水の魔法 
 坊ちゃんを、力いっぱい部屋の外へ突き飛ばしてしまった。

 そして私はレバーに飛びついて、引いた。重い音を立てて、鉄の扉が閉まった。
 坊ちゃんが扉に挟まれないように、それだけを心配していたので、心底ほっとした。
 終わったのだ。

 扉を殴る音が聞こえてくる。ビクトールの怒鳴り声だ。開けろっていうんですか?
「開けませんよ。ビクトール。相変わらず激しいかたですね、何かにつけて」
 坊ちゃんの、いつもより甲高い声が聞こえる。ここを開けろ、グレミオ。
「すみません。ご命令は聞けません」
 聞こえないのを幸いに私はつぶやいた。
「これでよかったんです。生きていたら、いつかきっと、私はあなたに言い寄ってしまう」
 私の肉を求めて、白い胞子の霧が這い寄ってきた。

 私は斧を抱えて後ずさりした。
 斧と心中。
 この世でさしたる善行もせず、欲望にまみれて生きてきた、私には似合いの最期だ。
 死ぬのは苦しいだろうか。
 戦場で死人は見なれてしまった。 苦しみ抜いて絶命するのを、いやと言うほど見てきた。
 私もそうなるのだろうか?

 覚悟なんて、できない。
 恐怖で目もくらみ、わずかな救いを求めて、斧に刻んだ名前を血みどろの指でたどった。
『リアム・マクドール様』 
 この命にかえてもあなたを守ります。
「坊ちゃん。 これから誰が、あなたのために洗濯して、繕い物をして、ご飯をつくるんでし
ょうか。私は、心配です……」

 何もかも途中だ。洗濯物もアイロンがけもためたまま、集めたレシピも未整理のままだ。
 でも、そんなことはどうでもいい。
 死にたくない。
「死にたくない。坊ちゃんのそばにいたい」
 私は、斧を抱きしめて涙を流した。

 私は死ねなかった。
 ふと顔を上げると、そこは地獄でも天国でもなく、生きているものの世界、城の大広間だった。
 私はぽかんと口を開けたまま、その場に固まってしまった。
 私をぼう然と見ている、仲間たち、それから見知らぬ人たち。
 その向こうに、別人のように大人びた坊ちゃんが立っていた。
「グレミオ」
 パーンとクレオが飛びついてきて、私を抱え込んだ。


 放心状態になるひまはなかった。
 グレッグミンスターへ攻め込むのは明日なのだ。すべきことは多かった。

 豪華になった風呂で返り血を落とし、装備を整えて、坊ちゃんの部屋に戻る途中、苦手なお人に会ってしまった。
 ミルイヒ花将軍だった。

 そして、おわびのしるしにほれ薬をやろう、ありがたく受け取れ、と言う。
 どっと疲れを感じながら、将軍の持った小ビンを見つめた。
 もう、そっとしておいてほしい。

「ミルイヒ将軍、自分で飲めばいいじゃないですか」
「あいにく薬の効かない体質でね……これ、お待ち」
 ミルイヒは逃げ出そうとする私の手をつかんだ。 勘弁してくれ。

「私は忙しいんです、ミルイヒ将軍」
「ふふ、悪運強く生き返ったが、二度目はないですぞ 明日も命があるとは、思わないことですな、グレミオ君」

 私の心臓は凍った。こいつは、本当に仲間なのか?
「将軍、どういう意味ですか?」
「明日は決戦。お互いどうなるかわかりませんからな」
 ミルイヒは無理やり、私の手に瓶を押し付けた。
「どうしました?飲ませたい相手もいないんですか」

