二人の花畑

 マクドール家の朝は早い。その日もグレミオは、台所で坊ちゃんに朝餉の世話をした。
 この家では、朝から厚焼きのハムや卵、ニシンの燻製に果物などを食べる。
 育ち盛りの坊ちゃんにとっては、それでも足りないくらいである。

 付き人は、リアムに温めたミルクのお代わりを渡しながら言った。
「坊っちゃん、今日はお母様のお墓参りに行きませんか? お天気も良いですしね」
 リアムは、お墓参りはけっこう好きだった。
 教会に向かう途中にはきれいな野原があり、小川が流れている。
 魚や貝や小エビなどもすんでいる、きれいな川だ。
「うん、行こう!」
 早速グレミオはお弁当をつくりはじめた。

 二人は母の墓に備える花を持って、家を出た。
 グレミオは弁当を詰めたバスケットを下げ、リアム坊ちゃんはお気に入りの網を持った。
 どこから見ても、野遊びに行くとしか見えない。
 途中の野原には、タンポポやクローバーが一面に咲き乱れ、小川の水がきらきらと光っていた。

「グレミオ、魚とろうよ」
 リアムはもうズボンの裾を折り返し始めた。
 いつもならば一緒に魚取りをするが、今日はそうもしていられない。
 怯えさせまいと、黙って連れ出したが、もう真実を告げなくてはならない。
 あたりには見渡す限りの野原、誰もいない。

「リアム様、このまま南へ向かいます。あの森を抜けて、グレンギルという村まで」
「お墓参りはどうするの?」 リアムはぽかんとしていた。
「黙っていてすみません。教会へは行きませんし、しばらくお家にも帰れません、坊ちゃん」
「どうして?」
「都にいると、悪者が坊ちゃんを捕らえに来るからです。テオ様たちが勝利するまで……とにかく、今は逃げなくては!」

 リアムは怯える様子もなく、さすがは武門の家の子だと、グレミオは感心した。
 彼自身は怖くてたまらないのだった。前の晩から彼は一睡もしていない。
 さして武芸の心得のない自分に、主家の御曹司の命が預けられているのだ。


 前夜、皇帝陛下が危篤だという知らせを受けた。
 バルバロッサ皇太子を守っているテオ・マクドールは、家に帰れない。
 皇帝陛下が逝去すれば、皇弟派勢力が動き、皇太子派の家族を捕らえて、人質にとるという情報があった。
 陛下が亡くなる前に、逃げ出さなくてはならなかった。
 
 リアムはグレミオと南へ逃げた。
 途中あわただしく昼食をとり、合計二時間ほども歩きとおした。
「坊ちゃん、疲れたでしょう。一休みしますか?」
「大丈夫だい……まだ歩けるぞ」
 さすがにリアムは疲れた顔をしている。付き人はふと、目の奥がつんとなった。
「おんぶしましょうか?」
「大丈夫だい!」 プライドが高く、気が強い坊ちゃんは、急に元気になった。

 そのとき、グレミオの背筋に冷たいものが走った。極端に鋭くなった勘が、危険を察知したのだ。
「グレミオ、どうしたの」
「……来ました」 
「来たって、何が」 リアムには何も分からないらしいが、この際かえって都合が良い。
「坊ちゃんは、あの茂みに隠れていてください」
 冷や汗をにじませて、付人は傍らの潅木の茂みを指した。
「何があっても、出てきてはいけません」 
 グレミオは念を押した。その声はかすかに震えている。

 坊ちゃんが茂みに隠れていたのは、ほんの五分ぐらいだった。
「おとなしく、待ってなんかいられるか」
 歯が鳴ったが、恐怖はない。血が沸くのが自分でもわかる。
 リアムは、幼くともテオ・マクドールの嫡男だった。
「武器がない。仕方ない、これで我慢だ」
彼はずしりと重い棒切れを拾い、グレミオの後を追った。

 木に隠れながらグレミオは走った。ナイフ投げをクレオに手ほどきしてもらったが、自信はない。
 相手が強い追っ手なら、自分は死ぬかもしれない。
 極度の緊張のおかげで敵の接近に感づいたが、勝算などないのだ。
「リアム様……」
 彼を茂みに隠すより、自分が時間稼ぎをするから、先に逃げろと言ったほうがよかったかも知れない。
 しかし、いまさら気づいても遅い。
 木の向こうに人影が見えた。木の影に隠れると、男は無防備に姿を現した。ごく普通の野良着を着た、浅黒い中年の男だ。
 しかし、その顔つきは農夫には見えなかった。

