも「万事を益と信じて」歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「人となって世に来た」   ヨハネによる福音書1:6~14(新約P163)   2018年12月23日 大竹敏生

 

本日は今年のクリスマス礼拝です。ヨハネによる福音書1章6節~14節から学び、今年も喜びと感謝をもってクリスマスを迎えましょう。

今日の聖書の箇所に「言」という単語が出てきます。そしてこの書の最初のヨハネによる福音書1章1節に「言は神であった」とあります。そしてこの「言」がこの世に来られたとありますから、この「言」がクリスマスに誕生したイエスキリストであることが分かるのです。この世に来られた救い主は、神であられたにもかかわらず人間として誕生したのです。「神が人となられた」これがキリスト教の神髄なのです。救い主は罪があってはならず、そして人間である必要がありました。救い主イエスキリストは罪がない神であり、また人としてお生まれになりすべての信じる者を救われるのです。

神でありながら人となられたのは、神が私たちを愛しておられるからです。神はまた人としてお生まれになり、さらに私たちと同じようにこの世に住んで下さいました。罪が無いこと以外、私たち人間と同じように歩んで下さったのです。そのような救い主ですが、お生まれになった時から救い主にふさわしい対応を人はできませんでした。今日の聖書箇所にあるように、人はバプテスマのヨハネが証しする光の救い主を認めず、最後は十字架につけるに至ったのです。でもそれが神のみ心でした。誕生の際、家畜小屋でお生まれになったのもすべての人を救うお方であることを示していますし、十字架に架かったのも罪ある人間の代わりとなって下さったのです。1つ1つが神のみ心のままに進められた偉大な救いの計画であったのです。感謝いたします。

救い主は神であられながら、人間としてお生まれになりました。しかも貧しい姿で、家畜小屋でお生まれになりました。しかしその救い主こそすべての人を愛し、救う唯一の救い主です。私たちは今こそ、救い主に栄光をお返しし、私たちのためにお生まれになった救い主を感謝し、証ししてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神のご計画の中に」  ルカによる福音書1:26~38(新約P100)  2018年12月16日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第三主日です。本日は有名なルカによる福音書1章26節~38節の受胎告知の場面から学んでまいりましょう。

救い主の誕生は、旧約聖書にいくつも預言が成され、神にとっても大切なことでした。そしてその救い主誕生に関しては、神のご計画の中、進められてきたのです。今日の聖書箇所は、そのご計画の中でも重要なところです。救い主は人間の罪を負うのですから、まず人間である必要がありました。そして同時に罪が無いものでなくてはなりませんでした。人間は誰もが罪を持っています。人間でありながら罪が無いということは、人間でありながら同時に神でなくてはならなかったのです。従って救い主は、おとめマリアが聖霊によって身ごもった結果として生まれる必要があったのです。救い主誕生の計画が進められていき、天使によってこの箇所でマリアにそのことが告げられたのです。

34節でマリアは天使に、男の人を知らない自分がどうして身ごもるのかと尋ねています。それに対する天使の答えは「神にできないことは何一つない」でした。マリアがこのことを知らなかったとは思えません。マリアが質問したのはむしろ、婚約中の自分の結婚こと、また律法によれば殺されても仕方がない自分の状況が気になったのでしょう。またそれが分からないはずのない天使が、そのことを無視するような答えをしたのはなぜなのでしょうか。これはすべて分かった上での「神にできないことは何一つない」という答えだったのでしょう。マリアの心配も大丈夫だということだったのです。現に神の計らいですべてが守られました。明白に答えなかったのはむしろマリアに「信じなさい」という励ましだったのではないでしょうか。

神のご計画は確実に進みます。しかし神はご計画を、私たちを無視して進めません。マリアやヨセフを顧みて計画は進められたのです。私たちも神のご計画の中、忘れられることなく愛されて歩むことができるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛と正義と平和の王」   イザヤ書11:1~10(旧約P1078)   2018年12月9日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第二主日です。救い主誕生の預言はイザヤ書にいくつかあります。今日はそのいくつかある救い主誕生の預言の中のイザヤ書11章1節~10節から学びましょう。

誕生する救い主に関して、今日の聖書箇所から分かるのは「誰の子孫として生まれるか」ということです。1節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」とあります。エッサイは有名なダビデ王の父です。ダビデの名ではなくエッサイの名が用いられているのは、この世的な評価の高い低いではなく、誰でもこの方によって救われることを示しているのではないでしょうか。すべての人を救う、大きな愛の救い主を感謝いたします。

また5節によればこの方は正義の救い主です。「正義」という言葉からは時にある種の冷たさのようなものを感じます。それは人による正義に限界があることを意味します。このお方の正義は人による正義とは違い、愛に満ちた豊かなものです。だからこそ4節にあるように「弱い人のために正当な裁き」を行なうことができるのです。人には無い完全な正義を持たれる救い主を感謝いたします。

そしてこのお方は平和の救い主です。このお方の平和も人のものとはスケールが違います。6節~8節に記されている内容は、常識では到底考えられないものです。これはこのお方の作り出す平和が人にはできないレベルのものであることを示しています。

人は罪がるゆえに救われなくてはなりません。罪があるゆえに弱い者をも正当に裁かれる必要があります。また罪があるゆえに正しい平和を必要としています。エッサイの子孫としてお生まれになったイエスキリストは愛と正義と平和の王としてお生まれになりました。このお方を信じて歩んでまいりましょう。与えられた愛と正義と平和の王を感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「用いられる喜び」  フィリピの信徒への手紙4:10~20(新約P366)  2018年12月2日 大竹敏生

 

本日から今年のアドベント(待降節)となります。今年もクリスマスを、喜びをもってむかえたいと思います。また本日は日本バプテスト連盟の今年の世界バプテスト祈祷週の最終日です。本日はフィリピの信徒への手紙4章10節~20節から学び、少しでも世界宣教を担う者とされてまいりましょう。

このフィリピの信徒への手紙の著者はパウロですが、このパウロはまさに「世界宣教にたずさわる人物」でした。彼の働きを支えたのはもちろん神です。そしてその神は多くの場合、人を用いるのです。パウロの世界宣教の働きは、神がアンティオキアの教会に示し、アンティオキアの教会の人たちがパウロを支えました。そしてアンティオキアの教会だけでなく、いろいろな人が神の導きによりパウロを助けました。今日の聖書箇所から、フィリピの教会もパウロをおぼえ、贈り物をしたことが分かります。パウロはこのフィリピ教会の贈り物をとても喜んでいます。何がそんなにパウロを喜ばせたのでしょうか。

1つはフィリピ教会がパウロのことを思ってくれたことです。パウロは時に孤独感を感じていたようです。そんなパウロにとって彼を思いやる贈り物には励まされたはずです。また14節に「よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」とあります。フィリピの教会の行為は「パウロと苦しみを共にする」ことだったのです。つまり世界宣教につかわされているパウロと同じように世界宣教を担っていることにつながっているのです。またさらにこのフィリピ教会の行為はフィリピの教会の祝福につながるのです。パウロは神のため、自分のため、そしてフィリピ教会のために喜んでいるのです。

私たちは世界宣教にたずさわる方々のために祈りましょう。またこの働きのために献げましょう。パウロを支えたアンティオキアの教会のように、またパウロに贈り物を贈ったフィリピの教会のように世界宣教をおぼえて祈り献げましょう。神はきっと喜んで下さるに違いありません。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主によらなければ」  ヨハネによる福音書14:1~14(新約P196)   2018年11月25日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書14章1節~14節です。この中から特に6節の言葉を中心に神のみ言葉から学びましょう。

人はそれぞれいろいろなものを大切にして生きています。ある人はおのれの生き方について正しく生きたいと考えます。またある人は健康に気をつかいます。ある人は他人への思いやりを大切にしたりし、ある人は喜びを追求し、そしてある人は神のような絶対者を求めるのです。これらは皆、間違ったものを求めているとは言えません。ただこれらの人たちの多くが間違った求め方をしているのです。そうです。私たちの多くがこれらのものを、たとえば自分に求めるのです。また他の力のある人に求めたりもします。しかし罪ある人間には無理なのです。人は正しく生きられず、永遠に生きられません。また他人を愛せず、喜べず、間違ったものを神にしてしまうのです。私たちは間違えないで求めなくてはなりません。ではどなたに求めたらよいのでしょうか。6節に「わたしは道であり、真理であり、命である。」とイエス様の言葉が記されています。イエス様こそ神につながる道であり、本当の神であり、永遠の命を与える救い主なのです。

私たちは罪があり、私たちと神の間には大きな断絶があるのです。この間を埋めるために人は全く無力です。イエスキリストこそこの間を唯一埋めることができるお方です。この方によらなければ神との正しい関係に入れません。救われません。正しく歩めません。父なる神と一体である主が私たちを愛し、救ってくださるのです。主は私たちの神であり、救い主なのです。

私たちは主の救いを受けるために主を信じましょう。主は私たちに永遠の命を与え、天に住まいを備えてくださいます。私たちの肉体の死の後は保証されています。また私たちのこの世での歩みをも導いてくださるのです。生きているときも死んだ後も主である神に感謝いたします。主を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「この上なく愛されて」  ヨハネによる福音書13:1~20(新約P194)  2018年11月18日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書13章1節~20節です。イエス様が弟子の足を洗うこの有名な箇所から主の愛を学びましょう。

イエス様が十字架に架かる直前に、イエス様が弟子の足を洗うということが起こりました。足を洗うのは僕のする仕事です。通常ではありえないことが起こったのです。弟子たちはさぞ驚いたでしょう。ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください。」と言っていますが気持ちがよく分かります。

イエス様は何故弟子の足を洗ったのでしょうか。その理由は愛です。1節に「弟子たちをこの上なく愛し抜かれた」とあります。愛するがゆえにあえて僕のようにへりくだって弟子のために足を洗ったのです。また「洗わないでください」と言ったペトロに、そうしたらイエス様とペトロは「何のかかわりもないことになる」と言われました。このイエス様の言葉は何を意味しているのでしょうか。これは、私たち罪人は主イエス様の徹底したへりくだり無しには歩むことはできないということを示しているのではないでしょうか。私たちは救いを含めて主なしには生きられないのです。助けていただく資格のない私たちは、足を洗うように仕えてくださる主の愛によって歩めるのです。ペトロはこの後、試練にあいました。彼は「主を知らない」と3度も言ったのです。つまりペトロは主を裏切ったのです。しかし彼は主に立ち返りました。自分の足を洗ってくださった主を思い出したのかもしれません。私たちもそうです。通常ではないほどにへりくだって下さった主の愛の中でしか生きられないのです。弟子の足を洗い、私たちも同じように愛して下さる主に感謝します。

イエス様が弟子の足を洗われた理由として、12節以降に記されていることは「同じように仕え合いなさい」ということです。私たちが主の愛に応えるには「互いに愛し合う」ことが最良ではないでしょうか。主にならって互いに愛し合いましょう。それが私たちの祝福につながるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我々は主を知ろう」   ホセア書6:1~3(旧約P1409)    2018年11月11日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書のホセア書6章1節~3節です。ここから罪ある我らを愛する神をおぼえ、ますます神を愛し慕うことを心がけましょう。

ホセアは北イスラエル王国の末期の預言者です。ホセアは主の命令で淫行の女を妻にしました。その妻がホセアのもとを去り、姦淫を犯す彼女を主の命令通り再び買い戻しています。これは、神はイスラエルの民を愛しましたが、民が神に対して偶像崇拝の罪を犯し神から離れました。しかし神はそれでも民を愛し続けたことを表しています。イスラエルの民だけではなく私たちも主から愛されています。愛される資格は私たちにもありませんが神は愛して下さるのです。感謝いたします。

そんな愛の神についての預言として本日の聖書箇所を読みましょう。1節で「神に立ち返ること」が勧められています。続けて2節にかけて愛の神は私たちを「いやし」「生かし」「立ち上がらせる」と記しています。そして3節で「主を知ろう」と呼び掛けているのです。しかも「主を知ることを追い求めよう」と記すほどのものです。私たちは誰もが「知られたくないこと」があるでしょう。しかし神にはありません。どこまで知っても知り尽くせないでしょう。そしてどれだけ知ってもすばらしいお方なのです。では神を知るためには何が必要でしょうか。聖書を学ぶこと、祈ること、讃美すること、礼拝などの集会に出席することなど、信仰生活を守ることも必要なことです。ただ今日、皆様方にお話ししたいのは「神を愛すること」です。私たちは好きなことや好きな人物について知りたいものです。私たちが神をとことん愛するとき、主なる神を知ろうと追い求めることができるのです。「どうしたら主を知ることができるのか」と問われれば「主を愛そう」とこたえることができるのです。

私たちが主を知ることを追い求めたとき、主は必ず私たちを祝福されます。主なる神を愛し、主を知ることを追い求めてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「すべての者の主」 ローマの信徒への手紙14:7~9(新約P294)  2018年11月4日 大竹敏生

 

本日は召天者記念礼拝で、聖書の箇所はローマの信徒への手紙14章7節~9節です。先に天に召された方々をしのびつつ学びましょう。

今日の聖書の箇所は「主を信じる者が兄弟たちにどのようになすべきか」が記されています。7節と8節はかなり厳しいことが記されていますが、主を信じる者のあるべき姿が記されています。私たちは自分のために生きて、自分のために死ぬのではなく、主のために生きて、主のために死ななくてはならないのです。主に従いつつ歩んでまいりましょう。

言葉の順序から9節は「主が十字架で死んで復活した」ことが記されていることが分かります。主はすべての決定権を持っています。何も十字架に架かって死んでよみがえることをなさらなくても「私を信じる者は皆救われる」と決めてよいのです。しかし主はわざわざ十字架に架かって死んでよみがえられたのです。1つは、これは私たちの罪が途方もなく大きいことを示しています。大きな罪を赦して下さる主に感謝し、主のために歩みましょう。また他の理由として9節に「死んだ人にも生きている人にも主となられるため」とあります。私たちは先に召された人たちに対しては全く無力です。しかし主は違います。世の中では、いわゆる「顔が利く」人にものを頼むことがあります。しかしそれはいつも有効とは限りません。死んだ人には全く無力な私たちは「顔が利く」方に頼むのではありません。死んだ人にも「主」なる方にゆだねるのです。死んだ人にも絶対的な主が召された方々を完全に支配しておられます。召された方々は何も憂うることなく過ごしておられるのです。感謝いたします。

死者の主である方は今生きている私たちの主でもあります。そういう主にすべてをお任せし、先に召された方々を思い、先輩方にならって主のために歩みましょう。そしていつか私たちもこの世での歩みを終えます。そして主の前で召された方々とお会いできることを信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰をもって歩もう」 テモテへの手紙Ⅰ6:11~16(新約P389)   2018年10月21日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はテモテへの手紙Ⅰ6章11節~16節です。この箇所から神への信仰をもちつづけることの大切さを学びましょう。

新共同訳聖書の本日の聖書箇所の前には「信仰の戦い」と表題がつけられています。「信仰の戦い」という言葉からは何か厳しいものを連想させられます。実際きびしいのです。私たちは誰もが罪を持っています。従って信仰を持つことが必要なのです。またこの罪によって私たちは弱いのです。そのためこの戦いは普通の戦いとは違う点があります。私たちはこの戦いの相手に対抗できる力を持っていません。私たちは弱いので相手に打ち勝つことは必要ありません。神への信仰から離れないように、信仰を保ちつづけることが私たちの行なわなくてはならない信仰の戦いなのです。

ただ「打ち勝つ必要はない」とは言ってもそれでも厳しいのです。それぐらい私たちの罪からくる弱さは深刻なのです。11節でパウロはテモテに「神の人よ」と呼びかけています。パウロの立場からすればテモテに対してもっと上から呼びかけても何も問題ありません。ただここではパウロは「神の人よ」と言うのです。テモテも「信仰の戦い」を逃れることはできません。パウロは実の子のように愛する弟子テモテに対して「神の人よ」と言っています。「信仰の戦い」を勝ち抜くためには神にゆだねて神の力を借りて歩む必要があるのです。テモテも決して強い人ではなかったようです。そんなテモテを愛するパウロは「弱くても神にゆだねて歩めば大丈夫」と教えているように思えます。

パウロがテモテを愛した以上に神は愛しています。そしてその神の愛は私たちにも注がれているのです。私たちも「信仰の戦い」をなさなければいけません。私たちもテモテと同じように弱いのです。でも神によって歩みましょう。私たちが信仰をもちつつけて歩み終えたとき、私たちは永遠の命を手に入れることができるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「試練を恐れるな」 コリントの信徒への手紙Ⅰ10:11~13(新約P312)  2018年10月14日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ10章11節~13節です。この箇所の13節を中心に、私たちを守り導く神の愛を学びましょう。

私たち人間は誰でも悩みがあります。生きている間、何も問題なく人生を送れる人はまずいません。ヨハネによる福音書16章33節にもそのことが記されています。私たちの歩みに悩みや苦しみ、問題はつきものなのです。ならば私たちは「困難に遭わないようにする」ことより「困難に対しての対処」に心をつかうことが大切なのかもしれません。でもその「困難に対する対処は」決して簡単ではありません。だいたい簡単に対処できるならば困難や悩み、問題にもならないでしょう。困難や苦難、悩みなどは一体何ゆえに私たちに起こるのでしょうか。聖書では私たちは誰もが罪をもっていると教えます。その罪が私たちを苦しめ、悩ませるのです。つまりこの罪を解決することこそ一番の対処方法なのです。

本日の聖書箇所には、神が試練と共に逃れる道を備えると記しています。罪の解決は私たちにはできません。神にしかできないのです。神は私たちを救ってくださり、苦難にあえぐ私たちを助けてくださるのです。今日の箇所ではこの困難や悩みを試練と言います。つまり神がこの試練をとおして私たちを祝福してくださるのです。私たちはそれを約束と信じて歩まなくてはなりません。困難からの脱出の道を用意してくださる神は、その道を求める私たちを愛し、共にいてくださり、力をくださるのです。そして脱出の道を歩み出たとき、私たちは成長させられているでしょう。だから試練なのです。

困難の中にあるとき、それはあまいものではありません。厳しいものです。しかしその困難は避けられないものです。でも神が共にいてくださり、そこから脱出させてくださるのです。その後は、私たちは信仰が成長させられているでしょう。私たちは試練を恐れる必要はないのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神をしたい求めよ」     詩編42:2~6(旧約P875)   2018年10月7日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書の詩編42編2節~6節です。この中から特に有名な2節を中心に神のみ言葉から学びましょう。

2節に「鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」とあります。これは技術的には困難なことではありません。しかし私たちは素直に神をしたい求めることができないのです。何が素直にさせないのでしょうか。私たちが何かを求めるとき、直線的に行動しないことがよくあります。1つは照れのようなものがあるのではないでしょうか。周りの自分への評価を気にしたり、こちらから動くよりもむしろ相手の側からの働きかけを期待したりしてしまうことがあるのです。また求めるものを得るために自分にその資格があることをアピールしたり、対価を用意したりして、素直に求めることをためらわせたりするのです。

確かに世の中では素直に、直線的に求めてもうまくいかないことが多いのです。しかし今日の聖書箇所にある「神をしたい求めること」についてはそういう心配はいりません。「神をしたい求めること」は、神がむしろそれを望んでおられます。それを喜んで受け入れてくださるのです。私たちが神をどれほどしたい求めても、求めすぎということは無いのです。また世の中のものは、求めても与えられないことがあります。しかし「神をしたい求めること」は私たちが求めれば間違いなく与えられるのです。だから少しもためらうことなく神をしたい求めていきましょう。また鹿にとって生きるのに水が必要です。それと同じように私たちには神が必要です。神をしたい求めて歩みましょう。

私ももうかなりの年齢になりました。今日の箇所の言葉は子ども向けなのかと考えていたこともあります。でも年を重ねてきて感じることは、むしろ今神をしたい求めつつ歩む必要ことが大切ということです。これからも神を待ち望みつつ、神を愛し、神をしたいつつ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主のために歩もう」  ヨハネによる福音書6:1~15(新約P174)  2018年9月30日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書6章1節~15節です。いわゆる「五千人の給食」と呼ばれる記事です。すべての福音書に記されているこの「五千人の給食」の出来事からはいろいろな神の恵みを学ぶことができます。本日は私たちの弱さを補い、さらに祝福される神の愛を学びましょう。

ここには成人男子だけで五千人がいました。つまり5000人以上の人物の食事を用意する必要があったのです。しかし弟子たちの前には少年の持っていた5つのパンと2匹の魚だけしかありませんでした。それをイエス様は用いて5000人以上の民のお腹を満たしたのです。5つのパンと2匹の魚を何千倍以上に増やしたのです。ものすごい出来事ですが、神は全知全能ですから当然のこととも言えるのです。

全知全能の神にしては不思議なのは、5つのパンと2匹の魚しかなかったものを全て用いたところです。「いらない」でも「パンと魚1つずつでいい」でもなく全部用いました。ここに神の愛を感じます。私たちを愛する神は、私たちがわずかしかできなくてもそれを喜んで受けて用いるお方なのです。しかも神の御用のために足りないところを補い、あるいは増やしたり整えたりしてくださるのです。

私たちもわずかしかできない、わずかしか献げられない弱い者です。しかし私たちも愛されています。私たちができる限りを尽くしても到底及ばないことがあるでしょう。しかし神は私たちのそのできたことを、献げたことを喜び、それを用いて最善になさるのです。感謝をいたします。また本日の箇所の出来事は「弟子の訓練」という目的でなされた面があります。このことをとおして成長があったのです。つまり私たちができる限りをつくして神のために歩むとき、私たちは大きなことができ、またそれに加えて私たちが成長させられるのです。主のためにできる限りを尽くして主のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救いは神の愛によって」  ヨハネの手紙Ⅰ4:7~21(新約P445)  2018年9月23日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネの手紙のⅠ4章7節~21節です。この有名な箇所から主の愛と救いについて学んでまいりましょう。

「神」というとどのようなイメージでしょうか。やはり「力」ではないでしょうか。たくさん神がいるギリシャ神話でも主神は「力」の神です。神に対するイメージとして他に「正義」というイメージもあります。私たちが信じる神も「全知全能」の神です。また「義なる」方です。ただ聖書が示す私たちの信じる真の神は「力」や「正義」以上に「愛」が強調されるのです。今日の箇所にも「神は愛」という記述があります。私たちの神は「全知全能」で「義なる」方ですが、それ以上に「愛」の神であると聖書は語るのです。

確かに「力」で救いを起こすことも可能でしょう。しかし神は完全でも私たちは違うのです。罪があって弱く自分で自分を救うことができない私たちです。その私たちの救いは神の「力」だけでは起こりません。自分で自分を愛せない私たちです。そうさせているのが「罪」です。そんな罪ある私たちのどこに「救い」を得る資格があるのでしょうか。

神は私たちの「罪」を憎みます。軽く見てはいません。「いいよ。いいよ」と簡単に赦しているのではないのです。神が嫌悪する罪を私たちは持っています。だから「力」だけでは救われません。嫌悪する罪を赦すものが神にあるのです。それが「愛」です。愛の神だから私たちは救われるのです。

私も自分の罪を意識したときショックでした。自分を赦せないと思いました。そんな私を神は赦し、愛して下さっていると知ったときに初めて神の「救い」が分かったような気がします。神の愛による救いを感謝いたします。

私たちには罪があります。だからときに「救われる資格はない」と自己嫌悪に陥ることもあります。しかし神はそれ以上に私たちを愛しています。無くなることはない神の愛に感謝し、信じて救いを受けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に仕えます」    ヨシュア記24:14~18(旧約P377)  2018年9月16日 大竹敏生

 

本日は「高齢者をおぼえる礼拝」です。その日に主から示された聖書箇所は旧約聖書のヨシュア記24章14節~18節です。この箇所から主に仕える恵みを知り、主に仕えることを心がけて歩んでいきましょう。

今日の聖書箇所は高齢となったヨシュアの告別の言葉です。ヨシュアは会衆に向かって14節で「主に仕える」ことを命じ、15節で会衆がたとえ偶像に仕えることを選んでも「わたしとわたしの家は主に仕えます。」と語りました。この言葉にヨシュアの神への強い信仰が見て取れるのです。

ヨシュアのこの言葉は彼の生涯にわたっての体験や経験からのものです。カナンの地に入る前から、そしてカナンの地に入ってからもモーセに従って歩み、神の奇跡を目の当たりにし、神への信仰を固くして歩んできたのです。そして「真の神はこの方だ」と確信していました。

それに対してイスラエルの民はどうだったでしょうか。多くの奇跡を体験していたのに、神につぶやいたりしてきました。またヨシュアの言葉から以前から偶像を拝んできて、この時も真の神以外のものを信じていたりしていたようです。そういう民にヨシュアは主に仕えるように強く勧めました。ただヨシュアは「あなたたちは主に仕えることができない」とも言っているのです。

「わたしとわたしの家は主に仕えます。」という言葉はヨシュアの強い信仰からくる言葉です。この強さは「粘り強さ」も持っています。信仰は強く、そして継続する必要があります。民が主の奇跡を見て信仰が燃え上がっても、もろくも信仰が失せてしまう様子を見てきました。しかしヨシュアは生涯の体験を通して成長し、固く、粘り強い信仰をつちかってきました。他が安易な偶像に流され神から離れても、神から離れず信仰を守り通してきました。そしてこれからも「主に仕える」と力強く、そして当たり前に語りました。私たちもヨシュアのように信仰に立って主に仕えてまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の前にできること」    列王記下20:1~7(旧約P614)  2018年9月2日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書の列王記下の20章1節~7節です。この箇所から導かれ、神の前にできることをしていくことを心がけたいと思います。

今日の箇所には南ユダ王国の王ヒゼキヤという人が出てきます。この人は神の前にたいへん善い王でした。あのダビデ王に匹敵する王でした。そういう優れた王でしたが、死が迫っていました。ヒゼキヤが信頼し、友であり、共に南ユダ王国を導いてきた預言者イザヤによってそのことが告げられたのです。

私たちは誰もが死の前には無力です。人間は昔から「不老不死」を求めたりしてきました。今も、少しでも長生きできるように健康に気をつかう人、定期的に健康診断をする人、そういう人が多いと思います。でもその試みは完全ではありません。どんなに優れた人も死の前には何もできないのです。ヒゼキヤは優れた王でした。人としての能力も優れていたことと思います。そんなヒゼキヤも死を前に何もできませんでした。ヒゼキヤは死の前に確かに無力でした。しかし彼は死を前に無力ではない方に依り頼んだのです。そう神の前に泣き叫んで頼んだのでした。また大預言者イザヤですらも死の前には何もできません。イザヤは友人ヒゼキヤの死の前に何もできずそこを離れました。叫んで祈るヒゼキヤと神を1対1にあえてしたのでしょうか。その立ち去るイザヤに「ヒゼキヤの寿命を15年延ばす」と神は告げたのです。

どんなに優れた人も死に対しては何もできません。でも主を信じる私たちはヒゼキヤのように死に勝つ神に祈ることができます。またイザヤも友人の死に対して何もできませんでした。おそらくイザヤも祈ったことでしょう。そして他にイザヤは預言者として主の言葉を告げました。私たちは無力でも主の前に祈ることができます。また主のために働くこと、また証しすることができるのです。弱い私たちですが、喜んで祈りましょう。奉仕しましょう。証ししましょう。私たちを愛する神は必ずやヒゼキヤのように祝福されるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「不信仰な者を助ける神」 マルコによる福音書9:14~29(新約P78)  2018年8月26日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマルコによる福音書9章14節~29節です。この箇所から、弱く不信仰な私たちを愛し、助けて下さる神を覚えたいと思います。

私たちには罪があります。それゆえに弱いのです。主を信じる者は誰も「不信仰」になりたいと思っていません。でもこの「不信仰」は誰も求めてはいないのに、いつの間にか私たちのところに来ていて、私たちを「不信仰」にするのです。今日の聖書箇所に出てくる「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」に取りつかれた子の父親も、初めは主を信じてやってきました。しかし主イエス様はおらず、代わりに弟子に願いましたが、弟子には解決できなかったのです。子どもはかなりの長い期間霊に憑かれた状態だったようです。「やはり無理だ」と考えてしまい「不信仰」に陥ってしまいました。

23節でそんな父親に主は「信じる者には何でもできる」と諭します。すると父親の「不信仰」は消え「信仰」が復活しました。諭されて信仰がよみがえった父親は24節で「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」主に叫びました。この言葉の意味は「自分は不信仰だったけど信じます。子どもを助けてください。」というような意味だったのかもしれません。ただ「わたしをお助けください。」と言っているのです。「子どもを」や「私たち親子を」ではありませんでした。そして「不信仰を赦して」ではなく「助けて」だったのです。もしかすると父親は本音で「不信仰な自分を助けてください。」と願ったのかもしれません。

私たちは誰もが罪を持っています。この罪の問題は主を信じる信仰によってのみ解決できるのです。しかし「罪は赦された」のであって「罪が無くなった」のではありません。だから私たちは「不信仰」にすぐ陥ってしまうのです。私たちは主からの助けをいただかなくてはなりません。「不信仰な者」を助け、願いを聞いて、子どもを癒した主に従って、信じて歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が共にあって助ける」 ローマの信徒への手紙12:9~21(新約P292)  2018年8月19日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙12章9節~21節です。この箇所から、私たちを助けて導いて下さる神の愛を覚えましょう。

今日の箇所はキリスト者が模範としてどのように歩むべきかが記されています。記されている事柄はいろいろですが、1つ1つが簡単ではありません。私たちはそれぞれ得意不得意があります。どんなに能力がある人でもここに記されている事柄をすべて完全にできる人はいません。悪の誘惑に負ける者、愛せない者、怠慢な者、喜べない者、忍耐できない者、祈れない者、他人を助けられない者、こういう人たちはキリスト者としてふさわしくないともとれるのが今日の聖書箇所です。そして罪があって弱い私たちは実際、上記の事柄を1つできないどころか、いくつも、いや1つも全うできないのです。私たちは苦手なことをするのは困難です。そして得意と思うことすらもできるとは限りません。では模範的キリスト者には到底成ることができないのでしょうか。

この困難なことを達成に向かわせる道があります。11節に「霊に燃え」とあります。この「霊」は「聖霊」という考え方と「私たちの霊」という考え方とがあります。どちらにしてもこの「霊に燃え」は神と関係無しとは言えません。私たちは神によって「霊に燃やされる」必要があるのです。ではそれは具体的にどういう状況になることなのでしょうか。それはたとえば神によって導かれ、喜ぶことです。また神によって元気にさせられることです。私たちが神によって喜びに満たされるとき、私たちが神によって生き生きと歩むとき、私たちはできないことができるように道が開かれるのです。私たちは主のために神によって霊に燃やされて歩んでまいりましょう。

私たちの主なる神は私たちを愛しておられます。私たちが主に喜ばれる模範的な歩みをなすことを求めておられます。だとするならば私たちが「霊に燃え」模範的に歩めるように助けてくださるに違いないのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みの休息」   マタイによる福音書11:25~30(新約P20)  2018年8月12日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書11章25節~30節です。この有名な聖句から、愛の神の恵みを覚えたいと思います。

今日の聖書箇所の28節に「休ませてあげよう」とあります。これは主イエスキリストの言葉で、約束なのです。確かに「疲れている」「苦しい」こういうときには「休み」が必要です。「休み」によって回復する必要があるからです。だとするならば「疲れていないとき」「楽なとき」は「休み」はいらないことになります。私たちは「休み」は非常時に必要としているもので、普通の状況や順調なときには不必要と考えてしまうのです。私たちは疲れたり、苦しかったりしたくはありません。そうなるとできれば「休み」の出番は無い方が良いことになります。「休み」はそういうものなのでしょうか。

結論から言うと私たちには「休み」は必要です。私たちにとって「順調」や「普通」な状況はそれほど多くは無いのです。すぐに「休み」が必要になります。また「順調」「普通」に思えても、実際はそうではないこともあるのです。また、ここでの「休み」は主がくださるものです。この主がくださる「休み」は完全です。私たちの厳しい状況を先延ばしたり、ごまかしたり、応急措置で済ましたりするようなものではなく、私たちの「疲れ」「苦しみ」を完全に癒やす「休み」なのです。

私たちの「疲れ」や「苦しみ」はかなり深刻です。解決する必要があります。ただ私たちの「疲れ」「苦しみ」は、私たちには解決できません。この問題を解決するのが主がくださる「休み」です。私たちの主は全知全能です。そして愛の方です。私たちを愛しておられるがゆえに、私たちが「疲れたり」「苦しむこと」を望んでおられません。主は私たちに喜んで「休み」をくださるのです。そのことを信じましょう。全知全能で愛の主は、これからも私たちに完全な「休み」をくださるに違いありません。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が我らと共に一歩一歩」    箴言16:1~9(旧約P1011)  2018年8月5日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書の箴言16章1節~9節です。箴言は神から知恵をいただいたソロモンが記したと言われています。その箴言のこの箇所から、私たちの歩みを導いてくださる主なる神を覚えたいと思います。

私たち人間の歩みは決して完全ではありません。それどころか非常に危ういと言えるものです。私たちは罪があります。それゆえに弱く、私たちの歩みは危うさに満ちているのです。私たちは、本日の聖書箇所の箴言16章の3節にあるように「主にゆだねて」歩むべきなのです。

9節を見ましょう。この9節は新共同訳聖書では前半と後半が普通につながっています。ただ口語訳聖書と新改訳聖書では前半と後半の間は「しかし」という言葉でつながっています。箴言は対句表現が多く用いられています。この9節も口語訳や新改訳の訳し方の方が良いのかもしれません。ただ私たちがどうであれ、神は私たちの歩みを最初から最後まで導いてくださるのです。

この9節に「主が一歩一歩を備えてくださる。」とあります。私たちの歩みは順調の時もあります。でも時に停滞、あるいは後退していることすらあります。しかし主は「一歩一歩を備えてくださる。」とあるのです。この「一歩一歩」という言葉からはスピード感は感じませんが「停滞」「後退」も感じません。私たちの歩みを主にお任せするとき、その歩みは進んでいないようでも前進しています。またこの「一歩一歩」という言葉からは「確実性」も感じます。神は私たちの歩みを確かなものにしてくださいます。つまり主は私たちをいつも導いてくださり「着実に」「確実に」前に進ませてくださるのです。

私たちは自分の歩みについてはいろいろ考えます。しかしその時、主を忘れがちになるのです。そしてそれは「神について」考えているときですらそうです。主にゆだねて歩みましょう。私たちが主にゆだねて歩むとき、いつも私たちと共にいて導く主は、私たちを「一歩一歩」進ませてくださるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛ゆえに罪に定めない」  ヨハネによる福音書8:1~11(新約P180)  2018年7月22日 大竹敏生

 

本日は伝道礼拝で、聖書箇所はヨハネによる福音書8章1節~11節です。この箇所から、罪を赦して下さる愛の神について学びましょう。

主イエスキリストのもとに姦淫の場で捕らえられた女性が連れて来られました。姦淫の場で捕らえられたのに男性はいません。主イエスを追い落とすための陰謀も疑えるところです。少なくても罪を憎むより、イエス様を追い落とすことが目的の行為でした。イエス様が「女性に石を投げてはならない」と言えば「イエスは律法をないがしろにしている」と主張し、「この女に石を投げよ」と言えば「ローマの許し無しに死罪を言い渡した」と訴えることができると考えたのです。ただイエス様は何も答えず、地面に何か書いていました。何も答えないイエス様に、律法学者たちは問い続けるので、イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と語ったのです。それに対し、石を投げる者は誰もなく、皆立ち去ったのです。

残った女性にイエス様は「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と尋ねます。女性は「主よ、だれも」とこたえました。するとイエス様は「わたしもあなたを罪に定めない」と語りました。「わたしも」と語るイエス様ですが、この女を罪に定めなかった理由は、立ち去った人たちとイエス様は違いました。立ち去った人たちは、罪を犯したことがあるゆえにイエス様の言葉の前に石を投げることができなかったのです。一方イエス様は罪がありません。イエス様はこの女に石を投げることができました。そんなイエス様が石を投げなかったのは愛ゆえになのです。この女性は何か特別なものを持っていたわけでは無いようです。この女性が罪に定められなかったのは、主イエスに愛されていたからでしょう。そしてその無償の愛は私たちにも注がれているのです。これからもイエスキリストを信じ、主による「罪の赦し」を受けて歩みましょう。愛の神はどんな罪も「あなたを罪に定めない」と言って下さるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「すべてをありのままに」  マルコによる福音書5:25~34(新約P70)  2018年7月15日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は、マルコによる福音書5章25節~34節です。この箇所から、主なる神にすべてをゆだねて歩むことを学びましょう。

今日の箇所には「12年間も出血が止まらない女」が出てきます。その女性の苦しみは、私たちの想像をはるかに超えたものであったと思われます。当時の女性の弱い立場、また病気の因果への誤解などが病気の苦しみに加わっていました。そんな中、女性はその大きな苦しみから逃れるために主の服に触れたのです。この「服に触れれば癒やされる」という考えが完全ではないことは女性も分かっていたはずです。でも女性は主の前に直接願い出ることもできずに、こっそりと人に紛れて服に触れたのです。これしかできなかったのです。そんな方法でしたが、この女性本人が驚くほど完ぺきに癒やされたのです。

この時のイエス様は先を急いでいました。しかしイエス様は立ち止まり「私の服に触れたのはだれか」と言われました。先を急いでいる状況を知っている弟子が言っても、イエス様はそこにとどまったのです。つまりイエス様にとってこれは大切なことだったのです。その大切な理由の1つは34節の「あなたの信仰があなたを救った」を含む言葉を女性に語ることだったのでしょう。でもイエス様は女性に言葉をかけるだけではなく、女性の言葉を求めていたようです。しかも女性の「すべてをありのまま」の言葉を求めていたのです。

この女性は何を言ったのでしょう。「服に触れたこと」「病気のこと」「自分の身に起こったこと」は当然語った中に入っていたでしょう。「なぜ服に触れたのか」も言ったでしょう。その他「自分の境遇」や「悩み」「苦しみ」「悲しみ」そして「罪の告白」なども話したかもしれません。彼女は「すべてをありのまま」語ったことで病気だけではなく、霊肉共に癒やされたのです。

私たちも心にある「悩み」「苦しみ」「悲しみ」「弱さ」などをすべて主に語りましょう。主はそれを喜んで聞き、私たちの心を癒して下さるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「霊よ、四方から吹き来れ」 エゼキエル書37:1~10(旧約P1357)  2018年7月8日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は、旧約聖書のエゼキエル書37章1節~10節です。エゼキエル書は、預言者エゼキエルの預言が48章にわたって記されています。エゼキエルはバビロン捕囚のころに預言活動をしていたようです。今日はこの箇所から、神を信じ、神にゆだねて歩む者となることを学びましょう。

今日の箇所で枯れた骨が、霊が吹きつけると生き返ることが記されています。枯れた骨はうるおい1つなく完ぺきに死んでいます。しかし霊はものともしません。とても生き返るとは思えない状況ですが、霊によって命が与えられるのです。今日の箇所の「霊」は「息」とも訳されます。創世記に人間が造られたとき、神は土で人を形づくり、息を吹き込まれ人間となりました。霊は命を与えるのです。霊に不可能はありません。

その霊が四方から吹くのです。これには意味が2つあります。四方から吹くのですから、ありとあらゆるところからととることができます。神の霊はどこにでもおられるのです。そして四方から吹くのですから、私たちはこの霊の吹き付けから逃れられません。つまり神の霊の助けや恵みから漏れる人はいないのです。神は私たちがどのようなところにいても、そしてどのような状況にあっても、必ずそこにいて、必ず助けてくださるのです。感謝いたします。

今日の聖書箇所のすぐ後に、これらの枯れた骨は「イスラエルの全家」だと神が示しています。これはエゼキエルが属していた「南ユダ王国」だけではなく、前にアッシリアに滅ぼされた「北イスラエル王国」も含みます。もうすでに滅びた北王国とバビロン捕囚にあう南王国どちらも回復するのです。確かに「イスラエル全家」は「枯れた骨」のような状況で、回復困難でした。しかし神の霊は完全に復活すると約束しているのです。そしてそうなりました。

私たちにも霊が吹きます。不可能のない神の霊の力によって歩めることを信じましょう。信じて神の霊の働きにゆだねていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「励まし合いなさい」 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:8~11(新約P378)  2018年7月1日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章8節~11節です。この箇所から学び、互いに愛し合い、励まし合って歩む者となりましょう。

テサロニケの信徒への手紙Ⅰの特徴としては「イエスキリストの再臨」があげられます。テサロニケの教会ではこの「再臨」についての疑問がありました。またそのことによる問題もあったと思われます。この手紙の著者のパウロはテサロニケ教会の疑問に答え、また問題点を指摘しています。そして誤解をといています。本日の箇所は「再臨」についての記述があった後、それに続く箇所です。ここでパウロはイエスキリストによって私たちに与えられた救いを信じて、そこから私たちが歩むことを勧めているようです。その勧められていることの1つが11節にある「互いに励まし合う」ことでした。

私たちは、この「励まし合う」ことについて少し軽く見がちの傾向があるのではないでしょうか。「励まし」を悪く思う人はいないでしょうが、それほど大切にも思わないかもしれません。ただ聖書ではかなり重要なようです。まず「励ますこと」はけっこう難しいのです。言葉の選択を間違えたりしたら、励ますどころか傷つけることになります。私たちは全知全能の神に信頼し、主にある「励まし」をしていく必要があります。弱い私たちは、自分が考える以上に「励まし」を必要としています。主を信じる者が「互いに励まし合う」ことで厳しい状況を乗り越えていくことができるのはないでしょうか。

また11節に「お互いの向上に心がけなさい」とあります。私たちが「励まし合う」ことは、弱っている私たちを少しでも良い状況に持っていく働きがあると思われます。しかし聖書ではそれ以上に「お互いの向上」につながるものと記しているのです。私たちが愛し合い、励まし合うことにより、それによって私たちが向上するのです。「励まし合う」ために神に祈り、信仰を増し加えていきましょう。それが私たちの成長につながるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられる新たな力」   イザヤ書40:28~31(旧約P1125)   2018年6月24日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は、旧約聖書のイザヤ書40章28節~31節です。この箇所から、神が私たちにくださる新たな力を覚えましょう。

本日の聖書箇所の31節で、私たちに「新たな力」が与えられると約束されています。「新たな力」が与えられることによって私たちはどのような恵みを受けるのでしょうか。それは少なくても2つあると考えられます。まず1つは今日の聖書箇所に記されていますが「私たちは疲れることがなくなる」とあるのです。私たち人間は誰もが罪からくる弱さをもっています。その弱さは肉体にも及んでいて「疲れ」たりします。しかし与えられる「新たな力」によってまるで燃料が補充されるように私たちは元気にさせられるということなのです。2つ目として考えられるのは、その時に必要な力が「新たに」与えられるということです。以前と同じ力ではなく、今も生きておられる神は、私たちのその時に必要な最善な力を私たちにくださるのです。私たちの置かれている状況は変化します。神はその変化に対応してくださって、私たちの先になり後になり、必要な力を「新たに」与えてくださることを感謝しましょう。

ではその神のくださる「新たな力」を得るために、私たちはどうするべきなのでしょうか。31節に「主に望みをおく人は新たな力を得、」とあります。つまり「主に望みをおく」ことが必要なのです。この言葉から「祈る」ことが示されます。私たちに「新たな力」をくださるのは主です。その主なる神に「新たな力」を願い、祈ることが大切なのです。そしてこの「祈る」ことと関係するのが「信じる」ことです。私たちは主なる神を信じて祈らなくてはなりません。そうすれば神は約束どおり「新たな力」をくださるに違いありません。

主に望みをおいて歩み「新たな力」を得ましょう。その与えられる「新たな力」は、空を飛ぶ鷲のように力強いのです。また鷲が空を飛ぶのに危険を回避するように必要が備えられます。与えられる「新たな力」を感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みへの信頼」  コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1~10(新約P339)  2018年6月17日 大竹敏生

 

本日は、コリントの信徒への手紙Ⅱ12章1節~10節からと導かれています。この箇所から主の恵みを信じて歩む者とされていきましょう。

本日の箇所の7節に、この手紙の著者のパウロに「とげが与えられた」とあります。この「とげ」が具体的に何を指すかについては「何かの病気」「迫害などによる肉体的ハンデ」など、いろいろな説があります。どちらにしてもパウロは自分にこの「とげ」があることが、主のためにならないと考えたのでしょう。8節にこの「とげ」が除かれるように神に3度祈ったと記されています。そのパウロに主が示されたのが9節にある「わたしの恵みはあなたに十分である」という言葉だったのです。

「わたしの恵みはあなたに十分である」という言葉は「現状を受け入れよ」とか「我慢しろ」や「忍耐すべき」などの意味かと考えるかもしれません。しかしパウロはその「とげ」から来る「弱さ」を大いに誇ると9節に記しています。つまり「わたしの恵みはあなたに十分である」という言葉は、この「とげ」が除かれない方が善いという意味なのです。その理由として9節に「力は弱さの中で発揮される」と記されています。これは主が「弱いところ」に力を与えてくださるということです。弱点の克服は大変困難です。しかし弱点克服ができれば大きな力となります。大変困難な弱点克服も神の助けがあります。決して不可能ではありません。主なる神の助けを受けて歩みましょう。

ここでパウロは祈っても何も変わりませんでしたが「弱さを大いに誇る」と記しています。祈っても願い通りにならないことはつらいことです。どうしてこう考えることができるのでしょうか。パウロには神に対する絶対的な信頼がありました。神の導きや恵みを信じていたのです。私たちも思い通りならないことがありますが、神を信じて神の導き、恵みを信じて歩みましょう。神はパウロが体験したように、私たちをより善い体験に導くでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が愛した」   ヨハネによる福音書15:12~13(新約P199)  2018年6月10日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書15章12節~13節です。この箇所から「神が私たちを愛された」ことを学びましょう。

キリスト教では「愛」が強調されます。聖書には「愛」があふれていて、今日の箇所にも「愛」が出てきます。12節に「わたしがあなたを愛したように」と記されています。「わたし」すなわちイエス様が私たちより先に愛してくださいました。この事実が大きいのです。以前「主が愛されたことからいろいろなものを得ることができる」とメッセージをさせていただいたことがあります。神からのいろいろな恵みや祝福は「神の愛」から始まっているのです。私たちはこの「神の愛」を信じて歩みましょう。

12節には続けて「互いに愛し合いなさい」と記されています。「愛し合う」ことはそんなに困難なことではないように思うかもしれません。そう家族や友人を愛することはそれほど難しくはないでしょう。しかし知らない人や敵対する人物を愛するのは困難です。もともと罪がある私たちは「愛する」ことができない存在なのです。しかし、そんな私たちの弱さを知っておられるはずの主が「互いに愛し合いなさい」と言われるのです。なぜでしょうか。それは「主が私たちを愛した」からなのです。主が私たちを愛されました。それは今も変わりありません。主の愛を覚えるとき、愛せないはずの私たちは「愛する」ことができるようになるのです。主の愛に励まされ「互いに愛し合いなさい」を少しでも実践してまいりましょう。

13節には厳しいことが記されています。「友のために自分の命を捨てること」なんて誰ができるでしょうか。13節を読んで私たちが思い浮かべるのは「主イエス様の十字架」でしょう。主はすべての人を愛し、救うために十字架にお架かりになりました。私たちは「互いに愛し合う」という難しいことを行なっていくために十字架による救いを忘れないで歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「自分のように愛せよ」  マルコによる福音書12:28~34(新約P87)  2018年6月3日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマルコによる福音書12章28節~34節です。この箇所から、神による愛を受けて歩む者とされていくことを学びましょう。

この「最も重要な掟」の箇所からは何回もメッセージをさせていただいています。ただ今までは「愛する者となること」をテーマに「第一の掟」を中心に宣教させていただくことが多かったと思います。本日は特に「第二の掟」を中心に考えるように示されています。

「第二の掟」は「隣人を愛しなさい」です。これは実は簡単なことではありません。クリスチャンであっても他者から「愛が無い」などと言われてしまうことがあるのではないでしょうか。ただこの重要な掟を守るように努めなければなりません。そのためにまず考えたいのは「隣人を愛しなさい」の中に入っている「自分のように」という言葉です。私たちは自分を愛することは困難ではありません。隣人を「自分のように」あるいは「自分以上に」愛することができれば「第二の掟」を守ることができるでしょう。隣人を知り愛する者となっていきましょう。またもう1つ考えたいのは「隣人を自分のように愛しなさい」の掟を守るために、神が助けてくださるということです。「第一の掟」の「神を愛しなさい」の掟を守るために私たちはどのように考えているでしょうか。それは神から受けた愛を覚えていくことではないでしょうか。神から愛されているから神を愛することができるのです。何よりも先に神が愛して下さっているのです。「隣人を愛する」ことも、まず私たちを愛して下さったその神の愛から出発していきましょう。

罪があり、愛の無い私たちが愛するためには努力が必要です。神の愛を覚え、隣人を知り、愛しましょう。そこに少しの忍耐と努力が必要なこともあるでしょう。でも神の助けを受けて、少しでも愛することができるようになった時、私たちはさらに祝福され、成長できるのです。愛をもって歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「常識を超えた愛」  ルカによる福音書15:11~24(新約P139)  2018年5月27日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書15章11節~24節で、有名な「放蕩息子のたとえ」からです。ここから神の大きな愛を学びましょう。

