佐古の今昔 街道と町屋 
 街道と交通
 街道と町屋
  蜂須賀氏の城下町徳島が作られたとき、佐古は都市計画による典型的な人口町であった。東西一直線の佐古川の自然堤防の上にできた「往還」を基本とし(伊予街道)、その片側に商家を配置、前の川岸に阿波石で石垣を作り荷揚場を作ることを認めた(今もその痕跡が残っている)。東半部の商家地区は町奉行配下とし、未発達の西半分以西は郡奉行配下つまり農村地区同様の取扱い=郷町とした。
 佐古町の中央、諏訪馬場の延長道(佐古3番町)は田宮天神街道、その西の矢三口(佐古4番町)は板東大麻街道、その西佐古三ツ会(佐古8番町)は大阪峠越えの讃岐街道として整備された。
 明治以前の交通は人力、馬力中心で、人口も少なく、人も物も移動は少なかった。道幅は主街道たる伊予街道にかかる佐古橋で3間幅(約5メートル)の木橋、横丁はそれより狭く、裏路は1間(1.8メートル)あるなし、今もその狭さの名残りを天神街道、讃岐街道に見つけることができる。これらの道は裏通り同様、現在、車は一方通行である。明治以前、南佐古は人家が少なく、渡河の必要はなかったから、東端の佐古橋、中央の諏訪橋、西部5番町の無名の土橋以外の橋はなかった。その他の橋は全て明治以降に架けられたものである。
 城下町の中心、八百屋町、通町、西横丁(現元町)へ行くには、佐古橋〜西新町〜新町橋のコースしかなく、佐古西端からだと徒歩で1時間はかかる。
 生活物資はほんとんど自給自足だから、城下の中心へ出かける必要性はほとんどなかった。郷町と呼ばれる郊外型の街筋が生まれるわけである。
 街道に面する町屋は、道路向の間口は狭く軒は低く、軒板と、のれんの下った暗く狭い店先、わずかな商品、土間、店の奥は中の間、食堂、1間幅の通路で中庭、奥座敷、裏座敷、倉庫につながる奥深い商家建築であった。この建物の名残りは、焼け残った佐古筋で昭和30年代まで見かけることができた
 太平洋戦争の空襲で、佐古町は山ぎわと町西端部を除きほとんど焼失した。
  明治になって道路が整備され、伊予街道は国道となった。戦災復興の中で、昭和26年、元町〜出来島〜大裏町〜蔵本を結ぶ国体道路が作られ(現192号線)、街路樹には徳島農業高校門前母樹から採種、育成されたアメリカ原産の「落羽松」が植えられ、独特の三角形の樹形は佐古の原風景となっていた。平成13年、自動車通行の邪魔になるとして2番町まで伐採されてしまったのは、昔を知る者として淋しい思いがする。国道192号線ができて町の姿はすっかり変わってしまった。
 
 市営バス・JR・マイカー時代
 徳島市営バス
 大正時代、アメリカから輸入のT型フォード車で徳島にも郊外バスが開業するが、市内バスの要望が高まり昭和43月市バスが開業した。シボレー社製14人乗りという小型である。木製でアルミ張の車体だったとか。 佐古橋を渡って直角に左折、本通りを通るのだが、橋も道も狭く、対向もままならず、時には屋根瓦を引っかけるような難行であった。手を上げればどこでも乗せてくれた。戦時中はガソリンに代えて木炭ガスの車を走らせた。昭和26年、元町から大裏町を通る国体道路が開通、バスも新道に移りバス通行も大変楽になった。 昭和50年代マイカー普及により乗客は大きく減少し始め、バス路線の再編が進行中である。
 
 JR佐古駅
  明治20年代、鉄道ブームの中で、徳島に電車を走らす計画はあったが電力不足で実現せず、代わりに明治32年徳島鉄道株式会社が徳島〜鴨島間で鉄道営業を開始した。 113往復片道43分。 この時、佐古駅は設けられていない。
大正12年着工の国鉄高徳線が高松から延長してきて吉野川鮎喰川に鉄橋をかけて、徳島に到着するのが昭和10年、この時佐古駅が町外れに開業する。 地域住民は開業を大歓迎した。 戦後になってやっと駅前開発が進行し始める。
 時代は移る。 駅作業は全面的にオートメーション化し、切符は自動販売機、切符切りの音は消え、タブレットの交換も線路の切り替えもなくなった。 駅に同居の丸通という運送業も撤退してしまった。
 マイカー時代の到来により、佐古駅西の踏切は「開かずの踏切」の悪名が高かった。 高架化工事は昭和60年に着工、約10年を要して鮎喰川南岸〜佐古駅の工事完了。 立体化が完成。
 平成57日に佐古駅が開業する。 しかしJR四国の経営は大変苦しく、佐古には1人の職員がいるのみ。
 マイカー時代
 昭和30年代初め、佐古駅に「ラビットスクーター」の広告が出ていた。自動車時代の始まりである。その後「オート3輪」「軽4」(360cc)、「原付き」(50cc)の語が流行し、「カブに乗ってタバコを買いに行く」など車が手足となり始める。30年代、ゆとりある人の間で、車の免許取得が静かなブームとなり、名所に自動車学校が誕生する(昭和35年千松自動車学校開校)。町には軽自動車が増えるが、この時代まではまだ古い道路で間に合っていた。
 40年代後半から、自動車免許が学生の就職の必要条件となり、若年層や主婦に免許取得ブームが拡大する。
 50年代好景気を背景に1家に1台が普通(?)になり、ラッシュ時車は立往生し、狭い裏道を走る車も現れ、児童の通学が危険となった。
 道路拡幅や学童通学路の指定、一方通行指定など各種の規制が加えられたが、問題が解決したとは言いがたい。都市計画が徐々に進行しているが前途ははるかに遠い。
 佐古には公設私設を問わず、外来車(左ハンドル車)に開かれた駐車場がない。車での来訪者が来づらいことは、いろいろの面でマイナスになってはいないだろうか。
 平成の今日、1家に2台以上というのも珍しくなくなった。バブル期には大型車が急増した。得たものも多いが失ったものも多い。とくに交通戦争における被害者(交通弱者)へのしわ寄せ、環境問題のツケの将来世代への先送り、この2点だけは現在世代で解決しておかねばならないと考える。