小舟 4


「頼みの綱がデボラの占いとはな! イルヤの東じゃわかんねえよ!」
タルが、ふいに苛立った声を上げた。
ケネスが疲れた声で応じた。
「今はそれに乗ってみるしかないんだ。何の手がかりもないんだからな」

タルは上を見上げて怒鳴り声を上げた。
「おい、ニコ、おれが代わってやろうか!」
ニコは見張り台から不機嫌な声をなげてきた。
「ここはおれの持ち場ですよ!」
「ならもっとちゃんと見ろよ!」
「タル、八つ当たりはよせ」
タルはケネスに制止されて、不機嫌に黙り込んだ。そのとき、頭上から大声が降ってきた。
「2時の方向に漂流物! 小舟だ! みんなに知らせてください」
「そうか! すげえぞ、ニコ!」
しかしニコは、こうも言った。
「中で人が倒れてる……動く様子はありません……どうも……死んでるように見えます」
ぼくは頭を抱えて、その場に倒れこんだ。
「しっかりしろ、スノウ。まだ死んでると決まったわけじゃない」
ケネスに肩をゆすぶられたが、彼の顔も真っ青で、唇を白く見えるほど噛み締めていた。

それからケネスはポケットから望遠鏡を取り出し、身を乗り出して海面をにらみ始めた。
たしかに、ぽつんと何か浮かんでいるのが見えた。それが舟であるのがかろうじて見て取れたが、中の様子などはもちろんわからない。
「スノウも見てくれ」
ぼくは望遠鏡を借りて、小舟を探した。小舟の中までは見えなかった。

「だからもっと近づいてくれよ! 生きてるかもしれねえだろうが! なんで碇を下ろすんだよっ」
タルが誰かを怒鳴りつけるのが聞こえた。タルとデスモンドが険悪な雰囲気でにらみ合っていた。
「1キロより近くなというリノ王のご命令です。これでも、500メートル切っているんですよ。これ以上近づけるわけにはいきません」
「こんな遠くじゃわかんねえよ」
言い争っている二人に、ニコが頭上から決定的な一言を投げてきた。
「どうも、死んでるみたいです! 全然動きません!」

ぼくは、必死で足を踏みしめて、倒れまいとがんばった。デスモンドは忙しそうに操舵室に戻っていった。
「くっそ、あのおっさん! いちいちむかつくぜ!」
タルはそう叫ぶと、床を何度も蹴りつけた。

デスモンドはしばらくして戻ってきた。
「小舟に向かって紋章砲を撃ちますが、誰かお願いできますか? 腕に覚えのある人がみんな嫌がってましてね」
タルが激怒して叫んだ。
「おれはごめんだ。そんなに撃ちたけりゃ、てめえが撃てばいいだろうが、この悪魔!」
デスモンドは、肩をすくめただけだった。
「撃ちたいわけじゃないんですが、それしかなさそうですね」

そういうなり、また操舵室に消えた。
「この野郎!」
タルは剣に手をかけて、彼の後を追っていこうとした。ほっといたら彼を斬り殺すかもしれない。ぼくとケネスは、必死になってタルを捕まえていなければならなかった。

轟音とともに第一発目が発射されたのは、その直後だった。しばらくして、イリスの乗った小舟からは200メートルも離れたところから、大きな水しぶきが上がった。

海面をにらんでいたタルが笑い始めた。
「あの野郎……何で砲手を探してたかわかったぞ。あいつ、すげえへたくそなんだ」
ケネスは再び望遠鏡を覗き始めた。
「それにしても、大幅に外しすぎじゃないか。あ、また撃つのか?」
そうケネスが言った瞬間、2発目が発射された。今度はさらに離れたところに落ちた。
どちらも土の紋章砲だったので、水面に茶色い輪が広がりはじめた。とばっちりを受けたのは海の魚だろう。しばらくすると魚が浮かんでくるかもしれない。
いずれにせよ狙いが大幅にそれたので、小舟は沈まず、ただ大きく揺れただけだった。
ぼくも紋章砲は得意じゃないけど、ここまで無様な外し方をしたことはない。