この時代のユダヤでは、たとえ財産が分けられても、父が健在ならば、子は父の許可なしにはその分けられた財産を使うことはできませんでした。父の許可をもらうこと無しに財産を使うために、父のもとを離れて放蕩の限りを尽くして財産を無くした弟の行為は弁明の余地もありません。まさに「救いようのない」状況です。普通ならばこの弟のしたことは赦されない行為なのです。

財産を無くし、人として最低の生活を強いられ苦労した弟は、やっと我に返って父のもとに帰りました。さすがに弟も以前のような父との関係を望むことはできず「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言うしかありませんでした。しかし父は弟を赦し、前のように子として迎えたどころか、弟の帰還を喜び、祝宴を開いたほどでした。それは兄が嫉妬するほどだったのです。常識的に考えるならば、父のこの行為はおかしいのです。むしろ兄の方が常識的です。なぜ父はこのような非常識な行動をしたのでしょう。それは父が子を愛していたからです。そしてその父の愛は「常識を超えた」大きな愛だったのです。

ここで登場する父は神のことです。兄や弟は私たちです。私たちは常に神のもとにあって神の愛を受け続けなくてはなりません。さすがにほとんどの人がなかなか弟ほどのことはしないでしょう。でも私たちには罪があります。この罪の問題を解決するのは、神の愛にすがるほかはないのです。私たちも弟のような「弁明の余地のない」行為を犯すこともあるかもしれません。そして誰もが神の前に申し開きをできないような存在だと感じるようなこともあるでしょう。弁明できない私たちですが、神は私たちを、常識をはるかに超えて愛して下さっています。神を信じて、この神の常識を超えた愛にすがって神のもとを離れず歩みましょう。神の愛に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「聖霊の力を待つ」    使徒言行録1:3~11(新約P213)  2018年5月20日 大竹敏生

 

本日は今年のペンテコステとなります。そのペンテコステの礼拝の聖書箇所は使徒言行録1章3節~11節です。この箇所から学び、与えられている聖霊を信じて待ち望みつつ歩んでまいりましょう。

実は昨年のペンテコステ礼拝の聖書箇所も本日と同じ箇所でした。ただ、昨年は8節を中心に考えましたが、本日は4節を中心に考えてみたいと思っています。4節でイエス様は「待ちなさい」と言われています。これは「聖霊が与えられる」という約束があり、それを待てと言っているのです。そしてそれは2章で実現しました。ということはこの「待ちなさい」は、今は終わったことで、今の私たちにはあまり関係ないことと感じるかと思います。でもそうとばかりは言えないと思います。聖霊は使徒言行録2章で初めて登場したのではありません。また聖霊は三位一体の神の1つの位で、神御自身なのです。ということは、聖霊は最初からおられ、今も活躍されておられるのです。

人は「待つ」ことが苦手です。それは自分よりも相手の都合を優先することになるからです。そして人が「待つ」ことが苦手なのは、自分も相手も完全ではないからです。人が待っていると「待っても来ないかも」とか「待っても無駄」などの思いが出てきたりします。でも聖霊については苦手でも待たなくてはならないのです。

私たちが聖霊を「待つ」ために必要なのは信じることです。まず聖霊なる神がおられることを信じましょう。私たちはいないものを信じることはできません。また「待つ」相手が聖霊ならば自分よりも優先し尊重することもできるでしょう。さらに相手が聖霊ですから来ないことはありません。また無駄にもなりません。聖霊には大きな力があります。その力を信じて待つことが、私たちにとって最善なのです。そしてその待つことによって、私たちの成長につながるのです。ペンテコステにあたり聖霊の力を待ち望みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神との愛の関係の中で」 ヨハネによる福音書14:18~24(新約P197)  2018年5月13日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書14章18節~24節です。この箇所から神と私たちとの愛の関係を学び、特に私たちが神と人を愛することを心がけて歩むことを覚えたいと思います。

神は私たちに神と人を愛することを命じています。それはまさに神との愛の只中に身を置くことを進めているようです。人と人との関係ならばそこに関係する人全員が「愛すること」について問われます。しかし神と人の関係では、問われるのは人の側だけです。というのは、私たち人間は愛が無くなることがありますが、神の私たちへの愛は無くなりません。従って「愛すること」が問われるのは私たちで、私たちが愛した時にこの愛の関係は成立するのです。

では私たちが神を愛することは何をもって証明されるのでしょうか。21節や23節以降に、神の掟、神の言葉を守る者が神を愛していることが記されています。そしてその神の掟の中に「神と人を愛すること」があるのです。私たちが「愛すること」が掟にある生き方であり、掟を守ることが私たちの愛を証明するのです。神を愛することの大切さは、このように二重の意味で示しているように思えるのです。

私たちは神から愛されています。この愛に揺るぎはありません。そんな愛を受けて神によって救われている私たちにとって「神を愛すること」は義務のようなものです。しかし弱い私たちは「神を愛すること」によって何かを得たいと思うこともあります。私たちが神を愛することで「神との愛の関係」ができます。そのことによって私たちは成長させられるのです。私たちが神を愛するために必要なのは、やはり信じることです。神の恵みを信じることが、弱い私たちが愛することにつながるのです。また神の愛による恵みを思い出しましょう。そうしたら弱いながらも愛することができるようになるのです。これからも神との愛の関係の中に身を置き、神と共に成長していきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「生きる神と共に」  ヘブライ人への手紙4:12~16(新約P405)  2018年5月6日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヘブライ人への手紙4章12節~16節です。この箇所から今も生きて働かれる神を覚えて、神と共に歩んで参りましょう。

本日の聖書の箇所は、前半の12節~13節と後半の14節~16節の間で段落が変わっているようです。それくらい記されている内容が違うように感じます。確かにそうです。私も14節~16節の箇所からメッセージをしたことが幾度となくあります。ただ13節より前の部分と14節以降が関係していないとは言い切れないと思います。前半の12節には神の鋭さ、言うなれば大きな神の力が記されていて、後半の14節以降には、弱い私たちに同情して下さる神の愛が記されています。確かに内容はかなり異なっているようです。しかし私たちの神はこの違うように見える大きな力と大いなる愛を兼ね備えたお方なのです。こういうお方だからこそ、私たちは弱い自分のすべてをゆだねることができるのです。

12節では、神の言葉が鋭い剣に例えられています。鋭い刃物には力があります。ただそれが正しく用いられなければ危険です。力は暴走してしまうとむしろ害になるのです。しかし正しく用いられるのならばその力を発揮します。お医者さんや料理をする人は鋭い刃物で良い仕事をするのです。また12節~13節には私たちは神の前にはすべてがさらけ出され、あらわにされることが記されています。そして14節以降には私たちの弱さに同情して下さると続いているのです。つまり力ある神は、私たちの弱さをすべてされけだし、私たちの弱さをすべてご存じなのです。そして弱さを知った上で、神はその鋭い大きな力で弱い私たちを導いて下さいます。感謝いたします。

私たちの成長の歩みは何時も順調とはかぎりません。時に成長どころか停滞、あるいは後退するように感じることすらあります。しかし大きな力と大いなる愛を兼ね備えた今も生きている神が弱い私たちを導きます。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主から離れないキリスト者」 使徒言行録11:19~26(新約P235)  2018年4月29日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は使徒言行録11章19節~26節です。この箇所から神に愛され、神と共に歩むことによる恵みを学びましょう。

本日の聖書の箇所は、アンティオキアの教会について記されています。この教会は、迫害を逃れて散らされていった人たちによって築き上げられました。そして異邦人にも積極的に福音を宣べ伝えていたようです。神はこの教会を祝福され、21節には「信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」と記されています。このうわさがエルサレムの教会にも聞こえてきて、バルナバが遣わされました。このバルナバは神をとおしてものを見る人のようで、皆が改心したサウロを信じきれない中、彼は皆にサウロを紹介しました。ここでもアンティオキアの教会が神の恵みにあふれている様子を見て喜びました。アンティオキアの教会にも足りないところがありました。しかしバルナバはそれを知りつつアンティオキアの教会を喜んだのです。

バルナバはアンティオキアの教会の足りない部分を無視しません。サウロを連れてきて教会の指導にあたりました。またその前にバルナバはアンティオキアの教会の人たちに「固い決意をもって主から離れることのないように」とアドバイスを送りました。私たちの歩みは信じ続ける歩みです。救いの達成のために主から離れてはなりません。そして成長しているアンティオキアの教会にこのアドバイスは大切でした。私たちの成長は主によってなされます。主から離れないことでアンティオキアの教会はさらに成長し、祝福されたのです。

26節によるとこのアンティオキアで弟子たちが「キリスト者」と呼ばれるようになったとあります。この「キリスト者」とは「キリストばかりの人」「キリストしかない人」のような意味です。そんな「キリスト者」という言葉をむしろ誇りとして主から離れないでアンティオキアの教会の人たちは歩みました。私たちも主から離れず、祝福されつつ成長させられていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の言葉によって造り上げられ」 使徒言行録20:25~38(新約P254)  2018年4月22日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は使徒言行録20章25節~38節です。この箇所から神の恵みの言葉のすばらしさを覚えて歩みましょう。

本日の聖書の箇所は、パウロがエルサレムを訪れる旅の途中の記事です。この旅が簡単な旅行ではないことがパウロには分かっていました。今日の箇所の前に、聖霊によって「投獄と苦難が待ち受けている」とたびたび示されたことが記されています。でも聖霊は「エルサレムに行くな」ではなく、むしろ「行け」とパウロに指示するのです。

32節に「神とその恵みの言葉」とあります。この特に「言葉」は何を意味するのでしょうか。まず考えられるのは「聖書」です。ただこの時代の聖書は旧約聖書のみでしたから「言葉」が指すのは旧約聖書が1つ考えられます。また35節にあるように主イエスご自身の言葉も指していると思われます。またヨハネによる福音書にありますが、聖書では「言葉」という語に「人格的」なものを見ます。「神とその恵みの言葉」とありますから「言葉」は「神御自身」と見ることもできます。そして今私たちが手にしている聖書ですが。確かにこの時代「新約聖書」はありませんでした。しかし最初からおられ、今も生きている神が人をとおして「聖書」を記しました。今この箇所を読む私たちは「聖書」を指すと信じてよいのではないでしょうか。

危険な旅をするパウロだけではなく見送る人たちも実は厳しい状況を迎えます。偉大な指導者パウロとはもう会えない可能性が高いのです。しかしパウロは「神の言葉」にゆだねることによって、たとえパウロはいなくても彼らは「造り上げられる」と語っているのです。

私たちは成長することを願っています。そのために私たちもパウロが言うように「神の言葉」によって成長しましょう。神の言葉である聖書から学び、示され、信じて歩むことによって成長させられていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ただわが霊によって」   ゼカリヤ書4:4~10(旧約P1483)  2018年4月15日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書のゼカリヤ書4章4節~10節です。本日は特に6節のゼカリヤ書の中でもよく知られている箇所を中心に、神の霊に従って歩むことを学びましょう。

ゼカリヤという預言者は、バビロン捕囚にあったイスラエルの民がキュロス王によりエルサレムに戻ることが許され、崩壊した神殿の再建築に臨んでいたころに活躍した預言者だと考えられています。この神殿建築は簡単ではありませんでした。1つは外敵による妨害です。イスラエルの民に敵対する民が妨害してくるのです。以前と違ってこの時のイスラエルの民は弱い存在でした。外敵の妨害は神殿建築の大きな妨げであったと思われます。またもう1つの理由は内部の問題もあったでしょう。弱く力が無かったイスラエルの民の中から、神殿建築に懐疑的な思いも出てきていたことでしょう。そんな困難の中で神殿建築は進められなくてはなりませんでした。

そんな時にゼカリヤに6節の言葉が告げられました。「武力によらず、権力によらず」とあります。「武力」も「権力」も人の力を指しています。多くの人の力や人間の能力を指します。つまりこの「武力によらず、権力によらず」は「人間の力ではない」ということです。では何の力で行えというのかといえば「ただわが霊によって」と記されています。この「わが霊」とは「神の霊」ということです。ここで神は、神殿建築は「人ではなく神によって」と語るのです。神の力は人よりもはるかに大きく勝っています。神の霊によって歩むことが困難に直面しているイスラエルの民の状況を切り開くのです。

ここで「霊」という言葉が出てきます。「霊」は時に大きな力を発揮します。そして時に、弱い私たちをおぼえて静かにことを成していきます。いろいろなことをいろいろなやり方で行なうのです。弱い私たちと共に歩み、最善を成して下さる神に感謝し、神と共に歩んでまいりましょう。

 
 
 

[メッセージ要約]

「主による成長と成熟」 コリントの信徒への手紙Ⅰ15:50~58(新約P322)  2018年4月8日 大竹敏生

 

2018年度の年度主題は「さらなる成長と成熟を目指して」で主題聖句は「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節)」です。ここから主の業に励みつつ、成長させられることを学んでまいりましょう。

本日の聖書箇所のコリントの信徒への手紙Ⅰ15章には主の復活について記されています。つまり私たちが「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」を実践していく前提として主が復活されたことが記されているのです。私たちが動かされずに主のために歩むことは、主が復活されたがゆえに可能となるのです。弱い私たちは、心が動揺して主のために働けないような者なのです。しかし主が私たちのために復活されました。私たちはその力にあずかることが許されています。信じて主の業に励みましょう。

では私たちが「主の業に励む」ことと私たちの成長や成熟はどう関係しているのでしょうか。私たちは聖書や信仰と関係のないところでもいろいろなことで成長します。そしてその成長の先に成熟があるのです。そして多くの場合、成長途中ではなく成熟を迎えて働くことができるのです。もちろん成長しながら働くこともできないことはありませんが、できることは限られてしまうことが多いと思われます。では私たちキリスト者の成長はどうでしょうか。私たちは誰もが成長過程にあります。その中で私たちは「主の業に励む」のです。そしてその励むことによって、私たちは成長するのです。このように「主の業に励む」ことと「私たちの成長」は切り離すことができないほどの強い関係をもっているのです。私たちが「主の業に励む」ことは主の喜びです。そして私たちが成長、成熟することも主が喜ばれることです。主によって動かされることなく、主の業に励みつつ成長させられましょう。主は喜んで私たちを主の業に励ませて下さり、成長、成熟目指して歩ませて下さるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活されたのだ」   ルカによる福音書24:1~12(新約P159)  2018年4月1日 大竹敏生

 

本日は今年のイースターとなります。本日の聖書箇所のルカによる福音書24章1節~12節をとおしてイエスキリストの復活を喜び、感謝しましょう。

安息日が終わり、最初にイエスキリストの墓に向かったのは婦人たちでした。この人たちはイエスキリストが十字架にかけられたときもそばにいたようです。イエスキリストに対する愛とその信仰の強さを思います。しかしそんな彼女たちもイエスキリストが復活されると思って墓に向かったのではなかったようです。それぐらい主の復活を信じるのは難しいことなのです。彼女たちは最終的には信じました。信じた理由の1つは8節にあるようにみ使いの言葉により「思い出した」のです。主はご自身がよみがえることを告げていたのです。婦人たちはその約束を思い出しました。それと他の福音書にありますが復活されたイエスキリストと出会ったのです。そしてこれは他の弟子たちも同じです。主の言葉を思い出し、復活の主と出会って完全に信じました。復活されたのは主であり、それを信じるのも主の力によるものだったのです。

では主はなぜ復活されたのでしょうか。イースターは卵が象徴のように用いられます。それは卵が「生命」を表しているからです。主は復活されたことで「死」から「命」に回復されたのです。私たちは「死」の前には全く無力です。しかし主は「死」に打ち勝つ方です。それはご自身のためだけではありません。無力な私たちにも「生命」を与えてくださることが約束されているのです。主が復活された理由の一つとして、私たちにも主が「死」への勝利をくださることを信じさせることがあったのではないでしょうか。感謝いたします。私たちにも「生命」が与えられるのですから、私たちは固く立つことができるのです。私たちは確かに弱いのですが、私たちには復活された愛と力の主がおられます。ご自身が復活してくださり、私たちを愛して、私たちに復活を信じさせるために導いてくださる主に感謝し、復活の主を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「成し遂げられた」  ヨハネによる福音書19:28~30(新約P208)  2018年3月25日 大竹敏生

 

本日から受難週になります。今日の聖書箇所はヨハネによる福音書19章28節~30節で、イエスキリストの十字架の場面です。この箇所から神の愛による罪の赦しを学びましょう。

今日の聖書箇所の30節でイエス様は「成し遂げられた」と言われています。そしてこの後、間もなく息を引き取りました。このイエス様の言葉は他の訳では「すべてが終わった」「完了した」などと訳されています。何が成し遂げられたのでしょうか。何が終わったのでしょうか。何が完了したのでしょうか。この言葉は「借金の清算が完了した」時などに使用される言葉だそうです。イエス様は「何が清算された」と語られたのでしょうか。それは私たちの罪の問題です。私たちは誰もが罪を持っています。そしてこの罪は清算されなくてはならないものなのです。それがイエス様によって、十字架によって清算されることになったのです。罪が清算されて救いが成し遂げられました。感謝します。

聖書が語る罪は行動だけではなく、むしろ私たちの内面の問題だと聖書は記しています。この世で罪だと問題となるのは行動です。何か悪いことをしたり、法律を犯したりすることによって罪に定められます。しかし聖書の記す罪は、その行動に至らせる私たちの内面を問題とするのです。そしてその罪が私たちと神を分断しました。私たちは神から離れてしまっているのです。新約聖書の「罪」という言葉は「的がはずれている」というような意味です。つまり正しい状況ではないことを意味しています。私たちと神の間は罪によって「正常ではない」状態になっているのです。これが「罪の清算」によって「正しい状態」になったのです。これは神の側からしかできないことでした。私たちの罪は無くなったわけではありません。そういう清算は無理なのです。私たちの罪は主イエスキリストを信じることによって、罪が赦されて清算されるのです。この愛の赦しを感謝します。イエスキリストを信じて、赦され、救われましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みによって助けが」 ヘブライ人への手紙4:14~16(新約P405)  2018年3月18日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヘブライ人への手紙4章14節~16節です。ここから私たちに与えられる大祭司イエスキリストの愛による恵みを学びましょう。

今日の箇所に出てくる「大祭司」とはイエスキリストのことです。そしてこのヘブライ人への手紙には「大祭司イエスキリスト」についての記述が多く出てくるのです。もともと「大祭司」とは神と人間の間を結ぶ役割をする人です。私たちは罪があるゆえに神と分断されています。それを結ぶ役割を担うのが「大祭司」です。イエスキリストが完全な「大祭司」として私たちと神との間の溝を完全に埋めてくださっているのです。感謝いたします。

今日の箇所に「大祭司イエスキリスト」の特徴として記されていることに「神の子でありながら人となられた」ことがあります。イエスキリストは神として、そして人間として、ありとあらゆる経験をしました。それゆえに完全な神でありながら、人の弱さを知り同情される方なのです。16節に「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」とありますがその「恵み」の最も尊いのが「救い」です。救われる資格のない私たちが、神の愛と恵みにより信仰により救われたのです。この恵みに感謝いたします。この恵みの座に近づく資格は私たちには無かったのですが、完全な大祭司によってこの恵みにあずかることができるようになったのです。そしてヘブライ人への手紙の著者は、読み手にもっともっと積極的に神の恵みを受けよと勧めているのです。

また16節に「時宜にかなった助けをいただく」とあります。罪があり弱い私たちはいつも、またありとあらゆる助けを必要としているのです。「救い」と同じように私たちはこの「助け」を受ける資格もありません。しかし私たちを愛する「大祭司イエスキリスト」は、私たちの弱さを知っておられ、今も生きておられますから、惜しげもなく「時宜にかなった助け」を下さるのです。主を信じて神の豊かな恵みを受けつつ歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の霊に導かれ」  ローマの信徒への手紙8:9~17(新約P284)  2018年3月11日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙8章9節~17節です。この箇所から神の霊に導かれ、神の子として歩むことを覚えてまいりましょう。

本日の箇所の9節の冒頭から「神の霊」という言葉が出てきます。本日の箇所の重要な言葉です。この「霊」に対する言葉が「肉」です。私たちは今日の箇所にあるように「肉」ではなく「霊」に従うべきなのです。

14節には「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」と記されています。この14節の言葉から、神の子とされるために神の霊に導かれる必要があると読むことができます。私たちが神の子とされることは大きな恵みです。神の子とされるならば私たちは奴隷ではありません。神に愛され、その愛の中を歩み、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです。そして17節によれば「神の子」はキリストと共に相続人だとあります。栄光と共に救いを受け、天国を相続できることを感謝いたします。

「神の霊」に導かれて歩み「神の子」とされて私たちが受ける恵みは「救い」ですが、そこからまた多くのものを受けていきます。私たちの「救い」は達成される必要があります。そのために必要な信仰の成長も与えられるのです。そして私たちが成長の歩みを続けていく限り「神の霊」は私たちを正しく導いて下さるのです。ということは私たちが成長すればするほど「神の霊」はさらにさらに導いて下さるということではないでしょうか。「神の霊」に導かれ「神の子」として歩み、救いの達成のためにキリストにより成長させられましょう。

では「神の霊に導かれる」とはどういうことでしょうか。1つは「神を第一とする」ということです。自分ではなく神を第一とするのです。また「神を信じる」ということもあります。見えない「神の霊」に導かれるのには、信じることが必要なのです。神を信じて、そして愛して信仰生活を送りましょう。それが「神の霊に導かれ」て歩むことにつながるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストの内にある」  コロサイの信徒への手紙2:1~5(新約P369)  2018年3月4日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコロサイの信徒への手紙2章1節~5節です。この箇所からキリストを知り、キリストから恵みを受けて歩んでまいりましょう。

パウロが悩まされていた問題の中に「間違った福音」についてがあります。それはいわゆる「律法を守ること」を「キリストを信じること」と同じように、あるいはそれ以上に大切にする教えでした。この手紙でもそれを意識した表現が今日の箇所をはじめいくつも出てきます。私たちは「行ない」では救われません。「信仰」によってのみ救われるのです。この信仰による救いは神がその知恵によって導いた私たちの唯一の救いへの道です。その事を常に覚えて歩んでまいりましょう。

さて「キリストを知る」ことを考えてみましょう。3節に「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」とあります。この「隠れている」という言葉から何を感じるでしょうか。1つは「探さないと見つからない」ということです。2節に出てくる「秘められた計画」という言葉から「見つけるのが困難」というイメージがわきます。ただ反対に「隠されていない」という言葉から感じるのは「見えるところだけ」というイメージです。ありとあらゆるすばらしい宝が「信じる者に救いを与えること」をはじめとしてキリストの内にあるのです。キリストのうちにあるものは無限と言ってもよいほど膨大です。「隠れている」という言葉に、キリストのうちにある無限のすばらしい宝物の存在を見ることができるのです。

「隠れている」からといってキリストは「あげたくない」のではありません。むしろ主は私たちに「救い」をはじめ、ありとあらゆる恵みを与えたいと思っておられるのです。私たちはキリストを信じ救われ、キリストを知り、キリストから知恵や知識を受けて成長していきましょう。これからも主と共に教会生活、信仰生活を送ってまいりましょう。神の恵みはすぐそこにあります。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の神は我らに」  ルカによる福音書16:1~13(新約P140)  2018年2月25日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書16章1節~13節です。ここは「不正な管理人のたとえ」と呼ばれる非常に難解な箇所です。難解な理由として管理人が不正を働いているにもかかわらず、主人からほめられている点です。不正が称えられるという事は、私たちに不正を働くように勧めているのかとも考えられます。それを解決するため前後の文脈や、訳の問題もよく語られます。多くのメッセージがあるこの箇所から生きている神の愛を考えてみましょう。

この箇所からまず生きている神を思います。この不正を告発できるのは被害者である主人です。その主人がほめているのです。ただ法のみならばこの管理人は罰を受けます。でもほめられるところに人間味を感じます。主人が生きているように神も生きているのです。また、主人が管理人をほめたのはやはり愛があるからでしょう。神も愛の方です。不正な管理人のような赦されない存在である私たちも神の愛によって救われるのです。

またこの箇所から考えたいことは8節にある「抜け目のないやり方」です。管理人は一生懸命考えて「抜け目のないやり方」を思いつき実行しました。しかもそれは「主人のほめる行為」でした。私たち光の子もこの世の子らに負けないようにこの2つを満たす行為をするべきなのです。ただ弱い私たちにはかなり難しい事です。「抜け目のないやり方」と「神の求める行為」です。神の導きに従い、神に聞いていく事でこの難しい問題を解決できるのです。私たちを愛する神は私たちのために導きをくださるに違いありません。

ここの箇所の主人は普通の主人と違い、お金よりも大切なものがあるようです。富よりも人を大切にしています。私たちは富ではなく、私たちを愛する神に従うべきです。放蕩の限りを尽くした弟も立ち返ることで赦されます。私たちも罪人ですが赦されています。人をこよなく愛する神を信じ、神に従い、神に導かれて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストに結ばれて」 エフェソの信徒への手紙4:15~24(新約P356)  2018年2月11日 大竹敏生

 

私どもの教会の今年度のテーマは「キリストに根ざして歩め」です。本日の聖書箇所のエフェソの信徒への手紙4章15節~24節も、そのテーマにあった箇所と言えます。この箇所から学んでいきましょう。

 私たちの歩みは成長の歩みです。その成長の歩みは私たちがこの世にある限り止まらず進みます。ひたすら私たちの究極の目標であるイエスキリストを目指して歩むものなのです。私たちが成長していくことは神の喜ぶことです。従ってその成長のために神が力を下さるのです。今日の聖書箇所の16節には、形成されるキリストの体全体がキリストによって組み合わされ結び合わされると記されています。主によって成長させられることを感謝いたします。

 その主によって成長させられるのに覚えておきたいのは21節にありますが「キリストに結ばれる」ということです。これが私たちの成長のために必要なことなのです。21節にありますが、私たちはキリストに結ばれていろいろなことを教えられます。それが成長に導くのです。17節以降に記されていることには少し驚かされます。キリストによって私たちはかなり低いところから高いところへと成長させられるようです。キリストによる成長はさすがです。ただ考えてみればこういう成長でなくてはならないのです。生まれながらの罪人である私たちはこういう成長を必要としているのです。私たちは罪あるゆえに弱いのです。成長どころか後退しても不思議ではありません。自分の力ではなく「キリストに結ばれて」歩むとき、弱い私たちも成長できるのではないでしょうか。「キリストに結ばれて」成長させられてまいりましょう。

 では「キリストに結ばれて」とはどういうことでしょうか。前後の文脈など考えますと、キリストと共に歩むということを思わされます。主に祈り、聖書などから学び、教会生活を送りながら成長させられましょう。主によって成長させられることを喜びつつ信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「心を合わせ一つに」  フィリピの信徒への手紙2:1~11(新約P362)  2018年2月4日 大竹敏生

 

本日は日本バプテスト連盟の協力伝道週間の最終日です。示されている聖書箇所はフィリピの信徒への手紙2章1節~11節です。この箇所から「協力し合い、一つとなって歩む」ことを学びましょう。

 私たちには「祈り」が与えられています。私たちは祈るときに「神の大いなる力」を求めます。それは案外神の絶対的なパワーを求めていたりするのです。しかし神は全知全能です。神はいろいろな方法で私たちを助けます。それは私たち考えないような助けも当然あるのです。

 その神の助けの中に案外多いのが「協力」「助け合う」という方法です。何か「驚くような仕方による助け」を求めたりする私たちです。それに比べると「協力」「助け合う」という方法は何か地味です。でもすべての人を愛する神は、悩む私たちを愛し、その人に対してやはり愛する人を助け手として送るのです。弱い私たちは実は「協力」や「助け合う」ことも神の力を得なければなりません。聖書には「互いに愛し合うこと」「互いに励まし合うこと」「互いに助け合うこと」が奨励されています。今日の聖書の箇所の2節には私たちが「1つとなる」ことが求められています。そしてそれは神の喜びだと示されているのです。つまり神が、私たちが「協力する」こと「助け合う」ことを喜ぶのですから、そのために神が力を下さることが約束されているのです。

 今、多くの教会が厳しい状況を迎えています。教会が協力し合い、助け合うことが必要です。「協力伝道」の推進を祈り、他の教会のことも覚えていきたいものです。また教会だけではなく私たち個人もそうです。1つ思いになって歩みましょう。私たちのために、おのれを低くして人となって十字架に架かり、今も信じる私たちを救ってくださる神に感謝し、従っていきましょう。私たちも互いにおのれを低くして、愛し合い、助け合い、協力し合って歩みましょう。それを神は喜び、これからも私たちに力をくださるに違いありません。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救いは恵みの賜物」  エフェソの信徒への手紙2:1~10(新約P353)  2018年1月28日 大竹敏生

 

今日の聖書箇所はエフェソの信徒への手紙2章1節~10節です。この箇所から「救い」は神の恵みの賜物であることを学びましょう。

 罪人である私たちが「救われる」のは、ただただ神の恵みによります。本日の聖書箇所の1節~3節にありますが、私たちは生まれながらに罪人です。その罪による罰を逃れるのは私たち自身の力では無理なのです。私たちは誰もが罪を持っていて、誰もその問題を解決できないのです。ただ4節にありますが、神は私たち一人一人を愛しておられます。また8節にありますが、神の愛により私たちは「信じる」ことによって救われるのです。これは神の恵みです。救われる資格のない私たちが、信じることによって救われるのです。これしか私たちを救う方法はありません。この価値ある「救い」が無償で私たちに与えられました。ここに神の愛による恵みを見ることができるのです。

 このように神はご自身の愛する御子イエスキリストを、私たちに贈って下さいました。それほどに私たちを愛されたのです。その「救い」は確かに私たちへのプレゼントです。しかしそれはプレゼントから来る明るいイメージだけではなく、もっと緊急性のあるものでもあります。プレゼントのように「救いをあなたにあげます。」という感じだけでなく、お医者さんの治療のように「受けなさい。」という感じもあるのです。つまりこの「救い」は私たちが恵みにより賜ったのですが、神は私たちに「ぜひ受け取りなさい。」という思いで「救い」を下さいました。これは私たちが「救い」を受けなければ「滅び」に至るからです。神は私たちを愛しておられます。神は誰一人滅ぶことを望みません。私たちはこの「恵みの救い」を受けなくてはならないのです。

 神はその愛ゆえに、恵みとして「救い」を下さいました。神はすべての人が信じて救われることを渇望しています。その神の恵みの賜物である「救い」を受けるために、神を信じて歩み続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「幻も夢も主によって」    ヨエル書3:1~5(旧約P1425)   2018年1月21日 大竹敏生

 

今日の聖書箇所は旧約聖書のヨエル書3章1節~5節です。この箇所から学び、主にあって夢や幻を持ちながら歩んでまいりましょう。

「夢」や「幻」について私たちはどういうイメージがあるでしょうか。「夢」も「幻」も実現の可能性はあまり高くはない印象ではないかと思います。ですから「夢」はともかく「幻」という言葉の価値はそれほど高くはないイメージです。「幻」には「本当は実体がないのにある」と言っているようなイメージがあります。「夢」も実現は困難なイメージがありますが「幻」は実現はあり得ないというイメージですね。世の中のそういうイメージに対して聖書の「夢」や「幻」の評価はかなり高いのです。今日の箇所は、神の霊が与えられる約束が記されていますが、そのことによって私たちに「夢」や「幻」が与えられることが記されています。また他の箇所には「夢」や「幻」を持つべきことが記されています。この評価の違いはどこから来るのでしょうか。

「夢」や「幻」の弱点は、先に記しましたが実現が困難なことだと思います。ということは、評価が高い聖書の語る「夢」や「幻」はその弱点を補っていると考えられます。では何が違うのでしょうか。それは「神」の存在です。聖書の語る「夢」「幻」には、そこに神がおられるのです。神は全知全能のお方です。弱い私たちとは違うのです。不可能の無い神がおられるがゆえに、私たちの「夢」や「幻」は実現に近づくのです。ならば私たちの「夢」や「幻」に神がいてくださらなければなりません。主なる神にあっての「夢」「幻」であれば、単なる願望や絵空事に終わることなく、「夢」「幻」が実現に向かうのです。        

もちろん「主にあって」ですから「私たちの」と言うよりも「主の御心」を求めて「夢」「幻」を見たいものです。主にあって「夢」「幻」を見続けましょう。それは言い方を変えるならば「神を信じる」ということです。神を信じて「夢」「幻」を見続けることが私たちに求められているのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしにあるもの」   使徒言行録3:1~10(新約P217)  2018年1月14日 大竹敏生

 

今日の聖書箇所は使徒言行録3章1節~10節を示されています。本日はこの中から特に6節を中心に私たち一人一人に与えられている恵みについて考えていきましょう。

今日の箇所の6節にありますが、ペトロは生まれながらに足の不自由な人にまず「わたしには金や銀はない」と語っています。これはこの足の不自由な人を救うほどの金や銀はないという意味があると思います。つまり、これはこの足の不自由な男の問題の解決に見合うほどの金や銀をペトロたちは持ってはいないということなのでしょう。

また他の意味もあります。6節でペトロは「持っているものをあげよう」と言っています。その「持っているもの」の価値があまりに高いので「わたしには金や銀はない」と言っているのではないでしょうか。金や銀は確かに価値があります。しかしその価値はペトロが語る「持っているもの」とは比較にならず、ペトロの「持っているもの」と比べたら金や銀の価値は無に等しいということなのです。

ではその「持っているもの」とはどういうものでしょうか。ペトロは6節でつづけて「ナザレの人イエス・キリストの名によって」と言います。これが「持っているもの」です。主なる神がペトロたちにあるのです。その神の力は、生まれながらに足が不自由な人を立たせ、歩き回らせるほどのものです。またこの人は神を賛美します。完全に主に立ち返り、信じ救われたのです。ペトロたちの「持っているもの」は人にはできないことを成す、神の力でした。

そしてこの神の力を持っているのはペトロたちだけではありません。私たちにも愛と力の神がおられます。私たちも持っているのです。ただ神は見えません。だから私たちは信じなくてはなりません。神の力が「わたしにある」ことを信じましょう。信じて神の力を得て歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の主に導かれ」  ヘブライ人への手紙12:1~3(新約P416)  2018年1月7日 大竹敏生

 

本日は2018年最初の主日礼拝です。ヘブライ人への手紙12章1節~3節が示されました。ここから主に導かれ、信じて歩むことを学びましょう。

今日の聖書箇所は前の11章と関係しています。1節の「おびただしい証人の群れ」というのは11章に出てくる旧約聖書の人物と考えられます。この人たちは「信仰」によって神に認められました。そのことを証ししているのです。つまり「主を信じて歩むこと」のすばらしさをもの語っています。ただその歩みは「忍耐」が必要な歩みです。それは私たちの罪ゆえの「弱さ」が招くものです。私たちはその忍耐の道を歩む必要があるのです。そしてそれは信じる者への祝福につながります。証人はそれをも証ししているのです。

では私たちはどうやって忍耐して信仰者の道を歩むべきでしょうか。1つは「証人」のことを思うことです。「証人」が証しし、見守って下さっています。それを励みとして歩みましょう。また2節にあるように主イエスに目を注ぎましょう。主は導いて下さいます。そして2節から3節にあるように主イエスは十字架に苦しみの中で架かって下さいました。その事を覚えて忍耐していきましょう。1節に私たちの信仰の歩みは「歩」ではなく「走」だとあります。普通は「歩」より「走」のほうが難儀です。しかし「走」を考えると「忍耐」の中にも「喜び」が見えてきます。人は歩きながらいろいろな事ができますが、走りながらするのは困難です。人は走るとき、走ることに専念しているのです。つまり「走」はひたむきさを表しているのです。また人はスポーツなどで勝利したときや優勝したときなど、その喜びを走ることで表すことが多くあります。つまり時に人は喜びを「走」で表すこともあるのです。

私たちの信仰の歩みには「忍耐」がつきものです。でも多くの証人を思い、何よりも導き手である主イエスを思いましょう。ひたむきに喜びをもって、愛の主に導かれて歩んで(走って)まいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じて感謝を」 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:16~28(新約P379)  2017年12月31日 大竹敏生

 

本日は2017年最後の主日礼拝となります。有名なテサロニケの信徒への手紙Ⅰの5章のみ言葉が示されています。その中で本日は特に18節にある「感謝」という言葉を中心に考え、導かれたいと思います。

1年の終わりに「今年はどうだったか」と考えると、普通「良い事もたくさんあったし、良くない事もかなりあった。」と思う方が多いでしょう。ただ私たちの神はローマの信徒への手紙8章にあるように「最善をなさる方」です。ならば「良くない事」は無いはずです。でも「良くない事はかなりあった。」と考えるのはどうしてでしょうか。それは私たちの罪からくる弱さのせいです。18節に「どんなことにも感謝しなさい」とありますが、これは「感謝できない状況でも受け入れて感謝しなさい」というような、まるでやせ我慢を強いているような言葉なのでしょうか。もちろんそうではありません。私たちは罪あるゆえに弱く、不完全です。それに対して神は全知全能で完全なお方です。私たちは神のなさることの意味が分からないのです。「良くない事がかなりあった」と考えるのは、弱さゆえに神の偉大な業を理解できないからなのです。

では18節の「どんなことにも感謝しなさい」を実践するにはどうしたら良いのでしょうか。それは神の恵みを思い出す事が大切です。神の恵みを思うときに、私たちは「感謝」があふれ出てきます。また最初は「良くない事」と思っていた事が、後でそれ事が正しかったのだと感じたことがないでしょうか。そんな体験を思い出しましょう。今は「良くない事」と感じる事が、いつの日か「感謝な事」に変わるはずです。そのために私たちは神を信じなくてはなりません。私たちは「感謝する」ために神を「信じて」歩みましょう。必ず神は私たちを「感謝」に導くのです。18節には「神があなたがたに臨んでおられること」とあります。神のためにも信じ、感謝して歩みましょう。その信じ、感謝する歩みは、新たな年も感謝な年となるように導くでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「生まれた方を喜びたたえよ」 ルカによる福音書2:8~21(新約P103) 2017年12月24日 大竹敏生

 

本日は今年のクリスマス礼拝となります。ルカによる福音書2章8節~21節をとおしてイエスキリストの誕生を喜びましょう。

今日の聖書の箇所には生まれたイエス様の他にマリアとヨセフが出てきます。ただここではむしろ主の天使と羊飼いの描写が詳しくなされています。本日は特にこの天使と羊飼いの姿勢から学びたいと思います。ここで主の天使は「救い主の誕生」を告げています。そして10節では、それは「民全体の喜び」だと告げています。さらに11節でも救い主は「あなたがたのために」生まれたのだと告げています。このことから与えられた救い主は「すべての人の救い主」だと分かるのです。しかも2回別の言い方で述べていることで、この救い主は「すべての人の救い主でありつつ、一人一人の救い主だ」ということを示しているように思います。興味深いのは「民全体の喜び」と語りつつ、民ではない天使たちも喜んでいることです。神の救いの計画は完全です。だからその成就は大きな喜びなのです。また天使は14節にあるように讃美をしています。主の天使は救い主の誕生を喜び、告げ知らせ、讃美しているのです。

一方羊飼いはどうでしょうか。15節では羊飼いたちは天使の告げたことを信じて「救い主誕生」の出来事を見に行きました。そして17節では天使たちの告げたことを人々に知らせています。また20節では神をあがめ讃美しているのです。そして羊飼いは間違いなく喜んでいたのです。喜んで、知らせ、讃美しています。何か主の天使とよく似ていますね。

今年もクリスマスを迎えました。「救い主誕生」によって与えられた喜びは「民全体の喜び」です。つまりこの喜びは私たちにも与えられた喜びなのです。私たちも天使や羊飼いのように喜びましょう。またクリスマスは讃美が多くなされます。神を讃美しましょう。そして私たちの罪を赦し、救うために与えられた救い主の誕生の喜びを知らせていきましょう。クリスマスを感謝します。

2017年12月24日 大竹敏生

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「生まれる方の2つの名」  マタイによる福音書1:18~25(新約P1)  2017年12月17日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第三週です。本日はマタイによる福音書1章18節~25節の記事から学んでいきましょう。

主のご降誕を前に御使いが現れました。ルカによる福音書には主イエスの母マリアに現れたことが記されていて、このマタイによる福音書の方には父となったヨセフに現れた様子が記されています。21節で御使いはヨセフに生まれてくる子どもに「イエスと名付けなさい」と命じています。そして一方23節には旧約聖書のイザヤ書からの引用で「その名はインマヌエルと呼ばれる」とあります。つまり生まれてくる救い主には2つの名があったのです。この2つの名によって、私たちに与えられた救い主のすばらしさが分かります。「イエス」という名前の意味は「主は救う」という意味です。救い主の名にふさわしい名前です。そして「インマヌエル」は23節に「神は我々と共におられる」という意味だと記されているのです。

この2つはどちらもすばらしい名前です。私たちは罪があり、救いが必要です。主は、このままでは滅びに至る私たちを救うために救い主を誕生させて下さったのです。この方以外に滅びに至る私たちを救う方はおりません。「主は救う」という名前の救い主が、私たちにとって必要だったのです。また私たちに罪があるゆえに、私たちは弱いのです。その弱さを補う神の助けを必要としています。私たちを愛し、私たちと同じになって下さり、共に歩んで下さる方をも私たちは必要としています。私たちには「神は我々と共におられる」という名前の方も必要なのです。

今から2000年前に私たちを罪から救い、私たちと共に歩んで助けてくださる救い主が誕生しました。ヨセフが、マリアが、そして私たちが必要としている救い主が与えられたことを感謝いたします。今年もそのような救い主の誕生を喜びつつむかえていこうではありませんか。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「約束を信じて待ち望む」   イザヤ書9:1~6(旧約P1073)   2017年12月10日 大竹敏生

 

本日は今年のアドベント第二週となります。旧約聖書のイザヤ書9章の救い主誕生の預言から導きを受けていきましょう。

旧約聖書にはいくつもの箇所で「救い主が与えられる」という預言がされています。その中でも分かりやすいのがイザヤ書の預言で、この9章の預言はその中でもよく知られている預言です。旧約聖書にて預言されていて、今から2000年前にその預言が成就しました。それがイエス様の誕生です。つまり救い主誕生の出来事は、約束が果たされたということなのです。今から2000年前に待望の救い主が与えられました。感謝いたします。

さて「約束」ですが、神の約束ということでは、私たちは2つのことを覚えておきたいものです。1つは「神は必ず約束を果たされる」ということです。神は人間が罪を犯しても、人間が神との約束を守らなくても、神御自身は約束を果たしてこられました。神は正しい方です。そして私たちを愛しておられます。だから約束を果たされるのです。2つ目に覚えておきたいことは「神の約束で与えられるものはすばらしい」ということです。神は全知全能です。何1つ欠けたところは無いすばらしいものが与えられます。約束通り私たちのために救い主は与えられました。その救い主は神の子であり、完全なお方です。すべての人を救うことができうるお方なのです。

今から2000年前に約束は果たされ、救い主イエスキリストは誕生しました。私たちは救い主の誕生をもう待つ必要はありません。でも「待つ」ことと無縁に歩むわけにはいかないのです。今日の箇所の5節にありますように神が私たちのために救い主を与えてくださいました。私たちは救い主の救い、祝福、恵み、導きなどを受けますが、時にそれを待たなくてはなりません。「待つ」ために何が必要でしょうか。私たちが喜んで待ち続けるために必要なのは「信じる」ことです。主の愛の恵みや祝福を信じて待ち続けていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救いの喜びを世界中に」  使徒言行録13:1~3(新約P237)   2017年12月3日 大竹敏生

 

本日から今年のアドベントです。そして本日は今年の連盟の世界バプテスト祈祷週間の最終日となります。本日の聖書箇所の使徒言行録13章1節~3節から学びながら神の命じる世界宣教の業に参与していきましょう。

今日の聖書箇所では、神に導かれ、アンティオキアの教会からパウロとバルナバが祈りをもって送り出されたことが分かります。この箇所は「世界宣教」の開始の箇所と言える箇所です。ここから、送り出されたパウロたちと共に、出発させたアンティオキアの教会からも学びましょう。この箇所を皮切りに2000年近く経った今も「世界宣教」は神の導きの中、展開しています。携わる宣教師の方を助ける働きは多種多様です。アンティオキアの教会の人たちもパウロたちのために祈り、助けていたはずです。「送り出す」とはどういうことでしょうか。1つは「私たちの代わりに」ということでしょう。実際に直接働くのはパウロやバルナバでしたが、それはアンティオキアの教会の人たちを代表して彼らが行なっていたのです。またもう1つは「私たちも共に」ということです。宣教師の方の働きは多くの人たちの助けによるものです。パウロたちや宣教師の働きはほめたたえられるべき大切なものですが、それを助けるアンティオキアの教会や、宣教師のために祈り、支える働きをする私たちも共に世界宣教の業に参与しているのではないでしょうか。確かにパウロとバルナバは覚えられるべきです。ただ考えようによっては助けた側がよりほめたたえられるべきと考えることもできます。でも助けたアンティオキアの教会の人たちに喜びがあったがゆえに、むしろ彼らもパウロとバルナバをたたえたでしょう。世界バプテスト祈祷週間もロティ-ムーンという女性宣教師を助ける働きから始まりました。この女性の名が今も覚えられているのは、助ける側に喜びがあり、神に祝福されていたことを表しています。これからも救いを受けた喜びをもって、「救いの喜びを世界中に」という思いで祈り献げていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「賜物は永遠の命」  ローマの信徒への手紙6:20~23(新約P282)  2017年11月26日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はローマの信徒への手紙6章20節~23節です。この箇所から、主イエスキリストによる罪からの救いを学びましょう。

今日の箇所の23節に「罪の支払う報酬は死である。」とあります。ここの「死」という言葉ですが、普通の死とも考えられますが、ここでは同じ23節の「永遠の命」という言葉と対比されていると思われます。つまりここでの「死」は単なる肉体の死だけではなく「滅び」というような魂の死をも意味していると考えられるのです。罪ある私たちは、このままではその罪により滅びに至ってしまうのです。私たちを愛してくださっておられる神はそれを望んでおりません。神ご自身の子であるイエスキリストの十字架をとおして私たちを「死」に至らないように「永遠の命」を得るようにしてくださったのです。

聖書には、私たちを救うために神がどのようにされたのかが記されています。罪に支配されている私たちはどのように努力しても救われないのです。イエスキリストが私たち一人一人を救うために、私たちの代わりに十字架に架かってくださったことを信じることによって救われるのです。つまり私たちの行ないによって救われるのではなく、信じる信仰によって救われるのです。聖書に出てくる偉人も、マザーテレサのようなすばらしい行ないをなした人もみな救われていますが、それらの方々すべてが「信じる」ことによって救われて「永遠の命を」受けているのです。

神は私たちを選別して合格不合格を判断しているように救いを下さるのではありません。私たちすべてが救われることを望んでおられます。私たちは生まれながらに罪人です。このままでは「滅び」に至るのです。神はすべての人を愛しておられ、すべての人を救うために手を差し伸べておられるのです。その愛に応えて歩みましょう。主を信じて「死」から脱して「永遠の命」を受けましょう。それが主が望んでおられることなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の大いなる力と恵み」   エレミヤ書33:1~9(旧約P1240)  2017年11月19日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書のエレミヤ書33章1節~9節です。この箇所から、神の大いなる力と私たちへの愛を学びましょう。

この書に出てくるエレミヤは南ユダ王国滅亡の直前にその南ユダ王国で預言活動をしていた大預言者です。彼の預言は事実ですが内容が厳しく、民にとってまた王にとっても耳の痛いものでした。そのために王によって牢に入れられました。今日の箇所はそんな中で神がエレミヤに語られた箇所です。

まず3節に注目しましょう。ここで神は「わたしを呼べ」と言われています。これを聞いたのはエレミヤですが、この預言はエレミヤだけでなくすべての南ユダ王国の民に向けてのものでしょう。そしてもっと言うならば私たちに向けてのものでもあります。人がどのような状況にあっても「わたしを呼べ」とおっしゃって下さる主に感謝いたします。

そしてこの箇所では「エルサレムの復興」が預言されています。この時エルサレムはバビロン軍が迫り、破壊も始まっていたかもしれない状況でエルサレムは滅亡寸前でした。そしてエルサレムはひどい状況になることも預言されています。滅亡に突き進むエルサレムですが、復興が約束されたのです。6節には「いやしと治癒と回復をもたらす」とあります。このエルサレムの復興は町の復興ですが、そこに住む人の復興でもあるのです。9節にはその復興は「神が与える大いなる恵み」とあります。復興は神の約束であり、神が成せる業なのです。これはイスラエルの民にとっては喜びですが、敵にとっては恐れおののく出来事になります。真の神の大いなる力に驚き恐怖するとあるのです。

この神の大いなる力を、私たちは恐れる必要はありません。最悪の状況にあって、しかもさらに悪化するような時を迎えても神はそれを改善する力を持っているのです。大いなる力を持つお方は私たちの呼びかけに答えてくださる方でもあります。どんな状況でも揺るがない神の力を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛ゆえに恐れるな」  ルカによる福音書12:4~7(新約P131)  2017年11月12日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書12章4節~7節です。ここから、神の愛を信じ、恐れないで歩むことを学びましょう。

