海の棺 5
05/9/19


小さなモナはスノウに貼りつくようにして、かたときも離れない。その夕方は、とうもろこしの芯にぼろ布を巻いた「お人形」で遊んでいた。
無心な様子がほほえましかった。
「モナは将来、何になるの?」
「ショウライって、なに」
「大きくなったらってことさ」
「花嫁さん!」
小気味いいほどに、即答だった。
「そうなんだ。……いい夢だね……」
少女は澄んだ目でスノウを見つめて、こう言った。
「スノウは? 大きくなったら何になるの」
若者は言葉に詰まった。将来なんてもう、もう何も考えていなかったからだ。
そこで困った末、下手な冗談に逃げた。
「う〜ん。そうだな。じゃあ、スノウもお嫁さんになろうかな」
小さなモナは「へんなの」とくすくす笑った。

そのとき、ふいに少女は体をこわばらせて、ドアのほうを見つめた。
引きずるような足音がして、外で止まり、次の瞬間、船長がドアを蹴って入ってきた。
「きゃっ」
小さなモナは、悲鳴をあげてカーテンのむこうに逃げ込んだ。
男は、ひどく酒臭いばかりではなく、目つきまで異様で、ろれつもあやしくこう命令した。
「おい、尻を出せ」
スノウは絶望した。副長がいさめてくれるのでは、などと、淡い期待を抱いたのが甘かったのだ。
若者はひきつった笑顔を作り、船長の下半身に手を伸ばした。
「糸がまだ抜けないんで、今日はこれで我慢してください」
船長はにやりと笑い、スノウの手首を掴んだ。そのまま無造作に引き倒された。
「許してくださいっ」
哀れに訴えたとたん、耳を殴りつけられた。2,3秒、気を失っていたのかもしれない、気がついたら下半身を露出させられ、上にのしかかった船長も半分裸だった。もう抵抗する力も気力もない。
ただ、もうこれで死ぬのかな、ととぼんやり考えていた。
「いてっ」
スノウに覆いかぶさっていた船長が、妙なうめき声をあげて体を起こした。
「なんだこりゃあっ」
小さなモナがカーテンを開けて、蒼白な顔をして見下ろしていた。船長の背中に小さなフォークが引っかかっていたが、立ち上がったときにぽろりと落ちてしまった。怪我をした形跡もない。
それを見ていた少女は、ぼろぼろと涙をこぼした。泣きながらも、憎しみを込めて船長をにらみつけている。
「今度はスノウも殺すの?」
船長は笑いながら長剣を抜き放った。血が茶色くこびりついているのが見えた。
「バカな小娘だ。しかたない、お前を先に地獄に送ってやるよ」
スノウは我に返り、ベッドの下の剣に飛びついた。それを抜き打ちざまに、船長の背中に突き立てた。


船底には鍵のかかる牢があった。
時折ねずみが走り回るそこに、スノウ・フィンガーフートが閉じ込められていた。
暗い船倉だったがすぐに眼が慣れた。牢とはいえ番人もいない。鉄格子も、そとから簡単なかんぬきを掛けてあるだけで、少し工夫すれば外れそうなほど無防備だし、スノウの剣も見えるところに放置されていた。
ここから逃げても外は海なので、厳重に管理する気がないらしかった。

