JACK番外編。

クレヨン。
 「ー―おや」

開けはなした窓から風が入ってきて、シュシュコは編み物の手を止めて、窓の外を見た。

 

朝、8時30分。

初夏の風は夏を思わせる熱を含み、濃い潮の香りと窓辺の花の匂いがする。

 

「ー―おや」

シュシュコは窓の外に、白い長いヒゲをたくわえた老人を見つけて、心底驚いたように目を見開いてポカンと彼を凝視していたが、すぐに編み物を置くと

「――びっくりしたねぇ。あんたが私に会いに来てくれるなんて、サ。さぁさ。そんな所につったとらんと、中にお入りね」

さも嬉しそうに動作さえきびきびと、しわだらけの顔をくしゃくしゃにして外にいる老人を迎えるべくドアを開けた。

 

 

 

クレヨン


 

 

 

その老人の名前はクレソン、といった。

細く筋張った手に痩せたからだ。

穏やかな顔には静かな微笑が浮かんでいて、深い笑いジワが刻まれている。

年は ―― もういくつだか想像もつかない。

瞳は子供のように澄み切り、深い知性を湛えた静かなものだった。

ヒゲやまゆ毛はもう真っ白になり、長く仙人のように白く長く下にたらしている。

頭に髪はもうなく、痩せて日に焼けた細長い顔をしていた。

シュシュコはクレソンを椅子に座らせると、ヤカンに火をかけて彼に背中を向けたままお茶の用意を始めた。

 

部屋の中は薄暗く、夏を思わせる初夏の香りがする。

遠く海辺で鳴いているのだろう。カモメの声と、漁船のポンポンという音が聞こえた。

窓辺に置いた魔法に使う黄色いタンポポに似た花は、微風に重たい頭を揺らし庭の草がいっせいに風にそよぐ、ザァ ――という音が聞こえる。

火にかけたやかんの口からは白い湯気が上り、緩やかに天井に向かって立ち上っている。

シュシュコはティポットにお茶を入れながら、皺だらけになった自分の手を見つめた。

 

クレソンとの間に会話はない。

 

ただ二人で同じ空気を共有している、という充実感があった。

静かな ―― 時さえ忘れてしまいそうな室内に。

心が懐かしさにいっぱいになる。

 

クレソンと会うのは、もうどれ位ぶりだろう?

余りにも長い時間がたちすぎて。

余りにも遠く二人はなれてしまって。

こうして。

また会えるとは思ってもいなかった。

 

クスリ。

 

こんな風に笑うのは少女の頃以来だ。

穏やかに瞳を細めて。

シュシュコはすすけた暖炉の壁を見つめて。笑みを漏らした。

二人が出会ったのは、もういくつだったのかも覚えていない幼い頃。

気が付いたら友達になっていて。

気が付いたらいつも一緒に遊んでいた。

クレソンはシュシュコよりも10年上で。

いつも

「兄サマ」

と呼んでは彼の腰にしがみついていた。

 

自分は子供で。

他愛のないことに笑ったり。泣いたり怒ったり。

他愛のないことがとても大事で。

わがままで頑固なきかんきの子供だった。

 

私がいうコトを聞くのは、兄サマの言うコトだけ。

兄サマは魔法学校の生徒で。私は魔法使いに憧れるただの子供だった。

私は兄さまのことが好きで。とても大好きで。

いつも一緒にいられると思っていたから、こんなに早く別れる日が来るとは思ってもいなかった。

兄サマは魔法学校を卒業して、本格的に魔法使いになるため上級学校に行くことになった。

 

「あの学校に行くのはとても難しくて。クレソンがそこにいけるのは才能があるからなんだよ」

「自分の力を試すために。自分の夢をかなえるためにクレソンはいくんだから。邪魔をしちゃいけないよ」

 

どうして皆そんなコト言うの?

兄さまが行くのは魔法使いの学校。魔法を使える人しか行くことの出来ない、全寮制の学校。

 

どうして皆そんなコト言うの?

あの頃の私はとても子供で。

兄さまを笑って見送るなんて、とてもできなかった。

 

兄サマは私よりも10年上で。

私は子供 ……。

私は泣いて泣いて泣いて、部屋に閉じこもって。

泣いて。

私は兄サマと二人で描いた絵に、真っ黒のクレヨンをぐちゃぐちゃと塗った。

元は何が描いてあったのかわからない位、真っ黒のクレヨンで全部真っ黒にして。

―― そして今度はその絵を見て、自分のしたことを後悔してまた泣いた。

 

 