今日の聖書箇所には「恐れる」という言葉が何回か出てきます。そして7節には「恐れるな」とあります。この箇所からは「恐るべき方を恐れ、恐れる必要のないものを恐れるな」と読むことができます。「恐れ」は私たちにとってけっこう厄介なものです。「恐れ」は私たちの行動を制限し、時に何もできなくさせることすらあります。今日の箇所にもある「恐れるな」の命令は私たちにとって大切な命令なのです。ただ「恐れ」はまんざら不必要なものとも言えません。「恐れ」があるから私たちは克服するために努力します。そして成長するのです。「恐れ」に支配され、屈服させられることが問題なのです。

「恐れ」に支配されないためには神の愛を信じることが大切です。今日の聖書箇所にはまず「恐れる必要のないものを恐れるな」とあります。しかし私たちは弱いのです。恐れてしまうものなのです。私たちを恐れさせるものは大きな力がありますが、神の方がはるかに強いのです。神は安く売られている雀も愛しておられますが、私たちは雀よりも価値があります。私たちを友と呼び、私たちの髪の毛の数を数えておられるほど愛して下さる神、その力と愛の神が私たちを助けます。だから恐れる必要はありません。私たちが恐れるのは神ですが、7節にはその神の愛ゆえに「恐れるな」と記されています。私たちには罪があります。罪人である私たちにとって、罪のない、そして罪を憎む神は恐れるべき存在です。しかしそれ以上に神は私たちを愛しておられるのです。だから「恐れるな」と力強くイエス様は語ってくださいました。感謝いたします。

神の前には弱く「恐れ」に支配される者です。そして罪があり愛される資格のない者です。でも神は私たちを愛されています。神の愛を信じましょう。神の愛を信じることが「恐れ」を消すことにつながるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「御国のすばらしさ」   ヨハネの黙示録7:9~17(新約P461)  2017年11月5日 大竹敏生

 

本日は召天者記念礼拝です。聖書の箇所はヨハネの黙示録7章9節~17節です。ここから私たちに約束されている御国のすばらしさを学びましょう。

多くの方々が親しい方を亡くされた経験を持っていると思います。そして多くの方が死んだ方に何かできないかと考えるでしょう。これは昔も今も、そして日本に限らず世界中の人たちの中にある思いなのではないかと思います。しかし残念ながら死者に対して私たちは何もできないに等しいのです。ただ私たちの主なる神は召された者たちにすばらしい場所を備えています。今日の聖書の箇所にはそのすばらしさが記されているのです。

その素晴らしさの1つはその場所のすばらしさです。他の聖書の箇所、例えばこの黙示録の21章以降に御国のすばらしさが記されています。召された方々はその素晴らしい場所におられます。そして私たちにもその素晴らしい場所が備えられているのです。感謝します。2つ目は今日の聖書箇所の16節にあります。この世の歩みは誰でも多かれ少なかれ苦しみの中にあります。またこの黙示録が書かれた時代は、キリスト者にとって厳しい迫害の時代でした。そんな苦難の道を歩む者たちに約束されたのが「御国では苦しみが無い」ということでした。ヨハネによる福音書16章の終わりにありますが、この世では誰もが悩み苦しみます。しかし天国ではそんな苦しみはありません。感謝いたします。そして忘れてはならない御国のすばらしさは、何といっても「主が共におられる」ということです。主がおられるからその場所はすばらしいのです。主がおられるから何の憂いもありません。17節に「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」とあります。苦しみを取り除いてくださる愛の神に感謝いたします。

私たちは先輩のクリスチャンの方々につづきましょう。そして召された方々に与えられた素晴らしい場所信じて、励みとして歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に用いられて」 コリントの信徒への手紙Ⅰ12:12~27(新約P316)  2017年10月22日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰ12章12節~27節です。ここからキリストの体の部分とされている私たちが、主から愛され、その主に従う恵みを感じていきましょう。

今日の箇所にありますが、私たちはキリストの体の部分であるとされています。また聖書には「教会はキリストの体」とあります。つまり教会の頭はキリストであり、私たちは手や足などの部分であるのです。人間の体を思い浮かべると、さすが神の造られたもので、大変すばらしいものです。その見事さはいくつもありますが、今日覚えたいのはそのチームワークです。コリントの教会は分裂傾向にありました。今日の箇所もそれを戒めている箇所です。ただ別に分裂していない教会でも、今日の箇所から一致を深めることを学ぶ必要があります。教会は人間の体のように統一、調和して歩むものなのです。先に記しましたが、人間の体は見事な調和を見せます。当たり前ですが分裂してません。1つのことをなすためにありとあらゆる部分が協力して進めます。そしてこれも人間の体では当たり前ですが、部分は同じことをしていません。人間の体の部分はそれぞれ別の動きをしながら1つの作業をしていくのです。そしてそういう作業をするとき、人間の体は見事なチームワークで進めていくのです。

教会もそうでなくてはなりません。キリストを中心として一人一人がその賜物をとおして別々のことをしながら、頭であるキリストのために歩むのです。今日の聖書箇所にありますが、人間の体の1つの部分の痛みは他の部分の痛みであり、1つの部分の喜びは他の部分の喜びです。本来ならある部分がすることを、他の部分が代わりにすることすらあるのです。一致し、互いに尊重しているのです。頭であるキリストは、部分である私たちを働かせる力を下さいます。そして働くとき助けてくださるのです。教会も主のために愛し合い、協力して働きましょう。これからも主のために皆で働く教会であり続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が共に働く」  ローマの信徒への手紙8:26~30(新約P285)  2017年10月15日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙8章26節~30節です。今日の聖書箇所はよく読まれる個所で、ここからいろいろなメッセージが語られます。今日は特に28節から「わたしたちと共に働く神」を覚えましょう。

私たちの救い主は「インマヌエル」と言われます。この名の意味は「神は我々と共におられる」で、その名のとおり主は私たちと共に神はおられるのです。そして今日の箇所では「神は私たちと共に働く」と記しています。私たちは弱いのですが、神は全知全能のお方です。万事が益となるようにしてくださるお方です。その力の神が共に働くということは弱い私たちにとって感謝です。神が弱い私たちを補ってくださるのです。また「神が私たちと共に働く」ということは「神が私たちを愛している」ということも意味します。神は全知全能です。従ってどんなことでもできるのです。他の誰の力も必要としてはいないはずなのです。私たちの力が無くても神はできるのに、なぜ私たちと共に働くのでしょうか。それは私たちを愛しているからに他なりません。実は弱い私たちは神のお役に立てるものではありません。むしろ足手まといになるようなものです。でも神は私たちの弱さを知っておられるのに愛してくださり、共に働いてくださるのです。神の愛と力に感謝いたします。

愛と力の神が共に働いてくださることは私たちの喜びです。小さな子どもが親と共に歩むことを喜ぶように、私たちも「神は私たちと共に働く」ということを喜びましょう。そして私たちは「神は私たちと共に働く」というこのことを信じなくてはなりません。神の力と愛を信じるのです。私たちを愛する神は、私たちに神の大切な働きを任せてくださっています。私たちが神のために働くことは、神の望んでおられることなのです。私たちは神が共に働いてくださることを信じて歩んでまいりましょう。神と共に働くことを信じて、また喜んで歩み、神の最善の業を見ていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「賜物をとおして」  マタイによる福音書25:14~30(新約P49)  2017年10月8日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書25章14節~30節で、有名な「タラントンのたとえ」からです。ここから神の賜物のすばらしさを覚えましょう。

ここで主人は神、しもべは人間、そしてタラントンは賜物にたとえられています。この賜物は「才能」や「能力」と言いかえることもできるでしょう。ここではこの賜物をどうしていけば良いのか見ることができます。15節にありますが、主人はしもべたちに、力に応じて大金を預けました。そして5タラントンと2タラントンのお金を主人から預かったしもべたちはそれを用いました。1タラントン預かったしもべは土に埋めたのです。預かったお金を用いたしもべには主人と賜物に対する愛が見えます。一方お金を用いなかったしもべは主人を誤解し恐れ、賜物には愛どころか嫌悪しているかのようにすら思えます。彼は賜物を土に埋めたのです。土に埋めればなかなか発見されないでしょうから、盗難を防ぐのに良いかもしれませんが完全ではありません。むしろこの賜物から遠ざかりたいというしもべの思いが見えるようです。

私たちにもそれぞれ賜物は与えられています。与えてくださった神を愛し、賜物を喜んで歩むことが大切です。賜物を下さった方は私たちが賜物を用いることを喜んで下さるのです。賜物は私たちが生きていくのに必要な働きをします。でも私たちはそれだけでなく、5タラントン、2タラントン預かったしもべたちが主人のためにそれを用いたように、賜物を神のために用いましょう。賜物を下さった神のためにその賜物をとおして働くことが、主のために生きる私たちにとって大切な務めです。喜んで主のために励みたいものです。

賜物は主が私たちに下さいました。賜物を用いましょう。賜物を用いるとき、私たちは下さった主を覚えて歩みましょう。賜物を下さった方は、その賜物を最も良く用いさせてくださる方です。私たちは神の導きのままに賜物をとおして主のために歩みましょう。主は賜物を用いさせてくださるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛が駆り立てている」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:7~12(新約P330)  2017年10月1日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ5章11節~15節です。ここから神の愛に駆り立てられて歩むことを学びましょう。

今日の聖書箇所にもありますが、私たちは主のために生きる者なのです。主のために行動していくのです。例えば私たちは主のために伝道します。その伝道の動機は何でしょうか。ある人は「主の命令に従っている」と言うでしょう。またある人は「主の恩に報いるため」というでしょう。ずいぶん違うようですが、実は今日の箇所の14節の「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」という言葉がそれをあらわしているのです。後の「主の恩に報いるため」というのは頷けます。でも前の「主の命令に従っている」は少し違うように思えます。ただこの「駆り立てる」ですが、他の訳では「取り囲んでいる」となっています。周りを主の愛が取り囲み逃げられないのです。つまりここで聖書が語っているのは、主の愛が私たちを支配し、その影響を大きく受けて、そこから押し出されるように私たちは主のために働くということなのです。

主の愛に駆り立てられて主のために歩む私たちですが、弱い私たちにどれだけのことができるでしょうか。正直に言いますと、私たちには罪があるゆえに弱く、主のために働く力が無いのが実情です。でも私たちを駆り立てる愛は、私たちを取り囲み支配しています。その影響を私たちは受けているのです。神の愛による力が私たちを押し出し、助けてくださるのです。わたくしたちを駆り立てる主の愛の力は、私たちの弱さを補って余りあるほどのものです。主の愛を信じて歩みましょう。またこの「駆り立てる」という言葉から感じるのは、主の愛による励ましです。そしてそこから充実した喜びを感じます。主のために歩むとき、弱い私たちは励まされ、押し出されます。つまり「弱い者ですが、主のために歩みたい」という思いとそれを成し遂げる力が喜びの中で与えられるのです。主の愛に駆り立てられて、主のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛に揺るぎなし」   ヨハネの手紙Ⅰ4:7~12(新約P445)  2017年9月24日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はヨハネの手紙Ⅰの4章7節~12節で、大変有名な箇所です。ここから神の大きな愛について学びましょう。

ここの箇所からはいくつもの神のメッセージがあります。その中でも今日の箇所の最初と最後が「互いに愛し合う」ことが勧められています。ただ今日はこの「互いに愛し合う」ことの前提を考えていきたいと思います。

その前提は何かというと10節にあります。それは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」というところです。神がわたしたちを愛したのです。私たちも愛することができます。技術的に難しいことではありません。ただ私たちの愛はもろいのです。それは私たちの愛が理由があってのものが多いからです。その人の実績や性格、あるいは外見やこの世的な評価なんてこともあります。ただそれらのものがなくなればどうなりますか。愛は消えてしまいかねないのです。では神の愛はどうでしょうか。この10節の言葉から神の愛の本質を見ることができます。この言葉から神の愛が何よりも先にあることが推測できるのです。人の愛が理由あっての愛であるのに対して神の愛は、私たちの全てが最初から愛されているのです。人の長所だけではなく短所をも愛するのは大きな愛だと考えられます。私たちは自分で自分を赦せないようなことをしでかしたりします。そんな者を愛することは大変困難でしょう。せいぜいそのひどい行為見ないことにして我慢するぐらいが精一杯ではないでしょうか。でも神はそんなことをしでかす私たちのそんな面を見ないようにして愛するのではなく、すべて知った上で、分かった上で、それを含めて愛するのです。だから神の愛は揺るぎません。聖書の登場人物でもダビデやペトロなど多くの人たちが罪を犯しました。裏切りました。でも神はそれを知った上で愛されました。そこに一切揺るぎがないのです。罪ある私たちですが神に間違いなく愛されています。揺るがない神の愛に感謝し信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に従いとおしました」    ヨシュア記14:6~15(旧約P361)   2017年9月17日 大竹敏生

 

本日は「高齢者を覚える礼拝」です。教会の関係するご高齢の方々が、いつまでもお元気で歩むことができるように祈りつつ礼拝しましょう。本日示されている聖書の箇所はヨシュア記14章6節~15節です。

この箇所に登場する人物はカレブという人です。このヨシュア記の主人公のヨシュアの盟友とも言える人です。カレブといえば民数記13章~14章にかけての記事が印象に残ります。モーセに引き入られて約束の地の目前まで来たイスラエルの民は、12の部族から一人ずつ選び、偵察隊として約束の地に派遣しました。その中にカレブとヨシュアがいたのです。偵察隊は帰ってくると「約束の地は素晴らしい地」と報告しました。しかしカレブとヨシュアが「主が共にいる。恐れないで約束の地に入ろう」というのに対して、他の10人が「相手が強い」と悪い情報を流した結果、イスラエルの民は怖じ気づいてしまいました。主を信じなかったのです。イスラエルの民はその後多くの年月を荒野で過ごすことになりました。同世代でカレブとヨシュアだけが多くの年月を経て約束の地に入ることができたのです。

約束の地に入って85歳になったカレブは11節にあるように元気でした。カレブは9節にありますが、偵察隊が帰った時の出来事の中で、神がカレブに「あなたが見てきた土地はあなたに与える」という約束どおりにしてほしいとヨシュアに願ったのです。ヨシュアはカレブを祝福してその通りにしたのです。8節でカレブは「わたしはわたしの神、主に従いとおしました」と語っています。従うにはその方を信じていなければなりません。カレブは主を信じ、信じ従い続けてここまで来ました。しかもカレブはまだ信じ続けます。12節を見ると、まだカレブが受ける地は彼らのものではなかったようです。この後カレブが信じたように彼のものになりました。主に従いとおして祝福されたカレブにならって、信じて従い続けて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「終わりまで共にいる」  マタイによる福音書28:16~20(新約P60)  2017年9月3日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書28章16節~20節です。ここから「終わりまで共におられる主」を覚えていきたいと思います。

「二千年前の人のことを信じたり、その人について書かれた聖書を読むのに抵抗がある」まだ神を知らない人からこういうことを聞くことがあります。つまり「古い」ということでしょうか。確かにイエスキリストは二千年前にこの世に来られました。でも十字架に架かって死んでよみがえったのです。そして今も生きておられます。神は最初からおられ、今も生きておられ、最後まで私たちと共におられるお方なのです。感謝します。

「主は今も生きておられる」ということについては、主を信じる者は誰でも知っていることです。知らないクリスチャンはいないはずです。でも私たちは「主は今も生きておられる」ことを忘れてしまうのです。このことを忘れないで歩むことは、主を信じる者にとってとても大切なことです。生きているということは動きがあります。そしてフレッシュで生き生きとしているのです。主を信じる者は、マンネリとは無縁で、いつも生き生きとした信仰を持ち、主のために行動する者でありたいですね。

今日の聖書の箇所で、天に昇られる直前のイエス様が「世の終わりまで共にいる」と弟子たちに約束してくださいました。実際「全世界に出て行って…」という難しい命令に弱かった弟子たちは応えようと歩みました。「世の終わりまで共にいる」主は使徒や弟子たちに力を与え、彼らは主のために行動していったのです。生き生きとした信仰で主のために行動したのです。

今日の聖書箇所の命令と約束は私たちにも語られているのです。主は今も生きておられ働いておられます。私たちも教会として、今も生きておられる主の御声を聞き、主のために行動していきましょう。生き生きとした希望と信仰をもって、主と共に主のために働いていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「霊に燃えて」  ローマの信徒への手紙12:9~21(新約P292)   2017年8月27日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙12章9節~21節です。この中の11節の「霊に燃えて、主に仕えなさい」に注目していきたいと思います。

そしてその中でもまず「霊に燃えて」という言葉を考えていきたいと思います。この「霊に燃えて」とはどういう意味でしょうか。ある人はこの言葉はそんなに重要ではないと言います。前後の言葉と同じ意味で、言い方を変えているのだと言います。でも私はもっと重要な言葉だと思います。ここにある「霊」は私たちの「霊」だと考える人もいます。また「霊」は「聖霊」なのだと主張する人もおります。私は、正解は後者の「聖霊」だと考えていますが、前者も間違いとは思っていません。

「燃える」という言葉を他の聖書箇所から考えますと、ルカによる福音書の「エマオ途上の出来事」を思い出しました。あの時エルサレムから逃げていた二人の弟子は復活したイエス様に出会って最後に「わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、逃げ出したエルサレムに夜道を帰って行ったのです。イエス様と出会い、交わった時に彼らのころは「燃えた」のです。イエス様と同じ神である「聖霊」により私たちは「燃える」のです。私たちも日々祈り、み言葉に養われて歩みましょう。また礼拝や集会を守ることを通して聖霊によって燃やされましょう。それが大切なことなのです。

今日の聖書箇所の11節に「霊に燃えて、主に仕えなさい」とありますが、「主に仕える」というのはそんなに容易なことではありません。時に、仕えるのが困難な厳しい状況のときもあるでしょう。また普段は容易にできることも私共の信仰の状況で厳しいこともあります。私たちは罪があり弱いのです。「仕える」ことができないものなのです。例えば霊に燃えたとき、私たちは「喜び」ます。その「霊に燃えて」与えられた喜びにより、できないはずの「仕える」ことができるのです。霊に燃えて主のために仕えて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「十字架を背負って」  ルカによる福音書9:21~27(新約P122)  2017年8月20日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はルカによる福音書9章21節~27節です。この中から特に23節の「十字架を背負って」の言葉に注目して学びたいと思います。

聖書には多くの命令がでてきます。優しい命令もありますが、23節の「十字架を背負って、わたしに従いなさい」はその中でも有数の厳しい命令です。「十字架を背負って、わたしに従いなさい」の意味は、前後の文脈などから分かりますが「死をもいとわず、主に従え」ということでしょう。弱い私などはおののいてしまいそうな命令です。

どうしたら従えるかを考える前に、命令を出す側について考えてみます。「私に従え」と命じる側の資格として、まず知恵や力が必要です。間違いない方へと導く必要があるのです。それが無い方に従うのは無理です。またもう1つ愛が必要です。従わせる側は従う者の安全や祝福を保証しなくてはなりません。愛しているからできることではないでしょうか。私たちに「十字架を背負って、わたしに従いなさい」と命じる主は、今日の聖書箇所で預言されていますが、死から復活されるお方です。神であるこの方は全知全能の方であり、知恵と力は申し分ない方です。そしてこの方は誰よりも私たちをこの上なく愛して下さる方です。つまり誰よりもこの命令をするのにふさわしい方なのです。

ただこの命令を受けた側の私たちは弱い者です。「十字架を背負って、わたしに従いなさい」の命令に怖じ気づくような者です。また怖じ気づかなくてもその命令を果たす力は無いのです。そこで先ほどの命じる方の資格を覚えましょう。できないことのない方が私たちを愛しておられます。この厳しい命令を守るのには、命じた方を信じてこの方に命令を守れるようにゆだねることです。力と愛の方は、弱い私たちを助けてくださるでしょう。

私も主を信じて38年、この命令を受けて歩んできました。私の力ではなく、私のような者をも愛して下さる神の導きによるものでした。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛してよい」   マタイによる福音書22:34~40(新約P44)  2017年8月6日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書22章34節~40節です。この有名な箇所から主の愛を学び、及ばずながら愛する者へと導かれていきましょう。

イエス様は最も重要な掟として2つを挙げられました。どちらも「愛する」ことで、その対象は「神」と「隣人」です。ここに挙げられているのは掟です。つまり命令なのです。普通、命令を守るのは楽なことではありません。特に「厳しい状況を迎えているとき」「苦難の中にいるとき」などは大変です。ただここに挙げられている掟はどうでしょうか。「心を尽くし…」というような言葉があって、やはりきつそうではありますが、「愛せよ」という命令自体には技術的なものはそれほど必要ないようです。

私たちは実は「愛すること」より「愛されること」に気をつかっていたりします。「愛」とは男女の愛だけではありません。私たちは「良く思われたい」「尊敬されたい」などと考えます。それらも「愛」であり、私たちは「愛されること」に気をつかっているのです。でも「苦しいとき」や「厳しい状況を迎えたとき」は「愛されること」に気をつかって生きるのが厳しくなります。そういうとき、私たちは「自分で自分を愛せないような状況」です。そんなときに「愛されること」を思って歩むのは非常に困難です。それでもあがくように「愛されること」に気をつかっていたりするのです。そしてもしかするとその思いこそが私たちを苦しめているのかもしれないのです。

そんな状況のとき、きょうの箇所の命令を思い出しましょう。「愛されること」ではなく「愛すること」をです。「愛すること」で実は主に「愛されていること」に気づかされます。「愛せよ」の命令はむしろ「愛してよい」という神の愛の言葉なのではないでしょうか。「愛されること」に気をつかい、苦しむ者に「愛してよい」という意味の「愛せよ」と言ってくださる愛の神に感謝します。そして神と人を愛して歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「慰めの主に希望を」 コリントの信徒への手紙Ⅱ1:3~11(新約P325)  2017年7月30日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ1章3節~11節です。ここから、慰めの主に希望をおいて歩むことを学んでいきましょう。

パウロがこの手紙を書いた時、この手紙の宛先のコリント教会の人たちは苦しみの中にあったようです。またコリント教会だけではなく、この時代のキリスト者たちは皆迫害の苦しみにあったと思われます。そして何よりこの手紙を記したパウロ自身が誰よりも大きな苦しみを味わっていたのです。コリントの教会の人たちの苦しみはパウロたちの苦しみと同じで、主のためのものでした。主は私たちの苦しみを癒してくださいます。今日の箇所の前半部分に「慰め」という言葉が多く出てきます。その「慰め」の根本は主なる神であって、苦しみの中にある者に主なる神のその愛から「慰め」が与えられるのです。

「慰め」はいただいてありがたいものですが、その「慰め」と人の苦しみの問題の解決は直接関係ないように思います。主なる神には「罪」はありません。しかし私たちの「弱さ」を知っていて下さり、同情してくださるのです。それは主なる神が3節にあるように「慈愛」に満ちていて、「慰め」を豊かにくださる方だからです。神は問題の解決をくださる前に「慰め」をくださるほどに愛しておられる方なのです。パウロはこの愛に満ちて、慰め豊かな方に希望をおくように勧めています。8節に記されている「パウロたちの苦難」の具体的内容は分かりません。ただその苦しみは「死」を意識させるほど強烈なものでした。その時パウロたちは、その「死」を超える力をもち、死者を復活させる力を持つ方にゆだねてその「苦難」を乗り越えてきた事を証ししています。そしてこれからもそんな「苦難」があるだろうけど、主なる神がこれからも救ってくださるに違いないと確信しているのです。

私たちも「苦難」があります。私たちの「弱さ」を知り、同情してくださる愛と慰めの神に希望をおいて歩んでいきましょう。

 
 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰によって」   ガラテヤの信徒への手紙2:15~21(新約P344)  2017年7月23日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はガラテヤの信徒への手紙2章15節~21節です。ここから「信仰による義」を考えていきたいと思います。

ガラテヤの信徒への手紙は、中心のテーマが「信仰による義」です。そしてこの「信仰による義」こそがキリスト教の説く救いなのです。この手紙を書いたパウロと、この手紙をこよなく愛したと言われる宗教改革者ルターは同じ問題に直面していました。それが「信仰による義」と異なる考え方でした。パウロの場合は律法による「行ないによる義」。またルターも贖宥状や免罪符等による「行ないによる義」が相手でした。これらは「真の福音」ではなく「捻じ曲げられた福音」と呼ぶべきもので、だいたい「行ないによる義」と言いますが、行ないによってでは私たちは救われないのです。律法の専門家だったパウロ自らが律法ではなく「信仰によって」救われると証ししています。また私たちも「行ない」によって救いが与えられると考えてきました。人は良い行ないをすることによって、あるいは修行等によって救いが受けられるように考えてきたし、今もキリスト教を知らない人はそう考えているのではと思います。

行ないでは救われない私たちは、神の恵みによって「信じることによって」救われるのです。「信じること」や「信仰」にはそんな大きな価値があるのかと考えたことがあります。「信じること」より「正しい行ない」の方が優れているように思えたのです。「行ない」ではできない人は救われません。「信じること」は技術的にできない人はいないでしょう。私たちは神と断絶しました。だから義ではなくなりました。「信仰」はその断絶した神との関係を修復するのです。この「信仰による義」は神が開いて下さった救いへの道なのです。神は私たちをその愛によって、信じることへと導いて下さるはずです。

「信仰によって」救いを得ましょう。神はそのために御子イエスキリストを贈って下さいました。この恵みを無にしないで信じて歩みましょう。

 
 
 

[メッセージ要約]

「憐れに思って」  マタイによる福音書21:18~35(新約P35)  2017年7月16日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマタイによる福音書18章21節~35節です。この中から特に27節の「憐れに思って」の言葉に注目して学びたいと思います。

今日の箇所は例え話ですが、例え話の特徴として「分かりやすい」や「馴染みの…」ということがあげられます。ただ今日のお話には「1万タラントン」という途方もない金額が出てきます。ある方式で現代の日本のお金に換算すると6000億円にもなる「1万タラントン」の借金が免除されているのです。それくらいのものが赦されている恵みを感謝しつつ歩んでいきましょう。

27節の「憐れに思って」という言葉がわざわざ記されているのはなぜでしょうか。それはこの王はそういう憐れみの方だということです。これが記されている理由の1つです。そしてこの家来はどうして1万タラントンの借金が赦されたのでしょうか。それは王が憐れに思ったからなのです。それ以外の理由はありません。これが「憐れに思って」と記されている理由のもう1つです。この箇所の王は神を表しています。そして家来は私たち人間を表しています。王すなわち神は「憐れに思って」下さる方だということです。私たちの神は、弱い私たちを憐れんで下さる愛の方です。この家来は赦されるべき理由はありません。実は私たちもそうです。赦される資格のない私たちですが、神はその愛をもって「憐れに思って」赦してくださるのです。感謝いたします。

この例え話では残念ながらこの家来への赦しは無くなってしまいました。それは家来が同僚にお金を貸していて、返済を迫りますが、しばらくの猶予を願う同僚を赦さず、牢に入れたことが王に知れたことでした。その借金の額は100デナリオンで、先ほどの換算の仕方で100万円です。王から赦された金額とは比べ物になりません。この家来は王からの赦しを忘れてしまったのでしょうか。そして赦しを喜んでいなかったようです。私たちは神に「憐れに思って」いただき続けるために、神の赦しを忘れず、喜んで歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が喜びを下さる」   コヘレトの言葉5:17~19(旧約P1040)  2017年7月9日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコヘレトの言葉5章17節~19節です。伝道の書とか伝道者の書とも呼ばれるコヘレトの言葉から学んでいきましょう。

コヘレトの言葉は全体が「空しさ」にあふれています。今日の箇所はそれほどでもありませんが「空しさ」が感じられなくもありません。人間は喜びを求めて歩むものです。そして多くの場合「物質的な祝福を得る」ことによって喜びが与えられると思っています。そのことに対して「それは空しい」とここで著者が語っているように感じます。確かに物質的な祝福に魅力を感じます。しかし物質的な祝福は人に真の喜びを与えません。まずその祝福は必ず与えられるとは限りません。祝福が与えられなければ喜びが無いとすれば完全な喜びではありません。そしてたとえ祝福が与えられても結果としての喜びに過ぎないのです。結果はすぐに終わり、次が始まるのです。物質的な祝福による喜びは不確かで非常に空しいと言わざるおえないのです。

ここで著者はその空しさを解消する手立てを教えてくれています。それは与えられる祝福にではなくて、祝福を与えてくださるお方に注目するように記しています。神が与えるのですから確かな祝福です。今日の箇所からはその神から与えられる祝福を喜ぶことが記されているように思えます。神が与えてくださる祝福を喜ぶのですから確かな喜びです。確かに祝福を喜ぶように記されていると感じます。でも著者はその祝福にというより、むしろ与えてくださる神に喜びの基を置くように語っているように思われるのです。

私たちは神が祝福を与えてくださることを信じなくてはなりません。そして感謝と共に喜ぶことが大切なのです。私たちの歩みは楽なものではありません。むしろ苦しみ悩みが多いのです。でも神は必ず祝福を下さいます。信じて歩みましょう。神が与えてくださる確かな喜びをもって歩むときに、私たちの歩みは喜びに満ちた歩みとなるに違いありません。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストにより」  エフェソの信徒への手紙4:9~16(新約P356)  2017年7月2日 大竹敏生

 

本日は私たちの教会が属している日本バプテスト連盟の今年の「神学校週間」の最終日となります。エフェソの信徒への手紙4章9節~16節を通して神のみ言葉に耳をかたむけてまいりましょう。

よく言われることですが「献身者」とは牧師とか神学校で学ぶ者のみを指すのではなく、主を信じる者すべてが「献身者」なのだということを心がけていきましょう。神学校で学ぶ者は成長していく必要があります。そして献身者であるすべての信徒も成長していかなくてはなりません。そしてその成長は、自分の努力も多少あるでしょうが、成長させて下さるのは神である主イエスキリストです。9節の「昇ったという…」という言い方はおもしろいですね。でもこれがキリスト教の特長です。仏教では「人が神になる」と主張されるようです。キリスト教は「神が人となる」ことを福音として喜ぶのです。神が下りてきて人となって下さり、私たちを成長させて下さることを感謝します。

神でありながら人となり、人の弱さを理解して下さるお方が私たちを成長させて下さるのです。今日の聖書箇所を読みますと、その成長はすばらしいものです。13節には「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」とありますが、14節をみると未熟だった者がそこまで成長させられることが分かります。また私一人が成長させられるのではなく、私たち一人一人が共に成長させられるのです。私たちは一つであって共に教会で成長させられるのです。16節には私たちの成長が身体に例えられています。教会の中でキリストによって成長させられることを感謝いたします。また身体に例えられていることから、キリストによる私たちの成長のすばらしさが分かります。私たちの成長はキリストが導き、見せかけではなく完全なものだということではないでしょうか。そしてその完全な成長は主との交わりの中で、日々着実に成長させられ続けるのです。キリストによる愛の導きによって成長できることを感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の導きに従おう」    列王記下5:8~14(旧約P584)    2017年6月25日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書の列王記下5章8節~14節で、有名なナアマン将軍の癒やしの記事です。ここから神に従うことの大切さを学びましょう。

ここに登場するナアマンという人はアラムの軍司令官でした。英雄的存在であったようです。しかし彼は重い皮膚病にかかっていました。主はそんなナアマンを覚えて癒やしに導きます。彼はなかなか立派な人であったようです。ナアマンに病気の癒やしについて情報がもたらされますが、それは捕虜として連れて来られていたユダヤ人の少女からでした。彼女がナアマンとその妻を慕っていたからこそこの情報はもたらされました。そして、アラムの王がナアマンのために手紙を北イスラエル王国の王に送ります。ナアマンは上からも下からも愛されていたのです。ナアマンはイスラエルの捕虜の少女の語ることを軽んずることをせず、神の人である預言者エリシャのところへやってきました。

そこでエリシャはナアマンに使者を通して「ヨルダン川に行って7たび身を洗いなさい」と命じました。そうしたら癒やされるというのです。これに対してナアマンは2つの理由で憤慨します。1つは、エリシャ自身が出てこなかったこと。もう1つは、ヨルダン川より自分の国の川の方が大きく立派だということでした。人は自分を重んじてほしいと考えます。そして自分の常識的判断を大切にします。ナアマンは怒って去ろうとしました。実は私たちにとって自分より大切にしなくてはならないことがあるのです。それは神に従うことです。憤慨して去ろうとしたナアマンでしたが、神は捨て置きませんでした。家来からも慕われているナアマンは「もっと大変なことでもするつもりで来たはず、ヨルダン川で7たび身を洗うことは容易なこと」と言われました。ナアマンはその忠告に従って、結果的に神の人の言葉に従い、癒やされました。

神はナアマンに「従うこと」を求めました。ナアマンは神に従って祝福されました。私たちも神に従って、神のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主を思い起こしなさい」  テモテへの手紙Ⅱ2:8~13(新約P392)  2017年6月18日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はテモテへの手紙Ⅱ2章8節~13節です。この箇所から学び、主を思い起こしつつ歩んでいきたいと思います。

この手紙はパウロが、弟子のテモテに送ったおそらく最後の手紙と言われています。(諸説あり)手紙を見るとパウロのおかれている厳しい状況が分かるようです。血のつながりはないのに我が子と呼ぶほど愛している弟子を思い、いろいろとアドバイスをしています。その内の1つが8節に記されている「イエスキリストのことを思い起こしなさい」です。他の訳では「思い起こしなさい」が「いつも思っていなさい」となっています。そんなに難しいことではないようです。私たちが愛する者に、もう多くを告げることができない時、何を語るでしょうか。人の知恵を駆使して、かなり困難な重要と思われることを語るのではないでしょうか。人としての知恵にかけては誰にも負けないパウロは「イエスキリストのことを思い起こしなさい」とテモテに告げたのです。

パウロはこの時、9節にあるように囚われの身でした。つながれていたのです。それは福音のためでした。パウロがつながれ、福音はどうなったでしょうか。パウロは「しかし、神の言葉はつながれていません」と記しています。「神の言葉」と言えば聖書ですが、この場合は「言葉」には「語った方」という意味もあります。パウロはテモテにつながれていない神を思い起こすようにと命じているのです。簡単そうに思える「イエスキリストのことを思い起こしなさい」が、テモテがこれから先、どんな厳しい状況になっても、また大変な困難に直面しても助けると確信していたのでしょう。そしてこのことはパウロ自身が主を思い起こしつつ歩み、助けられてきたからこそ言えるのでしょう。

私たちも主を思い起こしつつ歩みましょう。私たちは弱く時に愛を必要とします。時に力を必要とします。また知恵を必要とします。主は愛の方であり、力と知恵の方です。必ず必要なものが与えられ、助けられるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ザアカイと呼ぶ主」   ルカによる福音書19:1~10(新約P146)  2017年6月11日 大竹敏生

 

本日は今年の「子ども祝福礼拝」です。子どもたちのさらなる祝福を願いつつ礼拝しましょう。聖書箇所はルカによる福音書19章1節~10節で有名なザアカイの物語からです。ここから主の愛を学びましょう。

ザアカイはエリコという町の徴税人の頭でした。徴税人はこの時代のイスラエルでは「裏切者」「不正する者」として罪人と同列にされるほど嫌われていました。このザアカイも同様だったと思われます。そんな中、イエス様がエリコにやってきました。ザアカイとは違って皆に慕われているイエス様です。ザアカイはイエス様を見てみたいと思ったようです。その思いはかなり強く、群衆にさえぎられて見えないので木に登ってイエス様を見ようとしました。そんなザアカイにイエス様は声をかけられました。

まず注目したいのは「ザアカイ」と名前を呼んだことです。おそらくエリコではザアカイの名を知らない人がかなりいたはずです。また知っていたとしても悪名として知っていたのでしょう。イエス様のように親しみを込めて名を呼んだ人は皆無といってもよいと思われます。ザアカイはイエス様が愛を込めて「ザアカイ」と呼んで下さったことがうれしかったに違いありません。また続けてイエス様は「あなたの家に泊まりたい。」と声をかけられたのでした。イエス様は全知全能の方です。私たち一人一人を愛し、必要がすべて分かっておられます。この時、ザアカイが何を求めていて、何が必要かをすべてご存じでした。「ザアカイ」と名を呼び「あなたの家に泊まりたい。」と声をかけることが、ザアカイにとって何よりも必要でうれしいことだったのです。

主は私たちも同じように愛されておられるのです。私たち一人一人の名は覚えられているのです。そしてその時その時必要な言葉を語って下さるのです。「み言葉が与えられた」という経験や「み言葉に励まされた」という体験を私たちはしているのです。名を覚えて呼んで下さる主に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「聖霊によって力を受ける」   使徒言行録1:3~11(新約P213) 2017年6月4日 大竹敏生

 

本日は今年のペンテコステとなります。与えられている聖霊を喜び、感謝しつつ神のみ言葉に耳をかたむけてみましょう。

本日の聖書箇所は使徒言行録1章3節~11節で、イエス様が天に昇っていかれる場面です。弟子たちがそれを見送っているのですが。この時の弟子たちは、主の復活を信じることができずに、おびえて隠れていた弱い弟子たちでした。そしてその弱い弟子たちを前に、今イエス様は天に昇って行かれるのです。弟子たちは相変わらず弱いのです。これからどうなってしまうのかと不安になる状況です。そんな弟子たちに、イエス様はご自身の業を任せられました。そこにはイエス様の愛が感じられます。そしてイエス様はすばらしい約束をして下さいました。それは「聖霊が与えられる」という約束でした。この聖霊は弟子たちに力を与えます。その力によって主イエス様の証人とさせられるのです。弱い者が証人になるにはいろいろな力を必要とします。語る言葉や行動するのに内面への力が必要です。また語ることや行動するための環境を整えたりする外部への働き掛けも必要なのです。内面と外面へのどちらの力も聖霊は与えて下さるのです。弱い弟子たちも聖霊によって証人とされて歩んだのです。また、聖霊の力によって証人となることができますが、聖霊の力はもっと広く深いのです。弟子たちの歩みの全てにわたって聖霊は力を与えるのです。まさに助け主なる聖霊です。

確かに主は聖霊を弟子たちに与えると約束されました。その約束は弟子だけでなく、主を信じる者すべてに約束されたのです。つまり私たちにも約束されたのです。主は約束を違えることをいたしません。今も私たちには聖霊が与えられています。この聖霊の力によって歩みましょう。証人となっていきましょう。そして与えられている聖霊を信じましょう。聖霊が与えられたことによって誕生した教会で、聖霊と共に主のために励み続けたいと思います。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛と恵みによって」 エフェソの信徒への手紙1:3~14(新約P352 2017年5月28日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はエフェソの信徒への手紙1章3節~14節です。この箇所から特に神の愛と恵みを考えていきたいと思います。

私たちは「義しさ」「正しさ」を求めて歩んでいます。「善」なのか「悪」なのか、また「正解」なのか「間違っている」のか、私たちはいろいろな局面で「義しさ」「正しさ」を求めて歩んでいるのではないでしょうか。しかし「救い」に関しては、人がどんなに頑張っても自分の「義しさ」で自分を救うことはできないのです。では「義しさ」「正しさ」を求めても「救い」に関しては、むなしい努力なのでしょうか。たしかに自分の「義しさ」では救われません。でも自分ではなく、神の「義しさ」が私たちを救うのです。私たちはその義しい神を信じることで救いを受けるのです。感謝します。

神はそのように信じる者に「救い」を与えて下さるのですが、どうしてそのようなすばらしいものである「救い」を神は私たちに下さるのでしょうか。世の中では、普通は「価値」に対して「対価」が与えられます。「救い」というすばらしい「対価」を受けるほどの「価値」が、私たちにあるのでしょうか。その答えは「イエス」です。ただその「価値」は神から見たものです。普通に考えて、私たちに「救い」に見合うような「価値」は残念ながらありません。しかし4節にありますが、神が私たちを愛して下さいます。そこに私たちの「価値」があるのです。そして私たちが愛されているので、7節に記されているように、私たちは恵みとして「救い」を受けることができるのです。

このように「神の愛と恵み」に私たちの「救い」はかかっているのですが、それにかかっているのならば、「この救いは強くない」と感じるかもしれません。確かに自分のことを考えると「愛される価値がある」と思えないかもしれません。でもそれ以上に神の愛は大きいのです。その大きな神の愛による恵みで、信じるすべての者が救われるのです。信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「福音にあずかって」   フィリピの信徒への手紙1:1~6(新約P361)  2017年5月21日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節~6節です。フィリピの信徒への手紙の最初の部分から学んでまいりましょう。

パウロの手紙の書き出しは、普通あいさつの後、その宛先の教会を褒めることが多いようです。この手紙もそうですが、他の教会への手紙に比べて簡潔です。これは、フィリピの教会が褒めることが少ないということではなく、むしろありすぎる褒めるところの中から、パウロが特に褒めたいところが記されていると考えて良いと思います。それは何かというと、5節に記されていますが「フィリピの教会が福音にあずかってきた」ということでした。

では「福音にあずかる」とはどういうことでしょうか。1つは、福音によって救いを受けることです。主イエスを信じて救われること、それが福音の説くことです。それが福音(良き知らせ)の目的なのです。またこの箇所から読み取れることですが、福音を伝えることが福音にあずかることでもあります。信じて救いを受けて、福音を宣べ伝え広めることが福音にあずかることなのです。そしてパウロがコリントの教会に送った手紙の中で、福音にあずかるために「福音のために、わたしはどんなことでもする。」と記しています。福音を宣べ伝え、福音を広めるためにどんなことでもするという思いをもっていくということが「福音にあずかる」ことに含まれています。主イエスキリストを信じて救われ、福音を宣べ伝えて広めること、そしてそのためにどんなことでもすると考えていくということが福音にあずかって歩むことなのです。

フィリピの教会は祝福された教会だったようです。どうして祝福された教会になったのでしょうか。それはフィリピの教会が「福音にあずかって」きたからでしょう。私たちも福音にあずかって歩んでいきましょう。この働きは、共に始められた主が、ご自身の来られる日までに完成させて下さいます。福音にあずかって、主と共に歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の愛からすべてが」 ヨハネによる福音書15:11~17(新約P199)  2017年5月14日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヨハネによる福音書の15章11節~17節です。本日の箇所にはいくつもの注目すべき言葉があります。以前、16節の「わたしがあなたがたを選んだ」という言葉を中心にメッセージをしましたが、今日は神の愛から導かれる主の恵みを見ていきたいと思います。

今日の聖書の箇所の中で「互いに愛し合いなさい」との命令が2回出てきます。繰り返されていることはこの命令が重要であることを示しています。そしてその重要な命令の前提として「神が私たちを愛して下さった」と12節に記されています。これが主のすべての導きの出発点なのです。愛される資格のない私たちを、まず主が愛して下さいました。愛して下さるゆえに、友と呼ばれるに値しない私たちを友と呼んで下さいます。その愛のゆえに選ばれる理由のない私たちを選んで下さったのです。その愛は大きく揺らぐことはありません。それを信じて歩み続けましょう。

そしてその主の愛から私たちはいろいろなものを得ることができるのです。愛されるがゆえに、愛することができます。つまり愛し合うことが可能なのです。愛されているから喜びに満たされます。また愛されているがゆえに私たちは主のために働くことができるのです。木は実を結ぶことによって役に立ちます。私たちも主につながって愛を注がれて、主のために実を結ぶことができるのではないでしょうか。主に愛されている私たちにとって、主のために役立つ者とされることは、何よりも大きな喜びです。主が私たちを愛して下さっておられるのですから、主が実を結ばせて下さるでしょう。そしてその実が残るようにもして下さるのです。16節によると、実が残るように主は私たちの祈りを聞いて下さることが約束されています。感謝いたします。

私たちが主に愛されているという事実はこれからも変わりありません。ここから主に導かれて、愛し合い、主のために実を結んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「必要を満たす神」  フィリピの信徒への手紙4:15~20(新約P366)  2017年5月7日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙4章15節~20節です。今日はこの個所から、特に19節を中心に学んでみましょう。

このフィリピの信徒への手紙をパウロが書いた理由の1つは、フィリピの教会からパウロに贈られた支援に対してのお礼でした。パウロはフィリピの教会からの支援をとても喜んでいます。ただ今日の箇所の少し前の11節には「物欲しさにこう言っているのではありません。」と記しています。これはパウロがやせ我慢しているのではなく、むしろパウロがどんな時も主によって支えられ、守られた体験からくる証しです。ではパウロはなぜこのように喜んでいるのでしょう。14節を見ると「苦しみを共にしてくれた」とあり、18節には「神が喜んで受けてくださる」とあります。フィリピの教会の人たちがパウロと同労の友となったこと、そして神を喜ばせる働きをしたことをパウロは喜んでいるのです。それはフィリピの教会のさらなる祝福につながるのです。

さて19節を見ましょう。ここでは「神の力によって私たちの必要が満たされる」ことが読み取れます。私たちにとって「必要」なのはどういうものでしょうか。1番最初に思いつくのは「生きるために」欠かせないものです。イエス様は「父なる神は生きるのに必要なものはご存じだ」と言われます。そして確かに「生きるのに必要なもの」は与えられるのです。感謝いたします。ただパウロは「自分が」生きるのに必要だから求めるというような思いではなく、むしろパウロは「主のために」生きるのに必要なものを求めているのです。この手紙の1章21節でパウロは「わたしにとって生きるとはキリストであり」と記しています。主のために生きるパウロに必要は満たされるのです。

私たちも主のために伝道したり、奉仕したり、証ししたり、また献げたりいたします。それらに必要な力は主が与えてくださいます。感謝して主のために歩んでいきましょう。私たちの必要を満たす神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の恵みと知識によって」  ペトロの手紙Ⅱ3:14~18(新約P439)  2017年4月30日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はペトロの手紙Ⅱの3章14節~18節で、この手紙の終わりの部分です。この個所から主のみ言葉を学んでまいりましょう。

聖書にある手紙は「迫害にあっている人を励ます」ものや「間違った教えに惑わされないようにとの警告」であるものが多くあります。この手紙もそういう目的で書かれています。特に今日の箇所は「偽教師の教えに惑わされないように」という警告が読み取れます。ペトロの同労者であり、同じく使徒であったパウロも同じことを手紙に記しているとあります。この時代のクリスチャンたちは皆同じような問題に悩まされていたのでしょう。そのパウロの記した教えについては「難しく理解しにくい箇所」があるとあります。そしてそれを曲解してしまうことに対して強く警告しています。これは自分本位で考えるのではなく、神の導きで主の思いを求めていくことが勧められているのでしょう。

そして18節には「主の恵みと知識によって」成長することが勧められています。「知識に」よってとは、1つは主を知ることという意味があります。主について知り、交わることが大切であって、私たちはそのことによって成長できるのです。また弱い私たちの「知識」では全く心持ちません。主の「知識」を求め、祈りつつ歩むことが大切なのです。また「恵みに」よって成長する必要があります。私たちは日々の歩みの中で多くの恵みを受けています。その多くの恵みに満たされて歩むことが成長につながります。多くの人たちが、主と共に主の恵みに満たされて歩むうちに、成長していることに気づかされるというような体験をしているのです。また「恵み」ということから、主が一方的に私たちを愛し、私たちを成長させて下さることが分かります。「主の恵みと知識によって」成長させられて歩んでいきましょう。

私たちの信じる者としての歩みも、困難があります。主によって成長させられて困難を乗り越えて歩んでまいりましょう。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主に喜ばれるために」 エフェソの信徒への手紙5:8~14(新約P357) 2017年4月23日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙5章8節~14節です。ここから特に10節を中心に学んでまいりましょう。

まず注目したいのは、8節にあるように私たちは「光」とされているということです。もとは、私たちは「暗闇」でしたが、主によって「光」とされたのです。ただ私たちはもとは「暗闇」です。光っていないのです。本日の箇所の後半の13節~14節を見ると私たちは「照らされている」のです。主に照らされて「光」とされているのです。主の恵みに感謝いたします。

そして10節を見ましょう。「光」である私たちは、何が主に喜ばれるかを吟味しなくてはいけないのです。このことを考えると案外難しいことのように思います。私たちは、他の人を喜ばせようと思って行動しても、それが相手の喜びにならなかったというようなことを経験していたりするでしょう。人と人との関係においては、よく考えて行動しないとせっかくの好意が無駄になることもありえるのです。ただ、神との関係においてはそんなに躊躇しなくてもよいのです。なぜかといえば「主は私たちを愛しておられる」からです。私たちも、自分の愛する人から何かしてもらったとすれば、それがどんなものでも感激するでしょう。私たちの主は私たちをこの上なく愛してくださっています。私たちの神に対する行為ならどんなことでも喜んでくださるでしょう。

では「何をしたら」を吟味するのでなければ、何を吟味するのでしょう。それは「主に喜ばれるために」という思いを、私たちが持ち続けているかを吟味するのではないでしょうか。私たちは主のために、祈り、献金し、伝道し、奉仕し、証しし、その他いろいろなことをします。それをいつも心がけて「主を喜ばせるために」歩んでいるかを吟味するのです。私たちは油断するといつの間にか「自分を喜ばせるために」歩んでいます。「光」とされて「主に喜ばれるために」歩んでいきましょう。主は必ず私たちを祝福してくださるはずです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活された主によって」 ルカによる福音書24:25~35(新約P160) 2017年4月16日 大竹敏生

