姫君とぼくの夏休み
October 28, 2005
王妃様は、なきがらも残さないで亡くなった。小さな弟君も行方知れずだ。小さかった姫様が納得できないのは当然だった。
「お母様はどこ? デスモンド。ねえ、赤ちゃんはどこへ行ったの?」
そういって王宮の端から端までお探しになった。1週間くらいたってやっと納得してくださり、探すのをやめたけど、それからが大変だった。
歩けなくなって、夜泣きはするし、まともにご飯も食べられない。
毎日おねしょをしてしまうが、これは「赤ちゃんがえり」だとお医者様はおっしゃった。
「あまりうるさく言わず、そっとしておくしかないな」
「あの、お薬とかは……」
「そうさな。体を温める薬草茶を飲ませるかな」
だけどそのお茶は苦くて、小さなフレア様には無理だった。
王様は、ずたずたになった国を立て直すのに必死で、姫様のことなど見ようともしない。姫様のことを話しても「あ、そうか」とおっしゃるだけだ。王様の心はここにはなかった。
女官も何人も命を落とした。生き残ったものはほとんどひまを出された。みんなみんな、自分のことで手一杯だ。
島全体が笑っちゃうくらい貧乏になってしまって、食べるだけでせいいっぱい、お腹が空きすぎて、毒のある貝を食べて死んじゃった人もいたらしい。
姫様の家庭教師も、いつのまにか逃げていなくなった。うるさく言う人も居ないけど、毎日どうするかはぼくが決めなければならなかった。
ぼくたちは二人で、毎朝、虫取り網と虫かごを持って、沈み込んだ王宮を逃げ出す。姫様はあまり歩けないので、途中から背負って差し上げる。
野原には花が咲いて、あちらにはシジミチョウ、こちらにはモンシロチョウ、小さなばったも飛んでいた。ぼくは姫様を野原に座らせて、虫取り網でいくつも虫を捕まえた。
姫様は目を輝かせておられた。
「フレアも、チョウチョ取る」
ぼくは姫に網を持たせて、後ろから支えた。花の上にモンシロチョウが休んで、静かに羽を閉じている。姫様はそれを狙った。
「そっと近づくのですよ。後ろから。ゆっくりと、静かに」
だけど姫様はとてもあわてて、勢いよく網を振り下ろしてしまった。
「捕まえた!」
「やりましたね、姫様!」
網の中でばたばたしているチョウをそっと網から外すと、白い羽が一枚取れてしまった。フレア様はしばらく黙ってチョウを見ていた。
「羽は、また生えてくるの?」
「いいえ、取れた羽はもう生えてこないのですよ」
姫様は黙ってチョウを見ていた。
お昼が近づいて王宮に帰る前に、取った虫たちをすべて逃がしてやった。
「さあ野原にお帰り。遊んでくれてありがとう」
羽がとれた白いチョウは、虫かごの中でじっとしていた。手に乗せると、風が吹いて、チョウはそのまま下に落ちてしまい、もう動かなかった。
「死んじゃったぁ」
姫様はやっとそれだけ言って、うつむいていた。
「フレアが叩いちゃったから」
ぼくは姫様の頭をなでて、死んだチョウチョをそっと花の上に載せた。
「泣かなくていいんですよ。チョウチョは毎日、クモに食べられたり、鳥に狙われたりしているんですから。このチョウだって、そのうちアリが喜んで持っていって食べてくれますよ。そうやって命が回っていく。それで、いいのです。そうやってみんな生きてるんですからね。虫も、ケモノも、人も……」
無駄に生きて、無駄に死ぬなんてことはないんですよ。だけど姫様は、チョウチョを見つめて涙ぐんでいる。
「チョウチョって、すぐ死んでしまうんですよね。あんなに弱いからしかたない」
「………」
「わざとじゃないんですから。大丈夫、次は絶対うまくいきますよ」
姫様はべそをかきながらもうなずいた。
姫様を背負って戻る途中で、カラタチの木を見つけた。その葉っぱの上に、黒いものが動いていた。鳥の糞そっくりの、アゲハの幼虫だ。
「姫様。これ、アゲハの幼虫です。すごくきれいなチョウになるんですよ!」
「うわ」
姫様は気味悪そうに見ている。「これ、なに? 動いてる!」
「トリのフンそっくりでしょ。でもどんどん大きくなって、プクプクのイモムシになって、最後にアゲハになるんですよ!」
