姫様の絵本

2005年10月26日


夏のはじめ、またあのときと同じように、沙羅が咲き始めた。
あの戦いからやっと一年、フレア姫もすっかり元気になり、夜中に「ママ、ママ」と泣くこともなくなった。
子供返りして、赤ちゃん言葉を使っていたのもほとんど治った。
「元気に、生きてくれてるだけでありがたい」と王様はおっしゃる。
ぼくもそう思う。

その夜は、新しい絵本が来たので、寝る前にフレア様に読んで差し上げた。
王妃様が存命の頃、ミドルポートの本屋に注文したものだ。注文してから一年経ってやっと届いた。王妃さまが読んであげるはずだったけど、亡くなってしまったので、代わりにぼくが読んで差し上げる。
王妃様が吟味しただけのことはある、とても美しい絵本だった。

話の内容はというと、弓の上手な、とても勇敢な「お姫様」がいて、竜と戦って勝ち、塔の中に捕まっていた「王子様」を助ける話だった。
戦う女の子が男の子を助ける。普通、逆だと思うけど、だから特注なんだ。

姫様は、小さな手でぼくの袖をぎゅっと握って、大きな目を見開いて、夢中になって聞き入ってくれる。
最後まで聞くと姫は「いいお話だった」とため息をつき、やがて、かわいい寝息を立てて眠ってしまった。
ああ、長い一日がやっと終わった。
はねっかえりな姫様のお守りは、けっこうな重労働だ。山を走り野を走り、虫取りをしたり、魚とりをしたり、姫様の弓の練習の動く的になったり。
それでも、眠った姫はほっぺが丸くて、とてもかわいい。しばらく見とれてしまうくらいだ。

デスモンドは年頃の男の子なのに、姫様の寝所にまで入るのはどうかしら、という女官もいる。
ぼくには小さな弟や妹が居て、オムツがえから面倒をみていたので、姫様のお守りもそれと似たようなもの、と内心では思っていたけど、言われて見ればそうだ。すごく問題なのかもしれない。

だけど姫様は「デスモンドが本を読んでくれないと寝ない」といってきかない。昼間も一緒だし、ぼくといると安心するのだろう。



ぼくは姫様の部屋の灯りを消し、自分の部屋に戻って、セツさんがくれた本を開いた。
赤月帝国の偉い学者が書いたという書物で、「サルにもわかる会計学」というタイトルが付いている。
セツさんが「これ、デスモンド」ってぼくを呼び止めた。いつものように怖い声で、ぎょろっとした怖い目でぼくを見るので、何かへまをしたかと思ったら、そうではなかった。
「これを読んでおきなさい」
そういって本を下さったのだ。

少し手垢の付いた、赤月帝国の偉い学者が書いたという入門書だ。
「わかりやすく書いておる。サルにもわかるくらいだから、何回か読めばお前にもわかるじゃろう」
セツさんはぎょろっとした目を少し細めていた。あれは笑っていたんだろうか?
それにしても、セツ様が笑っているのを初めて見た。なんだか怒ってるより怖かった。

ところで、サルにもわかる会計学というやつ、とんでもなかった。第一章、会計学の考え方、からもうお手上げだった。
鉛筆で線を引きながら読んでいた。とても疲れていて、がんばって読んでいたけど、難しいのと眠いので、もう。だめ。
ぼくはサルにも劣るほど頭が悪いのかな……。

どれくらい転寝をしてしまったのか。寒気がして目をさました。夏なのに寒く、灯りはすでに消えていた。




「デスモンド……」
誰かがぼくを呼んでる。小さな子供の声。あれは、ぼくの妹の声だ……。行ってあげなくちゃ。浜からの帰り道がわからなくなって、ぼくを呼んでいるんだ。行かなきゃ。

「すぐ行くよ」
小さな声で答えたけど、からだが動かなかった。
「デスモンド、どこ? 早く来て」
妹がまた呼んでいる。
お気に入りの人形を抱かせてあげて、枕元には甘いお菓子を入れて、母さんの隣に埋めた。
七つで死んでしまってかわいそうだったから、花を棺いっぱいに埋めてあげた。
妹のとなりに弟、そのとなりに父さん。四つならんだお墓の上に、真っ白な花束を飾った。


「……デスモンド……」
あれは……母さんの声だ。



お葬式で泣けなくてごめんなさい。


みんな一緒で、寂しくないよね。


それとも、ぼくがいなくて寂しい? ぼくもそちらへ行ったほうがいい?


もうそっちへ行ってもいいの、母さん。





「デスモンド、おしっこぉ。出ちゃうよう」
ぼくは飛び起きた。どこが妹なものか、姫様じゃないか!
「姫様っ」
「ええん、おしっこぉ」
可愛そうにフレア姫は、ドアのそばに立って、しくしく泣いていた。ドアを開けたものの、かわいそうに怖くて外に出られなかったらしい。ぼくの部屋は隣なのに、暗い廊下が怖かったのだ。

「ごめんなさい、フレア様!」
ぼくはあわててフレア様を抱き上げた。よかった、まだおしっこは出てない!
大急ぎで、部屋の隅のおまるに座らせて差し上げた。勢いよくお小水の音がして、ほっと胸をなでおろした。
「姫様、えらい! またおねしょしませんでしたね!」
ぼくはうれしくてフレア様の頭を撫でた。おねしょしない日がこれで、一週間も続いている。
こうして少しずつ、もとの姫様に戻っていくんだ。だって一年前は、とても利発でお元気なお子だったんだから。

おねしょしなくて偉かった姫様を抱き上げて、ベッドにお連れし、暖かい布団の中に寝かせてあげた。ちゃんとおしっこできたのに、姫様はまだべそをかいている。
「どうなさいました? おなかでも痛いのですか?」
「デスモンド、フレアが寝るまで、一緒にいてね?」
ぼくはにっこりした。
「ハイ、もちろんです」
「フレアが眠っても、ここにいてね。どこにも行かないでね」
「かしこまりました」
ぼくは姫様のベッドの横に座った。姫様が目を覚まされても怖くないように、ベッドの足元で眠ろう。
ちょっと番犬になった気分だけど、小さなお姫様の番犬なんてすてきじゃないか? 子守唄を歌っていると、自分も眠くなってきた。
ぼくは姫様の番犬。姫様を守るために、三つも紋章を宿している番犬。飼い主のそばに居ると、犬だって安心して眠くなる……。

また眠りに落ちる前に、姫様はぼくの髪を掴んだまま、小さな寝言を言った。


「デスモンド……が……たら、フレアが……助けにいってあげるからね……」



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