「……ご親切、痛み入ります」
 私はやけっぱちになっていた。
「素直でよろしい。グレミオ君」
「じゃ、あなたのお部屋でゆっくり飲みましょう。ミルイヒ様」
「げっ、何を」
 私はミルイヒの肩に手を回し、できるだけ粘っこい声を出した。
「だから、ふたりでじっくり薬の効き具合をたしかめようってんですよ、ミルイヒさま」
 将軍は、鳥肌をたてているようだ。
「わ、わ、私は薬は効かないと……」
「あれ?……意外と骨が細いんですね、将軍」
「し、失礼する。明日の準備があるのでな。結果は報告しなくて、よろしい」
 逃げ出すミルイヒの後姿を見ながら、私は笑ってしまった。
 つい、浮かれすぎたのかもしれない。


 決戦前だというのに、静かな夜だった。
 波の音が絶え間なく聞こえていた。
 私はリアム様の服に、アイロンをかけることにした。

 ストーブで熱した炭火式アイロンに、真っ赤に焼いた炭をいれ、それが冷えないうちに一気にアイロンがけをする。
 明日の決戦に、しわの寄った服は着せられない。

 リアム様は、ようやく軍議を終えて戻ってきた。
「お帰りなさい。お疲れさまでした」
 私はアイロンの手を休め、坊ちゃんのために冷たいお茶をグラスに注いだ。
 いつものように、坊ちゃんは一息で飲んでしまった。

 近くで見ると、本当に背が高くなった。若いころのテオ様にそっくりだ。
 あんなに子供っぽかったのに。
「疲れただろ。お風呂見た?」
「さっき行ってきました。返り血あびてましたからね」
「すごく豪華な風呂になってただろう。ジャングル風呂だからな」
「すごいですね。前は、ドラム缶のお風呂でもありがたかったのに」
 何だか、坊ちゃんが知らない人のように見える。
 その居心地の悪さを紛らわせようと、私はしゃべりつづけた。

「本当に、あちこち変わってて、びっくりしました。」
「そんなに変わったかい?」
「本当にこのお城は立派になりました。おかげですっかり迷ってしまいましたよ」
「……あれから一年近くになるものな」
 私のいないあいだに、苦労されたのだろう。
 別人のようにしっかりしたリアム様を、私は誇らしい思いで見つめた。

「坊ちゃんも変わりましたね」
「え?」
「ご立派になりました。見違えましたよ」
「そ、そうか?」
「私は、レックナート様に本当に感謝します。こんなに立派に成長なさった坊ちゃんを、この目で見ることができたんですから」
 坊ちゃんは、何だか怒ったような顔をしていた。
 私は、テオ様のこともテッド君のことも、あえて話さなかった。
 
「そうだ、グレミオ。防具の品揃えが変わったんだ。見てきたらいいよ」
「あ、さっき新調してきました。ついでに斧も研いでもらって、準備万端です」
「紋章師のジーンさんに会ったかい?」
「もちろん。ぱあっと後光が差しているような美人ですね。あの、羽衣みたいな服が、個性的というか、目のやり場に困るというか!」
 私は笑った。
「気さくな方ですね。ただで水の紋章を宿してくれましたよ。怪我をしたときは言ってくださいね」

 リアム様はふと、いすの上に目を止めた。
「それは? その瓶は」
 ミルイヒにもらった、得体の知れない瓶だ。
「あ、それはですね」
 言いかけて、私はこらえきれずに吹き出した。
「どうした?」
「これは、惚れ薬です」
「なんだそりゃあ?」
「さっき、エレベータの前でミルイヒ様が私にと、下さったんですが」

 必死に笑いをこらえて、私は説明を始めた。
「これを好きな人と一緒に飲むと、相思相愛になるとか。わたしは今まで生きてきて、こんな気色悪い冗談を、聞いたのは、は、始めてです」
 私は笑いすぎて涙を流した。もちろん、腹いせに将軍に迫ったことは話さなかった。
「しかたなくもらってきたんですが、すっかり忘れていました」
 リアム様は、黙ってこの非現実的な話を聞いていた。
「ただの迷信です。きっとすごく体に悪い、変なものが入っているんですよ。でも見ているところで捨てるわけにはいきませんからね」
「……」
「思い出したところで、中身は捨ててしまいましょう。瓶は使えますから」

