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パブの中の二人

 小さな町の小さなパブ。適度な照明のカウンター。

店内には、ビル・エバンスの静かなジャズが流れている。

一人、店内のカウンターで飲む男。男は顔立ちこそ整っていたが、着古しのバギー、ぼさぼさの頭。その長身にはそぐわないアンバランスなものをどこか感じた。男の酒量が増した頃、女が入って来る。長年客商売に染まって来た、老バーテンが思わずグラスを磨く手を止めた。それほど女は洗練されていた。

しかし、微妙な間も、女の視線も次の瞬間には虚ろなものに変わり、疲れた様にその女は男の隣りに座った。そんな美女が座った事も知らぬげで、男は音楽に酔っている風であった。

 女は男の横顔を眺めながらマスターに酒を注文する。

 「マスター、ジンを頂戴。」

 続けて女は言う。

 「あ・・隣りの人にも同じものを」

 その時になって初めて男は女の方を向く。

 「や・・これは失礼。隣りにこんな美人が座っていようとは」

 男の間の悪さと、抑揚のない響きに女は眉に不機嫌なものを浮かべたが、タイミングを測った様にマスターが、ジンを置いた。

 「あなたが?」

 「ごめんなさい、ご迷惑だったかしら。」

 「とんでもない、酒はジン、音楽はジャズ。女性に酒を奢って戴くのは初めてですが、喜んで戴きます。」

 グラスをカチンと合わすと、男は改めて女を見た。程良い照明の中で、その美しさは眩いばかりだった。

 「改めて先程からの無礼をお詫びします。どうもかなり酔っている様だ。」

 幾分女の機嫌は収まった様で、微笑むと、

「由利子です。あ・・」

 言いかけて女は口を噤んだ。それが彼女の本名か、或いは偽名なのか、それを詮索する気はなかったが、男は微笑み、

 「加藤です。ところで?由利子さん、ジャズはお好きですか?」

 「え・・ええ。学生時代からジャズ喫茶に入り浸り。ここのお店もセンスがい

いわ。ビル・エバンスは私も大好きよ。」

 その言葉に加藤も、由利子に好意を持った様だ。瞳に優しい光を浮かべた。由利子は少しどきんと胸がなった。加藤の端正な横顔に、やや彼女が入って行けないものを感じとっていたからだった。

 「やあ・・気が合いますね。俺も学生時代から夢中でしてね。この店は小さいが、品の良いジャズを聞かせてくれます。」

 「ここへは良く?」

 「ええ、週に一度は来ます。」

「・・お一人で?」

「は・勿論ですよ。ジャズは本来、一人で楽しむものだ。」

 由利子の質問も、初対面の相手に対して少し愚問気味で馴れ馴れしかったかも知れないが、加藤の人を突き放した様な、無粋な言葉に再び不機嫌になった。しかし、由利子のそんな心情に気づかぬ風に彼は言葉を続ける。

 「ジャズは俺にとっての青春であって、すなわちソウルなんです。」

 少々不機嫌気味の由利子は、皮肉っぽく言った。

 「あら・・本来のジャズって、元々黒人達の奴隷時代の貧困に対する辛さ、苦しみ、悲しみ、そう言う心・・つまりソウルじゃなかったかしら?ビリー・ホリデイの奇妙な果実なんて、木にぶら下がった奇妙な果実・・それは奴隷の事だと言う身震いするような詩、いいえ、それこそ心臓にピストルを撃ち込まれるような衝撃。でも、どこか力強い生命力も感じる・・それこそジャズのソウルじゃないかしら。ビル・エバンスのような、都会的な洗練されたジャズも勿論いいわ。貴方は当然その対象も含めてジャズ=ソウルと言っているのでしょうね?」

