佐古今昔 
  佐古地区は、北は鮎喰川旧流路である田宮川, 東はそれが合流する新町川、西は旧讃岐街道が分岐する佐古三ツ会、南は眉山北麓に限られた地域をさす。 サコという地名は「狭処」(さこ)の意かといわれる。 谷合をさす地形地名の一つであるが、とくに谷の一部が迫って狭隘な地形をなす箇所によく用いられている。 迫・佐古・硲・坂・砂・作などのいろいろな字があてられ、全国的に分布しているが、どちらかといえば西日本が多く、南九州や中国地方などに特に多い
  佐古の場合は、眉山山麓と旧鮎喰川(佐古川は鮎喰川旧流路)川岸間の細長い狭い地にその地名が起こり、後に田宮川以南の地まで佐古と呼ぶようになったと考えられる。
 (注)鮎喰川は、かつては一宮北方から田宮川・佐古川の流路を通って新町川へ流入していた。
  天正13(1585)年蜂須賀家政(蓬庵)は、徳島城築城と城下町建設に並行して城下を水害から守るため、鮎喰川右岸に堤防(蓬庵堤とよばれる、一部現存)を築き、鮎喰川を北流させて別宮川(現吉野川)に合流させた。 
  藩政時代の佐古地区は、佐古川の自然堤防上を西にのびる伊予街道(徳島城鷲の門を起点とし通町・新町橋・西新町・佐古町から西進し伊予国境に至る)沿いに発達した佐古町と、その北側一帯および眉山北山麓沿いの侍屋敷、そして、その周辺の農村部である名東郡佐古村から成っていた。
  城下町徳島の地は、吉野川・鮎喰川と南の園瀬川の三河川が埋積して造った複合三角州で、大部分が2.5メートル以下の低湿地である。 そのため、吉野川の分流である新町川・助任川・寺島川・福島川・中洲川などが網状に乱流している。  この網状河川を豪掘りとして利用した「島普請」によって城下町の建設が行われた。 城下町は「御山下」とよばれた。 寛永8〜13(1631−36)年ごろに作られた忠英様御代山下画図には、佐古の地は村方として表現されているが、付紙に「町屋二被成所」とあるところから、当時藩によって町屋として開発されていたことがわかる。
  阿波誌によると、江戸中期の御山下の西端は佐古二本松としている。 椎宮八幡神社の古馬場(現佐古小学校西側道路)入口に建てられた屋根つきの大門の両側に植えられていた二本の松がそれであるといわれる。
  貞享2(1685)年、市中町数並家数によれば、佐古の町数9町・家数155とある。 佐古川の舟運の便も開け新興の佐古町が17世紀後半に領内農村や市中から移住者によって家並続きとなり急成長を遂げた様子がうかがわれる。  元禄4(1691)年の綱矩様御代山下絵図では、街道に沿って、その両側に町屋が帯状に配列して街村状にほぼ佐古二本松で立ち並び、その北側に町屋と並行して足軽町、さらにその北に侍屋敷が描かれている。
  足軽町は鉄砲組が集住したものであり、小裏丁・大裏丁に碁盤目状の区割で整然として配列されていた。 その北の台所丁には200石取以下の中・下級藩士の侍屋敷が配列された。 定普請丁には平時は普請・作事にたずさわり、戦時には槍組として鉄砲組のあとを警備する者が住み、外敵の侵入に備えた。 また、眉山北麓の諏訪神社西方の上・下大安寺筋にも侍屋敷と鉄砲足軽の屋敷が置かれている。 佐古の特徴は足軽屋敷が多かったことで、とりわけ鉄砲足軽の屋敷が集中していた地といえる
  17世紀後半以降、佐古二本松以西の伊予街道沿いにも、佐古町の発展とともに、町屋が建ち並ぶようになり新興の町場(郷町)を形成していった。 郷町と郡奉行支配の地域において、商工業を許されて町を形成しているところ(農村における商工業的小都市集落、美馬郡脇町・阿波郡市場町など)で、徳島城下町では、町屋の続き地で町場化した佐古郷町・助任郷町・福島郷町・二軒屋郷町の4町があった。
  佐古郷町の範囲は、佐古5丁目のうちから鮎喰川の土手に至る11町目までであった。
 元禄6(1693)年のその屋敷112軒、およそ100年後の寛政元(1789)年には、家数583軒・人口2,211人で家数は約5倍となっている。 爆発的な人口増を示している。