「いやだ」  リアム様は瓶を口に当てた。
「坊ちゃん!」
 私は、飛んでいこうとして椅子につまずいた。
 そのはずみで、手に持っていたアイロンのふたが開き、床に炭の塊が散らばった。

 遅かった。リアム様は、一息に半分くらい飲んでしまったのだ。
「りんご酒じゃないか、これ」
「な、なにやってるんですか、坊ちゃん!」
 思わず声を荒げた。
「吐いてください、今すぐ!何かあったらどうするんです!」  
「仲間がおれを毒殺するとでも言うのか?」

 私はうつむいた。 人を信じすぎるのは危険だ。
 いっそリアム様の喉に指を入れて、無理に吐かせてしまおうか。
 万一の場合はリュウカン先生に……
「でも、毒見もしていないものを飲んでは危険です……吐いてください、お願いです」
「今おれが飲んで確かめた。ほら、まだ生きてるだろ?」
「それはそうですが、ゆっくりきく毒もあるんですよ。それにあとでお腹でもこわしたら……
 
「だから、お前が飲んでも何の害もない。残りは、おまえが飲め」

「……は?」
 これは何かの間違いだ。
「坊ちゃん、どういう……」
「もしも、これが毒だったらどうする? おれを一人で死なせるのか?」
 坊ちゃんは、テオ様そっくりの目で私を見つめていた。

 私の足は、急に震えが来て止まらなくなった。
「死ぬときはだれだって一人ぼっちですよ、坊ちゃん」
 私は、これは忠誠心からだと自分に言い聞かせながら、瓶を受け取った。
「心中でもしないかぎりはね」
 そして残りを一息に飲み干してしまった。

「……本当にただのりんご酒ですね。よかった……」
 そしてガラス瓶を作業台に置いた。散らばった炭を片付けなければならない。
 床にかがんで、赤く燃える炭を、ひとつずつ火箸で拾ってアイロンにいれた。
「グレミオ、お前は俺のことを好きだ」
 何だか、足元がぐらぐらする。しかし、つとめて冷静な声で答えた。
「大切なご主人様ですから」
「そして、俺もお前を、あ……」
「信用してくださっているんですね」
「おれの言ってることをきいてくれ!」
「……きいていますとも!」

 リアム様が近づいてきて私の腕を取った。 それだけで、全身の力が私を見捨てていく。
「いったい、どうしたんです。こわい顔をして」
「お前しかいらない」
「……坊ちゃん」
「お前しかほしくない」

 何としても、私の欲望からこの方を守らなければならない。
 しばらく迷ったすえ、私は口を開いた。
「リアム様。聞いてください。私はテオ様と、何年も特別な関係にありました」
「聞きたくない!」

 私は一瞬ひるんだが、なおも続けた。
「私はそういう人間です。あなたのお父様を、誘ったんです……」
「言わなくていい」
 リアム様はものすごい顔をして私の肩をつかんだ。私は絶叫した。
「どうして聞き分けてくれないんです!!」
「お前こそ、どうしてわからないんだ?」
「私はあなたを命をかけてお守りすると、斧にかけて」
 
 いったい、何が悪かったのか。どうしたらいいんだろう。

 リアム様に激しいキスをされると、目を開けていることもできなくなった。私の理性は打ち倒されていた。
 どうして抵抗できようか。リアム様の息、私の舌を求める柔らかな舌、もう何も考えられない。
 私はリアム様の肩をつかんだ。かすかな甘い匂いがテオ様そっくりだった。 
 口をふさがれたまま、声を上げずにはいられなかった。
 そして床に押し倒されながら、リアム様のバンダナを剥ぎ取った。


