月夜と農夫
2007/9/15
お月様が、湖のおもてに丸く黄色く浮かび、秋の虫たちがうっとりと歌っている、秋の夜のことでした。
若い農夫はいつものように、ランプを頼りに、夜なべ仕事に余念がありませんでした。がっしりした太股に藁の端っこを挟んで、一生懸命に縄を綯っていたのです。
それはハタから見ると、ちょっぴりわいせつな風景ではありました。
しかし当人はいたってマジメなのでした。
開け放った窓から、秋の初めの、少し湿った風が入り込んできて、ランプの火をゆらゆらと揺らしました。
そのとき、ふと空耳を聞いたような気がしました。
大好きだった友が、自分の名前を呼んでいるような気がしたのです。しかし友は、ソルファレナよりずっと遠く、遠い遠い海の向こうにいます。しかもお尋ね者として、群島の警察に追われているとか。
こんなところに、友が居るはずはないのです。
農夫は頭を振って、出来上がった縄を傍らに置きました。疲れているので、空耳も聞こえてしまうのだと思いました。
そして、眠るために、三つ編みのお下げを解きました。農夫の赤い髪は背中くらいまであって、解いたあともふわふわと波打っているのでした。友が時々これに触れて、「思ったより柔らかい」と言った髪でした。
「今頃、どうしているかなぁ」
もう何回、何十回も独り言を言ってきた農夫でしたが、人前でその名前を口にすることはありません。
それでも、友の顔は、目をつぶればすぐに思い出せるのでした。つんつんと上を向いている、くせのない髪。ちょっと口をゆがめて皮肉な笑いを浮かべた、精悍な顔つき。異国の鎧から覗いていた、余分な肉のついていない、引き締まった腹。
鍛えているのに骨は細いので、農夫がぎゅっと抱きしめると、すっぽりと腕の中におさまってしまった、けして逞しくなかった肩。優しい、掠れ気味の声。遠く海を離れていても、何故か潮風の匂いがした、滑らかな肌……。
農夫は思わず、自分の両肩を抱きしめました。
「ああ、ヤールさん」
「ゲッシュ!」
開け放ったドアの外から、答えが返ってきました。それは、まさにそのヤールの声だったのです。
農夫は驚いてしまって、声も出ませんでした。それより、とうとう空耳まで聞こえるようになったのかと思って、怖かったのです。
「おれだ、ゲッシュ。ヤールだ……すまんが、力を貸してくれ」
ゲッシュは慌てて立ち上がって、ドアに駆け寄りました。うれしすぎて涙も出ないほどでした。しかしヤールは、ひとりではありませんでした。
男は、一人の若い娘を支えて立っていたのでした。二人とも、もう一歩も歩けないほど疲れていました。寄り添って、夫婦のように見えました。
それを見てヤールはぽろぽろと涙を零しました。
ああ、やっぱり、と思ったからでありました。
ヤールがネリスと逃げているというのは、風の噂で知っておりました。ヤールは故国で罪を犯して、ひとところで居られなくなったのです。
とはいっても、それは群島でのことだったし、ヤールが最後に自分を頼ってくれたのが、やっぱりうれしかったのです。ゲッシュは快く二人を家に招きいれ、長い旅に疲れた二人に、肉とジャガイモのスープを飲ませてあげました。取って置きのビールも開けました。
粗末な食事が済むと、ネリス嬢を一つしかないベッドに寝かせました。娘は横になると、直ぐに安らかな寝息を立て始めました。
「すまない、ゲッシュ。ネリスが元気になるまで、少しここにおいてもらえないだろうか」
ヤール兄さんは深く頭を下げました。
ゲッシュは涙を拭きながら、何時までも居ていいよ、と答えました。ゲッシュは、やせ我慢をする男だったからです。
「兄貴、何だったら、この村で所帯持ちましょうよ!」
ヤールは驚いて、ビールを零しそうになりました。
「しょ、所帯って……おれたちが? そんなこと、できるんだろうか」
ゲッシュは、力いっぱい楽しそうに笑いました。笑わないと、涙がこぼれそうでした。
「何を言ってるんっすか! ネリスちゃんとずっと一緒に旅をしたんでしょう? 責任は取らなきゃ! それに、村じゃ、ひとが増えたほうがありがたいんっすよ!」
そういいながら、ボロボロと涙を零しました。
するとヤールは困ったように頭を掻きました。
「ネリスは、群島に、約束した男が待っているんだ。あのな、恩赦が出たんだよ。もう逃げなくてすむようになったから、帰るんだ。エストライズから送っていく前に、お前にどうしても会っておきたくて、ここまで来た。どうしても、会いたかった」
そうして、ゲッシュの赤い髪の先に触れました。
「忘れられないのも、会いたいのも、おれだけだったのかな?……」
月夜と農夫
おわり。
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