彼氏のため息
October 20, 2005

ある日、ミドルポートから「人工呼吸蘇生法」の先生がやってきた。海上騎士団始まって以来の出来事で、例によってグレン団長が長い演説を行った。

「命を惜しまずガイエンを守るのが、われわれの使命だが、市民の命を守るのも大事な仕事である。お前たちはこれからダミーの人形を使って教えてもらうが、人形だなどと思っていい加減にしてはならない。水難にあった市民と思い、心してかかるように」

数分後、訓練生たちの前に、その不気味なダミー人形が横たわっていた。
上半身裸の男性の形をした人形で、目には青いガラス玉が入っていた。頭は、巻き毛の長い髪で覆われている。
この人形のモデルは、美男子で有名な(ラインバッハ)という男だったのだが、訓練生たちには(気持ち悪い)裸の人形にしか見えなかった。
「趣味悪っ」
そんな女の子たちの声も聞こえてくる。
「野郎の人形か。かわいい女の子とかだったらなあ」
ひそひそささやいたのは、少し年上のタルだったろう。
とはいえ、これを受けないと卒業できないので、しかたがなかった。
したがってほとんどの訓練生たちは、内心は嫌がりながらも、きちんと講師の言うことをこなしていった。

そのため、スノウの不器用さ加減が激しく目立ってしまった。
剣術ではもっとも秀でているはずのスノウが、人形を前に「石化状態」になってしまったのだ。人形に顔を近づけることさえできない。
「何眺めてるんです。それでは、助かるものも助かりませんよ。」

しまいに講師はため息をつきながら、言い放った。
「来週、再試験します。週末は枕でも相手に練習していらっしゃいね」
スノウはがっくりと肩を落とした。
(だって。体が動かなかったんだ……)
背後でくすくす笑う声が聞こえてきた。グレン団長まで「話にならんな」と嘆息しているではないか。
スノウにとっては、その場から消え去りたいほどの屈辱だった。


その夜スノウは、講師にもらったマニュアルを読み返していた。手順そのものは、覚えればどうということはないものだった。
「まず、肩に手を置いて、大丈夫ですか……意識がなくて、呼吸もないことを確認し、指であごを持ち上げて、気道を確保する」
ここまでは、訓練でもうまくいった。だが、人形のぬれた唇を見たとたん、本当に体が動かなくなったのだ。

「枕でも相手に練習していらっしゃい、か」
講師のとがった声を思い出して、スノウはため息をつき、大きな羽枕をぽんとたたいた。

少年がノックもせずに入ってきたとき、スノウはベッドの上で枕を相手に、人工呼吸の真っ最中だった。
「おやつだよ。ジュリーがケーキを焼いたからって。それと、ココアも」
案山子のようにやせた少年は、ぶっきらぼうにそう言った。少年はスノウに一年遅れて、先日騎士団員見習いになったばかりだった。

トレイの上には、生クリームを盛り上げたココアと、白いクリームを山盛りにした、いかにも甘そうなケーキが乗っている。
スノウはため息をついた。
甘すぎるお菓子は好きではないし、第一、食欲などありはしない。

「ココア、イリスが飲んでいいよ」
「ほんと?」
「ケーキもね。ぼくは要らないから……ジュリーには黙っているんだよ」
「やった。いただきます」
少年はスノウの横にぺたりと座り、大人しくケーキを食べ始めた。何でもおいしそうに食べるのが、この少年のいいところだった。
そして、熱心に何かを食べているイリスは、いつもの無表情ではない。そんなときのイリスは可愛らしい。
やがて口の中をケーキを一杯にしながら、小間使いの少年は、こんなことを言い出した。

「今、もしかして人工呼吸とか練習してたの?」
スノウは、軽くイリスをにらんだ。
「しかたないだろ。ダメ出し食らったんだもの。ちょっと見ていてくれよ」
だがこうなったら、開き直るしかない。再び枕の上に身をかがめ、ゆっくりと2回、枕の中に息を吹き込んだ。
「これでいいんだよね?」
そのとたん、イリスの声が飛んできた。

「いいと思うけど、そんな枕で完璧にやれても、意味ないんじゃない?」
素直だがきつい一言だった。イリスはいつも従順で無口だが、最近、たまに毒舌を吐く。

「そんなこと言ったって……仕方ないじゃないか。練習しとけって言われたんだから」
「後ろでね、笑ってたやつがいたよ。フィンガーフートの坊ちゃんはパパが怖くて、女の子にキスもしたこともないんだろうってさ」
スノウは真っ赤になった。
「ゆ、許せない」
「ね、むかつくだろ? おれだってむかついたんだもの」

スノウはマニュアルを握り締めて、虚空をにらんだ。
「ぼくだって人一倍がんばってるんだ。こんなことで笑われてたまるか! 来週は絶対リベンジだっ」
「がんばってね」
そんなイリスは一発で合格で、おまけに講師にほめられていた。スノウにはあまり面白くない事実だ。
「イリス、鼻にクリームついてるよ」

