秋田 3
2007/01/03
翌日の夜明け前、土田はただ静かに旅の用意をして、音もなく出て行った。秋田はその気配を、布団の中で聞いていた。
机の上にはノートの切れ端に、「秋田、すまなかった。」とだけ書いてあった。
だが、非は秋田にもあったかもしれない。急いでいたとはいえ、ノックもせずに部屋に飛び込んだのはルール違反だった。
お互い青雲の志を抱いて、たいそうな田舎から出て来た身である。土田が、この寮に居辛くなるようなことは、絶対に避けねばならない。とりあえず、今度土田が帰ってきたら、(全て忘れたように振舞う)ことにしたのだった。
それから秋田は、普段よりよほど丁寧にノートを取った。
秋田はフランス語選択、土田はドイツ語だが、重複する科目も多い。
生物の授業の後、わからなかったところを教授に尋ねているとき、月村教授が珍しく軽口を叩いた。
「ときに秋田君、最近熱心ですね。心境の変化ですか?」
普段、月村先生の授業では、秋田は半分以上居眠りをしている。何も見ていないようで、教授はちゃんと見ていたらしい。
「土田が欠席しているので、ノートを取っておきたいのです」
「ああ。彼、そういえば最近、姿を見ませんね」
月村教授は、初耳だ、とでも言うように聞き返してきた。耳を疑ったのは秋田のほうだ。
「土田君は、故郷の姉さんが病気で……」
「ああ、そうでしたね。すっかり忘れていた」
秋田は唖然とした。
舎監なのに、生徒の所在が頭に入っていないのか?
驚きを通り越して、怒りが込み上げてきて、自分らしくない、激しい言葉が口をついて出そうになる。
(あんたの養子の素行も、ちゃんと監督してくれ。後見人なんだろう!)
秋田はノートとテキストを抱えると、「お引止めして申し訳ありません。ありがとうございました」と礼を言った。どれだけ顔が引きつっていたにせよ、口ばかりは丁寧である。
背後で、教授が小さく咳き込むのが聞こえた。喉の奥で笑っているようにも聞こえた。
夢の中で、姉と遊んでいた。秋田はいつも姉と遊んでいた。
その日は、浅い池のほとりで菱の実を拾った。トゲのある実は嵩張るので、小さなバケツがすぐに一杯になった。
「帰ったらお母さんに焼いてもらおうね」
濡れた靴をペタペタ言わせながら、帰り道を急いでいた。
そのとき、誰か知らない人が自転車を押して通りかかり、二人にパンをくれようとした。
小さな秋田は喜んで手を出そうとした。
「要りません。お母さんにしかられるから」
姉が秋田の手を引っ張った。姉の細い影が、小道に長く長く伸びていた。その影の後から、音もなく何かがついてくる。道の両側には、ダケカンバの木が不気味に見下ろしていて、そして、後ろから、何かがずっとついてくる……。
不安になった秋田は、姉を見上げた。
「お姉ちゃん」
姉は、秋田の手をぎゅっと握りなおし、更に早足になった。
「ねえ、お姉ちゃん?」
姉は一言も答えず、ただ前を見て歩き続ける。足取りはやがて小走りになり、最後には全力で走り出した。秋田も必死に走った。息が切れ、足が縺れた。いつ手を放したのか。
気がついたら秋田は一人で、泣き叫びながら走っていた。どれほど走っても一本道、いくら走っても家にたどり着けない。
「おねえちゃん!」
自分の悲鳴で目が覚めた。
飛び起きて、今更ながらに口を押さえた。