 

本日はイースターです。私たちのために十字架にかかって死んでよみがえられた主に感謝し、主の復活を喜びつつ神のみ言葉から学びましょう。

今日の聖書の箇所はエルサレム近郊の町エマオに向かう弟子たちに、復活された主イエス様が現れた個所です。イエス様が十字架にかかって死に、復活されたことは、かねてから主が言われていたことでした。そしてこのエマオに向かう弟子たちは、天使から「主が生きておられる」と告げられた婦人たちの話も聞いていたのです。にもかかわらずこの弟子たちは、逃げるように夕刻にエルサレムを去りエマオに向かっていたのです。

主の復活を信じられない弟子たちに話しかけ、25節からはその不信仰を嘆きつつも弟子たちに語りました。語られた内容については「私は復活した」というようなことは言わず、旧約聖書から自分すなわちイエスキリストについて書かれていることを説明したとあります。その後、弟子たちはエマオについて、賛美の中でイエス様からパンを渡されたときにイエス様だと分かりました。これはこの弟子たちの信仰がイエス様によって回復させられたことを示しています。しかもこの信仰の回復は弱かった弟子たちに力を与えました。復活の情報を聞いても信じられず、逃げ出したこの弟子たちは32節では主との交わりの中で「心は燃えていたではないか」と語り合い、逃げ出したエルサレムに、夜道の危険を顧みずに戻って行ったのです。エルサレムに着くとすぐに復活の主を証ししました。復活の主によって無くなりそうだった信仰が回復させられ、力強い証し人とさせられたのです。

復活された主は今も生きておられます。そしてこの弟子たちのように弱い私たちにも力を下さるのです。私たちもこの弟子たちのように弱くなったりすることもあるかもしれません。でもこの弟子たちのように主によって回復させられるのです。そしてこれからも主を喜び、証しする者でありたいと思います。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしを信じる者は」 ヨハネによる福音書14:1~14(新約P196)  2017年4月9日 大竹敏生

 

本日は今年のイースターの前の主日で「棕櫚の主日」です。そして今日から今年の受難週になります。本日はイエス様が十字架にかかる直前になされたといわれる「告別説教」から神の導きを受けていきましょう。

本日の聖書箇所の一番初めに「心を騒がせるな」とあります。聖書にはこういう命令がかなり多く出てきます。他の箇所では「思い悩むな」とか「思い煩うな」とか記されていたりします。数多く出てくることで分かりますが、これは私たちにとって実は意外と大切なことなのです。今日の聖書箇所では心を騒がせなくてよい理由として、この世での歩みを終えた後に、私たちに住まいが備えられていることが挙げられています。これは永遠の生命が与えられるということで、つまり私たちの救いを意味しています。確かに救いは信じる者に与えられる恵みです。私たちは主を信じて救いを受けて歩む必要があるのです。

ただ「心を騒がせるな」という命令はそのことだけで解決できるのでしょうか。「心を騒がせる」のは、私たちの罪ゆえの弱さがさせるので、罪からの救いは関係があるといえます。ただ、その弱さからくるいろいろな「心を騒がせる」要因の解決はどうなるのでしょうか。本日の聖書箇所の終わりの部分には、信じる私たちには「願うことは何でもかなえられる」ことが約束されています。今日の聖書箇所のもう少し後のヨハネよる福音書の16章の終わりには「私たちはこの世では悩みがある」ことが記されています。この世にある限り、罪ある私たちは心を騒がせたりするでしょう。でも私たちには、祈りを聞いて下さる神がおられるのです。主を信じて、神に守られ、主にある平安の内を歩んでまいりましょう。

私たちの主である愛のイエスキリストは、全知全能の父なる神と助け主なる聖霊と一体のお方です。私たちは信じる者として、このすばらしいお方を信じて、このお方を証しし、この方のために歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストに根ざして歩め」 コロサイの信徒への手紙2:5~7(新約P370)  2017年4月2日 大竹敏生

 

本日は2017年度最初の主日礼拝です。2017年度の主題聖句はコロサイの信徒への手紙2章7節です。この個所を中心に神のみ言葉から学びましょう。ちなみに今年度の主題は「キリストに根ざして歩め」で説教題と同じです。

今日の箇所の6節には「キリストに結ばれて」とあります。7節の「キリストに根を下ろして」とどこが違うのでしょうか。意味にそれほど大きな違いはないと思われます。ただ「根を下ろして」は「根ざして」ですから、こちらの方がより強い結びつきを感じます。「結ばれて」は「根ざして」に発展していくのです。主によって「キリストに根ざして」歩みましょう。

「キリストに根ざして」という言葉からいくつかのことが分かります。根が無いと植物は生きていけません。私たちが主にあって霊的に生きていくためにキリストに根ざして歩む必要があるのです。また植物は根によって生きるだけではなく成長していきます。小さな種はいつか根を張り、大きく成長していきます。7節には「造り上げられ」とありますが、これは成長していくことです。私たちもキリストに根ざして成長していくことができるのです。また「根ざす」ということは当然根が下にあります。植物は根ざす地によって支えられるように、私たちはキリストによって支えられるのです。キリストに根ざすことによって支えられ、成長し、命が与えられながら歩みを進めましょう。

では「キリストに根を下ろす」「キリストに根ざす」ために具体的にどうしたら良いのでしょうか。5節と7節に「信仰」という言葉が出てきます。この「信仰」が私たちをキリストに根ざして歩ませるのです。信仰をもって歩みましょう。また7節に「感謝」という言葉が出てきます。この「感謝」も私たちをキリストに根を下ろさせるのに大切です。「感謝」は終わりではなく、神との関係を続けさせるのです。信仰をもって感謝しつつ歩みましょう。主と共に歩むとき私たちは感謝と喜びに満たされ、キリストに根ざして歩めるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じる者を義とされる」 ローマの信徒への手紙3:21~26(新約P277) 2017年3月26日 大竹敏生

 

本日は伝道礼拝です。導かれた聖書の箇所はローマの信徒への手紙3章21節~26節です。ここから主を信じることによる救いを見たいと思います。

私たちはどうしたら救われるのでしょうか。一般的には、その人の死ぬまでの行ないが問題になると考えている人が多いのではないでしょうか。つまり「この世で善い行ないをすれば天国に行けて、悪い行ないをすれば地獄行き」というように考えている人が多いということです。聖書ではそうではなく「主なる神を信じることで救われる。」と教えてくれているのです。ただこのローマの信徒への手紙が書かれたころのクリスチャンたちの中には「律法による行ない」が救いの条件と考えていた人が多くおりました。それに対してこのローマの信徒への手紙の著者パウロは「行ないではなく信仰による義」を強く主張しています。私たちは「主を信じる信仰」によってのみ救われるのです。律法は私たちの現実を示しています。私たち誰もが罪を持っており、その罪により誰一人律法を守ることができないのです。

そんな罪がある私たちが、なぜ「主なる神を信じること」で赦され、救われるのでしょうか。罪は私たちを主なる神から引き離しました。私たちは神に帰らなければなりません。罪がある私たちが「主なる神を信じること」で神に戻ることができるのではないでしょうか。信じて歩みましょう。

主なる神は罪を憎む方です。私たちは罪ある者です。私たちも神の憎しみの対象なのです。ですがそれ以上に私たちを愛して下さる神が、ご自身の子であるイエス様を私たちを救うためにこの世に送って下さったのです。私たちの代わりに十字架にかかってくださったのです。神はそれくらい罪を憎んでいましたが、それ以上に私たちを愛して下さいました。それを信じるべきです。私たちの罪を赦し、私たちを救うために十字架にかかって下さった主イエスキリストを信じることが、それに対する私たちができる唯一のことです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神御自身が」 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:16~24(新約P379)  2017年3月19日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はテサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章16節~24節です。この中でも特に16節~18節はよく知られた箇所です。その有名な箇所を含むこの箇所から、愛の神が私たちを成長させて下さることを学びましょう。

テサロニケの信徒への手紙Ⅰの特徴の一つとして、いわゆる再臨の記述が多いことがあります。イエス様がまたこの世に来られることは確かです。その再臨についてテサロニケの教会の人たちは間違った理解をしていたのかもしれません。イエス様は再びこの世に来られることを約束されました。ただ何時再臨なのかは語られませんでした。テサロニケの教会の人たちは再臨がもう来るように考えていたようです。こう考えることは別に悪くはありません。この手紙の著者パウロもそう考えていたかもしれないのです。ただ「再臨がすぐ来る」と考えても問題は無いのですが、人は弱いのです。そう考えることで必要以上に不安になったり、生活が怠惰になったりしている問題がテサロニケの教会の人たちにあったようです。そこが問題でした。

パウロ指摘していますが、私たちは再臨が何時なのかは知らなくても良いのです。ただ何時再臨があっても良いようにしておかなければなりません。どうしたら良いのでしょうか。今日の箇所の16節~18節にかけて「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」とあります。このことは主なる神を信じていなければとうていできないことです。再臨に備えて私たちは、思い煩ったりせずに信じて歩むことが大切なのです。

信じて歩むときに、私たちは主に喜ばれる歩みができるでしょう。私たちの歩みは主の高みを目指す歩みです。私たちは成長していかなくてはなりません。23節~24節を見ると「神御自身が」それをしてくださるとあります。私たちはそのことを信じて歩まなくてはいけません。愛をもって神御自身がしてくださることを信じて歩むとき、成長と共に祝福が与えられるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主は今も我が内に」 コリントの信徒への手紙Ⅱ13:4~10(新約P341) 2017年3月12日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ13章4節~10節で、この手紙の終わりのところです。ここから特に、主が今も生きておられ、私たちの内におられることを見ていきましょう。

「今から二千年前の人の福音が現在に通用するのですか?」こんな質問を受けたことがあります。時代は移り変わりました。教会もそれなりに変わってきたでしょうし、変わらなくてはならないものもあるでしょう。でも福音は変わらなくてよいのです。人は昔も今も罪があります。自分でその罪の問題を解決した人はいません。信仰による救い以外ありません。福音は罪に対して今でも唯一通用するものです。感謝いたします。また主イエスキリストは今から2千年前に存在しましたが、十字架で死んで復活されて今も生きておられるのです。昔から罪人だった人間に対して今も生きておられる神です。主の導きによる聖書も今も私たちに語ってくださるのです。

主は今も生きておられます。ではどこにおられますか、主なる神は「天」「私たちと共に」「私たちの近くに」おられるとか言われます。そしてそれはすべて正しいのです。今日の聖書箇所からは、主は「私たちの内に」おられると記されています。「内」ということは、これ以上近くは無いのではありませんか。弱い私たちの一番近くにいてくださるということは、神は私たちをこれ以上ないほど大きく愛して下さっていることを示しているのです。愛の神が私たちの内におられるので、私たちは守られるのです。また今日の聖書箇所にはコリントの教会の人たちの罪から悪が出てきていることがうかがえます。パウロは、もし主が私たちの内におられるならば悪から離れることができるはずだと記しています。罪はいつも私たちを悪に落とし、神から私たちを離れさせようとします。しかし主は私たちの内にいます。そのことを信じて歩んでいきましょう。主を信じて、主に守られ、助けられ、これからも喜びつつ進みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストに結ばれて」 コロサイの信徒への手紙2:6~10(新約P370)  2017年3月5日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコロサイの信徒への手紙の2章6節~10節です。この箇所を通して神のみ言葉を学んでまいりましょう。

このコロサイの信徒への手紙は、コロサイの教会の正しい福音に対して、偽りの教えが入り込んだことをパウロが心配して書いた手紙と言われています。今日の箇所の後半部分はそのことと関係しているのかもしれません。イエスキリストは神の子であり、人間でした。それを否定するような教えがコロサイ教会に入ってきたようです。9節にはそれが記されています。このキリストは私たちを満たしてくださる方であり、すべての支配や権威の頭であると10節に記されています。イエスキリストこそ、神の子でありながら人となって私たちを救うために来てくださったお方です。感謝いたします。

このキリストに私たちは結ばれていく必要があります。6節にはそのことが記されています。その6節に「キリスト・イエスを受け入れた」とあります。この「受け入れた」は「信じた」ということでしょう。ただ「受け入れた」という言葉には何か「異質なもの」「未知なもの」を体験し、自分のものとしていくような意味合いを感じます。ある種の恐れや不安をおぼえつつ自分のものとしていく感じです。それは信仰と同じです。そして6節では続けて「キリストに結ばれて歩め」と命じられています。それは「受け入れたのだから」です。この意味の1つは、信じた者のあるべき姿だということです。受け入れた私たちはそれにふさわしくキリストに結ばれて歩みましょう。もう1つの意味は「受け入れ続ける」のは罪ある私たちには簡単なことではありません。でも「キリストに結ばれて」歩むことによってそれができるのです。

では「キリストに結ばれて歩む」とは具体的にどういうことしょうか。それは主と共に歩むことでしょう。「祈ること」「感謝すること」「教会の交わりに集うこと」「聖書を読むこと」などです。キリストに結ばれて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「成長させられて」  コリントの信徒への手紙Ⅰ3:4~9(新約P302)   2017年2月19日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰの3章4節~9節です。この個所を通して神のみ言葉に耳をかたむけてまいりましょう。

コリントの信徒への手紙を読むとき、ⅠにしてもⅡにしてもコリントの教会に分裂分派の問題があったことを押さえておく必要があります。本日の箇所もそうです。「パウロが植え、アポロが水をまいたが、成長させたのは神」と理論が展開されていますが、この手紙の最初に書かれていたことを受けたかたちになっています。「パウロでもアポロでもなく成長させた神」へと目を向けさせ、分裂分派を非難しているのです。

ただそういう問題は無かったとしても「成長させる神」を意識して歩む必要があります。私たちは信仰を持って歩み続け成長し続ける必要があります。今日の箇所では成長するのは「あなたがた」で、つまりまず思いつくのは「教会」です。確かに「パウロが植え、アポロが水をまいたが、成長させたのは神」と記されているのはコリントの教会のことです。ただ「教会」というのは私たち一人一人の集まりです。ここでの成長は「人」の成長なのです。「教会」も「人」も成長させるのは神なのです。ただ成長させるのは神なのですが、神は「人」を愛しておられ「人」を用いてくださるのです。神は「教会」も「人」も愛しておられ、成長させてくださるのです。

なぜ成長させられるのでしょうか、それは「教会」も「人」も神の畑、神の神殿として神に用いられるためです。ただそれは決して神のみのためではありません。「教会」と「人」が成長させられるのは私たちのためでもあるのです。成長させられて「教会」も「人」もさらに祝福されるでしょう。神は「教会」も「人」も愛しておられ、私たちの祝福のために成長させて下さるのです。

成長させて下さるのは神です。自分たちの力で成長はできません。私たちを愛して下さる神によってこれからも成長させられていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「期待すべき方に望みを」  ペトロの手紙Ⅰ2:1~8(新約P429)  2017年2月12日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰの2章1節~8節です。その6節の言葉を中心に主のみ言葉を学んでいきましょう。

6節は旧約聖書のイザヤ書28章16節からの引用です。ただこの箇所は正に預言ですが、予言でもあり、ここに出てくる「石」はイエスキリストのことです。それを「信じなさい」と命じているのです。これに信頼する者は「失望することはない」のです。この「失望することはない」とは単純に「希望通り成る」ということばかりではありません。主によって「最善が成る」のです。弱い私たちが主に望みを置いて歩み続けることが大切です。

「信じる」ということは「信頼する」「望む」「期待する」などの意味を含んでいます。これらはそんなに難しいこととは思えないかもしれません。しかしこれができないのです。ついつい「自分」や「目に見えるもの」を信頼してしまうのです。でも本当に私たちか信ずべき方は主なのです。私たちは実際どういう方に信頼し、期待し、望みをおくでしょう。それはまず力がある方です。弱い私たちが厳しい状況を迎え、望みをおくのは力ある方です。全知全能の神には誰よりも大きな力があります。また私たちが望みをおく方には愛がなくてはなりません。その力を私たちに向けて下さる愛が必要なのです。主なる神は愛の方です。力と愛を兼ね備えた主に期待しましょう。

ではどうしたら主を「信頼する」ことができるでしょうか。1つは主を知ることです。主の愛と力を知ればそこに信頼をおけるでしょう。そして主を知るために主と共に歩み、主の愛と力を体験しましょう。またもう1つあります。実は主が私たちを信頼し、期待しています。それは主が私たちを愛しているからです。ということは私たちが主を愛することによって主に期待し、望みをおけるのではないでしょうか。私たちが歩み続ける中で主に期待していきましょう。主こそ期待すべき方であり、この方に望みをおく必要があるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主が一つにして下さる」 エフェソの信徒への手紙4:1~8(新約P355)   2017年2月5日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙4章1節~8節です。この箇所から主のみ言葉を学んでいきましょう。

今日の聖書箇所の3節にもありますが、聖書では多くの箇所で「一致」が勧められています。つまり聖書は「キリストにあって一つとなること」を推奨しています。そしてそれは神から招かれている私たちの務めなのです。

「一致する」「一つとなる」と言いますが、決してたやすくできるものではありません。7節を見ますと、私たち一人一人に賜物が与えられていることが分かります。私たちは一人一人が別々の個性をもっているのです。それぞれ別々のものが一つとなるのは決して簡単ではないのです。その難しいことを成して下さるのが、私たちの頭となって下さる主なのです。私たちは主を頭と仰いで一つとなる必要があります。私たち一人一人が今、主を信じて、主を仰いで一つとされていきましょう。そして主のために歩んでいきましょう。

では私たちは何故に「一つとなる」必要があるのでしょうか。本日は今年の日本バプテスト連盟の「協力伝道週間」の最終日です。なぜ一つ一つ個性をもつ連盟の教会が協力するのでしょうか。それは一つの教会ではできないことを協力して行なうためです。それと同じように私たち一人一人も罪ゆえに「弱い者」です。そうです。罪赦された私たちでも一人では弱いのです。だから「一つとなって」歩む必要があるのです。主の御用を成していくためにも、主によって一つとされて歩みましょう。またその「主によって一つとされていくこと」は、そのことが「喜び」なのです。一つとなることは困難です。しかし主によって一つとされていく時、それは私たちにとって恵みであり、祝福であり、そして間違いなく大きな喜びなのです。

主によって一つとされることは私たちの喜びです。そしてそれは主なる神の望んでおられることです。一つとされ、主と共に喜びの歩みを続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「先立つ主に従え」   マタイによる福音書28:5~10(新約P59)   2017年1月29日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書28章5節~10節です。ここから主のみ言葉に耳を傾けていきましょう。

今日の聖書箇所はいわゆる「復活」の箇所で、イースターによく取り上げられる箇所です。ただ今日はここから我らに先立って歩んで下さる神の愛を考えます。7節や10節に「ガリラヤ」という地名が出てきます。弟子たちの多くがこの「ガリラヤ」が故郷です。そこに主は「先に行っている」とエルサレムにいる弟子たちに言うのです。イエス様が「先に行く」というのは意味があります。1つは「危険を取り除く」ということです。先立つ神は後から行く者たちのために整えて下さるのです。また「先に行って待っておられる」のですから、そこに行くと主は我らと共におられるのです。そして「先に行く」のは来ることを信じているのです。この時の弟子たちの状況は、先にガリラヤに行かれる主の「来よ」の命令にすぐに応えられるとは言い難いものでした。復活を信じられず、おびえて、身を隠しておりました。そんな弟子たちに先立って歩む神は、弱い弟子たちを守り、共に歩み、信頼しておられるのです。ここに主の大きな愛を感じることができます。

私たちの歩みもそうです。神はいつも私たちに先立って歩んで下さるのです。弟子たちはその罪ゆえに弱かったですが、私たちも罪人です。同じように、いやそれ以上に弱いのです。でも弟子たちは主に愛されていました。私たちも同じく愛されています。弱い私たちが何かを行なう前におびえてすくんでしまうときも、神は先立って私たちを守ります。そして私たちと共に歩んで導いて下さいます。また私たちが先立つ主に従い、主のために歩むことを信じて待っていて下さるのです。先立つ主の守りと、共に歩んで下さることと、私たちを信頼して下さることを感謝いたします。先立つ愛の主に従って歩んでまいりましょう。それが主の愛に応えることになるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救うのは神」   ローマの信徒への手紙7:13~25(新約P283) 2017年1月22日 大竹敏生

 

本日は伝道礼拝です。聖書の箇所はローマの信徒への手紙7章13節~25節です。この箇所から主なる神の愛による救いを学んでいきましょう。

「私たちは罪人です。」こう言われると素直にうなずけない人も多いでしょう。罪を犯した覚えはない人の方が多いと思います。また聖書から現実に「私たちは罪人なのだ」と言われても「その責任は私が負うのか」と言いたくもなるでしょう。でもこう考えましょう。「罪は病気」と言います。病気は治さなくてはなりません。私たちも現実にある罪を解決しなくてはならないのです。

今日の箇所の少し前の6章23節に「罪の支払う報酬は死である」とあります。私たちは罪の問題を解決しなくては「永遠の滅び」に至るのです。罪の問題が解決されれば、肉体は死にますが主によって「永遠のいのち」が与えられるのです。また罪の問題はそれだけではありません。今日の箇所には、罪によって「したいことができず、したくないことをしてしまう」という実態が記されています。善いことをしたいと思ってもできずに、したくない悪を行なってしまうというのです。そしてこの手紙の著者のパウロはそれを「なんというみじめな人間なのだろう」と嘆いています。現在も罪は私たちをむしばんでいるのです。その問題も主は負って下さるのです。

私も教会に通い始めたころ、ある時自分が特にしたくないと考えていた「高慢」という悪に陥り、こういう生き方はしたくないと考えていた「感情をコントロールできないような歩み」をしている現実に直面しました。情けなくてみじめで立ち上がることができないような思いでした。自分で自分を好きにはもちろんなれず、受け入れることもできない状態でした。すべてが否定されましたが、ただお一人イエスキリストの愛だけが私のよりどころでした。

パウロも言っています。罪に悩みみじめな私たちを救うのは神だけです。神を信じて罪を解決して救われましょう。信じる者を救う神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らの内に働く神」  フィリピの信徒への手紙2:12~18(新約P363)  2017年1月15日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙2章12節~18節です。この箇所から主なる神の愛による導きを覚えていきましょう。

今日の箇所もそうですが、前の箇所から「従順」ということが一つのテーマになっています。この「従順」は前の箇所の8節には「主自らが従順だった」とあります。つまり私たちが「従順」であるということは、模範である主に倣うことになるのです。12節によるとその「従順」は私たちを救いの達成に導くとあります。主に倣って「従順」に歩みましょう。

13節を見ますと神が私たちの内に働いて、御心を行なわせて下さることが分かります。私たちが神に用いられるとき、誤解してしまうことがあります。私たちは神に用いられるのですが、それは何か「道具」のように用いられると思っています。確かにそうです。私たちは神のために「道具」や「器」のように用いられるのです。ただ普通の「道具」や「器」は「意志」や「考え」などを持っていません。それに対して私たちには「意志」や「考え」や「思い」があります。それは神からの賜物です。「道具」や「器」がおのれのすべてを通して働きますが、私たちもおのれのすべてを通して神のために働きます。「意志」や「考え」を持ちつつ働くのです。13節には神が私たちの内に働いて、望ませたり、考えさせたりするとあります。これは神の愛です。神は私たちに愛をもってすべてを与えました。そのすべてを用いて働かせて下さるのです。

神が私たちの内に働くとき、私たちは神の御心の実現のために働くことができます。神の御心とは何でしょうか。それは「神の」とありますが、私たちのためなのです。愛をもって私たちに与えられた賜物を、神が私たちの内に働いて用いて下さり、神の御心、実は私たちのための愛の計画を成して下さるのです。感謝いたします。これからも神に内に働いていただいて、神の御心のままに用いられて歩みましょう。内に働いて下さる神さまに感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストの体」  コリントの信徒への手紙Ⅰ12:12~27(新約P316)  2017年1月8日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰの12章12節~27節です。聖書にはいろいろなところで「教会はキリストの体」と記されています。本日の箇所もその一つです。ここから主のみ言葉を聞きましょう。

聖書には「教会はキリストの体」とあります。そして私たちはその体の部分だとあります。そして他の聖書箇所には「キリストは教会の頭」とあります。キリストは教会の頭であって、キリストの体を形成しているのです。つまり私たちは頭であるキリストのために、キリストの体の部分として、キリストのために働くのです。主のために働けることを感謝いたします。

私たちはキリストの体の部分なのですが、本日の箇所では、まずどの部分も同じように大切であり、どれもキリストの体の部分であることが記されています。どの部分も大切だということは、そこに上下は無いということです。上はただお一人主なるキリストだけなのです。そしてそこにあるキリストの体は、決して完璧なものではありません。コリントの教会にパウロは何度も警告しています。それは「分裂しないで、一つとなれ」とです。完璧ではなく弱い私たちはコリントの教会のように一つとなれないことがあるかもしれません。キリストにあって一つとなって歩んでまいりましょう。また26節を見ると部分は苦しむことがあるのです。もし完璧ならば苦しむことはありません。罪ある私たちは苦しむのです。でもキリストの体である私たちはその苦しみは部分ではなく、キリストの体全体が苦しむとその26節に記されています。キリストの体全体が苦しむということはキリストも苦しんでおられるのです。ここに愛があるのです。不完全でありながらキリストの体の部分として下さって、共に歩んで下さり、働かせて下さるのです。自分の弱さを思うと落ちこんでしまうように感じることもあります。しかしキリストは体の部分である私たちを愛し、弱さを無視せず、むしろ共有し働かせて下さるのです。その愛に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられている賜物」  マタイによる福音書25:14~30(新約P49)  2017年1月1日 大竹敏生

 

本日は2017年の最初の日で、元旦礼拝です。そして本日は主日ですから、本日の礼拝は2017年最初の主日礼拝となります。今年も主に守られ、祝福されますように祈りつつ、神のみ言葉に聞いていきましょう。

本日の聖書箇所は有名な「タラントンのたとえ」と呼ばれる箇所です。3人のしもべが主人からそれぞれ5,2,1タラントンのお金が預けられました。二人がそれぞれ倍にして返しましたが、一人が地に埋めといてそのまま返したということが記され、そのまま返したしもべが主人から追放されるというたとえ話です。ここで自分に当てはめると、お金であればそのまま返す気持ちも分かります。お金は無くなったり、減ったりします。ただこれはお金にたとえられていますが、実は私たち一人一人に与えられている能力のようなものです。無くなりません。この能力は神からの愛の賜物であって、私たちはむしろ喜んで用いる必要があるのです。追放されたしもべは主人を誤解しており、賜物を喜ばずに地に埋めたのです。私たちはそうなってはならないのです。

この話から賜物について分かることがあります。1つは、私たちに与えられている賜物はとても価値が高いということです。タラントンという単位のお金です。1タラントンで何十年もの年収にあたります。また賜物は誰にでも与えられています。主人との関係に問題がありそうなしもべにもタラントンは与えられました。私たちに価値ある賜物をくださった方は愛をもって私たちに賜物を下さいました。それを信じましょう。そして喜びましょう。そして用いていきたいと思います。この話からまた賜物をどうすることが良いのかも分かります。賜物はもちろん用いることが大切です。そしてその用い方ですが、二人の僕は主人のために用いたのです。主人を愛していたのでしょう。私たちも与えられた賜物を主のために用いるとき、主は喜んでくださり、さらに祝福されるでしょう。今年も主のために賜物を生かして歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「クリスマスに我らも」  マタイによる福音書2:1~12(新約P2)   2016年12月25日 大竹敏生

 

本日の礼拝は今年のクリスマス礼拝となります。マタイの記したイエスキリストのご降誕のよく知られた箇所から学んでいきましょう。

東方から星に導かれてやってきた占星術の学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれに方は?」と尋ねてきました。それを聞いたヘロデ王は不安にかられます。誕生したメシアは確かに「ユダヤ人の王」とされていますが、むしろ私たちの罪を赦すお方で、救い主だったのです。ヘロデは内面の不安と恐ろしいたくらみを隠して「見つかったら知らせてくれ」と博士たちに頼むのでした。主の導きによって、博士たちはヘロデのところに戻らないで自分の国に帰っていき、その結果、ヘロデは残虐な行為をしでかしたのです。人の罪は本当に恐ろしいものです。やはり人間は救われなくてはならない存在なのです。

このようにヘロデは誕生したメシアを単なる「ユダヤ人の王」と考え、自分にとって害となる存在と認識しました。大きな思い違いでした。「救い主は何のために誕生した?」「誰のため?」という問いに対してどう答えるでしょうか。ある人は「私たちのため」またある人は「あなたのため」と答えるでしょう。どちらも正解です。救い主はすべての人の罪を赦すために誕生されました。すべての人、一人一人を愛し、救って下さるのです。感謝いたします。

博士たちはこういう救い主をかなり正しく理解し、信仰があったのでしょう。神の導きに従って行動しています。そしてその救い主に非常に価値の高い物を贈り物としてささげました。この贈り物を主がどうしたのかは記されていません。ただ博士たちがささげたことが記されているのです。主はささげられたことを喜び、受けて下さったのです。さて救い主は私たち一人一人のために誕生して下さいました。私たちが私たちのために誕生してくださったお方にできることは何でしょうか。それは何よりそのお方を信じることであり、喜ぶことであり、主のために歩むことです。救い主の誕生を感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救い主誕生の計画の中で」 ルカによる福音書1:39~45(新約P100)  2016年12月18日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は、マリアが受胎告知をされた後に。親類であり、バプテスマのヨハネを身ごもっていたエリサベトのもとを訪問した場面です。ここから救い主の誕生の中にあって、マリアに示された主の愛を見ていきましょう。

この箇所の直前の38節を見ますと、マリアは素直にその受胎告知を受け入れたように思えます。ただみ使いへの質問を見ても、そのことによって自分の身に起こる危険や困難を想像していたことは確かだと思います。み使いの答えの中にエリサベトが出てきます。それでマリアは思いついたのか、そのエリサベトのもとを訪れました。このことは神の導きだったと思われます。

マリアは素晴らしい信仰の持ち主でしたが、彼女も罪ある人間です。弱さもあります。救われる必要もありました。先に記しましたが、当然自分の身に起こることが考えられる危険や困難も察していたはずです。マリアがこのエリサベトを訪問したことは、不安の中にあったマリアにとって必要な事だったと思われます。エリサベトが身ごもっていたバプテスマのヨハネは、マリアが挨拶した声を聞いて喜びました。それを受けてエリサベトもマリアに「女の中で祝福された方」と言いました。そういうことを通してマリアは信仰がゆるぎないものとされていき、不安の中にあっても神に信頼することができたのではないでしょうか。有名なマリアの讃歌はこの出来事の直後に、マリアが唱えたものでした。マタイによる福音書を見ると、神はみ使いを婚約者であったヨセフのもとにつかわしました。マリアの不安を理解し、ヨセフとの婚約解消にはいたらせず、そしてこの訪問などでマリアの信仰をさらに強めたのでした。

救い主の誕生は神の偉大な計画の成就です。私たちが救われるのは主イエスキリストを信じること以外ありません。その救い主の誕生なのです。この時、その大切な計画が進んでいたのです。しかし主はそこで悩む女性に目を留め救いました。私たちの悩みも主がおぼえて下さり、必ず助けて下さるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ベツレヘムから出る」   ミカ書4:14~5:5(旧約P1454)   2016年12月11日 大竹敏生

 

旧約聖書には、救い主イエスキリストの誕生のことがいくつか記されています。その中でも今日の箇所は、分かりやすく有名な箇所です。ここから主のみ言葉に聞いていきましょう。

この箇所のイエスキリストの誕生の預言は、生まれる場所が記されています。5章1節にその場所は「ベツレヘム」だとあります。この「ベツレヘム」の地名の意味は「パンの家」です。パンは西洋では特に人が生きるのに必要なものです。つまりベツレヘムという地名の意味は、生きるための糧の家だということになります。私たちに永遠の生命を与えるイエスキリストの誕生の地にふさわしい名と言えるでしょう。また生涯神を信じて歩み、祝福を受けたイスラエルの第二代王のダビデの生まれた町がベツレヘムで、ベツレヘムは「ダビデの町」とも呼ばれているのです。

ただこのミカ書では、ベツレヘムのそういう救い主の誕生にふさわしい面には触れていません。ミカ書で語られるベツレヘムは「いと小さき者」と記されているのです。ふさわしいところではなくて、むしろ「小さい」という負の部分を記しているのです。なぜなのでしょうか。これはイエス様が家畜小屋でお生まれになったことと理由は似ていると思います。どんな小さい者でも、弱い者でも、罪深い者でも救う方だから、いと小さきベツレヘムでお生まれになるということではないでしょうか。感謝をいたします。また小さい町で生まれた救い主ですが、5章3節によれば、救い主の力は大いなるものであり、地の果てまでに及ぶとあります。つまり最も小さい者であっても大きな者にするほどの力を救い主は持っておられるのです。弱い私たちですが、誕生する救い主によって救われ、助けられるのです。愛の神に感謝いたします。

今年も救い主イエスキリストの誕生を祝うクリスマスが近づいてきました。私たちを救い、助けて下さる救い主を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「力と愛をもつ神が」  マタイによる福音書28:16~20(新約P60)   2016年12月4日 大竹敏生

 

本日は今年の世界バプテスト祈祷週間の最終日です。本日の聖書箇所にありますが、全世界に福音が行きわたるようにお祈りいたします。

本日の聖書箇所の18節を見てみたいと思います。そこで主は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と語っています。この「権能」ですが、他の訳では「権威」と訳されています。この「権能」から与えられるイメージは、一つは「力」です。主は大いなる力、全知全能の力を持っておられるのです。もう一つは「権限」でしょうか。主はすべてのことをご自身で決定することができるお方なのです。福音を宣べ伝える働きは、主がその権限により、私たちに託されました。主にとって福音を宣べ伝える働きはとても大切な事なのです。それを私たちに託して下さったのです。それは私たちを愛しておられるからにほかならないのです。力を持ったお方が、愛ゆえに私たちに宣教の業を託されました。感謝します。多くの伝道者や宣教師の方々が、この愛の呼びかけに応えて、世界中に福音が宣べ伝えられてきました。そしてその働きは今もつづいているのです。人の弱さゆえに、時には福音を宣べ伝える働きに支障をきたすこともあるでしょう。主はそんな時も、主が持っておられるその力を与えて下さるのです。最後の20節で主は愛をもって私たちと「共におられる」ことを約束しています。

ここでは確かに「福音を宣べ伝える働き」について記されているのですが、主がその力と愛をもって私たちに臨まれるのは、その時だけではありません。実はいつもそうなのです。主は私たちがどのような状況に陥っても、共にいて下さり、その愛と力によって、私たちを助けて下さいます。助けるに値しないような私たちなのですが、全知全能の力を持っておられる主が、どんな時でも助けて下さいます。いつまでも共にいて下さる主なる神の愛と力を信じて歩みましょう。主は今も共にいて助けて下さっておられるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「イエスの救いの宣言」 ルカによる福音書23:39~43(新約P158)   2016年11月27日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はイエス様の十字架の場面です。ここから主の贖いの救いについて学びましょう。

十字架の記事は4つの各福音書に出てきますが、本日の箇所はルカのみが記している記事です。イエス様と同じ時に十字架に架かった罪人は二人いたようです。そのうちの一人が救われた記事です。この罪人は死刑になるくらいです。おそらくこの時まで多くのそして大きな罪を犯してきたと思われます。でも十字架に架けられたこの時、救われたのです。何をしたのでしょうか。初めはもう一人の罪人と一緒にイエス様をののしっていました。でも最後には彼は自分の罪を認め、イエス様は何も悪いことをしていないことを信じ、神のみ国に立たれるお方だと信じたのです。これが信仰でした。この罪人は死の直前に主を信じたのでした。だから救われたのです。

私たちは誰もが罪人です。そして誰も自分で自分を救うことができません。救い主を信じて罪を赦していただかなくてはならないのです。それしか私たちを救う方法はありません。イエス様は聖書の他のところで救いに関して宣言を何度もしています。「あなたの罪は赦される」「あなたの信仰があなたを救った」などです。ここでもイエス様は苦しい息の中でしたが、はっきりとこの罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されました。それは私たちを救うことができる唯一のお方であるイエスキリストだからできる宣言でした。この世で悪いことをして、死刑になるほどの罪人であっても救うことができるお方なのです。これは救い主の力と、何よりも大きな愛のゆえのことです。感謝いたします。

わたしたちも主の十字架以外に救いはありません。ただ一人、私たちを救うことができるお方は救いを宣言するにふさわしいお方です。そのお方が信じる私たちに救いを宣言して下さっています。主の救いを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたがたは幸いである」 マタイによる福音書5:1~12(新約P6)  2016年11月20日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマタイによる福音書5章1節~12節です。山上の説教とか山上の垂訓と呼ばれる箇所の最初の部分です。ここから学びましょう。

ここの箇所を読む時、誰もが目に付く言葉は「幸い」でしょう。「幸い」はうれしい言葉です。人は誰もが「幸い」になりたいと思うのではないでしょうか。ただ「幸い」は誰もが求めますが、決して誰もが同じことで「幸い」と感じるものではありません。人によって、また状況によって「幸い」にもなる時もあれば、そう感じないこともあるでしょう。「幸い」というものはつかみどころが無く、獲得しにくく、コントロールの難しいものと感じます。でも人は「幸い」を求めます。「幸い」は人生の目的でもあるのです。

皆が認める良い状況だから「幸い」と感じるとは限りません。反対もそうです。不幸と思われる状況だからといって不幸とも限らないのです。今日の聖書の箇所には「幸い」がいくつも出てきます。そしてそのすべてが「幸い」とはとても思えない状況なのです。でも主は「幸い」と断言されます。これは主にある「幸い」だからなのです。一見不幸と思える状況でも、愛と力の主は「幸い」にして下さるのです。聖書には「災い転じて福となす」という言葉に当てはまるような話がいくつも出てきます。主の力はそれくらい大きいのです。私たちの状況がどうであれ「幸い」にして下さる神に感謝をいたします。

またこの箇所に出てくる「幸い」を見てみると、愛の主は私たちの置かれている状況を無視しません。例えば4節には「悲しむ人」には「慰め」が与えられるとあるのです。一挙に「喜び」行っても良さそうなものですね。つまり私たちの「悲しみ」は無視されないのです。弱い私たちは時に厳しい状況に陥りますが、愛の神は見捨てません。そこから共に歩んで下さるのです。

弱い私たちに「幸い」を与える愛と力の神を信じて歩みましょう。皆が求める「幸い」が、神にある真の「幸いが」与えられるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みが満ちている」 コリントの信徒への手紙Ⅱ9:6~15(新約P335)  2016年11月13日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙のⅡの9章6節~15節です。ここの箇所から主の導きを受けていきましょう。

この箇所で語られていることは具体的には、困っている教会(ここではエルサレム教会)への献金についてです。ここで著者のパウロはこのことを「喜んで」することを勧めています。その理由として、そのことを神が喜んで下さると記しているのです。そしてこの献金について種まきに例えて説明されています。これはこのことは「献金」ということに限られていないということを意味しているのでしょう。困っている人への献金だけではなく、奉仕や祈りもそうなのです。喜んでする者でありましょう。神は喜んで下さるに違いありません。

そして今日の箇所を見ると献金や奉仕、祈りや施しをさせて下さるのは神なのです。10節に「種を蒔く人に種を与え」とあります。私たちの愛の行為を神は喜んで、さらに恵みとして与えて下さると約束されているのです。愛されている者として私たちは神に喜ばれる行為をしていきましょう。

またここは困っている人たちへの愛の行為に限られていないのではないでしょうか。神に喜ばれる行為すべてがそうなのです。私たちが神のために成す献金や祈り、施しや奉仕、伝道などすべてがそうなのです。喜んで行なう時、神は恵みとして私たちに与えて下さるのです。感謝いたします。

そして恵みは私たちに与えられるのに留まらず、愛の行為を受けた者、勧めた者、それを知った者など一人一人に喜びと共に与えられるのです。まさに恵みが満ちあふれるのです。その豊かに与えられる恵みに対して私たちができることは「感謝」なのです。15節でパウロ自ら神に感謝をささげています。私たちも与えられる恵みを信じて感謝しましょう。12節を見ると私たちの感謝を通して奉仕が盛んになると記されています。満ちあふれる恵みに感謝しましょう。恵みはさらにあふれるように与えられるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「やがて出会う」 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4:13~18(新約P377)  2016年11月6日 大竹敏生

 

本日は高松太田教会の2016年の召天者記念礼拝となります。今日はテサロニケの信徒への手紙のⅠの4章13節~18節から主のみ言葉から導かれてまいりましょう。

13節に「既に眠りについた人たち」とありますが、この人たちが「召天者」であり、つまりもうすでに死んだ人たちを指します。イエス様は死んでいたあのラザロを「眠っている」と言いました。そしてそのイエス様がラザロは死んでいるとも言われたのです。人にとっては死は最大の敵であって、死の前に私たちは全く無力です。しかし死にも勝利する主は「眠っている」と言うのです。そうです。本日の聖書箇所にありますが、たとえ私たちがこの世での歩みを終えて天に召されても、また主イエスの前で皆が出会うことができるのです。感謝をいたします。

また13節に「知っておいてほしい」とあります。これは別の訳では「無知でいてほしくない」とか「知らないでいてもらいたくない」とあります。つまりこの13節では単純に「知っていなさい」とか「知っているべきである」というようなものではなく、何か懇願的な表現となっているのです。つまり今日の聖書箇所の内容について私たちが理解していくことが、単純な命令を果たす行為を越えて、私たちの恵みや祝福、喜びにつながるものだということではないでしょうか。そしてその理解する内容は、召された者たちはすばらしい場が備えられていて、また主の前で出会うことができるということです。これが主の約束であって、私たちにとって大きな希望となるのです。感謝をいたします。

召された者のご家族や友人にとっては悲しみ大きいのが死という出来事です。ただ私たちには「やがて出会う」ことが約束されています。希望をもって歩みましょう。厳しく困難なこの世ですが励まし合って歩んでいきましょう。この世の歩みも、召された後も主の前に平安が与えられています。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたは立ち直ったら」 ルカによる福音書22:31~34(新約P154)   2016年10月30日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はルカによる福音書22章31節~34節です。いわゆる「ペトロが3度、主を知らないと言うことの予告」がなされた箇所です。ここから主のみ言葉に聞いていきたいと思います。

最初に「サタンが…願って聞き入れられた」とあります。これは「神はすべてをご存じだが、あえてペトロが厳しい状況に陥ることを見守られる」ということです。これはペトロのためだったのです。そのペトロのために主がなされたことは「信仰が無くならないように祈る」ということでした。「サタンのふるいかけ」の具体的内容については後半部に記されていて、ペトロは「主を3度知らないと言う」状況に陥るのです。これはペトロにとって大変厳しい状況で、落ち込みさせ、立てなくなるようなことです。そして信仰が無くなってしまいかねないほどのものでした。そしてこの厳しい状況は現実となりました。

結論から言うと、そんなペトロでしたが信仰は無くなりませんでした。これはペトロがギリギリのところで主に立ち返ったのかもしれません。がたがたになったペトロでしたが「主イエス様を愛していた」ことが、信仰が無くならなかった要因かもしれません。ただ何よりも大きな理由は「主がペトロの信仰が無くならないように祈られたこと」があったからでしょう。祈りは神の力を導き出し、その力を私たちが受けることができるようにするのです。感謝します。

厳しい状況に陥るペトロですが、その信仰は無くならないと主は確信していました。祈りはそれくらい力のあるものです。そしてペトロに「あなたは立ち直ったら…力づけてやりなさい」と命じます。弱いペトロも立ち直り、おそらく他のやはり弱い人たちを力づけたことでしょう。これは私たちも同じです。主に祈られています。弱くても主によって立ち直らされます。そうしたら力づける者となりましょう。これからも教会は「力づけ(励まし)、力づけられる(励まされる)者たち」の集まりであり続けたいと思います。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「ゆるがない祝福」   ヤコブの手紙1:12~18(新約P421)    2016年10月16日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はヤコブの手紙1章12節~18節です。このヤコブの手紙の著者はヤコブと記されていますが、この名前の人物は聖書に多く出てきます。その中でも伝統的にイエス様の弟のヤコブが著者だと言われています。またこの手紙の特長としては、実践的な信仰についての記述が多いことが挙げられます。このヤコブの手紙から学びましょう。

今日の箇所の最初の部分に私たちが「試練と誘惑」に遭うことが記されています。これは遭ってうれしいものではありません。しかしそれを乗り越えていくと私たちは成長することができるのです。人間にとって何事でも成長する必要があります。だから「試練と誘惑」は決して必要のないものではありません。ある意味逆に私たちにとって必要なものと言えるでしょう。試練を乗り越えていくことができた時、私たちは強められます。この世の荒波の中にあっても歩んでいくことができるのです。また試練を乗り越えた時、同じ苦しみに遭っている人を励ますこともできます。主に愛されている私たちは共に励まし合って歩むことができるのです。感謝いたします。

ただ私たちは弱いのです。試練に潰され、誘惑に陥ってしまいかねない者です。そうなっては成長どころではありません。弱い私たちは自分の力では試練を乗り越えていくのが困難なのです。でも私たちには私たちを愛する神がおられます。ただ私たちはその弱さゆえに、試練に遭うと神を疑います。そして試練を乗り越えることができなくなったり、誘惑に陥ってしまうのです。今日の聖書箇所の17節に「神である御父には移り変わりは無い」と記されています。神は人とは違って完全で移り変わったりしません。神はゆらがないのです。神の祝福はいつも私たちに注がれるのです。

私たちは人生の歩みの中で試練は常にあります。弱い私たちは神を疑わないで信じて歩みましょう。神の祝福は揺るがないのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「目標を目指して前へ」 フィリピの信徒への手紙3:12~16(新約P365)   2016年10月9日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙の3章12節~16節を示されました。ここから神のみ言葉を学んでいきましょう。

この手紙の著者はパウロですが、このパウロは主のために寝る間も惜しんで働いてきた人でした。そのパウロが「自分は完全ではない。捕らえてもいない。」と言うのです。だとしたら「私たちのゴールはどれくらい遠いのか」と絶望してしまいそうです。ただ16節を見ると「到達したところに基づいて進むべき」とあります。私たちがそれぞれ到達したところから進むのです。ゴールはそれぞれに与えられていると考えて良いのです。

またここから学ぶことは、私たちの歩みは到達したから、あるいは完全に成ったから進むというものではなく、むしろ到達目指して、完全目指して進むというものだということです。これは神を信じないとできません。到達とか完全とかの保証がなく、いつかは「到達する。完全となる。」と信じて進むということです。まさに「信仰の歩み」というべきものです。信じて進みましょう。

とは言っても弱い私たちは「進めない」存在です。「前へ」とか「進め」とかを聞くと重荷と感じることもあるでしょう。ただ12節に、主に捕らえられていることが記されています。私たちの「目標を目指して」の信仰の歩みは、捕らえていて下さる主イエスキリストによって進められるのです。私たちの「到達目指して」の歩みは主を信じないとできないものです。「到達する。完全となる。」と信じるのですが、それをさせて下さるのは主だと信じる必要もあるのです。

13節によると私たちはひたすら前へ進むべき存在だと読めます。弱い私たちには困難と感じます。しかし信じて主に委ねていく時、私たちの信仰の歩みは進むのです。むしろ「ひたすら前へ」ということは、後ろを振り返らなくても、戻らなくてもいいのだと感謝して「目標を目指して前へ」進みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主はわたしの味方」    詩編118:1~9(旧約P957)  2016年10月2日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は詩編118編1節~9節です。宗教改革者マルティン・ルターは、改革を訴えて多くの反対にあったときこの詩編をよりどころとしていたそうです。その詩編から学んでいきましょう。

本日の聖書箇所の6節と7節に「主はわたしの味方」とあります。神が私たち一人一人の味方となって下さることを感謝いたします。では神は何故に「わたしの味方」になって下さるのでしょうか。私たちがどちらかの「味方」となるときはどうでしょうか。1つは正しい方ということがあるでしょう。両方の言い分を聞いて「こちらが正しい」と判断して味方となるケースは多いでしょう。また強い方につくという人がいると思います。強い方の味方となれば勝つ可能性が高いですから。また反対に弱い方につく人もいるでしょう。「判官びいき」という言葉もあります。では神はなぜ私たちの味方となるのでしょう。それは正しいからでも、強いからでも、弱いからでもありません。1節~5節に「慈しみはとこしえに」とあるほど、主は私たち人を愛しているからです。この愛は無くなりません。常に味方でいて下さる主に感謝をいたします。

「味方」であるということは、主はどうして下さるのでしょうか。1つは弱い私たちに力を与えて下さるということです。味方であるということは力を貸して下さることです。また「味方」ですから私たちと共にいて下さいます。私たちから離れていくことは無く、共に闘って下さるのです。そして「味方」という時、主はむしろ私たちを立てて下さるのです。この詩編は誰が書いたか分かりませんが、7節を見ると、その著者がまるで闘いの勝利の立役者になるかのように記されています。弱い私たちに闘いを勝ち抜く力はありません。つまり本当の立役者は主の方なのに、私たちを立てて下さるのです。

