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I氏の一日

 ワイワイ、ガヤガヤ・・ワイワイ、ガヤガヤ。

 都会の夕方には、奇妙な虫が鳴く。
 虫の居所が悪いんだって?何を言っているんだ。

 キャイ、キャイ、何やら脳天を突き刺す、高い波長の音色も聞こえるではないか。しかし、それでいて何やら惹きつけられる様な可愛い、楽しそうな音色だったりして・。

うろうろ、きょろ、きょろ。変な虫・・いやいや、何か変なおじさんがこちらへ歩いて来るではないか?。

 「何だ?田舎者か・・」

さっそく、登場するのはご存じ都会のごみ虫、地回りのやっちゃん。鴨が来たなってんで、近づく。このやっちゃん少し近眼だ。眼鏡はこのいかつい顔には似合わない。サングラスは余りにそれ過ぎて駄目だから・・、色々この稼業は大変なんだって・・でも、そんな事どうでもいい。その近眼の目付きの悪さを更に、醜く白目加減にして、やっちゃんは肩を揺すりながら、変なおじさんにドスを効かせた。

「おう、こら」
「ああ?」

 その声は、162センチのやっちゃんの頭上から聞こえた。

「こっ、こら。て、てめえ」

やっちゃんは慌てた。近眼故の失敗。変なおじさんの身長は185センチはある。眼つけようの無い高さだ。幾ら夜眼と言えども、相手の首の辺りにドスを効かせて、どうしようってんですかい?

「何ですか?」

・・手前え、この辺りで、うろうろするんじゃあねえ。ここの辺りはなあ、手前えら田舎者が遊べる所じゃあねえんだよ・・・言おうと思ったのに、ね。 金をせびるか、旦那いい所へ案内しましょうかって言うのは、相手、TPOで変わるってんだから、困る。得意の因縁こきが、大ぼけをかましてしまったと言う次第であった。さて、前振りはもういい。

 「どうかしたのかね?」

変なおじさんが重ねて聞いた。ぶつぶつ言っているやっちゃんに、大丈夫なのか?と、思っている。

「へっ、へっへっへ。旦那あ、何ね、あっしはこの通り視力が0・2でやしてねえ、どうも人違いでした。」

やっちゃんの切り換えは素早かった。良く近くで顔を見ると、堂々たる体格の彫りの深い、どこかの重役らしい貫録がある。

「もういいかね?私は見て歩きたいのだ。」

流石にこの道のプロ。その一言で、ピーンときたやっちゃんは・・

 「へっへっへ。旦那、どうも済みませんね、お詫びと言っちゃあ何ですが、いい娘が居るんですがねえ」
「何!それは本当か?」

変なおじさんはすけべだったのだ。ところが、この時新たに眼付きの悪い男がそこに加わった。

「こら、ちび六。お前、又売してやがんな」

ちび六と言うのか。似合いの名だ。おじさんはくすくすと笑った。

「めっ、滅相もない。道を聞かれて教えて差し上げていただけですよ。旦那」 「ふん、どうだか、な。そうかね?あんた」

背格好は殆どおじさんと変わらなかった。鬼瓦のような顔をした男だった。さすがのおじさんも少しどぎまぎした。

「は・いえ、その・・」
「いやあ、へっへっへ。あんた。真っ直ぐ行ってすぐ右でやすからね」

やっちゃんに促されて、おじさんは、未練そうにしながらそこを離れた。

「ちっ・」

やっちゃんは舌を鳴らした。せっかくの鴨が。

「ちび六よ。不満そうだな」

大男の鬼瓦が、睨んだ。

「いっ、いえいえ、有明の旦那。さっき食った、もやしいための、もやしが歯にひっかかってやしてねえ。へへへ」

卑屈な笑いで、言い訳をするちび六。

「ふん、いいかちび六、この前のような商売女の紹介なんかしおったら、今度こそ署に連行するぞ、いいな」
「わ、判ってやすよ、旦那。今度は若いんですって」
「何を!」
「へっ、へへへ。旦那、それじゃあ」

ちび六は駆け足で去って行った。

「ちっ、逃げ足だけは早い奴だ。」

さて、話はここまでの事とは全く関係なく始まる。

 好奇心の旺盛な変なおじさん事I氏。この人、やはり、ちび六の眼力どうり地方出身者である。つい、一ヶ月前に都会に移り住んだばかり。田舎は、隣りの家まで数里も離れた辺鄙な、辺鄙な所だったので、3年に一度と言う、村祭り以外に人が集まる機会は無かった。氏の人格を阻害するつもりは全くない。氏は人徳を備えた優しく、純朴な人物だ。ただ、そう言う環境に育った彼は、人との会話が少し苦手だ。ひどい訛があるからだ。氏は田舎の田畑が全く予期せぬ事に、大金脈の眠る地と判り、その採掘権と引き換えに、莫大な大金を手に入れた、シンデレラボーイ、いや、もといおじさんなのだ。現在45歳。勿論独身だ。髪の毛が少し薄いのは仕方ないが、きりっとしまった口、彫りの深い顔。黙っていれば素敵なおじさんであった。

さて・・と。さすがに都会は違うな・・。I氏は綺麗な服を着た、きれーな姉ちゃんに見惚れる事しきり。うろきょろは長年の田舎育ち、女日照りはどうしようも無い。
そして、何と言っても好奇心の旺盛なI氏。とうとうある店の前で立ち止まった。とりわけここからは楽しそうな声が満ちていた。

