過去を振り返る5つの思い出

【小さい歳ちゃんのお兄ちゃんになってみよう企画】

こちらのお話はパラレルですので、土方兄弟の年齢が少しおかしいですがご了承ください。

モドル

土方:

名前:

01) はじまりは、この桜の木の下でした。

02) 一目惚れ、だったんだよ。

03) 貴方に出逢えて、本当によかった

04) 忘れられない

05大好きでした。

 

Rhythm 様

こちらからお借りしました。

 

 

 

 

 

 

 

春になれば決まって思い出すことがある。

遠く離れた場所に奉公に行った兄のことだ。

 

土方歳三は、土手に寝転び煙管をふかしながら、ぼんやりと思い出していた。

 

 

01 はじまりは、この桜の木の下でした。

 

 

初めて彼と出会ったのは、いくつの時だっただろう?

もう覚えてはいない。

しかし、ずいぶんと小さなころだったと思う。

その時まで歳三は、自分にもう一人兄がいることなど知らなかった。

彼と初めて出会ったのは、この多摩川の桜並木の下――

それから共に過ごしたのは、わずか二週間足らずだったが……

今でも忘れられない、掛買いのない思い出だ。

 

兄の名はと言った。

名は体をあらわす、というが。

名前のとおり柔らかな――凛とした雰囲気の青年だった。

(今となっちゃあ、俺のほうが年上かもしれねぇが……)

記憶の中の兄はいつまでたっても老いることなく、柔らかく微笑んでいる。

歳三は目を細めると、後から後から降ってくる桜吹雪を見た。

 

彼と初めて出会ったのは、今日のように晴れた日のことだった。

 

朝から家は何やら騒々しく、大人たちは皆ばたばたと楽しそうに走り回っている。

(おきゃくさんでも来るのかな?)

聞きたくても皆忙しそうで、聞ける雰囲気ではない。

女中たちはニコニコと皆上機嫌で掃除に精を出し、薄暗いはずの家の中が急に明るくなったような感じさえする。

逆に喜六は――というと、苦虫を噛み潰したような顔をして、腕を組んで苛々と部屋を歩き回っている。

この温度差は何だろう?

機嫌の悪い喜六に近寄れば怒られそうで、そっと歳三は襖を閉めると所在投げに廊下を歩き回った。

 

喜六の妻、なかを見つけた。

なかは不機嫌な夫から距離をとるように真逆の部屋で、こちらも楽しそうに襷を掛け手ぬぐいをかぶって用事をしている。

 

座敷の掛け軸が、季節のものと取り替えられた。

花入れの花が、新しいものに変えられる。

 

これから来るのは、そんなに大事な客なのだろうか?

普段とは違う大人たちの様子に、歳三は首をかしげると長兄為次郎の部屋へ行った。

 

「兄ちゃん」

「……歳三か」

兄だけは自分の相手をしてくれるだろう。そう思ったのに!

見れば、為次郎でさえも余所行きに着替えているではないか!?

歳三は驚いて兄の足にガシリとしがみついた。

誰が来るのかは知らないが。

まるで家中の者が取られてしまったような気がして気に入らない。

誰が来るのか、自分だけが知らないのが悔しい。

 

まるで取られまいというように、全身でしがみつく歳三を見て、為次郎は苦笑した。

柔らかな髪の毛をなだめる様に撫でて、歳三を腕に抱き上げる。

全身で自分を取られまいとふんばる歳三がいじらしく、かわいかった。

為次郎に抱き上げられた歳三は、兄の首にふっくらとした腕をきゅっと回して、しがみついてくる。

どうしてこの弟を家にひとり残していくことができるだろう?

「歳三。お前も一緒に迎えに行くか?」

問いかけると、歳三は兄の首筋に顔をうずめたまま、拗ねたような口調で返した。

「――だれを?」

「お前の兄を」

「だいさく兄ぃ?」

「いや、だ」

「……?」

初めて聞く名に、歳三が顔を上げた。

こてりと首をかしげて、為次郎の顔を覗き込む。

「そうか。お前は知らなかったか」

自分にとっては大切なもう一人の弟。

歳三にとっては

はお前のもう一人の兄だ」

その答えに歳三は大きな目を丸めた。

 

