ミューズ陥落              H.12.03.17
 夜更けに、ドアを叩くものがある。

「誰でしょう、いまじぶん」
 グレミオはいぶかりながら、粗末な木のかんぬきを引いた。
「まだいたのか。 来てよかった」
 飛びこんできたのは、リアムが世話になっている道場の師匠だった。
「師匠?」
「リアム君、すぐ逃げるんだ。 とうとうハイランドが攻めてきたぞ。 ここにいたら危険だ」
「ハイランドが!」
「坊っちゃん、逃げましょう!」


 ハイランドの包囲が始まってから、グレミオは非常持ち出し袋を用意しておいた。
 貴重品と最低限の衣類、当座の食料品などを詰めた袋で、身軽なのが有利だからと、なるべく小さくつくってある。
「よし、二人ともこちらへ。 正門からはもう逃げられない、ハイランド兵でいっぱいだからな」
「どうするんですか?」
「地下水道を通る。 ちょっと汚いが、我慢してくれ」
「……」
「大丈夫だ。前もって下見してあるからな」
 温厚な師匠が、今日はひどく精悍に見える。



 リアムたちの家は町外れにあった。 ときおり市中心部から、爆音と悲鳴が聞こえてくる。
 リアムはびくっとして、振りかえろうとした。
「ふりかえるな、リアム」
 師匠はぴしりと言った。珍しく強い口調だった。
「何があっても振りかえるな。 逃げることだけを考えろ」
 真っ暗な道をしばらく歩いて、師匠は立ち止まり、マンホールを持ち上げた。
「こっちだ」
 
 中は真っ暗で、息もつけないほど臭かった。 汚水が流れ込むところなのだ。
 暗闇の中に、ねずみの目が光っているのが見える。
 水は深くはないが、思いのほか流れが速い。
 しかし師匠は、わずかな灯りを頼りに、迷いなく先を歩いていく。

「師匠……」
 リアムの小さな声さえ、恐ろしく反響して聞こえる。
「こっちだ。 さっきも近所の人たちを案内して、街の外へ出したばかりだからね。 まちがいない」
「おれたちのために戻ってきてくれたんですか」
「そうだよ。その人たちは子供を連れていたから、先に逃がしたのだ」
 師匠は振りかえりもせずに言った。
「もうすぐだ」
 師匠はいくつもはしごを通り過ぎたすえに、白く目印をつけた角で曲がった。
「この、行き止まりを上がると、出られるからな……」

 ふいに、師匠はことばを切った。
 次の瞬間カンテラが落ちて、あたりは真っ暗になった。
「師匠! どうしたんですか」
 リアムの叫び声のあと、しばらくして帰ってきた師匠の声は、ひどく弱かった。
「矢だ……くそ」
「矢!」
「まだ……狙っている。 気をつけろ……」
「師匠!」
「先にいけ……」
「どこにいるんです、師匠!」
 師匠の声が途切れ、水音が上がった。
「……坊っちゃん、急ぎましょう」
「探す!」
「だめです」
 お守は、手をとっさに振り回し、運良くリアムの腕をつかんだ。
「逃げるんです。 死にたくないんなら!」
 リアムは放心したように、それ以上抗わなかった。

 運のよいことに、弓兵はそれ以上襲ってこなかった。
 グレミオは手探りで階段を見つけ、リアムを先に上らせてから、自分も外に出た。
 月明かりの中、見まわすと遠くに森が見えた。
「坊っちゃん、あの中にいったん隠れましょう」
「……」
 反応がない。
 グレミオは、不安を覚えながら、放心したようなリアムを抱きかかえて森を目指した。


 森の入り口には、こぎれいな宿屋があった。
「……すみません」
 グレミオはドアをノックしたが、返事はない。 中は真っ暗で、鍵もかかっていた。
 住人はすでに逃げ出したあとらしかった。
 ハイランド兵に見つけられるとやっかいなので、火をおこすこともできない。
「坊っちゃん、ここの軒先を借りましょう」

 答えはない。
 リアムは、うつろな目をして、ひざを抱えてうずくまっていた。
 グレミオは黙って、自分の外套をリアムの肩に掛けた。
 そして、ひどく小さく見える肩を引き寄せ、自分のひざの上に寝かせて、マントを掛けた。

 難民になってしまったのだ。
 しかし、命があっただけでもありがたいと思うべきだろう。


 眠るつもりではなかったのだが、いつのまにか眠っていたらしい。
 グレミオが寒さに目を覚ましたときには、リアムの姿はなかった。
 あわてて家のまわりを探すと、リアムが裏手に歩いていくのが見えた。
「坊っちゃん?」
 そこには奇妙な、石造りの遺跡のようなものがあった。 リアムはその扉のまえで立ち止まった。

「坊っちゃん!」
 グレミオが呼ぶと、リアムは振りかえった。
 疲れきった顔色をしている。
 眠れなかったのだろうか。

「危ないですよ、よくわからないところに入ったら」
「……グレミオ」
「はい」
「ここで、おれたちは、別れよう」
「……えっ?……」
「お前はグレッグミンスターに帰り、クレオにいってくれ。 もう、家を守る必要はない。 リアムは死んだ」
「坊っちゃん、何を冗談をいって……」
「聞こえただろう。 お前とは、ここでお別れだ」
「坊っちゃん、坊っちゃんは疲れているんです。 さあ、向こうに行って、顔も洗って、朝ご飯にしましょう。 たいしたものはありませんけど」

