佐古の水 
 佐古川・新町川
  佐古山の北側、旧佐古町地区との間を東に流れ、現佐古1番町の東南端で新町川に合流する。天和31683)年の渭津城下之図には「此川はば13間(24メートル)深3尺4尺(0.9メートル)とあり、元禄41691)年の綱矩様御代御山下絵図では北岸に石垣が築かれている。
 藩政時代、佐古川に架けられた橋は佐古橋と諏訪橋との2つであった。 両橋とも架橋に時代は古く、寛永813163236)年の忠英様御代御山下絵図にすでに描かれている。 元禄4年の御山下絵図によれば、佐古橋は「長82尺(15メートル)幅3間(5.5メートル)、諏訪橋は「長4間半2尺(5メートル)で、両橋とも北詰に船着き場が設けられており、すでに佐古川の舟運が開かれていたことがうかがえる。
  なお、阿波踊りの囃子「1丁目の橋までいかんかこいこい」の1丁目の橋は佐古橋をさすといわれる。 明治以前、裕福な商人は佐古川に面して1メートル幅ぐらいの石段をつくり、専用の船着き場をもって物資の輸送に利用していた。佐古川での荷物の輸送は、昭和31928)年佐古小学校講堂の建築に木材を運搬したのが最後で、以後は釣舟が係留されたりするぐらいであった。
  佐古川と新町川の合流点の妙法寺付近の地は、かっては満潮時に道路が冠水するところもあったが、越久田氏が寛文41664)年藩の許可を得て、私財を投じて干拓し佐古・新町両川岸の護岸工事を終え船着き場を作ったのでこの地を越久田の浜と呼んだ。 石炭・その他物資の荷揚げ場として利用されたり、戦後まで小学校の児童がここから「ポンポン船」に乗り込んで津田へ海水浴に行ったりしていた。
  南佐古と佐古町をつなぐ佐古川に架かる橋を下流からあげると船着き橋・佐古新橋・佐古橋・常盤橋・清水橋・相生橋・稲荷橋・戎橋・大黒橋・無名橋・愛日橋・上の無名橋となり、それより上流は「ながれ」と呼ばれていた各橋は各丁目と丁目の間にあった。
  船場橋は、明治401907)年に船場町の宮崎民二氏の提唱によって同44年に竣工。 佐古新橋は、戦後に西大工町に通ずる新道ができて佐古橋のすぐ下流に架設された。 諏訪橋は、藩主が社前の荘厳さをますために天明81788)年に破棄された。 10代藩主重喜の大谷邸の蓮池に架かっていた太鼓橋(花崗岩)を移したと伝える橋があったが、昭和421967)年改築の折取り除かれ、いまは大鳥居西側に移転・保存されている。
  愛日橋は佐古小学校の専用橋として架けられたものであり、上流の無名橋は、佐古小学校西北端の古馬場にあり、橋のたもとには「守大明神」とよばれる狸の祠がある。
 佐古大橋 北佐古橋・出木島橋
  県立文書館所蔵の「昭和22年徳島市市街地図」および「徳島市史」別館の「地図絵図集」の中に、「徳島市街地名町名地図」がある。 徳島駅前から寺島本町を西進し寺島川(今はない)にかかる滝見橋を渡ると、出来島の南縁をたどる「南土手の丁」「西土手の丁」につながる。 「西土手の丁」の中央部を徳島線が通る。 そこに三文渡しがあった。 佐古の武士の登城のための最短コースであった。
  大正期、好景気の時期を背景に新町川に架橋が進む。 鈴江橋(現三ツ会橋)大正6年、吉野橋、大正13年、同年三文渡しの少し南、「西土手の丁」から佐古大裏町東端に北佐古橋、幅4.3メートルのコンクリート橋で、雨や荷物の大きさを心配する必要がなくなり、便利にはなったが、「西土手の丁」のなかでは、やや北側寄りであり、人々の不便感は解消したとは言い難い。
  昭和に入って戦争経済が高まる中で、軍の戦略上、「西土手の丁外」南端から佐古本通東端、紀久田の浜を結ぶ出来島橋が架設される。 この橋は別名を工兵橋といわれ、昭和1213年ころ、善通寺にあった工兵部隊を動員して木造で建設された。軍の意向が物を言ったらしい。 橋幅も広く、寺島本町に直線でつながる重宝な道路であった。
  戦火で佐古側も出来島側も全焼し、廃墟の上に都市計画の線が引かれる。 昭和22年の市街図では、佐古には頭を東に向けてカタカナの字の幹線があり、頭の先は出来島から元町へ、頭の横の触手は西大工町から南へと幹線が描かれている。 現在でも未完成の大計画を作った当時の人々の英断に頭が下がる。 キの字の縦棒が192号線となり、 昭和28年に佐古大橋が架けられる。車道幅約10メートルの当時とすれば破格の大規模橋である。