 別にこんな話題で討論する気など、由利子には無かった。気まぐれに飛び込んだ一夜限りのパブでしかないのに・・。

 「俺は・そう言うジャズは嫌いだ。」

 苦い表情をしながら加藤は答えた。

 もっと別の返答を待ちかまえていた由利子にとって、はぐらかされた格好の答えだが、早々にここを立ち去ろう・・彼女はそう言う気になって、

 「あら・・だって。」

 「嫌いなものはどうしようも無い。寂しいジャズは俺にとっては、ジャズでは無いんだ。疲れた心、体を癒してくれるもでなくてはならない、そう言う音楽で無くてはならないんだ。」

 「・・貴方って、相当に片意地でおまけに偏向的な人物だわね。」

 呆れた様に、由利子は溜息混じりに言った。

 「そう、そうなんだ。だが、自分ではどうしようも無い、呆れる程強情で・・・分かっているんだが・」

 「フフ・・正直ね。又、反論でもするのかと思ったわ。」

 「と、とんでも無い。せっかく現れた女神を前にこんな話しか出来ない、そんな男なんです。」

 話をすればするほど加藤の人間的な一面を感じた。由利子はもっと話がしたくなっていた。

 多くの人間をつぶさに見てきたマスターは、それ以上の二人の会話を邪魔しないよ・と、でも言う様に、ボトルとアイスボックスを置くと、一番奥のボックスに移ってしまった。 

 「あ・・」

 由利子が言うのを加藤は止めた。

 「マスターは語れ、と言っているんだと思う。ほら、それに曲も変わった。」 「この曲は?」

 「ああ、珍しいね・ケニー・ドーハムの静かなるケニーだよ。このトランペットの名人の夜に乾杯だ。」

 そう言って今度は、加藤がジンを差し出した。

 「貴方はどんな仕事をしてらっしゃるの?」

 「広告代理店を営んでいます。」

 「まあ・・そうなの?」

 意外・と、言うニュアンスと顔であった。

 「ハハ、分かっていますよ。それにしてはセンスが・と思われたのでしょう?」

 「い、いえ、そんな」

 「いいんですよ。誰が見てもこの格好だ。ははは・」

 加藤のその笑顔に、由利子は彼自身に心許せる何かを感じていた。

 「・・何か理由がありそうね」

 由利子の問いに加藤は答えなかった。

 曲はオスカーピーターソンのアクション、更にレッド・ガーランドのグルーピー、トミー・フラナガントリオのオーバーシーズと、ピアノ中心の名曲が続いた。ほろ苦いジンの匂いと酔い、言葉はいらなかった。

 不意に加藤が聞いた。

 「ところで・・?貴女はモデルですか?」

 「え、ええ・・まあ、そんなところね。原宿でマヌカンをやっているの」

 「ほう・やはり。洗練された女性だと思っていました。」

 「でも、もう終わり。今日で辞めたの。」

 ふと寂しそうな表情で由利子は答えた。

その彼女の横顔を加藤は見つめた。

 「あら・そんなに見つめられたら恥ずかしいわ」

 「いや、失礼。何だか今宵は喋りたくなった。貴女の時間さえよろしかったらお相手していただけませんか?」

「ええ・・私もそんな気分・。ここのお店の雰囲気もいいし・・」

「ここの店のマスターは無口な人ですが、僕のいわば人生の師でもあり、父親替わりなんです。」

「貴方の先程までの様子からも窺えるわ」

「僕は自分で言うのもなんだけど、随分頑張ってきました。身の上話をするんじゃないが、高校の時に両親を交通事故で亡くしましてね。僕の下には5歳違いの妹がいて・・ああ失礼。しかし身の上話になってしまった。」

「フフフ、結構ですわよ。聞きたいわ。」

「・では・・夜間の学校に通いながら、妹だけは人並みに学校に行かせてやろう、そして俺も勉強だけはどんなに苦しくても続けよう・そう決心して、両親の残してくれた家も手放しました。その金のほとんどは妹の為に貯金し、僅かに残った現金でアパートを借り、そこで二人、生活を始めたんです。兄の口から言うんじゃ無いが、気持ちの優しい健康な娘です。だが・・先日その妹が嫁ぎました。・・」

