寺名 庚申山 本是院 天正寺 南佐古三番町3−1
本尊 大青面金剛 高野山真言宗
現住職 石本 信成  
 境内の本堂からやや高まった山麓に庚申新八狸・お竹狸・権八狸を祀った祠がある。 お竹狸は新八狸の女房、権八狸は新八狸の子供である。 新八狸は佐古界隈きってのボスで金長狸と並ぶ勢力を持ち、阿波の狸合戦では金長方に味方をした。 また庚申八狸と北島藤蔵の話はよく知られている。
 (注)庚申信仰 干支の庚申の日に行われる信仰行事。 中国の道教では、人間の体内にいる三戸(さんし)が人間の早死にを望んで庚申日の晩に寝ると体内から抜け出して天帝(北斗)にその人の罪過を告げ、その結果、天帝は人を早死にさせるから、長生きするためには庚申の夜に身体を清浄にし身を慎んで静かに徹夜せよと説き、その徹夜を守庚申と呼んだ。
 三戸・・・上戸は首から上を病気させる。眼が悪くなり、口が臭く歯が抜け、しわがふえるのは上戸の仕業である。
中戸は五臓の、下戸は生殖器関係の諸器官を病気にさせて早死にさせようとする。

 三戸の説は、日本の伝わって奈良時代末ごろから宮廷中心に守庚申が行われたが宴遊が主であった。 室町時代に僧侶によって、『庚申縁起』がつくられてから仏教的になり、道教とちがって、かなり大勢の人が集まって音曲を奏しながら賑やかに徹夜した。 江戸時代には修験道・神道でも独自の庚申信仰を説きだしたので全国的に盛んになった。 各地に庚申堂が建てられ庚申講が組織された。 神道では猿田彦大神、仏教では青面金剛を本尊とする場合が多いが他の神仏も本尊とされた。 本県では、元禄〜明和(1690〜1760)にかけてが全盛であった。
 (注)歓喜天(聖天) 仏教守護神の1つ、もとヒンズー教の神であったが、仏教に入って障害をなす魔神を支配する神となった。 その形象は象頭人身の立像で、単神象もあるが男女2天が抱擁する象が多い。 このため秘仏とされるのが多いが、夫婦和合・子さずけ・除災・豊作・商売繁盛・緒願成就の功徳のある神として民間信仰が盛んである。 修法にあたり身体に油をそそぐことが多いので銅鉱金製の小像が多い。
 社宝として3代藩主光隆が寄進した祭神建御名神立像がある。 境内東斜面には文政12(1829)年の銘がある大灯ろう、大鳥居わきに
「まよいご石」がある。 大灯ろうは高さ約5メートル・傘の大きさ3×2.3メートルの青石(自然石)造りで、深く彫り込まれた「大谷」の
大文字が印象的である。 わずかな接地面積で建立以来倒壊することなくよく地震に耐えてきた。 徳島市内でこれだけの重量感・大きさ・安定感をもった自然石の灯ろうは他に例を見ない。 まよいご石は高さ1.5メートル・幅1メートルの青石の立石で「まよいご石」と刻まれている。 昔 祭礼などで迷い子をみつけると、その子をこの石に結びつけて置いたもので、子の縁故者が石の前で対面し、神様に感謝・
礼拝して子を家に連れ帰ったといわれる。 神紋の鎌は、祭神建御名方神が鎌を用いて信濃国を開拓した故事によるという。
 当社のほかに境内には22社、境外に3社がある。 境内におもな社は表のようなものがある。
 いまは昔の秋祭り情景を素描すると次のようになる。
 諏訪神社は、拝殿が急な石段を登って高い位置にあるため、露天商は下の広場に店を出した。 夜店は広場を埋め尽くし、さらに佐古
本町の街角までののびていた。 清水寺の境内では春子太夫が芝居小屋を建てて興業をし、また、「のぞき」という出し物もあった。 「のぞき」は、間口約3メートル・高さ約1.5メートル・奥行き約2メートルほどの台を設けて、客が正面にあるのぞき穴から中を見ると、正面に大
型の紙芝居風に大きな絵が見える。 台の上にいる男女が竹で台を打ちならし調子をとりながら、おもしろおかしく口演し、からくりで絵
を変えて10数枚でもって1つの物語が終わるという趣向である。
 佐古町1・2丁目、3・4丁目、5・6丁目、7・8丁目でそれぞれ1台ずつ計4台の「山車」をもち、大谷は「日の丸」、馬場筋は「国の豊」と呼ばれ
る「よいやしょ」を出していた。 「山車」は、車がついた屋台で、御殿風の屋根がある。 顔を白粉と紅で化粧して眉の上方に位星をかいた
10歳前後の男子が、きれいな錦や緞子の中袖の衣装を着て、頭に烏帽子をかぶって10人がそれに乗る。 うち5人が太鼓を囲み、鉦・
太鼓で調子を合わせて神楽囃子を奏でながら、大勢の子供・若衆がこの屋台を引き動かして氏子の家をまわる。 「よいやしょ」は、8歳
前後の男子が山車の場合と同様の化粧をし、白縮緬の清らかな筒袖の着物に紅白のたすきと鉢巻き姿で4人乗り、台の4隅に座って紐で
縛って身体を固定し、台中央の大太鼓を「クニノトヨ」「ヒノマルニ」とかけ声を合わせてたたく。 台を担ぐ大勢の若衆は「サセー、サセ
ー」「オロセ、オロセ」と呼びながら台を激しく上げ下げしたり、「トーバシタ、トーバシタ」といいあい「マワレヤ、マワレヤ」と勢いよく暴れ
まわった。 御輿の行列は、賑やかに町中を練り歩いた。 当日仕事は休み、、学校も休校であった。 子供らは小遣い銭をもらって一日中お宮に入りびたり、各家庭はうどんやすしというご馳走を作って親類を招き、楽しい一日を過ごした。