「シュシュコ」

兄サマの声がする。

時計を見たら、もう兄サマがこの街を出て行かなきゃいけない時間になっている。

「シュシュコ」

もう …… 会えなくなっちゃう。

引き止めたくて。

だけどできなくて。

何を言ったらいいのか、子供の私は言葉を知らなくて。

だけどこのままこうしていたら、絶対に後悔することだけはわかった。

「シュシュコ」

ベランダで兄サマの声がする。

「兄サマ ……」

私は涙を拭う ことさえ忘れて、走って ――

夢中で窓に向かって ―― 机で足をぶつけながら走って。

カーテンを開けた。

 

「―― コンニチワ」

そこにいるのは魔法使いのローブをまとって、片手に箒を持った兄サマ。

「コンニチワ ……」

兄サマに返したらまた涙がぽたり、と筋になって落ちた。

「―― 行っちゃうの?」

「うん」

「行っちゃうのね?」

「……うん」

兄サマは困ったようにまゆ毛をハの字にして、クシャリと私の頭をなでた。

 

何を言ったらいいのか。

 

私は言葉を知らない。

「行かないで」

喉の奥にその言葉だけが引っかかっているから。喉がつんつんと痛い。

私は真っ黒に塗りつぶした絵を思い出した。

自分で消してしまった兄サマとの思い出。

兄サマは私の前にいるけど。

私の知らない格好をして、急に大人になったみたいに遠くに行ってしまう。

私の知っている兄サマは、私の消した絵と一緒に消えてしまった気がして、私は声を上げて大声で泣いた。

 

「シュシュコ」

兄サマは困ったように私を抱きしめて。

本当は兄サマも子供だったから。きっと言葉を知らなかったんだ。

私たちは二人。

何を言ったらいいのかわからなくて――ただお互いを抱きしめて、胸の痛みを堪えていた。

 

「―― 時間だ」

兄サマが私を突き放す。

「もう行かなきゃ」

「―― サヨナラ」

「サヨナ ラ……」

兄サマは私のおでこに。そっと大人みたいにキスをして。

私は兄サマが空を行くのを、見えなくなるまで見送った。

 

 

「あれから一度も連絡もくれなくて。あれから一度も会えなくなるなんて、思いもせんかったよ」

しわがれて年をとった自分の声に。

離れていた月日を思い出す。

「お互いにこんなに老いぼれてしもうて……」

クツクツと喉の奥で笑うと、クレソンも静かに空気を揺らして微笑んだ。

 

あの後 ――。

クレソンが出て行った後。

真っ黒に塗った絵を見たら。

透明なペンで、黒いクレヨンを引っかいたような字の手紙が残っていた。

真っ黒に塗った絵。

そのクレヨンを削って、文字が刻まれているから。

下に描いた絵の色が浮かび上がって。

真っ黒の紙に、色々なペンで字を書いたみたい!

 

コポコポ……

シュシュコは音を立てて茶を注ぐと、ティーカップをクレソンの前に置いた。

「あれから ―― ワシも魔法使いになったんじゃ …… 結婚して、孫達にも恵まれた」

クレソンは静かに口元に笑みを浮かべて、カップに口をつけた。

シュシュコはお茶のぬくもりを手のひらで楽しむように、両手でカップを包み込むと

「噂じゃあ ―― 兄サマは ……」

少し、兄サマという言葉をはにかみながら口にすると、

「死んでしもうた、とか …… 誰か高名な魔法使いの弟子になったとか …… 色々言うのを聞いたもんサ」

シュシュコは顔を上げると、目を細めてクレソンを見つた。

「今までワシを忘れとった酷い男じゃと思ぅとったが ……」

空気が ―― 温かく流れる。

「もうええ。こうして会いに来てくれたから。もうこれでええ」

琥珀色の水面が揺らいで。

シュシュコは目を閉じた。

 

朝 8時40分。

初夏の風は夏を思わせる熱を含み、濃い潮風の香りと窓辺の花の匂いがした。

「いつだってワシはあんたを忘れたことはなかったよ ……」

シュシュコは目を開けると、いつのまにか主のいなくなった椅子を見つめた。

「なぁ ――」

クレソンはこうして――

自分を忘れず最後に会いに来てくれたのだから。

クレソンの飲んだ紅茶は、一口も減っておらず湯気を立てていた。

そこに誰かが揺らしたような波紋が浮かぶのを見つけて、シュシュコは目を細めて静かに静かに微笑を浮かべた。

 

 

もうすぐ夏が来る。

カモメがしきりと鳴いている。

シュシュコは目を閉じると、紅茶を両手に包んだまま懐かしい思い出に、一筋だけ涙を流した。

 

拍手どうもありがとうございます!!

今回のSSはシュシュコ!

アンケートでシュシュコに1票入れてくださった方! ありがとうございます。皆様の拍手でいつも勇気付けられています。本当に感謝感謝です〜★

 
一体いつ書いたのか見当もつかない古い作品ですが…。
発掘したので公開します。
JACKの番外編です。