私たちを愛し、私たちたちと共に居て、私たちの味方となって下さる主なる神さまとこの世での歩みを続けていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神にはできる」  マルコによる福音書10:17~31(新約P81)  2016年9月25日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は有名な「富める青年」の話です。この箇所から主なる神の愛の救いにつて考えていきたいと思います。

この青年はお金や名誉など、人のうらやむものをいくつも持っていました。この人がイエス様に問いかけています。しかしそんな彼は思い違いをしていました。それは「永遠の命を受け継ぐために何をすればよいのか」と尋ねているところです。確かに多くの人たちが永遠の命を得るために何か善いことをすることが必要と考えます。しかし本当の救いは「すること」では得られません。「信じること」で得られるのです。その青年にたいして主はいわゆる律法を守るように告げます。するとこの青年は救いに近づいていきます。律法を守っているのだが、満足が得られない思いを主に申し上げています。すると主は慈しみをもって青年を見つめ、青年の持っている財産をすべて用いて貧しい人に施せと命じられます。青年はうなだれて帰っていきました。青年は主の言葉に偽りがないと認めていたのでしょう。ただそれができなかったのです。

出来なかったことが青年の大きな壁でした。彼は財産を捨てることができなかったのです。間違ってはいけないのは「善行をする」ことが救いの条件ということではないといことです。ただこの青年は財産をすべて施しに用いることはできませんでした。この青年にとってそれくらい財産は大切だったのです。そして私たちにも大切なものがあります。ただそれ以上に主なる神を大切に歩むことが必要で、そのためには信じる必要があるのです。

「神にはできる」というのは、信じた者を救うことです。確かにこれは神にしかできません。ただその信じるに至るまではどうなるのでしょうか。問題を抱えている者はどうなるのでしょうか。問題を抱えて壁を乗り越えられないでいる者を神は助けて下さいます。「神にはできる」というのは、救いに至るまですべてにわたって神は助けて下さるということなのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「担い、背負い、救い出す神」  イザヤ書46:1~4(旧約P1137)  2016年9月18日 大竹敏生

 

本日は「高齢者を覚える礼拝」です。教会に関係されているご高齢の方々がいつまでもお元気で過ごせるように祈りつつ礼拝しましょう。その「高齢者を覚える礼拝」に導かれた聖書の箇所がイザヤ書46章1節~4節です。ここから神のみ言葉に聞いていきましょう。

ここではまずバビロンの偶像の名前が記されます。その偶像はバビロンでは神なのですが、自分で動くことができずに、獣や家畜などで運ばれると記されています。偶像はかえって人の重荷となります。その一方、主なる神は私たちを担います。背負うのです。つまり主なる神は私たちを運ぶ神なのです。これは何を意味するでしょう。1つは正しく導くことを意味します。すぐに迷い出る私たちも主が正しい道に戻して下さるのです。またもう1つは動けない私たちを背負って下さることを意味します。すぐに疲れて歩き続けることができなくなる私たちを神が背負って運んで下さるのです。感謝をいたします。

実は罪がある私たちは自分で歩むことができないほど弱いのです。自分の力で歩いているように感じますが、本当は神に担われて、背負われて運ばれているのです。そして私たちは救いへと導かれるのです。感謝いたします。私たちは担われ、背負われ、救い出されることを信じて歩みましょう。今も見えませんが私たちは愛の神によって担われ、背負われ、救われているのです。

そしてそれは私たちが生まれた時から始まっていて、私たちが老いても変わりなく続きます。つまりご高齢の方々は神に担われ、背負われる時間が長いのです。多くのご高齢の方々が平安に歩んでいます。もちろん長い生涯で体験したことから来るものも大きいでしょう。しかし神に担われ、背負われてきたことが何よりも大きいのではないでしょうか。私たちも神に担われて、背負われています。感謝いたします。そして救い出すと約束されておられる神を信じて歩みつづけましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主のくびきによって」  マタイによる福音書11:25~30(新約P20)  2016年9月4日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は大変有名な箇所です。特に28節は多くの教会の掲示板などに掲げられている箇所です。この箇所から聖書の言葉に聞きましょう。

まず28節を見ましょう。この節の言葉は良い言葉ですが、何か中途半端に感じます。「重荷を無くしてあげよう」などのほうが良いように思えますね。ただ考えてみますと、私たちにとって大切なことが重荷になるのです。つまり大切な自分のことや家族のことだから重荷になるのであって、知らない人のことや親しくない人のことではあまり重荷とはならないのではないでしょうか。つまり私たちにとって大切なことが重荷となるのであって、無くなってしまうことはむしろ良くないことなのです。それを主は分かっておられ「休ませてあげよう」と言われたのです。感謝します。

同じ28節の「だれでも」にも注目しましょう。だれでも休ませてもらえるのです。これに漏れる人はだれもいません。人はそれぞれ重荷を持ちます。それは千差万別です。神はどんな重荷を持つ人でも休ませてくださるのです。だれにでも休みをくださる神に感謝いたします。

28節の言葉は「休みをくださるだけで、重荷の解決はくださらない」ということではありません。神は解決を私たちにさせてくださるのです。29節と30節に「わたしのくびき」という言葉が出てきます。牛が仕事をするのに「くびき」が必要です。そのためにその牛に合った「くびき」が作られるのです。「くびき」は、その牛に合っていればあまり重さを感じなくて仕事ができるそうです。ここで言う「わたしのくびき」とは、だれにでも合う万能の「くびき」と言うより、わたしのために神が備えてくださった「くびき」というようなものではないでしょうか。私たち一人一人を愛してくださる神は、一人一人にそれぞれ合った「くびき」をくださるのです。感謝いたします。共にいてくださり、重荷を解決、つまり軽くしてくださる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「成長させられてゆく」 エフェソの信徒への手紙4:12~16(新約P356)  2016年8月28日 大竹敏生

 

 本日の聖書箇所はエフェソの信徒への手紙4章からです。ここから神のみ言葉に耳を傾けていきましょう。

 私たちの教会が今年目指しているものとして「成長」「成熟」があります。これは今年だけではなく、また私どもの教会だけでもなく、いつもすべてのキリスト者が目指しているものなのです。本日の聖書箇所にはこのことについて「キリストの体を造り上げて」「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長」「キリストに向かって成長」などと記されています。つまり私たちはキリストをゴールとして成長していくのです。ゴールがキリストですから、成長にはなかなか到達できません。いやはっきり言うと誰も到達できないのです。私たちの成長の歩みは生涯続きます。この世の歩みを私たちが終える時、そこがゴールとなるのです。

 さて今日の箇所から「成長」に関して学ぶことの1つは、成長は私個人ではできないということです。ここの箇所も含めて、その前から「一つとなる」ことが強調されています。そしてここの箇所では主語が「私たち」なのです。成長は個人ではなく「私たち」が「一つとなって」なしていくものなのです。

今日の箇所から「成長」に関して学ぶことのもう一つは、成長は人の力でできるものではないということです。16節に「キリストによって」という言葉がありますが、成長していくのはキリストの愛と力なしにはできません。人は罪があり、弱いのです。本当に成長していくためには自分の力ではなく、罪から救って下さるキリストによらなければできないのです。

私たちはキリスト目指して成長していく必要があります。一つとなるために共に祈り合って励まし合ってキリストを目指して成長していきましょう。また弱い私たちが成長するために、キリストが私たちを愛するゆえに力をくださって成長させて下さると信じて歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の言葉への信頼」  マタイによる福音書4:1~4(新約P4)  2016年8月21日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所は、荒野でイエスキリストがサタンから誘惑を受けた箇所です。誘惑は3つ受けたのですが、本日はその誘惑の最初の1つを取り上げてみたいと思います。

 その誘惑とは空腹のイエス様に「石をパンに変えろ」というものでした。それに対してイエス様は「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」とこたえました。これは旧約聖書の申命記の言葉から引用されたのでした。この「パン」とはパンだけでなく食べ物全体を表しています。そしてさらに生きていくのに必要なあらゆるものを示しているのです。イエス様は、人が生きるのにそういうものが必要ないとは言っていません。「パンだけ」ではないと言っているのです。私たちは人間です。獣ではないのです。食べ物は肉体を生かすのに必要なものです。しかし人間には肉体のほかに「霊」があります。この「霊」に関しては「神の言葉」が生きるのに必要なのです。例えば私たちは生きていくのに悩みます。この悩みは食べ物では解決しません。神の言葉で悩みは癒されます。神の言葉の一つ一つで生かされていきましょう。

 精神論的に言えば「神の言葉だけで良い。生きるのにパンは必要ない」という理論もあるかもしれません。でもやはりパンも生きるのに必要なのです。そして私たちはパンをいつも得られるかどうかは分からないのです。今日の聖書の箇所から、私たちは生きるのに神の言葉はもちろん、パンまでも神が与えて下さることを知る必要があります。神は私たちが生きるのにパンが必要なのをご存知です。私たちを愛する神は、これまでも私たちに生きるのに必要なパンを下さっていました。そしてこれからも与えられることを信じましょう。

 私たちは生きるのに神の言葉とパンが必要です。霊肉ともに神に生かされることを感謝し、信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「平和を与える神」  ヨハネによる福音書14:25~31(新約P197)  2016年8月14日 大竹敏生

 

 八月のこの時期は「平和」について考えさせられます。また八月は私たちの属する日本バプテスト連盟の「平和宣言月間」でもあります。神の与えて下さる「平和」について考えてみましょう。

 今日の聖書の箇所で、主は「平和」を与えて下さると約束しています。そしてその与え方が世の与える「平和」とは違うと記しています。以前の訳では、与えられる「平和」が世の与えるのとは違うとありました。何が違うのでしょうか。やはり大きさというか、強さでしょうか。この世の産みだす「平和」はどうしても不完全です。その不完全さは私たちの弱さから来ます。そしてその弱さは罪から来るのです。私たちの作り出す「平和」は限界があるのです。一方主の与える「平和」は完全なのです。大きさも強さも、そしてきめ細かさも完全です。従ってこの「平和」は無くなりません。また誰一人この「平和」からもれる者もいません。一人一人が満喫できる「平和」なのです。そしてこの主が与える「平和」は非常に豊かなものです。単に戦闘が無い状態というだけではなく、一人一人が平安であり、喜びに満たされるような意味合いを持っているのです。

 聖書には、もともと私たちと神の間には「平和」が無い状態だったとあります。主の与える「平和」によって神との「平和」が与えられました。主を信じて神との「平和」を持ち続けることができることを感謝いたします。また私たち人と人との間にも神の「平和」が与えられます。主から与えられる完全な「平和」によって喜び満たされて、平安に歩みましょう。

 十字架の出来事の前、弱い弟子たちに主は「聖霊を与える」と約束し「ここから出かけよう」と勧めています。彼らには主の「平和」が与えられます。そして今、多くの者たちが不安の中歩んでいます。私たちにも主から完全な「平和」が与えられます。私たちもそれを信じて出かけていきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恐れないでむしろ喜べ」 マタイによる福音書24:45~51(新約P49)  2016年8月7日 大竹敏生

 

 本日の聖書箇所はマタイによる福音書からで、いわゆる主イエスキリストがもう一度この世に来られる「再臨」についてです。ここから主のみ言葉を学びましょう。

 主イエスがまた来られる「再臨」については、聖書の中にいくつも書かれている箇所があります。その中で共通しているのは「主はいつ来られるのかは分からない」ということです。そして「いつ来るか分からない」ことへの対策としては「目を覚ましていなさい」とあります。つまりいつ「再臨」の日がきても良いように備えておくということです。その備えですが、やはり「主を信じる」ということでしょう。これが1番主の求めておられることです。信じて「再臨」を迎えましょう。そして「信じている」者としてふさわしく歩むことも求められています。主が来られた時「目を覚まして」いるように願っています。

 さて「再臨」ですが、私たちはこれを「恐怖」と見ている部分があります。確かに「再臨」は「裁き」という側面もあります。来てほしくないという思いもあるかもしれません。ただ「恐れ」ばかりで「再臨」を見ないようにしたいものです。来られるのは私たちを愛して下さる主イエスキリストなのです。「再臨」を意識する時、私たちは「恐れ」よりむしろ「喜び」を忘れないように心がけてまいりましょう。私たちは弱いのです。主が愛ではなく厳しい側面ばかりを持つ方が来られるとしたなら、私たちにとって「再臨}は恐怖でしかありません。信仰だって、主のお眼鏡にかなうようなものが果たしてできるでしょうか。私たちの弱さを知っておられる愛の方が主なるキリストです。その方の来られる「再臨」を待つ間、私たちは喜びをもって歩んでいきましょう。それが「目を覚まして」私たちが「再臨」を迎えることにつながると信じます。

 感謝なことに「再臨」はいつ来るか分かりません。完璧にその日を迎えることは無理でも、喜んで「再臨」の日を迎えられるように歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主のいつくしみを信じて」   哀歌3:31~33(旧約P1290)  2016年7月31日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所は旧約聖書の哀歌からです。哀歌は大預言者のエレミヤが書いたと言われています。ここから神の愛といつくしみを感じましょう。

 エレミヤは「悲しみの預言者」「悲劇の預言者」「嘆きの預言者」などと言われています。「哀歌」の作者としてふさわしいと言えます。エレミヤの預言は聞く人たちにとっては、かなり耳の痛い厳しいものでしたから、エレミヤへの反発はひどいものでした。そのこともエレミヤを苦しめていました。またエレミヤは「エルサレムの陥落」を預言していました。それはその通りなるのですが、そのこと自体が彼にとっては悲しみだったのです。人々から反発され、投獄や拷問のようなこともされ、そして彼の預言通りになることは悲しみだったのです。彼は悲しみ、苦しみ、嘆きの中にいたのです。

 今日の聖書の箇所ですが、哀歌と言いながら、そこには「神のいつくしみ」が記されています。なにか哀歌らしくないように思えます。ここでは「神は私たちの苦しみをいつまでも捨て置かれない」と「神のいつくしみ」を力強く記しています。哀歌なのに「いつくしみ」が記されている理由は、1つは「自分に言い聞かせている」ということでしょう。神に助けてもらわなければならない。「神が必ず助けて下さる」と信じようとするかのようです。また他に「神しかおられない」という考えがあるように感じます。自分の苦しみを除くのは神しかおられないという思いが表れています。実際他のものに頼みたくなる時があります。でも真の解決は神しかないのです。そして最後に、何か矛盾しているように感じるかもしれませんが「神は実際に助けて下さった」と証しているようにも感じます。いくつもあった苦しみから1つ1つ愛をもって導き助けて下さったのは神であったと語っているように思えます。大切なのは神がどんな場合でも、神が愛といつくしみをもって助けて下さることを信じることなのです。エレミヤのように苦しい時も神のいつくしみを信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「この方が世の救い主」 ヨハネによる福音書4:39~42(新約P170)  2016年7月24日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所は有名な「サマリアの女」あるいは「スカルの女」の記事と呼ばれる箇所からです。主の愛と救いをここから学びたいと思います。

 今日の聖書の箇所の舞台はサマリアのスカルという場所です。イエス様と弟子たちはユダヤ人です。そのユダヤ人とサマリアの人たちは厳しく対立していました。イエス様たちがサマリアの地に入ることが普通ではなかったのです。そのサマリアのスカルの井戸のほとりで一人の女にイエス様は語り掛けました。彼女は後の記述で分かりますが、男性との関係で問題を抱えていました。イエス様はまず「水」という生きるために必要なものの話題から入り、永遠のいのちを得るための「水」を自分が与えると語ります。その「水」に関心を示した女に、今度は女性自身の罪の問題をあらわにさせました。彼女は自分の罪をあらわにされ、それを知っているイエス様に驚きました。そして「救い主が世に来られることを知っている」と語る女性にさらにイエス様は「あなたと話している私がそれだ」と宣言されました。それを信じた女は町に知らせに走ったのです。イエス様はサマリアの罪深い女との会話で、サマリアとユダヤの問題を越えて、しかも罪を抱えて悩む彼女の罪からも救ったのです。

 そして今日の聖書の箇所ですが、女の証を聞いた町の人たちはイエス様のところへやってきました。聖書には彼女の話を聞いて信じた人たちがいたとあります。またその後イエス様の話を聞いて信じた者もおりました。その人たちが語るようにイエス様は「世の救い主」なのです。つまり世の一人一人のための救い主であられ、私たちも信じることで救われるのです。感謝をいたします。

 イエス様はユダヤ人と対立するサマリアの罪深い女を救いに導きました。国や民族ではなく、男女や大人と子どもという事でもなく、また持っている罪の大きさや種類でもなく、ただ罪を悔い改め信じることを私たちの求めているのです。信じることによって救いに導いて下さる神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「内に働くキリスト」 コロサイの信徒への手紙1:24~29(新約P369)   2016年7月17日 大竹敏生

 

 本日の聖書箇所はコロサイの信徒への手紙1章24節~29節からです。今日はここから私たちの「内に働くキリスト」について考えたいと思います。

 この手紙の著者パウロはここで自分自身の神から託された務めについて記しています。それは「福音を宣べ伝える」ことであり、それは苦難の歩みでした。パウロは「キリストによる救い」を告げ知らせることを、苦難の中にも喜びつつ行なっていました。その結果コロサイの人たちにも福音が伝わり、栄光のキリストが彼らの中にもおられることになりました。そして今、私たちの中にもキリストはおられるのです。感謝いたします。

この内なるキリストが私たちの力なのです。キリストは救い主です。まず何よりも私たちを救って下さったキリストに感謝します。その救いの働きは「内に働くキリスト」によって今も続いているのです。そして「内に働くキリスト」は、日々私たちを助けて下さいます。パウロは苦難の中にありました。そしてコロサイの教会の人たちも苦難の中にあったのです。その苦難はいろいろでした。そんな多種多様な苦難にもつぶされないで歩めるのは「内に働くキリスト」によってです。パウロは「自分の中におられるキリストがコロサイの人たちの中にもおられ、助けて下さる」と励ましつつ、共に歩もうと勧めているのです。

「内に働く」ということは、キリストはいつも共におられることを意味します。またその働きは、外部からというより内部からなのから、完全であることも意味します。またさらにもう一つ「内に働くキリスト」によって、苦難は喜びに変えられるのです。パウロもコロサイの人たちも、共におられ、完全な助けを受け、さらに苦難を喜び変えられて歩みを続けることができたのです。

パウロやコロサイの人たちの内におられるキリストは私たちの内にもおられます。それを信じて忘れないで歩みましょう。「内に働くキリスト」によって苦難の中にも喜びをもって主のために歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の守りがある」 ローマの信徒への手紙8:18~25(新約P284)  2016年7月10日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所は、パウロが書いたローマの信徒への手紙の8章18節~25節です。この箇所の特に18節を中心に神のみ言葉を聞きましょう。

 人は誰でも苦しみがあります。それは聖書に時代も今も変わりありません。18節ではその苦しみも、後に与えられる栄光に比べれば「取るに足りない」と記されています。この栄光とは何でしょうか。19節以降の内容を見るとそれは私たちに与えられる「救い」ということが一番最初に示されます。「苦しみ」と「救い」ですが、何か関係がよく分からない感じです。でも関係はあります。聖書によれば「苦しみ」は私たちの「弱さ」から来ます。その「弱さ」は私たちの中にある「罪」から来るのです。その「罪」を赦し「救い」を与えて下さるのは、私たちの救い主であるイエスキリストです。そのイエスキリストの十字架を信じて救われることを感謝します。この「救い」こそ神の与える栄光であり、確かにすばらしいものです。取るに足りないのもわかります。

 また与えられる栄光はそれだけではありません。上に記した「救い」とまったく別というわけでは無いのですが。それは「苦しみ」からの解放です。それは「神の守り」と表現することができます。「苦しみ」はやはり解消されなくてはなりません。それは神の力によってなされるのです。神の力によるのですから「苦しみ」の解消すなわち「神の守り」も栄光です。ただそれだったら「苦しみ」なんか無ければ良いのです。なぜ私たちは苦しまねばならないのでしょう。1つは、私たちは「苦しみ」によって成長するということがあります。神によってそれを通して成長させられるのです。感謝いたします。また「苦しみ」の中にある私たちには「神の守り」が与えられます。この与えられる「神の守り」こそ私たちにとって喜ばしい神の愛を示しています。「神の守り」はこのように神の恵みです。神に守られているとき、私たちは神の愛と恵みを、これ以上ないほど大きく感じることができるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛されている」 コリントの信徒への手紙Ⅰ1:26~31(新約P300)  2016年7月3日 大竹敏生

 

 本日は今年2016年の連盟の神学校週間の最終日です。神学校と神学生をおぼえて祈りましょう。

本日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰからです。コリントの教会には自分の知恵や能力、家柄、体験などを誇りとする人たちが多くいたようで、問題をかかえていたようです。この手紙の著者のパウロはそれがよく分かっていたようで、いきなりあなたがたの召されたのは知恵や能力、家柄、体験などが理由では無く、むしろそういうものが無いものが召されたのだと記しています。神から見れば私たちは皆、罪があり弱いのです。そのことをよくわきまえて歩み、むしろ「主を誇れ」と言われていることを心がけたいものです。

さて本日の聖書箇所に出てくる「召す」という言葉ですが、これはここでは「救いに導かれた」という意味で用いられています。わたくしたちの救いは、言わば神の「招き」に応じたがゆえなのです。神は「すべての人に福音を宣べ伝えよ」と言われます。招かれているのはすべての人なのです。

ではどういう理由で招かれているのでしょうか。それは神がただ私たちを「愛されている」からでしょう。神は私たちの弱さや至らなさ、そして現状をすべて知ったうえで私たちを愛して下さっています。実はこの弱さは私たちに罪があるからなのです。この方に打ち明けて、そしてゆだねて歩みましょう。神の力と愛は限りないのです。主なる神を信じることによって私たちの罪もゆるされます。罪を赦し、弱い私たちを助けて下さる神を信じて、招きに応じていきましょう。

そしてこの「愛されている」のはすべての人です。誰一人強い人はいません。すべての人が、罪があるので弱いのです。私たちを愛して下さり、罪をゆるし、助けて下さる神に感謝をいたします。救い主に愛されていることを信じ、愛を感じつつ歩みましょう。神は喜んで助け、救って下さいます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「苦しみの中にあっても」 フィリピの信徒への手紙1:27~30(新約P362)  2016年6月26日 大竹敏生

 

 本日の聖書箇所は「フィリピの信徒への手紙」からですが、この手紙を書いたパウロはフィリピだけではなく、彼が関係したすべての教会を覚えて祈っていました。今日の箇所にあるように、彼らを励まし、共に主のために歩むように勧めています。場所は離れていてもいつも彼らを覚えて心を砕いていたパウロの思いをここから感じながら神のみ言葉に耳を傾けましょう。

 これもフィリピに限ったことではないのですが、どこの教会も迫害などで苦しみの中にありました。そんな中で神のために一生懸命に取り組んでいた教会のためにいつもパウロは祈っていました。そして多くの手紙で彼らを励ましています。27節でも「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」と書いています。しかしそうするには困難なほど弱いのが人間なのです。

 29節の言葉は不思議です。「信じること」と「苦しむこと」の二つが与えられるとあるのです。「信じること」はいいのですが「苦しむこと」は欲しくは無いものです。どういうことなのでしょうか。良いことばかりではなく、悪いこともあるということでしょうか。実はこれは共に良いものなのです。良いと思えない「苦しむこと」ですが、私たちは生きている限り「苦しみ」は避けられません。まず神は私たちの「苦しみ」を知っていて下さるのです。人は自分の苦しみが理解されるだけで感謝なのです。また「苦しみ」は私たちを成長させます。神は私たちの「苦しみ」を知っていて下さるだけではなく、それを通してキリスト者として成長させて下さるのです。「信じること」と「苦しむこと」2つの恵みを下さり、信仰と恵みを備えて下さる神に感謝します。

 フィリピの教会も、またパウロたちも、その他の教会や使徒たちも皆「苦しみ」の中にありました。しかし神によって守られ、導かれ祝砲されました。私たちも「信じること」と「苦しむこと」が与えられます。神を信じて主のために歩みましょう。たとえ苦しみの中にあっても何も恐れることは無いのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「慰めが満ちあふれ」  コリントの信徒への手紙Ⅱ1:3~7(新約P325)   2016年6月19日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱの最初の部分です。ここから神のみ言葉に聞いていきましょう。

 この箇所でよく出てくる言葉は「苦難」と「慰め」でしょうか。「苦難」は人生につきものです。そしてこの時代の教会は迫害などの「苦闘」の中にあって、キリスト者は誰もが「苦難」の中にあったのです。それに対して神はキリスト者に何を下さるのでしょうか。ここではそれは「慰め」だと記されています。確かに「慰め」は感謝です。しかし神なのですから、むしろ神にしかできない大きな力を期待してしまいます。神の力によって「苦難」の解決を期待してしまうのです。もちろんそれを与える力を神は持っています。そして御心のままにそれを与えて下さる場合も多いのです。でもここでは「慰め」が与えられると強調されているのです。ここの箇所では与えられる「慰め」はどのような「苦難」にもそれを超えるように与えられ、この手紙の送り手であるパウロとその仲間たちも、受け手であるコリントの人たちも共に「慰め」られ「苦難」に打ち勝つことができるとあるのです。また「慰め」は確かに神ではない私たちにもできる行為です。ただ神ほど大きく完全な「慰め」を持つ方はおられません。それは神の愛から来ています。愛である神が私たちを憐れみ「慰め」を与えて下さるのです。何よりも私たちを愛して下さる神は私たちにまず「慰め」を下さるのです。神にとってはそれが第一のことなのです。

私たちは確かに、コリントの教会の人たちと同じ「苦難」にあってはいません。でも私たちにも「苦難」があります。ヨハネによる福音書の16章にあるとおり「この世では悩みがある」のです。神は「苦難」の中にある者に「慰め」を与えます。それは今も変わりありません。神の愛による「慰め」を信じましょう。たとえ私たちがどんなに大きな苦しみの中にあっても神は「慰め」を下さいます。神のあふれるばかりの「慰め」を心より感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神によって愛し合う」  ルカによる福音書10:25~37(新約P126)  2016年6月12日 大竹敏生

 

 本日は私どもの教会の今年の「子ども祝福礼拝」です。教会の子どもたちの祝福を祈りつつ神のみ言葉に聞いていきましょう。今日の聖書箇所は有名な「良きサマリア人のたとえ」などと呼ばれるたとえ話からです。

 このたとえ話の中でエルサレムからエリコに下る道で一人の人が強盗に襲われて瀕死の重傷を負いました。そこにまず祭司が続いてレビ人が通りかかりますが、重傷を負った人を助けようとはしませんでした。それに対して一人のサマリア人が彼を助けて宿屋まで連れて行き、翌日彼の世話を宿屋の主人に頼んでお金もおいて出かけたのでした。なぜ祭司とレビ人は助けることができなかったのでしょうか。1つは自分の身を守ろうとしたことでしょう。この道は荒野を行く道です。強盗もいるのです。助けてたら自分も危ういというわけです。また自分の力で助けることが困難と判断することもあるでしょう。またこれが一番の理由と考えられますが、律法の決まりに「死体に触れることで汚れる」というものがあるので、律法の中に生きる祭司とレビ人は「この人は死んでいる」と判断するということもあるでしょう。いろいろな理由が助けることを妨げるのです。彼らは「隣人」になれませんでした。 この助けたサマリア人はそういうものを乗り越えて「隣人」になりました。このサマリア人はさらに相手が敵対する「ユダヤ人」だということも乗り越えました。私たちも「隣人」となれるように、愛し合って歩みたいものです。

 ただこのように「隣人」となるためには多くの困難が立ちはだかります。本当に「隣人」となって、愛し合って歩むには、私たちは弱いのです。私たちは持っている罪により、愛し合う力を持っていません。ただ神が私たちを愛して下さり、私たちは愛し合うことができます。つまり神の力が必要なのです。神を信じて、神の愛を受け、神の力によって互いに愛し合って歩みましょう。神によって「隣人」になれるように願いましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「力と愛と思慮分別の霊」   テモテへの手紙Ⅱ1:3~14(新約P391)  2016年6月5日 大竹敏生

 

 今日の聖書箇所からまず分かるのは、この手紙の著者のパウロが送り先のテモテと言う人物を非常に愛しているということです。パウロが「わが子」と呼ぶほどに愛したテモテへの手紙から学びましょう。

 テモテは忠実な弟子でしたが、もちろん弱点を持っていました。その弱点の1つは7節を見ますと「おくびょう」という面があったのだと思われます。人は誰もが「おくびょう」な面を持っています。そしてそれは「恐怖」「怖気づく」「恥」「パニック」など色々な形で私たちの心を支配します。そしてそれはテモテだけではなく私たちにも悪い影響を与えます。それに対してパウロは、与えられるのはおくびょうの霊ではなく「力と愛と思慮分別の霊」だと記しています。つまり完全な力と知恵を持ち、その上で私たちを愛する霊、すなわち神がおられるのです。従ってテモテは苦しくても乗り越えられるし、迷っても正しく導かれます。またパウロの状況がどうあろうと恥じることは無いのです。そして私たちにもその霊は与えられ、私たちは恐れることはありません。

 パウロはまたこの箇所でテモテの信仰について記しています。この手紙は一説によれば、パウロの死の直前に書かれた手紙だと言われます。その最後の手紙で「信仰」について記します。そしてその「信仰」をもって歩めと促しているのです。「信仰」というある意味基本的なことに、最後の手紙で言及しているのです。それくらい「信仰」は大切な事です。そしてこの「信仰」はテモテにとっても大切ですが、私たちにとっても大切な事なのです。私たちは「信仰」をもって歩まなければなりません。信じる者には救いが与えられます。感謝します。また信じる者は罪が赦されるのですから、罪から来る弱さも神によって克服できるのです。それは私たちにも与えられる「力と愛と思慮分別の霊」によってです。「信仰」をもって歩みましょう。信じる者に救いと共に導きや祝福を備えて下さる神に心より感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神をとことん信頼して」   創世記32:23~33(旧約P56)   2016年5月29日 大竹敏生

 

 本日の聖書箇所は創世記からです。ヤコブが天使と格闘し、最後は祝福を勝ち取った様子が記されています。ここから主のみ言葉を学びましょう。

 ヤコブという人物を考えると、今日の箇所の出来事もそんなに違和感をもちません。むしろヤコブらしいと思えます。ヤコブは過去に双子の兄から、空腹につけこみわずかなもので長子の権利を奪い、目が見えなくなっていた父をだまし、やはり双子の兄に与えられるはずだった祝福を自分のものとしました。その後のヤコブは神の祝福を受けながらも苦労もして、人間的にも成長をしました。この時は兄に謝罪をして和解をしようと、故郷へ向かう途中でした。 この箇所から何を学ぶのでしょうか。「欲しいものは何が何でも手に入れよ」とか「勝てば何でも思いのまま」でしょうか。そんなはずはないでしょう。

 まずヤコブは格闘に「勝った」とありますが、そうでしょうか。ただ祝福をもらうまで天使を離さなかっただけです。むしろ身体に影響を受けたのはヤコブでした。天使は時間が迫り、離さないヤコブに根負けしたように見えます。「勝てば…」は関係が無いように思います。またこのヤコブと天使の格闘のようなことは、神さま抜きのこの世でも起こります。例えば天使が親でヤコブが小さい子という場合で、小さい子が親に欲しいものをねだって親に縋り付いたりするでしょう。その親と子の関係から学びましょう。この縋り付くような関係は、親子のような強い関係だからゆるされるのです。赤の他人なら起こらないことです。ヤコブは天使、つまり神に強い信頼を置いていたからできたのです。「自分がこんなことをしても神はゆるして下さる」と信じていたのではないでしょうか。ヤコブは兄にゆるしてもらうためには、全能の神の力が必要と信じていました。いやむしろ「神しかない」としがみついたのです。

 私たちもとことん神を信頼して歩みましょう。祈りの中で神に縋り付きましょう。神は私たちを見捨てる事無く、祝福を下さるはずです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰があなたを救った」  マルコによる福音書5:25~34(新約P70)  2016年5月22日 大竹敏生

 

 本日の聖書の箇所は12年間難病に苦しんだ女性が出てきます。女性の地位が低かったこの時代、また「病気は神の罰」というように考えることも多かったイスラエルの状況を考えますとこの女性の苦しみは想像を絶するものがあったでしょう。全財産を使い果たしたというのも無理はありません。

 この女性は「イエス様の服に触れればいやされる」と思ってこっそりと触れました。するとたちまち癒されました。女性にも分かるほどの癒しでした。イエス様は「服に触れたのはだれか」と言われました。この時、イエス様はかなり急いでいる状況でしたが、それをおしてもそうする必要があったのです。イエス様にとってこれは大切な事だったのです。考えてみますとイエス様の行為は不思議です。神の子ならば「誰が触れたか」くらい分かりそうなものです。しかし名乗り出るのを待つかのように見回しています。やがてこの女性はひれ伏してありのままに申し上げました。イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。これがイエス様にとっては大切な事だったのです。

 この女性の行為は、方法は少し異質でしたが、イエス様を信じるからこそでした。それは完璧に癒されたことからも分かります。そしてイエス様は彼女に「信仰が救った」と言われました。「信仰が癒した」ではないのです。「救った」は「癒した」同じ意味なのでしょうか。これは「救った」に「癒した」も含まれるのでしょう。イエス様にとって何よりも大切なのはこの女性が「救われる」ことでした。だから彼女の口から信仰を告白させたのです。そして彼女に「信仰があなたを救った」と救いを宣言したのです。

 私たちもイエス様が大切にして求めておられるように、イエス様を信じて救われましょう。私たちは信じる事によって救われるのです。そして女この性にとって必要で渇望していた癒しも与えられたように私たちのも救いと共に必要なものも備えられるでしょう。イエス様を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主と同じ姿に」  コリントの信徒への手紙Ⅱ3:12~18(新約P328)  2016年5月15日 大竹敏生

 

私たちは聖書を読む時にその時代の常識や考え方、事情などを考慮して読むことも大切です。現代との違いや差を考えないと理解できなかったり、理解が浅かったりしてしまうこともあるからです。

本日の聖書の箇所が記された時代は、まだ律法の影響は強く残っていたころでした。その律法の影響を著者のパウロはこの箇所で、顔や心に「覆い」がかけられているのだと記しています。もちろんこれは悪い影響です。覆いをかけられて真実が見えません。しかしこの覆いは16節によれば「主の方に向き直れば取り去られる」とあります。つまり律法を守る「行ない」ではなく主の方に向く、つまり主を信じる「信仰」によって覆いは取り除かれるのです。

18節には「栄光から栄光へ造りかえられる」という、考えると不思議な言葉があります。同じものに変わること普通はありません。私たちは「主と同じ姿に」造りかえられるのです。主と同じというのであればこれに勝る栄光はありません。主が下さるものは一つ一つは栄光です。しかし主と同じ姿にまで神がして下さるのは大きな恵みです。私たちはその恵みに感謝して「栄光から栄光へ」と成長していきたいものです。そのために私たちは主を信じて歩みましょう。主は私たちに「救い」をはじめ、ありとあらゆるものを下さるでしょう。

 「主と同じ姿に造りかえられる」の言葉には、上記のようにありとあらゆる恵みを下さるということと、それが確かに与えられるということの二つの約束が込められています。感謝をいたします。そしてそれを今も導いて下さるのが17節によれば「霊」だとあります。これは「聖霊」と呼ばれる神です。今日は今年のペンテコステです。主が私たちに「聖霊」を与えて下さった記念の日です。聖霊なる神を信じて歩みましょう。私たちを成長させるのは神にしかできません。私たちは主を信じて「主と同じ姿に」させられましょう。その時、私たちはありとあらゆる恵みを受け、成長できるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主を愛することで」  マルコによる福音書12:28~34(新約P87)  2016年5月8日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はマルコによる福音書12章28節~34節です。イエス様が律法学者から質問を受けました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一か」とです。イエス様は「神を愛せよ」と「人を愛せよ」と2つの律法の掟から語りました。1つと問われて2つ答えました。神を愛することと人を愛することは別々ではないことが分かります。

主なる神は実際30節にあるほど愛される資格を持っています。その理由としてまず挙げられるのは「私たちを救って下さった」ということです。神が愛されたがゆえに、救われる資格のない、罪ある私たちが信じることで救われるのです。感謝いたします。また「神が私たちを愛して下さった」ことが理由として挙げられます。神は罪を憎みます。従って私たちは愛されない存在なのです。でも神は愛して下さったのです。また私たちが神を愛すべき理由として「神が恵みや祝福を下さる」ことが挙げられます。私たちが困ったとき、神の力を必要としているとき、神の助けや導きが与えられます。

以上にように私たちは神を愛さなければなりません。愛する必要があります。愛さなければならないから主を愛するのですが、愛することで私たちの祝福や恵みは増し加えられます。律法は私たちの罪の姿を浮き彫りにして、神の愛による救いへと導きます。そしてまた律法は罪ある弱い私たちを守り、生きていくための力を私たちに与えます。その律法の掟の第一が「主なる神を愛すること」なのですから、愛することを通してさらに神の力が与えられるでしょう。復活の主イエスキリストとお会いしたペトロは「わたしを愛するか」と問われました。ペトロも弱い人でしたが、愛することで力が与えられました。

私たちも全力で主を愛しましょう。どれだけ愛しても愛し過ぎはありません。主の恵みに愛をもって答えていきましょう。愛することで私たちはさらに恵みと祝福を受け、救いを確かにし、成長していくのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストがすべて」  コロサイの信徒への手紙3:1~11(新約P371)  2016年5月1日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はコロサイの信徒への手紙からです。ある人はこの手紙は1章と2章は教理的な問題が記され、3章と4章はキリスト者はどのように歩むべきかが記されていると言っています。確かにそう考えることもできます。そして今日の箇所は、そのキリスト者がどのように歩むべきかの前提が書かれています。それは11節にある「キリストがすべて」ではないでしょうか。

1節には私たちが「復活させられた」とあります。罪があるゆえに死ぬはずだった私たちは、主を信じることによって救われました。そのことが「復活させられた」とあるのです。そして最後はキリストと共に栄光に包まれます。また私たちは罪があって弱いのに「日々新たにされて」力や真の知識を受けるのです。また人間の弱さゆえにどうしてもある区別もキリストの前には無くなるのです。これらはすべて人間にはできません。キリストのみができるのです。もらえる資格が無い私たちをキリストが愛して与えて下さったのです。

「キリストがすべて」と言う言葉に何を感じるでしょうか。1つは上に記したようにキリストなしには私たちは救われないし、歩みを進めることが困難だという事です。またキリストがあまりに素晴らしくて、言葉で語りつくせないという事もあるでしょう。上にいくつか記しましたが、キリストの素晴らしさに対して、質も量もとても及びもつきません。「キリストがすべて」としか言えないのです。そしてこの「キリストがすべて」という言葉にはどれだけキリストを愛しても愛し過ぎは無いということを示しています。他の人から「あなたは私のすべて」などと言われたらうれしいかもしれませんが、そんなに愛される資格があるのかと思ってしまうでしょう。しかし上記のようにキリストは素晴らしいお方で、愛し過ぎはありません。「キリストがすべて」と告白して歩みましょう。そうする時にその言葉は告白となります。そして私たちは上記のものだけでなく、ありとあらゆる祝福を受けるでしょう。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の導きに従って」 ローマの信徒への手紙8:12~17(新約P284)  2016年4月24日 大竹敏生

 

私たち人間は罪があって弱い者です。弱い私たちは導き手を必要としています。今日は真の導き手について聖書から考えてみましょう。

導き手に必要なものは何でしょうか。1つは「知恵」でしょう。導く者は「知らない」事は教えられません。「知っている」から教える事ができるのです。他にも導き手に必要なものがあります。それは「力」です。目指す地に到達するのに力を必要とする事があります。それを「力」をもつ者が教え導く事ができるのです。そしてもう一つ覚えておきたいのが「導きを受ける者」を愛し知っているという事です。いくら知恵と力があっても、導きを受ける側を知らなければ、正しい導きは与えられません。小さい子どもに導きを与えるのに大人と同じではないはずです。小さい子どもにはそれにあった導きが必要です。真の導き手は導きを受けられるように配慮して与える事が求められます。

本日の聖書箇所には「神の霊によって導かれる者」とあります。つまりここでは導き手は「神の霊」とあるのです。神の霊とは聖霊であり、神そのものです。導き手は「神」なのです。この「神」は導き手として資格はあるのでしょうか。間違いなくあります。全知全能で、誰よりも私たちを愛し、知っていて下さる神は真の導き手です。私たちはこの神の導きに従って歩みましょう。

神の導きに従って歩むとき、私たちは何が与えられるでしょう。それは私たちが何故に導きが必要なのかを理解すれば分かります。最初に述べたように、人間は罪があるゆえに弱いのです。だから導きを必要としているのです。神の導きに従って歩むとき、弱さからの問題の解決が与えられるのです。そしてそれは私たちを、人間としてもまた信仰的にも成長させて下さるでしょう。

そして何よりも感謝すべきことは、導きに従う時に私たちには「救い」が与えられる事です。真の導き手が何よりも導きによって与えたいのが、私たちが救われる事なのです。導きに従って、信じて救いを得ましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストの愛を信じて」 エフェソの信徒への手紙3:14~21(新約P355)   2016年4月17日 大竹敏生

 

本日の聖書はエフェソの信徒への手紙からです。手紙の中なのですが、今日の箇所は祈りとなっています。手紙で祈りというのは、口述筆記をパウロはしていたようですが、何か大切な意味があるのではないかと思われます。

この祈りの中でパウロは、エフェソの教会の人たちが「キリストの愛」の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを知ることができるようにと祈っています。パウロは「キリストの愛」についてこの手紙でも、また他の手紙でも、愛を語っています。またエフェソの教会の人たちに直接愛を語っていたはずです。パウロは他の誰よりも「キリストの愛」を語ることができるのです。そのパウロがここでは祈っているのです。「キリストの愛」は人がどれだけすばらしく語っても、語りすぎることはありません。パウロはだからこそここでは祈っているのではないでしょうか。

19節にイエスキリストはその愛によって、私たちを満たして下さるとあります。私たちは弱いものですが、神はその満ちあふれる豊かさで満たして下さるのです。私たちが厳しいこの世にて、信仰の歩みを進めていく時、神はすべて必要なものを与えて下さるのです。そして私たちは成長することができるのです。そのために私たちは「キリストの愛」を知る必要があるのです。

「キリストの愛」を知るために私たちはどうしたら良いのでしょうか。パウロはそれを祈っています。つまり「キリストの愛」を知るために神の力が必要なのです。私たちが「キリストの愛」を知るために一番良いことは、実際にキリストによって愛されている体験をすることです。そしてもう一つ大切な事は「キリストの愛」を信じることです。私たちは誰もが間違いなくイエスキリストに愛されているのです。それを信じましょう。すると私たちは実際にキリストに愛されている体験をさせていただけるでしょう。「キリストの愛」を信じて、神と共に愛に満たされて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主を喜ぶことが力の源」   ネヘミヤ記8:9~12(旧約P750)   2016年4月10日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書のネヘミヤ記からです。バビロン捕囚の後、エルサレムに帰還が許されてイスラエルの民が荒れ果てたエルサレムに戻ってきました。そのエルサレムの城壁が再建されたことがこのネヘミヤ記に記されています。そしてこの8章は城壁再建の後、集まったイスラエルの民の前でモーセの律法の書が朗読された様子が記されています。10節に「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」とあります。この時のイスラエルの民はどんな思いだったでしょうか。城壁が再建され、今、神の言葉である律法を聞いて、喜びはもちろんあったでしょうが「何か喜んではいけない」というような思いもあったかもしれません。エルサレム崩壊を招き、バビロン捕囚の憂き目にあったのもイスラエルの民の罪ゆえであることは律法を聞けば明らかでした。そんな民にネヘミヤたちは10節の言葉をかけたのです。

喜びは私たちに力を与えます。苦しい状況にあっても喜ぶことによって乗り越えられたりします。しなくてはならないことを喜びつつ行うことができればわりとたやすくできます。学生の人は喜びつつ学ぶことができれば、大人の人は喜びつつ仕事ができれば最高ですね。

特にこの箇所には「主を喜ぶ」とあります。これは、力はこの主からも与えられることを意味しています。主が与える力だからこそこの力は確かで完全なのです。また実は私たちにとって、主は一番喜び易い方なのです。私たちに一番確かな喜びを与えて下さいます。主は決して私たちに「ぬか喜び」させたりはしないのです。その喜びとしてまず覚えたいのが救いです。信じることによって私たちを間違いなく救って下さるのです。感謝をいたします。

私たちはまず喜ぶために主を信じましょう。主が与えて下さる救いをはじめ、備えて下さる恵みを信じて歩むことによって力が与えられます。私たちが喜ぶことによって必要な力が源から湧き出てくるのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「実を結びつつ成長し」  ヨハネによる福音書15:1~10(新約P198)  2016年4月3日 大竹敏生

 

本日は2016年度最初の主日です。そこで本日は今年度の主題の聖書箇所から神の言葉を学んでいきたいと思います。

本日の聖書の箇所はたとえ話です。主がぶどうの木で私たちはその枝だと記されています。当時イスラエルではブドウは大変価値の高いものでした。そのブドウを実らせる枝に私たちを例えているところをからも神が私たちの価値を高く見ていて下さることが分かります。感謝いたします。

「実を結ぶ」とありますが、これは何を意味しているのでしょうか。枝である私たちが結ぶ実です。つまり私たちがその歩みの中で生み出す成果と言うことになります。私たちは神につながっているのですから、神に対しての働きの成果と考えていいでしょう。私たちが神と共に歩む中で成長し、神のために働くために必要なものが得られるのです。私たちに与えられている賜物などもそうなのかもしれません。また「実を結ぶ」とはこういうことも考えられます。これも神が私たちに命じておられる伝道の働きです。神の福音をのべ伝えて人を救いに導くことは、よく収穫に例えられます。神につながっていることによって伝道の業が祝福されるのです。これも感謝な事です。

福音をのべ伝えることと成長することは、単純に考えると共存しにくいと思えます。でもこれは共存できるのです。だいたい私たちの成長のゴールずっと先にあり、私たちがこの世での歩みを終えるまで続くのです。私たちは伝道をはじめ主のために歩みながら、成長させていただくのです。感謝をいたします。私たちの成長の歩みは、人生と同じように山あり谷ありです。時には成長とは反対の方向に歩んでいるように感じることもあるかもしれません。でも神につながっている時、ぶどうの木と同じように間違いなく成長しているのです。

今年度も神につながって神のために神と共に歩みましょう。神のために福音をのべ伝えながら歩むときに成長させられ、祝福されるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「復活であり、命である方」 ヨハネによる福音書11:17~27(新約P189)  2016年3月27日 大竹敏生

 

本日は今年のイースターとなります。主イエスキリストの復活を喜びつつ聖書を通しての神のみ言葉を学びましょう。

本日は主の復活を祝うイースターですが、本日の聖書の箇所は主が復活された箇所より前の記事です。イエス様と親しかったマルタとマリアの兄弟ラザロの復活の場面です。つまりここの箇所ではまだイエス様はご自身の復活を行なっていません。でもラザロを復活させることによって、イエス様は死に打ち勝つ方であることを証明したのです。そしてこの後、ご自身が自ら実際死から復活したのです。25節では「わたしは復活であり、命である。」とイエス様は語っています。イエス様自身が復活と命だと宣言され、実行されました。実際にラザロはよみがえったのです。ラザロは自分の力で復活したのではなく、イエス様の力でよみがえりました。そしてイエス様はこの後、ご自身の力で復活されたのです。主が復活であり、命であるからにほかなりません。

復活されたということは死に打ち勝ったことを意味し、死に打ち勝ったということは罪に勝利したことを意味します。罪は私たちに死をもたらせました。だから主を信じる私たちは生きることができるのです。永遠の生命が与えられるのです。感謝いたします。また罪に打ち勝ってくださったので、罪から来るありとあらゆるものに勝利できるのです。罪ゆえに私たちは弱さを持っていて悩み苦しみます。罪ゆえに私たちは希望すら持てないこともあるのです。それは正に「死んだような」状態です。神さまはその復活の勝利によって「死んだような」者にも命を与えて下さるでしょう。主イエスキリストを、そして復活を信じて歩みましょう。私たちは主の復活によって来る世においては永遠の命を得、この世においては思い煩うことなく喜びに満たされた勝利の道を進むべきなのです。感謝いたします。また「復活であり、命である方」がラザロと同じようにやがて私たちを復活させて下さることにも感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の子だった」   マルコによる福音書15:33~41(新約P96)  2016年3月20日 大竹敏生

 

本日から今年の受難週です。そして今日は「棕梠の主日」と呼ばれる主日で、来週はイースターとなります。「棕梠の主日」とはイエス様がエルサレムに入場した時を記念しています。多くの群衆が歓呼の声をもってイエス様を迎えましたが、間もなくその群衆が「イエスを十字架につけよ」と叫ぶことになりました。何ともむなしい思いになります。イエス様は祭り上げられ、落とされる、そんな状況に陥ってしまいました。聖書ではイエス様はそんな十字架に淡々と向かいます。十字架に架かることがイエス様の目的だったからです。陥れられたかのようですが、実はその十字架によって私たちの罪を贖ったのです。