は歳三が物心着く前に、遠く離れた香の老舗に奉公に出された。

筆不精で何の便りもよこさないせいで、家でもあまり話題に上ることはなかったが。

今日帰ってくる、そう聞いて歳三は合点した。

朝から皆の様子が騒がしかったのは、そのせいだろう。

「迎えに行くの?」

杖を手にするため次郎に聞くと、是という応えが返ってきた。

「おれも いっしょに行く!」

見たこともない兄に、僅かな対抗心を燃やして歳三は為次郎の襟をきゅっと握り締めた。

 

 

 

 

家にいるときはわからなかったが。

外はうららかな天気だった。

兄の片腕に抱かれ、多摩川沿いをまっすぐに歩く。

春の日差しに川もが反射しまぶしい。

土手では菜の花が揺れ、

ひとつ、ふたつ。

その中に埋もれるようにして生える土筆を数えながら、歳三は兄の腕に抱かれてゆったりと行く。

 

空はぼんやりと薄い雲がかかり、時折風に乗って桜の花びらが飛んでくる。

白みがかった薄いピンクの山桜の花びら――

為次郎の紙に落ちてきたそれに、小さな指を伸ばしたとき――!

 

サァッ――

 

風が吹いた。

土手沿いに咲いていた桜が、いっせいにそよぐ。

風にふんわりと香るのは桜の香りと――

濃い伽羅の香り。

 

為次郎が呼ぶ。

その声に歳三はゆっくりと顔を上げた。

 

桜吹雪の中――女とも見まがうばかりの美しい青年が歩いてくる!

 

薄い生成り色の着物の下に、青味がかった薄灰色の着物を粋に重ね、群青色の半襟を覗かせている。

風に乱されるのは、黒々とした癖のない長い髪――!

何ときれいな人だろう。

幼いながらも目を奪われ、歳三は呆然とを見つめた。

 

 

 

まるで、桜を具現化したような――

 

春になれば決まって思い出すことがある。

 

「歳三……?」

甘やかな声でそう自分の名を呼び――ふわりと笑んだ

兄ぃ……」

 

美しい兄。

のことを。

 

 

2009.8.6

 

 

余談ですが、着物の下に着物を重ね着するのをタケノコと言います。

土方さんのお母さんについては諸説ありますが、ここでは歳さんの物心付く前に亡くなっている設定でいきます。

 

 

 

 

<夢主視点>

 

02 一目惚れ、だったんだよ。

 

弟相手にこんなこというのも変だけど、さ。

一目ぼれだったんだよ。

 

俺が家を出たのは11の時。

歳三はまだ赤ん坊だったから。

再会したときは、とても驚いた。

だってそうだろ?

話には聞いていたけど、こんなに大きくなってるなんて、思わなかったんだから。

 

赤ん坊のときから愛想がよくて、いつも上機嫌にニコニコと笑う歳三だったけど。

今は為次郎兄者の腕に抱かれて、顔を半分兄者の髪にうずめて、はにかんだ様に笑っている。

それを見た時、離れていた時実感したんだ。

 

 

子供の頃の俺は、歳の離れた小さな弟が大好きで大好きで。

いつも暇を見つけては弟の部屋へ行って、構い倒していた。

歳三は小さな不思議な生き物みたいで。

ふわふわと柔らかくて、抱きしめるとミルクのにおいがした。

広い部屋の真ん中に、小さな布団がひかれてて。

その上に大事な宝物みたいに寝かされているんだ。

 

歳三はいつも笑ってて、こんなに可愛いのに。

母さんを知らない――。

それを思うと可愛そうで……。

きっと幼いながらも、おれは自分が歳三を守らなきゃって思ってたんだろう。

歳三の横に寝転んで、小さな手をつつきながら、母さんが大作に歌っていた子守唄を思い出して歌う。

ゆったりとしたリズムに、いつの間にかおれも歳三と一緒に眠ってしまって、気が付いたら誰かに布団を掛けられている。

そんな日常だった。

日のあまり差さない暗い部屋に歳三が一人でいるのを見るのが寂しくて、おれはいつも歳三にべったりと引っ付いていたんだ。

きっと。

おれ自身も寂しかったんだと思う。

家は喜六兄者がいるおかげで何とかなったけど。

父さんに続いて母さんまでもが死んじゃって。

寂しくて、辛くて――

心の中がぽっかりと穴が開いたみたいに、どうしようもなく……不安で……

 