 店の看板にはこう書いてあった。「ヤング居酒屋一気」・・知らない者の悲しさ。この界隈の者なら誰でも知っている、若い女性の集まる酒場、別名「女酒場」であった。まあ、勇気のある男性諸君と言えど、99%が若い娘で占められているここへは、入って行ける者は、まず居るまい。間違って入っても5分と持たないだろう。当然ながら、メニューは若い娘が喜びそうな物を取り揃え、値段もその回転率の良さから安い物ばかり。何時の頃からそうなってしまったのか、判らないのだが・・。とにかくI氏はそこへ入った。

 「いらっしゃいませ。・・あの、どなたかお呼びですか?」
 若い男子店員は、歯切れよく聞いた。

「いや・」

I氏は答える。

「それじゃあ、ご予約でしょうか?ただ今、忘年会の予約格安期間中でーす。何名様でしょうか?」
「そんなのでは無い。」

撫然としてI氏は答えた。

頭の切り換えの早い店員。女の娘ばかりを相手の商売だ。この位の機転と頭の、回転の良さが要求される。

 「そっ、それじゃあ・察の旦那ですか?や、やだなあ、うちは明朗会計。疚しい事なんてこれっぽっちも」
 「違うと言うのに」

いらいらしながらI氏は言った。能弁でない彼と、機関銃の連射のように言葉がでる店員。

「待ってくださいよ。そりゃあうちは、居酒屋ですよ、若い娘が来ますよ。でもねえ、今の女の娘は発育がいいんだ。ちょっと化粧すりゃ判りゃしませんって。幾ら何でもそこまでチェックしろとは後無体な」
「ば、馬鹿者。酒を飲みたいだけだ。全く・・」
I氏はぶつぶつと小声で続けたが、何を言っているのか店員には判らなかった。 「な、なあんだ。それならそれと」
「最初からあんたが」

言いかけたが、I氏より店員が早い。

「あい済みませーん。どうもです。で?お宅の他に何名ですか?」
「見て判らんのか、一人だ。」
「ぷっ」

店員は吹き出した。

「なっ、何がおかしい。このぶ、無礼者」

I氏は怒った。実は、飲みに出かけるのは今夜が初めてであったのだ。ちなみにI氏は底なしの酒豪とだけつけ加えておこう。

「いっ、いえいえ。ですが、生憎満席でして。それに・・若い女の娘ばかりなので」

ここを知らないで入って来たI氏に、それとなく気ずかせようとした店員だったが、根っからのすけべ・・いや、女日照りのI氏、それを聞いて余計にここで飲もうと思ったのだから、いや、はや、なんとも。

「構わん。」

言い切るI氏。

「しっ、しかし、席が」

予想外の展開に慌てる店員。断るのが賢明と言うものだろうが、I氏はすでにきょろ、きょろ。

 「あそこが開いているではないか」

 I氏が指さす。そこは6人掛けのテーブルに、5人の女の娘が座っている席だった。

「そんなあ、無理ですよう」
「何が無理だ。開いているではないか」

言い出したら聞かないI氏。どうにでも帰ってもらった方がいいと思っている店員。まあ、当然である。

 「だって」
「ええい、ここは酒場では無いか。それに、私の大好物の、鶴亀錦の酒も置いてある。私の大好物なんだ。」

 そう言って、I氏は置物の狸のとっくりを指さした。

 「ああ、あの酒をご存じですか。あれは店長が、旅行した時に手に入れた珍しい酒なんだそうですね。売り物ではありません。」
 「何だ、そうか」

 I氏はがっかりとして言った。

 「だから、お客さん。残念ですが、他所へどうぞ。この辺には幾らでも飲む所はあるんですから」
 「いいのだ。相席を聞いてまいれ」

 「もう・・頭痛くなってきちゃった。じゃあ、聞くだけ、聞いてきますよ。でも駄目だったら他の店で飲んでくださいよ。ここは女酒場って呼ばれている居酒屋なんすから・・」

 ぶつぶつ言いながら店員はその席へ向かった。その間もきょろきょろとI氏は見回していたが、本当に若い女の娘ばかりの酒場であった。

 ぼしょぼしょと、百面相をしながら話す店員。汗をかきかき・・。そして、しばらく後、

 「あ、あのう」
 「どうした、駄目か」
「いえ・・OKです」

 不思議そうな顔をしながら店員は答えた。絶対断られる、そう言う確信があった。それが逆転された不可解だ。全く今夜は変な日だ。店員は首を傾げている。 「OKなら座るぞ。いいな」

 「はっ、はあ。でも他に席が開いたらそちらへ案内しますから、とりあえずと言う事で」

店員の気持ちは、同情的なものに変わっていた。

「たかられるな、この人」

 その場所には、常連のT大学の「酒飲み同好会」と言う、何とも偶然とは思えない大酒飲みの5人組が座っていたのだ。店員が躊躇したのには、そう言う理由もある。若い娘に連れられて、管理職の中年が連れて来られる事は多いが、今夜の様なケースは皆無だった。