従ってイエス様は抵抗することなく十字架に架かったので、十字架上では苦しみの中で神の子らしくなく見えます。「メシアなら、イスラエルの王なら十字架から降りてみろ」という声にもこたえず、神の子らしくなく死んだのです。しかしそんなイエス様を見てむしろ信じた者がいました。十字架に一緒に架かった罪人の内の一人がそうでした。また今日の聖書箇所に出てくる百人隊長がそうです。十字架上の神の子らしくないイエス様を見て百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言いました。決して簡単に出てくる言葉ではありません。ローマの社会の中にある彼の立場を危うくするかもしれない言葉でもありました。百人隊長はおそらく何人も十字架に架けられた罪人を見てきたのでしょう。そんな罪人たちとイエス様ははっきりと違っていたのでしょう。だから出てきた言葉だったのだと思います。そしてこの言葉は神が百人隊長に言わせた言葉でしょう。この言葉は信仰告白であると言っても決して過言ではないでしょう。信仰告白は神が与えるのです。

私たちも百人隊長のように十字架のイエス様に目を向け、主の贖いを信じて告白しましょう。「イエス様こそ神の子」とです。十字架で贖いを成し遂げ、復活で救いを完成させたイエス様を信じて感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「希望に満ちあふれ」  ローマの信徒への手紙15:7~13(新約P295)  2016年3月13日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙15章7節~13節です。この箇所から主のみ言葉を学びましょう。

このローマの信徒への手紙は16章までとなっています。最後の16章は正に終わりの挨拶です。この15章がこのかなり長い手紙の終わりとなります。普通最後に記されていることは大切な事です。またこの手紙でパウロの記してきたことを受けてのまとめのようなことが書かれていると考えられます。その大切なこと、この手紙をまとめていることはどんなことでしょうか。1つは互いに愛し合うことであり、一致することです。強い者も弱い者も、ユダヤ人も異邦人も一致して神の平和を得ることが勧められています。これは神に力を借りなければできません。神に喜ばれるために祈って愛し合いましょう。

13節によりますとその一致させる神は「希望の源である神」とあります。私たちの神は私たちの希望です。そして希望の源ですからその希望は尽きることはありません。私たちは真の希望を源である神から受け続けることができるのです。やはり13節に「希望に満ちあふれさせてくださるように」と祈られていますが、これは必ず実現される祈りです。希望の源である神にこれからも希望に満ちあふれさせられて歩みましょう。

以前私は「希望」という言葉からは弱いイメージを感じると語りました。それは今も変わりありません。そして本日は弱くて良いのだと語りたいと思います。私たちは罪があり弱いものです。希望がもし強いものだったら、また神が希望ではなく人には持てないような強いものの源であったなら、私たちは受けられなかったのではないでしょうか。弱い私たちは希望だからそれを持つことができるのです。私たちはたとえ弱くても、信じることで神の与える希望を持つことができるのです。与える神さまも私たちの弱さをご存知です。強くではなく、私たちが持つことができるように希望を下さる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「力は神から我らに」    詩編138編:1~8(旧約P978)    2016年3月6日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約聖書の詩編138編です。この箇所から神の言葉を聞いていきましょう。

この詩編は表題にありますようにダビデによるものです。ダビデはイスラエルの第二代の王で、神を信じる偉大な信仰者でした。ダビデは信仰的に優れた人でしたが、そのすばらしい信仰の特長は何だったでしょうか。その一つとして「自分ではなく神を誇りとする」ということがあったと思います。ダビデは偉大なことをいくつか行ないました。ゴリアテを倒してイスラエルを勝利に導きました。外敵に勝利し国力を伸ばして繁栄させました。そういう自分を誇りとしそうな状況でも誇ることが無かったようです。それはそういう実績は神の与えた力によるものと考えていたのでしょう。1節と2節を見ると神への感謝が記されています。また3節には神から力が与えられたとあります。神は私たちに力を与える方なのです。

神は力を喜んで私たちに与えます。私たちも自分の愛する存在を喜ばせたいと考えます。神も同じです。私たちを愛する神は私たちに喜んで力を与えるのです。ダビデも神から多くの力を受けました。彼が求めた時、主はそれにこたえて力を与えたのです。ダビデはそこに神の愛を感じていたことでしょう。私たちも神に愛されています。神を信じ、神から力を受けて歩んでいきましょう。

この詩編138編は最後の7節と8節が祈りとなっています。神に力を求めているのです。ある人はこのことをダビデの弱さと見るかもしれません。力が与えられるとの確信がないから祈っているというのです。でもそれは違います。ダビデはこれまでも神から力が与えられてきました。むしろ確信しているはずです。むしろダビデは弱さゆえに神からの力を必要としているからこそ祈っているのです。私たちも神に力を求めましょう。神は喜んで与えて下さるでしょう。喜んで私たちに力を下さる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「決して離れない神」  ヘブライ人への手紙13:1~8(新約P418)  2016年2月28日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所はまず兄弟愛が語られ、正しい夫婦関係のこと、生活のことといろいろです。何か話がポンポンとあちらこちらととんでいる感覚です。そんな中で5節に「神は決して離れない」と力強い神の約束が記されているのです。私たちがどのような状況であっても、私たちには神が必要であり、神は決して私たちから離れないと約束しています。感謝いたします。

「決して離れない」という行為は2つのものが必要です。1つは力です。「離れない」と頑張っても、離す力がそれ以上であれば引き離されてしまいます。神は全能の力を持ちます。どのような力の持ち主も神の力を上回ることはありません。人間のように非力で力及ばないことはありません。感謝します。またもう1つの必要なものは何でしょうか。それは愛です。力があっても愛が無ければ離れていきます。人間でも愛するものと共にありたいと考えます。しかし愛が無ければ離れても問題なくなります。神は誰よりも私たちを愛しておられます。ローマの信徒への手紙の8章で「どんなものも神の愛から私たちを引き離すことはできない」とあります。神の愛ゆえに私たちから神は離れないのです。神は全能の力と完全な愛を持っておられます。この方が「決して離れない」と言って下さるのですから、間違いなく神は私たちから離れません。感謝です。主は8節にあるように「変わることのない」方です。ということは「決して離れない」という約束も変わることが無いのです。神は霊なので私たちには見えませんが、私たちから離れないことを信じて歩みましょう。

私たちは罪があり、弱い者です。ありとあらゆる局面で神の助けを必要としています。そしてこの手紙の書かれた時代は、3節からうかがえますが迫害も当然あったでしょう。どのような時でも「決して離れない」という神の約束を励みとして歩みましょう。離れない神が私たちを助け、祝福し、導き、成長させて下さるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられている喜び」  フィリピの信徒への手紙4:4~7(新約P366) 2016年2月21日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙4章4節~7節です。このよく知られた箇所から学んでいきましょう。

4節に「喜びなさい」という命令が出てきます。この命令は文字通りとると少し不思議な言葉です。むしろこの命令は「喜びを得るために努力しなさい」という意味と考えるとしっくりくるような感じですね。でも他の聖書の箇所などからみると、聖書の「喜びなさい」はむしろ文字通りとるべきなのではないかと思わされるのです。

だとするならばすでに私たちには「喜ぶ」理由が与えられていることになります。喜ぶ理由もなく喜ぶのは無理な話です。ではそのすでに与えられている喜ぶ理由は何でしょうか。4節には「主において」という言葉があります。この言葉が私たちにすでに与えられている喜ぶ理由を探るのに重要な言葉です。主が与えるものとしてまず「救い」があります。私たちを愛する主は私たちを救うために十字架に架かって下さった「救い主」なのです。私たちはまず喜ぶ理由として「救い」が与えられていることを覚えましょう。また主は私たちを愛しておられます。主の「愛」ゆえに救われるし、主の「愛」ゆえに弱い私たちは助けられるのです。5節~7節に弱い私たちを助けて下さる主なる神の様子が記されています。また「主において」という言葉から、私たちは主そのものを喜ぶのです。私たちを愛する主が私たちを救って下さり、助けて下さるのです。そんな主を喜びましょう。主は共にいて下さるのです。

「喜びなさい」という命令は喜んでいない状態のものへの命令となるのが普通です。この手紙は「喜びの手紙」と言われるほど「喜び」の言葉であふれています。むしろフィリピの教会は喜びの教会だったようです。そんな教会にもさらに「喜びなさい」と命じられるほど喜ぶことは大切なのです。喜ぶことによりさらに祝福され喜びが増し加えられるでしょう。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信じて待ち望め」      詩編27:7~14(旧約P858)  2016年2月7日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所の詩編27編はあの有名なダビデによるものです。ダビデの人生はまさに波乱万丈でした。罪も犯しましたが、神を愛し、神と共に歩んだ人でした。そのダビデの書いた詩編から神のみ言葉を聞きましょう。

前半の6節までは神の守りに対する強い確信が語られています。そして本日の聖書箇所の7節からは一転して主に対して懇願する言葉が続いています。これはダビデの信仰を物語っていると思います。ダビデは神に対する非常に強い信仰を持っていましたが、それはダビデ自身が強い人であったというわけではなかったようです。むしろ弱い人で、王でありましたが、一人の弱い人として神により頼む人であったのです。7節以降には、まるで小さな子どもが親にすがりつくようにして、神に祈っている様子が記されています。ダビデの信仰は信じる神によって与えられているものなのです。

14節には2回「主を待ち望め」とあります。待ち望むことは決して簡単ではありません。だいたい人は待つのは苦手です。すぐに答えや結果を求めます。ただ神は時を支配しておられます。そして私たちにとっての最善を成して下さるお方です。つまり最善の時に最善のことを成して下さるのです。私たちはそれを信じなくてはなりません。そして信じて待たなくてはならないのです。神さまが最善の時に与えるのですから、その最善の時がいつ来てもよいように備えていることが大切なのです。

信じて待ち望むためには、ダビデがしているように祈りが有益です。祈りが信じ続ける力を与えて下さるのです。ダビデは決して安閑とした歩みをしていたわけではありません。そしてスーパーマンのような強い人ではありませんでした。そんな彼が神にすがるように祈り待ち望み続けたことによって、助けられ祝福されたのです。強い人ではなかったのに信仰も増し加えられ育まれたのです。信じて待ち望みましょう。主は決して裏切ることはありません。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「真実な方の愛」  コリントの信徒への手紙Ⅰ10:11~13(新約P312)  2016年1月31日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所の13節はよく知られた箇所です。ここの箇所を励みとして日々を過ごしている方々も多いのではないでしょうか。

八方ふさがりの状況において、そこから逃れる道が備えられていることは喜びです。またそのおかれた状況によっては、その逃れの道こそ最後の希望かもしれません。この逃れる道は、私たちを愛する神の備える道です。ということはこの道に神は試練の中にある私たちを導くということが約束されています。私たちは罪があり、弱いので逃れる道を進むことができないこともありえます。私たちを愛して罪を赦す神は、私たちを逃れる道に導き、また共に歩んで下さるお方です。感謝いたします。

この手紙の著者パウロは、人を襲った試練は大きくても耐えられないものはなかったはずだと記しています。多くの試練にあっていたパウロの言葉です。誰も反論できません。そしてパウロ自身もこのことは実感としてここに記しているのでしょう。神の備えた逃れの道に必ず導かれて歩んできたのでしょう。私たちもパウロほどではないでしょうが、誰もが少なからず試練に遭ってきました。しかし「耐えられないものはなかった」と証してまいりましょう。そしてこれからも神と共に神の備えた逃れの道に導かれましょう。

ただ、逃れの道を使用しないで歩めればそれに越したことはないと考える人もいるかもしれません。神はなぜ私たちを試練に遭わせるのでしょうか。神は私たちを愛しておられ、真実な方です。私たちは試練によって人間的に、また何よりも信仰的に成長します。罪ある私たちは、この世においては悩みがあります。その中を信仰をもって歩み続けなくてはならないのです。そのために私たちに試練が与えられます。神は私たちに信仰を与え、成長させ、共に歩んで下さるのです。試練に遭っても神の備えた逃れの道に導かれて歩めることを感謝します。またそのことを通して信仰が成長させられることにも感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神は世を愛された」  ヨハネによる福音書3:16~21(新約P167) 2016年1月24日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は良く知られた箇所です。特に16節は「聖書の中の聖書」とか「小聖書」などと呼ばれている箇所です。つまりこの16節は聖書全体の言いたいことを一つに凝縮していると言えるのです。その16節を中心に神のみ言葉から学んでいきましょう。

16節から分かるのは神がとてつもない大きな愛で世を愛されたということです。世というのはそこに存在する私たち人間を指します。つまり神の大きな愛につつまれるのは私たちなのです。私たちは神に似せて造られました。これは私たちが創造された時には罪が無かったことを意味します。しかし私たちに罪が入りました。私たちは罪が赦されて救われる必要が生じたのです。その罪を赦すためにイエスキリストが私たちに与えられました。そのことが、神が私たちを愛している証なのです。

私たちに神のみ子イエスキリストが与えられました。この方は私たちの罪を負って十字架に架かって下さいました。何故でしょうか。そうです。それは神が私たちを愛して下さっているからにほかなりません。「神が私たちを愛しておられる」この事実を私たちはいつも覚えていたいものです。ある人は「神が私たちを愛しておられる」ということを認めるのが私たちにとっての大前提だと主張します。まず私たちは無償の神の大きな愛を信じましょう。

私たちは罪ゆえに苦しみます。また聖書によりますと罪ゆえに滅びるのです。私たち人間ですらも愛する存在が苦しんだりすることを望まないでしょう。まして私たちを愛して下さる神は、私たちが苦しむことも、まして滅びることも望みません。そのためにイエスキリストが与えられ、十字架に架かって下さったのです。それを信じて歩みましょう。私たちは案外愛を必要としています。自分ですら自分を愛せないような弱い私たちをも愛して下さる神に感謝します。神を信じて神の愛を忘れずに歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「何もかも神にお任せしなさい」  ペトロの手紙Ⅰ5:6~14(新約P434)   2016年1月17日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所の中の7節に「思い煩い」という言葉が出てきます。この言葉は他の箇所では「思い煩うな」とあります。一方7節では「思い煩いを神に任せよ」とあるのです。私たちにとって思い煩いは良くないもののようだということは分かります。では思い煩ってはならないのでしょうか。それとも神に任せるべきなのでしょうか。7節の言葉は思い煩いの原因を指していると考えることができます。つまり思い煩いに至る理由を神に任せよという意味です。思い煩う前に神に任せるということになるわけです。またこうも考えられます。思い煩いは避けたいところなのですが、人は弱いのでどうしても思い煩ってしまうものなのです。私たちにとって避けようがない「思い煩い」を、それを本当に解決できる方にお任せしようと記しているということです。

私たちを思い煩わせる理由は様々です。仕事、家庭、人間関係、健康等々です。また、自分の罪のことで悩む人もいるでしょう。たくさんある「思い煩い」の理由ですが、そのすべてを神にお任せして良いのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」とあります。思い煩いは私たちの罪から来ます。神は私たちを愛しておられ、私たちを救って下さいます。そして私たちが思い煩うことを望まないのです。どのような思い煩いも神は解決して下さり、私たちを罪から救い、神は思い煩いをすべて解決してくれるのです。

「この世では悩みがある」と他の聖書箇所にあります。この世の歩みは思い煩いの歩みです。この手紙の宛先の人たちは迫害の中にありました。思い煩いは常にあったことでしょう。また手紙の差出人のペトロとその仲間たちも厳しい状況にありました。皆が思い煩いの只中にありました。おそらくそんな厳しい状況を、神に任せることによって平安に歩んでいたのでしょう。実は私たちも同じです。思い煩いから逃れることはできません。思い煩いの根本原因の罪を赦し、すべての思い煩いを消して下さる神と共に歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「並外れて偉大な力」  コリントの信徒への手紙Ⅱ4:7~15(新約P329)  2016年1月10日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所に「土の器」という言葉が出てきます。土の器は壊れやすく不完全です。不完全な器にはふつう宝は入れません。不似合です。しかし今日の聖書箇所にはその不完全な器に「並外れて偉大な力」と例えられるほどの宝を入れるとあります。「土の器」とは私たち人間で並外れて偉大な力をもつ神は私たちの中にその偉大な力を与えるのです。

8節~9節に、私たちが例えどのような状況に陥ろうとも大丈夫だというすばらしい約束が記されています。感謝いたします。これは神が私たちの苦しみや悩みを軽く見ているのではないことも意味しています。私たちは「四方から苦しめられ」「途方に暮れ」「虐げられ」「打ち倒される」のです。ただ神は私たちのその苦しみをすべてご存じなのです。決して小さくない、いや、ものすごく大きな悩み苦しみであっても、神の並外れた偉大な力で私たちの苦しみや悩みの一つ一つに届いて助けるのです。そしてそれは欠けだらけの土の器である私たちの内にあって働くのです。

また「並外れた偉大な力」は、私たちの悩みや苦しみの根本に届きます。私たちの苦しみや悩みは、私たちの罪から来ます。その罪の問題を解決するのです。私たちは罪があり、死ぬはずのものです。しかしイエスキリストによって私たちに命が与えられるのです。10節以降にそのことが記されています。罪の問題を解決するために私たちはイエスキリストの十字架を信じて歩みましょう。イエスキリストは確かに復活させられました。そしてその復活の命は私たちにも与えられるのです。感謝いたします。

神は私たちを愛して、土の器に宝を与えます。神の並外れた偉大な力が私たちに与えられるのです。その神によって私たちは神に守られます。何も恐れることはないのです。また私たちには神によって罪の赦しが与えられ、救われるのです。神に並外れた偉大な力を受けてこれからも歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の栄光があなたの上に」   イザヤ書60:1~7(旧約P1159)   2016年1月3日 大竹敏生

 

本日は2016年最初の主日礼拝で新年礼拝となります。今年も主日の礼拝が一つ一つ祝福されますように祈ります。

本日は旧約聖書のイザヤ書の60章1節~7節から学んでまいりましょう。最初にいきなり「起きよ、光を放て」と命じられています。命じられているのは「あなた」です。この「あなた」とは直接的にはシオンの都エルサレムです。しかしこれは前の章などから見ると決して都市を指しているということではなく、むしろ、主の贖いを受けた者を指すと考えられます。またもう少し大きく考えますと、贖いを受けるべき者すべてと考えられ、つまり、罪があって弱い私たちすべてとも考えられるのです。

主に背いたイスラエルは厳しい状況を迎えます。まさに真っ暗闇の中にあるようです。罪ある私たちも同じように弱く闇の中にあるようなものです。しかし主は闇の中にある者に光を放てと言われます。光れない私たちにです。光れない者が光を放つにはどうしたら良いのでしょうか。その方法として私たちは光を受けて反射するように輝けるのです。

その光は私たちの神から来ます。今日の聖書箇所には「主の栄光はあなたの上に輝く」とあります。その罪の大きさにより、闇の中に輝けずにどっぷりと浸かっている私たちの上に、ご自身の栄光を輝かせて下さるのです。私たちは主の栄光を受ける資格を持っていません。そんな私たちに愛の神は栄光を輝かせて下さるのです。感謝をいたします。

エルサレムのおかれていた状況も、私たちの罪による闇もとてつもなく大きい闇です。しかし主なる神の栄光はどんな闇の中にも輝くことができるものです。私たちはその栄光を受けて輝くことができます。まず主の愛による救いを受けることが神に栄光を帰します。そしてその神の愛の救いを証することが光を放つことになります。光を受けてその光を放ちましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「救いは近づいている」 ローマの信徒への手紙13:8~14(新約P293) 2015年12月27日 大竹敏生

 

本日は2015年最後の主日礼拝です。その主日の礼拝において神から示された箇所は、ローマの信徒への手紙13章8節~14節です。ここの箇所は8節~10節と11節~14節の二つに分けられます。ただ本日はあえて一緒に考えたいと思います。

11節に「救いは近づいている」とあります。これの意味についてはいくつか考えられます。1つは自分自身の救いです。イエスキリストを信じて、信仰を守り通して歩めと言われているのです。また2つ目ですが、多くの人たちがこの箇所をこう考えています。それはイエスキリストがまた再び来られる再臨のことを示しているという考えです。またある人はこう考えています。それはイエスキリストは今も私たちのそばにおられ、多くの人たちが救われることを願い、私たちを用いようとされているというのです。どれが正しいというのではなく、どれもが正解なのではないかと思います。私たちは自分自身の救いの達成のために信仰の道を歩み通し、主が必ず来られることを常に意識し、多くの人たちの救いのために祈りつつ証をし続けたいものです。証はいろいろな方法を通して行うことができますが、他者を愛すること、また愛し合うことが大きな証となることをおぼえましょう。

証をしていくために私たちは必要なものがあります。12節には「光の武具を身に着けましょう。」とあります。光である主イエス様がそれを下さいます。別の言い方をするなら、神に頼って歩むことが勧められているということです。実際人を愛したり互いに愛し合うことも、神がまず私たちを愛して下さっているからできることなのです。

愛し合うために、また証をして歩むために神からの力を受けて歩みましょう。「救いは近づいている」のです。また新しい年を迎えますが、変わりなく神と共に歩んいきましょう。主は私たちと共に歩んで下さるお方です。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられた大きな喜び」   ルカによる福音書2:8~20(新約P103)  2015年12月20日 大竹敏生

 

本日は今年のクリスマス礼拝です。今年も喜びをもってクリスマスを迎え、主のご降誕のみ言葉から学べることを感謝いたします。

主イエス様はダビデの町と言われたベツレヘムの家畜小屋でお生まれになりました。また、ご降誕は天使たちによってその場にいた羊飼いたちに告げられたことが本日の聖書の箇所に記されています。11節には「あなたがたのために」主メシアがお生まれになったとあります。羊飼いのような宗教的に弱い立場の者たちのためとか、イスラエル民族のためと理解することもできますが、その前の節に「民全体」とあります。つまりこれは世界中のすべての人のためにという意味なのでしょう。つまり私たちもその「民全体」に含まれているのです。

そしてその「民全体」に「大きな喜び」がこのお生まれになったイエス様によって与えられるとあります。この「民全体に与えられる」というのは大変なことです。人は多くの人が喜ぶことはありますが、すべての人が喜ぶというのはなかなかありません。人のやることは完全ではないので、すべての人に行きわたるように喜ぶものを与えたつもりでも、その喜びからもれてしまう者が出てしまうこともあるでしょう。また本日の聖書箇所の天使によりますと与えられるのは大きな喜びなのです。民全体が誰一人ももれる事無く大きな喜びに満たされるなんてすばらしいことは神にしかできません。今から2000年前にお生まれになったイエスキリストは、神が私たちのためにくださった救い主であり、神から贈られたプレゼントなのです。

お生まれになった救い主は私たちに罪を赦すために十字架に架かって下さいました。私たちを愛して、救って下さる方が与えられたのです。これが大きな喜びなのです。すべての人が愛され、救われるのです。愛されない人も救われない人もいません。信じる者はすべて救われるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「その名はインマヌエル」  マタイによる福音書1:22~25(新約P2)  2015年12月13日 大竹敏生

 

本日はアドベントの第三週で、次週はクリスマス礼拝となります。今から約2000年前、救い主の誕生を迎える少し前に、み使いガブリエルがイエス様の母となるマリアと父となるヨセフにそのことを告げました。本日はその内のヨセフに告げられた場面から主の言葉を聞きましょう。

本日の聖書箇所の23節の言葉はイザヤ書7章からの引用です。救い主の誕生の何百年も前の預言です。そこには救い主の名が記されています。しかしこの「インマヌエル」という名前は、救い主の名前としてよく知られた名前ではありません。私たちでさえも救い主は「イエス」という名前を思い浮かべるはずです。しかしイザヤ書には「インマヌエル」という名前が記されているのです。そうです。私たちは「イエス(主は救い)」という名前と「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という救い主の両方の名前を忘れてはならないのです。救い主にして共におられる方なのです。

ただ、誰もが救い主は私たちを救って下さる方であることや全知全能であることなどに注目します。しかしここでは共におられる方であることにも注目しています。共におられるということは愛しているということを意味しています。聖書ではこの愛を特に強調します。神は私たちと常に共に居て下さるほどに私たちを愛しておられるのです。聖書では私たちを共におられるほどに愛して下さる方の誕生を預言しているのです。

私たちは誰もが救いにあずかる資格を持っていません。そんな私たちが救われるのは愛されているからです。イエス様の救いも、まず主なる神が私たちを愛して下さっているから与えられる恵みなのです。今年もクリスマスがやってきます。それは共に居て下さるほどに私たちを愛して下さり、私たちを救い、導き、助けて下さる救い主の誕生をお祝いする日なのです。インマヌエルの救い主を心から感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「伝える者に」   ローマの信徒への手紙10:14~17(新約P288)  2015年12月6日 大竹敏生

 

本日はアドベントの第二週で、世界祈祷週間の最終日です。世界に出て働かれる宣教師を覚えて祈り、献金しましょう。ある人はこういう風に思う人もいるかもしれません。「日本の伝道も進まないのに世界なんて」とか「困っている我々が何で世界に」とかです。ただ忘れてはならないのは今日の聖書箇所にあるように私たちにも知らせてくれた人がいたから聞くことができたのです。遠い海外から伝えてくれた人がいました。また震災などで被害に遭った我が国のために多くの国の人たちが援助してくれたのも忘れないで歩みましょう。

15節の言葉に注目しましょう。カギかっこの中の言葉は旧約聖書のイザヤ書からの引用です。ここで「良い知らせ」とありますが、私たちに伝えられたのは「良い知らせ」だったのです。「すべての人が主を信じることで救われる」というのが「良い知らせ」なのです。この「良い知らせ」を喜び、多くの人たちによって伝えられてきました。そして今も伝えられているのです。

そしてその「良い知らせ」を伝える者の足が美しいとたたえられています。これは意外ですね。伝える者の口や頭脳や顔などに目が行きがちですが、神はなんと足に注目しています。これは「伝える者の足のみが大切」ということを言っているのではありません。伝える者の足という人の目が行かないところにも、神は忘れずに見ていて下さるということを意味しています。また足はその働きによって汚れてしまいます。しかしその美しいとは言い難い足を神は美しいと記しています。伝えるために足が働き、そのために汚れても、神はその伝える働きのための汚れをも美しいとたたえるのです。感謝します。

私たちの働きも時に足のようです。世界宣教に対して直接的にかかわることはなかなかできません。でも例えば祈って献げていくことも神は喜んで下さるでしょう。その目立たない伝える働きを神は見ていて下さり、その働きを導き祝福して下さいます。伝える者として歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛は尽きず、離れず」   イザヤ書54:4~10(旧約P1151)  2015年11月22日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は旧約の時代の大預言者イザヤの書からです。イザヤ書には多くのまだ起こっていないことが預言されています。今日の箇所もその内の1つです。この箇所は、イザヤのいた南ユダ王国が後に他国(バビロン)に都を破壊され、王国も滅亡するが、その後回復するとの預言が記されています。また二度とこういうことも起きないとの約束が記されているのです。

南ユダ王国が亡びるのはユダヤの民が神から離れたためであって、つまりそれは「神が南ユダ王国を見放した」と考えることができるのです。それに対して神は、確かに7節によれば「南ユダ王国を捨てた」と語っています。ただ「捨てた」というのは現象であって、神の愛が南ユダ王国とその民から離れたわけではないと語ります。10節から、実際に神が「捨てた」と思える状況でも神は南ユダ王国を愛し続けていたと読むことができます。

10節に「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかしわたしの慈しみはあなたから移らず」とあります。「山が移る」ことなどほとんどありえません。「丘が揺らぐ」というのも、少し地震で揺れたというものではなく、丘の存在が危ぶまれるほどというようなもので、これもまずありえないのです。そんなほとんどありえないことよりも、さらに神の愛が尽きたり離れたりすることはないと神ご自身が断言しているのです。その尽きない離れない愛ゆえに神は平和の約束も下さっているのです。

神はこのように南ユダ王国の民に約束を下さっていますが、私たちにも同じ約束が与えられているのです。私たちもまるで「神に見捨てられた」と感じるようなことがあるかもしれません。そしてそれは私たちの罪ゆえなのです。ただ南ユダ王国から神の愛が離れなかったように、神の愛は私たちからも離れません。感謝します。その絶対に離れない神の愛を信じ、励みとして歩んでまいりましょう。今日も変わりなく愛して下さる神に感謝をいたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「すべての人を招く愛」   マルコによる福音者2:13~17(新約P64) 2015年11月15日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はイエス様がレビ(マタイ)を弟子とする箇所です。マタイ、マルコ、ルカの福音書にこの記事は出てきますが、今回はマルコから主の言葉を学びたいと思います。

レビはイエス様の弟子になる前は徴税人(取税人)でした。徴税人は今日の聖書箇所にもあるとおり罪人と同列に扱われる身分でした。レビはそんな徴税人という己の仕事に満足を得ていたわけではないようです。彼はイエス様の「わたしに従いなさい」の言葉にすぐに従いました。そして罪人や取税人の仲間や弟子たちと共に食事の席につきました。この宴席の主催者はレビだったと思われます。イエス様の召命を奇跡のようなものと喜んで設けたのでしょう。しかしその宴席にケチをつけたのがファリサイ派や律法学者でした。イエス様が徴税人や罪人と一緒に食事をしていたからでした。それに対してイエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えたのです。

ローマ書に「正しい者は一人もいない」とあります。すると人はすべて罪人だということになります。つまりすべての人が招かれていることになります。それは神の愛です。すべての人が招かれているということは、イエス様はどんな大きな罪を持つ人をも招いておられることになります。「いくらなんでもこんな大きな罪は無理…」ということはありません。私はどんな人でも招かれ、罪が赦されるのです。また罪から来る影響、人の弱さや私たちを悩ます問題もすべて主は「無理」ということはありません。医者は病人の病気を治すためにその人として最大な力を発揮してくれます。罪人を招く主イエスキリストは、私たちの罪を赦し、弱さゆえの問題や悩みをその全知全能の力で引き受けて解決して下さるのです。罪から来る弱さに悩む人は現代も多いでしょう。愛をもって招いて下さる主に感謝をもって招きに答えましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信仰によって神に」  エフェソの信徒への手紙3:10~13(新約P355) 2015年11月8日 大竹敏生

 

私たちと神の間には実は大きな溝があります。私たちは神様から離れてしまっているのです。もともとは離れてはいませんでした。私たちと神を離れさせてしまったのは罪なのです。

今日の聖書箇所ではその溝を埋めるように神が計画を成されました。それが信仰による救いです。また神はその救いの計画をはじめとしていろいろな働きをされています。それは救いを含めてすべて私たちのためであり、それをこの地上に知らしめる働きを教会がしてきたのです。それによると私たちの信仰によって神がいろいろな恵みを下さったことが分かります。1つはもちろん救いです。私たちはその罪によって神と断絶してしまいました。その断絶の解消が十字架による救いです。主の偉大な十字架による救いを信じることで私たちは救われるのです。感謝いたします。

また12節には「神に近づくことができる」とあります。神と私たちを比べたら、能力にしても、何にしても比べものになりません。そして罪があるゆえに神に近づくことも本当はできないのです。ペトロは主イエスキリストの偉大な力を見せられた時「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。そうです。罪がある私たちは本当は神に近づくこともできない者なのです。しかし神は私たちが近づくことを許して下さいます。主を信じることによって、つまりその信仰によって罪が赦されて、神に近づくことができるのです。またこのことを、言い方を変えると「神の愛を信じる」ということになると思います。罪が私たちと神を引き裂いたわけですが、その罪に対して全く無力な私たちです。神に近づく資格は私たちには無いのです。しかし神は私たちを愛しておられます。資格がない私たちが近づくことを許して下さいます。いやそれ以上に近づくことを求めておられるのです。感謝をしつつ、その愛を信じて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「本国は天にあり」  フィリピの信徒への手紙3:17~21(新約P365) 2015年11月1日 大竹敏生

 

本日は今年の召天者記念礼拝です。先にこの世での歩みを終えて神の御許に召された方々を覚えて礼拝いたしましょう。

本日の聖書箇所の17節にいきなり「わたしにならう者になれ」と驚くべき言葉が記されています。何か高慢な印象を与える言葉です。もちろんこの手紙を書いたパウロは尊敬すべき見習うべき方ですが、自分で言ってはどうかと疑問を抱いてしまいかねない言葉です。これはもちろん高慢なのではなく、パウロと同じように神を仰ぎ見つつ歩むようにという意味なのです。先に召された方々はパウロと同じように神を仰ぎ見つつ歩んだ人たちなのです。

先に召された人たちは十字架に敵対せず、神を仰ぎ見つつ、信仰によって天のみ国に導き入れられています。20節に私たちの本国は天にあると記されています。この「本国」は他の訳では「国籍」「ふるさと」などと訳されています。また原文の意味は「市民権」のようなものに近いそうです。これらすべてを合わせたような意味なのかもしれません。「天」におられ、「天」を管理し、「天」においても絶対のお方である神が、私たちにも「天」を保証しておられます。私たちは今はこの世にて歩みを進めています。しかしこの世での国籍がたとえ他国にいても変更がなければ保証されるように、私たちには本国である「天」が保証されています。先に召された人たちもその保証された「天」に今はおられるのです。「天」におられ、導かれる主の許で何の憂いもなく過ごしておられる召された方たちに続いていきましょう。

神を仰ぎ見つつ信仰をもって歩み、十字架に敵対せず神を愛して歩む私たちは、すでに本国は「天」なのです。神はそれにふさわしい者に私たちを変えて下さるのです。神に保証された「天」、すなわち「天」に導き入れられる権利を信じて先に召された方々に続きましょう。ふるさとであり、本国である「天」で再び皆と会えることを信じて感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしが選んだ」  ヨハネによる福音書15:11~17(新約P199)   2015年10月18日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は「ぶどうの木のたとえ」に続く箇所で、このたとえが話された理由が書かれています。このたとえで「主につながっている」ことの大切さが語られていますが、主につながることによって喜びに満たされるとあります。そしてそこから主に愛され、愛し合うことが勧められています。主に愛されているからこそ私たちには喜びがあり、愛に満たされ、愛し合うことができるのです。13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とありますが、それはこの後すぐにイエス様が十字架によって実践して示して下さいました。その愛に満たされることは大きな喜びです。主はまた、私たちを僕ではなく友と呼んで下さいます。確かに私たちは神の僕に過ぎません。しかし主は僕ではなく友として下さいました。これも神の愛なのです。

16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とあります。私たちが主を信じるとき、自分で信じたように思います。つまり私たちが選んだように思ってしまうのです。主は私たちの心にも届き、主を信じる信仰も主が与えて下さるのです。つまり自分で信じたように思いますが、実は主が信じる思いを起こさせて下さっているのです。主に選ばれていることを感謝いたします。「主が選んだ」ということは何を意味するでしょうか。1つは神が選ばれた私たちについて責任を負って下さるということです。ぶどうの木が枝に実をむすばせるように、私たちを選んだ主は私たちに実をむすばせる働きをして下さるのです。主に従って歩むとき私たちは祝福されます。「願うものは何でも与えられる」とあるのです。感謝します。また「主が選んだ」意味の2つ目はもう何度も語られていますが、主が私たちを愛されているということです。「わたしがあなたがたを選んだ」という言葉に「私はあなたがたを愛している」ということを強く感じます。私たちを選んで下さった主なるイエス様に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の神に望みをおいて」   イザヤ書40:27~31(旧約P1125)    2015年10月11日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所、旧約聖書イザヤ書40章の27節にはイスラエルの民が主なる神に不平を言っていることが記されています。私たちも時に神に不満を言いたくなることがあるのではないでしょうか。それに対して28節では神の偉大さを語ります。永遠で、天地万物の造り主、疲れない方、英知を究めた方とです。このことはイスラエルの民も、主を信じる私たちもよく知っていることです。神の偉大さを思い返すことが不信仰から来る不平不満を消すのです。

往々にして不平不満は私たちが疲れているときに出てきます。30節には「若者が疲れ」「勇士が倒れる」とあります。人は弱いのです。疲れにくい若者すら疲れ、なかなか倒れないはずの勇士すら倒れることがあります。ところで、私が非常に疲れた時、肉体的だけではなく精神的に厳しい状況で会ったことを思い出します。31節には主に望みをおく人は新たな力を得るとあります。肉体的にも精神的にも厳しい状況から疲れて倒れてしまうような者は、主に望みをおくことによって力を得ます。肉体の問題も精神や心の問題も解決は神から来るのです。神様に望みをおいて歩みましょう。また人が疲れたりするのは、人が弱いからなのですが、その弱さは私たちの罪から来るのです。罪の問題の解決も神にしかできません。弱さを覚える時、疲れた時、倒れた時、主に望みをおいて力を受けて歩みましょう。その受ける力は鷲の強い羽ばたきのような力強いものなのです。

主に望みをおくためには主を信じることです。信じることによって主に望みをおくことができ、力を受けます。また信じることによって私たちには救いをはじめとしてありとあらゆるものが与えられるのです。現代は多くの人が疲れています。そんな今を生きる私たちは、主に望みをおく必要があります。疲れている私たちをあわれみ、愛をもって私たちに力を与えて下さる主なる神に望みをおいて歩めることを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられる喜び」    ペトロの手紙Ⅰ1:3~9(新約P428)   2015年10月4日 大竹敏生

 

主イエスキリストを信じることによって私たちには様々な恵みが与えられます。その恵みが生み出すものでもありますが、私たちには直接的に神から「喜び」が与えられるのです。「喜び」を下さる神に感謝いたします。

本日の聖書の箇所は、イエスキリストの1番弟子というべきペトロの書いた手紙の冒頭の部分からです。ペトロは、神がその愛と力で私たちにすばらしい恵みを与えて下さることを記しています。その恵みはもうすでに与えられているものであり、与えられつづけているものであり、これからも先も与えられるものなのです。主イエスキリストは私たちのために十字架に架かって死に、復活して今も生きておられますが、いつの日かまたこの世に来られます。その時には私たちには信仰によって「救い」がもたらされるのです。私たちはそれを希望として、また喜びとして歩むことが出来るのです。今日の聖書箇所にはこの世の歩み、今しばらくの間はいろいろ試練があるとあります。しかし恐れることはありません。今も生きておられる主からの守りと恵みがあります。救いの約束もあります。神と共に試練を乗り越えていきましょう。

主イエスキリストの弟子の中でも1番密接な交わりをしていたのがこのペトロです。そのペトロが、今も生きている主イエスキリストが共にいて下さるからこその恵みを記しています。彼は十字架に架かる前のイエス様から恵みを受けました。そして十字架に架かって後、復活したイエス様からも恵みを受けました。そしてその後のイエス様からも恵みや力が与えられました。私たちにも与えられる恵みを喜びましょう。そして今も生きておられる主イエス様と共に歩めることをも喜びましょう。

その与えられる喜びは、計り知れないほど大きなものです。過去の与えられた喜びも、今与えられている喜びも、そしてこれから与えられる喜びも大きいのです。私たちは与えられる喜びで満たされます。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「だれでも救われる」  ローマの信徒への手紙10:5~13(新約P288)   2015年9月27日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所には人はどうしたら救われるかが記されています。人は救われる必要があるのです。それは私たちの中にある罪からの救いなのです。その罪は私たちにいろいろな負の影響を与えているのです。私たちの死も弱さも皆罪から来ているのです。そして何よりその罪ゆえに神様から引き離されてしまっているのです。その罪から救われなくてはならないのです。

聖書に「人はしたいことができず、したくないことをしてしまう」とあります。それは罪の与える影響、大きさを表しています。また他の箇所には罪を「一万タラント(6000億円位)の借金」と例えています。罪の影響はあまりに大きく私たちには解決が不可能なのです。したいことができずにしたくないことをしてしまうほどに弱い私たち。その罪に対してできることは何もありません。神様は罪を忌み嫌います。罪ある私たちとは断絶されています。その罪の解決のために神はどうしたら救われるかを今日の聖書箇所で教えています。それは「心で信じ」「口で告白する」とあります。神様は私たちが罪の清算に関して何もできない弱い存在だと知っています。あんなに途方もなく大きい罪の清算のために、私たちにできないことを命じていないのです。それは神の愛からきています。

「心で信じ」「口で告白する」とありますが、つまり主イエスキリストの十字架による救いを信じ受け入れることです。「口で告白する」というのは弱い私たちのために必要なのではないでしょうか。「口で告白する」ことによって私たちは言ったことに責任を持つ必要があります。「信じる」ということによって、たとえ厳しい状況に陥っても信じ続けることもできるのです。また「信じる」ということで迷いを捨てることもできるのです。

私たちの罪の大きさと私たちの弱さを知っておられる神を信じましょう。信じる者はだれでも救われるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛から」    マタイによる福音書18:18~20(新約P35)   2015年9月13日 大竹敏生

 

本日は「高齢者を覚える礼拝」です。教会に連なるご高齢の方々のさらなる祝福をお祈りいたします。

本日の聖書の箇所は神の愛に満ちた約束が記されています。非常に少ない人数が心を合わせる時、祈りが叶えられるとあり、同じように少ない人数が集まる所に主が共にいるという約束です。私たちの世は「多数」と「少数」を比べれば「多数」の方が上となります。これはある程度は仕方がないことかもしれません。しかし「少数」が顧みられないことはあってはなりません。しかし罪があり弱い人間は、時にそのあってはならない状況に陥ることがあります。愛の神はその「少数」と共にいて下さり、顧みて下さる方なのです。

ただ、ここで注意したいのは、神は「少数」を顧みられる方なのですが「多数」も顧みる方だということです。これはたとえ人は「多数」であっても弱いということを意味しているのではないでしょうか。私たちは時に「多数」になったり「少数」になったりするでしょうが、神に愛されていることに変わりはないのです。

残念ながら私たちの世界では先にも記したように「多数」が力を持ち、「少数」は顧みられなくなることがよくあります。そしてその数が少なくなればなるほどにそれは顕著となります。ご高齢の方々はいろいろな意味で「少数」となります。しかし神の愛はまんべんなく注がれているのです。

また神の愛は減ることはありません。世界中すべての人が愛されていますが、その愛は減ることはなく、むしろ一人一人が他のどんな存在からよりも愛されているのです。それは愛の根源は神にあるからです。愛そのものである神から愛は発せられているのです。これからもその尽きない神の愛を受けていることを覚えて歩んでまいりましょう。そして神の愛を受けて、その愛を証しし、また少しでもその愛を他者に向けて歩みたいと思います。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主の助けと救い」      詩編121:1~8(旧約P968)    2015年9月6日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は旧約聖書の詩編の121編で、有名な箇所です。ここでこの詩編の作者は「私の助けはどこから来るのか」と疑問を記しています。この問いの答えを見いだせないでいる人たちは多くいるのです。ただこの作者は実は本当の答えを知っていたのです。彼はこの疑問を山々に目を向けて問います。山々は具体的には神の都エルサレムとその近くの山々を指すと考えられます。エルサレム自体山の上にあり「シオンの山」と呼ばれます。その近くにはオリーブ山などもあります。この詩編は「都に上る歌」です。神の都エルサレムに目を向けて神の助けを祈ったのでしょう。また山に目を向けたというところにも注目しましょう。山に目を向け、それを造られた神を思うのです。弱い私たちはエルサレムではなくても、この地の山に目を向けてそれを造られた神に助けを求めることができるのです。感謝いたします。

神の助けは完璧な助けです。人も人を助けることができます。ただ弱い人間ですので、その助けが力が及ばなかったり、間違ってしまうこともあるでしょう。でも神の助けは違うのです。天地を造られた全知全能の神は力が足りないことはありません。間違うこともないのです。また神は決してまどろむこともなくいつも私たちと共にあって守って下さいます。それは神の愛を示しています。全知全能の力を持つ神が私たちを愛して助けて下さり守って下さるのです。感謝いたします。

本日の聖書箇所の最後には、神の見守りは「とこしえまで」あると記されています。「死ぬまで」ではないのです。これは一つは、神の助けは人間が存在する限りあるということを示していると思います。またもう一つは私たちが死んだ後も守られるという意味があります。つまり私たちは救われ、死んだ後も主の支配される神の国に導かれて永遠の命が与えられるということです。究極の助け主にして救い主なる神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「最も大いなるものは愛」 コリントの信徒への手紙Ⅰ13:1~13(新約P317)  2015年8月30日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所のコリントの信徒への手紙Ⅰの13章は「愛の讃歌」と讃えられる箇所です。愛について、特に神の大きな愛について記されています。今日はこの「愛の讃歌」から神の言葉を聞きましょう。

この箇所の前半部分は愛についてそのすばらしさが記されています。愛がなければどのような良いと思える行為も無に等しいとあり、4節以降にはいくつもの愛のすばらしさが記されています。しかしこれだけ書かれていても愛のすばらしさを語りつくしてはいないのです。いやそれどころかこれでもほんの一部でしかなく、神の愛の大きさ、深さ、広さはとうていはかり知ることができません。私たちが神の愛をどんなに大きく、深く、広くみたとしても決して大きすぎたり、深すぎたり、広すぎたりすることはありません。それほど神は大きな愛の方であり、その愛は私たちに向けられているのです。

この聖書箇所の終わりに愛は、信仰と希望と共に最後まで残ると記されています。このいつまでも残る信仰と希望と愛はすべてすばらしいものです。ただこの3つの中で最も大いなるものは愛だと記されています。信仰は、これなしには誰も救われません。私たちはイエスキリストを信じる信仰によって義とされているのです。これくらい信仰は大いなるものなのです。また希望は、私たちがどのような状況にたたされても私たちを最後まで離れずそこから救う力です。つまり希望も大いなるものなのです。しかしその二つを上回るおおいなるものとして愛があります。罪ある私たちが信仰により救われるのは、神のあいによるからに他なりません。弱い私たちが神に希望を持ち続け助けられるのは、神の愛によってなのです。最初に神が私たちを愛して下さっているからこそ、私たちは救われるのです。神が私たちを愛しておられるから、私たちは助けられるのです。この神の愛による恵みによって生かされていることを感謝します。神の大いなる愛によって救われ、助けられて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「力と愛に満ちた方」   マタイによる福音書10:26~31(新約P18)  2015年8月23日 大竹敏生

 

今日の聖書の箇所には「人々を恐れてはならない」とあります。この言葉は逆に「人は人を恐れるもの」ということを物語っています。実際私たちは「人を恐れること」でさまざまな問題に悩まされているのではないでしょうか。ではなぜ人は恐れるのでしょうか。それは人が弱いからです。その弱さは罪から来ているので、人が恐れないで歩むことは無理なのです。

でも弱い人が弱い人を恐れるよりは、弱くない方を恐れるべきなのです。28節にはそのことが記されています。力を持った強い方を、つまり神を恐れるべきだと記されているのです。私たちを滅ぼす権威を持っておられ、罪を憎む神を私たちは、少なくとも人よりは恐れるべきなのでしょう。

ただ今日の聖書の箇所の終わりには「恐れるな」と記されています。これはとり方によっては「神を恐れるな」ととることもできます。神は恐れるべきなのでしょうか。恐れなくてよいのでしょうか。これはどちらも正しいのです。神は力がある方で、罪を憎む方です。私たちは力ある神を恐れるべきです。ただ神は私たちを愛する方です。雀すら愛する方です。その雀以上に私たちは愛されているのです。その愛ゆえに私たちが滅びることを神は求めていません。私たちは神の愛ゆえに救われるのです。つまり私たちは神の愛ゆえに恐れることはないのです。

神はまたすべてをご存知です。罪ある私たちをすべてご存じで、隠されているものは一切ありません。これは神の愛と力を意味しています。私たちの髪の毛の数も数えられています。これは私たちのすべてを知っていて下さる力と、そういうことまで知っていて下さる愛を示していると思います。神はまさに「力と愛に満ちた方」なのです。恐れるべき方ですが恐れなくて良いのです。私たちは「力と愛に満ちた方」である神を信じて、神と共に歩みましょう。恐れのない豊かな歩みができ、救いを受けることができるでしょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神により頼むしかない」  ルカによる福音書16:19~31(新約P141)  2015年8月16日 大竹敏生

 

今日の聖書の箇所は「金持ちとラザロ」と題されるたとえ話です。たとえ話とは、私たちが神の真理について知るためにイエス様が分かりやすく話されたお話です。そのため話が多少省略されたりすることもあり、惑わされないで聞いていく必要があります。今日の箇所も注意しつつ味わいましょう。

この「金持ちとラザロ」のたとえ話の特徴は、本当にあった話ではないのに「ラザロ」という登場人物の固有名詞が出てくるところです。「ラザロ」とは「神が助ける」という意味ですばらしい名前ですが、それをわざわざ記すということは意味のあることと考えるべきです。

このお話で思い違いをしないようにしたいのは、ラザロがこの世で苦しんだから天国へ行き、金持ちがこの世で放蕩したから地獄へ行ったと考えてはならないということです。あくまで救いは信じることによって与えられるのです。つまりラザロは神を信じたから救われ、金持ちは信じなかったから地獄へ行くこととなったのです。この話には「ラザロが信じた」というような直接表現はありません。ただ想像できるのは「金もない」「自分もダメ」「友達もいない」そんなラザロは神により頼むしかなかったのです。一方金持ちは頼るものはたくさんありました。むしろ神により頼むのは自身にとって都合が悪く、神に背を向けたと考えられるのです。神により頼むのは信じなければできません。ラザロは神を信じ、金持ちは信じなかったのです。