そこで由利子は頷きながら、

「お寂しい感じに見えた貴方の横顔はそのためだったのね・。」

「ハハ・そう見えましたか。確かにそうかも知れないな・ウン、アハハ・」

 「ま・何だか私が馬鹿に見えるわ」

 やや憤慨気味に由利子は言った。

 加藤の笑いが皮肉を込めたものでないことを承知しながらも、彼自身に対する気持ちが真剣なものであったがために、由利子は話を勝手に理解していただけだったのだろう。そう思った彼女だったが、何だか罰が悪かった。

 「済みません。勝手に俺が身の上話を聞いて貰っているのに・・貴方に不愉快な思いをさせてしまったね・」

 由利子は怒っているわけではなかった。ただ見ず知らずの初対面の男に対して何故か心許している自分が歯がゆかった。

 「いいの・早とちりしたのは私ですから・・」

 急に彼女の受け答えに、抑揚のない響きを感じた加藤は、

 「妹の結婚は・・許されざるものだったんだ・」

 小刻みに震えながらジンを飲み干す加藤に、由利子は再びただならぬ彼自身の持つ何かを感じていた。

 「貴方は父親の心境で彼女を送り出したんじゃなかったの?」

「そうできたら・もし、そうであったのなら・・俺にとっては幸福なことであったろうね・」

「・・・・・・」

加藤は、残りのジンを飲み干すと、又ジンをグラスに注ぐ。

「そんな飲み方をしちゃ、体に悪いわ・」

優しく言う由利子に、加藤も、

「済みません、こんな話ばかり・気を悪くされたでしょう?」

「いいえ、今宵の出会いと、ここの雰囲気そうさせているのでしょう。誰にも閉じこめておくことが我慢できなくてお酒を飲む事もある、大声で叫びたいこともある。今の私もそういう気分なの・・」

由利子の持つ心の内面と、加藤が苦しむその何かがが共通しているかのように思えた。

ふうーっ・・と加藤は息をついてから言い出した。

「言いかけた事だ。聞いて下さい。つまり、妹の結婚は世間で言う不倫と言うやつです。・その結果だ。」

「まあ・・」

加藤の苦悩が由利子にも理解出来た。

「相手の男は妹の会社の部長。重役コースにもう手の届くエリートだった。」

「・・つまり、妹さんは弄ばれたのだ、と?」

「それなら・・それならば諦めもついただろう。そんなんじゃないから、俺は。・・」

やや怒った様に言う加藤に、早口で由利子は答えた。

「ごめんなさい。私の理解が薄い訳では無いの。でも、結果的に妹さんを駆け落ちに走らせ、そして貴方がその事を悔いているのだとしたら・・」

 「ああ・・君は、貴方はそう受けとめましたか・・うん、それはそれで僕の心情としては当たっていますよ。」

 「複雑ね、人間の心理と言うものは。」

 「何か?君の言葉には意味があるように思える。」

 「つまり、貴方の苦悩はもっと奧の深いものであって、確かにそれだけでも理解出来る事だけれど、もっと、もっと奧が深いものであると思えるって事。」

「ふ、ふふ・・。僕の言葉の先回りをしても、知りたいと君は望む訳だね。そしてそれは、君自身にも大いに関係してくるかもしれな事だから?」

由利子は、ぎくっとなって加藤の顔を見た。端正なその顔に潜む寂しさが見えた。目を伏せながら、彼女は答えた。

「そう、そうだとしたら?」

「やっぱり、俺は話す。それは君に関係無い事であったとしても。・・・やはり、妹の結婚は世間的に見ても、許されざるものであった。しかし出世と、妹の不倫とが板挟みになるような・そんな恋愛が果たして存在すると思いますか?」加藤は由利子に問いかけた。

「私もお勤めをしていたから、何となくそう言うことは・・」

判る・・そう言う含みを持って彼女は答えた。

「俺の言葉が足りなかったか・・つまり、男は妹との仲が進展するに到り、又、自分の妻と子との離婚も考えるようになった。そして妹との不倫が彼の妻に浮気の事実として追求され始めるようになると、彼自身は、意外な事を考え始めたんだ。」

