ラズリル・オレンジ
05/9/20
久しぶりにオベル本国に戻ってみると、デスモンドに出迎えられた。
「イリスさま、ラズリルから贈り物が届いていますよ」とのことだった。
ラズリルから届いたのは、大振りの木箱がひとつ。上と横には、「ラズリル・オレンジ。フィンガーフート農園」とラベルが貼っていた。
イリスはいそいそと木箱をこじ開けた。
木の一部をはずしたとたん、甘い果実の香りが部屋中に広がった。
今はオベル国王の片腕となって貿易に励んでいる。
それだけではなく、群島諸国をまとめるための根回しという仕事も、けしてたくましいとはいえないイリスの双肩にかかっている。
つまり、イリスは戦前はスノウの小間使い、戦中・戦後とオベル王の「パシリ」を続けているというわけだ。あまり出世したとはいえない身の上だ。しかも忙しさは以前の2倍。
その疲れも吹き飛ぶような、爽やかな香りだ。
キレイなおがくずの中には、採れ立てのオレンジが、そしてその一番上には、スノウからの手紙が入っていた。手紙には流麗な書体で、こうつづってあった。
「イリス、元気かい? 君が捕まらないから、オベルに送ってみるよ。オレンジの初物です。今年も見習い騎士の有志が助っ人に入ってくれて、本当に助かる。ケネスには頭が上がらないよ。しばらく騎士団のデザートはオレンジが続くだろうな」
イリスは小振りのオレンジに頬を寄せて、なめらかな感触を楽しんだ。
ラズリルはオレンジ栽培の北限で、そんなに大きなものはできない。
それでもスノウの農園のオレンジはとても味がよく、評判がいいという。
「タルが『ごみになって困るから』とかいって食べられない小魚をくれるので、海草と混ぜて肥料を作ってる。臭いはそりゃすごいけど、素晴らしい肥料になる。そうだ、オベルでもやってみたらいい、よかったらやり方を書いて送るよ」とあった。
これにはイリスも驚いたものだった。
フィンガーフートの御曹司が、自慢のプラチナブロンドに臭いが移るのもいとわず、肥料まで手作りしているというのだ。パパブレードより重いものを持ったことがなかったスノウが。
イリスは改めて、オレンジを見つめた。何か貴重な、輝く宝石のように見えてくる。
手紙はこう続いていた。
「今年は豊作だ。今度こちらにきたら、船いっぱいにオレンジを積んで行けるよ」
だが次の一文で、イリスは腰を抜かしそうになった。
「ところで、こんなぼくですが、子供ができてしまいました。しかたないから、せいぜいがんばって育てていますが、大変です。収穫と子供のだっこで腕が痛くて動かなくなりそうだ。でもまあ、がんばるよ。それじゃ、きみもがんばってね。スノウ。」
その下は、ぴんぴんと男らしく刎ねた書体で、こうあった。
「はーい、元気? ジュエルでした」
イリスは手紙をぐしゃりと握りつぶし、虚空に吼えた。
「スノウ!!!! ジュエ〜〜ル!!」
イリスを乗せたオベルの船がラズリルに着いたのは、その2日後のことだった。
いつもスノウが立っていた甲板にたたずみ、悶々と思い悩んでいた。
スノウに最後に会ったのは、2ヶ月前だった。ポーラが騎士団員と結婚することになり、なつかしい騎士団員の仲間が集まる機会があった。
そのときイリスも、オベルから祝いに駆けつけ、3日間スノウの家に滞在した。
あえて詳しくは言えないが、いろいろとあんなこと、こんなこと、そんなことをして、スノウもすっかり満足していたようすだったのに。
ナセル鳥も毎週のように飛ばして、スノウに手紙を送ってきたのに、そういえば最近、返事がなかった。
(遠距離って……難しいのかな……)
イリスは肩を落とした。大人にならない自分に、スノウはもう飽きてしまったのかもしれない。
「ミドルポートのラインバッハに会う」という用事をでっち上げてはいるが、ミドルポートは見事に素通りした。
ラズリルに着くなり、飛び降りんばかりに船から降り、スノウの農園にある小高い丘のほうへずんずん歩いていった。
フィンガーフート農園は、港を見渡せる丘の上にある。
もう夕方の柔らかな光が降り注いでいた。「朝日も夕日も見える」とスノウが言うとおり、とても眺めのいい、美しい場所だ。
収穫作業はもう済んだ時間らしく、農園にはもう人影はなかった。
オレンジの木の下に、エプロンをつけた女が立って、子供を抱いてあやしているのが見える。
白い髪、小麦色の肌……少しふっくらして、ずっときれいになった、ジュエルがいた。
そしてその腕の中には、丸々と太った金髪の赤ん坊が笑っている。
「ほら、これがオレンジよ。オレンジ。言ってごらん?」
「だあっ」
「ん? パパ? パパはちょっとご用事よ。すぐ帰って来るわよ」
その姿は、まさに母親そのもの。パパといわれたのは、もちろんあのスノウだろう。
もう、疑いようのない、残酷な現実がそこにあった。
(なんてやつだ、スノウ。おれと会いながら、ジュエルとも二股かけてたなんて。それで勝手に愛の巣をこさえやがって……)