だけど平和に眠る歳三を見れば、そんな気持ちいっぺんに吹き飛んだんだ。

びっくりするくらい小さな指で、おれの指をきゅっと握って、声を上げて笑う歳三が、涙が出るくらい愛おしかった。

 

 

だから……

突然の別れは、本当に辛かったんだ。

 

おれは家督を継ぐわけじゃないから、いつまでも家にはいられない。

老舗だかなんだか知らないが、辛気臭い香屋に奉公に出されることが決まって、ガツンと後頭部を殴られたみたいな衝撃を受けたんだ。

歳三と離れなくちゃいけない。

この家を出なくちゃいけない。

一人で――知らないところで生きていかなくちゃいけない……

 

その日は何も知らない歳三を抱きしめて過ごした。

 

何も知らないお馬鹿な歳三。

誰かがいなくちゃ生きていくことだってできない、可愛い小さな権力者。

兄たちにその気がないのはわかっていたけど!

……捨てられたような気がして……

悲しかったんだ。

 

寂しくて悔しくて悲しくて。

唇をかんでぎゅっと歳三を抱きしめると、歳三ははおれの腕の中で、むずがるような小さな声を上げた。

 

起きたかな……

焦って顔を覗き込むと、歳三はのんきな顔をして眠っている。

 

ばかだなぁ。

小さなおれの弟。

寝顔にささくれ立っていた気持ちが、棘がしおれていく。

ふくふくとしたほっぺたをつつくと、歳三はいやいやというように頭を振った。

愛らしい姿に笑みがこぼれる。

 

「おまえは。おれがいなくても、平気……?」

おれは寂しくて死んじゃいそうだけど!

 

いずれ家を出なくちゃいけないのはわかってた。

それが、決まっただけのこと!

「このまま、おまえと一緒にいたいけど……」

歳三が別れを理解する前に、出て行かなければ。

「……寂しいけど……おれのことは忘れていいよ」

父を、母を亡くした時のような、あんな痛みは歳三には味わってほしくない!

柔らかな子犬のような前髪を上げて、口付けを落とす。

 

寂しいけど。

おれのことは忘れてね。

歳三にはいつも笑って暮らしてほしい。

 

身を切るような思いで家を出たけど――

 

 

一日だって、お前のことを忘れたことはないよ。

 

 

 

時々、為次郎兄者から文はもらっていたしね。

筆不精なおれは一度も返事を出したことはなかったけど。

その手紙には歳三のことがよく書かれていて……

おれは歳三の成長を思い浮かべては、郷愁の念にかられていた。

 

会いたくて、会いたくて。

ついに我慢ができなくなって。

おれはわざと粗相をした。

長期の休暇なんて、貰えそうになかったから。

こうしたら帰れるんじゃないか、って思ったんだ。

 

案の定、店の主人は怒ってさ、おれに暇を出した。

ごめんね。

でもおれ、歳三に会いたかったんだ!

罪悪感は痛んだけど……歳三に会えるって思ったらいてもたってもいられなくて。

おれは故郷への道を走った――!

 

 

小さなおれの弟は、おれのことを覚えてる?

僅かな期待に胸を躍らせながら、多摩川を土手沿いに走る。

 

風にいっせいに舞う桜吹雪を手で払って――

為次郎兄者を見つけたとき――

おれは満面の笑みを浮かべて、兄の名を呼ぼうとした。

 

(あれは……)

為次郎兄者の腕に抱かれているのは――!

小さな愛しい存在に、鼓動が飛び跳ねる。

「歳三……」

思わず口をついて出た名は、情けなく震えていて……

おれは記憶の中よりずいぶんと大きくなった弟に、じんと目頭が熱くなった。

歳三。

おれの弟。

その姿に、心が早く、早くと急かす。

一歩を歩くのももどかしい。

だけど――

走るのも気恥ずかしくて……おれは心を落ち着かせるために、こっそりと深呼吸して、わざとゆっくりと歩いた。

 

 

 

「ただいま。為次郎兄者。……歳三」

名を呼ばれて、びくりと肩を跳ね上げた愛しい存在に、知らず笑みが浮かぶ。

歳三は為次郎兄者の首にしがみついて、もじもじとしていたが、柔らかな髪の毛に手を伸ばすとはにかんだ様に囁いた。

「……おかえり。兄ぃ」

 

 

2009.8.6

  

 

 

 

 

03 貴方に出逢えて、本当によかった

 

 

