ファーストキス              H.12.06.08
 おれは、台所で学問所の課題をしていた。
 自分の部屋はあるが、一人っきりでは落ち着かないから、台所のテーブルの隅でちょこちょこと勉強するのが、子供のころからの習慣だ。
 ようするに、勉強はあまり好きじゃないってことだけど。

 グレミオはその横で、繕いものをしていた。 いつもとかわりない、静かな夜だった。
 
「グレミオ」
「はい?」
「グレミオは、キスが上手か?」
「え?……あいたっ……」
 顔を上げたひょうしに、針で指を突いてしまったらしい。
 指を舐めながら、聞き返してきた。
「なんですか? 坊っちゃん」
「キスだよ。 上手いのか?」
「さあ……上手いといわれたことはありませんが」
 頼りない返事だった。
 そのままグレミオは繕いものに目を落とし、うつむいたまま、さりげない調子で話しかけてきた。
「坊っちゃん、なにかあったんですか?」
「ん……」
「すきなコでもできたかな?」
「む……」
「彼女ができたら、いっぺん家に連れて来てくださいよ。 ごちそう作りますから」
「ち、ちが……」
 必死に否定しながら、おれは顔が熱くなってきた。

「坊っちゃんも16歳なんですからね。 どこのお嬢さんですか? かわいいひと?」
「かわいい、っていうのとは、ちょっと……ちがうんじゃないかな……ずっと、オトナだし」
「そんなに年上のひとなんですか……?」
「それはもういいじゃないか。 キスの話!」
 しかしグレミオは、ふと縫い物をひざに置いた。
 その顔つきは、もう「心配性の母親そのもの」になっている。
「……まさか坊っちゃん。 その人に、もてあそばれてなんかいないでしょうね?」
「ちがうって。 なんにもないから悩んでるんだよ。 キスって、どうやったらいいんだ? 失敗したらと思うと、不安で……」
 グレミオはふいに立ちあがり、こっちに近づいてきた。
「お教えましょう。 心配しないで、キスなんか簡単ですよ」
 
 かすかに衣擦れの音が近づいてきた。
 正直、すごく期待した。
(お教えしましょうって……いきなりだぞ……歯も磨いてないって……)
 しかしグレミオは、横をすりぬけて、木の野菜箱に手を突っ込んだ。 それから、立派なかぼちゃを手に、自分の椅子に戻ってしまった。
「これがいいかな。 ちょっと小さいけど」

 かぼちゃと来たかっ!
 薄いオレンジ色の側面を指差して、
「このあたりを口とすると。 速すぎず遅すぎず、自然に顔を近づけます」
 ゆっくり顔を寄せていきながら、グレミオは少しだけ顔を傾けた。

「お互い鼻がけんかしないように、ちょっと顔を傾けるのもいいですね」
 それから、かぼちゃから、1センチほどのところで動きを止めた。

「少し間をおくのもいいみたいですよ。 息は止めずに、鼻で息してね。 手の位置は相手の肩でも背中でも、頭の後ろでも、ご自由に」

 グレミオはキスをするとき、こんな顔をするのか。 こんなふうに、軽く目を閉じて。
 だれか知らない相手と、知らない場所で。
 キスだけじゃない、もっとすごいこともしているに違いない……。

「そこでちょっとだけ、唇をとんがらせます。 こう」
 それからごく軽く、かぼちゃに唇をつけた。
「それで終わり? そんな子供っぽいの?」
「いえいえ。 相手の反応にもよりますが。 これを何回か繰り返して、ですね……」
「うんうん」
「ちょっと強く押し付けてみます……ん〜〜むっ」
「……うん! そ、それから? それから?」
「これでおしまいです」
「……し、舌は?」
「だめだめ、子供が舌なんか入れちゃいけません」
 グレミオは厳しくたしなめた。 子供が舌なんか入れちゃいけません、か。

「ううん……練習しとかないと、やっぱり不安だな」
「はい、どうぞ」
 渡されたかぼちゃを見て、悲しくなった。
 自分はグレミオにとっては子供で、対象外なんだ。

「グレミオは、かぼちゃで練習したのか?」
「え? まさか!」
「じゃ、どうやって練習したの?」
「ぼ、坊っちゃん……」
 白い首筋に、ぱあっと血が昇った。 しまった、というような顔つきだった。
 そんな顔をしても、この衝動をもう止められない。
 もっと困らせてやる。