 坊ちゃんは、力の抜けた私の手からアイロンを奪った。
 リアム様の手が私にふれる。はっきりした意図を持った動きだった。

 そしてまた口にキスをした。それは、全部明け渡せ、と私に求めていた。
 心だけでもなく、体だけでもなくその両方をよこせと私に要求する。
 私は、それに従った。



 
 林立する机やいすの脚が見下ろしている。
 リアム様の体の下で、私はゆっくり、息を吐いた。なんとか体の力を抜かなければならない。
 慣れているはずなのに、どうしてうまくできないんだろう?
 こんなにつらいはずがない。 私は慣れているんだから。

 私は嫌われるのが怖い。
 私があさましく乱れるのをこの人が見たらどう思うだろう。
 
 
 リアム様に嫌われるのが怖くて、どうしたらいいのかわからないほど緊張してしまう。
 私を求める、リアム様の激しさ。曇りのないうつくしさ。
 私はそれに値しない。

 こんなにも汚れている。
 
 私はリアム様を汚してしまう!
 
「グレミオ、大丈夫か」
「私は大丈夫です、リアム様」
 私はリアム様の髪を指で梳いた。怯えさせたくない。
 でも、怯えているのは私かもしれなかった。


 リアム様は急に体を動かした。 そのときになって、やっと痛みの理由がわかった。
 なにもつけないで、楽に入るはずがなかった。
 今ごろ気づくなんて、やっぱりどうかしている。

 でももうかまわない。
 坊ちゃんは私の胸に突っ伏したまま、つぶやいた。
「本当に大丈夫か」
 私は思わず言ってしまった。
「かまわず、好きなようになさい。私は壊れものじゃないですよ、これくらいで……」
「これくらい、だと」
 リアム様は見るからに逆上して、狂気のように激しく突き上げ始めた。


「グレミオ、大丈夫か」
 冷たいタオルが額に置かれた。リアム様が覗き込んでいる。
 まだ頭がぼうっとしていた。
「……すみません、坊ちゃん」
「死んだかと思った」
「……ちょっとぼうっとなっただけですよ……」
「ひどいことをする気はなかったんだ」
「ひどいこと? どうして、そんなことを……」
 私は、何でもいいから冗談を言わなければならないと思った。
「坊ちゃん、大変です」
「な、なんだ」
「今日は、危険日なんです」

 リアムさまは一瞬だけだが、固まっていた。
「……間に受けましたか?」
「うすら寒い冗談言うやつはこうしてやる!」
 笑い声をあげる私をリアム様は押さえつけ、キスをした。
 でも達者なのは口だけで、私はもう動けなかった。

 リアム様は私のまぶたにふれて、不安そうにつぶやいた。
「ここ、内出血している。さっきはなかったのに」
「ぽつぽつ、赤くなってるんでしょう?」
「うん。何だろう?」
 気を失うと、いつもこんなふうに、目の周りに内出血の赤い点々ができる。それは、顔にキスマークをつけて歩いているような恥ずかしさだ。
「しばらくすると消えるから、心配いりませんよ」
「明日になったら、お前も消えてるなんてこと、ないだろな?」
「大丈夫、どこにも行きません、坊ちゃん」
 坊ちゃんは耳を私の胸に押し当てて、小さい声で言った。
「きこえる」
「え?」
「……どきどきいってる。あ、速くなった」
 私は、子供に戻ったような坊ちゃんの、くしゃくしゃの髪を撫でつけた。
「何も心配しないで、ゆっくりお休みください、坊ちゃん」
 

 花将軍ミルイヒは、グレミオに与えた「普通のりんご酒」の残りを飲んでいた。
「庶民の飲み物だな、これは」
 思い出しても腹立たしい。どこが正直でまじめな付き人であろうか?
 親切半分、お詫びの気持ち半分だったのだが、全くもって人の好意のわからぬやつである。
 あんなに心を閉ざしていれば、かかる暗示もかからないだろう。
 その後、ミルイヒとグレミオがその瓶について、話をすることは二度と来なかった。

 おわり




坊グレの部屋へ