精霊の島 2006/08/08
ある島に、三弦を弾くことが好きな男が居た。王は島の王と姫君に仕えていた。
島の空気は、湿気をたっぷり含んでいた。だが共鳴部分に張った水竜の皮は、変わらぬ光沢を保っている。湿気を吸わないように竜の油を塗って守っているからだ。
その皮を傷めぬよう、また糸を切らないように、そっと駒を立てる。そして、湿気で伸びた糸を労わりながら、音を整え始める。
今夜は、王が島の外へ出かけている。大切な人間が家を離れているときに、弦を切ってはならない。
男は何時にも増して慎重に調弦を行い、己が耳を頼りに、ちょうど良いと思うところまで音色を合わせた。
浜のほうから、かすかに歌声が聞こえてくる。
島のものが浜に集まって、持ち寄った小魚を焼き、家で作った酒を飲みながら、三弦を弾いて歌ったり踊ったりしていることだろう。
まだ水を含むかもしれない砂をはだしで踏み、東の空に白々と朝日が昇るまで楽しむのだろう。恋に落ちることもあるだろう。
男は小さなため息をつくと、ごく柔らかな音色で弾き始めた。時間はまだ宵の口だが、もう床についているかもしれない上役の、神経質な眠りを妨げたくなかったからだった。
「オベルの浜の……潮風は……いつも恵みを」
かすかにささやくような小さな声で、口の中だけで歌う。主ならば調子を外しながらも、朗々と歌ってくれることだろう。
「旨き魚を分け与え……命養うに足りる魚を」
そこまで歌ったところで、ふと人の気配に気づき、驚いて声を上げそうになった。
長い金髪を肩におろした主家の娘が、厳しい顔をして立っていた。男はあわてて目を伏せた。薄い寝巻き一枚で上に何も羽織らず、体の線もあらわになっている。年頃の娘が人前に出る姿ではない。
「全然眠れない。」
「申し訳ありません。姫様、うるさくしてお目を覚まさせてしまいましたか」
すると姫君は威張ってこう答えた。
「頭もおなかも痛くて、足も痛いし、全然眠れない。もう今夜は起きていようと思っていたら、三弦の音が聞こえてきたから」
男は首をかしげた。姫君は昼間、非常に元気に弓の稽古、剣術の稽古と飛び回っていたはずだった。
張り切りすぎたのだろうか、それとも風邪でも引かれたのかもしれない。
「お加減が悪いのでしたら、お医者様を呼びましょうか……」
すると娘はますます不機嫌になった。
「お医者様なんて大嫌い」
「で、では……薬酒でも召し上がりますか?」
「お酒は目が回るから嫌い」
だが、そういう姫君の声は元気一杯なのだ。男は困り果てた。女官を呼ぶべきかもしれない。
(寝ぼけておられるのかも)
男は寝ぼけそうな理由をいろいろ考えたが思いつかない。母君の命日はまだ先である。
すると不機嫌な声がした。
「部屋に入れといわないの?」
三弦を抱えたまま、絶句している男に向かって、さらに打ちのめすようなことを言った。
「デスモンドが背中をさすってくれたら治るのに」
男は黙って三弦を寝台の上に置き、こう答えた。
「恐れながら、どちらもできかねます。」
「何故。小さいころはおんぶもしてくれた、頭も撫でてくれたのに」
「姫様はもうお小さくありません。立派な大人です。来月には成人の儀式を迎える身ではありませんか、何時までもそんな子供っぽいことでどうします。」
男は狼狽を隠そうとして、いつになくがみがみと言ってしまった。帰ってきた声は敵意に満ちていた。
「昼間、知らない女の人に、背中をさすってやっていた。あれは、立派な大人に見えたけど、実は子供なの?」
男は顔に血が上り、深くうつむいた。
「か、顔見知りのご婦人です……持病の癪で苦しんでおられたので。……放っては置けません」
「顔見知りって何。」
男はただ黙っていた。男は、女の情人の一人に過ぎない。恋ともいえぬ、はかない関係。
若い娘に言えるようなことではなかったため、その質問には答えずにいると、姫君もそれ以上追求しようとはしなかったが、子供っぽいダダをこねるのはやめないのだった。
「私だっておなかが痛いし、頭が痛くて胸も痛くて苦しんでいる! どうして助けてくれないの?」
「姫様は尊いご身分、あのご婦人とは違うのです」
「身分の低いあの人は助けて、私は助けないの?」
家庭教師は難しい兵法や武術は教えても、女が身を守る方法などは教えないのか。
女官はいったい何をぼんやりしていたのだろう。姫は利発なのに15にもなって、この幼さはどうしたことだろう。
自分が悪かったのだろうか? いろいろ心を砕いたつもりだったが、嫌われるのが怖さに根本的なことから逃げていたのか。
懊悩の挙句、ついに「古来より男女、7歳にして席を同じうせずといいます」と口走った。
「お前の言うことは難しすぎて、わからない」
「姫様、夫でも父でもない男と二人っきりで同じ部屋でいてはなりません。特に日が落ちた後は」
すると、姫君は青い目を見開いてまだにらんでいる。
「何故いけない」
「男というのは、弱く卑劣な生き物です。隙を与えれば、狼藉を働くやもしれません。どうか賢く振る舞い、無用な危険は、避けて通られますよう……」
姫はきつい目でにらみつけるようにして言い放った。
「お前もそういう男なの? 隙を与えれば狼藉を働くの?」
長い金髪が肩の上で乱れ、氷のように透けていた。
「わたくしは姫様の家来です。何故、狼藉など! ですが世間の評判というものが……」
「私の質問に答えていない! お前も弱く卑劣な男なの!」
男は床に手を着いて、床に頭を擦り付けて平伏した。
「仰せの通りです。お許しください」
「デスモンド」
「私も、王宮を守っている衛兵と同じです。浜にいる漁師たちとも同じです……。魔が差すこともある……気を許しすぎてはなりません!」
怯えたように息を呑む音が聞こえた。青い目がいっぱいに見開かれて、今にも涙が零れ落ちそうだ。男は(ああ、最低だ。もっとほかに言いようはなかったものか。)と自分も泣きたくなりながら、こう続けた。
「姫様は私の命より大切な方です。でも、私たちは父娘でもなければ、兄妹でもありません。どうかお察しください」
姫君は先ほどの我侭ぶりはどこへやら、深くうなだれてしまった。
男は小さな声で再び促した。
「どうかお部屋へお戻りください。もしお具合が悪いのでしたら、すぐに女官と医師を呼んでまいります」
すると王の娘は素直に頷いた。
「わかりました。部屋に戻ります。医師はいりません」
そして後ろを向いたまま、小さな声でこう付け足した。
「あの月が真上に来るまで、三弦を弾いていてくれる? 部屋で聞いているから」
窓の外を見た。月の傾き具合から見て、それが真上に来るまでにはまだ一時間以上もありそうだった。
「よくお眠りになれますよう、小さな音で弾いております」
主家の娘は黙って部屋に戻っていった。男は気を取り直し、月が真上に昇るまで三弦を弾いたが、後から、自分が何を弾いたのか思い出せなかったのは、たいそう奇妙なことだった。
FIN
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