寺名 | 庚申山 本是院 天正寺 | 南佐古三番町3−1 |
本尊 | 大青面金剛 | 高野山真言宗 |
現住職 | 石本 信成 |
寺名 |
教行寺 |
北佐古二番町 |
本尊 |
阿弥陀如来 |
真宗大谷派(東本願寺) |
現住職 |
尾関 博 |
寺名 |
東光寺 |
北佐古二番町 |
本尊 |
阿弥陀如来 |
高野山真言宗 |
住職 |
宮崎 信也 |
寺町 般若院兼行 |
福蔵寺は天平年間(750年ころ)僧行基が当地に来たとき、地蔵菩薩像一体を刻んだことに始まるという。 その後の長い歴史の中で消長があったが、寛永期
(1630年ごろ)宥遍上人により再興し、本堂・観音堂・寺宝なども多数あったが、
戦災で全部消失した。
寺名に因み幅を受けたい信者、境内の子授け地蔵への信者など、多くの参詣者
がある。
(注)観音霊場 阿波西国33ヶ所の第3札所
寺名 |
福蔵寺 |
佐古二番町 |
本尊 |
地蔵菩薩 |
真言宗大覚寺派 |
現住職 |
金田 義幸 |
寺名 |
妙法寺 |
佐古一番町 |
本尊 |
輪円具足大曼荼羅 |
法華宗(本門流) |
現住職 |
佐々木 明秉 |
寛文年間(1661〜73)名東郡矢三村(古八幡)から当社へ遷座とか。 うっそうと茂る森の中、高い石垣と石段の上に威厳に満ちた本殿・拝殿などがある。 本来、八幡
神社は武勇の神とされ、多くの信者を集めた。 佐古西半部の村社である当社は、商人
気質と相まって例祭も盛大で、大正期までは競馬神事があり敗戦前までは軍神信仰
もあって県下一の大きなみこし、屋台数台も出、多くの露店も出て賑わったが、戦後の
宗教離れで、最近は淋しくなってしまった。
境内には末社として稲荷神社、神明社、鎮守社、天神社がある。 また、付近の小庵から
託された大師像(亭保14年銘)地蔵像(宝暦5年銘)馬頭観音万人講(天保6年銘)の石塔
など、昔を語る史跡がある。 また、神社正面の大鳥居奉納にまつわる悲しい伝説もあるが、
史実とは多種異なっているらしい。
神社名 |
椎宮八幡神社 |
南佐古七番町 |
主祭神 |
品陀別名 木花耶姫 |
|
宮司 |
辻 保雄 |
寺名 |
大安寺 |
南佐古六番町 |
本尊 |
聖観音像 |
臨済宗妙心寺派 |
現住職 |
山口 宗順 |
醍醐寺の阿波1号修験道場でもあった。 開基は坂野青堂。 清堂は、蜂須賀藩御用船で働いていたころ、勘定方坂野楚平に認められ、その娘チマと養子縁組。
妻チマが重い病に倒れたとき八栗聖天参りをし、ある高僧のもとで、病気平癒祈願
の修行を命がけで行い治癒にみちびいた。 悟りを開いた青堂は、衆生を救おうと
決意して、当時廃寺であった勝浦郡中田村(現小松島市)東海山大教院を移転再建し
大正2(1913)年現在地に独立の一時をかまえた。 本尊の大聖歓喜天(聖天)は、
もと清水寺歓喜天としてその名が知られていたもので、象頭人身の男女2天が相擁
するブロンズ製立像である。 病気平癒・無病息災のほか夫婦和合・子さずけ・商売
繁盛合格成就などのご利益がある。 第二次世界大戦以前には、佐古のお聖天さん
として親しまれ、開基清堂の徳をしたい多くの信者を集めた。 毎月1日は聖天様の
日として月参りをする熱心な信者が絶えず、8月1日の縁日には花火大会なども行われ
大変な賑わいであった。
また大教院門前の北端には大正10年ごろ大教院が経営する私設の廉売市場が
あったが、それを徳島が買収し、大正12(1923)年末佐古公設市場として開設した。
米穀・みそ・醤油・青果物・菓子・生魚・海産物・肉・金物・薪炭・小間物など日用品を扱う
各小売商人が出店して廉価販売しにぎわった。 物価統制が色濃くなる昭和13
(1938)年まで続いた。
寺名 |
大教院 |
南佐古三番町 |
本尊 |
大聖歓喜天 |
真言宗醍醐派 |
現住職 |
坂野 栄禅 |
寺伝では、寛永9(1632)年寺町の願成寺住職、宥蓮が隠居所として創立し開祖となり,藩主 蜂須賀至鎮が大願主となって山門・経堂・方丈・庫裡や毘沙門天像などを寄進したと伝えられる。
山門は勝瑞城あるいは一宮城の城門を移築してきたという口碑がある。
阿波国真言宗沙門の伝法受法道場として知られ、、慶安2(1649)年大覚寺門跡の尊性法親王
(後陽成天皇皇子)が大阿闍梨となり、723人に伝法潅頂を行ったこともあったという。
徳島城防衛の拠点の任務も帯び、また願成寺のあとを受けて諏訪神社の別当をつとめた。