それは、幼い頃からよく見る夢だった。現実には起こりもしなかったことを、繰り返し夢に見るのは、気分がいいものではない。
秋田の姉は、何年も前に本家の養女となった。秋田とはほとんど似ていない、器量よしの姉である。
少し前には、銀座で待ち合わせて、二人で映画を見た。姉の買い物の荷物持ちをしたあと、資生堂パーラーでアイスクリームを食べた。
何だか恋人とデートをしているような、心弾むひと時ではあった。
そのあと、「あなた、また痩せたんじゃない? ほんとに、毎週でもうちに来なさいよ」と念を押された。
わかった、と秋田は言ったが、まだその約束は果たせていない。気恥ずかしいのもあった。
入学前、本家で何日か世話になったことがある。姉は本家にすっかりなじんで、幸せそうだった。それは秋田にとってもうれしいことだった。
姉が家を出たときは、本当に悲しかったが、それは姉のためになることだった。
姉は元気一杯だ。何も心配する必要はない。
秋田は息をつくと、土田の寝台を見つめた。
(心配なのはむしろ、こっちだ。)
土田の事が友人として心配だった。既に2週間も帰ったきり、何の音沙汰もないのだった。
それから数日経った土曜日の午後、館内は静かだった。土田はまだ戻っていなかった。
秋田は数学の課題にてこずり、土曜日の外出もあきらめて、ひたすら頭をひねっていた。
白いノートに式を書いては消し、消しては書いても、解法の糸口がまったくつかめなかった。
そのとき、小さなノックの音がして、まもなく、涼しい声で呼ばれた。
「秋田さん、いらっしゃいますか?」
ドアの外に日向要の顔を見たときは、秋田は凍りつきそうになったものだ。だが日向は、冷静そのものだった。
「舎監先生がお呼びです。直ぐに来ていただけますか?」
あくまでも柔らかな物言いである。いつぞやのご乱行のことは、忘れたかのようだった。
秋田が「何の用だって?」と答えると、「よく知りませんが、お客様らしいですよ」と言われた。
舎監室のドアを開けると、甘い香りに鼻をくすぐられた。
布張りの椅子に、舎監先生が優雅に腰を掛けている。秋田が入ると教授は立ち上がった。
「こちらへいらっしゃい、秋田君。きみに、お客様ですよ」
秋田がそのソファに近寄ると、長椅子に女性が座っていた。座っていたというのは正確ではない。長椅子の肘掛に顔を埋めて、ぐったりしている。上品な袷の着物だが、裾がかすかに乱れていた。
「姉さん?」
秋田は駆け寄り、抱き起こそうとした。姉は正体もなく気を失っていた。起こそうとすると、秋田の腕の中で、頭ががくんと落ちた。結い上げた黒い髪が壊れて、ばっさりと肩に落ちていた。
口元には、吐いた跡があった。
「医者を! すぐ病院に電話してくれ! 急病人が居ると言ってくれ!」
秋田は姉を抱えまま叫んだ。叫ぶと勢いで姉の頭がガクガクと揺れる。
(これは頭だ。脳だ。動かしてはだめだ)
秋田はようやく気づいて、姉の体をそっと長椅子に寝かせた。
「おい、何をしてる、医者だ!」
だが日向は冷然と見下ろしているばかりだ。
「まあ落ち着いて、秋田君」
舎監先生がいつの間にか、秋田のすぐそばに立っていた。
「姉はいつ倒れたんですか? これは普通じゃない。医師を呼んでください」
だが月村は「薬で眠っているだけですよ。まだしばらくは覚めないでしょう」と軽く微笑んだ。
秋田はぽかんと口をあけた。
今、教授は「薬で眠っている」といわなかったか?