ぼくは注意深く葉っぱごとアゲハの幼虫を取り、虫かごに入れた。
「これは姫様の幼虫です。持ってかえって育ててあげましょうね……」
それから毎日、二人で、カラタチの葉っぱを取りに通った。鳥のフンのような幼虫はどんどん大きくなり、緑のイモムシになり、大きなさなぎになり、最後には輝く羽のアゲハチョウになった。姫様の手のひらより大きな羽。姫様の喜びようといったらなかった。
何枚も何枚も、アゲハの絵を描いたくらいだ。その後、野原でアゲハを放してやった。フレア様はまた絵を描いた。
野原を飛び回るアゲハ、その前で笑うフレア様とぼくと、それから王様が描かれていた。王妃様と弟君は、雲の上から顔を出して笑っている。フレア様も、やっとお母様が亡くなったことを納得したんだろう。
毎日毎日野原に行って、二人とも日に焼けて真っ黒になった。
セツさんなんか、喪も明けないのに殺生ばかり、とずいぶん怒ってたけど、取った虫は全部放してやるんですよ、と言い返した。
「少しだけ虫に遊んでもらうだけです。姫様にはこれが必要なんです。」
秋風が吹く頃には、姫様を背負って歩くこともなくなった。夜も泣かなくなって、ぼくは少し楽になった。
少し楽になって、そのころから、死んだ家族の夢を見るようになった。夢の中では、砲撃で崩れたはずの家が無傷で建っていて、中から母さんと、父さんと、弟、妹の笑い声がする。
ああよかった。全部夢だったんだ、だってみんな生きてるじゃないか!
「父さん、母さん! みんな!」
ドアが開けられない。
「あけて、母さん。ぼくもそっちへ行くんだ!」
そう叫ぶと、目が覚めてしまう。ぼくは声を押し殺して少し泣いた。
夏が終わる頃、王様が久しぶりにオベルに帰ってこられた。
次から次へと、いろんな人が王様に会いに来る。やっと謁見が終わったら次は宴会。大切な商売相手との折衝……。とても忙しそうだ。
まるで何かに追われているように、お仕事をしておいでだった。
フレア様は「お父様に絵を見せるの」といって、ずっと寝ないで王様を待っていた。たくさん描いた虫たちの絵、チョウの観察日記、野原を飛ぶアゲハの絵、その中にはちゃんと王様も描いてある。それを全部リボンで綴じてあった。フレア様の夏の日記だ。
だけど王様が部屋にいらっしゃないうちに、疲れて、眠り込んでしまった。
ぼくは失礼を覚悟で、王様の執務室へ行った。
静かにノックをすると、きれいな女の人が静かにドアを開け、ぼくを見下ろして、黙って立ち去った。
おじゃまだったかもしれない。でも、かまうものか。
王様は一人で飲んでいらして、ぼくを見ると血走った目でこうおっしゃった。
「おい、酒をもってこい」
ぼくは黙って、台所へ行き、お酒ではなく、冷たい水を汲んできた。王様は黙ってそれを飲み干して唸った。
「これは水じゃないか。酒をもってこいと言ったぞ」
「フレア様がこれをお描きになったので、見ていただこうと……」
姫様の描いた絵を、王様の前に差し出した。
王様は閉じてあるたくさんの絵を、気のなさそうな様子でぱらぱらとめくり、すぐに返してよこした。何の反応も示されなかった。ちゃんと見ているとも思えなかった。
「字も、少しですが覚えました。この絵の中の文字は全部、ご自分で。とても一生懸命練習したんです」
「そうか」
「姫様は夜泣きをしなくなりました。自分でちゃんと歩けるようになって、ちゃんと食べられるように……昨日などは、転んだ子供を助けてあげました」
「そうか。世話になるな。その調子で頼む」
そうじゃない、そんなねぎらいの言葉がほしいんじゃないんだ。
ぼくの心に、もどかしい怒りがわいて来た。
この方はいったい何だ。フレア様のことを何だと思ってるんだ。
「さっきまで、がんばって起きていらしたんですよ。明日は、きっと会ってくださいますよね?」
うむ、と、王様は気のない返事をなさった。
「わからん。明日は早いんだ。フレアも寝てるだろう」
足が震えた。この方は、フレア様を憎んでいるのか? だから見るのも嫌なのか?
