心の鍵
今日、部屋に鍵をつけた。
道具屋で簡単な鍵を買い求めて、自分でつけた。
しかし、こんなものはテオさまがその気になれば、一発で破られてしまうだろう。
テオさまがドアを押し破り、この部屋に入ってくるところを想像し、私はねじ回しを取り落とすほどに欲情した。
私はドアノブを握り締めて発作に耐えた。
もちろん、テオさまがドアを破るなどという、愚かなふるまいはなさるはずもない。
押してみて開かなければ、あっさりとあきらめ、他の愛人の所に行くにきまっている。
これは自分の心と体にかける鍵だ。
鍵のかかる部屋に、欲望を閉じ込めなければならない。
ふらふらとテオさまの部屋になど行かないように。
私はつまらない男だが、ここ数年というもの、良心を裏切り、信仰に背き、欲望に従って生きてきた。
全部自分で選んだことで、そのことを後悔はしていない。ただ、もう辛いのだ。
私は、平穏な毎日が送りたい。
嫉妬に狂わずに心静かに、ただ坊ちゃんの付き人であることに専念したい。
できればそうしたい。本当に、終わらせなければならないのだ。
そうでなければ、私は狂う。
朝食を給仕しているとき、テオさまから紙切れを渡された。
それには「十時」とだけ書いてあった。 自分の部屋に、夜十時に来いという意味だ。
しかし私はテオさまに向かってかすかに首を横に振った。
私はその夜、テオさまの部屋には行かず、酒場へと逃げ出した。
「珍しいな。何を飲む?」
バーテンダーは、ごま塩のひげの、中年の男だった。
「手っ取り早く酔っ払えるのをお願いします」
「なんだそりゃ。失恋でもしたかい、坊や」
「これから失恋するところななんです」
「じゃ、心が暖まるノックアウトをつくろうか」
本当は、何だっていい。
ただ酔っ払って、役に立たない状態にすればいいんだから。
私は熱いカクテルを飲み始めた。味も何も、あったものではない。
でも酔えなかった。
「おや、グレミオ珍しいわね」
マリーが宿屋のカウンターを離れて、酒場にやってきた。
「最近テオさま、来ないわね」
マリーのことばに、私はむせた。鼻に強いお酒が入り、死ぬ思いをした。
「おやおや、大丈夫かい?」
「大丈夫です」
「テオさまったら、来るたびに連れてくる女の人が違うんだねえ」
「もてますからね、テオさまは」
私は顔で笑いながら、とめどなく落ち込んでいった。
十二時の閉店の少し前に店を出た。お屋敷に戻らなければならない。
裏口の鍵は持っているが、遅くなると無用心だ。
テオ様はきっと怒っていらっしゃるだろう。
私は噴水の前で足を止め、ベンチに座り込んだ。翼を広げた天使の像が、黙って私を見下ろしている。
むこうに見えるお屋敷の明かりは、もう全て消えていた。
やがて寒さに耐えきれなくなって、私は部屋に戻り、そっと鍵をかけた。
翌朝、私は町外れの市場へ買い物に行き、骨付きのラム肉とソーセージ、ベーコン、そして新鮮な芽キャベツとたまねぎを買った。
買い置きの根菜類と合わせて、猟師風のシチューをつくろうと思う。リアム様はちょっと風邪ぎみなので、ガーリックも効かせよう。
「グレミオ、鶏の骨持っていってよ、サービスするわ」
「え、いいんですか?」
鳥の骨はけっこういい出しがでる。風邪にもよい。
店のおばさんは気前良く、三羽分のガラをくれた。
「ありがとう」
「いいって。坊ちゃんによろしくね」
リアム坊ちゃんは市場でも人気者なのだ。私は気をよくしていた。
お屋敷に戻ろうと市場を出たところで、見覚えのある馬車が止まった。そしてテオ様が降りてきた。
私は買い物かごを握り締めたまま、テオ様をにらんでいた。
「後ろに乗りなさい」
「いいえ、大丈夫です、テオさま。自分で帰りますから」
「乗れ」
「いやです」
情けなくも体が震えて来た。
テオさまは私の右腕をつかみ、馬車の中へ引きずり込んだ。
「なぜ昨日部屋に来なかった」
テオさまは私の手から買い物かごを取り上げた。
「昨日の夜遅くまでどこに行っていた」
乱暴に抱きしめようとするのを、必死に押し戻した。
「部屋に鍵などつけて、どうしたというんだ」
テオさまは恐ろしい顔をして、私のあごを捕らえた。
息が詰まりそうだった。
「私は、坊ちゃんの付き人、マクドールさまの奉公人、それだけの男でいたいんです」
「要は、おれがいやになったんだな」
いやになったと、無理にでもこの口から言わせたいんだろうか。
何て残酷なひとなんだろう。
「誘ったのはお前ではないか」
「そうです。テオさま。私がおろかでした」
私は不覚にも涙をこぼした。
「なぜ泣く?」
「ご存知ですか? 嫉妬というのはとても、とても罪深いものなんです」
私は低い声で言った。
「私は知らなかったのです。嫉妬がどんなに苦しいか」
美しい雇い主様。 あなたと何度寝たことか。
ついにあなたの心を得ることはできなかった。
「テオさまを私だけのものにしたくなる。嫉妬で狂いそうになる。できるはずもないのに」
テオさまは私の手首をつかんだ。その手は暖かで、かさかさしていた。
テオ様はよくご存知なのだ、私がどこを触れられるとどうなるか。
飽きるほど私と寝たはずだ、飽きるほど。 なんでいまさら、私を追うのだ?
「だからテオさまとはもう……」
「寝ないというのか」
テオさまの指が、手の甲を物憂げになぞった。私は目をつぶった。
「わかってください」
「こんなことも、いやだというのか」
あのかたは、私の手首の裏、脈が打つところにそっと唇をつけた。
いろいろな記憶が、一気に押し寄せてくる。
それでも、なんとしても言わなければならない。
「そうです、もう……」
私の声は完全にかすれていた。
「どうか、お許しください……」
テオさまの指先が、私の頬の醜い傷をなぞる。
神経がどうかなったのか、傷の上は感覚が鈍い。
それなのにテオさまの指がふれると、焼け付くような感じがするのは、なぜだろう?
こうして抱きしめられると、まるで深い海の底に沈んでいくようだ。
テオさまの唇。舌。歯……。目を閉じてキスを交わしながら、私は気が遠くなりそうだ。
そして、テオさまの敏感なところを口一杯にほおばり、吸い、搾り取るときの、柔らかな感触と涙に似た味を思い出す。
このひとが声を上げても、この髪を引っ張っても、私は容赦しない。
タバコの匂いの移った、苦いテオさまの子種を、一滴たりとも地にこぼしはしない。
この私が全部もらいうける。 それで天罰をうけようともかまわない。
テオさまの部屋で、私の部屋で、それから誰もいない溜め池のほとりで、また川辺の葦の茂みに身を潜め、私たちは多くのことを発見し、あらゆる罪深い楽しみを追った。
楽しかった。テオさまが、私に犯されながらあの名を呼ぶまでは。
「ソニア……」
「何か言ったか?」
………… 教えてください、ソニアって誰なんですか?
「グレミオ?」
テオさまが私の目をのぞきこんでいた。私の鍵は壊れている。
そうして、自分の心の本音を思い知る。
このひとを誰にも渡したくない。このひとは私のものだ。
私はやっとのことで言った。
「お城のほうは、いいのですか」
馬車の窓のカーテンを引き、再び空しい努力をするべく、テオさまを固く抱きしめた。
おわり。
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