が家に帰ると、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

まずの姿を見た女中が黄色い悲鳴を上げ、その声に誘われるようにあっという間に女達が集まってきて、玄関に顔を出す。

口々にの帰りを喜ぶ女中たちにが愛想よく答えると、また黄色い悲鳴が上がる。

喜六はその声が聞こえているにも関わらず、部屋を歩き回っていたが――足音が近づいてくるのにハッと気が付くと、仏頂面を作って文机の前にドカリと座り込んだ。

 

「ただいま戻りました。喜六兄さん」

部屋の前に正座して頭を下げるに、

「入れ」

低い声で入室を告げると、は心配そうに己を見上げる歳三の頭をぽんと叩いて、喜六の部屋へ入った。

 

「――あ」

閉じられた障子に歳三が思わず小さな声を上げる。

どうしよう。

歳三は為次郎の手を引っ張ったが、彼は苦笑するだけで何も言わない。

(喜六兄さんはこわいのに)

あの細くて優しそうなは、喜六に怒られると泣いてしまうかも知れない。

心配でおろおろとする歳三をおかしそうに見ると、為次郎は手を引っ張って歩くのを促した。

「行くぞ」

「で、でも……!」

は大丈夫だろうか?

手を引かれながらも何度も振り返る歳三に、為次郎が笑いをかみ殺す。

 

「あら、為次郎義兄さん、歳三さん」

廊下の向こうから歩いてきたなかは、二人を見て全てを悟ると微笑ましそうに笑って、手招きをした。

 

「喜六とは大切な話をしているから」

為次郎の言葉に空返事をして、なかの淹れてくれた茶を飲む。

物心付いてから初めて会った兄は、まるで美しい女性のようで気恥ずかしく、どういう風に接したらいいのかわからない。

だけど、放っておけなくて――離れたくなくて……。

なにやら思案顔で、音を立てて茶を飲む歳三の頭を小突くと、為次郎はため息をついた。

「なぁ、為次郎兄ちゃん。は本当に兄ちゃんなのか?」

歳三の問いに、為次郎が顔をしかめる。

「お前は覚えていないだろうが、あいつは確かにお前の兄だ」

「ふーん……」

あんなにきれいな顔をしているのに、「兄」だなんて……。

為次郎の膝に座って、ぱたぱたと足を揺らしながら悶々と考えていると、喜六の部屋から怒鳴り声が聞こえてきた。

「……ッ!」

自分が怒られたわけでもないのに、ビクリと歳三の肩が揺れる。

思わず茶をこぼしそうになった歳三の湯飲みを危機一髪で支えると、為次郎はなだめるように歳三の腹に回す腕に力をこめた。

 

喜六が怒っている。

あの鬼のような形相を思い出して青くなる歳三になかは苦笑すると、為次郎の手から歳三の湯飲みを受け取って、机の上に置いた。

「ああ見えてあの人はやんちゃだから」

「やんちゃ?」

美しい兄とその言葉が結びつかない。

兄は何をやったのだろう?

驚く歳三になかはくすくすと笑うと頷いた。

「きっとすぐに仲良くなれますよ」

だって、昔はあんなに仲がよかったのだから。

さんは、歳三さんが大好きですからね」

 

なかの言葉に、歳三は赤くなった。

――ほんの少しだけ、兄との距離が短くなった気がする。

なかの言葉に同意するように、ぽんぽんと頭を叩いてくれる為次郎に背を押された気がして。歳三は為次郎の膝からひょいと降りると、

「おれ、のところに行って来る!」

嬉しそうに言って、走っていった。

 

 

喜六の怒鳴り声が、近くなってくる――!

 

が出てきたら、何て話そうかな。

わくわくと心を弾ませながら、歳三は中の声に耳をそばだてた。

 

障子に映った小さな影に気が付いて、喜六がのお説教をやめるのはもう少し――。

 

 

 

 

 

 

やっと開いた障子にぱぁっと満面の笑みを浮かべて、歳三はに飛びついた。

「――姉ちゃん!」

「って、姉ちゃん!? と、歳三、おれは男だよ!」

「あ、間違えた!」

 

 

2009.8.6

 

  

 

 

 

 

 

04 忘れられない

 

 

その夜、従兄の彦五郎の家に遊びに行っていた姉、らんが彦五郎と共に急いで帰ってきて、土方家は一気に宴会モードになった。

を見た瞬間、ぱぁっと花の咲いたような笑みを浮かべ、らんが両手を広げたに飛びつく。

その後ろで彦五郎が笑いながらに何かを告げて、肩に腕を回してじゃれている。

 