しばらくすると、ラズリルがやってきた。
「モナは助かったぜ。かすり傷だった。……あいつ、酔ってたらしいから。手元が狂ったんだろうな」
「よかった……」
安心のあまり、力が抜けた。
「船長はだめだった。明日の朝、水葬になる」
若者は少しためらってから、こう切り出した。
「船長は、モナの母親を殺した。モナがそう証言したんだ。それから落ち度のないお前を、一ヶ月も辱めた。おまけに、モナも殺そうとした。スノウがやったことは道理がある。それでもスノウを無罪放免ってわけにはいかねえんだ。わかるな?」
スノウは頷いた。
「副長は、斬首だって騒いでるよ。だけど、みんなで相談して、クールークで裁判だって決めた。望みはあるから、あきらめるんじゃねえぞ」
スノウは微笑んだ。
懸命な若者の様子に、かえって、裁判しても望みは薄いのではないかと思ったのだ。
「ぼくも、覚悟をしなきゃね」
「だから、死刑だって決まったわけじゃねぇって。死にそうな顔するな」
「うん……」
ラズリルは声を低めた。
「舟で逃げるか? ラズリルに帰りてえんだろ?」
スノウは不覚にも涙をこぼしそうになり、黙って首を振った。
「ラズリルに帰りたいって、お前、寝てる間ずっと言ってたんだぜ。一瞬、おれの名前を呼んでるのかと思っちまったよ。ラズリルの人間だって、なんで黙ってたんだよ」
「……黙っててごめん。帰りたいけど、もう帰れないから……」
「おふくろみたいに泣きながら言われると、たまんねえよ」
ラズリルは立ち上がった。
「決めた。舟を奪うぞ」
スノウは慌てた。
「だめだ、ラズリル。きみもただではすまない」
「なに言ってる、おれも一緒に行くんだから、まあ任せとけよ」
若者がそう言ってその場からいなくなってから、10分も経っていなかった。

突如、頭上で爆音がした。
ずうん、と船全体が大きくゆれたが、砲撃を受けたという感じではない。むしろ、こちらから撃ったという印象だった。
しばらくして、雷が落ちるような音がして、横方向にひどい衝撃が走った。
スノウは床にたたきつけられたが、一瞬早く頭をかばったので、気絶は免れた。ばらばらと天井の板材が落ちてきていた。衝撃で牢のかんぬきが外れ、鉄製の鉄格子がぶらぶらと揺れている。もっと悪いことは、足元から浸水し始めていることだった。
スノウは牢から出て、自分の剣を拾った。とりあえず上に逃げるしかない。
すると、ラズリルが慌てて走ってくるのにぶつかった。
「大変だ、副長が狂った。味方の軍艦に紋章砲をぶっ放してる!」
「ええっ」
「敵うわけねえよ。あっちは鉄の船で、こっちは木なんだ。てかそういう問題じゃねえ。とにかく一緒に来て、副長を止めてくれ」
スノウは慌てて剣を拾いあげた。

階段を上る途中で、次の衝撃が来た。
「副長はこっちだぞ」
そのとたん、また紋章砲を撃つ音が響いた。
しばらくして遠くで、轟音がした。見事に命中したようだった。
眼を凝らすと白い煙のたちこめる中、長いローブを着た男が紋章砲のそばに立っていた。
「副長おおっ! あんた、なにやってるんだっ。み、味方の船だぞ」
ラズリルは叫んだが、すぐに足元の惨状に気づいて 息を呑んだ。折り重なった人間の体、その真ん中に、副長が立っていたのだった。
副長は振り向きもせずに紋章砲を構えている。
「ふ、副長。これは、あんたがやったのかよ」
副長はラズリルをちらりと見やった。
「私の邪魔をするからだ……裁判などさせない」
「紋章砲を撃つな、相手は味方だぞっ」
男は「承知の上」と口角を上げて笑った。
「この船を彼の棺にする。みんな一緒だ。あの軍艦がこの船を沈めてくれるだろう。ところで、そこにいるのはラズリルのスノウだな」
副長は眼を輝かせてスノウを見つめ、白い髪を掻き揚げた。髪は紋章砲を撃ったときに焼けたのか少し焦げていた。
細面で上品なつくりの顔立ちだが、今は正気の眼ではなかった。
「ご主人様の仇。……死んでもらうぞ、フィンガーフート」
副長は骨ばった白い右手を、高く差し上げた。
「わが旋風の紋章よ……」
「来るぞ、逃げろスノウ!」
ラズリルに突き飛ばされて、10メートルも吹っ飛んだだろうか。
気がつくと、ラズリルが血まみれになってその場に倒れていた。
「命汚い……」
副長は舌打ちをして、もう一度手を上げたときだった。側面から恐ろしい衝撃が来て、あたりは黒い煙で真っ暗になった。
さきほど副長が立っていた床には、大きな穴が出来ていた。
副長の姿はもう影も形もなかった。そればかりか、船全体が悲鳴を上げて、ゆっくりと着実に傾いていく。
浸水が激しいのは明らかだった。
「……甲板に行くぞ、スノウ」
ラズリルはもう立ち上がっていた。はあはあと肩で息をしていた。出血が激しく、背中の傷からの出血なのに、膝の辺りまで血が流れ落ちていた。
「上に。舟だ」
スノウは頷き、ラズリルを支えて走り始めた。