  城下町内外から人が集まり活況を呈していたことがうかがわれる。 文化6(1809)年の絵図をみると、佐古三ツ会付近にまで町並続きの景観となっている。 佐古郷町発展の背景には、農業生産力の向上と商品経済の発達に加え、伊予街道に沿って立地し、吉野川流域をはじめ、阿波中西部の村々を後背地にもっていること、佐古三ツ会で讃岐街道が合流して北方からの物資や人の出入口に位置していたことなどがあげられる。 
 当時の記録によると、佐古三ツ会の表通りには、反物・古着屋・質屋・酒屋・そば屋・藍屋・八百屋・駄菓子屋・荒物屋・薬種屋などが軒を並べ、その裏通りは主として大工・鍛冶・畳職など職人層が住む借家が建てこんでいた。 日常生活に必要な商売がそろっていることと、零細ともいえる商人が多かったこと、また借家人が指摘できる。
  藩政末期の佐古町を知る意味で、明治初年の職業別構成をみると、就職人口526人(富田浦町1712人、西新町544人に次ぎ第3位)、その内訳は商業259人(富田浦町275人に次ぐ)・工業121人・雑貨120人・その26人(士族を含む)となっている。 商業は、青物短担売26人・小間物20人・古着18人・柑類17人・菓子14人・穀物11人・薬種7人・魚7人・煮采6人などである。   工業は、縫針女手工業39人・大工15人・鍛冶10人・縫箔6人・桶工などで、この時期にはかなりの商工業地域に成長している姿が理解できる。
  明治2(1869)年まで、佐古町は、1丁目から10丁目(現在の国道192号線と旧佐古本町筋が合流するあたり)までであった。 それから西は、佐古郷町11町目と呼ばれていたが、明治3(1870)年番組町村制が実施されたとき、佐古町10丁目の境界から西へ佐古三ツ会までを6丁に分割し、佐古町11丁目から16丁目として佐古町に編入され、徳島市街7番組に加えられた。 明治(5)年大小区制が実施されると、佐古町・佐古村・倉本村は第一大区(名東郡)4小区を構成した。 
  明治12(1879)年、郡区町村編制法が実施されると、町村区域の変更などが推し進められ、明治13〜14(1880-81)年に佐古村および蔵本村のそれぞれ一部を、佐古町をはさんで南と北がその区域であったため、住民の不便および行政上の支障が生じていたので、これを解消するため分割し南佐古村が新設された。  明治21(1888)年4月、市制・町村制が公布(翌年4月1日施行)され、翌22年10月1日、徳島市が誕生し、佐古町・佐古村・南佐古村は市域に編入された。 当時の戸数・人口は、佐古町1,239戸4,998人・佐古村1,381戸4,131人・南佐古村257戸1,042人で、佐古町は細長い一条の街路で西端の数丁は、農業あるいは農商業であり、また南佐古村もわずかな戸数の一村落にすぎない現状であった。 佐古町は従来のままで、佐古村は北佐古町、南佐古町と改められた。 その下に大裏丁・小裏丁・台所丁などの小字をつけて呼ばれた。
  第二次大戦が始まり、徳島市は、町内会組織や防空体制の強化を図るため、八万・加茂を除いて町名を全面的に改称し、小字の呼称はすべて廃止して簡単な表示とした。 昭和17(1942)年11月1日施工で、佐古町は佐古町1〜16丁目、大裏丁は中佐古町1〜9丁目、台所丁・楠小路らは佐古町1〜16目、小裏町は上佐古町1〜16丁目、定普請丁らは東佐古町1〜2丁目、大谷・初江島らは南佐古町1〜16丁目と改称された。 昭和20(1945)年7月4日早朝の大空襲により、佐古地区も西部と南部の一部を残して灰燼に帰した。
 現行の町名表示になったのは、昭和39(1964)年3月31日である。
  佐古地区の工業をみると、かつては食料品工業をはじめ木工・繊維などの工業がさかんであった。 食品工業では、酒、酢などの醸造業をはじめ、味噌・醤油・製菓・パン・製麦・製粉。 清涼飲料水などが主で、佐古町(佐古本町)筋に多く立地していた。 酒・焼酎・酢などの醸造業は藩政時代から鮎喰川水系の良質な地下水を利用して発達し、20に達する造り酒屋が各町ごとに点在していた。 中には通行人を対象に飲み屋として生産と小売を一手に行う零細経営もみられた。 昭和30(1955)年ごろには、存続するのはわずか6軒にすぎず、現存しているのは斉藤酒造場(佐古7番町)1軒のみとなっている。
