水の魔法 
 グレミオが戻ってきた。
 リアム・マクドールはそのときのことをけして忘れないだろう。
 付き人は自分の斧を抱えてうずくまっていた。 斧と心中するつもりだったのだ。
 まわりの騒ぎに気づいて、辺りを見まわす。

 ぽかんと口を開けたまま固まってしまった彼を、走っていって抱きしめたいと思った。
 それなのに、リアムの足はうごかない。
 パーンとクレオは飛びついていくのに…………。
 そして最後の軍議は始まった。

 リアムが部屋に戻ってみると、グレミオはアイロンがけをしていた。
 
 グレミオを失ってから、ときおりリアムは、この部屋で彼の幻を見た。
 今、一心にアイロンをかけているほっそりした姿が、幻ではないという保証はあるのか。
 話しかけると、消えるのではないか。
 リアムは、声をかけるのをためらった。
 
 そのアイロンは重い。 中に真っ赤に焼いた炭をいれて、冷えないうちに一気にかけるのだ。
 グレミオがいなくなってから、これを使うものはいなかった。

「お帰りなさい。お疲れさまでした」
 気づいたお守は、いつもの笑顔で迎えてくれる。
 その笑顔が、少しばつが悪そうだ。
 それからアイロンの手を休め、熱いお茶を入れてくれる。

「疲れただろ。お風呂沸いてるよ」
「さっき寄ってきました。返り血あびてましたからね」
「すごく豪華な風呂になってただろ。ジャングル風呂だからな」
「すごいですね。前は、ドラム缶のお風呂でもうれしかったですよね」

 世間話などしたくない。どうしても言いたいことがあるというのに。

 お前を失って、どんなに悲しかったか。
 一年たっても、お前のものは何も捨てられなかった。
 死ぬほど寂しかった。言いたいことは山ほどあるのに。
 この波音を、ひとりで聞くのは辛かったと。

「本当に、あちこち変わってて、びっくりしました」
「そんなに変わったかい?」
「本当にこのお城は立派になりました。おかげですっかり迷ってしまいましたよ」
「……あれから一年近くになるものな」
「私にとってはあっという間だから、不思議な気がします。」
 それからグレミオは、眩しげにリアムを見た。
「坊ちゃんも変わりましたね」
「え?」
「ご立派になられました。見違えましたよ」
「そ、そうか?」
 グレミオはうなずいた。
「私は、レックナート様に本当に感謝します。こんなに立派に成長なさった坊ちゃんを、この目で見ることができたんですから」

 リアムは、舌がしびれたようになって何も言えない。
 グレミオを失ってどれほど悔やんだか。自分が急に大人びたとしたら、お前を失ったからだ。
 だが、本当に言いたいことは、何一ついえない。

 それにしても、彼は明るい。
 ソニエールにいく以前の、思いつめたような印象はどこにもない。
 本当に、同じ人間なのだろうか。
 明日の朝、リアムが眼を覚ましたときには、霧になって消えているのではないか?

「そうだ、グレミオ。防具の品揃えが変わったんだ。見てきたらいいよ」
「あ、さっき新調してきました。ついでに斧も研いでもらって、準備万端です」
「紋章師のジーンさんに会ったかい?」
「もちろん。ぱあっと後光が差しているような美人ですね。あの服が、個性的というか、目のやり場に困るというか!」
 笑いながら、ほっぺたを赤くしている。
「でも気さくな方ですね。ただで紋章を宿してくれましたよ。復活を祝って、だそうです」

 しゃべりながらも、アイロンをかける手を休めない。
 何かをしていないと、しゃべっていないと落ち着かないようだ。

 リアムはふと、いすの上に、小さ目のガラスの瓶が置いてあるのに気がついた。薄いレモン色の酒らしいものが入っている。
「それは?」
「あ、それはですね」
 付き人は、こらえきれずに吹き出した。
「どうした?」
「これは、惚れ薬です」
 そういいながら、涙を流して、笑い転げている。

「なんだそりゃあ?」
「さっき、エレベータの前でミルイヒ様が私にと、下さったんですが」
 必死に笑いをこらえて、説明を始めた。
「これを好きな人と一緒に飲むと、相思相愛になるとか。お詫びのしるしだといって。わたしは、今まで生きてきて、こんな気色悪い冗談を、聞いたのは、は、始めてです」
 グレミオは涙をふきながらやっと説明した。
「ミルイヒさまが大まじめなんで、しかたなくもらってきたんですが、すっかり忘れていました」

 リアムは、黙ってこのヨタ話を聞いていた。ミルイヒはそんなおろかな男だったのか?