歳三は為次郎の腰にひしりとひっついたまま、少しはなれた所でそれを見ている。

何も今更また人見知りしなくてもいいものを……

為次郎は歳三を案じるように肩に手を置いていたが、小さい弟は輪に入ることなく唇をかんで楽しそうにじゃれあう三人を見ていた。

 

 

料理が運ばれ、酒が出される頃にはすっかりと喜六の機嫌も直り、上がり目気味の細い目を更に細めて、楽しそうに声を上げて笑っている。

彦五郎は為次郎の膝から歳三を持ち上げてを囲む輪の中に戻ると、むずがる歳三を自分の膝の上に座らせた。

と一対一ならまだしも。大勢の中で楽しそうに笑う彼に、何と話しかけたらよいのかわからず俯く歳三に、が腕を伸ばしてくしゃくしゃと髪をかき混ぜる。

「大きくなったなぁ……」

懐かしそうに、しみじみと目を細めて言うに、胸がじんわりと熱くなって歳三はあわてて彦五郎の着物に顔を隠した。

隠れてしまった歳三に、が残念そうな声を上げる。

なぜかそれに罪悪感を感じて――ちらりと顔を上げると、嬉しそうな顔をすると目が合って、歳三は恥ずかしそうに下を向いた。

のことは覚えていないはずなのに……。

彼の瞳がひどく温かくて。

彼の包み込むような雰囲気が、懐かしくて――

なぜか、無性に泣きたくなって困った。

表面上は忘れてしまっていても、きっと心の奥では覚えていたのだろう。

兄に慈しまれていた幼い頃――

仕事で忙しい大人たちに、部屋に一人で寝かされ、人恋しさに声を上げても誰も来てくれなかった赤ん坊の頃――

天井に向かっていっぱいに伸ばす歳三の手を取って宥めてくれたのは、いつもだった。

 

ずっと離れていたけれど――

の目は変わらず、深い慈しみにあふれていて、歳三が大事だと雄弁に語っている。

言葉より確かなそれを、幼い敏感さで読み取り、歳三はじんわりと浮かぶ涙を慌ててごしごしとぬぐった。

眉尻を下げ、顔をくしゃりとさせて必死で涙をこらえる歳三にいてもたってもいられず、が腕を伸ばして歳三を抱き寄せる。

 

暖かく大きな胸に抱き寄せられ、歳三は必死での衿元を握り締めた。

 

とても大切なものをずっと忘れていたけれど――

やっとこの手に戻ってきたような気がして……

 

もうこのぬくもりを放したくはない。

しっかりと抱き合う二人を見て、

「相変わらず歳三と兄さんは仲がいいのね」

うらやましそうに唇を尖らせて、らんが言った。

 

居間の中は途切れることなく皆の幸せな笑い声が響いていて。

歳三はの首筋に顔をうずめると、彼の膝の上に立ったままきゅっと抱きしめた。

の髪は、甘い白檀の香りがした。

 

 

  

2009.8.6

 

 

 

 

 

05 大好きでした。

 

 

一緒に桜を見に行って。

土筆を取って。

歳三は思いつく限りのことをして、と遊んだ。

 

花冷えがして寒いからと言い訳をして、夜は一緒の布団で眠って。一緒に風呂にも入った。

 

初めの人見知りが嘘のように歳三はに懐き、は歳三を可愛がった。

 

 

――ずっとこんな日が続くと思っていたのに……

 

 

歳三はぐずぐずと鼻をすすりながら、の足にしがみついていた。

どうやら兄はもう帰らなければならないらしい。

家に香屋の番頭がわざわざを迎えに来たのだ。

 

と店との間で何があったのかは歳三は知らなかったが。

は店をやめて家に帰ってきたのではなく、何か問題があって一時家に戻っていただけだという。

泣きながらの足にしがみつく歳三と、後ろで必死に涙をこらえながらと番頭を交互に見るらんの姿に、まだ若い番頭は困り果てて頭をかいた。

二人の小さな姉弟には悪いが、は店にとってもなくてはならない存在だ。

彼がいなくなったとたん、女性客からの苦情が山のように届き、ぱたりと客足が途絶えた。

店の売り上げにがどれだけ貢献していたかまざまざと見せ付けられ、番頭は店の主人に言いわれわざわざ遠い道のりを歩いて迎えに来たのだ。

連れて帰らないわけには行かない。

聡いらんもそれがわかっているから、歳三のように駄々をこねることができない。

は痛々しげに眉をひそめると、泣きじゃくる歳三を足から放して膝を付いて彼の涙をぬぐってやった。

「らん」

後ろで固唾を呑んで成り行きを見守る妹を呼んで、こちらも抱きしめてやる。

小さな体をぎゅっと抱きしめてやると、とうとうらんも小さな啜り泣きをあげた。

そんな二人にもぐっと胸がつまる。

 