「・・・それで?」

話の根幹が見えかくれするようになると、続きが知りたくなるものだ。由利子は加藤を促した。

「彼は、目の前にぶらさがっている重役の椅子を手にしようとした、妹との結婚の為に棒に振る事を考えず、我武者羅になってある大きな取引を成立させようとしたんだ。こう言う彼の行動に対して、どう思いますか?」

再び聞く加藤に対して、由利子は困惑した表情になって、言った。

「通常では考えにくい事だわね、妹さんとの恋愛が真剣であればあるほど何もかも犠牲にしてでも突き進んで欲しい、それが女としての恋愛の求める姿だわ」

割と強い口調で由利子は言った。

「そうでしょう、俺もそう思うんだ。」

同感を得て加藤は頷いた。

「俺は怒ったよ、妹を強引に引き離そうとしたんだ。だが、死ぬとまで言う彼女に俺はある意味では無力でしかなかった。そして、とうとう・・男は目の前の重役を手に入れる所まである重要な取引を成立させた。・・が・・」

言いかけて加藤の言葉が止まった。その苦しそうな、深い憂いを帯びた横顔には、由利子がこれまでの話の中では読みとれない何かが隠されているように思えた。それが何であるか、そして由利子が自身の中に持つ何かと共鳴しているような・・。今度は彼女が言いかけた。

「貴方なら・・話せそうな気がするわ。でも、一瞬でもいい・何もかも忘れる為に私はここに来たの。そして、この出会いは一瞬の瞬きであって、この場限りの・・・」

「判っている。その先は他人であって、お別れだ。」

「・・・私には大学時代からつき合っていた彼がいたわ。彼はカメラマンを目指し、私はデザイナーを夢見ていたの。そして、卒業・・。私達は同棲。貧乏な生活が始まった・でも、私達の夢なんか、厳しい現実の前では、遥かに遠くて。

・・それでも、何もかもが楽しかった。月末になってお米を買うお金も無いときもあったわ・・私は少しでも収入の多い働き口を転々としたの。彼の収入は殆ど写真の器材に化けて、その度に喧嘩なんかももしたっけ。学生時代の延長見たいな生活だったのね、・そして私は妊娠。その頃から何かが変わり始めていたの。そう・・恋人なんかじゃなく、生活と言うその重い現実が目の前に立ちはだかる事になる訳。・・・」

由利子は酒を口に運んだ。美しいその横顔に翳りが見えた。

「・・そのお子さんは・・?」

「ええ・・駄目だったわ。」

 出逢いとは、一瞬の出来事でその限られた時間の中で、なんと無く馬が合うとか、妙に惹かれると言う事が不思議とある。損得の勘定だけで謀れぬものも多い・・。

 「・・・彼は生活を選んだ。でも、私達家族にとって最良の選択であったけれどそれは私にとっては、最も辛い事だったの。誰よりも彼の才能を知っていたのは私だったから・。生活の為に、彼の夢は引き替えにして欲しくなかった。そうなる事は判っていたのに・・でも矛盾ね、女の私には、子どもも欲しかったなんて・・・」

「判るさ、俺には彼の心が。俺も間違いなく生活を選んだだろう。」

 その時、初めて由利子が見せた事のない感情を露にして、言った。

 「あ、貴方に何が判ると言うの!よして、変な同情めいた理解なんて、まっぴらよ!」

この時になって、加藤は初めて由利子が自分にとって他人では無いことを悟った。そして、彼女自身の大きく深い哀しみが見えるようだった。

「同情なんかしない、この場限りの君との出逢いに何故俺が、君の気を曵く事を言うだろう。今まで君に言い寄って来たかも知れない優しい言葉を並べたて、その寂しさを紛らす為だけだった男と一緒にしないでくれ」