「何やってるんだ、あいつ」
タルが怪訝そうな声を出したときだった。小舟の上で何かが動いた。ケネスとぼくは、ほとんど同時に、「動いた!」と叫んだ。

「なんてこった!! イリスが生き返ってる。なんか叫んでるぞっ」
頭上でニコがどなるのが聞こえた。


おれは、いつのまにか眠っていたらしかった。突然、爆音で目が覚めた。
「な、なんだ」
おれは立ち上がろうとしたが、弱っていてすぐには起きられない。そうしているうちにまた轟音が響いた。
紋章砲の音だった。聞きなれた音だったが、いきなり海戦が始まったのか?
体を起こしてあたりを見渡すと、巨大な船の影が見えた。見間違えようがない、それはオベルの巨大な船だった。

あたりを見回しても、他に軍船などはない。オベルの船と、おれの乗る小舟だけだ。
そして船は、舷側をこちらに向けて停まっていた。

そのときにおれはようやく思い出した。自分で命令して、そのときまで忘れていたのだ。
おれの死を確認したら「紋章砲で舟を沈めろ」っていうやつだ。そして、どうやら船の砲門はこちらを向いて、紋章砲を撃つ準備を進めている……。

「やばっ!」
おれは体を起こし、狂ったように手を振り回して、大声で叫んだ。
「撃つな、撃つな! 助けてくれ!!」




イリスが引き上げられると、甲板は大騒ぎになった。
ぼくは人の輪から少しはなれたところで、イリスを見守った。

ケネスがスープの入った椀を差し出した。
「ゆっくりとだ、イリス………落ち着いて、少しずつ飲むんだ」
イリスはそれを受け取ると、長い時間をかけてゆっくりと飲み干した。何度もお代わりをして、それからぼくを見た。
相変わらず口はへの字に結んでいたが、目は照れくさそうな笑いを浮かべていた。
何か言おうと思ったが、口を開くと泣きそうだった。

「イリス!!!」
飛びついていってイリスを抱きしめたのは、タルだった。イリスのほっそりした姿は、タルの広い背中に隠されてしまった。
「ちっくしょう、イリス!! このろくでなしっ! 心配させやがってぇ!」
タルはそう叫びながら、イリスをぎゅうぎゅう抱きしめていた。その周りで、船に乗っていた仲間たちが万歳を叫んだ。
あるものはラズリルの騎士の歌を歌い、あるものはオベルの歌を歌い、イリス万歳、群島万歳……。

この輪の中には入っていけない。今のイリスはみんなのものだった。喧騒を離れて、甲板をあがっていこうとしたとき、ニコに呼び止められた。

「あの、ちょっと来てくれる?」
「え?」
「黙って削っちまおうと思ったんだけど、その前に、あんたに見せといたほうがいいと思ってさ」

甲板の隅に、イリスが乗っていた舟が放置されていた。どこも傷んだようすはない。小舟だけどとてもしっかりしている。これがイリスの命を守ってくれたのだと思うと、無性に愛しくなり、そっと舟ベリを撫でて「ありがとう」と言った。その瞬間、息を呑んだ。
ぼくの名前が、イリスの名前と並んで大きく、力強く掘り込まれている。その間に掘り込まれた変な図形は、ハートの形に見えないこともない。
なんて恥ずかしいことを!

ニコが困ったような顔をしてつぶやいた。
「どうしようか? 舟の底にもいっぱい、名前彫ってるんだ」
ぼくたちはそのまま何分も、黙って顔を見合わせていた。
やがてニコは舟底にしゃがんで、小刀を取り出すと、黙って文字を削り始めた。ぼくもあわてて自分の剣を抜いて、注意深く削り始めた。
「手、切るなよ」
ふなべりの文字を半分消したときに、ケネスがやってきて、「イリスが呼んでるぞ」と言った。
ニコを見ると、彼はあごをちょっと突き出して、「さっさと行ってやれよ。おれが消しとくからさ」と言った。
「軍主殿がお待ちだぞ。元気付けてやれよ」
「あの、申し訳ないけどこのことは、誰にも言わないでくれる、かな?」
「しゃべらねえよ。死んでるかも、なんて言っちまって悪かったしな」
「ニコ、恩に着るよ。いつかお礼は必ずするから」
ニコはにっと笑った。
「じゃ、あとで、ラム酒でも一杯おごってもらうかな」

おわり。
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