ハルト Take3 (船大工トーブ)
2006/07/22
オベルの船大工の棟梁は、図面を見ていると飯を食うのを忘れがちになる。
「トーブさん、昼飯を一緒にどうです?」
隣に店を構える仕立て屋がそう誘ってきたのを、図面をにらんだまま「どうぞお先に」と答えてしまった。
「でも、もう2時をとうに過ぎてる。あんまり遅いと、魚の骨より食うものがなくなりますよ」
「2時。なんと、もうそんな時間ですか」
トーブはあわてて立ち上がった。
仕立て屋はかすかに微笑み、優雅な手つきで髪をかきあげた。
その爪は桜貝のように淡く光っていた。一日の終わりには、大切な手にオイルを塗り、鹿の皮で爪を磨いている。
フィルの言うには、手を労わるのは、それが商売道具だからという理由だけではない。
「手や爪の手入れをしていると頭がからっぽになり、新しいアイディアが湧く」のだそうだ。
昼下がりになっても、フンギの店はまだ混みあっていた。ここの騎士団ランチはうまいと評判なのだった。だが船大工は「オリーブ油を少なめに、量も半分くらいで」と注文をつけた。
フィルが「半分ですか。それっぽっちじゃ足りんでしょう。何、太ってもないのにダイエットですか」と笑うので、船大工は赤面した。
「いや、かなり来ております。ここにいると、腹周りばかり貫禄がついていけません」
仕立て屋はトーブの胸のあたりから腹部にかけて、微妙な視線を走らせてきた。
「今度、私の絵のモデルになってくださいよ」
船大工はあいまいに笑った。かすかに身の危険を感じたからだった。
「絵も描かれるんですか」
「ええ、この間はハルト君にモデルになってもらいました」
「ハルト?」
船大工の狼狽を面白がったのか、仕立屋は少し挑発的だった。
「きれいな体だったな。描き甲斐がありましたよ」
男は薄い眉をひそめた。あの航海士は舵も取らずに、絵のモデルなどをしているのだろうか。しかもこんな危なそうな男のモデルをするとはどうなっているのだ。きれいな体などというのだから、脱がされたのかもしれない。
今度会ったら、同郷人としてひとこと言わねばならないだろう。
(危なっかしい……)
妙なことで身を持ち崩すのはつまらないではないか、そう言ってやらねばならない。
ハルトに説教をする機会は、思ったよりもずっと早く訪れた。食事の後、連れ立って訪れたサロンに、酒のグラスを抱えたハルトの姿があった。
(酒なんて全然飲めないのに、何やってるんだ)
トーブはますます眉をひそめたが、仕立屋はさっと近寄り、ハルトの横に席を取った。
「やあ、この間は悪かったね。失礼なことを言って。お詫びに一杯奢らせてくれ。何がいい?」
若者ははれぼったい目を上げ、物憂い口調で、「この店で一番強い酒」と答えた。船大工はルイーズに向かって、小さな声で頼んだ。
「ああ言ってるけど、全然飲めないんで。冷たい水でも飲ませてやってください」
ハルトの手の中の飲み物は、半分ほど飲み干されている。顔色は青白いというより土気色で、フィルがあれこれ話しかけても反応が少ない。
「どうしました? 具合が悪そうですよ」
するとハルトは、「よく揺れるな、ぐるぐる回ってるよ」とつぶやいた。
船大工はたまりかねて、ハルトに近寄り腕を取った。
「揺れてるものか、今日はベタ凪だ。とっとと甲板に行くぞ、頭を冷やせ、酔っ払いが」
ハルトはトーブを見て、かすかに微笑んだ。
「あ、トーブさんだ。顔が鬼瓦になってるよ」
「誰が鬼瓦だ。全く、下戸の癖に飲むな!」
船大工は若者を叱り飛ばし、歩けないのを背負ってやって、甲板に向かった。
するとハルトは、「ブリッジは通らないでくれの」と哀願してきた。
舵を取らぬ航海士だが、まだプライドというものが残っていて、部下に見られたくないらしい。トーブとしては、言われるまでもなくそうするつもりだった。ハルトを上役と思う船乗りたちに、今の醜態を見せたくはない。
彼らがまだハルトを上役と思っていればだが。
甲板は、柔らかな午後の光に満ちていた。トーブは帆の陰にハルトを下ろし、膝の上に横向きに寝かせてやった。ハルトは感謝の笑みを浮かべた。
「ありがとう。少し楽」
妙な二人連れが珍しいらしく、赤毛の若者が近寄ってきて、ハルトのそばに体をかがめた。有名な女海賊キカの子分、ハーヴェイだった。優しげな顔をして、剣を持ったら屈強の剣士だという。
「ハルトじゃねえか。どっか悪いのか?」
「いや、どこか悪いというわけではないんです。申し訳ないが、ここで少し休ませてやってください。少し、その、船酔いをしてしまって」
だがハーヴェイは、酒の匂いには敏感なようだった。
「真昼間から酒か! バックが王様だと違うよなぁ」
「ハ、ハーヴェイ殿、こいつは飲めないんですよ。飲めないのに飲んだから気分が悪いんです」
赤毛の海賊は耳を貸さず、「うらやましいこった」と頭を振った。
「おれたちが同じことしたら、キカさまに蹴飛ばされるぜ。なぁ、シグルド」
「少し静かにしてやれ、ハーヴェイ。誰だって飲みたいときくらいあるさ」
シグルドはそういうと、優雅に身をかがめ、ふと眉をひそめた。
「彼は、負傷しているんじゃないか?」
「負傷? いや、先日の戦いでは傷ひとつ受けなかったはずだが」
シグルドは「血の匂いがする」とつぶやくと、ハルトの腕カバーをずらした。
