オベルの西の浜5.                     

昼過ぎだった。家で昼食を取った島人が、また仕事に戻る時間だ。うつむいて引き据えられてたどる坂道の、なんと長かったことか。
「あれは、デスモンドじゃないか。ほら、去年死んだ書記の息子の」
「何やらかしたんだ?」
人々のささやきあう声が耳に突き刺さる。若者は地面ばかりを見つめていた。罪人は上を向いて歩くことなどできない。ただうなだれて歩くばかりだ。

兵士らは、王宮の敷地内に入ると不意に手を離した。
目の前には上司のセツが仁王立ちになり、恐ろしい顔をして見上げていた。濃い色のヒゲが震えていた。
「この半人前が。大切なお役目を放り出して、どういう了見だ!」
デスモンドは黙ってうなだれていた。
すると兵士が、「あと一歩遅ければ」と前置きしてセツに報告を始めた。
「ミドルポート行きの船で、行ってしまわれるところでした。流れ者の売春婦と一緒でした」
デスモンドは気色ばんで叫んだ。
「よしてください、ルゥどのは売春婦などではありません!」

次の瞬間、セツの平手打ちが飛んできた。彼は本当に怒ると、口より手が早く出る。小柄な体で飛び上がるようにして殴ってくる。
若者はよけなかった。セツに殴られるのも、これが最後かもしれなかった。

「ばかもの! まだわからんか!」
セツは手を握り締めて、息を切らせていた。
「何が気に入らんか知らんが、臣下の分際で王にご心配をかけるなど、万死に値するぞ」
セツはため息をつき、懐から剣を取り出した。デスモンドは失神しそうになりながらも、必死に脚を踏みしめた。
「か、か、覚悟はできています。命乞いはしません」
すると上司は、剣をデスモンドに押し付けた。
「王から預かったのだ。必ずお前を探し出して渡せとおっしゃったぞ。大事なものだ、二度と落とすなよ、バカが」
デスモンドは震える手で剣を受け取った。どうやら、剣で自害しろというのではないらしい。
「お、王様は……」
「もう出かけられた。まったく、王は甘くて困る。わしが王なら、丸坊主にして島から放り出すところだ、ばか者」
デスモンドは剣を手にとったまま、セツの顔を見つめていた。
「さっさとそれを仕舞って、フレアさまのところに行かんか。夜中から熱を出して大騒ぎなのだぞ! そんな時に女と逃げるとは、おれが王ならば……」

セツはまだ後ろで怒鳴っていたが、走り出したデスモンドにはもう聞こえなかった。王女の部屋の前で、女官とぶつかりそうになった。
「デスモンドじゃないの。どこにいたのよ。この一大事に」
「す、すみません。姫様はどこに」
「やっとお寝みになったところよ。デスモンドはどこに行ったって、大変だったんだから!」
女官は細い眉をひそめてデスモンドを軽くにらんだ。
「姫様、夜中にあなたの部屋に行かれのね。歩き回って庭で泣いてたんですよ。あなたの部屋着を引きずってね」
「は、入ってもいいでしょうか?」
「今お眠りになってるけど、いいわ。入ってなさい。お目覚めになると、あなたを呼ぶと思うから」
「ありがとうございます」
女は、声を低くしてこう続けた。
「お医者様のおっしゃるには、麻疹だそうよ。まだ発疹は出てないけど……」
「はしか!」
「姫様のご病気が、軽く済むように祈りましょう」

子供が、麻疹がもとで亡くなるのは珍しくない。
窓をふさぎ、暗くした王女の部屋に入ると、さまざまな薬の匂いがした。寝台の上に、夜具に包まれて、小さな王女が眠っていた。
顔の下に、デスモンドが使っている部屋着がくしゃくしゃになっている。小さな手でその布を握り締めたまま、眠り込んでいるのだった。
赤い顔をして、苦しそうに息をしている。

女官が幾分優しい口調でこういった。
「そんな汚いものお放し下さいって申し上げても、聞き分けてくださらないのよ。ねんね毛布みたいにね……」
デスモンドは王女の枕元にそっとひれ伏した。床に頭を打ち付けて、自分の額を裂きたかった。
自分を頼っている、小さくて弱いものの手を放してしまった。この地上に、他の誰がこんな風にデスモンドを必要としてくれるだろう?
夜の道を逃げているとき、フレア王女のことを考えただろうか? 女と逃げようとしたとき、王女のことを考えただろうか?
(考えなかった。私は考えなかった! 自分の不幸だけ、自分の惨めなことだけで頭が一杯で!)

空気の流れに気づいたのか、王女がふと目を開けた。
「デスモンドぉ」
「姫様、ご気分はいかがですか」
「あたま痛いよぅ」

王女が軽く身じろぎすると、小さな頭に載せていた濡れ手ぬぐいが落ちた。手ぬぐいはすっかり熱くなっていた。デスモンドは傍らの手桶の水で絞って、乗せなおした。
子供は黙ってデスモンドを見上げている。
デスモンドは小さな声で話しかけた。
「大丈夫、必ずお元気になりますよ。お熱がなくなって、すっかり元気になったら、またピクニックに行きましょうね」
「どっかに行っちゃわない?」
「どこにも行きませんよ。ずっと姫様のそばに居ます」
すると幼い姫君はほうっと息を吐いて、そのまま、ことんと眠ってしまった。

デスモンドは再び寝台のそばにひざを突き、懐の剣を手で確かめた。そしてこの拝領の剣にかけて、非常な真剣さでこのようなことを祈った。
(もし姫様に何かあるなら、私の命を身代わりにお取りください)
(姫様が無事、15歳になり成人なさり、安心できるまで。私は妻を娶らず、女性にも近づきません)

はじめの願掛けについてはともかく、二つ目の「女断ち」については、姫が15を超えて成人した後も終わらなかった。
強いて女性を遠ざけるまでもなく、彼は一向にもてなかった。
あまりに平凡な見かけのせいか、それともあまりに地味で堅物な気質のためか、多分その両方だったのだろう。
オベル祭りの踊りの上手で、その季節だけは彼に憧れる娘も居たらしいが、踊りの季節が終わったらただの朴念仁だった。

そういうわけで、どこか可愛らしさのある少年から、オベル祭りの踊り手の時代を過ぎて、地味で花のない中年男になるのはあっという間だった。

そんな風に、日々は流れていった。
穏やかな夕暮れ時などには、姫様を伴って浜に行くこともある。浜辺では島人が音楽や踊りに興じている。デスモンドも、王女に言われて三弦を弾くこともあった。
穏やかな海の上を、乾いた三弦の音がリズムを刻んで、軽やかに流れていく。地味でくすんだデスモンドだが、刻みだす音は美しいのだった。
だが、王の宴席で三弦を持ち出すことは、二度となかったという。



オベルの西の浜 おわり。



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