「話はそれで終わりか? 明日は早いんだ」
「王様。出航を一日延ばしてでも、姫様に会ってください。フレア様のことをもう少し考えてあげてください」
王様は、ものすごく怖い顔をしてぼくをにらんだ。
「お前は何様のつもりだ」
「も、申し訳ありません。お忙しいのはわかります。お悲しみなのもお察しします。でも、姫様はあんなに小さいんです。王様よりずっと辛い思いをしてるんですよ」
「お前に何がわかる!」
「わからないのは王様のほうです!」
言ってはならないことだが、でも言わずにはいられなかった。
王妃様が死んだときに、この人はどこにいた? みんなが死んでるときに、この人はどこにいたんだ。全部終わってから帰ってきたくせに!
「せめて、せめてフレア様だけでも守ってあげないでどうするんです! 父親でしょうっ」
「うるさい、このガキがっ」
王様は丸太のように太い腕を振り上げた。手には酒のビンが握られていた。
「ひいっ! ごめんなさいっ」
ぼくは頭を抱えてうずくまった。一撃で死んでしまうだろう、成敗されてもしかたないことを言ってしまった。
しばらくしても、何も起こらなかった。目を開けてみると、王様は足元を見つめていた。
「すまない、デスモンド。お前の言うとおりだ」
「お、王様」
「おれは国を守れなかった、最低の王だ。王妃を一人で死なせてしまった。だが誰もおれを責めん。だからよけい辛い」
王様は大きな手で、ご自分の顔を覆ってしまった。
「フレアにどんな顔をして会えばいいのかわからん。顔が見られんのだ。王妃そっくりな顔をしたあれを、あれまで失いそうで、おれは恐ろしくてならんのだ」
小山のような肩が震えていた。大人なのに泣くんだ、と思った。泣いているフレア様はかわいいけど、泣いている王様は少し恐ろしい。人間に射られて傷ついた、大きなケモノのようだ。
「王様。姫様は失われたりしません。とても強い方ですから」
「………」
フレア様も王様も、ぼくも一緒だ。大事なひとを失って傷ついている。ぼくたちは同類だ……。王様だからって心は鉄でできてない。
ぼくは泣いている王様の前にひざまずいて、肩を抱きしめた。
「家族を守れなかったのはぼくも同じです。だけどフレア様のおかげで、まだ生きていていいんだって思えたんです」
王様はぼくを抱きしめ返し、頭をくしゃっと撫でてくれた。温かい、大きな手だった。
「ありがとう、デスモンド。すまなかった……」
「そうやって姫様も抱きしめてあげてください。頭を撫でてあげてください。何もいえなくても。それだけで姫様はわかってくださいます。賢い方ですから……」
そっとドアを閉め、長い回廊を歩いて姫様の部屋へと向かった。そっと覗いてみると、姫様はすやすや眠っている。布団を直してから、自分の部屋に入った。
姫様のことを考えて、それから王様のことを少し考えて、夢も見ないでぐっすり眠った。
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