神に誓って
奉公人グレミオは何でもする。
坊ちゃんは昼間は学問所に通っている。だから、最近時間が余ってしまうのだ。
台所仕事からこまごました家事を、もう一人の通いの家政婦と分担していた。
その日、テオが一日着た礼服に、ブラシをかけ、熱い湯で染み抜きをした。
テオの使っている香りが立ち上った。
(いい香りだ)
オレンジの花の香り。それから森の香り。ほんの少し、皮のような匂いがする。
付き人は、雇い主の礼服を着た。
いつかテオが凱旋するのを、リアムを肩車して見守ったことがある。そのときもテオはこれを着ていた。その姿は今も目に焼き付いている。
誰よりも強く、誰よりも美しい、付き人の目にはそう見えた。
(ぶかぶかだ。でもちょっと汗の匂いがする・・・・・・テオ様の)
ふいに動悸が止まらなくなった。顔に血が上るのを感じた。
若者は、自分の体ごと、テオの服を抱きしめた。
(こんなふうにテオ様を抱きしめられたら、死んでもかまわない)
このような振る舞いは人には見せられない。正気のさたではないとも思っている。
思い悩むと、若者は教会に足が向いてしまう。
誰に相談できることでもない、ただ黙って人気のない礼拝堂に座って祈る。
飾り気のない木の十字架、古いオルガン、誰もいない説教壇。
飾り窓から淡い光が差している。
冷たい木のいすに座り、手を組んで付き人は祈った。
「神様、私の欲望から私を守ってください。私は、あの気高いテオ様に、何をするかわからないのです」
これではあまりにもあなた任せなので、少し考えてからこう誓った。
「テオ様にけしからぬことはいたしません、姦淫の罪は犯しません」
神様に誓った。これで自分を縛れると思った。
恩人のスミス牧師は、あいにく留守だった。
グレミオは、マクドール家の奥方の墓を掃除してから帰った。
「……そうして、迷子の竜はパパとママの所に帰りましたとさ……」
夜、グレミオが、お気に入りの絵本を読んでやるうちに、坊ちゃんは寝入っていた。
毛布を直し、明かりを落として彼は自分の部屋に入った。
「テオ様たち、遅いな……」
夕食後、テオとクレオは、他の同僚の軍人とともに飲みに行ってしまった。
いまごろパブで盛り上がっているのだろうか。
「クレオさんも遅いな。大丈夫かな」
美しい女武者クレオは、酒場でからまれたりすると情け容赦なくぶっ飛ばすので恐れられていた。
グレミオは料理の本を読みながら、いつのまにか寝入ってしまった。
がたん、という音でグレミオは目を覚ました。時計を見ると、もう夜中をまわっている。
「テオ様たちだ」
あわてて玄関に行くと、テオがクレオに支えられて帰宅していた。
かなり酔っているようだ。
「クレオさん。大丈夫ですか」
「手を貸してくれる、グレミオ?」 クレオもすこし陽気に酔っているようだ。
二人でやっとテオを支えて、大柄なテオを寝室に運んでいく。
「ここまでどうやって来たんですか?」
「ロスマン様がそこまで送ってくれたのさ。 二人で飲み比べなんか始めるから。テオ様もお酒は強いけれど、ロスマン様はもう、鯨みたいに飲むんだからねえ」
言いながら、クレオもけらけらと笑った。
「ああ、楽しかった」
「クレオさん。側にいたら止めてくださいよ、もう」
「まあ、いいじゃない。こんどあんたも連れてってあげるわよ」
一つしか離れていないのに、クレオはグレミオを子供扱いして頭を撫でた。
「クレオさん、寝る前に砂糖水飲んでくださいね。二日酔い予防に」
「はいはーい、ありがとうグレミオ君」
クレオの姉御が、さっさと自分の部屋に帰ってしまったので、しかたなくグレミオは主の靴を脱がせた。
その足は、深い土踏まずと長い指を持っていた。
剣の踏み込みを支える、完璧な足だ。
しかし見とれている暇はない、さっさと着替えさせなければならない。
「テオ様、着替えしてからお休みください」
「……」
すっかり眠ってしまっている。
酔いつぶれたテオの寝顔は、いつもの近寄りがたい男前ではなかった。
〈テオ様の寝顔。何だかかわいい)
上着とシャツを脱がせ、ズボンに手を掛けたところで、グレミオは躊躇した。
そして躊躇した自分に言い聞かせた。
(これも仕事なんだ。早く着替えさせてしまおう)
訳もなく緊張して、冷や汗までかいてしまっている。重いテオを着替えさせるのは大変なのだが、それだけが理由ではない。
グレミオは、テオに触れまいとして意識するあまり、裾のほうからズボンを引っ張った。
(それにしても、なんてきつい服なんだ)
やっとのことでズボンは脱げた。ズボンといっしょに、下着も脱げてしまった。
(しまった!)