  昔、駄菓子屋の店先にところせましと並べられていた駄菓子屋やお嫁さんのお菓子など地菓子も多くは佐古で作られた。 ほとんど手作りで職人たちの技で各店独特のものを競い合い、一時生産は四国一を誇ったこともあった。 時代の流れや嗜好の変化によりほとんどは消え去ったが、中にはいまなお昔の味の伝統を受け継いで駄菓子作り道を歩んでいる店もみられ、菓子問屋も多い。
  木工業は、渭東地区には遠く及ばないが、昭和30年ごろには40数軒を数え、ほとんどが家内工業で下駄・建具・針箱・鏡台・タンス・和洋家具・床材・仏壇などを製造していた。 製品の販路は、県下一円、さらには京阪神地方にまで及んだ。
  また、地下水利用産業としての染色業や機屋なども盛んであった。 染色業を代表したのが長尾染色工場と美馬染織工場であった。 長尾染色工場は、明治中期に洋反物商として財をなした長尾伝蔵が明治41(1908)年6月北佐古町(現佐古2番町)に創設した。 蒸気を動力とした豊田式小幅織機100台と染色用の藍がめ20個を備え、従業員80名で発足した。 明治末年にイギリス製広幅織機60台を輸入し、第一次世界大戦期には中国市場に綿織物を大量に輸出、企業規模を拡大した。
  大正14(1925)年には、株式会社長尾商会に改組。 その後、昭和8(1933)年に名東郡加茂町庄(現庄町5丁目)に暖房完備の近代的染色工業を新設、県下最大の染色業者に発展した。 この両工場で生産した輸出用綿織物には、扇海・白樺・長尾鶏の商標を付して海外市場に出荷した。 一方、美馬染織工場は、藩政時代から綿糸・木綿を売買していた美馬儀一郎が明治41年11月田宮川沿いの名東郡加茂名村大字蔵本村字川添(現佐古8番町)に設立したもので、7,260平方メートルの敷地に染色・漂白・織機・起毛・整理の5棟の工場を建て、織機101台と染色機7台を備え、従業員277名で生産を開始した。 花馬印の綿ネルを中心に白綾ネル・白哂二綾などを生産し、内外市場に出荷した。
  県内の染色業は、昭和16(1941)年5グループに統合され、長尾・美馬はそれぞれ織物製造業統制グループの中心的生産工場であったが、戦争の激化につれてやむなく軍需産業に転進していった。 空襲を受けて多くの工場が消失したなかで、幸いにこの2工場は被災をまぬがれた。 残った工場も美馬染織は、工場を閉鎖し撤退した。 一方、長尾商店は繊維業の多角化を推し進めていったが、昭和40年代の繊維業の構造不況によってレジャー産業など他分野に進出し繊維業から撤退せざるを得なかった。 現在、藍染工場として純正藍の注染で知られる古庄染織工場(佐古7番町)があるのみである。
  海部ハナが、慶応2(1866)年に創製した「阿波しじら」は、士族授産事業に支えられて明治前期徳島市内には50余の機屋があった。 うち佐古地区の機屋は10数軒を数え、現在の南佐古5番町あたりに多く集まっていた。 阿波しじらの生産量は、大正8(1919)年ごろをピークとして大正11年ごろからの綿織物業の不況により苦境に陥り、昭和初期にアッパッパと呼ばれた夏の婦人用簡単服の流行や新興した人造絹糸織物の進出で国内市場を失っていった。 さらに金融恐慌に端を発した経済不況によって転廃業する工場が続出した。
  佐古地区の工業の現状を平成11(1999)年工業製品出荷額(万円)でみると、総額748,225(市全体の1.7%)  @   食料品 515,949(同18.1%)  A   木材・木製品 42,046(同2.2%) B   衣服 29,255(同 3.6%)となる。
  食料品工業のみが際立っているが、市内では八万・沖洲に次ぐ地位にある。 佐古町(佐古本町)は、前述したように、県西部の広大な後背地と伊予街道筋という地の恵まれて、藩政時代から物資の一大集散地として栄え、多くの問屋も集まるようになった。 明治以降その傾向はさらに強まり、明治32(1899)年徳島鉄道徳島〜鴨島間(18.9km)が開通し、明治41(1908)年蔵本に歩兵第62連隊が置かれ、昭和4(1929)年には鋼桁製の上鮎喰橋(橋長274m・幅員6.4m)が架設されて一層の発展を遂げ、市内最大の卸・問屋街を形成していった。