「ただの迷信です。きっと蛇の生き血とか、ムカデの粉とか、変なものが入っているんですよ。でも見ているところで捨てるわけにはいきませんからね」
「……」
「思い出したところで、中身は捨ててしまいましょう」
「いやだ」

 瞬間、波の音が聞こえないほどリアムの動悸は高くなった。
 ことばで言えないのなら、態度で示すしかなかった。
 リアムは瓶を口に当てた。

「坊ちゃん!」
 グレミオは、飛んでこようとして椅子につまずいた。
 そのはずみで手に持っていたアイロンのふたが開き、床に炭の塊が散らばった。
 リアムはかまわず、半分くらい飲みほしてしまった。

「りんご酒じゃないか、これ」
「な、なにやってるんですか、坊ちゃん!」
 グレミオの声はほとんど悲鳴に近かった。
「吐いてください、今すぐ!何かあったらどうするんです!」  
「仲間がおれを毒殺するとでも言うのか?」

 グレミオは困惑しきった顔で、リアムを見ていた。
「でも、毒見もしていないものを飲んでは危険です……吐いてください、お願いです」
「今おれが飲んで確かめた。ほら、まだ生きてるだろ?」
「それはそうですが、ゆっくりきく毒もあるんですよ。それにあとでお腹でもこわしたら……
「だから、お前が飲んでも何の害もない。残りは、おまえが飲め」

「……は?」
 瓶をグレミオの目の前に突き出すと、彼は真っ青になった。何でこんな、気の弱いやつを苦しめてしまうのだろう。
「坊ちゃん。どういう……つもり……」
「もしも、これが毒だったらどうする? おれを一人で死なせるのかい」

 われながらひどい暴君になった気持ちだった。 どうして素直に言えないのか?
 グレミオの青い目が、かすかにゆれた。
「死ぬときは、だれだって一人ぼっちですよ、坊ちゃん」
 それでも付き人は瓶を受け取った。
「心中でもしないかぎりはね」
 そして残りを一息に飲み干してしまった。

「……本当にただのりんご酒ですね。よかった……」
 そしてガラス瓶を作業台に置く。床にかがみこんで、散らばった炭を片付け始めた。
 まだ熱い炭を、ひとつずつ火箸で拾ってアイロンに入れていく。

「グレミオ、お前は俺のことを好きだ」

 しばらく黙っていたが、付き人は言葉を選ぶようにゆっくり答えた。
「もちろんですよ。大切なご主人様ですからね」
「そして、俺もお前を、あ……」
「信用してくださっているんですね」
 グレミオは、リアムのことばを強いてさえぎろうとしている。
「おれの言ってることをきいてくれ!」
「……きいていますとも!」
 リアムは床にかがんだグレミオの腕 をつかんだ。

「坊ちゃん」
 付き人はあわててふりほどこうとしたので、リアムはいっそう強くその腕をつかんだ。
 グレミオの顔に怯えのようなものが走った。
 つかんだ腕が震えていたが、震えていたのはリアムだったかもしれない。

「いったい、どうしたんです。 こわい顔をして」
「お前しかいらない」
「……坊ちゃん」
「お前しか、ほしくない」

 グレミオはしばらくうつむいていた。
「リアム様。 聞いてください。私はテオ様と、何年も深い関係にありました」
「聞きたくない!」
 グレミオは一瞬ひるんだ目をしたが、なおも続けた。
「私はそういう人間です。あなたのお父様を、誘ったんです……」
「言わなくていい」

 リアムが肩をつかむと、付人はついに叫び声を上げた。
「どうして聞き分けてくれないんです!!」
「お前こそ、どうしてわからないんだ!?」
「私はあなたを命をかけてお守りすると、斧にかけて」
 ほとんどパニック状態で、目もうつろだ。
「どうして、こうなるんです……いっそ、死んでいたままのほうが」