  この橋の開通により北佐古橋、出来島橋は廃止された。それから50年、マイカー時代を迎えて、192号道は平成11年、日中12時間で38,200台の車が通る過密道となり(国道交通省調)、渋滞もひどく、現在、佐古大橋から佐古五番町にかけてネック解消の大規模工事が実施されつつある。
 田宮川、水運と橋
   陸上交通が発達する前(大正のころまで)船は最高の物流手段であった。 袋井用水に起源をもつ田宮川は、低平地を流れ干潮区間も相当長いので上流まで船が上れた。 そして両岸は荷揚場(浜ともいう)作りが容易だったので、明治大正期の工場は競って川沿いに立地し、裏庭から荷運びをした。 つまり、田宮川両岸は徳島きっての工業地帯だった。
  架橋技術が発達する前は、公道との交点には渡しがあり、渡し守が居て、低額の渡し賃で人馬を渡していた。渡し付近には茶店もあったとか。そこは公共の浜でもあった。 その後両岸の発達により人の往来が増えると(明治のころから)、川船運航と両立する形で道路橋がかけられる。
   田宮川から順に
     煙硝の渡、宮古渡・・・・・・宮古橋(明治14年)
   天神の渡・天神浜・・・・・・天神橋

   高見浜渡、高見の浜・・・・・佐矢橋(明治初め)

   油の浜・・・・・・・・・・・佐蔵矢橋(昭和初め)

   テコアンの浜渡・・・・・・・矢蔵橋(大正
  大浜、テコアンの浜、油の浜などは付近の製紙工場、生糸工場の原料燃料(石炭)や、蔵本地区の多くの人々の生活用品の輸送に活用されて賑わった。 とはいえ、昭和40年代になっても田宮川べりは、葦の茂る反湿地で、子供たちはえび取りやザリガニ取りに興じ、水泳に時間を忘れるほどの環境があった。 その後の経済成長、人口の都市集中、宅地拡大、陸運の発達、マイカー時代の到来により、川岸のコンクリート護岸、道路拡幅、永久橋化が進行、前記諸橋はコンクリート橋となり、さらに都市計画による大型の煙硝蔵橋、千松橋、さらにJR高徳線高架化による側道の誕生など、地域の交通事情物流事情は大きく変化し、交通渋滞はほぼ解消に向かっている。
 宮古橋
  田宮の煙硝蔵(現南田宮2丁眼8番地)は、その危険性のためか、周辺との交通が密でない。 明治になってからやっと佐古の秋田丁台所丁(現佐古1番町12番)との間に宮古渡しが作られ、明治14ぶ板橋、それが木造土橋になったのが昭和14年だった。 これが現在の宮古橋の前身で、幅員3.5メートル。 荷車がすれ違うのさえ難しい位の小橋だった。 昭和39年幅員8.1メートル、昭和63年片側歩道が敷設され、現在の形になった。
 天神橋
   佐古の諏訪神社と田宮天神社を結ぶ、一本道の途中の天神橋の渡しは、相当古くから賑わい、丸太木による太鼓型の土橋が架けられたのも、寛文のころ(1660年代)ではないかという(加茂郷土誌)。 名付けて天神土橋、佐古と田宮を結ぶメイン道路である。 橋の傍には公共の荷揚げ場があり、昭和初期まで賑わった。 昭和7年道路改良にともない、東方へ80メートル移転、4.4メートル幅のコンクリート橋となった。 戦後、たびたび改良が加えられ、長35.5メートル幅10.7メートルになったのが昭和42年。 車の通行量が増加し危険なので歩道橋を増設し現在の姿になった。 長い間、自動車通行の難所であったが、JR高徳線高架化にともなう測道完成により、平成87月やっと平静を取り戻すことができた。
 上・下水水道と名水
 佐古配水場 (昭和33年以降は佐古浄水場と呼称) 南佐古六番町
  徳島市の上水道の最初の施設。 徳島市の上水道施設は、大正131924 )年名西郡藍畑村第十(現石町)の第十浄水場の建設に始まる。 水源として吉野川の伏流水を取水するため同年6月着工の取水池築造、ほかに排水管橋の架設・ろ過池の建造・排水管の施設などが進められ、大正15年第十浄水場とともに佐古浄水場が完成した。 同年91日には通水を開始して市民の家庭に給水されることになった。