幼かったあの頃――

父と母を亡くして泣いてばかりだった自分がよみがえり、幼い頃に肉親と別れる辛さを思い出して胸が痛んだが……

帰らないわけにはいかない。

 

はらんと歳三の額に一つずつ口付けを落とすと、立ち上がった。

兄ちゃん!」

涙声で叫んで歳三が腕を伸ばす。

 

ああ、これだから――

 

は苦笑した。

小さな歳三にこんな顔をさせたくなかったから――

幼い日の自分は、彼の物心付く前に分かれることを喜んだのに。

 

幼い日の自分の記憶がよみがえって、は目を細めた。

 

(大事なおれの家族)

別れの痛みなんて、味あわせたくなかったのに。

でも。

もう忘れてほしいとは思わない。

 

「また、会えるよ」

すぐに会えるよ。

だって自分は、何もできない子供だったあの頃は違うんだから。

「会いに行くよ」

きっと。

「だから――忘れないでね。らん。歳三――」

やんわりと笑んでそういうと、二人の姉弟は、目にいっぱいに涙を浮かべて一生懸命に頷いた。

「さぁ、もう行かせてやりなよ。らんちゃん、歳三」

なかなか袖を離してくれない歳三を見かねて、彦五郎が二人を抱き寄せる。

「歳三も。男ならこういう時は笑って送り出してやるもんだ!」

からりと笑いながら言う彦五郎を見て、歳三は急いで涙をぬぐうと、うんと頷いた。

「またね! 兄ちゃん!」

一生懸命泣くのをこらえた真っ赤な顔で歳三が言う。

「もう帰ってくんなよ!」

歳三は仕事を投げ出して帰ってくるな、と言いたかったのだろうけど。

その言葉にちょっとだけ凹んで、は力なく笑って頷いた。

 

 

 

 

あれから何年経っただろう――

 

(本当に一度も帰ってこねぇんだもんな……)

歳三は渋面を作って、紫煙を吐き出すとゆったりと流れる雲をにらみつけた。

兄はどうやら筆不精なたちらしく。また自分も奉公先にいる兄になんと手紙を書いたらいいのかわからず。

それからののことは、何もわからない。

 

ただ。

昔と違って、思い出したように時々食卓にの話題が上ったが。

のことだ。どうせ旨くやってるだろう」

喜六のそのせりふで、いつもその話題は終わった。

 

今どうしているのか。

いくつになって、どんな大人になったのか……

 

記憶のなかの兄は、若いまま老いることはない。

(すぐに会えるって言ったくせによ……)

面白くない。

歳三は風に飛ばされる桜の花びらをつかむと、

「よし!」

何かを思いついたようにニヤリと笑って、立ち上がった。

(会いにこねぇってんなら、俺が会いに行ってやる!)

子供の足では遠い道のりも、今では歩いていける。

 

きっと兄は驚くだろう。

もしかしたら――自分のことを弟だとわからないかもしれない。

それなら客のふりをして――それから驚かしてやろう!

数年ぶりに会うことに、もう不安はなかった。

自分が兄を見まがうことなど、ありえないからだ!

 

歳三は着物についていた草を払うと、大きく伸びをした。

兄はどんな反応をするだろう?

考えるだけで楽しくなってくる。

 

「待ってろよ! 兄ぃ!」

小さくつぶやくといっそう期待は大きくなって――張り裂けそうな高揚感に、歳三はニィと笑って全速力で駆け出した。

 

 

空はどこまでも青く――

桜の梢を揺らす風は、甘い染井吉野の香りがして……。

風を胸いっぱいに吸い込むと、歳三は勢いよく大地をけった。

 

春の風は、まだわずかに冷たさを含んでいて――

微かに……兄の白檀の香りがしたような気がした。

 

 

2009.8.6

 

 

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