途中、モナがいる部屋のドアを蹴りつけて開けた。モナはベッドの下で怯えていたが、スノウの姿を見て這い出してきた。
甲板の上には、生き残った乗員が集まっていた。抵抗できないと見たか、既に砲撃は止んでいた。舟を見たとたん安心したのか、ラズリルはその場に座り込んだ。
「スノウ、あれだ。モナと早く乗って逃げろ」
スノウは舟を見た。とても小さな舟で、甲板に集まった人間全員を収容するのは無理なことは、一見してわかってしまった。
「おれはもうだめだから、お前、乗れ」とラズリルがうめいた。
「わかった。でもまずラズリルが乗って」
スノウはそういうと、モナとラズリルを前に押し出した。誰かが、「これまでだ、もう乗れない」というのが聞こえた。
スノウは周りを見た。こんな私拿捕船でも、怪我人を先に乗せるらしい。小さな船は血を流した乗員がほとんどだった。
スノウはゆっくりと舟を離れた。

「スノウ、どこへ行くんだ。お前も乗るんだ」
ラズリルが起き上がり、小舟のへりにすがって身を乗り出している。
スノウは懸命の笑顔を見せた。
「ぼくは泳ぐ。モナのことは頼んだよ」
「バカ言え。死ぬぞ!」
「知ってる? ラズリルの海上騎士は、ラズリルからミドルポートまで泳いで往復するんだ」
スノウは船のヘリに登り、ラズリルに叫んだ。
「さよなら、ラズリル! きみとモナに、神のご加護を!」
そして、渾身の力を込めて手すりを蹴り、海に飛び込んでいった。海面は岩のようで、後ろから引きずり込もうとする力も、もうかなり強かった。
ラズリルからミドルポートまで泳いだときは、波はもっと穏やかで、併走する舟があった。
何より今より体力があった。

一時間以上、もしかした二時間くらいは全力で泳いだ。力尽きるまえに、運良く漂う流木にしがみついたが、火事場の力もそこまでだった。
空は青く澄み、波ひとつなく、船も見えない。見回しても島の影もない。まさに、絶海だ。
スノウは大きなため息をついた。
「ここはどこなんだ」
頭の上を、白い鳥が飛んで、海は広いというのに、わざわざスノウの頭上に糞を落としていく。
「こらあっ。スノウ・フィンガーフートと知っての狼藉かっ」
スノウが叫ぶと、鳥は叫び返してきた。
その叫び声が、「あほう、あほう」と聞こえたので、スノウはよけいに肩を落としたのだった。
「やっぱりぼくは、バカだ。舟に乗せてもらったほうが良かったのかな。無理したら、ぼく一人くらい乗れたかもしれないし。でもあれに乗っても、どうせ監獄行きだしなあ……」

スノウは流木にしがみついたまま、波の間を漂い続けた。ときおり、近づいてくる鳥を捕まえて、生のままで食べた。
ひどい味だった。
太陽が東に昇り、西に沈む。朝が来て、また生きていることを思い知る。
飢えて乾いて、孤独だった。それでも、イリスもこんなに苦しかったのだろうと思うと、スノウは正気を保てるのだった。
「あの副長、恐かったよな。イリスがあんなにならなくてよかったなあ。……イリスが離れて行ってくれてよかったのかな。いや、追い出したのはぼくなんだ」
丸太の上に、どこからか甲虫が飛んできていた。細長い黒い体に、青い模様のついた、見たこともない美しい虫だ。背中の模様は大きな目の形そっくりで、左右の羽に二つずつついていた。
陸が近いのかもしれなかったが、見回しても島影はない。どこから飛ばされてきたものか。
「お前、どこから来たの」
甲虫を捕まえて、しばらく眺めた。甲虫の背中の青い星が、イリスの目の色を思い出させた。虫は目も青かった。きれいな甲虫だが、おいしそうには見えなかった。
「お前を食べようかと思うんだけど。お前はどんな味?」
虫はじっとスノウを見つめているようだった。
「お前、どう思う? イリスにもう一度だけ会えたら、ぼくはどうしたらいいのかな。謝っても許してくれないよね」
とりとめもなく、独り言を言い続けた。手を広げると、虫は高く飛び上がった。