  同年103日には佐古浄水場で盛大な通水式が行われた。 この時、給水人口は24,000人、普及率は34パーセントであった。 配水場は敷地面積13.214平方メートルで、場内には建設当時のまままの姿で着水井・淨水池(容量3,800トン)・集合井・ポンプ室・日量2,000トンを取水する水源がある。 これらの施設は平成71995)年10月に新しく調整池2基(12,500立方メートル)とポンプ室が場内に新設されたため現在は稼働していない。 旧ポンプ場は西欧風のレンガ造りの美しい建物で平成9年国の登録有形文化財に指定され、翌年には集合井も同様の指定を受けた。
  配水場から東南470メートルの佐古山山腹にある配水池は敷地面積24,900平方メートル、容量4,200トンの鉄筋コンクリート製で、いまでも現役で主に佐古・蔵本・北矢三・田宮方面と新町の一部へ給水している。
 また大正131924)年10月浄水場ろ過池の建設工事中に縄文時代後期の土器片、弥生時代前期の木葉文土器とともに各種の石器、ハマグリ・オキシジミなどの自然遺物が発見された。縄文時代から弥生時代を中心とした集落遺跡で三谷遺跡あるいは南佐古浄水場遺跡とも呼ばれている。
  平成2年〜4199092)年、施設の増設工事に伴い発掘調査が行われた。海抜01メールほどの旧河道に沿ったくぼ地に大規模な貝塚が数か所発見されている。 検出された約40種類の貝塚の中では、ハマグリ・ヤマトシジミ・オキシジミが多い。 この貝層の中から縄文時代晩期の深鉢・浅鉢とともに石鏃・石棒・石斧といった石製品、骨角器や垂直用の装身具が出土した。 シカ・イノシシなどの動物の骨や魚骨・鳥骨、炭化種子なども発見されている。 また、7体の犬の埋葬例も認められ、縄文人と家畜犬との関わりを知ることができる。 貝塚から出土した土器は、縄文時代晩期末の突帯文土器と弥生時代前期古段階のいわゆる遠賀式土器とが伴出しており、縄文時代から弥生時代への推移の一端を知るうえで貴重な資料といえる。
  また、籾圧痕のある弥生式土器の小片や炭化米の出土は、稲作農耕の存在を裏づけるものであり、石棒や呪術的要素の高い装身具の存在は当時の精神生活の一端をあらわしている。
佐古の下水道、佐古ポンプ場、佐古川水門
  佐古地区は庄、蔵本とともに、地下には鮎喰川の地下水が網の目のように流れているうえ、眉山の北麓なので、大雨のたびに浸水が起こり、佐古小学校は1970代までたびたび出水休校となった。
 明治期に下水道計画が採用されたが、戦争などで延期、結局戦後に持ち越された。下水道事業は1972年をピークに6979年の11年間集中的に工事が行われた結果、浸水の心配はほぼ解消した。 完成は1985年。
 大まかにいえば、浸水などは側溝などで佐古川に集まり東流して佐古1番町のポンプ場から新町川へ排水される。各家庭からの雑排水、各町内道路下に埋められた下水道に集められ(幹線系では直径1メートルを超える管)、佐古川直下には専用のトンネル(末端では幅2.7メートル、高さ1.9メートル)となって佐古ポンプ場に集められ、圧送により昭和町の中央浄化センターに至って処理され放流される。 つまり汚水と雨水は別系統で処理されている。 汚れていた佐古川の環境問題もほぼ解消されたといえよう。
 佐古川水門は、大雨時の新町川増水による佐古川逆流防止のため設けられ、内部からの増水分は1,200ミリ2本、1,500ミリ3本、計5本のパイプ。 ポンプで新町川に排水されている。 平常時は解放されていて、満潮時には佐古小学校付近までイナの幼魚などが遡って来ているのが見える。 川は蘇ったといえる。
 菩薩泉
  大安寺の境内の東隅に残る名水は菩薩泉(新居水)として知られ、湧出の姿は菩薩の化現のようだという。 味は清甘、茶の湯または酒水として重用された。
 雲龍水、青龍水
  椎宮八幡神社大鳥居脇に雲龍水という湧き水があり、また同社西の山腹、快(こころよし)神社社務所横に青龍水が湧いている。 両者とも古くまでさかのぼる名水ではなく、戦後の開発に伴う山腹崩壊防止工事をした際の湧き水を、その後、水質検査などの結果、名水として一般に広く提供しているものだという。 日中、集水の人影が絶えることはない。 将来は徳島の名水の評価が与えられるのではあるまいか。