   昭和29(1954)年の調査によると10丁目(現佐古5番町)以東では、菓子・金物・衣類・傘・履物・小間物などの卸売商が多く、西は菓子・衣類・酒などが多いのが特徴である。 ただ佐古本町筋は道路の幅員が狭く、車両の通行も自由にならないほどであった。
  昭和28(1953)年、四国四県での秋季国民体育大会開催を機に、蔵本球場への道筋にあたる、元町1丁目から藍場町・南出来島町・中佐古町(大裏丁)を経て佐古11丁目(現佐古6番町)間に車道・自転車専用道・歩道を有する幅員30メートルの国体道路(現国道192号)が新設された。 国体道路の開通以後、沿線には金融・保険・サービス業関係の支店をはじめ、病院・各種商店が立地し、建物の中・高層化も進み佐古の中心街は佐古本町筋から国道沿いに移った。
  平成9(1997)年、徳島市の卸売業の店舗数を地区別にみると@沖洲254、A佐古146、B八万127の順となる。 沖洲地区が最多を占めるのは、徳島市中央卸売市場とマリンピア沖洲(製造・卸売・流通団地)があることによるところが大きい。 また八万には徳島市繊維卸団地、川内には平石流通団地ができ、佐古本町卸売商のこれら大規模団地への転出もみられた。 佐古地区の卸売店舗数146の内訳を多い順にあげると@食料・飲料18 A医薬品・化粧品等13 B建材材料12 C家具・建具・什器等11 D一般機械器具11 E衣服・身の回り品9となる。 うち食料品・衣服・身の回り品・家具・建具・金物などは佐古本町筋に多く集まっており。 現在もなお卸・問屋街としての地位を保っている。
  北佐古は、昭和10(1935)年3月20日、国鉄高徳線の開通にともなう佐古駅の開業によって、その発展のもとは築かれたが、第二次世界大戦前までは、諏訪馬場から田宮方面への道路沿いに街村状に集落があるだけの近郊農村であった。 田宮川とJR徳島本線に囲まれ佐古地区の中心街と遮断されていたこともあって、昭和40年代初めまで都市化から取り残されていた。 いまは農地は散在するだけとなり、県JA組織の中枢管理センターともいえる県JA会館とその関連施設が集積して広大な面積を占めている。 また、田宮川沿いを中心に中小工場が立地し、住宅地というよりも準工業地としての性格を強くもつ地域となっている。
  南佐古は、眉山北麓と佐古川にはさまれた比較的閑静な住宅地である。 第二次大戦前には佐古小学校から西の5〜8番町の地域は、眉山北麓一帯と椎宮八幡神社門前の馬場沿いに集落がみられるだけの田園地帯であった。
  昭和30(1955)年以降都市化が進み、新興の住宅地域に大きく変貌し、農地は7〜8番町に散在して残っているだけでまとまって存在するところは少なくなっている。
  眉山北麓には、藩政時代から寺社が多く、1番町から西へ三柱神社(もとの秋葉神社など合祀)・臨江寺・諏訪神社・清水寺・天正寺・大安寺・椎宮八幡神社などが点在する。 諏訪神社と清水寺は、勢見の金毘羅神社と観音寺、福島の四所神社と慈光寺、助任の八幡神社と万福寺とともに城下の要地に配置され、寺は兵営に、神社の馬場は兵力の展開に、それぞれ非常時に備えて配置して城下の防衛に充てられたものである。 ほかに2番町に本門仏立宗立正寺、3番町に事代主神社・真言宗醍醐派大教院などがある。 4番町に佐古小学校、そして4番町南の佐古山には旧藩主蜂須賀家の万年山墓地がある。 6番町には徳島市水道局佐古配水場がある。
  1〜2番町は、かって大谷とよばれて石の町であった。 佐古山は、阿波の青石とよばれる緑色片岩層に恵まれ、建築・土木用材として大谷の御石口から採石されていた。 徳島城石垣お増築にも使用された。 佐古石ともよばれて、おもに佐古川の舟運を利用して積出されたが、大正期に入るとコンクリートなどの普及によって衰微し、昭和10年ごろ石口も閉鎖された。 いまも諏訪神社境内にある青石造りの大灯ろうとそれに刻まれた「大谷」の大文字に大谷口の繁栄を忍ことができる。
  なお、佐古地区の人口は、昭和40(1965)年の19,501人をピークに、のち今日まで減少してきているが、世帯数は昭40年以後も、5,500戸前後で推移し、平成年間に入ってむしろ漸増傾向にある。 少子化と核家族の進行を明白に示している。