蛍

 今日も魔境の御曹司は、人界をさ迷い歩いては、つれない女に恋焦がれていました。
「あの人はきれいで、優しくて、何でも私に与えてくれる。自分以外は。昨日も手も握らせてくれなかった」
「そうなんですか」
 竹枝郎は、天琅君の着物の手入れに余念がありません。刺繍を避けて火のしをして皺を伸ばし、それができたら蘇夕顔がくれた香りを焚き染めるのです。
 蛇は、黙っているけれど言いたいことは山ほどありました。
(蘇夕顔はきれいだけど優しくないし、何でも与えてくれるけれど親切には裏があるのです。なぜ君上にはお分かりにならないのでしょう。あの女は、危険なんです……)

「この顔のどこがいけないんだ?」
 天琅君は甥の顔を両の手で挟んで、自分の顔のほうに無理やり向けました。竹枝郎の首がぐきっと鳴りました。
 竹枝郎のすぐ近くに、深い夜空のような美しい瞳と、凛々しい眉がありました。竹枝郎は火のしを石の板に置くと、落ち着き払って答えました。
「目はふたつ、眉毛は二本。鼻も口も一個ずつ。正常です」
「そういうのではない。お前はどう思う、私は美男であろう?」
 竹枝郎が美男だと言っても、蘇夕顔が思わなければ、何の意味もありません。
「君上、配下が思うに、人界の良家の娘は夫以外の男に許したりはしないものです。幻花宮の仙師といってもあの人は良家の子女なのでは」
 そういえばあきらめるかと思ったのです。
 天琅君はまなじりを決して言いました。
「連れ帰ってわが妃にする。求婚する。側室は持たないと約束する」
 どんなに諫めても警告しても、天琅君はもう、あの女、蘇夕顔のことしか考えられなくなっていました。
 
 天琅君は、人界の女を、美しい庭のある東屋に呼び出しました。
 闇に沈む春の庭に、蛍が舞い始めました。
 
 その日、天琅君は竹枝郎を連れて、蛍の多い川に行き、捕まえてきたのでした。不器用な天琅君は、蛍を捕まえるのは上手ではありません。ほとんど竹枝郎が捕まえたのです。天琅君は沢で何度も転んでしまったので、手足や鼻先をすりむいていました。
 東屋の庭に、はかない光が無数に舞っていました。庭に隠れていた竹枝郎は、軽く風を送って、東屋のほうに蛍を飛ばしてやりました。
 蘇夕顔は「馬鹿な子だな。こんなもののためにお前は、あちこちすりむいてきたのかい?」と言いました。その声は今までで一番優しかったのです。
 竹枝郎は音もなく離れました。できるだけ邪魔にならないよう、でも何かあったらすぐに駆け付けられる距離まで控えたのです。
 翌朝、竹枝郎が東屋に戻ってみますと、蘇夕顔はもういませんでした。蛍は弱って、あるものは落ちて死んでいました。その死んだ蛍の間に、夢を見ているような表情で天琅君が座っていました。
「時が止まってくれたらいいのに」
 そんな乙女のようなことを口走るほど、天琅君は恋に身をやつしておりました。


 君上が白露の山中に封じられて、もう何年も経ちました。何年たったのか、竹枝郎も正確にはわかりませんでした。暦もなく、昼の光を避けて、不細工にただはいずっていたからです。
 はじめ、天琅君は裏切られたことは思わず「何かの間違いだ、必ずあの人が助けに来てくれる」とつぶやいていました。
 やがてもう何も言わなくなり、ただ見せてもらった芝居の中で聞いた歌を、調子はずれのしわがれた声で繰り返すだけになりました。
 御曹司は何年も何年も、地中に埋められていました。鉄の鎖で縛りつけられた長い手足が朽ちていくのに、死ぬこともできないのです。
 竹枝郎は必死に水を運んで、傷を洗いました。朽ちていく美しい顔に霊水をかけて、何とかとどめようともしました。
 天琅君は生肉は好きではありません。火を通さない獣や魚の肉は口に会いません。竹枝郎は高い木の上の鳥の巣を襲い、卵を盗んでは天琅君のもとに運び、生のまま食べさせました。
 それからまた露水湖の水を運んで、葉っぱから滴らせて与えました。
 それでも、君上の命が弱っていくのを止められませんでした。
 
「竹枝郎、何年たった?」
 半蛇の竹枝郎は話せません。そもそも暦がないのでわからないのです。あれから何年が経ったか、余裕があれば木の幹に記しておいたものを。
「そうだな。無理を言ってすまなかった」
 その日、天琅君は不思議なほど穏やかでした。
「あの夜に時が止まってしまえばよかった」
 天琅君はしばらくして、かすれた声で言いました。
「蛍が見たいなあ」
 
 夏の終わりごろ、白露山の茂みの中、竹枝郎は最後の蛍を見つけました。
 それは小さくて、蛍ともいえないほど弱い、消えそうな光を放っておりました。
 竹枝郎は虫を大切に、蕗の葉に緩く包んで、口にくわえて土牢まで持ち帰りました。それから天琅君の傍らで開きました。
 蛍は、天琅君の顔のあたりでふわふわと飛び回り、蛍ともいえない弱い弱い光をともしました。
 それから胸に止まって動かなくなりました。ときおり弱い光を放っています。
「これは、メスの蛍だ。竹枝郎。こんなふうに光るのがメスだ。あの人が教えてくれた。あの人は、何でも知っているんだ」
 天琅君は痩せた顔に、少しだけ涙を流しました。
 
 沈清秋が白露の露水湖を訪れたのは、それから間もなくのことでありました。
 おわり。
2024/12/08
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