加藤の言葉が厳しかったので、由利子は一瞬目を伏せた。加藤は続けた。

「俺には・・夜学で知り合った美弥子と言う妻がいた。夜学の辛さも彼女がいれば、顔をみるだけで、もう・・すうーっと楽になるんだ。仕事を終えて夜学に行くのが楽しくなってね。色んな話をしたっけ・・。人生の事、将来の夢。そしてお互いの夢が同じになって行くのもすぐの事だった。俺達は卒業を待たずに入籍した。だが、まだ中学生だった妹の事もあったから、住む家は別々だったけどね。何とか貸し事務所を借りて、使いぱしりの広告代理店の仕事を始めた。一生懸命働いて、晴れて二人の結婚式をあげようって、頑張ったよ。一つ、二つ・・信用と実績を重ねていって、どうにか食べて行ける自信が出来かけた時、・・美弥子が、倒れた・・。」

二筋、三筋・・加藤の頬に涙がこぼれた。由利子の枯れた哀しみがよみがえって来るように、彼女自身もそれにつられて目が潤んだ。加藤の涙は全身全霊で美弥子を愛した証だったのだ。

「彼女は癌だった。もう、手遅れと言う医者の言葉に目の前が真っ暗になってしまった。俺は・・・運命を呪った。全てがうまく行きかけていたのに、やっと俺達の努力が報われようといていたのに・・美弥子のいない会社など考えられなかった。日増に衰弱していく彼女、もう、病床から立ち上がる事はなかった。でも苦しいだろうに、会社の心配ばかりして・・う、うう・・」

加藤に涸れた涙が蘇り、頬を伝う。

「・・分かるわ、貴方の気持ちが。私もそうだったから・・御免なさい、貴方の眠りを私が覚ましてしまった・・・」

由利子の頬にも涙が流れた。酒のせいではない。飲まなければ、背負う事の出来ない哀しみに堪えられない、出会うべくして出会った二人がここにいるだけだ。マスターがキーを置くと、出ていった。

「君のせいではない。俺の気持ちの中では、やはり美弥子の気持ちが昇華して無かったんだ。」

気を鎮めると、加藤は言った。

 「・・ある晩、どうしようも無い運命に、決着をつけるつもりで俺は病室に入った。・・ところが、寝ている彼女の息苦しい声が聞こえてきたんだ。・・・有り難う、啓一さん、有り難うって・・彼女は結婚式の夢を見ていたんだ。俺はたまらず病室を飛び出した。一緒に死のうと思っていた俺にとって、その夢は余りに衝撃だった。壁に血のでる程拳を叩きつけ、頭をがんがん打ちつけた。・・もう、涙なんか出ないと思っていたのに、あんなに泣いたのに、今更・・・」

 「・・貴方も私の眠りを覚ましてしまった。・・今夜ここへ来たのは死ぬ前の決別。」

 「・・そうでは無いかと思った。・・・あの時の俺と同じ目をしていたから・・。でも、決別なんて、死のうとする人には必要無い事だよ」

 加藤はそう言い、由利子の顔を見た。彼女も見返したが、加藤の澄んだ目の前にカウンターに目を転じた。

 「そうね・・でも、今夜のお酒は彼への供養なの」

 「・・・やはり・。」

 「貴方には何も隠せない見たい。」

「言いたまえ、聞くのは俺ではなく、君の中で昇華しきれなかった彼自身の魂が言わせるのだ。さあ、ここにはもう君と僕しかいない。全ての心残りを・」

百利子は加藤の顔を見た。その澄み切った瞳の中に自分を愛した彼が見えた。同時に彼女は加藤を愛し、愛されていた美弥子の姿、そして彼の苦悩している妹の姿が目に映った。

「・・その前に、妹さんを許してあげて・・誰よりも苦しんでいるのは彼女かも知れないわ。私にはその気持ちが分かるの・」

「・・ああ、分かっている・しかし、俺と美弥子の人生を賭けた広告代理店がその代償になった事を知っている妹は、俺の前には二度と立つ事は出来無いと思っているだろう・・肉親の血のつながりなんて決して消える事は無いのに・・会社は俺と美弥子の命と思うものだったが、それと妹と比べる事なんか・・それを俺は二重に辛い・」