白い手首の周りに、縛られたようなうっ血の跡があり、血が滲んでいた。腕の肉に噛まれたような跡もあった。
「あなたが痛めつけたのか?」
トーブは何を言われているのかもわからないほど、混乱していた。勿論何か言い返せるはずもない。
「怪我をしているのはここだけじゃないでしょう。……トーブ殿、こういうやり方は感心しませんね」
シグルドがこう決め付けてくるのを、言いがかりだと反論することもできた。それがハルトでなければ、知らない、何もしていないと言うだろう。
だが今は、それどころではない。
ハルトが自分ではない誰かに縛られ、「折檻」を受けていたのだ。
沈黙を肯定と取ったらしいシグルドは、更に追い討ちをかけてきた。
「仲がいいのは結構だが、あんまり酷くすると、彼、そのうち死にますよ」
トーブが何を考えていたかというと、ハルトの名誉を守ることで頭が一杯で、自分の疑いを晴らすことには思いが至らなかった。
自分以外の誰かがやったのとしても、また、全く何もなかったとしても、妙な噂が立てば、傷つくのはハルトだ。
「シグルドどの。どうかこのことは誰にも……」
シグルドは嫌悪の色をあらわにして、さっと立ち上がった。
「言いませんよ、そんなこと」
ハーヴェイが不審そうに覗き込んで、こういった。
「なぁ、どうしたんだよ。そいつ、なんでケガをしたんだ? 戦闘にも出ねえのに」
「お前は知らなくていい、ハーヴェイ。あっちへ行こう」
船大工を残し、二人は遠ざかっていった。
残されたトーブは、改めて眠り続けるハルトを見つめた。
首筋には無残なキスマークのあとがあった。襟を深く合わせてやったが、隠しきれるものではない。
そんな扱いをするような、下卑たものになぜ引っかかる。
大切に思っていれば、恥をかかせるようなことはしないだろうに。少なくとも自分ならしない。ハルトが恥かしく思うような目にはあわせないだろう。
(あんな部屋で篭ってるからこんな目にあうんだ……)
ハルトは静かな息を立てているが、かすかにまぶたが動いている。この昼の光の下で夢を見ている。彼はトーブの膝に頭を乗せて、夢を見るほど安心していられるのだ。
(おれはお前にとって安全な男なんだな)
少し胸が痛んだが、それはそれで幸せなことではないかと思うのだった。
船大工は、自分にだけ聞こえる声でささやいた。
「海図作るのも立派な仕事だ。胸を張ってたらいい。大事な仕事だ。でもたまには舵を握ってくれ。舵だってお前に握られたら喜ぶ。おれは……この船は、ハルトが動かしてくれると思って作ったんだよ……」
風のない、月もない夜だった。
船大工は、妙な息苦しさに、浅い眠りを妨げられた。何かが顔に触っている。こんな船底に虫でも入ってきたか。トーブは手を軽く振り回して、それを追い払おうとした。
「うん?……」
手で振り払おうとしても、また触れてくる。それはやがて、はっきりと意志のある動きとなった。虫などではなく人間の指、柔らかな手のひらだった。
胸板のあたりから下腹部を通り、太ももまで、ぎこちなく確かめるような手つきだった。
禁欲的な生活なので、たまに猥褻な夢を見ることがある。たいていはごく断片的なものだが、今回は妙に長く、執拗にトーブの体を撫で回している。
しまいにはその手は、トーブの腰紐を掴んで、器用に解いてしまった。トーブのはだけた胸板に、誰かが汗ばんだ体を押し付けて、ゆるい袖の中に自分の腕を突っ込み、手のひらに手のひらを合わせて握り締めてきた。
柔らかい手、どこか子供じみた頼りない汗の匂い。
夢であるはずがない。さすがに目をあけないわけにはいかなかった。
乱れた金色の前髪の間から、細い目が覗いていた。白い顔の航海士が、何らかの慰めを求めてトーブにしがみついてきていた。
「も、もう具合はいいのか?」
間抜けな反応だったが、ハルトは動じなかった。トーブの上着に自分の体を滑り込ませたまま、両手を掴み、首筋に唇を押し当ててきた。船大工は目をつぶり、息を詰めた。
もう少し触れられたら、理性をなくしそうだ。
航海士の涼しげな口元から、突如言葉がこぼれ出た。
「あんたの舵を握りに来た。あんたの船を動かしに。そうしたらあんたは喜ぶ。あんた、そういっただろう? だから、来た。おれも、そうしたかった」
「何を寝ぼけてる」
「寝ぼけてなんかない。フィルさんは飲みにいってる。鍵かけて締め出した」
白いふっくらした瞼の下の、新月の形の目がトーブをじっと見ていた。
「触るな……でないと……」
ハルトは聞こうとしない。トーブの前に手を這わせ、正直に立ち上がったものを、下穿きの上からなぞった。
「職人って、偏屈でむっつりなんだな」
トーブは「ああ、そうだよ。だがお前も職人だ」と笑った。
笑いながら涙ぐみそうになり、ハルトの胴を抱きしめ、勢いよく体をひっくり返した。航海士は少し驚いて体をこわばらせたが、すぐに体の力を抜いた。
指を咥えて見ていないで、もっと早くこうしていたらよかったのだ、と誰かが頭の中でささやいた。
誰かがキスマークをつけたところも、躊躇せず舌を這わせた。誰かが縛って傷を負わせたところに、優しく唇を掠めさせた。
唇を優しく塞いでやると、ハルトの手が船大工の髷をそっと掴んだ。
(owari)
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