 「俺、知ーらない」

 あくまでも軽い店員。まあ、自業自得では無いか。望むべくして相席するんだから。

 「きゃあー、すってっきなおじさまあ」

黄色い声が飛ぶ。

確かに黙っていれば、素敵なおじさまだよI氏。思惑も絡んで、御馳になりたい5人組。さっそく目尻が下がっているすけべなI氏。この、このーとは店員。 「何に致しましょうか?」

すかさず、都会の女の子。

 「勿論、私達と同じものよね、おじさん」
 「私、おかわりしたーい」

 そーら、見ろと店員。たくましいのは女の子。

 「それで、宜しいですか?」

 聞いたのは、同性としての同情である。今なら逃げられるのだ。

 I氏、全く聞こえない。

 「うむ。うむ」

 ・・勝手にしてね。ばーたれ、すけべ。・・・

 英国風のスーツを着て、ごり押しして相席したのだ。下心どころじゃあねえ、そのものズバリのすけべ親父じゃねえか。ここは、デート倶楽部や、いかがわしい所じゃねえんだ。店員は腹の中で毒づいた。財力では到底叶わぬ、中年に対する嫉妬を感じたのだ。しかし、反面若い世代同志、女の娘のしたたかさも、たくましさも十分に判っていた。そういう事は御首にも出さず、商売、商売。安いメニューの中でも高いものから、オーダーをとりもしないのに運ぶわ、運ぶ。女の子の前で、渋朕の顔が出来ないのを見す越した上で。

 一気、一気のコール。ここの酎ハイは、ビールの大ジョッキだ。しかし、さすがの酒豪I氏。

 「す、すごおい。おじさん」

 呆気に取られて、早めに酔わそうと目論んだ、この5人組の中でも中心的な、鶏鶏冠の様な頭のA子。現代的美人である。いささか予定が狂った。

 「強いのねー、おじさん」

 舌足らずの、丸ぽちゃ童顔の可愛いB子。ええい、みんな紹介しちゃえ。

 「やるじゃん、おじさん」

 いささか、芸大風のとんでいるが、色白のC子。

 「すげえ、かっちょいい」

 日焼けで、活発・健康的なD子。  

 「いけるやんか、おっちゃん」

 関西弁だが、長身のモデルの様なE子。

 まあ、揃いも揃ったものだ。全員及第点は充分な女の娘揃いだった。I氏は舞い上がっている。でも、例え武巣でも、美人に見えるんじゃないですかな?万年女日照りであったI氏は、なんて。

 だが、さすがに大学の、酒飲み同好会だなんて、看板を掲げている彼女達。こんなもので許さない。再び一気、一気のコール。氏はまた一杯、又々一杯と、5杯も飲み干してしまったのだから・・。

 I氏、さすがに頬に赤み射した。まあ・・その程度の彼にとっては量であった。唖然、茫然、彼女たち。人間じゃあねえぞ、と、ぼしょ、ぼしょ。少し酔ったI氏。

 「ブハー、ゴライカー!」

 思わずお国言葉。

 中でも、好奇心の旺盛ならしいE子。

 「えっ、何?何?おっちゃん、それ」

 可愛い女の子におっちゃんなんて、いいねえその響き。何か好きだなー・そ・の・言葉。

 続けてB子。

 「おじさん、それどこの国の言葉なの?」

 眼をくりくりさせて聞く、その中年の心をくすぐる童顔、好きだなー。

 「すごおい、お酒も強いけど、おじさんて外国語もぺらなんだー」

 以下、同文。省略。

 尊敬の眼差しを受けて、I氏のボルテージはあがる一方だった。でも、余り真に受けちゃあなー。店員は苦笑した。なんのかんのと、頼みもしないオーダーを持って来たりして、興味津々なのだ。悪趣味ではないかい?。
 さーて、I氏。しかし、中々の策士だったりして。自分の出身の村の言葉なんて日本国中さがしても、そう居ない筈だし、ここで尊敬を一身に集めれば、うっしっし、なんちゃったりして。ふん、ところが、そんなに世の中は甘くないって。都会の女の娘、自分達の処世術は、そこらの男共なんて足元にも及ば無いほど長けているのだ。どこかへ、このまま持ち上げれば連れていって貰えそうだし、ここの払いだって勿論、うっしっし。