イリスは舌を伸ばして、自分の鼻先をぺろっと舐めた。この少年は、爬虫類か、と思うくらい舌が長いのだ。
「スノウ坊ちゃん。おれが練習台になってやろうか」
「…………何の」
「人工呼吸のさ」

イリスは平然とスノウを見ている。怖がっているのはスノウのほうだった。この少年との付き合いは長いが、たまに得体の知れないところがある。
「変な冗談いうなよ!」
「おれはスノウ坊ちゃまの小間使いだからな。主人のためにがんばるよ」
イリスはスノウの枕を下に放り投げ、ベッドに登って横になった。どうやら本気らしかった。

あごが外れそうとはこのことではないか。
「ば、ばかっ。そんなのきみの仕事じゃない。それに、危険だろ!」
イリスは妙に挑戦的な目でスノウを見上げてきた。
「心臓マッサージしなかったら平気だよ。あれ? もしかして、怖いの?」

プライド高い御曹司は、その一言に、かちんと来たのだった。
「怖いもんか!」
スノウは、少し乱暴な手つきで小間使いのあごを上げた。イリスの大きな青い目に、おびえたような表情が走ったが、挑発してスノウを怒らせたほうが悪いのだ。
マニュアルどおりイリスの鼻をつまみ、イリスの口を全部ふさいだ。ココアとケーキの匂いがした。

「……ふ……うっ」
イリスがのどの奥で、苦しそうな声を上げた。驚いたスノウは、息を吹き込むどころではなくなり、飛び起きた。
生々しい、柔らかい感触だけが唇に残った。

するとイリスは、閉じていた目を開けて、「不合格だね」と言った。
「今のはただの『キス』だったよね? 息を2回吹き込むんだよ?」
「だって、イリスが変な声を出すから!」
「おれの声は気にしないでいいよ。ほら、早く。また試験に落ちたいの?」
「も、も、もうっ。知らないぞ!」

スノウは大きく息を吸って、イリスのとがったあごを指で持ち上げた。小さな鼻をつまんで、それこそ(死んだつもりで)思い切りイリスの口を塞いで、ゆっくりと息を吹き込んだ。
顔を離して見つめると、イリスは閉じていた目を開け、ぼんやりした表情でスノウを見上げた。
小間使いの頬がひどく赤く見えた。
「イリス、苦しかった?」
「……平気。少しだけ息が入ったよ。もういっぺん。」
「わかった」
そして、二回目の息を吹き込んだあとに、異変が起こった。



「イリス! イリス! 目を開けてくれ!」
スノウは半狂乱になって、イリスの肩を掴んで揺さぶった。イリスは目を半開きにして、反応がない。手はぐったりと垂れ、まったく力がない。
「死んじゃうのか!  嘘だろ! 目を開けてくれぇ、ぼくを人殺しにしないでくれぇ!」
口元に顔を寄せると、息は速いが、ちゃんと息をしていた。心臓の鼓動は早かったが、力強く脈打っていた。
スノウは泣きそうになりながら、イリスの華奢なあごを持ち上げた。
気を失うと、舌が沈下して息ができなくなるという。だから気道を確保しなければならない。
「ちょっと息が楽かい? ねえ、イリス、頼むから起きてくれよ……」
小間使いは半分目を開けて気を失ったままだった。



「スノウ……大丈夫?」
頬に触れられて、目を開けると、赤いリボンを頭に巻いた、裸の少年が見下ろしていた。青い目の色は同じだったが、頬の線も眉の線も、ずっと大人びて見えた。
もうスノウの小間使いではない。
スノウに人工呼吸をされて意識を失った、頼りない少年訓練生の面影はない。
自信に満ちた若者だった。

「ごめんなさい。無理させすぎたみたいだ」
イリスはそうつぶやくと、優しい手つきでスノウの髪を撫で付けた。
「水、飲む? それとも、風呂に入りたい?」
「いや、いい……昔のことを思い出してた」

若者は、少年の手のひらをつついた。
「イリスは、いつからぼくのことを好きだったの?」
「覚えてないくらい前からね」
「訓練生のときも?」
「もちろんさ」
スノウは声を立てずに笑った。なぜ気づかなかったのだろう。あのときのイリスの振る舞いも憎まれ口も、スノウの気を引きたかったからなのだ。
この船に乗ってから、たくさんのことに気づいた。
「イリス。もしきみが死にそうになっても、ぼくが死なせないからね」
「ん?」
「人工呼吸でね。イリスが練習させてくれただろ?」
イリスは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「頼りにしてるよ」


決戦は目の前に迫っていたのに、まるで戦いなんてないかのような夜だった。


END

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