 宝暦年間(1750年代)西圓法師により開基され藩政時代は寺町にあったが、昭和の初め現在地に移転、この地は佐古村の外れで、
400年あまりの歴史があり、大三味といわれる墓地をもつ西方寺という寺があったが、合併により教行寺となった。
 昭和38年〜40年にかけて、壇信徒や地域の御協力により、墓地整理がなされた。 大三昧の名を残す墓地は彼岸、盆を問わず、
多くの人の墓参がある。 平成8年境内にあった大銀杏が台風により倒れたのは惜しまれる、旧寺域の一部は北佐古子ども会館と
公園になっていたが、現在は子ども会館はなく公園だけてある。

寺名

教行寺

北佐古二番町

本尊

阿弥陀如来

真宗大谷派(東本願寺)

現住職

尾関 博

 その昔、佐古の村外れに小三味(こざんまい)といわれる淋しい墓地があった。 今より約299年余昔、墓地管理のために薬師庵という小庵が作られ長らく尼僧が供養の役を果たしていたという。 墓地管理のため、宗派にとらわれない形の活動を続けてきた。
 戦後、宗教法人制度整備の中で、昭和27年ころ般若院の世話で寺格を得たが、現在信仰心のあつい写真家・原田是宏が住み込
みで寺を守っている。
 境内には年代物の一石浮彫り地蔵などの石仏があり、寺の由緒や信仰の姿を物語っている。 同町内の大三昧と会わせて地域
性を想像することができよう。

寺名

東光寺

北佐古二番町

本尊

阿弥陀如来

高野山真言宗

住職

宮崎 信也

寺町 般若院兼行

 福蔵寺は天平年間(750年ころ)僧行基が当地に来たとき、地蔵菩薩像一体を刻んだことに始まるという。 その後の長い歴史の中で消長があったが、寛永期
(1630年ごろ)宥遍上人により再興し、本堂・観音堂・寺宝なども多数あったが、
戦災で全部消失した。
 寺名に因み幅を受けたい信者、境内の子授け地蔵への信者など、多くの参詣者
がある。

(注)観音霊場 阿波西国33ヶ所の第3札所

寺名

福蔵寺

佐古二番町

本尊

地蔵菩薩

真言宗大覚寺派

現住職

金田 義幸

 本寺の所在地は、寛文元年(1661)に蜂須賀藩重臣の越久田氏(藩の貨幣鑑定担当、財政の中枢)が、藩主から拝領、川岸を開拓し
荷揚場とした地である。
 寺伝では寛文年中(1670ころ)越久田氏により鳴門円隆寺僧を招いて
開創したという。 寺内の白雲霊神の説明により痔疾に悩む病者が、
お題目を唱えれば御利益は確実と信じられている。

寺名

妙法寺

佐古一番町

本尊

輪円具足大曼荼羅

法華宗(本門流)