 「ふっ、ふふ。バイ、トコラシ、カイヤ、トメラルカノ、キトンメリガ」

 訳の判らぬ言葉を続けるI氏。通訳のいる程のお国訛りなのだ。

 女の子、ここぞとばかり、

 「きゃあー、おじさん、何て言ったの?教えて、教えてー」
 「ねえ、教えて・・何語なの?」
 「そ・ん・け・い」

 破顔、満顔、悦に入るI氏。誰だい?人との会話が苦手だなんて言ったのは?えっ?酒が入ったら喋れるんだって?しぇー、勝手な人ね。

 氏はちびり、ちびりとやりながら一考。誰もが知っている国の名前を言えば、ばれてしまうではないか、そんな事言う馬鹿じゃないって。

 「・南アメリカの」

 と、言って酒を口にしながら、女の娘の反応を伺う。女の娘、そう言う事には敏感だ。外国はいつの時代も憧れの的なのだ。I氏、一歩謀らずもリードしていた。

 A子が聞く。中でも一番敏感らしい。

 「ねえ、おじさん。南アメリカの?」
 「ふ、ふふ。アマゾンの奥地のヒメイル族の言葉」

 ふーっ、と言う溜息。羨ましいのだ。ヨーロッパや、アメリカなんて言うんじゃ無い所がいいのだ。何がいいのか、何が受けるか、さっぱり判らない世代なんだから。

 丸ぽっちゃり、B子。

 「ねえ、それで何て言ったの?」

 I氏、この中の一番のお気に入りだ。目尻が下がっている。

 「そうよう。教えてよ、おじさん」

 C子。アーパーギャルも、うん。なかなか。

 じらすI氏。絶妙の間。プレイボーイ、見たい。

 「ねっ、おじさん。かっこいいじゃん、教えてよ」

 活発そうな、健康小麦色D子。こう言う子娘は好きだぞ。

 「なあ、早よう教えてやー」

 抜群のプロポーションのE子。関西弁は少しアンバランス。でもそれが余計に親しみを感じたりしちゃって。何だ、何だ。皆気にいっちゃったんじゃないか。この人、すでに妄想してるんじゃ無いの?けっ・・・。

 「君達が、素晴らしい・・と、そう言った」
 「やった!もう一歩だわ」

 一斉に女の娘達、そう思った。こうなりゃ、遠慮する事あ、ねえぞ。飲めよ、食えよ。酒は底なし、流石に「酒飲み同好会」だなー。店員急がし、急がし。でもこのままバイバイはねえかもなあ・・。店員君、話を進めてくれて有り難う。 そうこう言っている内に、リーダーA子。甘えた声を出す。そーら、見ろ。

 「ねえん、おじさん。私酔っぱらっちゃった。酔い覚ましにどこかへ行きたいな」

 ここが、正念場、ここぞとばかりに一斉にねだるわ、甘えるわ・・、あーあ。 I氏の鼻の下は伸びきったまま。ご機嫌この上無い。

 「うんうん、いいともー」

 さっそく感化されやすいI氏。覚え立ての言葉を使う。

 I氏、うきうき、そわそわ。いよいよ、一・・おっとっと。でも5人だよー? 金持ちのI氏、こんな勘定なんてちょろいもんだ。さっそく銀行から作って貰ったばかりの丸金カード。店員に出す。

 「げげーっ!これは、VIPだけが持つと言うプッ、プラチナカードじゃねえか」

 5人の女の娘、さすがに一変。酔いもすっと覚めた。円陣を組んでヒソ、ヒソ・・ぼしょ、ぼしょ。

 こうなりゃ、もう眼ん玉金色夜叉。一攫千金。I氏に取り入り、愛人になってマンションを、かっこいい外車を。頭は高速回転、ターボフル稼働。アーパーギャルは伊達に演じてないのよ。I氏と5人の思惑は、一致を見たのである。めでたし、めでたし。だが、1対4、誰から蹴落とすか。戦略が渦巻いている。チームワーク?何それ?女の友情はうわべだけだもの。恐い、恐いよう。
 I氏、カードの意外な効力を見せられ、ここで気持ちは大きくなった。酎ハイは合計20杯は飲んでいるが、さすがに村で鍛えた足腰は、半端なんてもんじゃない。しゃんと背筋が伸びていた。

 「へへーっ」

 最敬礼をしながらカードを返す青年店員。ここの勘定なんて、恐らく一日の利息の何十分の一にもなるまい。それ程の金持ちでなければ、持てないカードである、恐らく一生持つ事も無いだろう。うん?誰が?殆ど全員だよっ!腹立つのう。 大股で店を出るI氏。きゃい、きゃいと今度は芝居で無く、喜んで付いて行く彼女達。すでに彼女達の頭には、コースがインプットされている。
 が、しかし・車で行くには6人は乗れぬ。激しい抗争がすでに始まろうとしていた。まず、槍玉にあがったのは比較的気の弱そうなB子。

 「B子、あなた、門限が近いんじゃないの?」
 「そうよ。そうよ。B子、もう帰んなさいよ。家の人が心配するわ」

 4対1。これはB子堪らない。しかし、負けては人生の敗北だ。

 「あら・それを言うなら、C子だって」
 「何よ、D子だって」

 以下略。微笑みながら繰り広げられる女共の、すさまじい本性見えたり!

 そんなあ、お気に入りの女の娘達の、一人だって欠けてなるものか。I氏、両手を拡げた。

 「大丈夫、大丈夫。電話掛けるから、待っててくれ」 

こんな会話が女の娘同志で交わされていたら、普通、帰りたいのかなと思って引き留め様とするのが、まあ、通常。でも、誰もが帰るなんてこれっぽっちも思って無いI氏。この気持ちがすごい。 5分もしない内に、何と8人乗りリンカーンのリムジンが、ぴたっと横付けされていた。往来する人全員が注目した。

 びっくり仰天の5人の娘達。腰をへこへこさせながら、初老の運転手がI氏に最敬礼。どうやらお抱え運転手らしい。ここまでくると、ひとまず休戦。再び同盟締結の、危なっかしい友情復活。