もう百利子は、こぼれる涙をこらえることが出来なかった。加藤のその崇高な魂が見えたのだ。その苦悩がありながら、なお百利子の魂すら揺さぶる大きな暖かな人間像がはっきりと映っていた。

「駄、駄目・・私はもう・・生を選べない・」

「・・・何?・君はもう俺と同じ筈だ。」

「いいえ、いいえ、違うの・でも、聞いて。彼は追ったの。右翼の大物X氏を。戦後の怪物・妖怪・・、数限りなく不透明な男の最後と言われたB会社乗っ取り事件と、元自民党政務会長C氏の決定的なつながりの証拠を」

「そう言えば・数年前だったかな、その事件は・・するとあそこまでX氏とC氏を追い込んだのは・・」

「そう、彼達。三年掛かったわ、彼の仲間との執念とも言えるものだった。でも、そんな喜びなんて一瞬の事でしか無かった。社会正義なんて力の無い者が振りかざすものじゃ無いって事・・思い知るのはすぐだった。一人、また一人と、事故死、自殺。そんな偶然があり得ると思う?危険を察知した私達は逃げたわ。でも改めて私たちは、強大な力を思い知らされる事になる。逃げる、追ってくる、・・その繰り返しだった。彼も私ももう限界だった、その時もうすでに覚悟を決めていた彼は、友人の所へ私を匿って貰うよう頼むと一人組織に挑戦したの。彼の挑戦とは、自分を死のモデルとしてマスコミに売ること。三ヶ月後に届いた彼の訃報にも、もう涙も出やしなかった。」

「でも、彼は死と引き替えに組織を解体したじゃないか。すさまじいほどの執念だな・・」

「そんなもの栄誉なんかじゃない。」

「君は彼の死を無駄死にと・・言うのかい?」

加藤の目が光った。

「ええ、その通りだわ」

「そんな、彼の命を賭けた愛が。」

加藤は理解し難い顔をした。

「愛?愛とは苦しみを与える事?哀しみを残す事?」

由利子の目は光った。

「そうじゃない、何故今更彼の死を卑下しようとする、その意図を聞きたい」由利子は目を伏せた。小刻みに体が震えた。その様子に加藤は、

「まだ君は何かを隠しているね、全てを失う哀しみを知っている君がそんな事にこだわっている筈があるまい」

「・・ふ、ふふふ・。貴方は心理学者なの?」

由利子は低い笑い声をあげた。

「言いたくなければそれでもいいさ。でも俺達の夜もここまでだ」

加藤の言葉は冷たい響きをもって聞こえた。

沈黙が流れる。

「一緒に死んでくれる?」

由利子が聞いた。

「聞こうか?・・それからだ」

「駄目だわ、それじゃ・・」

「もう一度だけ言う。死ぬ人間にとっては、恥も無ければ外聞も無い、君がこの時にためらうのは、彼に残された言葉があるからだろう、生きろ・と。一度は俺は死んだ人間だ。そして、今、その全てを失った。俺を信用できなければこの場で殺してくれ。俺は美弥子と約束したんだ。自分では死ねない」

「うっ、うううう・・・」

由利子の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「そうだ、泣けるだけ泣くがいいさ。今君が泣いている事が生きている事の証明なんだよ・・」

「駄目、駄目よ。やり直しなんて出来ないわ。私は昨夜x氏を殺してしまったの」

「何だって!?」

「女の私にとって出来る事と言えば、ただ女であるという事だけ。マヌカンをする傍ら夜はクラブ勤め、待つ以外方法はなかった。やっと、やっとなの・昨日x氏に誘われたの・永かったわ」

「そうか・・そうだったのか」

加藤はしんみりとして言った。

「行こう・・」

「どこへ・?」

この後どうなったか、それは分からない。聞いた所でどうなるものでもないし、

どこかの酒場で今日もまたある出来事なのだから・・

数日後の新聞にはx氏の死が急性心不全と報道されていた。

昭和63年10月22日作完