砦の予言者 9


砦の予言者イセレンの語る

ゲンリーの家主殿は、ゆっくりとした足取りで、脚を引きずりながら歩いてきて、いきなりオルゴレイン語を発した。
「久しぶりだね、イセレン」
その瞬間、私の中の(鍵)が外されて、投げ捨てられるが聞こえた。

奇妙な病院の風景を夢に見ることがあった。注射の痛み、手術の後の痛み、「先生」に手を引かれて脱走し、船の底に息を潜めたことまで、一続きの物語のように夢に見た。
夢ではなかった。おぼろげにしか思い出せなかった「先生」の顔が、今は思い出せる。いろいろな記憶が一気に繋がって、鮮やかに蘇る。
先生は鋭い目にかすかに笑みを浮かべていた。彼はゲンリーの家主、そして私の主治医だ。私をオルゴレインから連れ出し、カルハイドに逃がし、ハンダラ砦に置き去りにした「先生」だ。
先生の、ごつごつと乾いた手が、私の手を取った。
「オルゴレインは記憶操作も得意でね。君を洗脳して記憶を消した。織り人に金を渡して、君のことを頼んだ」
「バスデン先生。何で忘れさせたんですか」
耳から聞こえてくる、私の声は、舌に絡みつくようなオルゴレイン語だ。長いこと使っていないので、ゆっくりしかしゃべれない。
「謝れというなら謝ろう。だが今は、少し時間をくれ。どうしても君に話さなければいけないことがあるのだ」



砦の若者ゲンリーの語る

家主は、砦を訪れた翌日にはあわただしく去って行った。ろくに話をする暇もなかった。
その夜、夏の終わりを惜しんで祭りがあり、酒が振る舞われた。
砦の住民は少しく酔って、伝統の踊りと歌で楽しんだ。特に盛り上がっていたのは、もうケメルの来ないであろう老人たちである。良い声で古謡を歌い、疲れを知らぬ足取りで、足をふみならして回りながら踊る。心臓の鼓動と同じリズムだった。
なぜか腹に響き、どうしてか官能を刺激されるリズムだった。イセレンは薄く口を開けて、ぼんやりとした表情で、踊り手たちを眺めていた。
私は、無性にイセレンの手を取りたい、どうしても彼がほしいと思った。

その夜、私はイセレンの部屋にいった。勉強で教えてほしいところがあると、下手な口実を作って入れてもらった。イセレンは私のために、カディクで甘い味をつけたオルシュを用意してくれた。
「今日、エレイ・ジーから、『える』の発音が少し上達したといわれました。聞き取りは今もできないんですが」
「無理もありません。カルハイド人にはとても難しいんですから」
「あなたは初めからうまくできたと、エレイ・ジーが言ってました。シャスの方言の影響だそうですね」
イセレンはオルシュ茶を一口飲み、「シャスへは一度も行ったことがありません」と答えた。
「え? だってあなたは、シャスのイセレンって」
「本当はオルゴレイン生まれです。……親はカルハイド人、でも今となっては本当の名前も素姓もわからない」
彼の声は静かで、どこかぼそぼそと呟くようだった。
「あなたの家主、バスデンさんは私を、ミシュノリで治療してくれた医者です」
「ちょっと待ってくれ、イセレン」
彼は、私の制止を聞いていなかった。
「ミシュノリには、異常性欲者の子供を治療する施設があったそうです。男に、あるいは女に生れついた子供たちを治療するのですが、とても、死亡率が高かった。たとえ成功しても一定期間を置いて、さらに実験を受けるからです。先生が、私を連れて逃げてくれなかったら、私はミシュノリで検体になっていた」

そういうとイセレンは微笑みを浮かべたが、目が恐ろしくうつろだった。
「洗脳されて忘れていました。自分のことなのにね」
私は、彼を抱きしめていなければならないと思った。しかしイセレンは私の手を拒み、こう言い切った。
「私はもともと男です。この腹には、子宮も卵巣もありません。そのかわりに、人工的にケメルを起こす装置が入ってるそうです。耐用年数があっていつか壊れるそうですよ。そしたら取り出さねばなりません。ところで、女性器もつくりものです。自分で知らないなんて、間抜けなこと」
「少し黙れ!」
私は叫び、イセレンを無理やり抱きしめた。そうでないと、誰も知らないうちに砦から飛び出して行って、どこまでも氷原を歩いて行きそうだったからだ。
「聞いてくれ、あんたが何者でも、これからどんなことになっても、おれはあんたの鳥だ。あなたがおれを選んだんだ!」
イセレンはだまって身じろぎもしなかった。

けれど翌朝には、彼は気を取り直していた。もとの、にこやかで元気なイセレンだった。
そして一層熱心に、私たちを指導し始めたが、
私たちがホルデン島の星船に乗るまでに残された日は、間もなく一年を切ろうとしていた。



Sunday, October 10, 2010 2:45:10 AM

砦の予言者9 終わり。
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