 「どこへ行こうか?」

 もとより、飲みに出た事のないI氏。どこかへなんて、とんと判りゃあしない。願ったりは彼女達。こうなりゃ、超豪華な所しかないわってんで、

「ゴールデンホテルのクラブ・スーパー」

 まあ・・と、言う表情で彼女達は互いに見合った。ずうずうしいわね、顔と相談したら?貧乏人の子のくせに良く言うわ。・ああ、恐あ・そんな表情だった。

 「ふむ。ではそこへ」

 平然と答えるI氏。 や、やったわ!彼女達。言って見るもんだなー、ナンテ。ここが男共とは違う所。女性差別云々、ただヒステリックに主張しているだけの、要求不満のおばはん達よ。ただ若い女の娘と言うだけで、何でも許される、そんな事もあるって事、知っとけ。でも、俺も許さんからな。だって、俺は貧乏だからだ。う・ごほん。何の話だったっけ?ああ・・そうそう・・

「おっ!・ありゃあ、さっきのお、おっさんじゃねえか」

ちび六がまた、通りかかった。

 「げっ、あれは、8人乗りのリンカーン・リムジン。た、只者じゃねえな、あの、おっさん」

 後ろから、付いてきた若い衆が言った。

 「兄貴、ありゃあ、VIPですぜ」

 さすがに、ちび六もびびった。

 「お、おう。ぴっ、ぴっぷだな」
 「びっぷですぜ。ぶい、あい、ぴー」

 ちび六、やかましいわいと、若い衆の頭をごつん。ふんとに気が短けえんだから・。
 さて、車は発進した。 小心者だが、律儀な運転手。元代議士の、秘書を務めた事もある、異色の経歴の持ち主だ。  

 「旦那様」

 そう呼ばれるのは、嬉しいI氏。

 「うむ?」

 「ゴールデンホテルのクラブ・スーパーと、なりますと・・旦那様はお宜しいろしいですが、女性の方達が、その」

 彼女達、ここまでは思わなかった。顔色が青ざめた。女は直感的に言動すると、どっかの馬鹿学者が言っていたが、正にその通りではないか。まあ、彼女達、そコまでスレていないと言った方が、日本語としては美しい。 しかし、さすがの老練運転手。

 「旦那様、私におまかせ下さい。私がいい店を存知あげてございます」

 救われたI氏。ちっともそんな店等、知らないのだ。第一、身なりこそは整っているが、何も知らない田舎者なのだ。仮面の中は。ただ、言っておきたいが、氏の人格を害するつもりは無い、氏はすごく頭のいい人物だ。 この運転手とプラチナカードがある限り、I氏に恐い物は何一つ無い。運転手はあるブティックへ車を止めると、

 「さあ、お嬢さん方、旦那様のご厚意です。お好きなものをお選びなさい。貴女たちは、幸運でございますよ。旦那様は非常にご機嫌がお宜しい。今の内ですよ」

 きゃい、きゃいと、彼女達。思い、思いの服を選ぶ。運転手、ブティックのオーナーに耳元で、ぼしょ、ぼしょ。眼を細めながら見つめるI氏。手を擦り々近づいた店長。肩はもむわ、コーヒーは出すわ、大変な歓迎様。店の中でも、とびきりの豪華衣装を準備する。おまけに、ヘアデザイナーを呼び寄せるわ、ご近所の靴屋に高価な靴を持って来させるるわ。大変、大変。このー、守銭奴、商売人。しかし・・女は化け物とはこの事。女は恐い。元も確かに良かったのだろうが、ブティックのオーナーと、スタイリストの腕も一流であったのだろう。すっかり5人共、良家の子女、有名モデルに仕上がってしまったのだから。 I氏、思わず生唾。しかし、ここはぐっと我慢。もうここまでされりゃ、大抵の娘はころりと来るだろうから。I氏きらりと抜くは、天下のプラチナカードでござい。

 「へ、へー・・」

 最敬礼、最敬礼のオーナー。

 そこへ、何処へ行っていたのか運転手。

 「ほお・・皆さん、お綺麗になられた。さすがに旦那様のお目は、お高い」

 現在の無個性、平均化の時代でも、服と、化粧さえあればどんな魔法も使える。 さあ、すっかり、リッチな気分になった娘達。話す言葉だって当然変わる。生まれて初めて身につける、超豪華な衣装の自分にうっとり。そして、I氏が自分達の足長おじさんに見えてくる。 I氏、彼女達の体にタッチしたい衝動にかられながらも、じっと我慢、我慢。ここで中年の本心を見せては台無しなのだ。 そして、ゴールデンホテルにまもなく到着。8人乗りのリムジンを得意げに横付けする運転手。当然時間と、予約は入れてある。そこらの執事並み、いや、それ以上の頼りになる男なのだ。ま、月収百万円も、もらっていれば、ね。羨ましいなあ。 そして、この一行を待ちかまえていたのは、クラブ・スーパーの従業員全員の出迎えと言う、彼女達の度肝を抜く歓待ぶりだった。このおじさんは一体?外国の国賓並の待遇ではないか。うむう・・要するに、世の中は金の力が絶大と言う図式の資本国日本では、有効且つ・・いててて、噛んじゃった。 堂々と、I氏は車を降りた。続いて彼女達。既にこの一行は、超高級のこのクラブ・スーパーを呑んでいた。

ほお・・どこかのお偉いさんが来られたようですな」

クラブ全員が出迎えに行くので、中では話題が盛り上がっていた。

「それでは、マスター、くれぐれも旦那様をお願いしますよ。旦那様、皆様今宵はご存分にお楽しみ下さいませ」

 そう言って運転手は車を発進させた。一運転手をこのマスターは深々と礼をし、見送った。ふーん・何でかなあ? さて、入店して来たI氏達。興味津々で見守る客達を、横目に堂々と歩いて来る。