 リアムが、いきなり激しいキスを浴びせたので、付き人は目をつぶった。
 それは一撃で、体の深いところの扉を蹴飛ばし、罪の意識を打ち砕いたようだった。

 堰を切ったようにグレミオが情熱的なくちづけを返してくる。
 リアムは唇と舌と唾液で、付き人の柔らかい口の中へ、長大な手紙を書き送った。
 付き人はそれをリアムの唾液とともに飲み干した。 そして床に押し倒されながら、リアムのバンダナを剥ぎ取った。

 リアムには、グレミオをベッドまで引きずっていく余裕などなかった。

 リアムの体の下で、付き人はゆっくり、熱い息を吐いている。なんとかして自分の体の力を抜こうとしているらしい。汗のにじんだ額が、不吉に白い。

「グレミオ、大丈夫か」
 心配になったリアムが声をかけると、彼は目を開けた。
「私は大丈夫です、リアム様」
 リアムは少しだけ体を動かした。グレミオは一瞬硬直した。
 急にものすごく締めつけられて、リアムはグレミオの胸に突っ伏してあえいだ。相手はこんなに痛がっているのに、自分はこんなに気持ちがいい。

 ふと思う。やっぱりグレミオは、いやがっているんじゃないか?
「本当に大丈夫か」
「かまわず、好きなようになさい」
 グレミオは挑むような目つきをした。
「私は、壊れものじゃないですよ、これくらいで……」
「これくらい、だと」
 リアムは逆上して、狂暴に体を突き落とした。グレミオはその長い腕をリアムの肩にかけ一声も立てなかった。

 我に帰ったリアムが顔をのぞき込んだら、急にグレミオは涙ぐんだ。
 リアムの顔に手を伸ばし、まぶた、ほほ、あごと指で確かめている。
「坊ちゃんはこんな顔をしていたんですね……」
 リアムはその手をとり、床に強く押し付けた。





「グレミオ、大丈夫か」
 リアムが濡れタオルを額に置いてやると、付人はひどく恐縮した。
「……すみません、坊ちゃん」
「死んだかと思った」
「……少し、ぼうっとなっただけですよ……」
「ひどいことをする気はなかったんだ」
「ひどいこと? どうして、そんなことを?」

 グレミオは、リアムをタオルの影から見つめた。
「坊ちゃん、大変です。今思い出したのですが」
「な、なんだ」
「私今日は、危険日なんです。さっきのはちょっと危なかったかも」

 一瞬固まったリアムを見て、グレミオはくすっと笑った。
「……間に受けました? いろいろあったみたいですね、この一年」
「うすら寒い冗談言うやつはこうしてやる!」
 笑い声をあげるグレミオを押さえつけて、くちづけをする。
 目を閉じたグレミオの瞼の色が、また新しい衝動をかきたてる。
 その上まぶたに、点々と血のように赤いものが浮かんでいた。

「ここ、内出血している。さっきはなかったのに」
「ぽつぽつ、赤くなってるんでしょう?」
「うん。何だろう?」
 グレミオは少し赤くなった。
「しばらくすると消えるから、心配いりませんよ」
「明日になったら、お前も消えてるなんてこと、ないだろな?」
「大丈夫、どこにも行きません、坊ちゃん」
 なだめるように、付き人はささやいてきた。
(これ以上何かしたら、死んでしまうかもしれない)
 リアムは、動けない付人を抱えたままじっとしていた。
 グレミオの静かな寝息が聞こえてくると、やっと安心して眠りについた。
 深夜というのに、ミルイヒは、決戦を前に眠れずにいた。
 ついに帝都に攻め込むのだ、尊敬して止まなかった黄金の皇帝と戦を交えるのだと思うと、ますます目が冴えてくる。
 そう言えば、あのりんご酒の残りがあったはずだ。

 城の中で迷っている付き人を捕まえて、りんご酒を押し付けようとしたのだ。
『片恋に効く魔法の薬』だと言い含めて。しかし若者はさんざんいやがったあげく、
「じゃ、あなたのお部屋でゆっくり飲みましょう。ミルイヒ様」
 などと恐ろしいことをいいだした。

 思い出しても腹立たしい。
 どこが正直でまじめな付き人であろうか?
 あんなに心を閉じていては、かかる暗示もかかるまい。
 親切半分、お詫びの気持ち半分だったのだが、全くもって人の好意のわからぬやつである。
 その後、ミルイヒとグレミオがその瓶について、話をすることは二度と来なかった。


FINN.

坊っちゃん速攻ですな。 さすが天魁星(?)


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