 グレミオが近づこうとすると、リアムは叫んだ。
「寄るな!!!」
「坊っちゃん!」
「お前とは、もう……終わりだ。 おれは、お前に飽きた。 もう、顔も見たくない……」
「……信じません!」
「これから、おれは、ひとりで歩く!」
「……何と言われようと私はついていきます!」
「死にたくなければ、寄るな!!」
 リアムは高く叫んで、天牙棍を構えた。
「坊っちゃん! いやです、坊っちゃん!」
「ええい、聞き分けのない!」
 リアムは裂帛の気合を込めて、打ち下ろしてきた。 グレミオはあやうくそれをよけた。
 天牙棍は石の壁に当り、破片を飛び散らせながら壁にめり込んだ。
 リアムは無表情にそれを引き抜いて、さらに構えた。

「何をするんです、リアムさま!」
「去れっ!」
「坊っちゃん、どうしてなんです! 私が気に食わないことをしたというなら、謝ります。 でもどうしてなんですか!」
「……うるさい」
 リアムは狂ったように、天牙棍を振りまわしながら迫ってきた。

「情けない! 逃げるしか能がないのか!」
「リアムさま、やめてください!」
「……見苦しいぞ。 百年の恋も冷める!」
 グレミオが思わず立ち止まったところへ、リアムがまた激しくうちこんできた。

 どうやってよけられたのか。
 幹を断ち割られて、背後の木が倒れていく。

 一瞬遅かったら、首が飛んでいたはずだった。

 その場で腰を抜かしたグレミオを、リアムは見下ろし、心臓に天牙棍を突き付けた。
 そして冷たく言い放った。
「おれは、本気だ」
 本気だったら、グレミオはとうに絶命しているはずだ。
 なぜ、追い払おうとするのか。

「坊っちゃん、私は……信じません」
 グレミオは首を振った。 涙が込み上げてくる。
「どうしてなんです。 私が、何をしたっていうんです……」
「わからなくていい。 お前はトランに帰れ」
「リアムさま!」
 天牙棍をつかんで、グレミオは叫んだ。
 リアムは、無表情にその手をふり払った。

「あまりしつこいと、これを全部つっこんでやるぞ!」
 おそろしい形相で、鉄の棒をグレミオの脚のあいだに構えた。
「……それがお望みなら、そうなさったらいいんです。……さあ!」

 グレミオは、また天牙棍をつかんだ。 今度はそれは動かなかった。
 リアムは歯を食いしばり、かすかに震えているようだった。
 

「坊っちゃん、私があなたと、何年一緒にいると思うんです? あなたの気持ちがわからないとでも思うんですか?」
「……黙れ」
「ミューズが落ちたのも、人が死ぬのも、あなたのせいではないし、紋章のせいでもないんですよ」
「……黙らないか」
「誰にも止められなかったんです、紋章のせいじゃな……」
「忘れたのか。 お前はこいつに殺されたんだぞ」
「で、でも、私はそんな紋章なんか、恐れませんよ!」
「心にもない強がりを言うな!」

「私たちは一日だって離れていられないのに、どうしてそんなことをいうんです」
 リアムはそれでも、グレミオに背を向けた。
「一人で平気だ」 
 そのかたくなな背中を見ていると、グレミオはもうことばも出ない。

(私のひとり合点だったんですか。離れていられないのは私だけだったんですか)
 沈黙のあと、グレミオは斧を手に立ちあがった。

「おいとま申します、坊っちゃん」
「…………」
「……あなたが私をいらないというのですから、しがみつくのも見苦しいことですからね」
 もう頭の中は真っ白だった。 涙も出ない。
 グレミオは小さい笑い声を立てた。

 それから、自分がこう言い放つのを聞いた。
「これからミューズに戻って、最後のいくさをしようと思います」
「なんだと……」
「せめてひとりくらいは討ちとれるでしょう。 そうすればハイランドの兵が、私を楽にしてくれる」
 怒りの形相もあらわに、リアムは叫び返してきた。
「……死ぬっていうのか。 おれを脅すのか!!」

(そう、脅しているんですよ。 せめて、それくらいさせてください)
(なんといわれてもかまいません、私は捨てられたら死にます)
(これが最初で最後です。 だから見苦しくてもかまいません)
(坊っちゃん。こんなときになんですが、)
(…………怒った顔もすてきですよ…………)
 グレミオはまた笑った。 
 頭にうすい膜がかかったように、ぼんやりと思った。

「あなたがいないと、生きていてもしかたがない。私はそんなに強くないんです」
「行くな、ばか者!!」
 叫びながら、リアムは突進してきた。
 いきなり頭のなかの霧が晴れる。
 グレミオは、あわてて斧を下に置いた。
 そしてかろうじて、激突するリアムを抱きとめた。


「おれが、ばかだった。 お前を連れてくるんじゃなかった!」
「坊っちゃん」
「みんな、死んでしまう……」
「坊っちゃんは生きているし、私も生きているんです。 命があれば、何でもできます」
「……どこにも行かないって約束してくれ」
「私はどこへも行きません。 何度でも誓います、リアムさま」
「……うん」
「泣いちゃだめですよ、坊っちゃん。 あなたは強いんだから、ね?」
 それだけいうと、グレミオは涙をこぼしているリアムを抱き寄せた。

END

坊グレの部屋へ