 「美しいお嬢さんばかりだ」
 「どこかの芸能社の社長では?」
 「いやあ・たかが芸能社の社長を、クラブ全員が出迎える事なんて、あり得ないよ」
 「私は広告代理店をやっていますが、全く存じあげない方です」
「OH!ワンダフル」

 クラブ内は騒然となった。さもありなん。キャデラック特別仕様リムジンを横付けし、全員に出迎えさせると言う事等、国賓か、宮家の者しかあり得ない。総理大臣にだって、こんな出迎え等しないだろう、格式のある超高級クラブなのだから。 どうせだから、この訳を先に述べておきたいが、このホテルはさる財閥系の資本である。つまり、I氏所有の山林、田畑の下に眠る大金脈の採掘権を握る同列会社社長より、先程電話が掛かってきた。運転手は、代議士の秘書を務めた事もある人脈で、さすがに黒い。そちらから、粗相の無きよう圧力をかけていたのだ。意外と、運転手、過去大物であったようだ。ここのマスターもよく知っていた。I氏達がここへ現れたのは、幸運な事であったのだ。 衆目の視線を浴びながら彼等、真ん中の特等席に座る。ボーイがメニューを持ってくる。だが、とんと酒の名前も知らぬI氏。料理も知らない。まさか、鶴亀錦をもって来いとは言えない。大好物の芋の煮っころがしや、豆・大根のごったら煮は注文出来そうにない。ここは思案。女の娘、澄ましている。 困ったI氏、マスターを呼ぶ。 難しい顔をしたI氏に、何か失礼があったのでは・と、マスター、早足でおろおろと。

 「何かうちの従業員に失礼が、ございましたでしょうか?」

 機嫌を損ねたのでは?と、手を擦り擦り尋ねるマスター。

 「いや。そうではないのだ。君の・・思う所の料理、酒を運んで来なさい」

 さすがに、大物。一挙手一投足を注目の衆目は、声をあげた。一食だけでうん万円の料理を、眺めもせず、勝手に持ってこいとは・・。相当なVIPだ。ちびり、ちびり、、ひやひやしながら接待している、彼等客の、大半にとっては、豪快に感じた事であった。この際、お知り合いになりたいと、興味津々、見守っていた。彼女達、衆目の視線を浴びてさすがに硬くなっていた。 マスターは急いで支度を命じた。

 「いいか、我々は試されているのだ。ここでの接待如何によっては、我々の首どころの話ではない。20世紀最大の発掘と言われる、金鉱脈の発掘権を失うかも知れないのだ。外国のVIP並み、いや、それ以上のおもてなしをするのだ」

 マスター以外に、その深い理由を知らないスタッフ達は緊張した。この格式あるホテルのクラブ・スーパーで、VIP以上の扱いとは?

 「おい、宮どこかの財閥の人らしいな」
 「お忍びで来られているらしい」

お忍びってあんた・・こんな堂々と?

 誠しやかに、店内では話が浸透していった。ますます、大変な事にならなきゃいいが・何て心配する人も居ないってか。

 「おい、馴染みのボーイの話では宮家の人らしいな」

 ここに来ていた、さる右翼の大物Z氏。隣りには何とか会の副会長も同席していた。

 「まさか。全く存じあげない方だよ」

 その副会長。マスターをつかまえ、

 「ありゃあ、どちらの方なのだ?」
 「残念ですが、お答え出来かねます」

 少し、むっとした副会長。

 「何故だ?」
 「き、企業秘密です」

 苦しい答えのマスター。

 「企業秘密だあ?おいおい、マスター」

 笑いながら彼は言った。

 「たっ、例え貴方のようなお方でも、きっ、企業のコンフィデンス・トップシークレットをお話する訳にはまいらぬのです」

 それ以上は、彼も聞けなかった。側には、大物総会屋もいたのだが、口をあんぐりしたままだった。

 「まあ、はっきりしているのは、財閥のゆかりの人物か、関係ある取引先の人だろうと、言う事だ」 「わっ、判らん。一体何者なんだ。俺達の知らないVIPが、まだ存在しているなんて」

 所詮彼等は、成り上がり者。家柄がどうのと言う話になると、沈黙してしまう。まして、トップシークレットとなると、挌がなんとなく違うんじゃないかな、なんて。もう、きりがないので、やんぴ。 何やら、長ったらしい名前のワインをボーイが運んでくる。 ステージには、名の通った外国のジャズシンガーが、ピアノと、ベースの演奏で歌っている。マスターの指示で、I氏のテーブルにやって来る。もう、竹下さんばりの配慮ではないか。だが、腹の中に私欲はないが、ね。 I氏に、うっとりと視線を向ける彼女達。まさか、安い居酒屋で出会った親父が、こんな超高級なクラブでさえも、特別扱いのVIPだなんて、夢のようだ。 他の席の客が静観している。じろじろ眺めて機嫌を損ねられては、お近づきどころでは無くなってしまうから、何気なく酒を飲んで、ちら、ほら、とI氏を見る。 そのI氏、どう食べてよいか判らない。生唾もんだが、どう手を出したら良いものか。女の娘、氏が手を出さぬ以上食べられない。