 その眼は明白に殺気を放っていた。次の瞬間、男は地を蹴って走り出した。
「!!!」
 恐怖に駆られて、グレミオはナイフを投げた。運良くそれは男の足に当った。
 こともなげに彼はそれを投げ捨て、グレミオに迫ってきた。
 寸鉄も帯びぬ殺人者は、不気味に笑った。

「小者。お前には用はない」
 次に投げたナイフがはじかれたとき、グレミオは死を覚悟した。
「こわっぱはどこだ」
「……」
「どこだと聞いている」
「自分で探せ!」 震える声で叫び返した。
「行き先を言えば、お前は助けてやる」
 グレミオはせせら笑った。
「下司。お前こそ地獄に叩き込んでやる」
「勇ましいが、声が震えているぞ」

 付人は後ずさりした。次のナイフを投げる前に、追っ手の男は飛びかかってきた。
 拳でみぞおちを殴られて、グレミオはへたり込んだ。
 次に男は彼の首を締め上げはじめた。
 目の裏に火花が散った。ナイフを滅茶苦茶に振りまわすと、手応えがあった。

 ふいに、加えられる力が緩んだ。
 咳き込みながら見上げると、目にナイフを突き立てられた男が、口を大きく開けていた。
 恐ろしい叫びをあげて男はのた打ち回り、眼球に刺さったナイフを引き抜いた。
 血と一緒に、眼球から透明な液体が流れ出す。
 一瞬ひるんだグレミオは、膝蹴りを食らわされて転倒した。

「おのれ、なめた真似を」
 男はわめき散らしながら、グレミオの胸をひざで押さえつけると、頬にナイフを当てた。
「まず顔を切り刻んでから、耳をそいで目をくりぬいてやる。楽には死なせないぞ」
 頬に激痛が走る。付き人の目の前が真っ赤になる。

「安心しろ。貴様の主人もすぐに送ってやるからな」
 抵抗しなければ。ここで気を失ったら最後だ。
(何をしているんだ、立ちあがって、戦え!)

そのとき、グレミオを押さえつけていた力が、急になくなった。
「グレミオ、起きろ!」 
「のこのこと出てきたか、マクドールの御曹司!」
 体を起こすと、例の男の向こうに坊ちゃんが棒を構えていた。
「おれが相手だ!来い!」
 坊ちゃんは甲高く叫んだ。男は哄笑して、坊ちゃんの方へ一歩踏み出しかけた。

 グレミオの頭は真っ白になった。「切れた」状態になったのである。
 足元にあった石をつかみ、男の背後から飛びかかった。
 気がついたら、後頭部を割られて脳をさらした男を、狂ったように殴りつづけていた。

「グレミオ、もう死んでいるよ!」
 付き人は石を落とした。その場にへたり込み、四つん這いになって、思いきり吐いた。
 とたんに目の前が真っ暗になり、吐いたものの中に突っ伏してしまった。
「おい」
 坊ちゃんが声をかけてくれる。
(坊ちゃんがご無事でよかった)とグレミオは言いたかったが、声が出ないのだった。
「グレミオ、ありがとう。おれのためにこんなことに。お前はいいやつだったのに」
(??! ち、ちがう。一応まだ生きていますよ)
 リアムが自分の体を抱きしめている。
「お前のことは一生忘れないよ、グレミオ」
(ああ、坊ちゃん……うれしいけど、まだ死んでいないんですってば)
声を出せないまま、グレミオは無意識の海に落ちていった。


 気がついたら彼はベッドの中にいた。
「グレミオ。気がついたかい」
 リアムの声がした。目を開けると、無事な坊ちゃんが立っていた。
「ここはグレンギルの村だよ」
「どうやってここまで……」 
「遅いから、村から様子を見に来てくれた人がいた。その人に運んでもらった」
「……そうですか」
 
 グレミオは息を継いだ。
「坊ちゃんに、怖い思いをさせてしまった。許してください……」
 顔の傷のせいか、口が動かない。これだけ言うのもやっとだった。
「坊ちゃんを守れないなんて……付人失格です」
「守ってもらったよ、ちゃんと」
「坊ちゃん……」
「でもおれは、守ってもらうだけなんて、いやだ! おれはお前と戦いたかった」
 リアムの顔が、急に大人びて見える。それはすでに武人の片鱗を見せていた。
「早く元気になれよ」
「ありがとうございます」
 
 グレミオは心の中で誓っていた。
 リアムを守るために強くなろう。命に代えても、この方を守っていこう。
 末頼もしいこの方の未来を、どこまでも見守ろう。
 リアムはやっと九才、グレミオは二十歳になっていた。

終わり

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