「御心配なく、永遠に眠るわけではありませんからね」
教授は、しゃれにならないほど、剣呑な微笑を浮かべていた。
「どうやってきみに黙っていてもらおうかと思案していたら、都合よく君の姉上が、訪ねてきてくれたというわけです」
「姉になにをした!」
教授は、物分りの悪い生徒に噛んで含めるように、ゆっくりとこういった。
「きみは、都合の悪いものを見てしまったそうだね」
「何が言いたいんです!」
「要と土田が」
「知らないっ! おれは何も見ていないっ」
月村はため息をついた、
「しらを切るのなら、お姉さんの顔に傷がつくかもしれませんよ?」
手に銀色のナイフが握られている。
「嘘をつく子は嫌いですからね。容赦はしません」
「やめてくれ!」
秋田は叫ぶと、月村の足元に駆け寄り、文字通り床に頭を摩り付けた。
「わかった、おれが悪かった。おれが部屋に入ったのが悪いんだ。だから、許してくれ。日向と土田が盛ってたのなんて、誰にも言わないから、姉に手を出さないでくれ!」
教授はくすりと笑った。
「恥も何もないんですね。お姉さんを愛していらっしゃる?」
「勿論だ!」
「おや、即答ですね」
教授はあきれたように笑った。
「要、きみの弟さんと似たタイプの人がいたよ。彼も、実のきょうだいに恋をしているようだ」
すると日向は眉をひそめた。
「イヤだな。まじめそうな顔をして。立派に変態ですね」
「違う!! そういうんじゃない、姉はおれのせいで、おれがいたから、姉は!」
バチン、と記憶の中の何かがはじけた。
秋田がいたから、姉は逃げられなかった。秋田は姉を見捨てて、逃げ出した。
姉は秋田の手を振り払い、「逃げなさい」と叫んだ。秋田はそれを真に受けて、逃げた。
「殺されなかっただけでもよかった。犬に噛まれたと思って」
誰かがそういうのを聞いたのではないか?
何故忘れていたのだろう?
秋田は姉のそばにより、手を握り締めた。
「おねえちゃん……」
誰も秋田を責めなかった。それどころか、秋田自身も忘れ果てていた。
秋田は姉を背にして立ち上がった。
「姉を帰してください。おれは黙っている。誰にも言わない」
そういって、秋田は手を広げ、テーブルの上に置いた。
「何をしてるんですか」
「筋を通すんだ。そのナイフでおれの小指を落とせ」
「堅気の家の子弟が、そんな物騒なことを言うものではありません。」
教師はげんなりした顔になった。
「第一、きみの小指をもらっても仕方ない」
「じゃあどうしろというんだ!」
月村は「さあ、どうしましょうかね」と答え、日向のほうを省みた。日向は肩をすくめた。
「ぼくはその気にならないから、そうですね。土田さんに頼んで。秋田さんの言う、『筋』を通してもらいます。大好きなお姉さんの前でね」
すると月村は、会心の笑みといった表情になった。
「呼んで来なさい」
「おい、何を言ってる。土田はまだ鹿児島に」
秋田は息を呑んだ。月村の舎監室の奥から、大柄な男がのっそりと出てきたからだ。
「貴様、帰っていたのか!」
土田は苦しそうに顔を背け、何もいわない。かわりに月村が答えた。
「ええ、昨日帰ってきたのですよ。こう見えて、案外気が弱いのですね。あなたの顔を見るのが辛いというので、ここに居てもらったのですが」
そうですか、と秋田は適当に答えると、勤めて冷静に、土田に話しかけた。
「お帰り、土田。姉さんの具合はどうだった?」
土田は驚いたように目を上げた。
「姉は、持ち直した。あとは療養するだけだ」
「よかったな。そうだ、土田、お前の欠席してる間のノートだが、お前の分も取ってある。ドイツ語のも、お前のクラスのヤツに頼んだ。遅れをとることはないと思う。何も心配することはない」
言い募るごとに恐ろしさが込み上げてきて、息が切れた。何故、土田は黙っているのだ。
少し見ないうちに髪が伸び、前髪が目に入るほどになっていた。その髪の下、くっきりとした切れ長の目が、秋田を伺っている。
隙をうかがっているのだ。
「困ったときはお互い様、だから……」
秋田はそういいながら、震え始めた。しまいに泣きの入った声で喘いだ。
「なして何も言わない?」
すると土田は、一瞬苦しそうな顔をした。
「すまない、秋田。お前を信じないわけじゃない。だけど、要のためだから」
土田は喉に絡むような声でそう繰り返しながら、秋田の肩を掴んだ。
「秋田、ごめん」
「やめれ。殺さないでくれ!」
「殺しはしない。だけど、お前は、舌を噛みかねないから」
土田はそういうと、秋田の口の中に布を突っ込んできた。
END
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