神により頼むことから得られるものは「天国」だけではありません。ラザロは天国行きも祈ったかもしれませんが、むしろ生きられるように祈っていたと考えられます。それは決して満足できるかたちではなかったかもしれませんが、ある程度かなえられたとも言えるのです。

「神により頼むしかない」のはラザロだけではありません。実は私たちもそうなのです。神により頼んで歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「キリストはわたしたちの平和」 エフェソの信徒への手紙2:11~22(新約P354)  2015年8月9日 大竹敏生

 

8月は日本バプテスト連盟の「平和宣言月間」です。8月は「平和」について考え、求めていくのにふさわしい時と言えます。

日本語の「平和」は世界とか日本とか非常に広い大きな地域などに用いられます。個人や家庭などにはむしろ「平安」などが用いられるのではないかと思います。では聖書ではどうでしょうか。聖書の語る「平和」はそのどちらも含みます。聖書の示す「平和」は意味が非常に広く深いのです。「平和」や「平安」の言葉から考えられるありとあらゆる多くのイメージがすべて含まれていると言っても過言ではないのです。

また今日の聖書箇所には個人的な「平和」が語られています。それは神と私たち一人一人の「平和」です。聖書では「平和」から私たちを遠ざけるものは私たちの「罪」だと教えてくれます。私たちの「罪」ゆえに、私たちは神と引き離されました。神と「平和」ではなくなってしまったのです。私たちは神との「平和」を取り戻す必要があったのです。それをイエスキリストが成しとげてくださいました。16節にはイエスキリストの「十字架」によってそれを成してくださったと記されています。「罪」によって断絶した神との関係が回復することによって、神との「平和」が回復されるのです。

聖書では「平和」を乱すものは「罪」だと語っています。神との関係が回復することは「罪」が赦されたことを意味します。つまり神との「平和」がまず一歩であり、そこから「平和」の実現に向かうことができるのです。私たちはキリストにおいて一つとなり「平和」が得られるのです。つまり「平和」は私たちの力で実現することは大変困難だと言わざるをえません。14節にはキリストが私たちの「平和」なのだと記されています。人には実現が難しい「平和」ですが「平和」の主であるイエスキリストに委ねて、神と人との間に真の「平和」を得て歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神のみ言葉に導かれ」  テモテへの手紙Ⅱ3:10~17(新約P394) 2015年8月2日 大竹敏生

 

今日の聖書箇所「テモテへの手紙Ⅱ」はパウロが処刑される直前に書いた手紙と思われます。そしてパウロは自分の処刑は近いと悟っていたようです。そういう状況の中、自分の愛する弟子のテモテに書いたのがこの手紙です。そういう手紙には「緊迫」「危機」「迫害」などについてパウロ自身の体験から来るアドバイスなどが書かれており、そしてそれは手紙を書いた時のパウロの状況と何か一致するものが感じられます。

そんな状況の中、パウロは愛する弟子テモテに大切な事をまるで遺言のように記しています。今日の聖書の箇所には「み言葉の大切さ」が記されていますが、何かこれは当たり前すぎて違和感のようなものを感じてしまいます。命の危険を感じるような状況で、もう限られたことしか教えられない状況の中、何かもっと難しく厳しいアドバイスがあってしかるべきと思われるのに、パウロは「み言葉の大切さ」を説いています。このことは「み言葉」「聖書」が本当に大切だということを意味しているのです。聖書は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。それは神についてです。聖書は神のみ言葉なのです。神についてということは、たくさんのことを教えて下さるのですが、特にここでは「信仰による救い」が強調されています。つまり神は私たちが信じて救われることを、何より求めていることが分かります。

また、聖書は今も生きておられる神の導きが示されます。神の導きはよく神のみ言葉によって示されるのです。それは時に私たちの意に沿わないこともあるのです。「人を教え、戒め、誤りを正し」と16節にあるとおりです。しかし弱い私たちにとって、自分の思いよりも神の導きに従うことが最善なのです。そしてそれが私たちの信仰をより強固なものとして、救いの道をまっとうして歩むことにつながるのです。神のみ言葉に導かれて歩みましょう。テモテと同じように、パウロの遺言として聞き従いましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「我らを救うために」  フィリピの信徒への手紙2:6~11(新約P363)  2015年7月26日 大竹敏生 

 

イエスキリストが私たちのためにかかって下さったのが「十字架」です。この「十字架」は大変過酷な刑罰です。神の子でありながら人間であったイエス様はその過酷な刑罰を私たちのために受けて下さったのです。感謝をいたします。今日の聖書の箇所には、そんな過酷な十字架にイエス様は「従順に」臨まれたとあるのです。確かに十字架に向かうイエス様は、抵抗するそぶりもなく歩まれています。まさに「従順に」です。でもゲッセマネにおいては「この杯をのけて下さい」と十字架にかかりたくないと祈りました。確かにイエス様がただの人間であったとしても十字架は過酷な刑罰です。ただイエス様は人間としての苦しみの他に、神の子ゆえの苦しみもありました。その神の子ゆえの苦しみとは、十字架が切り離すことができないほど一体の神とイエス様とを引き離すことを意味しているからです。むしろこの苦しみがイエス様にとっての十字架による最大の苦しみだったのです。

それほどの苦しみである十字架にイエス様はかかって下さいました。そんな苦しみをいとわないほど私たちを愛して下さっているからです。イエス様の十字架を信じることで私たちは救われるのです。そして信じること以外に救いはありません。信仰によって義と認められるのです。

今日の聖書箇所を見るとイエス様は十字架にかかったことによって、神により高く上げられました。そしてあらゆる名にまさる名をお与えになりました。しかしイエス様はその栄誉を受けること以上に、私たちを愛するがゆえに十字架にかかって下さったのです。感謝いたします。今日の聖書箇所の11節に「イエス・キリストは主である」とすべての人が宣べるようになると記されています。言い方を変えると、すべての人が「イエスキリストは私たちの救い主で、私はそれを信じます」と宣べるということです。それがイエス様をたたえることになり、何よりもイエス様が望まれていることなのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主による土台」    ルカによる福音書6:46~49(新約P114)  2015年7月19日 大竹敏生

 

私たち自身にとっても、私たちの周りのことにおいても「土台」というものは大変重要です。土台がしっかりしていないと私たちは力を発揮できません。いやそれどころか、私たちは害を受けてしまうのです。「足元を固めて」などと言いますが、すべてのことにおいてしっかりとした土台を得て、足元を固めて歩みたいものです。

本日の聖書箇所もそうですが、聖書には私たちの「土台」についていくつかの記述があります。コリントの信徒への手紙の一には、私たちの「土台」は主なる神だとあります。そして本日の聖書箇所には「主の言われることを聞き、実行することが土台となる。」と記されています。コリント書と今日の聖書箇所はどちらが正しいのでしょうか。実はどちらも正しいのです。一見コリントの方が分かりやすくしっくりくるような気がします。しかし「神ご自身が土台」というのは、神が見えないので案外意識できなくなったりします。今日の聖書箇所には「神の言うことを行ないなさい。」とあります。これは難しそうですが、意識し易いと思います。そしてこれは決してコリント書の主張と違うことを言っているのではないのです。見えない神が土台と意識するには信じなくてはなりません。そして神の言うことを行なうには、神を信じなくては実行は困難です。誰も信じていない人の言うことを行なうことは難しいのです。神を信じて神が土台であると意識しましょう。また神を信じて神の言われることを行なう者になって土台を確固たるものにして歩みましょう。

神を土台にして歩むことはすばらしい恵みです。神の導きの中、しっかりと歩むことができます。また今日の聖書箇所に具体的に記されていますが、この土台のおかげで私たちは守られるのです。実は弱い私たちは神なしには、たいへん危うい土台の上にいるような者なのです。神を信じてしっかりとした神ご自身の土台を得て歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられる義の実」  フィリピの信徒への手紙1:3~11(新約P361)  2015年7月12日 大竹敏生

 

パウロのフィリピの教会への手紙の最初の部分です。フィリピの教会はパウロの関係した教会の中でも、非常に熱心かつ忠実にキリストに従っていた教会です。パウロはフィリピの教会を喜びつつ励ましています。

本日の聖書の箇所の特に9節以降を見てみましょう。ここはフィリピの教会がこうなってほしいというパウロの祈りです。祝福されたフィリピの教会がさらに祝福を受けられるようにと願って祈っています。するとこの祈りはある意味で成熟した教会やクリスチャンにこそ必要でふさわしい祈りなのかと思えます。そういう面はもちろんあるでしょう。しかしこの祈りはまだヨチヨチ歩きの赤ん坊のような信仰しかない者にもふさわしい祈りなのです。いやまだ主を知らない者にも有効な祈りなのです。

熟練した信仰者にも信仰の歩みを始めて間もない者にも必要な祈り、いやさらに主を知らない者にも有効な祈り、なぜそういうことが起こるのでしょうか。それは神への祈りだからです。神がそれを叶えてくれるからです。この祈りは知る力や見抜く力を求めていますが、別の見方をすると信仰を求めていると言えるのです。そしてさらに言い換えると神と共に歩むと言えるのです。主を信じ、信仰を保ち続けることそれが大切なのです。私たちには義の実があふれるばかりに与えられるのです。その義の実は「救い」「祝福」「恵み」「助け」「導き」などとして注がれるでしょう。これらはイエスキリストを信じることによって与えられます。義の実は神によってのみ与えられるのです。

私たちは神が必要です。神と共に歩み主を信じましょう。信仰も神によって与えられます。その信仰を保ちつける力も神が下さるのです。人は信仰を持ち、信仰を保ち、神と共に成長できるのです。これからも神の下さるあふれるばかりの義の実を受けて歩んでまいりましょう。私たちはどのような状況にあっても神を必要としているのです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

  「生きている神を頼りに」 コリントの信徒への手紙Ⅱ1:8~11(新約P325)  2015年7月5日 大竹敏生

 

本日は日本バプテスト連盟の神学校週間の最終日です。神学生や神学校のスタッフの方々のために、また連盟の教役者養成のためにお祈り下さい。

神学校と聞くと多くの方々が「自分とは縁遠い」と感じるのではないでしょうか。しかし決してそうではありません。私たちも神学生たちも同じものが必要なのです。その必要な同じものとは私たちの主であって、私たちを愛して下さる神なのです。

私たちは実は弱いものです。でも人は罪があるゆえに頼るべき方に頼らずに自分に依り頼むのです。この手紙を書いたのはパウロという人です。ものすごく能力の高かった人です。でも彼はアジア州で苦難をこうむります。それは耐えられないほどのひどい圧迫を受ける苦難でした。パウロはそこで自分ではなく神に頼るべきことを学んだと記しています。パウロは実際非常に大きな死の危険に陥ったのです。パウロがいくら能力が高くてもなすすべもないほどだったでしょう。しかし神はご自身も死に打ち勝ちましたし、死者を復活させることができる方です。それほどの力を持ち、大きな愛をもって私たちを愛して下さる神により頼むことが大切だと学んだのです。私たちすべての人がそのように考える必要があるのです。

私は以前ある人から「今から何千年前の人の教えを信じることは俺にはできない」というようなことを言われたことがあります。その人は当然その何千年前の人は今は存在していない過去の人と考えていたのです。しかし私たちの主なる神は今も生きておられます。私たちを愛し、今も私たちを救い続けているのです。今も生きておられるからこそ私たちはこの神により頼んで歩むべきなのです。パウロはこの生きている神により頼んだからこそ死から救われました。そしてこれからも救われると確信しています。私たちも、今も生きておられる神を頼りにして歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「弱さの克服へ」  コリントの信徒への手紙Ⅰ1:18~25(新約300)  2015年6月28日 大竹敏生

 

入試の対策やスポーツの勝利に向けて弱点の克服が大切な事の1つです。そして人が生きてゆくために、弱点や弱さをある程度克服できればと願う者は多いのではないでしょうか。

聖書では私たちの弱さは罪から来ると教えています。神は私たちを神に似たかたちに造りました。造られた時点では罪がなかったのです。しかし人間に罪が入りました。その罪ゆえに私たちには死が運命づけられることとなったのです。つまり罪によって死と弱さが私たちに入り込みました。ということは罪を解決できれば、私たちは死も弱さも克服できるのです。そして言うなれば死も私たちの弱さの1つと言えるのです。

私たちがこの弱さの克服にいたるには、私たちの力では無理なのです。今日の聖書の箇所には、一見愚かに見える十字架にこそその克服にいたる道があると記されています。ということは、弱さの克服は神なしには方向と言い力と言い全く無力だということが分かります。神には私たちは、いろいろな弱さを背負いながら滅びにいたる道を進んでいるように見えているのではないでしょうか。私たちを愛しておられる神は、背負っている弱さを克服させ、滅びの道から永遠の命への道に導かれるのです。

それは主イエスキリストの十字架を信じることによって与えられるものです。残念ながら私たちの罪は無くなりません。でも罪は信じることによって赦されます。信じることによって死を含む弱さの克服へ進めるのです。

「神の弱さは人よりも強い」とあります。神の全知全能の力を表しています。その力は私たちを完璧に救うほど大きいのです。そしてその神の力は、神が私たちを愛しておられるゆえに与えられます。神は完璧な力と完璧な愛で私たちの弱さを克服させて下さるのです。十字架を信じる信仰によって与えられる恵みに感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の神を信じて」   マルコによる福音書4:35~41(新約68)   2015年6月21日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所は舞台がガリラヤ湖です。イエス様に「向こう岸に行こう」と言われてガリラヤ湖に船を出しました。そこに激しい突風が起こりました。多くの弟子が元々漁師だったのに、沈みそうなほどの激しい突風でした。そこで万策尽きた弟子たちはイエス様のところにやってきました。マタイ、ルカ、そしてこのマルコの福音書にこの記事が出てきます。弟子たちの言葉は少しずつ違いますが、どちらにしても弟子たちは命の危険すら感じていたようです。イエス様は弟子の言葉を聞いて波と風を鎮めました。イエス様は弟子たちに「信仰」が問題だと指摘しました。

弟子たちの信仰はどこが問題だったのでしょうか。1つはイエス様の力に関してです。これまでもイエス様は救い主でなくてはできない奇跡を見せてきました。弟子たちも知っていたはずなのです。その知っていたはずのイエス様の力を、弟子たちは命の危険を感じるまで信じられなかったのでしょうか。もしかすると弟子たちが元漁師だったことがあるかもしれません。なまじっか腕に自信があったことで自分の力により頼み、真の力の持ち主に信頼することがすぐにできないことにつながったのということではないでしょうか。人は弱いのです。真の力の道主イエス様に信頼するように心がけましょう。

また力だけではなく神の愛を信じましょう。イエス様が弟子たち言いたかったことは「私がここにいるのになぜ信じないのか。」ということもあったと思うのです。すべての人を愛する神は、常に私たちと共におられます。この時も弟子たちの傍らにイエス様はおられたのに、弟子たちは忘れてしまったかのようにおびえてしまっていました。私たちを愛して、いつも共にいて下さる神を信じて歩みましょう。時代は進歩していますが、私たちは弱いのです。私たちを愛していつも共におられる神さまを信じて歩みましょう。私たちが自分だけの力で強くなることはないからです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛にあふれる神さま」    ヨナ書4:1~11(旧約1447)   2015年6月14日 大竹敏生

 

本日は子ども祝福礼拝です。ヨナ書から神のみ言葉を学びましょう。ヨナ書は預言書ですが、他の預言書はその預言者が神に示されて語った預言そのものが多く記されていますが、ヨナ書はヨナという預言者の具体的なある行動が記されています。ヨナは南ユダ王国の預言者でした。その頃アッシリア帝国がひんぱんに南ユダ王国を攻撃していたようです。ニネベはそのアッシリア帝国の首都だったのです。そのニネベが神の罰を受けるので、ニネベに警告するようにヨナは神に命じられました。それが嫌で逃げたヨナでしたが、神に立ち返らせられ、ニネベにて「ニネベは40日後に滅びる」と警告しました。その言葉にニネベの町の人たちは神を信じて悔い改めたのでした。しかもニネベの王までが率先して悔い改め、町じゅうに徹底的に悔い改めるように命じました。その悔い改めを神は受け入れ、ニネベは滅亡を免れたのです。ヨナはニネベが滅亡を免れたのがひどく不満だったのですが、神にいさめられました。

神の多くの愛がこのヨナ書に記されています。すぐに滅ばされてもしょうがなかったニネベはまず警告されました。また悔い改めたニネベの町は滅ぼされませんでした。ヨナはニネベに語る役割が与えられました。それを拒否して逃げても神はヨナを立ち返らせました。それもヨナは命が助けられ、悔い改めの時が与えられたのです。ニネベではヨナの語る言葉に神が力を与え、驚くべき悔い改めが起こりました。ヨナはニネベの滅亡が無くなったことに不満で、神に文句を言っています。ヨナにとってこれが2回目の背きでしたが、神はヨナをいさめ、赦しているのです。

このように神は愛の方です。愛があふれている方なのです。ヨナとは時代も場所もまるで違う現代ですが、ヨナの時と変わっていないことがあります。それは神がヨナやニネベの町を愛したように、私たちも愛されているということです。変わりなくあふれるように愛して下さる神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「希望は揺るがない」  ヘブライ人への手紙10:19~25(新約413)   2015年6月7日 大竹敏生

 

ヘブライ人への手紙の特徴の一つは「祭司」あるいは「大祭司」としてのイエス様の記述が多いということです。人間の「祭司」「大祭司」でさえ位が高い印象です。まして神の子であるイエス様です。とても近寄りがたい印象をもってしまいますね。しかしそんな「祭司」「大祭司」であるイエス様に大胆に近づこうとこの手紙ではよくすすめられています。実際に神と私たちの関係は能力や罪の関係から考えると、神に近づくことは許されないほど隔たりがあります。でも近づくことができるのです。それは私たちの力ではなく、神の愛によって許されているのです。だから神に近づこうではありませんか。

罪があって弱い私たちは、実は夢も希望もない状況なのです。しかし主イエスキリストによって私たちには希望が与えられました。この希望は神が下さった希望ですから確かな希望です。私たちはそれを信じて揺るがしてはならないのです。この私たちに与えられた希望とは、もちろん私たちの救いであって、それを信じることです。神が私たちを救って下さったことから、私たちのありとあらゆる恵みが備えられ、与えられるのです。私たちの希望は救われたこととそこから与えられるすべての恵みで、それを信じて歩みましょう。

23節にあるように希望を揺るがさないようにするにはどうしたら良いのでしょうか。それは24節以降の記述と関係があると思います。「愛と善行に励む」とあります。愛と善行は共に神の喜ぶことです。それを心がけることは神から離れないことにつながるでしょう。神から離れないことが希望を保ち続ける一番確かなことです。また25節には「励まし合おう」とあります。私たちは弱い者です。でも私たちは励まし合うことができます。私たちの希望を保ち続ける歩みは決して楽なものではありません。お互いが励まし合い、祈り合って歩んでいくことが大切なことなのです。これからも主と共に歩み、互いに祈り、励まし合って、希望を揺るがさないで保ち続けましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主よ、来てください」 コリントの信徒への手紙Ⅰ16:13~24(新約323)  2015年5月31日 大竹敏生

 

今日の聖書の箇所はコリントの教会に送られた手紙の終わりの部分です。15節から20節あたりまではそれらしくあいさつなどが記されています。他の節もこの手紙の終わりにあたっての大切なことが書かれているのです。

13節にコリントの教会への命令が書かれています。普通命令はその命令が守れていない者にするのです。ではコリントの教会の人たちは、眠ったような状態でしっかりと立ってなく、弱々しく生きているのでしょうか。この手紙の内容から考えるとそういう訳ではないと思われます。むしろコリントの教会の人たちは13節のような内容のものを求めていたと思われます。もしかするとコリントの教会の人たちは13節の命令は守れていると考えていたかもしれません。この手紙は高慢になっているコリントの教会の人たちにパウロが警告している手紙です。内容はかなり厳しいものです。その手紙の最後に真の意味で目を覚まして、しっかりと立ち、強く生きよとコリントの教会の人たちに命じているのです。実はこの命令を守るためには自分の力では無理なのです。神の力が必要なのです。コリントの教会の人たちは自分の力により頼む傾向が強かったのですが、最後に神により頼んで真の力を受けよと命じているのです。

また22節の「マラナ・タ」という言葉に注目しましょう。これは「主よ、来てください」という意味です。これはこの世の終わりにまた主イエスが来るという再臨の約束を意味しています。つまり再臨の約束が果たされるようにと願っているのです。この時代はクリスチャンの人たちにとって厳しい迫害の時代でもありました。迫害に悩み苦しむ彼らにとって再臨の約束が心の糧だったのです。「マラナ・タ」の祈りはこの時代のキリスト者が常に祈っていた大切な祈りの言葉だったのです。再臨の約束は完全な救いを約束します。そしてもちろん主は再臨の時まで私たちをほったらかしにはしません。再臨まで私たちと共にいます。主なる神と共に歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛が示された」   ローマの信徒への手紙5:1~11(新約279)  2015年5月24日 大竹敏生

 

ある聖書の箇所に「信仰」「希望」「愛」この3つは最後まで残るが、この中で最も大いなるものは「愛」だと記されています。このようにキリスト教では愛がとても大切なものなのです。私たちは神と人を愛さなくてはなりません。ただ私たちが愛するよりも前に、神が私たちを愛しておられることを知る必要があります。神に愛されているから弱い私たちも愛することができるのです。

その神の愛はどうしたら分かるのでしょう。イエスキリストは私たちのために十字架にかかって死んでくださったのです。どうしてなのでしょう。私たちはそれを受ける資格があるのでしょうか。はっきり言いますとありません。そんな資格がない私たちのために神は十字架にかかったのです。今日の聖書の箇所には「正しい人のために死ぬ者はほとんどいない」「善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれない」とあります。そしてつづけて「イエスキリストは罪人だった私たちのために死んでくださった」とあります。このことによって神の愛が分かるのです。8節には「愛を示されました」とあります。神はご自身が先にはっきりと私たちが分かるように愛を示されたのです。

イエスキリストが私たちのために死んでくださった、その愛によって私たちは、罪による神との断絶は解消されて、和解へと導かれました。イエスキリストが私たちと神との間に立って下さいました。10節にはその和解を得た私たちは「救われるのはなおさらです。」とあります。イエスキリストの十字架による救いは完全な救いであって、信じる者は誰一人としてその救いから漏れることはありません。この「救われるのはなおさらです。」という言葉からその救いの確かさを感じることができるのです。

パウロはこの救いによって神を「誇りとしています」と記します。神の愛による救いを確信しているがゆえに誇りとしているのです。私たちも救いを信じて神を誇りとしましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛の神の霊に従って」 ガラテヤの信徒への手紙5:13~26(新約349)  2015年5月17日 大竹敏生

 

このガラテヤの信徒への手紙は、律法主義的キリスト者の影響を受けて、律法を守ることを大切にし始めたガラテヤの教会に、パウロが律法を守ることは救いとは関係がなく、主イエスを信じる信仰によってのみ救われるのだとの警告を込めた手紙です。信仰義認を否定する考え方をパウロは怒りを込めて非難しています。今日の箇所では律法は愛なのだと記されています。律法を表面的に守ることに走り、結局本質を見失っていたのでした。

そしてそこから肉と霊に話が進みます。肉のなせる業はは19節以降に書かれているように人の欲望に基づく行いがいろいろと記されています。その多くはできることなら避けたいと思うことではないでしょうか。でも私たちは避けることができずにそれを犯してしまうことがあるのです。一方霊の結ぶ実は22節以降に書かれています。ここに書かれている内容は私たちのぜひ目指したい内容ではないでしょうか。でもこちらはしたいと思ってもなかなかできないことなのです。これは残念ながら私たちの中にある罪が、したいことをさせずに、私たちは肉の欲望の虜になっているのです。

私たちは霊の導きに従って歩まなければなりません。この霊は聖書では聖霊また御霊と記しています。この聖霊あるいは御霊は実は神なのです。律法は神が私たちが愛をもって歩むように与えられたものです。私たちが愛をもって歩むために霊の実が必要です。愛の神の霊に従って歩むことは、私たちが愛をもって歩むために必要な上に、私たちが目指す歩みのためにも必要なのです。そして愛をもって歩むことと、したいと願ってもなかなかできない霊の実、私たちの目指す霊の実を結ぶ歩みのために、私たちは神に頼るべきなのです。弱く罪のある私たちは霊の実を結ぶことが困難です。でも愛の神は神ご自身である聖霊によって私たちを導いて下さり困難を克服して下さるでしょう。私たちを愛し、導く神に感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「すべてを超える神の愛」   ルカによる福音書15:1~7(新約138)   2015年5月10日 大竹敏生

 

本日の聖書箇所は有名な話なのですが、常識的にありえないとも言える内容です。常識、いやありとあらゆるものを超える神に愛を見ていきましょう。

この話はたとえ話です。何にたとえられているか一番はっきりしているのは羊飼いが主なる神だということです。そしてこの話は少なくとも2つのことが語られています。1つは主なる神の救いということです。そうなると迷い出た1匹の羊は救われる人です。一方99匹は二つのことが考えられます。それはまずこの話がなされるきっかけになった律法学者やファリサイ人に代表される、自分たちを特別と思っていたユダヤ人たちです。マタイの記事の方の「99匹よりも1匹を喜ぶ」はユダヤ人への警告を多く含むマタイ伝らしいと言えます。でもこの言葉はユダヤ人たちに厳しい言葉です。愛の神らしくないとも思えます。実はそのユダヤ人も変わりなく愛しておられるからこそ出てきた言葉ではないでしょうか。またこの99匹はすでに救われている人ととることもできます。その場合99匹は信仰から離れないことを心がけるべきです。主から信頼されてそこに残されたのです。ただ不幸にも信仰から離れてしまう弱い者もおります。でもその人もこの羊のように主は見つけ出して下さるのです。

この話の語るもう一つは、信仰の歩みを進める中で主の助けを必要とするということです。この場合1匹はそのピンチに陥った人です。99匹はまあ普通に歩んでいる人たちです。主は助けを必要としている人を、ほうっておくことはせず、助けて下さるのです。感謝します。でも他の99匹もいつ迷い出るか分かりません。その場合その者もこの1匹の羊のように助けられるのです。

神は私たちをびっくりするほど大きな愛で愛して下さっています。神など必要ないと言う者も愛して探して下さいます。助けを求める弱い私たち一人を探し出し、助けて下さいます。またその1匹を探し出した時、驚くほど喜ぶのです。これは何よりも私たちを愛しておられることの証なのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛と力」   ヨハネによる福音書21:15~19(新約211)  2015年5月3日 大竹敏生

 

イエスキリストが十字架にかかって死に、よみがえった後弟子たちに会っています。それは不安におののく弟子たちを励ます意味がありました。復活の主は自分のためよりも、弱い弟子たちのために歩んでいるようです。今日の聖書箇所でも、弟子の内の特にペトロにイエス様は語り掛けます。

ペトロはイエス様が十字架にかかる前「イエスを知らない」と3度言いました。しかもイエス様が預言したとおりでした。自信満々に「わたしは絶対にイエス様から離れない」と言ったペトロでしたが、彼も弱かったのです。裏切り者といえばイスカリオテのユダが代名詞のように言われますが、ペトロも裏切り者といえばそうなのです。でもペトロは復活されたイエス様の前にたちました。合わせる顔が無いといえる立場でしたが、イエス様の前に湖に飛び込んで岸にたつイエス様の前に出たのです。

合わせる顔が無い状態のペトロはどうしてイエス様の前にたつことができたのでしょうか。彼はそんなに鈍かったのでしょうか。それとも図々しい性格だったのでしょうか。それではあまりにペトロが気の毒です。ペトロも自分はイエス様の前にたつ資格もないような者だと思っていたことでしょう。それでもイエス様の前に出てきたのは、まず何よりペトロはイエス様を愛していたということがあると思います。それともう一つ、ペトロはどこかでイエス様の愛を信じていたのではないでしょうか。こんな自分もゆるされると信じていたのだと思うのです。ペトロはイエス様を愛し、イエス様の愛を信じたのです。私たちも信じましょう。私たちも弱い者です。愛される資格の無い者ですが、イエス様が愛して下さることを信じましょう。そのためにペトロに習ってイエス様を愛して歩みましょう。さてそう歩むとイエス様は私たちに力をくださいます。弱いペトロも力を受けました。ペトロはイエス様に命令にことえて、イエス様の羊を養い,牧しました。私たちもイエス様の愛と力を信じましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神によってすべてが可能」 フィリピの信徒への手紙4:10~14(新約366)  2015年4月26日 大竹敏生

 

このフィリピの信徒への手紙は、パウロが獄中にて書いた手紙と言われています。では書いた目的は何だったのでしょうか。郵便事情が今のように発達していない時代なので、おそらく執筆事情はいくつもあったでしょう。その一つが本日の聖書箇所です。フィリピの教会がパウロに贈り物をして助けたことに対してのお礼の意味があったようですね。

その中でパウロは感謝をしているのですが「物欲しさにこう言っているのではありません。」と記しています。この言葉はやせ我慢でも強がりでもないと思います。パウロの正直な言葉でしょう。パウロはどんな状況にあっても満足し、いかなる場合にも対処する秘訣を心得ているというのです。ここで注目したいのは「満足」は習い覚えたのであり、「秘訣」は授かったのだとパウロは記していることです。つまりそれらを教え、授けた方がいるということです。その方は神です。今日の宣教題は「神によってすべてが可能」です。パウロは神から「満足」「秘訣」の基なる力をいただいているのです。

さてもう一つ注目したい言葉が「可能」という言葉です。「かなえられる」のような言葉の方がありがたいように思えます。そうです。「可能」という言葉は「かなえられないこともある」ことを意味しています。それは残念なことでしょうか。いやむしろ神が責任をもって、私たちにとって良くないことは起こらなくして下さることを意味していますので、良いことなのです。また「可能」という言葉は、神がいろいろな方法で私たちを導いて下さることを教えてくれます。パウロはたとえば困窮したとき、ある時は祈りが聞かれて必要が満たされたり、ある時は願った形ではなく与えられたり、与えられなくても困らなかったり、困窮に陥ってもそれに耐える力が与えられたりしたことでしょう。神と共に歩むとき、私たちもパウロと同じように満たされるのです。すべてを可能にして下さる神に感謝をいたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛による招き」   マタイによる福音書9:9~13(新約15)  2015年4月19日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所はマルコとルカの福音書にも出てきます。ただマルコとルカは徴税人の名が「レビ」、マタイでは「マタイ」すなわちこの福音書を書いた人のことと記しています。これは同一人物で「レビ」が本名で、「マタイ」は後でつけられたあだ名のようなものでしょう。意味は「神の賜物」です。

マタイは徴税人でした。徴税人は当時嫌われ者の代名詞で、罪人のトップ、人でなし、悪党、裏切り者、売国奴と人々の憎悪の的でした。その徴税人になぜマタイがなったのかは分かりません。どちらにしてもマタイは嫌われ者として誰にも相手にされず、喜びの無い人生を送っていたのでしょう。」そんな時にイエス様から「わたしに従いなさい」と声をかけられたのでした。自分に絶望し、何の希望も見えない歩みをしていたマタイでした。しかしそんな彼がイエス様から招かれたのです。その理由はただ神の愛としか言いようがありません。マタイもその神の愛の招きを奇跡的な恵みと考えたようです。すぐに何もかも捨てて主に従いました。

その後、徴税人や罪人と食事をするイエス様たちを見て「なぜこんなことを?」と非難されます。それに対してイエス様が「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人」「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」と語ります。これはこの世の中に招かれない者(正しい人)と招かれる者(罪人)の両方がいるという意味ではありません。結論から言うとすべての人が招かれています。つまりこの世では誰一人正しい人はいません。皆救いを必要とする罪人ばかりなのです。神に愛されている。招かれている。それを信じて歩みましょう。

「どうせ私なんか」と考えている人がいるかもしれません。マタイもそうでした。でも彼は愛され、招かれました。私たちも神の愛と招きを受けています。信じて、感謝して歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の御心」    ヨハネの手紙Ⅰ5:13~15(新約447)   2015年4月12日 大竹敏生

 

今日の聖書の箇所の14節が2015年度の高松太田教会の年度主題聖句となります。今日はこの箇所から主のみ言葉を聞いていきましょう。

私たちは神に祈ることができます。そしてその祈りは神に聞かれ、かなえられることが今日の聖書箇所にも記されています。ただ今日の聖書箇所では私たちの祈りが無条件にかなえられるというようには記されていません。そこには「神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」とあります。とりようによっては、私たちの思いではなく、神の思い通りにしかならないともとれます。神の思いが全てであって、私たちの願いは無視されるのでしょうか。考えてみましょう。

注目したいのが「神の御心」という言葉です。まず私たちが覚えなくてはならないことは、何よりも神が優先されるということです。私たちの思いではなくて神の思いが先なのです。私たちではなく神の御心を優先しましょう。

ただ、それでは私たちの思いはどうなるのでしょうか。私たちの願いはかなえられないのでしょうか。神は私たち一人一人をこの上なく愛しておられます。その神の御心であるということは、神の御心は神の愛する私たちにとって良いものであるということでしょう。時に私たちの思いが神に聞かれることもあるのです。また私たちは弱い者です。何が最善なのか分からないのです。私たちの願いが、実は私たちにとって良くないものならば、神はそれをかなえず、最善なものにして下さるのです。私たちはそれを信じなくてはなりません。神を優先し、神を信じて、神の御心を求めましょう。

神の御心は私たちにとって、また神にとって良いものです。私たちはまた神を愛して歩みましょう。神の喜ぶことを求めるのです。神に栄光を帰してこの2015年度も祈りつつ、神のために歩んでまいりましょう。伝道に、奉仕に、その他一つ一つを神のために励んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「死者の中から復活された」 マタイによる福音書28:1~10(新約59)  2015年4月5日 大竹敏生

 

今日は今年のイースターです。イースターはクリスマスと並ぶ大きなキリスト教の祝日です。イースターは主イエスキリストが十字架にかかって死んで、その日を入れて3日目に復活された日を記念しています。

復活された朝、1番最初に墓を訪れたのはマグダラのマリアたちで、つまり女性たちでした。彼女たちが復活された主イエスに最初にお会いすることになりました。でも彼女たちも主イエスキリストが復活されたと信じていたわけではないようです。天使に「主イエスはすでに復活された」と聞くまで信じられなかったようです。そしてすぐに復活された主イエスにお会いしました。そうです事実主イエスは復活されました。

復活された主イエスのことを、天使は「死者の中から復活された」と言いました。「死者の中から」と言っていることに注目したいと思います。そこにはいろいろな意味があると思われます。1つは、人間にとって誰も避けることのできない「死」に主イエスは打ち勝ったことを示しています。私たちの代わりに十字架にかかって死に復活されました。ここに救いが完成したのです。そしてこれは私たちにも与えられる祝福です。私たちも死者の中から復活させられるのです。私たちは私たち自身の罪から来る「死」に打ち勝つことができるのです。私たちには永遠の命が与えられました。主イエス様が先立ちとなり、そして共に私たちを死者の中ら復活させて下さいます。感謝いたします。

主イエス様は復活されて今も生きておられます。復活されたイエス様はただちに弟子たちのところに行き、恐れる弟子たちを励まし、導いて下さっています。そのようにイエス様は今も弱い私たちを励まし、導いて下さっているのです。永遠の命が約束され、今も神と共にあって導かれることを信じて歩みましょう。また感謝しましょう。主イエスキリストの復活を喜び、信じ、感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵み深い主に感謝せよ」   詩編107:1~9(旧約947)   2015年3月29日 大竹敏生

 

本日は教会暦では「棕梠の主日」です。イエスキリストがエルサレムに入城した日を記念しています。そして本日から受難週となります。イエスキリストが私たちのために十字架にかかって下さったことを覚えましょう。また本日は2014年度最後の主日礼拝です。感謝をもって礼拝しましょう。

聖書には「感謝」という言葉がたくさん出てきます。私たちにとって「感謝」はそれほど大切なものです。今日の聖書箇所から、まず「感謝」は4節から7節あたりを見ると、願いがかなうことに感謝しています。私たちが神に願うと、愛と恵の神がそれを聞いて下さるということに感謝しなくてはなりません。また8節は確かに感謝ですが、読みようによっては、私たちの思い通りになるとは限らないけれども、感謝すべきだととることができます。感謝できない状況なのに感謝をするのは困難ですね。しかし多くのキリスト者がそうしてきました。聖書でも、無実の罪で投獄されたパウロとシラスが牢屋の中で賛美をしていました。その賛美に応えるように地震が起きて、それが看守の救いにつながったのでした。私たちが感謝できない状況であっても感謝していくとき、さらに恵みが与えられると信じています。

こうして考えると「感謝」は祈りと関係が深いと思えます。「感謝」は信じなくてはできないことが多いと思います。特に感謝できない状況のとき感謝することはなかなかできません。神様が導いて下さると信じなくては感謝できません。祈って信じて感謝しましょう。

受難週に入りました。主の十字架によって救われていることを感謝します。また2014年度が導かれ、守られたことを感謝いたします。「感謝」は決して終わりではありません。新たな2015年度が始まります。2015年度も祝福されることを信じて感謝します。新たな年度も恵み深い主が私たちと共に歩んで下さることを信じて感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みによって救われる」 エフェソの信徒への手紙2:1~10(新約P353)  2015年3月22日 大竹敏生

 

私たちはどうしたら救われると考えてきたでしょうか。私は子どものころから、この世で良いことをすれば救われる。天国に行けると考えてきました。私たちがこの世での生涯を終えた時、その人生が問われ、天国に行くか、地獄に行くかが決まると考えていたのです。実はそのように考える人は多いのではないでしょうか。私もキリストの救いを知るまでそう考えていたのです。

今日の聖書箇所では、私たちは生まれながらに罪を持ち死にいたる者だとあります。そして聖書に出てくる人たちも、その死から逃れて救われるのは、私たちの行ないによると考えてきました。それは旧約聖書に出てくる律法を守るという「行ない」によって義とされると考えていたのです。そしてこの手紙を書いたパウロもそう考えて生きてきた人でした。しかしパウロはイエスキリストと出会って気がつきました。律法を守ることは誰もできないということをです。確かに表面的に律法を守ることはできるかもしれないが、私たちの罪を覆すことは絶対に誰にもできないと気がつかされたのです。

しかし同時にパウロは、人にはできないが、イエスキリストを信じることによって救われることを知りました。そうですこれがイエスキリストによる救いです。イエスキリストが私たちを愛して下さり、主イエスを信じることによって救いに入れて下さるということが真の救いでした。

従ってパウロは今日の聖書箇所に記しています。私たちが救われるのはただ「恵みによる」とです。もしかするとこの「恵みによる」救いにあやうさを感じる人もいるかもしれません。私たちは自分の力で救いを得る方に確かさを感じることもあるでしょう。しかし実はあやういと思える恵みの方が、恵みを与えるのが神さまなので確かなのです。一方自分の力の方が、実は私たちは弱いのでずっとあやしいのです。いや、絶対に無理なのです。神が私たちを愛して下さる恵みの救いを、主を信じて得たいものです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「与えられた恵みと賜物」  ペトロの手紙Ⅰ4:1~11(新約P432)  2015年3月15日 大竹敏生

 

今日の聖書の箇所はペトロの手紙Ⅰからです。つまりこの書はイエス様の1番弟子とも言えるペトロによるものです。ペトロは決して完璧な人物ではなく、むしろ弱く失敗も多い人物でした。しかし生涯主を信じて歩んだ人物でした。そのペトロは何よりも主イエス様が私たちを愛して、苦しみの中十字架にかかって救いを与えて下さったことを記します。それゆえに私たちは罪から離れ、主イエスキリストを信じて歩むことがすすめられています。私たちは神によって肉から霊において生きるようにして下さるのです。

そして私たちには神の祝福を受けて恵みと賜物が与えられます。恵みとは救いを基として、さまざまな恵みが与えられます。それは導きだったり、祝福だったり、助けだったりとさまざまです。また賜物はそれぞれに与えられているもので、時に能力や特技、また性格などとも呼ばれます。ここで覚えたいのは今日の聖書箇所では「恵みの善い管理者」と記されていることです。普通与えられたものは授かった者に所有権があります。つまりそれぞれに与えられた恵みや賜物はその与えられた人のものと言えるのです。しかし管理者ならば、所有してるとは言えません。神様は私たちに恵みや賜物を下さったわけではないのでしょうか。これはそうではないのです。もし私たちが恵みや賜物を所有してしまったら、それに関することはすべて私たちが責任を負うことになります。実は私たちには罪があり弱い者ですから、与えられた恵みや賜物を正しく生かすことができないことがあるのです。与えて下さった神が、私たちにそれを正しく管理する力を与えて下さるのです。

また私たちは善い管理者として与えて下さった神に、その恵みや賜物を通して栄光を帰す必要があります。神様は私たちにとって最善の恵みや賜物を下さっています。その恵みと賜物を愛して、喜んで用いていくことが何よりも神に栄光を帰すことになると信じます。与えられた恵みや賜物に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしにあふれる恵み」    詩編23:1~6(旧約P854)    2015年3月8日 大竹敏生

 

今日の聖書箇所の詩編23編は、150編からなる詩編の中でも一番有名で愛されていると言ってもよいと思われます。この6節の短い詩編に、神の愛と力がまんべんなくあらわれているのです。

さてまず注目したいのは「わたしを」という言葉です。この詩編ではこの言葉が多く出てきます。「わたしたち」ではありません。聖書には主を信じる者たちが、自分を含めて「わたしたち」と記す箇所が多く出てきますが、ここは「わたし」とあります。この詩編を書いたのはダビデです。彼は王でした。その支持者もたくさんいます。でもダビデは王としてではなく、一人の弱い人間ダビデとしてこの詩編を記しているのです。一人の弱いダビデに注がれる恵み、導き、祝福が記されています。

私たちは決していつも順風満帆な歩みができるわけではありません。思わぬことが私たちの歩みの中で起こることがあります。そんな場合でも私たちの主は助けて下さいます。4節には「死の陰の谷を行くときも」恐れることはないと記されています。

またこの詩編には祝福があふれています。羊に例えられる弱いわたしに導きが与えられ、生きるのに必要なものが与えられます。そしてその祝福は必要なものだけが与えられるというのにとどまらず、あふれるほど豊かに与えられるのです。私たち一人一人は欲求も違います。その一人一人のわたしに主は豊かに恵みや祝福があふれるほどに与えられるのです。感謝いたします。

間違いなく与えられるその恵み、導き、祝福を受け続けるために、私たちは主から離れてはなりません。波乱万丈の人生を送り、罪も犯したダビデでしたが、主から豊かにあふれるような恵みを受け続けました。わたしダビデは主の家にとどまると記していますが、それはまるで私たちに主から離れてはならないと教えて下さっているようです。主の家に私たちもとどまりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「偉大な神の力が我らに」 エフェソの信徒への手紙1:15~23(新約P352)   2015年3月1日 大竹敏生

 

本日の聖書の箇所の新共同訳聖書の表題は「パウロの祈り」とあります。パウロはおそらく口述筆記でこの手紙を記していたと思われます。パウロがエフェソの教会のことを思い口述しているうちに祈りになってしまったのではないでしょうか。祈りの人パウロを思います。ただ、確かに前半部分の19節まではまさに祈りという記述ですが、20節以降は祈りというより教えという感じです。でもだからといって19節までと20節以降が完全に別ということではありません。むしろ密接に結びついていると理解するべきです。

最初の祈りの部分ですが、神がまず私たちを「聖なる者」として下さっていることに感謝しましょう。罪ある私たちを神は「聖なる者」として下さいました。これは私たちが救われることを示しています。一方的に神は私たちを愛して下さって、罪を赦して下さって救いに導いて下さることに感謝します。そして神は、その偉大な力を私たちに注いで下さるのです。それはどれほど絶大なものかを私たちが知っていく必要があります。はっきり言いますと、私たちがその力をどんなに大きく見積もったとしても、決して大きすぎることはありません。今日の聖書の箇所に私たちの受け継ぐものがどれほど豊かか、また私たちに働く神の力がどれほど大きいかを「悟らせてくださるように」と記されています。それはその豊かさ、大きさが絶大であることを物語っています。

また神は主イエスキリストをすべてのものの上にある頭として教会に与えて下さいました。そのイエスキリストを通して私たちの救いや神の導き、私たちに働く神の力は教会に与えられ、私たち一人一人に行きわたります。そして与えられた力によって私たちはまたキリストを中心に教会をたて上げていくのです。教会は偉大な神の力が満ちていて、私たちに行きわたる場です。私たちはそれを信じなくてはなりません。キリストは今日も私たち一人一人に働きかけて、導きと恵みを下さっています。そのことを信じて感謝しましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主を見つめ、主を思い」  ヘブライ人への手紙12:1~3(新約P416)  2015年2月22日 大竹敏生

 

聖書の中で私たちの人生は競争に例えられています。私たちそれぞれに人生があります。従って私たちそれぞれに定められている競争があるのです。その競争を忍耐をもって走りぬく必要があるのです。

2節にイエス様が「信仰の創始者また完成者」と記されています。信仰は私たちが救われる必要条件と言えます。イエスキリストを信じることによって救われるのです。つまり私たちの救いのための信仰の創始者にして完成者がイエスキリストなのです。創始者で完成者であるということは信仰の専門家と言っていいでしょう。信仰の歩みは浮き沈みがあります。順調に信仰の歩みをなすことができる時もあれば、信仰が無くなりそうな時もあるでしょう。信仰について確かな助けが必要な時、私たちはその専門家に助けを求めることができるのです。愛をもって救って下さる神に信仰を求めて歩みましょう。

またそのイエス様を「見つめながら」歩むことが記されています。主イエス様は今も生きておられますが、私たちには見えません。そのイエス様を「見つめながら」歩むとはどういうことでしょうか。1つはイエス様のことを思いつつ歩むということでしょう。私たちの競争は忍耐をもって走るものです。私たちのために誰よりも忍耐されて十字架にかかって下さったイエス様を思いつつ歩みましょう。主を思う時に、私たちは忍耐する力が与えられます。また他の1つは主を愛するということでしょう。見つめて歩むほど私たちは主を愛して歩むことが求められています。

この世の歩みは決して楽なものではありません。信仰をもって歩む必要があります。信じて歩むために、また信仰の助けをえるために主を思い、そして主を愛して歩みましょう。人生の歩みの中で厳しい状況を迎えることもあるでしょう。そんな時こそ「主を見つめ、主を思い」歩みましょう。主は我らを愛しておられるので、必要な助けや力を与えて下さるに違いありません。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「価高い我ら」     イザヤ書43:1~7(旧約P1130)  2015年2月8日 大竹敏生

 

今日の聖書の箇所イザヤ書43章の4節によると、神は私たちの価値を高く見て下さっています。私たちの中には自分に価値を見出すことのできない方もおられるかもしれません。私たちに価値を見ていて下さる神のみ言葉に耳をかたむけてまいりましょう。

今日の聖書の箇所の最初に、神を創造の神と記しています。私たちの神はその役割を示す名が、たとえば3節にある「救い主」のようにいろいろあります。そういう中の一つに「創造主」があります。私たちは神に創造されたことを忘れてはなりません。神が私たちを造られたということは、神が私たちを愛しておられることを示しています。私たちも何か作ったりすれば、その作品をこよなく愛するのではないでしょうか。神が造られた私たちは神の作品です。私たちを価値ある者として下さる神の愛、その理由の1つが私たちを造られたという事実にあるのではないでしょうか。

また今日の聖書箇所に多く出てくる言葉に「わたしはあなたと共にいる」があります。神はいつも私たちと共におられるお方なのです。それは私たちが恐れをなすようなきびしい状況にあっても共にいて下さると約束しておられます。しかもその状況は私たちの罪から来る弱さのゆえに招く状況なのですが、神は共におられるのです。それは弱く罪ある私たちを「価高く」見て下さるほどに私たちを愛しておられるからなのです。

私たちの神は私たちを造り、私たちを救い、私たちと共にいるお方です。これらのすべてが私たちへの神の愛を物語ります。それほどに神が私たちを愛されているがゆえに私たちは神の目から「価高い」のです。私たちは自分の価値を高めたいと思います。ただ私たちにとって感謝なことは、たとえ価値を高めることができなくても「価高い」と見て下さる神の思いなのではないでしょうか。私たちを「価高く」見て下さる神に感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛は神から」    ヨハネの手紙Ⅰ4:7~21(新約P445)  2015年2月1日 大竹敏生

 

今日の聖書の箇所には「神は愛」だとの記述があります。愛の宗教と呼ばれるキリスト教ですが、その神は愛そのものだというのです。この「神は愛」ということから神は愛ということ、神の本質が愛だということが分かります。神はその本質の愛を私たちに向けておられるのです。感謝いたします。神がまず私たちを愛された事実があるのです。

そしてそこから神は私たちに「互いに愛し合う」ように命じられます。神は私たちすべてを愛しておられるのですから、互いに愛し合うことを求めるのはよく理解できます。ただ神がそう命じられる理由は他にもあります。それは互いに愛し合うことは、愛そのものである神が私たちの内にとどまって下さると記されています。神が私たちの内にいて下さることは、私たちの喜びです。共にいて下さる愛の神の恵みを受けられるのです。