 「ふーむ。見事な料理を並べ、まず眼で楽しむ。我々とは次元の違うグルメですなあ」

 設定がVIPである以上、こう評価されるのは、当然の成りゆき。痴呆が天才と言われれば、当然衆目はその評価で見る。世の中の摂理だ。 名シンガーと名高い、この黒人シンガーも、I氏の側を離れようとしない。

 A子が言う。

 「おじさま・・素敵な所ね」

 が、I氏の表情はまだ硬い。どうやって食おうか、悩んでいるのだ。 B子も言う。

 「私、このジャズシンガーのファンなの。おじさま、そう伝えて下さらないかしら?」

 困りながらも、微笑むI氏。なんとか言わなきゃ、メッキが禿げる。えーい、腹を括ったI氏。お国訛りで喋っている。

 「ウイ、ママヨ、ヘラコンデス」

 I氏の田舎言葉で、

 「おばさん、この娘がファンだそうだ」

 だが、意外や、意外。この黒人シンガー、眼を輝かせて、感激の様子。

 「vf5dxhgvf?ppjhgrfdds」

 「ふうむ。さすがに英才。南部アメリカの、黒人訛まで知っているとは」
 「違いますなあ、我々の及ぶ所ではない」

 どよめきの声があがる。このシンガー、通訳の通訳が要る程の訛なのだ。何かI氏との共通点も感じるなあ。

 ところで、彼女に聞こえたのは、

 「素敵なお嬢さん、今夜供にしませんか?」

 そうなのだ。冗談だけど、冗談ではないのだ。相手がVIPと聞いている上、先程から素敵な方だと、熱い視線を送っていた彼女にとっては、ストレートなハートに一発でくる、最高の誘いであった。だから、

 「勿論、喜んでお供しますわ」

 そう答えたのだ。何と・・絶句。 尊敬の上、尊敬を重ねる彼女達。喜ぶシンガーの熱いキスを頬に受け、I氏、ご満悦。この豊満な肉体にも、そそられる思いだったが、そこまで彼も考えていなかった。 これで、気分良くしたI氏。マナー等、何処吹く風とばかり、グラスを眼の前に差し出す。

 「ヘルコ!」

 娘達も、同じく、

 「ヘルコ!」

 と、グラスを合わせる。

 余計だが、この言葉、実はジャズシンガーのお国訛りで『◎んこ』であったから、いやはや、何とも。 ジャズシンガーの、益々熱い視線を浴びながら、I氏達は全く自由に料理を食べ始めた。大体が、洋食なんて小難しく考える必要なんて無い。おいしく食べるこれが一番。最低のマナーくらい、知っていさえすればいいのだ。どうにか、恥をかかずに済んだようだ。

 「ほお、なかなか個性のあるお召し上がり方」
 「彼程になると、こんなクラブ料理等食べ飽きているでしょう。レストラン並みのコックを、抱えておられるでしょうからなあ」
 「なるほど。上機嫌ですなあ・今の内にお近ずきに」
 「止めときなさい。今、コックからも聞いたが、とても、我々が軽々しく近づけるお人ではないらしい」
 「何ともはや・・・」

 又々、騒然とする店内を余所に、「う、うめえー」と、飲むわ、食うわ。そこには青ざめたマスターが立ち竦むのみ。まさか、この何百万、何千万の請求を額面通りにしてもよいものか、どうか。否、否。これは、接待なのだ。ここで、良しと言う心証を与えられれば。採掘権は磐石となるのだ。そうなりゃ、もっと、もっと上のランクへ出世出来るやも知れぬ。こら、こら。妄想してんじゃねえ。 「どうかしたのか?マスター」

 一人、にやにや、ぶつぶつ言っているマスターにI氏は尋ねた。

 「はっ、いっ、いえ。何でもございません」

 マスターは現実に戻されて、はっとした。

 「やな、マスターやなあ、変な顔して、気持ち悪ー」

 関西出身のE子、思った事はズバリと、言う。無論酒の勢いもある。

 「もっ、申し訳ありません」

 マスターは、平謝りした。

 「おい、おい。何か、あの関西出身のモデルに怒られたようだぞ」
 「モデルって言うのは、わがままだからなあ」

 I氏達の一挙手一投足が、すでに店内の注目の的になっている。

 D子が、E子に耳打ちする。

 「ああ、なるほど。ごめんね、マスター」
 「いっ、いえ。とんでもございません」

 泣いた烏がもう、笑った。マスターは微笑んだ。

 「ほお、あのスポーツマンタイプのお嬢さんに、たしなめられたようですな」
 「ふむ。どこかの有名大学の才女でしょう」

 アーパー短大の、酒飲み同好会のアーパーギャルが?

