ラズリルの海、君に別れて
2005/07/26



治療が終わり、先生が病室から出てきた。
「あとはとにかく水を取ることです。手首はあざになっていますが、大事ありません。背中の怪我が化膿しかけていましたが、薬を塗れば治まるでしょう。半月も漂流していたわりには元気ですよ。よほど意志の強い人なんでしょうね」
「ありがとうございます、先生」
「あとでこの薬を飲ませてください」


スノウはあちこち包帯を巻かれて、清潔なシーツを敷いた寝台に横になっていたが、イリスの姿を認めるとあわてて起き上がった。
先生の手当てのおかげで、顔色はかなりよくなっていた。彼の周りには、木のような膏薬の匂いが満ちていた。

両手首に包帯を巻かれて、腹が見えるくらい短いシャツの下から包帯が覗いていた。イリスはしばらく黙っていた。やっと一言搾り出したのは、こんな言葉だった。

「案外元気そうだな」
ぶっきらぼうな声だったが、イリスの言葉の足りなさにはスノウも慣れていた。
「ときどき雨が降ったからね。最後は海水も少し口にした。飲めば死ぬって言うけど、そうでもないことがわかったよ」
それから淡々と、「尿も飲んだ。それで助かったのかもしれない」と付け加えた。

それを聞いたときに、イリスはあやうく自分が叫びだすかと思った。
あのスノウが、お貴族様のボンボンが、自分のしょんべんを飲んだ。そしてそれにショックを受けたようでもない、それくらい壊れてしまっていると、イリスは思った。

「助けてくれてありがとう、イリス。ぼくを探してくれたと聞いて、うれしかったよ」
「……いや……おれはたまたま通りがかっただけ……」
「信じてはもらえないかもしれないけど」
スノウはまだ殺されると思っているのだろうか、熱心に訴えてきた。
「あのときは、本当に君が、グレン団長に何かしたと思ったんだ。その紋章のせいだなんて知らなかった。君を陥れようなんて思ってなどいなかった。信じてほしい」
「済んだことだ、もういい……」
そういいながら、イリスはまた傷ついていた。
陥れられたというほうが、まだましだったろう。本気で殺人犯だと思われていたなんて。
スノウにはたとえ自分の目を疑ってでも、イリスのことを信じてほしかった。

知らず知らずにイリスは、スノウを凝視していたらしい。スノウはなにを誤解したか、恥じるように両手を布団の中に隠した。それでかえってイリスの注意はそこに向けられてしまった。
手首をあざだらけにするなんて、まるで縛られていたみたいだ。

「海賊船にいたのか?」
すると、とたんにスノウの口は重くなった。
「いや、クールークの私拿捕船で働いていた。その船が難破して……筏で逃げ出して、それも壊れてしまったんだ……」
「私拿捕船って、軍船みたいなもんだろ? そんなところでなにをしてたの? まさか水夫として働いてたのか」
「それもやった。いわれることは何でも……なんでもやった」
そうつぶやいて、スノウは目を伏せた。

イリスは先生から預かった薬をスノウに渡した。スノウは素直に受け取り、半分ほど飲んだ。
「何の薬だか聞かないで飲むなんて。毒かもしれないよ、スノウ」
スノウはやさしい目でイリスを見上げた。
「イリスは絶対、そんなことはしない。今ならわかるよ。どうして早くわからなかったかなと思うけどね……だけど苦いね。これって傷薬みたいなものかい?」

信じきっている様子に、やりばのない怒りがこみ上げてきた。こんなことなら、あのとき彼を小船で逃がしたりせず、牢にでも閉じ込めておけばよかった。
そうすれば少なくとも、ここまでぼろぼろになることはなかったのだろう。
「イリス? どうしたの?」
そうだ、いいやつぶってとか、君なんか大嫌いなんていわれたって、けして動じてはいけなかったのだ。
牢屋に放り込んで、イリスのいうことを聞くまで食事も与えないで、その前でシシカバブでも食いながら酒盛りをしてやればよかった。2日もしたら落ちたに違いなかったのに。そうしたらスノウはこんな目にあうこともなかったのだ。

「イリス、気分が悪いの? ……それとも」
スノウは手を伸ばして、イリスの左手を両の手のひらで包んだ。ひんやりした手で包まれて、罰の紋章を宿した左手が歓喜の悲鳴をあげた。スノウの肌が触れたところからひとりでに皮膚が発火するようだった。導火線に点火をされたようなものだ。

「この紋章のせいで体調が悪いの? なんだかすごく熱があるみたいだね」
イリスは意思の力で、スノウの手を振り解いて立ち上がった。
「もう休んだほうがい」
スノウは手を振り解かれたのを誤解したのか、寂しい微笑を浮かべてイリスを見上げた。
「イリス。ぼくは馬鹿だから。全部失って……やっと自分のことがわかったんだ。君のほんとうの気持ちもやっとわかるような気がするよ。船の上でずっと君のことばかり考えていた」

イリスが腹の中でどんな願望を持っているか、空想の中でスノウに何をしているのか、この御曹司は何も知らないのだ。人一倍鈍いのだから気づくはずもない。
だが、こんなに無防備になってしまったスノウの前で、いつまでも羊のようにおとなしくしていられるかどうか自信がない。
「おれは、寝る。早く元気になってくれ」

そう叫んで、イリスは自室に逃げ戻った。それから頭から布団をかぶり、抑えられない感情を抑えようとして、一人のた打ち回ったのだった。



トップページ

ゲンスイ4インデックス