本堂は明治初年に伊賀町の松巌寺裏にあった徳川家ゆかりの慈本院の本堂を購うて
移したものといわれる。 第二次世界大戦での空襲では、佐古地区の被災者の救護所となり、
人名救護に大きく貢献した。 寺宝に毘沙門天像・弘法大師像(ともに室町期のものと推定)・
涅槃図・十二天軸物などがある。 境内には儒者礼法家吉井其楽・砲術家 北島藤蔵・俳人 上田魚行
・思想家 黒上正一郎などの墓がある。
寺名 |
清水寺 |
南佐三番町 |
本尊 |
准胝観音像 |
高野山真言宗 |
現住職 |
上田 善弓 |
神社名 | 祭 神 |
若宮神社 | 誉田別命・比売大神・気長足姫命 |
大国主神社 | 大国主命 |
天神社 | 菅原道真 |
事勝神社 | 事勝国勝長峡 |
稲荷神社 | 倉稲魂神・薩田彦命・大宮女命 |
事代主神社 | 事代主命・蛭子神 |
諏訪神社 | 佐古山町諏訪山 | 宮司 片保 佐知子 |
蜂須賀家政が徳島城築城し、城山の北東麓にあった諏訪明神社を現在地に移したと伝え、また一説には現名西郡石井町浦庄の諏訪社
(現多祚御奈刀弥神社)から分岐したともいわれる。 祭神は建御名方神。 武勇の神として歴代の藩主・庶民の尊宗あつく、渭津五社
(寺町春日神社・富田浦八幡神社・福島四所神社・助任八幡神社・当社)の随一と称された。いまも市民から「佐古のお諏訪はん」といって
親しまれている。
承応元(1652)年ごろから毎年秋の祭礼には藩主から馬引きの者をつけた三頭の供馬が奉納され大変にぎわったという。 大鳥居から
北に飛地境内である北佐古の野神社まで延びた約2丁(220メートル)の直線道路は、神事の一環として行われた競馬の馬場で、藩主が
見物するときには、鉄砲組の者が出て馬場に砂を入れるなど整備した。 また武士たちの乗馬の訓練にも使用された。
佐古不動院 | 南佐古2番町 | 波切不動明王 | 住職 折野 隆龍 |
妙徳山立正寺 | 南佐古二番町2−7 | 本門佛立宗 | 上行要付所傳の南妙法蓮華経 | 住職 石井 日数 |
臨江寺 | 南佐古1番町 | 本尊観世音菩薩像 | 臨済宗妙心寺派 | 住職 小熊 啓史 |
慶長10(1605)年曹洞宗の僧明堂が、藩主蜂須賀至鎮より当地を与えられ、牛蒡庵という一庵を建立したのに始まり、寛永2(1625)年に蜂須賀正勝の後室
白雲院を葬って、その法名をとり白雲寺と称したという。
正保元(1644)年には蜂須賀家政妹の宝珠院(黒田長政夫人、のち離別し徳島城
西の丸に住す)が生母白雲院と自身の菩提寺として興隆を図り、藩主忠英に請うて
寺領20石を与えられた。 同3(1646)年には勝浦郡中田村(現小松島)の豊林寺(廃寺)
より香南和尚を招き、中興開山として寺号を挑渓山臨江寺と改称、臨済宗に転じたと
いわれる。 香南に次いで南山・暁山と高僧が相次いで住持し寺勢は隆盛に向かったが、
宝暦(1751〜63)以後次第に衰退していった。
往時は南佐古1丁目(佐古橋)から2丁目(常盤橋)に及ぶ広大な敷地に伽藍が立ち並ぶ
盛況だった。 境内には宝珠院のほか、儒家増田氏や俳人柳屋氏ら多数の名士の墓が建ち並ぶ。
明治維新後、藩の支援を失い、神仏分離により支持基盤を失い、表に面する地は道路や
民家となり、本寺は規模を小さくして、山裾に静かに佇んでいる。
境内にお松大明神という狸の祠がある。 戦前は臨江時の北側、大岩にはりついた
松の大木の下に祀られていたが、戦災や道路整備などで現地に移転した。 民話・狸合戦の
女傑である。 シンボルの大松も戦中に枯れてしまった。 今は秋の狸まつりに、オリエンテーリングの子供たちの歓声がひびく。
三柱神社 | 南佐古1番町 | 住職 片保 佐知子 |
もとは秋葉神社と称し、祭神は奥津日子命・奥津比売命・大巳貴命で、臨江寺の鎮守であった
のち城下の火伏での神として藩の崇敬を受け、山下22社の1つであった。
第二次世界大戦時の戦災で消失した社殿の再建にあたり、奈良県の立里荒神社を信仰して
いた徳島三宝講(代表天羽八十八氏)が中心となって、佐古の杉本光助氏・木内氏・友成氏、
八万の黒岩神社を崇敬していた山下氏などが信者より浄財を募り、昭和27(1952)年に再建
された。 このときに三宝荒神社および黒岩神社の祭神を合祀し、三柱神社と改名した。
信者は多いときには500人を越え、秋祭に御輿を川内町鶴島・津田町まで巡行したこともあった。
かって境内一面をおおう「臥竜の松」という名松があったが、松食い虫のため立ち枯れし、今はない。