佐古の昔話
 阿波の民話
    
佐古編
  佐古の蛇谷(さこ  じゃたに) (阿波の民話262)
  とんと昔、あったと。 佐古椎宮はんの横の谷を蛇谷ちゅう。
 蛇谷に住む大蛇は、いろんなもんに化けて人間を困らせとったそうな。 ほの話が殿さんの耳に入った。 殿さんは、 「ほら許せん、殺してしまえ」 ちゅうて、家来に命じたそうな。
 ある日、家来が商人に化けた大蛇を見かけたんで、「殿さんが料理屋で会うて話がしたいちょったぞ」 ちゅうて伝えると、商人に化けた大蛇が料理屋へやってきたそうな。 ほんで、殿さんがうまい料理を出し酒を飲ませて酔わせたそうな。 ほのとき、殿さんが大蛇に切りかけた。 大蛇は谷へ逃げる途中、大安寺の池で傷を洗うたんで、池の水が真っ赤になったそうな。
 ほれから、大蛇は姿を見せんようになったんで、死んだんだろうということになったそうな。 ほれから、この谷を蛇谷ちゅうようになったと。           おーしまい。
 釈 【ほの】その 【ちゅうて】といって 【ちょったぞ】といっていたぞ 【ほんで】そこで 【ほのとき】そのとき 【ほれから】それから
 
 佐古の義経伝説(阿波の民話)(269)
   とんと昔、あったと。 東佐古の妙法寺あたりは、昔、潮が満ちてくると、道路まで浸水してみな困っとった。 このあたりを越久津(おくつ)の浜ちゅうんは、奥津はんの土地じゃったからじゃ。 浜ちゅうように、ここまで船が出入りしよった。
 溝ん中に高さ六十センチほどの青石が立つとるが、昔は八メートルもあったそうな。 源義経がこの石に舟をつないだんで、「舟繋ぎ石」(ふねつなぎいし)っていわれるようになったそうな。 また、義経が小松島へ上陸して屋島へ向かうとき、この石に馬をつないだんで、「馬繋ぎ石」ともいわれた。
 また、臨江寺(りんこうじ)の上の山に、義経の「駒止め石」がある。 義経が屋島へ攻め入るとき、この山に登って岩の上に駒を止めて讃岐の方を眺めたそうな。 岩の上にひづめの跡が残っとるといわれとった。 義経の話はあっちこっちにあるが、なんと忙しい人じゃった。   おーしまい。       注釈・【ちゅうんは】というのは
 
