佐古の今昔・産業と名工 
 明治・大正期の工場
 ★長尾染織工場 (佐古2番町)
  日清戦争後、日本は第一次産業革命に入り、各地に近代的綿工場が創立される。 この時期、洋反物商として財を成した長尾伝蔵は、製造業の将来を見通し、徳島では最高規模の染色一貫の近代工場を創業する。 明治41年のことである。
 初めは小幅綿織物を製造していたが、広幅物需要の増大を見て英国製新織機を導入、大正5年には朝鮮、中国を視察した結果、さらに広幅織機を増設、綾織や繻子など高級品製造へ傾倒してゆく。 日本の大陸進出の一翼を担っていた。
 昭和に入って、戦争経済突入の中で、綿工業は平和産業として、原綿輸入は削減、工場は統廃合、織機は鉄材に戻されて武器として戦場へ動員されてゆく。 この中で長尾商店(大正14年改名)も、政府の名で軍需工場としての道を歩まざるを得なかった。
 戦後の混乱の中で織布を復活した長尾産業株式会社は、化繊などの新原料の出現、ニューファッションや既製服業の発達などに合わせて、縫製工場、ニット工場など関連分野に積極的に進出、さらに昭和40年代苦境の繊維産業から、ボーリング場経営に進出するなど、経営の多角化を図って来た。 そこには長尾一族の先見の明とリーダーシップが生きているといえよう。
 
 ★美馬染織工場
 6代目美馬儀一郎が、蔵本村(現佐古8番町)に明治41年に創立。 最新式織機101台、染色機7台、織工277名で生産を始めた県内資本屈指の近代工場。
 美馬家は藩政時代から大地主で、また綿糸綿布を継ぎつつも、製造業分野に進出していった。

 明治30年代、葉藍製造が衰え、米や桑園に移る中で大陸からの豆粕を原料とする肥料製造、石炭から練炭製造の大工場を始めた。 さらに時代が化学染料に傾斜してゆく中で、化学染料研究や染色業者の育成を痛感、独力で染色試験所を開設、同業者を集めて作った阿波染織同業組合に寄付。 この組会は、染色技術の研究・動力織機の奨励・製造検査から職工育成などを目的としていて、その技術は、市内諸工場へと拡がっていった。
 さらに大正期には酢製造に進出するなど地場産業のリーダーであった。 基幹工場である染織工場は、着々と発展し製品は国内外に出荷されていたが、昭和に入って戦争が迫ってくると織物業平和産業として統制を受け、軍需工場とされ織機も徴用されていった。 平和産業の受難の時期であった。 美馬染織工場は、幸いにして戦災を免れたが戦後の混乱の中で染色以外の分野へ重点を移し、佐古工業が閉されたのは大変残念なことであった。 
 
佐古の製造業・パイオニア
 明治20〜30年代は日本の第一次産業革命時代である。 明治31年「全国商工人名通艦」には、佐古地区で目をひくのは、綿糸綿布業関係と酒造業関係の発達である。 不完全な名簿であるが引用してみると
 呉服反物商
  西新町         長尾産業 長尾伝蔵
 佐 古         播柳 吉岡新太郎      富田屋 坂口基三郎    八満屋 北林三郎
 その他の商
      綿商(藍善)福井甚平        綿商(木具屋)宮崎六次郎      綿商(増儀)美馬儀一郎
   綿商 原 勘次郎          綛糸商 勝瀬久吉         綿糸商(増直)美馬さと
   藍製造(伊勢屋)久住文藏       藍商(増屋)美馬友七       藍商(伊勢屋)久住平四郎
   藍商 吉住文平           足袋商(増屋)増谷増平
 このような背景があって、明治44年徳島県統計書の佐古地区蒸気機関使用工場は、9件中8件(長尾・宮崎・三橋・松島・岡本・布谷・加藤・美馬)が制綿、染織であり、残る1件は美馬豆粕工場であった。 大正8年の記載14件中、10件が綿糸関係で占めている。佐古は軽工業に傾倒していた。
 清酒醸造関係会社
 米津屋 米島孫三郎、 但馬屋 高尾楳治、 藍屋 藤川亀吉、 薮田長次郎、  湯浅兼蔵、 杉田佐平、 稲原栄蔵
 味噌醤油関係会社
 かつうらや 桂兵次郎       山屋 山本岩吉
 地下水に恵まれるという好条件のため、大正から昭和にかけて多くの酒造者が誕生している。 昭和8年姿勢要覧には、酒造会社に宮崎、藤川、宮本、近藤、西内、杉田、増谷、坂野、湯浅、杉田の名があり、 造酢味噌醤油業で美馬、南海、山林、杉野の名があがってる。 この他にも個人企業が多数出現しているのはもちろんである
 
 その他、昭和前半期までに多様な産業が興されるが、ユニークなものにネジ・鋲の西、荒下駄の福岡、ピンやカンザシの中村、縫製用具の福村、輸出用刺繍の友成、紙凧の和田、豊成、米津らが名を留めている。
 鉄鋼関係、木工業、製菓業などでも新企画業が興っている。
 佐古では、中小零細企業が大半で、地域の需要に応えるだけのものが多い、浮沈はあったとしても、これら創業者は佐古地区のパイオニアであったといえよう。
 
 現代の名工
 古庄理一郎(1916〜1999)
 徳川時代から藍と言えば、阿波の徳島の名が轟いていて、それを受けて各所に紺屋という藍染業者がいた。 名水のある佐古には紺屋が多かったとか、明治期、天然藍が化学染料に敗北したことで、天然藍染め技術も衰退していった。 藍匠5代目にあたる理一郎は、昭和13年、満州(中国東北部)に染色工場を起こしたが、戦後、昭和24年、徳島市に染工場を再興。 天然藍による注染法を完成して高い評価を得た。 永年にわたる研鑽と高い技術が評価されて、昭和56年国選定の卓越技能章受章。 つまり現代の名工に選定された。 同58年には勲6等単旭日章の叙勲の栄を受ける。
 日本一の藍匠となり、後輩の育成にも功があった。
 今、その後は、子息の古庄紀治が継承(工場は佐古七番町9-12)、稼業はますます発展を続け、紀治も平成10年、親子二代の現代の名工に選ばれた。
 
 横田岩夫(1926〜健在)
 徳島市佐古にて出生、戦後の困苦を生き抜き、戦後印章彫刻の道に入る。 昭和22年愛知県板倉印房にて印章彫刻を学び、25年横田印房を開業。
 単なる印象製作(ハンコ作り)に留まらず、篆刻(てんこく)篆書(てんしょ)の美に魅せられ、実務と美の両立を追求、昭和44年篆書で県展入選、以来入選を重ねる。
 46年印章彫刻一級技能士、同年知事表彰、以後も毎年徳島県・大阪府・全関西などの展覧会にて受賞、昭和52年からは日本画の研修にも励み、日展などに入選を続ける。 昭和60年ころからは全日本印章業組合理事など業界の育成にも努力。
 平成4年には「卓越した技能者」(現代の名工)として労働大臣表彰、同7年には勲6等単旭日章の叙勲の栄を受ける。 現在もなお、かくしゃくとして活躍している。  雅号 素林