 「きゃはは。皆が見てるう」

 すでに、高級ワイン数本を飲み干したC子の、悪酔いした声が響いた。 慌てて視線を戻した客達が、小声で・・

 「どこかのお嬢様らしいが、生まれが良くても、勝手気ままのお育ちらしい」 

おや、おや、どうやら何か変な感じになってきたなあ。
 再びマスターがはらはら。すでに一本数十万円と言うワインが、三十本も空になっていた。これだけで、軽く一千万円を超えている。幾ら接待といっても、何千万円も飲み食いされるとは、思ってもいなかったマスターは、涙のちょちょぎれる思いだった。 帰るに帰れなくなってしまった客達。恐ろしくなって帰ったのは、モーターボート会副会長と、総会屋の一行だった。

 「な、何とも恐ろしい痛飲、痛食」
 「な、何千万円ですよ、こ、ここの会計」

 早よ、帰れよ。全く、見る方も見る方だよ。
 すっかり酔っぱらってしまったI氏。きらりと、プラチナカードを抜く。

 「おおっ」

 どよめきが上がる。

 「や、やっぱりVIPだ。か、帰りましょう」

 I氏の素性が判り、いつもにない勘定を払い、彼等は退店していった。 さて・・・と。

 「こっ、これから、どっ、どうされますか?」

 震えた声でマスターが問う。

 「酔ったぞ」
 「は、はい」

 I氏は答えた。聞かなくても一目瞭然だ。品位ある、こ、このクラブが・・。マスターは悲しい。しかし、しゅ、出世が。

 「やあだ、まだ、ぶつぶつゆってるうー」

 E子が焦点の定まらない顔で言う。

 「だからあ、E子。マスターは管理職にありがちな、中年病なんだってばさあー、可哀想なのよ。躁鬱病なんだって」

 おやおや、さっきE子の耳元で囁いていたのはこの事だったのか。良く言うよね、マスター。

 「は・・はは」

 泣きそうな顔で、マスターは、笑った。

 「キャア、キャハハハ。マスターったら、泣きながら笑ってるう」

 もっとも早くから、酔っぱらっていたC子が、つんざくような声で笑った。この娘は笑い上戸のようだ。でも、んな事どうでもいい。一体この人達は、どれだけ世間騒がせなのだろうか。 とうとう、マスターは泣き出した。

 「ぐすん、お、お客様。こっ、これからどう致しましょうか?」
 「泣いておるな、マスター」
 「泣いております。こっ、これからどうされますか?」
 「酔ったぞ」
 「あたしもー」

 A子も、B子も、C子も、D子も、E子も。ええい、判っておるわ。

 「は、はい。おおい、おおい・・」

 声を上げてマスターは泣き出した。ボーイがマスターを気遣い、側に寄る。中の主任クラスの一人が、とうとうI氏に。

 「おっ、お客様。わっ、私共に過ちがあれば、いかようにもお詫び致します。マスターをどうか、せ、責めないで下さい」

 震える声でボーイは言った。国賓並のVIPに対して、応対の気に入らないのを戒めとしているように見えたのだろう。まあ・・常識的で、忠実な部下ではないかい?

 「何も、謝る必要等、無いのだ。気持ち良く酔った。そう、言っただけだ」
 「よっ、余計な事はするな」

 マスターがボーイ達を制すると、

 「これから、どうされますか?私達には、もう・・」

 何を言わんとしたかは、聞く必要は無い。I氏は言った。

 「私の運転手は、もう家に帰した。今日は、ここのホテルに泊まりたい」
 「は、はい。おい!すぐ上の階に上がって、予約を取って来い。私からだと言えばよい。全ての責任は私が持つ」

 さすがに、総責任者のマスター、行動は素早かった。これで、一安心。この守備はそう、悪くなかったようだ。泣いた烏がもう、笑った。やれやれ、マスターは肩の荷を降ろしていたが、6人はその場にうっ伏して、既に寝込んでしまった。
 
「マスター、予約がとれました」

 「そうか、よし。このまま運べ」
 「はあ?」

 ボーイは驚いた。

 「馬鹿者!すっとんきょうな声を出すな。このまま運べと言っているのだ」
 「いっ、椅子のままですか?」
 「そうだ。早くやれ!」

 マスターのひきつった声が響く。だって、しょうがねえじゃねえか。皆寝てるんだから。どないせえっちゅうんじゃ、ねえ?マスター。 哀れ、諸外国の偉いさんが泊まるこの、超高級ホテルが、大騒ぎ。

 「きゃあ」「何だ?何だ?」「クレイジー」「OH!マッドマン」

 ホテルの総支配人が飛び出して来た。

 「馬鹿者!何やっとる」
 「いや、その・・赫々しかじか・・」
 「むっ、無茶だ、それにしても、マスターは何を考えているのだ」

 総支配人は、怒った。 そこへ、マスター。

 「一体、何の騒ぎだ!事と次第によっては、首では済まんぞ」

 必死の形相で、説明を始めるマスター。事情は薄々判ったものの、総支配人。

 「幾ら、系列のホテルと言えども、一客にこんな無法を許したら、この先どうなると思うのだ?」

 それを言って二人は絶句した。
 都会の夜には、奇妙な虫が鳴く。この夜、ゴールデンホテルは奇妙な虫の声に包まれたとか。

 I氏の楽しい一夜は終わった。

 その後彼女達がどうなったかって?そんなに世の中、甘くは無いんだよ。元秘書の運転手が、それは見事な、後始末をつけましたってさ。そして、今は田舎の料理屋の大将になっている、マスターにこう言ったとさ。 

 「君は大変良く接待してくれた。旦那様に代わって礼を言う。感謝している。だが、君は類稀な大馬鹿者だったな」

 ・・・・。

 I氏は程無く、黒人のジャズシンガーと結婚したと言う。

                         平成八年十二月三日 完