官女を祭った若宮さん(阿波の民話281) 
  とんと昔、あったと。 江戸時代の初めごろ、京都御所の官女がしくじりをして阿波の徳島へ流されてきたそうな。 藩の役人も相手が官女ちゅうんで、佐古に住まわせ大事に扱いよった。 ほんで、このあたりのもんは、ここを「姫屋敷」ちゅうて、見物にやってくるもんもおったそうな。 京都から下さってきた美人の官女ちゅうんで、近郷の若いしのあこがれじゃった。 ところが、悪い若いしがおって、官女を辱めて(はずかしめて)しもうた。 ほんで、官女が世をはかなんで自殺してしもうた。 ほれから、姫屋敷のあたりから毎夜、光るもんがあった。 土地のもんは、ほれは往生でけん官女の霊に違いないちゅうて、お堂を建ててほの霊を慰めたそうな。 はじめは北佐古台所町にお祭りしてあったが、辱めた男と同じ土地はいやじゃちゅうて、佐古山まで飛んできたそうな。  おーしまい。
 注釈【ほんで】それで 【ちゅうて】と言って 【ほれから】それから 【ほれは】それは 【ほの】その
 諏訪神社のこま犬  (阿波の民話286) 
 とんと昔、あったと。 江戸時代、お諏訪はんの拝殿の修繕が行われた。 佐古御鉄砲屋敷の足軽たちも佐古の石切場で手伝い働きをさせられた。 ほのとき、城から来た侍が、鉄砲足軽に足で指図したそうな。 ほんで怒った足軽の一人が「五石二人扶 持の軽輩じゃともて、バカにするな。 わしも侍じゃ、人の足で指図されたとあっては、武士の言い分が立たん」 ちゅうて、持っとった大斧で城の侍を殺して諏訪山へ逃げ込んで一夜を明かした。 ほのとき、諏訪明神が現れ 「ここにおったらあぶない。 讃岐の引けたまでいき、船で岡山へ逃げろ」と、お告げがあったそうな。 ほんで、足軽は岡山へ出てくらせるようになった。 ほして、今日あるはお諏訪はんのお陰じゃちゅうて、石段とこま犬二個奉納したそうな。  おーしまい。             注釈 【ほのとき】そのとき 【ほんで】それで 【ともて】と思って 【ちゅうて】と言って 【ほのとき】そのとき 【ほして】そして
  庚申新八(こうしん しんぱち)下(阿波の民話316
  北島はんが本を読んみょると、新八は小姓に化けて、本を読むような真似をするようになった。 ほれが、何日も続いたそうな。 ある日、刀で切りかけると、新八はあわてて近くの藪ん中へ逃げってしもうた。 月のきれいな晩、北島はんが鉄砲を持って藪ん中新八を襲うた。
 大谷通れば(徳島むかしむかし、飯原一夫・教育出版センター)
 注・文中のところどころの語尾に「ない」というのは方言で「なあ」の意味です。
 ”大谷通れば石ばかり、ササ山通ればササばかり”                              ほんまに大谷の筋は石どころ。 石屋もようけあって、ええ石が出よりましたわ。 わしがこの仕事をおやじに習い始めたんが 十四、五のときで、明治も四十年代であったない。 おやじは梅吉といよりましたが、子供のときからの石屋。 六十ぐらいまでは 仕事をしょって、六十五でのうなった。 おじいさんも石屋で、その昔の人も石屋。 家代々、大谷の石屋。 むかしは、ここへきて茶納の石屋と言うてくれたらすぐ分かりましたわ。
 佐古の一丁目から五丁目までの山側が大谷。 五丁目から先は一面の水田ですわ。 佐古の学校の辺りも水田。 本町でも家の裏はすぐに水田。 わしが知りたってから、大谷で親方のおる石屋が四軒。 多いところで四、五人の弟子を置いとった。 そのほかに一人前の職人もようけおって、これは仕事があったら雇われて行く。
 石屋に用事があるときは大谷へきたらすぐ間に合いました。 わしが仕事を始めたときに、大谷で五十人ぐらいの石屋がおりましたわ。 石口は庄までの間に六か所ぐらい。 大谷だけでも三カ所。 むかしは新屋敷の三島はんの所からも出したといよりましたない。
 ”一丁目の橋まで”行かんか、こいこい。
 踊りは一丁目でも、ウワニ(上荷舟)は佐古川を三丁目の橋まで入ってきよった。 石口から切り出したのを荷車で佐古川まで運んで、ウワニに積むんですわ。 むかしは川縁に家がなかったんで、そこへざらしとりました。 ほの時分の佐古川はホタルが飛んだぐらいやけん、水もきれいし、石を積んだウワニが通るんで深さもかなりありましたわ。
 なんの職人でも、昔は年季奉公で仕事を覚えよった。 子供がようけおって家がせこかったら口を減らすというて弟子にやる。 親方のところで食べさしてもろうて職人に仕込んでもらうんですわ。 ほのかわり、石屋や大工の弟子はずいぶんえらいもんで、小燈(ことぼし)に燈をつけて夜なべさされる。 小遣い銭やいうても祭りとか正月とか特別のときでないとくれん。 ええ辛抱しよりましたない。 年があいてお礼奉公もすんだら、そこでおってもかんまんのに、たいがいよそへ行きますわ。 自分で独立して店を出すやいうのはなかなかですね。 わしは親代々の石屋で、弟子に行かんでもおやじが教えてくれた。 ものの一年もしたら、よそへ行っても通る仕事ができて、日よう賃くれよりました。 二十歳までで五十銭から七十銭。 一人前になって九十銭。 大正の初めで日当が一円にならんのんですわ。
 むかしの仕事は全部、ノミとツチ。 と石でこすってみがく。 力もいるし時間もかかりますわ。 今は電気ノコギリで切って、グラインダーでみがく。 字を彫るんでも、金剛砂を吹き付けて彫る機械がでけとります。 仕事が早いし楽にきれいにでけますない。
 山から石を切り出すんは専門の石切り人夫というのがあって、これは石屋とは違いますな。 石に穴を掘って小指の先ぐらいの黒い丸い火薬の粒を入れよりました。 キズキを巻いたのを導火にして火を付けたら、”ドーン”と大けな音がして、びびってきよった。 明治から昭和の十年すぎまではこれでしよりましたわ。
 大谷の青石は何十年してもめげん。 撫養石に比べてうんと強いんですわ。 撫養石はやりこいので、どっちへでも切れてどにでもなるが、ここの石は目がきまっとって、慣れとらんとコグチが切れん。 ほのかわり、つき方さえちゃんとしといたら何年たっても狂わんのですわ。 吉野川の堤防や刑務所へもここの石をだいぶ運んどりましたない。