また「神は愛」ということから愛は神から来るということがわかります。愛が神から私たちに注がれて、私たちは互いに愛することができます。物理的に考えると愛は、私たちが愛し合うことによって減ってきてしまうのではと考えます。しかし愛は神を源泉としてあふれるように注がれてきます。また物理的な法則から完全に逸脱していて、私たちが愛し合うことによって愛はむしろ増し加えられます。それは互いに愛し合うことを求めておられる神が愛を増し加えて下さるということです。神の愛は尽きる事無く私たちに注がれてますます愛に満たされるのです。では互いに愛し合うことは言われるのに、なぜ神を愛することは言われないのでしょうか。それは互いに愛し合うことが神を愛することにつながるからなのです。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」と記されています。

私たちは実は愛を必要としているのです。そして愛は神から来るということを信じましょう。神は今も変わりなく私たちを愛しておられます。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「主は我らを愛された」  ヨハネによる福音書3:14~17(新約P167) 2015年1月25日 大竹敏生

 

キリスト教は愛の宗教だと言われます。そしてそのキリスト教の神は愛の神です。私たちの神は私たちを愛して下さる神なのです。

今日の聖書箇所のヨハネによる福音書3章14節に荒れ野で上げられた蛇との記述があります。旧約聖書に出エジプトした民は荒れ野で不平を言い、神から罰を受けて死者を出し、モーセの上げた青銅の蛇を見ることによって救われる記事が出てきます。それを指しています。それと同じように私たちの主は十字架に上げられ、私たちを救うのです。なぜ救って下さるのか。それは神が私たちを愛して下さったゆえなのです。3章16節は有名なみ言葉です。そこにはその神の愛の大きさが記されています。その独り子イエスキリストを私たちに下さったのです。神の独り子イエスキリストが私たちの代わりに十字架にかかることで私たち救って下さったのです。またこの神の愛の大きさは、とるに足らない、弱い、そして罪ある私たちであっても、愛されることで分かります。理由がある愛ではなく、罪があって弱い私たちをそのまま愛されたのです。そのように神が私たちすべてを愛しておられるがゆえに、一人も滅びないことを願っています。私たち一人一人は神から愛されているのです。だから神は私たちが、神を信じて救われることを願っているのです。この神の願いにこたえる者でありたいと思います。

神は私たちを愛しておられます。今の私たちの歩み、私たちの生活、私たちの成長などすべてに関心をもっておられます。主を信じて歩む道は神様による祝福と恵みの道です。主の愛によって、私たちの歩みも愛に包まれた喜びの道となるでしょう。神様は私たちの願いをも知っておられ、恵みと祝福に満ちた歩みをさせて下さるお方なのです。神は弱い私たちをそのまま愛して下さり、また成長させて下さり、私たちが変わっていくことがあっても変わりなくそのまま愛して下さるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「安心しなさい。わたしだ」 マタイによる福音書14:22~33(新約P28) 2015年1月18日 大竹敏生

 

ある人が「ガリラヤ湖はイエス様の時代の神学校」と言いました。また別のある人は「ガリラヤ湖は人生のようだ」と言いました。分かる気がします。

今日の聖書箇所はガリラヤ湖が舞台です。イエス様を残して先に船で出かけた弟子たちでしたが、逆風に悩まされていました。過去にガリラヤ湖ではもっと激しい嵐にあったことがありました。漁師ぞろいの弟子たちが死を覚悟したほどでした。ただ今回は沈みそうな状況ではなく、前に進まないようです。そんな悩みの中もあるのでしょう。湖を歩いてきたイエス様を弟子たちは「幽霊だ」とおびえています。その弟子たちに主は「安心しなさい。わたしだ」と声をかけます。これはもちろん「幽霊じゃない」という意味があります。しかし主は「安心しなさい。わたしだ」と言いました。つまり弟子たちの間違いの否定だけではないのです。弟子たちに悩みの時に「わたしにまかせて平安を得よ」と言っているのではないでしょうか。

悩みはおびえを呼び、おびえは私たちの弱さから来ます。弟子たちは悩みの中で恐がらなくてよい者を恐がりました。またペトロは自分のよく知るガリラヤ湖の波風を見て恐れました。おびえにもイエス様は届いて下さいます。最初の弟子たちのおびえは消え、おびえたペトロも助けました。

私たちの人生の中での悩み、おびえは避けられません。逆風の時も嵐の時もあります。そんな中、私たちはどう歩んだら良いのでしょうか。イエス様は悩み、おびえる弟子たちに「安心しなさい。わたしだ」と声をかけましたが、その声は実は私たちにもかけられています。人生の悩みの時、弱さにおびえるような時、そういう時こそ主を呼ぶ必要があります。弟子たちにかけられたように主は「安心しなさい。わたしだ」と私たちにも声をかけてくださいます。主は弱くなく愛の方であり、力の方でもあります。私たちはこの方に祈り、安心して歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「恵みの上に、更に恵み」 ヨハネによる福音書1:14~18(新約P163) 2015年1月11日 大竹敏生

 

ヨハネによる福音書の最初の部分で目を引く言葉の一つは「言(ことば)」でしょう。この「言」は人格をもっています。そしてヨハネによる福音書を最初から読むと、バプテスマのヨハネの証言などで、この「言」はイエスキリストであると分かります。イエスキリストは神の子でありながら、私たちを救うために人としてお生まれになりました。

また「恵み」という言葉にも注目しましょう。「恵み」とは何でしょうか。普通私たちは何かを受けるのに、その資格があるから受けるものです。たとえば何か買うのは、お金を払うことによりそれで資格を得て受けるのです。一方「恵み」は受ける資格が無い者が一方的に受けるものです。なぜそのようなことがあるのでしょうか。資格の無い私たちを愛して下さっているからです。愛の恵みに感謝いたします。

16節に「恵みに上に、更に恵みを受けた。」とあります。これは何を意味しているのでしょうか。まず1つめの恵みはイエスキリストを信じることによって私たちは救われるということです。1つめというか、これが最大の恵みです。罪ある私たちは滅びにいたるはずでしたが、イエスキリストの十字架によって救われるのです。では2つめの更なる恵みは何でしょうか。それはイエスキリストを信じてキリスト者となって受ける日々の助けや導き、祝福などです。私たちはまず救いの恵みを受けて、また日々さまざまな恵みを受けるのです。感謝いたします。また「恵みに上に、更に恵みを受けた。」からは恵みの豊かさを感じます。やはり16節によるとこの方は「満ちあふれる豊かさ」をもっておられることが分かります。その豊かさから私たちには恵みがあふれるほど、恵みの上に更に恵みが注がれるのです。私たちは恵みに始まり、恵み受け続けて歩み、恵みをもって全うするのです。一方的に与えられる、あふれる恵みに満たされて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神はどんな時でも」    ヨシュア記1:1~9(旧約P340) 2015年1月4日 大竹敏生

 

2015年最初の主日礼拝を迎えました。その最初の主日、ヨシュア記の最初から主の導きを得てまいりましょう。

ヨシュア記は、イスラエル民族が偉大なモーセに導かれて出エジプトをなし、いざこれから約束の地に入ろうとするところから始まります。モーセの後を継いでイスラエルの指導者となったヨシュアが約束の地カナンに入っていくのです。まさに新しい指導者の下、イスラエル民族は新たな歩みを始めるのです。今日の聖書箇所によく出てくる言葉は「強く、雄々しくあれ」という言葉です。これが新たな歩みを始めようとするイスラエルの指導者ヨシュアに主が言われた言葉です。これはヨシュアが弱いので、主が言われたというよりも、これから始まる困難な歩みに際して「強く、雄々しく」歩むことが必要だとの導きだと思います。9節に「おののいてはならない」とあります。恐れからおののきが生まれます。そうしたときに私たちは、普段できることすらできなくなるのです。だから私たちは「強く、雄々しく」あるべきなのです。

でも実際、弱い私たちはそれができません。むしろ恐れおののく者です。しかし神は「私はあなたと共にいる」と約束されました。だから恐れることはないのです。またこの箇所から、神は決して見放さず、どこへ行っても共に神はおられると約束して下さっています。その約束を受けてヨシュアは困難な歩み成し遂げました。このヨシュアにされた約束は、実は私たちにも約束されているのです。神は私たちと共におられるのです。私たちを愛しておられる神は、たとえ私たちが弱く、乏しい者であっても共にいて下さるのです。2015年もいろいろなことがあるでしょう。良い時もあれば、苦しい時もあるでしょう。弱さがむき出しになるような状況もあるかもしれません。しかしどんな時でも神は共にいるという約束をたがえることはありません。2015年もともにおられる神を信じ歩んでまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の愛にこたえて」  マタイによる福音書6:25~34(新約P10) 2014年12月28日 大竹敏生

 

本日は2014年最後の主日礼拝となります。その主日に導かれた聖書の箇所を見ると「神の国と神の義をまず求めよ」と命じられています。つまり神様が「自分を一番にしろ」と言っているのです。この命令は、人間がしているとするならかなりずうずうしい命令です。何か何でも自分が一番と主張するガキ大将のような命令です。ただこれは神が命じているのです。決してずうずうしい命令ではありません。自分勝手ではなくずうずうしいわけでなくこの命令がなせるのはどうしてでしょうか。「神を第一に」というのは「神を誰よりも愛せ」と言いかえることができると思います。そう言えるのは命じている神が私たちをこの上なく愛しているからです。つまり神がこの上なく私たちを愛し、私たちを大切な者としていてくださるから、逆に私たちに「神を第一に」「神を誰よりも愛せ」と命じているのです。弱い私たちを大きな愛で包んでいて下さるがゆえにこういう命令をしているのでしょう。

人は命令されることを好みません。ただ神の命令は神のためというのではなく、むしろ命じられている私たちのための命令です。「神を第一に」することによって、私たちは守られ、養われ、必要が満たされるのです。本日は2014年最後の主日礼拝です。今年もそれぞれさまざまなことがあったと思います。思い悩んだりもしたと思います。しかし神は守ってくださいました。確かに今日は2014年の最後の主日礼拝ですが、私たちの歩みの終わりではありません。また2015年の歩みがやってきます。また思い悩むこともあるでしょう。罪がある私たちはその罪のゆえに苦しんだり、悩んだりするのです。ただ、神はそんな私たちの罪を赦し、助けて下さるのです。「神を第一に」「神を愛せ」と命じる神様は「あなたを愛している」「あなたを助ける」と約束してくださっているのです。一年の終わりを感謝をもって終え、新たな年も神を愛して喜びをもって歩みたいと思います。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「あなたがたのために」  ルカによる福音書2:8~14(新約P103) 2014年12月21日 大竹敏生

 

本日は今年のクリスマス礼拝です。今日のみ言葉は聖書にある有名なクリスマスの出来事からとなります。

主イエスキリストの誕生について聖書に記されていて分かることは、生まれた地はベツレヘム。人間の父はダビデの子孫。生まれた場所は家畜小屋。最初に知らされたのは羊飼いたち。東方の博士たちがお祝いに来た。そういうこと等です。この内まずベツレヘムで生まれることは旧約聖書のミカ書で預言されていました。ただそこにはベツレヘムは小さい町とあります。またダビデの子孫として生まれることも旧約聖書のイザヤ書にあります。ただこれもダビデの子孫とは書かれず、ダビデの父の「エッサイの根」と記されています。つまり救い主でありながら小さな町で生まれ、王であったダビデではなく、その父で王ではなく普通の人間であったエッサイの名が用いられました。また家畜小屋で生まれたこと、身分的に地位の低い羊飼いに最初に知らされたことなどから言えることは、王などの特別な人ではなく、すべての人を救うためにイエスキリストは今から約2千年前にお生まれになったということです。感謝します。

また羊飼いに「あなたがたのために」と天使は告げています。この「あなたがた」という言葉に注目しましょう。「あなたがた」というとき、複数の団体、グループという存在に目がいきます。多くの人たちがそういう風に見ていました。告げられた羊飼いたちもおそらく「私たちユダヤ人」と見ていました。これはまず、救い主はすべての人を救うために来られたことが正しいので違うのですが、もう一つ覚えなくてはいけないのは、救い主は私たち一人一人を救うために来られたということです。この「あなたがた」というのは、大切なのは私たち一人一人の個であって、その大切な個が集まった「あなたがた」なのだということです。主は大切な私たち一人一人を救うためにこの世に来られました。心より感謝して、救い主の誕生を喜び、お祝いしましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「できないことのない方に」  ルカによる福音書1:26~38(新約P100) 2014年12月14日 大竹敏生

 

本日は2014年のアドベント第三主日です。今日の聖書箇所はそれにふさわしく、イエス様の誕生が、母となるマリアに知らされた受胎告知の場面です。

まだヨセフと婚約していただけで、マリアの言葉を借りると「男の人を知らない」マリアが身ごもる。マリアはこのことに驚きます。なぜそんなことが起こるのか?ヨセフとの結婚は?そして律法にてらすと石で打ち殺されてもおかしくない自分は?そういう思いがあったでしょう。それに対するみ使いのこたえは「神にできないことは何一つない。」でした。まるで最初の疑問にしかこたえていないような言葉です。しかしマリアは「お言葉どおりなるように」と言っています。マリアはこのこたえですべて了解したようです。

すばらしいマリアの信仰です。何もできないことはない神の力によって、すべてが守られる、最善となると信じたのです。マリアの取り乱すこともなく、ただ神の導きに従うこの姿を見ると、マリアは強い人だったのかと思います。そのとおりだったのかもしれません。ただマリアも人間です。弱い者でもあったはずなのです。私は「マリアは強かった」と単純に考えるより、むしろマリアはこのような状況の中、ただ神にすがるしかなかったのだと思うのです。そうマリアは「できないことのない方に」ただお任せし、ゆだねるしかなかったのだと思います。「お言葉どおりになるように」という告白はマリアのすばらしい信仰を表しています。ただそれと同時に「主よ、助けてください。」という叫びでもあったのではないでしょうか。

私たちの神は「できないことのない方」です。そして私たちを愛しているのです。だから私たちもマリアのようにこの方を信じ、助けを求めることができます。これからも神を信じ、ゆだねて歩みましょう。今年ももうすぐクリスマスです。愛と全知全能の方が、私たちを救うためにこの世に来られました。今年も救い主の誕生を喜んで祝いましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「私たちは力を受ける」   使徒言行録1:6~11(新約P213) 2014年12月7日 大竹敏生

 

本日は日本バプテスト連盟の世界バプテスト祈祷週間の最終日です。世界中の福音を宣べ伝える方々、特に宣教師の方々を覚えて祈りましょう。

今日の聖書の箇所はイエス様が天に上る時のことが記されています。福音書には、イエス様は「世界中に福音を宣べ伝えよ」と言われたことが書かれています。ここの箇所も同じ趣旨のことが記されています。今日の聖書箇所の前には「聖霊が与えられる」ことが約束されていて、今日の箇所ではそうすると「力が与えられる」とあり、つづけてそのことにより私たちはあらゆるところで主なる神の「証人となる」ことができるとあるのです。自分の国を出て他国で働く宣教師の方々は、私たちには分からない苦労があると思います。言語、文化、常識、伝統等々、多くのものが違うのです。神さまの力が必要なのです。世界バプテスト祈祷週間はそんな苦労をしていた一人の女性宣教師ロティムーン師を支援しようという運動から起こったのです。

偉大な伝道者パウロは、彼の働きを背後から助けた人たちを「同労者」と呼びました。私たちも世界で働いている宣教師の方々を覚えて、祈り支えて世界伝道の業に参画してまいりましょう。天に上るイエス様が見えなくなってもボーッと見ていただけの弱い弟子たちでしたが、彼らも聖霊によって力を受けるのです。使徒言行録を読み進めると聖霊によって力を受けた多くの主を信じる者たちの歩みに触れることができます。私たちも弱い者ですが、力を受けるのです。それぞれの場所で神に用いられ、証しして歩みましょう。また宣教師の方々を覚えて祈り支えることで世界伝道に参画していきましょう。

また聖霊が下さる力は証しすることだけではなく、ありとあらゆる場面で通用する力です。神である聖霊が私たちに直接力を与えて下さいます。共にあって私たちを愛して、力を与える神様に心より感謝いたします。弱い私たちはこれからも神の力を受けて歩みましょう。

 
 
 
 
 

[メッセージ要約]

「罪から救い、共におられる方」 マタイによる福音書1:18~25(新約P1)  2014年11月30日 大竹敏生

 

本日から今年のアドベントとなります。今日の聖書箇所は誕生するイエスキリストの父親として選ばれたヨセフに対してみ使いが現れたところから始まり、イエスキリストの誕生までが書かれています。さすがはイエス様の父親として選ばれたヨセフです。自分の立場よりもいいなずけのマリアを思って行動しようとしています。そこにみ使いが現れ、真実が告げられました。

そして生まれる子に「イエス」と名付けるように命じられました。「イエス」とは「主は救い」という意味です。まさに救い主にふさわしい名前です。21節に「罪から救う」とあります。メシアに関しては「偉大な国の指導者」などのイメージがあったようです。しかしここにみ使いは人を罪から救う方と断言しているのです。またもう一つ名前が出てきます。イザヤ書に預言されていることですが「インマヌエル」と呼ばれると書かれています。この意味は「神は我々と共におられる」だとも書かれています。私たちを罪から救い、私たちと共にいて下さる神であり、主なのです。

では何故に私たちは救われ、神は共にいて下さるのでしょうか。それは神が私たちを愛しているからに他なりません。愛ゆえに罪多き私たちは救われるのです。また愛ゆえに共にいて下さるのです。神は私たちの罪を知っていて下さるのにもかかわらず私たちを救い、共にいて下さいます。つまりこの神の愛は、私たちが罪まみれでそういう価値の無い者なのに神は救い、共にいて下さるのです。私たちはこの神の愛を疑ってはなりません。

救い主の誕生を祝うクリスマスが今年もやってきます。私たちはクリスマスに誕生されたイエスキリストによって愛され、救われているのです。また今も共にいて下さるのです。名前通りの方が生まれ、今も生きていて名前通りに救い続け、共にい続けて下さっています。それは今も私たちを変わりなく愛し続けて下さっています。クリスマスに誕生された救い主に感謝します。

 
 
 

[メッセージ要約]

「愛によって罪を滅ぼす方」 ローマの信徒への手紙8:1~11(新約P283) 2014年11月23日 大竹敏生

 

「あなたは罪人です。」こう言われたら人は二通りの反応をします。1つは「そんなことはない。」と否定する人です。こういう人たちは罪をこの世的にとらえていることがあります。世の中の法律を犯してはいないと主張するのです。聖書で言う罪はこの世的な罪よりももっと厳しく、罪の行為をしなくても、思っただけでも罪です。また「その通り私は罪人です。」と素直に肯定する人は、ある意味で聖書的なのですが、自分の罪を軽く考えてしまうことがあります。「私は罪人だ。だけど他の人たちも皆罪人だ。」という感じです。

私たちはこの罪を軽く考えないで、赦していただく必要があります。実際私たちの中には罪があるのです。今日読んだ聖書の箇所の少し前に、人は望まない罪を行ない、望む善を行なわないものだと記されています。どうして望まない罪を行なうのか。それは私たちの中に罪があるからです。「罪がそれをさせている」とあります。この罪は赦される必要があるのです。罪はよく病気に例えられます。確かに病気になればその病気の影響を強く受けます。罪を持つ私たちがその影響を受け、望まないのに罪を行なうようにです。でも罪と病気には違いがあります。それは、病気は多くの場合癒されることで解決されます。しかし罪は病気のように癒されることはありません。多くの人が罪が無くなるように努力しましたが、病気のように癒された人は誰もいません。罪は癒されるのではなく、赦されるものなのです。

どうしたら私たちの罪は赦されるのでしょうか。主イエスキリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったことを信じることで私たちの罪が赦されると聖書には記されています。また、それは私たちの行ないや業績、実力などが評価されてではなく、ただ神が私たちを愛してくださったからなのです。私たちの神は私たちを愛してくださり、十字架によって罪を滅ぼしました。私たちをそれを信じて、罪の赦しを受けて歩みましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「人知を超える神」  フィリピの信徒への手紙4:4~9(新約P366) 2014年11月16日 大竹敏生

 

今日の聖書箇所は私もよく取り上げる箇所です。最初に「喜びなさい」とあります。またその後で「思い煩うな」とあるのです。この二つの言葉は対極にあると言っていいでしょう。つまり喜ぶために思い煩らわないことが必要であり、逆に思い煩いを消すには喜ぶことが大切だと考えられます。思い煩ったり悩んだりは誰でも多かれ少なかれあるでしょう。人であるからにはそれは宿命のようなものかもしれません。喜ぶことがその宿命を克服するということですが、それは思い煩いを喜びでごまかしたり、忘れたりするということではなく、もっと根本的な解決に通じるのです。それはなぜでしょうか。

それは悩んだり、思い煩ったりする私たちを愛する神がおられ、その神が基にある喜びだからです。つまりこの喜びは神があっての喜びです。だから神の力がある喜びです。ごまかしでなく、思い煩いを根本的に解決する喜びなのはどうしてでしょうか。それは私たちを愛する神が、私たちが悩むことを良しとせず解決して下さるからです。

ただ私たちの悩みや思い煩いはそんなに簡単なものではありません。たとえば私たちが他人の悩みを打ち明けられたとします。時には有効な解決のための助言ができたりすることもあるでしょう。しかし多くの場合、有効な解決につながる助言はできないでしょう。私たちの悩みはそれくらい困難で重いものです。しかし神には困難ではありません。なぜなら神は「人知を超える」方だからです。この人知とは人の平均的な知ではありません。「あらゆる人知を超える」とあります。人の最高の知を超えるのです。だから人の目にはとても解決できないと思える問題も愛の神は解決して下さるのです。

その神は今日の聖書箇所からみると5節に「すぐ近くに」9節に「共に」おられるとあります。私たちを愛する、人知を超える神が私たちの悩み、思い煩いを解決し守って下さるのです。感謝します。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「信頼すべき方」       箴言3:1~6(旧約P993) 2014年11月9日 大竹敏生

 

本日は旧約聖書の箴言からみ言葉が導かれています。この箴言はダビデの息子で、神から知恵をいただいたソロモンによって書かれたと言われています。箴言は前半部分に「父の諭し」として父が子に教え諭すように記された部分が多く出てきます。今日の聖書箇所もその一部分になります。

父の、子に対しての教えです。それは2節や6節に表れているように子の生涯にわたって必要で有効な教えでした。神の知恵をいただいたソロモンは生涯にわたって、自分ではなく神に信頼することを命じています。人は知恵のような能力があると自分に依り頼みたくなりますが、知恵の出どころは神です。真の知恵は神にあります。神を信頼して歩むことが私たちの生涯に必要で大切なことなのです。神は知恵や力があります。そして私たちを愛しています。力を持っていてもその方が裏切る可能性があるなら信頼できません。裏切らなくても力がなくては真の信頼をおけません。力と愛の神こそ他のどんな存在よりも信頼すべきお方なのです。

では神をどれくらい信頼すべきでしょうか。聖書には「心を尽くして」とあります。全身全霊をもって信頼してよいお方です。これはある意味難しいことです。なかなかそんなに信頼できません。でも多くのクリスチャンは「何でこんなことが?」という状況からすばらしい神の御業を見てきているのです。最後まで神を信頼して歩みましょう。

6節を見ましょう。神を信頼して歩むことは決して受け身というわけではないようです。「常に主を覚えて」歩むとき、その歩みが「まっすぐ」になるとあります。私たちが主を覚えて歩むとき、弱さからたとえ曲がってしまってもその道はまっすぐにされるのです。そう、小さい子どもがフラフラ歩みだしても、親がしっかりと見守り、歩みを正すように、神は私たちと共に歩み、私たちを正しい道にまっすぐ導くのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「召された者の憩う場所」   ヨハネの黙示録21:1~5(新約P477) 2014年11月2日 大竹敏生

 

本日は「召天者記念礼拝」となっています。以前、弔電を打った時、「召天」を「昇天」ではないと説明するのが大変でした。まあ「天に昇る」でも間違いとは言い切れませんが、キリスト教では「天に召されている」ことを大切にしているのでしょうね。

天に召してくださったのは神です。つまり神が招いてくださったということです。私たちが誰かを招待したとします。きっとしっかり準備を整えると思います。まして神様が招いてくださるのですから、召された方々がいるところは神様が用意されたすばらしい場所なのではないでしょうか。

今日の聖書の箇所にはその場所がどういうところかがいくつか記されています。まず「海がない」とあります。海好きにはショックですね。これは海が恐怖の象徴とされているが故の表現だと言われています。そこは恐怖のないところです。また神が共におられ、神が治める場所です。死もなく、悲しみも嘆きも労苦もないと書いてあります。面白いことに涙はぬぐい取られるところだそうです。涙はなくならないのでしょうか。涙がない完全な世界というより、涙がぬぐい取られる愛の世界ということでしょうか。どちらにしてもさすがは神が用意されたすばらしい場所です。そこで召された方々は憩うのです。

この場所には神を信じる者が行くことができるのです。ただ神がいつ召されるのか、招かれるのかは分かりません。神がそれぞれに最善の時を備えてくださっているのです。

最後にこのことを書き記せとあります。これはそれくらい大切なことであり、忘れてはならないということではないでしょうか。また神は必ずこれを実現されるということもあるでしょう。どちらにしても私たちにはすばらしい場所が備えられていることは間違いありません。すでに召された方々とはまた神の前でお会いできるのです。感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「愛を身に着けて」  コロサイの信徒への手紙3:12~17(新約P371) 2014年10月19日 大竹敏生

 

今日の聖書箇所には、私たちは「神に愛されている」とあります。愛されているのだから「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、互いに忍び合う、互いに赦し合う」ことなどが求められています。決して簡単なことではありませんね。ただ、それに続けて「愛を身に着けなさい」とあります。これが簡単ではないことをする力となるのではないかと思います。

「愛を身に着ける」とは愛を着るということですね。人は着るものから多くの影響を受けます。着るものからぬくもりを受けたり、時に衣服に身が守られることもあるのです。また着るものによってその人の存在に影響を与えます。着ているものから人は、好みや性格、また常識なども探られたりします。私たちは愛を身に着けることによって力を受けて歩むことができるのです。

神が私たちに求める「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、互いに忍び合う、互いに赦し合う」はなかなかできるものではありません。はっきり言うととうていできない無理な要求と言いたいところです。柔和で寛容に互いに赦し合うなどは簡単にできるものではありません。神はたとえば赦すことをどうして求めているのでしょうか。聖書には私たちが赦されたからとあります。これは深い意味があります。1つは赦されたのだから赦せということで、私たちは神に愛され、赦されたのだからお返しに自分も感謝をもって赦すという意味です。またこういう意味もあります。それは神は愛をもって赦して下さった。その愛に力を受けて赦していくという意味です。どちらにしても神の愛を身に着けていくことが私たちにとって大きな意味があるのです。

私たちは常に神の愛を身に着けて歩みましょう。そのことによって力を受けて、また守られて歩めます。私たちはそういう愛を私たちに与えて下さり、身に着けさせて下さる神に感謝しましょう。祈りをもって、また神をほめたたえる賛美をもってです。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「大きな愛につつまれて」 ローマの信徒への手紙8:31~39(新約P285) 2014年10月12日 大竹敏生

 

キリスト教の特長と言っていいのが愛ではないでしょうか。私たちは主なる神に愛されています。その愛はとてつもなく大きな愛なのです。

私たち人間も大きな愛をもつことがあると感じる人もいるでしょう。「こんなにあなたを愛している人はいない」「私は誰にも負けないほどあなたを愛している」このようなことを言う人は、自分は大きな愛を持っていると感じているのではないでしょうか。しかし人の愛はどんなに大きな愛であったとしてももろいものです。愛するのには愛するだけの理由があるのであって、もしその理由が無くなれば、愛も無くなるのです。

私たちの神の愛は、人の弱さをも愛するものです。誰でも良いところと悪いところがあるでしょう。人によっては良いところは大変魅力的という人もいるでしょう。神はその良いところも愛していますが、悪いところも愛しているのです。自分ですら認めたくない悪いところを愛しておられるのです。神の愛が大きな愛と言われるのはそれが理由です。

また本日の聖書箇所を見ますと、この愛が私たちから離れることは無いとと書かれています。神の愛は私たちを離れること無く、どんなものも私たちから神の愛を引き離すことはできないのです。神が私たちを愛することを止めることはありません。そして神の人への愛を引き離す存在もありません。愛は私たちか離れることは絶対に無いのです。

私たちは神の大きな愛につつまれているようなものです。その愛の中にどっぷりと浸かっているのです。その愛につつまれている私たちに輝かしい勝利が与えられると約束されています。感謝します。人の愛を受ける者は受け続けるために、そうされ続ける努力が必要になるかもしれません。しかし神の愛を受ける者は、そういう努力は無用です。ただ神に愛されていることを信じて、信じ続ける必要があります。神の愛は私たちから離れること無いのですから。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「弱いからこそ」  コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1~10(新約P339)   2014年10月5日 大竹敏生

 

人は誰でも弱さを持っています。でも弱さを認めたくないものなのです。しかし本当は「私たちは罪人である」ということと同じように、私たちは自分の弱さを認めなくてはなりません。

私たちは「出来ない」ことに苦しみます。「なぜ出来ないのか?」と悩むのです。この苦しみと悩みの解決は言葉では簡単です。そう「出来る」ようになれば解決です。ただ実際は「出来ない」ことを「出来る」ようにするのはとても困難なことです。「出来ない」ことは実は私たちの弱さから来るのです。言葉では簡単でも実際は難しいこの解決よりも、もっとたやすい解決方法があります。それが弱さを認めることなのです。「出来ない」ことでの悩みは、弱さを認めることで解決されることがあるのではないでしょうか。

この手紙を書いたパウロはその弱さを認めていました。一方このコリントの教会はこの弱さを認めたくない人たちが多くいたようです。実はこの弱さを認めず、自分により頼むことがコリントの教会に問題を引き起こしていました。パウロは神から「恵みはあなたに十分である」と言われています。これは「弱さを認め甘んじてその弱いという事実を受け入れ、我慢せよ」ということなのでしょうか。そうではなくむしろ祝福だと理解できます。パウロは「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と記しています。つまり神は弱い私たちを助けてくれるのです。しかし自分の弱さを認めないと、その助けが受け難くなるのです。またパウロはさらに「力がわたしの内に宿るように」弱さを誇るとまで言います。絶大な神の力は、私たちが弱さを認めたところに宿り、発揮されるのです。弱さを求めることは私たちの大いなる祝福へとつながるのです。

私たちは神の助けと祝福を信じましょう。私たちは弱いからこそ、弱さがあるからこそ、その神の助けと祝福を受けられるのです。弱いからこその恵みを感謝いたします。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「新しくされて和解を」 コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16~21(新約P331)   2014年9月28日 大竹敏生

 

「クリスチャンになることは善い人になるとか真面目な人になるということ」イエスキリストを信じ、クリスチャンになるということを、こんな風に考えている人がいるようです。私は何人かの人に言われたことがあります。「自分にはそんな真面目な生き方は無理」とか「そんな堅苦しい生き方はできない」とかです。ある面これは多くのクリスチャンたちの良いイメージがそう思わせているということですが、それが理由で信じないのはもったいないですね。

この考え方は少し思い違いをしています。それはまず「クリスチャンイコール善い人」ということです。クリスチャンはイエスキリストを信じる者であって、善い人とか真面目とかはむしろ信じたが故にそうなった人が多いということでしょう。私は、クリスチャンは決して堅苦しい生き方をしているとは思っていません。むしろ喜びをもって歩んでいる者です。

それともう一つの思い違いは「善い人や真面目な人になる」ということです。今日の聖書の箇所に「神から出ること」という言葉があります。新しくなることがクリスチャンになることと考えますと、私たちが自分の力で生き方を変えるのではなくて、神が変えて下さるのだということです。クリスチャンになって変わる必要はあるかもしれませんが、それも神様がして下さるのです。

そしてこの新しくされるということと密接な関係にある言葉が和解です。和解とは神と私たちとの関係の和解です。和解するいうことは関係の悪化があるということです。そうです。私たち人間に罪があることにより、私たちと神との関係は断絶しました。この断絶によって私たちは永遠の死を受けます。和解して永遠の命を得なくてはなりません。またこの断絶によって私たちは多くのものを失いました。生きていくにも神の助けを受けにくくなっています。神との和解によって救いと恵みを受けなくてはなりません。神によって新しくされて、和解を受けましょう。それがまた神の望んでおられることなのですから。

 
 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神によって日々新たに」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:16~18(新約P329) 2014年9月14日 大竹敏生

 

高松太田教会では毎年敬老の日に近い主日の礼拝を「高齢者を覚える礼拝」としています。今年は本日の礼拝がそうです。私どもの教会に来られているご高齢の方々がますます元気で祝福されますようにお祈りいたします。

本日の聖書箇所に「外なる人」「内なる人」と出てきます。これはそれぞれ何を指しているのでしょうか。一番よく言われるのは外なる人は私たちの肉体で、内なる人は精神とか心とか霊的なものを指すということでしょう。確かに、肉体は日々衰えていきます。これはどんな人でも止めたりすることはできません。一方精神とか心は衰えるイメージはありません。ただこの二つは影響し合っているのは間違いないようです。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉もありますね。

本日の聖書箇所は肉体の衰えはあきらめ、精神や心の衰えないことで我慢しようということでしょうか。いえ、もっと喜んでよいのです。内なる人は日々新たにされるとあります。日々新たにされるのですから、肉体の衰えを補って余りがあるのです。

ある人は「外なる人」「内なる人」はそれぞれ、生まれた時から持っているものと信仰をもってから得るものと定義します。これもうなずける面があります。特に私たちの「内なる人」は神様によって導かれるものです。霊は神に導かれるのです。

神が私たちを霊的に日々新たにして導くのです。ご高齢の方々はこの神の霊の導きを多く受け、日々新たにされつづけています。また全知全能の神は霊肉共に導いてくださいます。その導きを多く受けているご高齢の方々と共に少しでも長く歩みたいものです。

私たちは誰ももれることなく、日々新たにされる恵みを受けています。今日も主と出会い、新たにされて歩みましょう。

 
 
 

[メッセージ要約]

「完全な者となりなさい」 マタイによる福音書5:16~21(新約8P 2014年9月7日

 

今日の聖書箇所の終わりに「完全な者となりなさい」とあります。この命令はかなりきつい命令と感じますね。「完全」という言葉は「何一つ欠けたところの無い」という意味があります。私のような欠けだらけの人間には「完全な者となりなさい」は到底無理な命令と感じます。

確かに「完全」は「何一つ欠けたところの無い」という意味がありますが、他にどのようなイメージがあるでしょうか。野球中継で前にアナウンサーが「完全なホームラン」と言いました。そのホームランは別にフェンスをはるかに超えた大きなホームランというわけではありませんでした。その「完全」の意味は「間違いなく」という意味であったようです。「完全」は決して人を寄せ付けない遠くの目標というわけではないのかもしれません。

では今日の聖書箇所の「完全」はどうでしょうか。この「完全」は私たちの「愛」と関係があるようです。自分にとって愛せない存在を愛することが「完全な者となりなさい」の達成につながるようです。このような大きな愛を持つことはすばらしいことと感じますが、それと「完全」がどうしてつながるのかピンときませんね。

だいたいこのような大きな愛を私たちが持つのは大変困難なことです。神様の力なしには持つことは不可能でしょう。そう考えると「完全」は神様の力なしには持つことは到底難しいものなのではないでしょうか。

不完全である私たちが「完全な者となりなさい」の命令に従うためには神様の力が絶対に必要です。神の力を受けて、少しでも神の愛にならって愛し合っていく必要があります。少しでもそれができたとき、私たちは「完全」に向けて歩みを進めることができます。その「完全」は私たちが考える以上のすばらしい「完全」なのです。「完全な者となりなさい」の命令は神様の力を得てのみ、そこに近づいていくことができるのです。

 
 
 
 
 

[メッセージ要約]

「わたしだ。わたしがある」 ヨハネによる福音書6:16~21(新約174P) 2014年8月31日

 

今日の聖書箇所は、嵐のガリラヤ湖上で起きた出来事です。ガリラヤ湖を舟でイエス様の弟子たちは進んでいました。その最中に突然の嵐にあったのです。ただ嵐とは言っても、さすがは元漁師の多いイエス様の弟子たちです。進むのに苦戦しつつも舟が沈むことはありませんでした。

その時、イエス様が湖の上を歩いて近づいてきました。舟が進まず苦戦していた弟子たちは、イエス様を見て「幽霊だ」と恐れを抱きました。イライラが恐怖に変わりました。このように人は弱い者です。すぐに恐れを抱くものなのです。しかもその恐怖を克服することは困難なのです。実際、人はすぐに恐怖を抱くのに、その恐怖に勝てません。言わば恐怖に支配されているのです。そしてその恐怖に耐え続けるのはとても厳しく難しいことと言えるのではないでしょうか。

その難しい「恐怖に勝つ」ことは、どうしたらできるのでしょうか。恐怖した弟子たちにイエス様は声をかけます。「わたしだ。恐れることはない。」とです。幽霊だと思ったのがイエス様だと弟子たちは分かりました。恐がらなくてよいのに恐がっていたことが、イエス様の言葉で理解できたのです。ただこのイエス様の言葉の意味は、単に間違いを正すということだけではないように思います。この言葉の原文の意味は「わたしはある」です。主イエス様はご自身の存在を恐怖する弟子に知らせたのです。弱い人にとってイエス様が「わたしがある」と言って下さることが、恐怖に勝つ唯一の道なのではないでしょうか。

イエス様は弱い私たちを愛して下さり、今も恐怖に支配される私たちに向けて「わたしだ。恐れることはない。」「わたしだ。わたしはある」と声をかけて下さっているのです。そう言って下さるイエス様をこれからも信じて歩んでいきましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神が愛されたのだから」  ヨハネの手紙4:7~12(新約445P 2014年8月17日

 

聖書は神の本質が「愛」だと証ししています。この箇所では特にそのことが単刀直入に記されています。その神の愛は、神の独り子イエスキリストが私たちのために世に送られて来たことで分かります。神の愛ゆえのイエスキリストの十字架による救いを感謝します。その神の愛を受けてまた歩みましょう。

聖書で語られる愛は3つの方向があります。1つは神が私たち一人一人を愛して下さるということ。またその反対に私たちが神を愛するということ。そして私たちが互いに愛し合うということです。この内、神が私たちを愛することはすでに実現し、今も私たちは神に愛されつづけています。他の二つを私たちは心がけなくてはなりません。私たちは神と人を愛して歩みましょう。

神様から愛されている私たちが神を愛するのは当然と言えます。では、私たちが互いに愛し合うように命じられるのはなぜでしょうか。確かに反目し合っているより、愛し合っている方が良いと感じます。でもそういうことだけが理由ではないと思います。神は私たち一人一人を愛しておられるのですから、その一人一人が互いに愛し合うことを望まれるのは当然でしょう。愛されている者が互いに愛し合うことが神の願いなのです。また愛することは決して簡単なことではありません。私たちが愛することができるのは、すでに神様から愛されているからです。つまり互いに愛し合うことも神様の力を得なくてはできないことと言えるのです。神の愛を信じている者こそ、互いに愛し合うことができる者なのです。私たちが神の愛を信じ、神にゆだねて愛し合うことを神様はこの上もなく求めておられることです。また神様は私たちが互いに愛し合うところに共にいて下さると約束されています。感謝いたします。神様は私たちを愛して下さっています。そこからまた出発しましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「共にいて助ける神」  イザヤ書41:6~10(旧約1126P 2014年8月10日

 

イザヤは今から2700年以上前に、南ユダ王国に登場した大預言者です。この預言者の登場した時代は、同じイスラエルの民族の国である北イスラエル王国が、アッシリア帝国に滅ぼされた時代でした。イザヤのいた南ユダ王国も滅亡の危機を迎えていたのです。しかし時の南ユダ王国の王ヒゼキヤは神を信じる正しい王で、イザヤの友人と言われた人でした。この王とイザヤの導きで神の守りを受けた南ユダ王国は滅亡を免れたのでした。

国の滅亡を感じる厳しい状況の中で、イザヤは民に告げます。神は私たちを見捨てない。神は共にいて助けて下さるとです。そしてイザヤの預言のとおり南ユダ王国は滅亡しませんでした。聖書にあるとおり神の助けがあり、支えられたのです。

現代の私たちに置き換えてみましょう。もちろん国が滅亡するような危険は感じられません。しかし時代は変わっても、国が変わっても、人が恐れを抱きがちなのはいつも同じです。恐れを抱かせる原因は違いますが、私たちも恐れを抱くことに変わりはないのです。いろいろなものが私たちに恐れを抱かせます。単純に恐怖を抱かせるものもあれば、人生の困難におののくこともあるでしょう。複雑な今の時代は、私たちにいろいろな恐れを抱かせるのです。

そんな今の時代にあっても、私たちの神はイザヤに与えられた預言のように、私たちを見捨てず、共にいて助けて下さるのです。神は全知全能であり、私たちの多様な恐れをすべて解決することができるのです。そして神は私たちを愛して下さっています。神は愛する私たちが恐れることを望んでおられません。神は私たちと共にいて助けて下さり、どんな恐れからも解放して下さるお方なのです。

 
 
 

[メッセージ要約]

「あまりのすばらしさに」  フィリピの信徒への手紙3:1~11(新約364P) 2014年8月3日

 

この箇所には著者のパウロの持っているものが記されています。それは「肉にたよるもの」とあります。「生まれて八日目の割礼」「イスラエルの民」「ベニヤミン族」「ファリサイ派」「教会の迫害者」などです。これらは他のイスラエルの人からは羨ましがられるものでした。しかしパウロはかつては有利だったこれらを損失とし、さらには「塵あくた」としています。これはこれらを持っていたがゆえにイエスキリストを救い主と認められなかったことと、イエスキリストを知り、その絶大な価値を知ると、比べて人間の価値はまさに「塵あくた」だということなのです。

そのイエスキリストについてパウロは「あまりのすばらしさ」しているほどなのですが、その主なる神は私たちの価値を高くみています。(イザヤ書43章4節)それは何故でしょう。本当はパウロの記しているとおり神はあまりに素晴らしく、人は価値の無いものなのです。しかし神が私たちを愛しておられるがゆえに、私たちは価値が高く見られているのです。私たちも愛する人を値高く見るでしょう。神は私たちを何よりも愛しておられますから値高く見てくださるのです。

パウロが主なる神であるイエスキリストを「あまりのすばらしさ」と評しているのはパウロが何よりも主イエスキリストを愛しているからなのではないでしょうか。また価値の無いものを愛して下さる神だからパウロは神を愛し、神を値高く見ています。神はご自身が絶大な価値を持っておられるのに、神に比べれば「塵あくた」な私たちを愛して、値高く見て下さる。その愛に感謝して「あまりのすばらしさ」を持つ方と共にこれからも歩みたいと思います。それが私たちの価値を生かすことになります。

 
 
 
 
 

[メッセージ要約]

「世に勝たれた方」  ヨハネによる福音書16:25~33(新約201P) 2014年7月27日

 

今日の聖書箇所の一番終わりに「勝っている」とあります。勝ち負けで言えば「勝ち」の方がいいですね。この「勝っている」相手は「世」とあります。これは何を意味しているのでしょうか。

一つはこういうことでしょう。この言葉の前に「世で苦難がある」と記されています。この世は私たちにとって簡単なものではありません。苦難があるものなのです。世はよく荒波に例えられます。この荒波に打ち勝つことは容易ではありません。いや、それどころか打ち勝つことは無理難題と言うべきでしょう。海の荒波をサーファーは超えていきます。しかしどんなサーファーでも波を鎮めることはできません。同じようにこの世の荒波を上手く乗り切ることはできるかもしれませんが、抑え込むことはできないのです。世の荒波を自由にでき、鎮めることができるお方こそ「世に勝つ方」です。この言葉を述べたイエスキリストはそれができるお方なのです。

もう一つの意味はこういうことです。世にある私たちは罪があり、残念ながら罪をつかさどるこの世の支配者サタンに敗北しています。しかしイエスキリストは、私たちの代わりに十字架にかかって死んでよみがえって下さいました。イエスキリストは私たちを罪から来る滅びより救って下さいました。私たちはイエスキリストを信じることによって救われるのです。イエスキリストは勝利されたのです。

つまりどちらにしても勝たれたのはイエスキリストです。主はご自身のためというより私たちのために勝利して下さいました。その勝利を無駄にすることなく、私たちは主を信じて主に信頼して「世に勝たれた方」に従ってまいりましょう。

 
 
 
 

[メッセージ要約]

「神の喜ばれる者に」   ローマの信徒への手紙12:1~5 2014年7月20日

 

今日の聖書箇所の最初に「こういうわけで」とあります。この「こういうわけ」は何をさしているのでしょうか。直前の11章35節~36節を指すと言う人もいますが、この手紙で今まで記してきたこと全てを指すと言う人もいます。私は後者のように思います。たくさんのことが11章までに書かれてきました。それらを受けた上で「こういうわけで」というのです。このところまでを読むと、人は神の愛、恵み、祝福、救い、その他を受けてきたことがわかります。そのことを受けて「こういうわけで」と聖書には記されています。

では「こういうわけで」何をせよというのでしょうか。それは私たち自身を神へのいけにえとして献げなさいというのです。これはもちろん、動物のように神の前に焼かれたり、殺されたりということではありません。自分ではなく、何よりも神を大切に、神中心に歩むということでしょう。これはなかなか困難なことなのです。

私たちは自分中心に歩むのは困難なくできます。自分は自分を裏切りません。また人によってはそれなりの力を持っています。でも実は人は弱いのです。本当に頼るべき方は他にいるのです。では神は頼るべきお方でしょうか。神は私たちをこの上なく愛しています。裏切りません。また私たちをはるかに超える大きな力をお持ちの方です。神は全知全能のお方なのです。つまりこの神こそ自分以上に本当に頼るべきお方なのです。

では「献げる」とはどうしたら良いのでしょうか。今日の聖書箇所を見ますと、私たちそれぞれに与えられた賜物を通して神に用いられていくことが「献げる」ことにつながるように思えます。そうすることがまた神を喜ばせることなのです。神に喜ばれる者になりましょう。

 
 
 
 

[ッセージ要約]

「わたしの魂よ主をたたえよ」   詩編103:1~5 2014年7月13日

 

詩編103編には「主をたたえよ」とあります。これは大切な言葉です。ある牧師がメッセージの中で「人は主をほめたたえるために存在している」と語っていました。主をたたえること、讃美することは私たちにとってとても大事なことなのです。

この詩編103編を記したのはダビデという人だとあります。ダビデとはイスラエルの第二代の王で主なる神を信じて忠実に歩んだ人でした。その生涯は波乱万丈で命の危険も幾度となくあり、そのたびに神に助けられました。またダビデは罪も犯しました。それもかなりひどい罪です。もちろんその報いを受けましたが、神から罪を赦されました。そのダビデが記したこの詩編は主から助けられた体験、罪赦された体験、そういう体験から記されたようです。

ダビデは「主をたたえよ」と記しています。なぜそうすることを勧めているのでしょうか。一つは、主はたたえられるべきお方だということでしょう。主は全知全能で、私たちを愛し、私たちの罪を赦し、私たちを助け、病すら癒して下さる方です。この方に私たちは「ほめたたえる」こと位しかできることはありません。また「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」とあります。弱い私たちは主の恵みを受け続けるために、主のしてくださったことを忘れてはならないのです。では忘れないために何をすれば良いのでしょうか。忘れないために有効なのが「主をたたえる」ことなのです。

私たちはダビデが勧めているように、これからも主をたたえ、讃美しつづける者でありたいものです。主の恵みを忘れないために、そして恵みを受け続けるために。主はほめたたえられるべきお方です。

 
 
 
  

[メッセージ要約]

「愛と力の大祭司」   ヘブライ人への手紙4:14~16  2014年7月6日

 

 ここに出てくる大祭司とは、民の代表として神の前に罪の赦しを頂くためにいけにえをささげる儀式を行う人です。その他、神の意志を告げる役割もしていました。つまり神と人の間に立つ仲保者でありました。今から2000年前にイエスキリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかって下さいました。イエス様は完全な真の大祭司となられたのです。そして今も私たちの罪を負い、神と人との間に立って下さっています。

この大祭司イエスキリストは神の子でありながら人間として歩んでくださいました。ただ私たちと違ったのは罪をもっていませんでした。罪は私たちに死をもたらします。イエス様は罪が無いので死に打ち勝つ方でもあります。また罪ある人間は弱い者です。一方罪の無いイエス様は強い方です。また私たちと同じ人間としてこの大祭司は歩んで下さいました。同じ体験をされたこの大祭司は私たち弱い人間に同情して下さるのです。には「同じ」というのは親近感を産みます。「出身」「趣味」「世代」「職業」「過去の体験」など同じというだけで親近感は増すのです。「同病相憐れむ」という言葉もあり、病気ですら同じであれば親近感が湧くのです。つまりこの真の大祭司は私たちを贖う強い方で、親近感をさらに超えて愛して下さる方なのです。

私たちを愛して下さり、強い力を持ったこの大祭司イエスキリストには、私たちのすべてをお任せしてかまわないのです。ヘブライ人への手紙の著者は4章16節を見ると、助けを得るために、大胆に大祭司イエスキリストに近づこうとすすめています。今よりももっともっと思いきってイエス様にゆだねて歩みましょう。