現住職

佐々木 明秉

 阿波には狸の民話があり、佐古地区には多くの武勇狸がいたが、戦災で住み処が焼かれ当社境内に集められているのもおもしろい。
境内はつつじの名所、昭和初期から植えられた平戸つつじを中心に約2000本のつつじ園は、開花時には全山がつつじで埋まり、多くの花見客が集まる名所となっている。
 社殿に向かって左奥の蛇谷は銘渓で、家老賀島氏の別邸もあったが、その奥に蛇谷の主の白大蛇を祀る白龍神社が小さく鎮座している。 石の参道も割合残っていて、昔の姿をしのぶことが出来る。

 寛文年間(1661〜73)名東郡矢三村(古八幡)から当社へ遷座とか。 うっそうと茂る森の中、高い石垣と石段の上に威厳に満ちた本殿・拝殿などがある。 本来、八幡
神社は武勇の神とされ、多くの信者を集めた。 佐古西半部の村社である当社は、商人
気質と相まって例祭も盛大で、大正期までは競馬神事があり敗戦前までは軍神信仰
もあって県下一の大きなみこし、屋台数台も出、多くの露店も出て賑わったが、戦後の
宗教離れで、最近は淋しくなってしまった。
 境内には末社として稲荷神社、神明社、鎮守社、天神社がある。 また、付近の小庵から
託された大師像(亭保14年銘)地蔵像(宝暦5年銘)馬頭観音万人講(天保6年銘)の石塔
など、昔を語る史跡がある。 また、神社正面の大鳥居奉納にまつわる悲しい伝説もあるが、
史実とは多種異なっているらしい。

 

神社名

椎宮八幡神社

南佐古七番町

主祭神

品陀別名 木花耶姫

宮司

辻 保雄

 本寺は、蜂須賀家政が、顧問僧泰雲禅師のため慶長7(1602)年建立と伝える。開基に際し、この地に霊水名渓があるのを見て決定したとか。 徳島城内にあった
家政の妹東林院の書院を移し、のち寺領200石を与えられるなど、特別の待遇を受け、
俗に「大寺」と呼ばれて、蜂須賀家の菩提寺として興源寺に次ぐ名刹であった。
 境内の東隅に残る名水は菩薩泉(新居水)として知られ、湧出の姿は菩薩の化現の
ようだという。 味は清甘、茶の湯または酒水として重用され、藩邸まで送られた。
この泉は現在も使用中で、現地に祈念碑がある。

寺名

大安寺

南佐古六番町

本尊

聖観音像

臨済宗妙心寺派

現住職

山口 宗順

 承応年間(1652〜55)に伊賀町の正徳寺近くに置かれ、助任町の徳善寺の宥雲上人の開基になるといわれる。 万治年間(1658〜61)に同地
に松巌寺が置かれることになったので現在地に移ったという。 本堂に本尊
木像大青面金剛尊を眷属である二大童子、四大夜叉とともに安置し、おつかい
猿と鶏の石像木像もある。
 佐古の庚申さんとして知られ、61日ごとの庚申日(縁日)には、宵から
講組のものが当家を引き受けて庚申堂で真言を唱えて家内安全・身体健康・
息災・延命などを祈り、老若男女が多く集まって四方山話に夜をあかしたとい
う。 睡魔におそわれ、どうにもならないときには、「しょうけらがねたとき
たかぬものを。ねたれぞねぬぞ。ねぬぞねたれぞ」と誦文をとなえて青面金剛
にお願いし、床についた。 庚申さんには、米の粉を生のままねったシドキ餅
のお重ねと七色として煮小豆・赤寒天・椎茸・高野豆腐・昆布・かんぴょう・
色豆麩七品をかわらけにのせてお供えする。 縁日には参道沿いに露天があり
佐古本町近くまで並び、盛大であった。 現在では庚申日に護摩祈願供養が
執行され参拝の人々がおとずれている。

 醍醐寺の阿波1号修験道場でもあった。 開基は坂野青堂。 清堂は、蜂須賀藩御用船で働いていたころ、勘定方坂野楚平に認められ、その娘チマと養子縁組。
妻チマが重い病に倒れたとき八栗聖天参りをし、ある高僧のもとで、病気平癒祈願
の修行を命がけで行い治癒にみちびいた。 悟りを開いた青堂は、衆生を救おうと
決意して、当時廃寺であった勝浦郡中田村(現小松島市)東海山大教院を移転再建し
大正2(1913)年現在地に独立の一時をかまえた。 本尊の大聖歓喜天(聖天)は、
もと清水寺歓喜天としてその名が知られていたもので、象頭人身の男女2天が相擁
するブロンズ製立像である。 病気平癒・無病息災のほか夫婦和合・子さずけ・商売
繁盛合格成就などのご利益がある。 第二次世界大戦以前には、佐古のお聖天さん
として親しまれ、開基清堂の徳をしたい多くの信者を集めた。 毎月1日は聖天様の
日として月参りをする熱心な信者が絶えず、8月1日の縁日には花火大会なども行われ
大変な賑わいであった。

