昭和18年頃の徳島市佐古町
  町内の方からの寄稿文です
  第二次大戦中で軍国主義はなやかな時代、戦雲急を告げていたが、城下町徳島は、瓦屋根の低い木造二階建て、平屋の町並みが蜂須賀藩二十五万七千石の名残を残していた。
  アスファルト道路は、道の中央が盛り上がり、道肩が下がり、山型をなし、乗り合いバスや自転車の通行は、少なかった。もちろん、 自家用車はごく稀だった。 町屋には鉄格子、細格子がシャッターがわりに使われ、防火用水槽があちこちに、水をたたえていた。
  各家庭は子沢山で、出征兵士の見送りも相ついでいた。
 
  特記事項
  1 借家、借地が多い。
  2 大分限者(おぶげんしゃ)といわれる金持あり
  3 町並みは、日常生活用品の店屋、店舗が並び、近所で生活必需品などが調達できた。
  4 戦時中の物資不足、甘味、お菓子が不足
  5 学校給食、ムギ飯,大根の葉のみそ汁
  6 丸新から、43連隊へモロブタで生菓子を販売に行っていた
  7 桶屋、くど、ちぎ屋、金平糖屋、かご屋、かんざし屋、はたおり機など、今は亡びてしまった業種あり
  8 金平糖屋は、毎夜金平糖をつくる音を近所に響かせていた
  9 医者もあったが、この当時には見あたらない
 10 ちぎは、てんびんはかりのこと。
 11 桶屋は、ばけつ、漬け物桶、ひしゃく等
 12 帽子は、中折帽、鳥うち帽、カンカン帽等
 13 古い店舗で、現在残っている宅は、65戸のうち17戸である。