眠り込むと、海に落ちそうになる。はっと気づいて、丸太にしがみつく。
丸太を手放せば簡単に死ねる。だが、スノウはどうしても生きていたかった。今、死んではいけない。なぜかそんな気がしたのだった。
(かならず見つけてくれる)
(イリス)
(少しだけ眠ろう。少し眠るだけだ……そしたら必ず起きて、もう少しだけ生きていよう……)
それはまるで、誰かが耳元でささやいているかのようだった。
(イリスがお前を探している)

ゆっくりと進む、巨大な船があった。
「正面やや右舷よりに漂流物です」
船の上がにわかにあわただしくなる。帆船はすぐに止まれない。帆をたたんで錨を下ろし、小舟を下ろし始める。
スノウはそんなことを知るはずもなく、浅い眠りをむさぼっていた。
長い苦しい冒険が、ようやく終わりに近づいていたのを、まだ彼は知らなかった。


オベルの巨大船の朝8時過ぎ。甲板掃除も終わり、一息ついたころだ。
「スノウ」
少年は毎朝、一緒に食事を取りにスノウのところにやってくる。二人で剣の練習をすることもある。汗ばんだ体に風が心地よい。
ひんやりとした木の床は乾いて、清潔だった。
オベルの巨大船は、あの棺のような船とは大違いだ。多数の人間が住んでいるのに、帆船につきものの不潔さもない。
「船室に行かないの? スノウ、ここが好きかい?」
ずっと暗い部屋に閉じ込められていたので、船室に居たくなかった。それに船室にはラズリルの住民もいて、冷たい視線が痛くもあった。
もちろんスノウはそんなことは言わない。
「眺めが良くて気持ちいいよ。頭冷やせるし、いろいろ考え事もできるし」
「何の考え事?」
「いろんなことさ。……ああ、ぼくは今日も生きてるなって」
「ふうん?」
「波間に何か落ちてないかなって探したりもする。丸太で漂ってるばか者が、他にもいないかしらってね」
イリスは「丸太で漂流して助かるような、タフなやつはスノウだけだよ」と笑い、足でスノウの靴をかるくつついてきた。こんなしぐさは、以前ではけして見せなかった。

スノウは、足元の分厚い甲板に触れた。磨かれた甲板は乾いて、心地よかった。
「この下にいっぱい人がいる。町がひとつ動いてるようなもんだね」
「うん」
「……子供も女の人も、年取った人も、この下にいる。イリスは、こんなにいっぱい人を抱えた船で戦ってる。みんなを守っている……きみは、ほんとに強いと思う」
イリスはしばらく沈黙した。
「おれはそんなに強くない。みんなが支えてくれるけど、ずっと恐かったし、すごく寂しかったんだよ……」
「恐かった。寂しかった。どっちも、過去形だね」
スノウは、イリスの左手を取り、冷たい手に包んだ。イリスはかすかに震えたが、手を引っ込めようとはしない。
イリスの左手はいつも熱を持っている。革の手袋をとおしても、それがわかるくらいだ。
自分の冷たい手に包んで熱を取ってやると、きっと気持ちがいいだろうと思うのだ。だが、自分の手に包むと、イリスの手はよけいに熱くなってしまう。
「じゃあ、もう恐くないし、寂しくないんだね」
イリスは問い返してくる。
「スノウは?」
「こないだまで寂しかったけど、もう寂しくないよ」
青い眼がじっとスノウを見つめている。
(きみにまた会えたから)
そう心の中でささやく。冷たいはずのスノウの手の温度が、少し熱くなる瞬間だった。

もどかしい二人の会話を、はるか上空から白い鳥が聞いたのか、また一声、「アホウ」と叫んで飛び去っていった。



海の棺
おわり。

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