 また大教院門前の北端には大正10年ごろ大教院が経営する私設の廉売市場が
あったが、それを徳島が買収し、大正12(1923)年末佐古公設市場として開設した。
米穀・みそ・醤油・青果物・菓子・生魚・海産物・肉・金物・薪炭・小間物など日用品を扱う
各小売商人が出店して廉価販売しにぎわった。 物価統制が色濃くなる昭和13
(1938)年まで続いた。

 

寺名

大教院

南佐古三番町

本尊

大聖歓喜天

真言宗醍醐派

現住職

坂野 栄禅

 寺伝では、寛永9(1632)年寺町の願成寺住職、宥蓮が隠居所として創立し開祖となり,藩主 蜂須賀至鎮が大願主となって山門・経堂・方丈・庫裡や毘沙門天像などを寄進したと伝えられる。
 山門は勝瑞城あるいは一宮城の城門を移築してきたという口碑がある。
 阿波国真言宗沙門の伝法受法道場として知られ、、慶安2(1649)年大覚寺門跡の尊性法親王
(後陽成天皇皇子)が大阿闍梨となり、723人に伝法潅頂を行ったこともあったという。
 徳島城防衛の拠点の任務も帯び、また願成寺のあとを受けて諏訪神社の別当をつとめた。
 本堂は明治初年に伊賀町の松巌寺裏にあった徳川家ゆかりの慈本院の本堂を購うて
移したものといわれる。 第二次世界大戦での空襲では、佐古地区の被災者の救護所となり、
人名救護に大きく貢献した。 寺宝に毘沙門天像・弘法大師像(ともに室町期のものと推定)・
涅槃図・十二天軸物などがある。 境内には儒者礼法家吉井其楽・砲術家 北島藤蔵・俳人 上田魚行
・思想家 黒上正一郎などの墓がある。

寺名

清水寺

南佐三番町

本尊

准胝観音像

高野山真言宗

現住職

上田 善弓

 神社名  祭 神
 若宮神社  誉田別命・比売大神・気長足姫命
 大国主神社  大国主命
 天神社  菅原道真
 事勝神社  事勝国勝長峡
 稲荷神社  倉稲魂神・薩田彦命・大宮女命
 事代主神社  事代主命・蛭子神
諏訪神社 佐古山町諏訪山 宮司 片保 佐知子

 蜂須賀家政が徳島城築城し、城山の北東麓にあった諏訪明神社を現在地に移したと伝え、また一説には現名西郡石井町浦庄の諏訪社
(現多祚御奈刀弥神社)から分岐したともいわれる。 祭神は建御名方神。 武勇の神として歴代の藩主・庶民の尊宗あつく、渭津五社
(寺町春日神社・富田浦八幡神社・福島四所神社・助任八幡神社・当社)の随一と称された。いまも市民から「佐古のお諏訪はん」といって
親しまれている。
 承応元(1652)年ごろから毎年秋の祭礼には藩主から馬引きの者をつけた三頭の供馬が奉納され大変にぎわったという。 大鳥居から
北に飛地境内である北佐古の野神社まで延びた約2丁(220メートル)の直線道路は、神事の一環として行われた競馬の馬場で、藩主が
見物するときには、鉄砲組の者が出て馬場に砂を入れるなど整備した。 また武士たちの乗馬の訓練にも使用された。