グレミオは慌てふためいた。
なにも全部脱がせることはなかったのだ。
ズボンはきついのに、テオの下着はゴムが伸びていたのか。
マクドール家の当主とあろうものが、何と貧乏臭いのだろう。とにかく、これを何とかしなくてはならない。
付き人は、脱がせた下着をテオの足にとおした。
指が触れてくすぐったいのか、テオはグレミオの手を払いのけるようなしぐさをした。
慌てて下着を持ち上げようとしたとき、テオは目を覚ました。
目が合った。それから、テオは無言で自分の下半身を見下ろした。
あっけにとられた顔で、もう一度グレミオの顔を見る。恐ろしい沈黙のあと、テオは口を開いた。
「あのな……」
「す、すみません! つい手元が狂って、あ、いえ、けして変なつもりは……」
ほとんど泣きそうになってグレミオは言い訳をした。
「悪いが、水をくれないか。飲みすぎたようだ」
「は、はい」
水差しから水を汲んで渡すと、彼はうまそうに飲み干した。
「砂糖水は飲まれますか」
「いや、いい」
「では、おやすみなさい」
がちがちに緊張したグレミオが離れようとすると、テオはその手を捕まえた。
「テ、テオ様」
「ゆっくりしていきなさい……ふふふ」
下男はあやうく卒倒しそうになった。
「いえ、もう遅いですから。では失礼」
若者は手を引っ込めようとした。
その手は倍の力で引き返され、グレミオは勢いよくつんのめった。
倒れこんだところを、テオに押さえ込まれてしまった。
「まあ遠慮するな」
酒臭い息を吹きかけられて、付き人は半泣き状態だった。
「テオ様、飲みすぎです」
「ちょっと酔ってるかなあ。でも大丈夫だ」
「しっかりしてください。ったくもう」
グレミオは、つとめて毅然と振舞おうとした。
「酔っ払って、奉公人に『性的嫌がらせ』をするなんて中年オヤジのすることですよ!テオ様のすることではありません!」
テオは、威厳のある端正な顔に、会心の笑みを浮かべた。
逆効果だったらしい。
「酔って寝ている雇い主に、こっそり『性的なイタズラ』をしようとしたのは誰かなあ? それに私はもう立派なオ・ヤ・ジだよ」
「だめだ。目が完全にぶっ飛んでいる」
付き人は震え上がった。
「ふふふ。待っていなさい。今、君の意識も飛ばしてあげるから」
いやらしい笑い方だった。テオの高貴なイメージが、木っ端微塵に砕けていく。
全部お酒が悪いのだ。
「いや、いやです、テオ様。はなしてください」
「・・・・・・かわいいやつめ。お約束のいやがり方が、ますます劣情をそそるじゃないか」
因業親父の役を楽むかのように、テオはダミ声をだした。
そして右手をグレミオの脚のあいだに伸ばし、不意に笑い出した。
「こら、こんなに歓んでるじゃないか。どこがいやなんだ」
指摘されて、付き人は打ちのめされた。こんなときに、体は正直だ。
「そうですよ。私はテオ様がずっと好きだったんですから」
声が震えて、屈辱に涙が止まらなくなる。
自分のばかさ加減、酔って奉公人に迫るテオの下品さ、ばか正直な自分の体、そしてふがいない涙腺。全て情けない。
「教会で初めてお会いしたときから、あなたは私の憧れだったのに、酔っ払ってこんなひどいことを」
テオは、突然泣き出した奉公人を、あっけに取られたように見つめていた。
「今日、奥様に、奥様の墓前で誓ったんです。神様にも堅く誓いました」
「なんて誓ったんだ?」
「……だから、テオ様に変態みたいなことはしません、姦淫の罪は犯しません、と」
テオは沈黙した。笑おうかどうしようか、迷っているような顔をしている。
「参ったな。神様ときたか……」
テオは、付人を解放した。
「テオ様」
「はやく寝なさい」
慌ててグレミオが部屋を出ようとすると、後ろからテオが、
「すまなかったな。いやな思いをさせて」 と声をかけた。
翌朝もいつもどおり、テオは登城した。二日酔いもせず、元気そのものだった。
昨夜あったことも、まるで忘れたかのようだった。
クレオのほうは、低血圧の上に二日酔いが加わり、化粧も浮いている。グレミオも近寄るのが怖いくらいに機嫌が悪かった。それがふと、グレミオの顔を見た。
「グレミオ、どうしたの? 目が腫れているわよ?」
クレオに言われて、グレミオは目をこすった。昨日あれから一睡もしていない。むらむらして眠るどころではなかったのだ。
「本当だ。まぶたが一重だ。変な顔だあ」
可愛らしいリアム坊ちゃんまでからかい始める。
「坊ちゃん、一杯食べないとお腹空きますよ」
グレミオは林檎をむき始めた。
リアムを学問所に連れていく途中、グレミオは城の門を振り仰いだ。あの向こうにテオがいる、と思っただけで、グレミオの胸は騒いだ。
「勉強なんてきらいだよ。退屈なだけだ」
グレミオはにっこりした。
「今度の休みに、川へ釣りに行きましょう。お弁当持ってね」
「本当? 約束だぞ」
「はい、約束ですよ。だからリアム様も、がんばってくださいね」
リアムの澄んだ瞳を見ると、この心も洗われるようだ。リアム坊ちゃんと神様に、顔向けできなくなるようなことはするまい。
しかしその決心は、長くは続かなかった。
おわり……。
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