近づくと、足元で小枝が折れて音を出した。
その気配に驚いたか、ジュエルは振り返り、目を大きく見開いた。
「よう、ジュエル。元気そうだな」
イリスは微笑み、二人に近づいた。
子供はイリスを見て「ひくっ」とひきつったような声をあげると、激しく泣き出した。
ジュエルは慌てて「おお、よしよし。恐くないから大丈夫」と子供の背中を叩いている。
「ちょっとイリス、どうにかしなさいよ、その恐い顔」
「おれは笑ったつもりだぞ!」
「笑ってても恐いなんて、変な人だよね、イリス?」
まもなく子供は泣き止んだ。ジュエルが心配そうに言い出した。
「スノウは一緒じゃないの?」
「へ?」
「あんたの船が着いたらすぐ、港に走って行ったわよ」
「誰にも会わなかったぞ!」
ジュエルはあからさまにそわそわし始めた。「近道したんだわ。危ないからダメって言ってるのに」
そして、イリスに言いつけた。
「私はこの子のお守りで忙しいの。あんた、責任とってスノウ回収してきてくれる?」
ジュエルに「ここ」と教えられた道は、非常に険しい道だった。
茨が茂っている上、危険なモンスターも飛び出してくる。確かに危険だった。
半分ほど降りたところで、下のほうから上ってくる人影があった。
麦藁帽子、青いつなぎのパンツ、チェックのシャツに、長靴を履いた、ほっそりした男だ。
イリスはそのまま立ち止まって仁王立ちになり、上ってくる人物を待ち受けた。
「スノウ」
スノウははっと顔を上げ、イリスを見た。一瞬ひるんだようだった。それはそうだろう、怒ったイリスの顔は自分で鏡を見ても、震えが来るほど恐いのだ。
「や、やあ、イリス。行き違いだったね」
「……どういうことなんだ、スノウ。説明しろ」
「どこから説明したらいいのか。きっと、イリスも信じられないと思うけど」
スノウは帽子を取った。プラチナ色の髪が、ふわっと広がって午後の日に透けた。
前にあったときよりも、少し男らしくなった顔があった。
白い額には汗が滲み、頬には、いばらで切ったらしい傷から血が滲んでいる。
いたずらを見つけられた子供のような、困ったような笑顔を浮かべた。
「今まで黙っていてごめん」
イリスは涙が出そうになった。
そのときまで、ひどい恨み言をいうつもりだった。頬のひとつも殴りつけてやるかもしれなかった。
なのにイリスは、瞬時に許してしまったのだ。いままでもそうだった。スノウの顔を見ていると許してしまう。多分、会う前から許していたのだとすら思ってしまう。
これが惚れた弱みなのだろう。
「いいよ、そういうことなら。……おめでとう」
「あの子は、イリスだ。イリス・フィンガーフート。ぼくの長男。ごめん、勝手にイリスの名前をもらってしまったよ」
「ジュエルがよく承知したな」
「ああ、ジュエルは少し反対したかな。何せラズリルじゃ、男の子が生まれたらイリス、イリスだもの。一般的な名前になりすぎてしまって」
「いつ生まれたんだ」
「よくわからないんだ」
スノウはポケットからタオルを出して、顔を拭いた。
「ええと、今、生まれて半年くらいだろうな。拾ったときには首が据わりかけてたから」
イリスはひとこと言うのがやっとだった。
「拾った?」
「そう、家の前に捨ててあったんだ。ひどいことするよね。孤児院もいっぱいだというし……だけど本当にジュエルって、神様みたいに親切だよね! ポーラの結婚式に出た後、ずっと帰らないで手伝ってくれてるんだ。だけど、子守を早くみつけなきゃあ……」
(そりゃ、お前に気があるからさ)とはとてもいえなかった。
言わなければ一生気づかないだろう。
「ほんとに、拾った、のか」
「うん。最近多いんだ」
スノウは苦笑した。
「うちの前に子供を捨てる真似をして、それから拾うと、君みたいな英雄になれるらしいよ。おまじないならいいけど、ほんとに捨てるとはね」
「スノウ!」
「うわっ」
いきなり抱きしめたので、スノウは一瞬身をよじった。
だが、すぐに力を抜いた。
「き、今日は……こっちに何か、仕事だよね?」
「スノウのオレンジを食べに来た」
夕日の中で、やわらかい銀髪が金色に染まっていた。港は見えなかったが、ラズリルの海と、金色の空が見えた。
「すごく、うれしいよ」
スノウは口ごもった。
「君に食べさせたくて、オレンジを作ってるんだから」
「スノウも食べたい。今ここで」
「……こ、ここで?」
オレンジを作る御曹司は、あたりを見回した。ごつごつした岩場で、遠くに海がある。誰も通らない道だった。
やがてスノウは顔を赤らめ、やさしくうなづいた。
「好きにしたらいいよ」
夕日の色、草の匂い、スノウの体にしみついたオレンジの香り。
それから髪の柔らかさと、愛をささやく優しい声、しなやかな背中の感触。
その日のことを思い出すたびに、イリスはいつまでも、心がしめつけられるのだった。
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