「……練習させてくれよ。 おれが笑われてもいいの?」
「え?」
 手の位置は、肩でも背中でも、頭でもいいといった。
 自分でもぎこちなく、肩を掴む。
 それから、え?の形で固まった唇に、教えてもらったように軽く、しかし性急に唇をつけた。

 柔らかい唇に、ごく軽く触れただけなのに、まるで電気が走ったようだった。
 グレミオはおれを見て、「納得しました?」と小さな声で言った。
「まだ、よくわからない……」
 何か言いたそうな口を、今度は本当にまともにふさいだ。
 グレミオの唇が、かすかに震えているのが伝わってくる。 キスを返してくれそうにはない。 それでも頭がくらくらしそうだった。 
 この世に、こんなに柔らかいものがあるとは思わなかった。
 頭の中も体も痺れてくる。 これから、どうしたらいいんだろう? 
 おれは、いったいどうしたいんだ? 考えるよりさきに行動してしまうなんて、おれってばかだ。

 きつく押し付けすぎたのか、グレミオが苦しそうに声を上げて、おれの二の腕をつかんで押しのけようとした。
 やっと唇を離すと、本当に真っ赤になったグレミオは「もうわかったでしょう」と言った。
「もっと、ちゃんと教えてくれ」

 今度は本当に、何も考えないで、逃げようとするグレミオの顔を捕まえた。
 乾いて死にそうなとき、水を飲みたいと思うのと、キスしたいと思う衝動は似ていた。 ちがうのは、キスするほど、ますます乾くことだった。
 口だけじゃいやだ。 そんなので満足できるはずがない。
 白いノドにもキスしたい、首にも、肩にも髪の中にも唇をつけたい。
 それから……それだけじゃきっとすまない。
 おれは、グレミオをテーブルの上に押しつけた。 課題やら縫い物やらが下に落ちたが、かまっちゃいられない。

「坊っちゃん、そんなのは……これから何かしようというときの……キスですよ……」
 グレミオはまだ抗っていたが、こんなに力が弱いやつとは知らなかった。
「だめ……です、坊っちゃん……そんなにしたらだめです……相手の人が……怖がります」
「…………」
「きら……われ……ますよ……?」
 おれは、やっと気づいてグレミオを離した。
 こんなに尽くしてくれるグレミオに、おれはなにをしようとしているんだろ?
 グレミオは、まだ練習だと思っている。
 自分が何をされようとしているのかも、わかってないにちがいない。

 おれは必死に息を整え、テーブルの上で伸びているグレミオを引き起こした。
「ありがとう、グレミオ。 おかげで勉強になった」
「……なら、いいんですが」
 グレミオは力なく笑った。
「がんばってみるよ」
「……がんばらなくてもいいです。 相手のお嬢さんに、失礼のないようにしてくださいよ」
「わかった。 おやすみ」
 そして、逃げるようにおれは台所を出た。 きっとグレミオは、呆れてるにちがいない。
 自分一人盛りあがって、興奮して。 ……ばかみたいだ。


 リアムが出ていったあと、グレミオはまた針仕事に戻ったが、ほんの二三針で仕事をあきらめてしまった。
 自分の部屋に戻って、ベッドに腰をかけ、半時間ほども放心状態で、ただ揺れる灯火を見つめていたが、やがてふらっと立ちあがり、部屋を出た。

 テオはまだ起きていて、ベッドの中で本を読んでいた。
「グレミオか」
「すみません……おやすみでしたね」
「いや、まだ起きていたが。 どうした? なにかあったか?」
「……いえ、べつに……用事というわけでは……」
 消えそうに弱い声しか出なかった。

 用事などない。 ただ、テオの重い体に押しつぶされたいだけだった。
 何も考えられなくなるほどに、手荒く扱われたい。
 坊っちゃんの子供っぽい悪戯に感じて、あやうく体を開きそうになった。 
 熱が引かない体を、テオにさいなまれたい。
 そうしたら、この許しがたい体のほてりも静まるにちがいない。
 なんという無礼な奉公人だろうと、自分でも思う。
「テオ様……」
 
 寛大な当主は、何も言わずに静かに本を置いた。
 それから灯を落とし、熱を帯びたグレミオの腕を掴んで引き寄せた。

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