佐古不動院 南佐古2番町 波切不動明王 住職 折野 隆龍
 南佐古2番町不動谷を遡った所にきれいな滝があり、その上の岩頭に江戸期の銘のある不動明王
がまつられている。 不動明王は、右手に剣、左手に索(悩める者を救うため)を持ち、怒りの表情と
炎の後背で悪をこらしめ、業者を救い、仏界を守護する仏である。
 歴代の住職の努力により、霊験を信じる人が多く集まり、毎週定例の祈祷日には遠くからの信者も
集まる。 不動明王とは別に別称脚神さんで、脚痛膝痛に著効があると伝えられる。
 臨江寺のお松狸の十傑として出陣した亀七狸、不動の徳狸との民話もある。
 「本問佛立宗」は、安政4年(1857)佛立開導日扇(長松清風)の開講の本旨に基づき、
高祖日蓮大菩薩の教義をひろめ、儀式行事を行い、信者を教化育成することを目的として、
業務及び事業を行っている。
 立正寺は、大正7年2月に大阪清風寺から分組独立し、「徳島大歓西組」と名乗ったことを
創立とし、以来、大正12年11月徳島市鷹匠町に、修行道場の「徳島親会場」を建立した。
 戦後、宗教法人法の改正により本宗中興佛立第七世講有日淳上人を開基に、
昭和21年「妙徳山立正寺」と寺号公称をした。 しかし、鷹匠町が市の区画行政された
ため、現在地を入手、移転し今日に至った。
 本門佛立宗の信心は、「法華経本門八品上行要付の南無妙法蓮華経」の大曼荼羅を
本尊とする。 また、この寺院は、京都の本門佛立山宥清寺が本山である。
 この寺院は、開基日淳上人の徳をうけ、僧俗互いに和を結び淳風の流れをくみ、
無智の信心に住して、歓喜唱題(お題目を我も唱え他にも勧める)に徹し、
共に「定業能転の果報」を授かるための功を積み、菩薩の心で人身のために徳を累ね
お題目は有り難いと伝え、彼我共に運命の転換を感得することに努力している。 日蓮聖人の
真髄をモットーとする信仰である。
妙徳山立正寺     南佐古二番町2−7 本門佛立宗 上行要付所傳の南妙法蓮華経 住職 石井 日数
臨江寺 南佐古1番町 本尊観世音菩薩像 臨済宗妙心寺派  住職 小熊 啓史

 慶長10(1605)年曹洞宗の僧明堂が、藩主蜂須賀至鎮より当地を与えられ、牛蒡庵という一庵を建立したのに始まり、寛永2(1625)年に蜂須賀正勝の後室
白雲院を葬って、その法名をとり白雲寺と称したという。
 正保元(1644)年には蜂須賀家政妹の宝珠院(黒田長政夫人、のち離別し徳島城
西の丸に住す)が生母白雲院と自身の菩提寺として興隆を図り、藩主忠英に請うて
寺領20石を与えられた。 同3(1646)年には勝浦郡中田村(現小松島)の豊林寺(廃寺)
より香南和尚を招き、中興開山として寺号を挑渓山臨江寺と改称、臨済宗に転じたと
いわれる。 香南に次いで南山・暁山と高僧が相次いで住持し寺勢は隆盛に向かったが、
宝暦(1751〜63)以後次第に衰退していった。
 往時は南佐古1丁目(佐古橋)から2丁目(常盤橋)に及ぶ広大な敷地に伽藍が立ち並ぶ
盛況だった。 境内には宝珠院のほか、儒家増田氏や俳人柳屋氏ら多数の名士の墓が建ち並ぶ。
 明治維新後、藩の支援を失い、神仏分離により支持基盤を失い、表に面する地は道路や
民家となり、本寺は規模を小さくして、山裾に静かに佇んでいる。
 境内にお松大明神という狸の祠がある。 戦前は臨江時の北側、大岩にはりついた
松の大木の下に祀られていたが、戦災や道路整備などで現地に移転した。 民話・狸合戦の
女傑である。 シンボルの大松も戦中に枯れてしまった。 今は秋の狸まつりに、オリエンテーリングの子供たちの歓声がひびく。

                      

三柱神社 南佐古1番町 住職 片保 佐知子

 もとは秋葉神社と称し、祭神は奥津日子命・奥津比売命・大巳貴命で、臨江寺の鎮守であった
のち城下の火伏での神として藩の崇敬を受け、山下22社の1つであった。
 第二次世界大戦時の戦災で消失した社殿の再建にあたり、奈良県の立里荒神社を信仰して
いた徳島三宝講(代表天羽八十八氏)が中心となって、佐古の杉本光助氏・木内氏・友成氏、
八万の黒岩神社を崇敬していた山下氏などが信者より浄財を募り、昭和27(1952)年に再建
された。 このときに三宝荒神社および黒岩神社の祭神を合祀し、三柱神社と改名した。
信者は多いときには500人を越え、秋祭に御輿を川内町鶴島・津田町まで巡行したこともあった。
 かって境内一面をおおう「臥竜の松」という名松があったが、松食い虫のため立ち枯れし、今はない。 

佐古町内の寺社遺跡