ミドルポートのワイン
2005/08/15
良い風が吹いている夕方のことだった。
スノウ・フィンガーフートは、オベルの大船の甲板に座って夜空を眺めていた。風をはらんだ帆が、夕焼けを受けて金色に見える。
「おれは白い帆が好きだ」
スノウは昔、イリスが言った事を思い出していた。いま、イリスはこの船のどこかで作戦をめぐらしているのか、それとも間近に迫った決戦に備えて、つかの間体を休めているのか。
マストの上に登っている華奢な若者は、イリスと背格好が似ているが別人だ。
彼の姿が見えないのが無性にさびしいと思った。
「ぼくも白い帆が好きだよ」
そう口に出したとき、わけもなく胸が痛くなった。
「ここは気持ちがいいですね。船酔いも少し収まりますよ」
ちょっと鼻にかかっているが、上品な物言いの声に驚いて振り向くと、見覚えのある貴族の男が立っていた。男は丁重に帽子を取って挨拶をした。
スノウの母の葬儀のとき、父の名代としてラズリルにやってきたラインバッハの嫡子だった。その後も何度か行き来があって、顔はよく知っている。ラインバッハとフィンガーフートは遠い親類でもある。
「お久しぶりです、お若いフィンガーフート殿」
「ラインバッハ様、あなたもここに?」
ラインバッハは笑って床を指差した。
「ずっと船の中にいたのですよ。船酔いがひどくてサロンから動けなくてね。情けないが、やはり私は船が苦手だ。だがあなたがここにいらっしゃると聞いて、ぜひご挨拶をと」
スノウが船に乗って以来、このように屈託なくものを言われるのは初めてだった。
「本当にラズリルのことは、お気の毒でした。気にかかっていたのだが、結局はあなたたちに砲弾を浴びせるようなことになってしまった。こうして生きていてくれて、本当によかったと思っておるのです」
ラインバッハの真剣な表情は、それが嫌味でもなんでもないことを示していた。
「もったいないです。でもすべては自業自得なので、ラインバッハ様。ぼくがラズリルにしたことを考えると、こうして生きているのが申し訳ないくらいで……」
「そんなふうに言ってはならない、スノウ殿。ラズリルのためを思ってしたことであろう?」
スノウは身の置き所もなく顔を伏せた。
「そのつもりでも、結局ラズリルを破壊したことは変わりないんです。……その前には、イリスを結果的に裏切った。本当は、まだ彼に許されているとは思わない。今生かされているだけで、いつ殺されてもしかたない身です」
ラインバッハは白い手袋をはめた手を振って見せた。オレンジの花のような、甘い香りがスノウの鼻をくすぐった。
「イリス殿があなたを恨んでいるとはとても思えない。そうそう、あのとき、あなたの小舟を船の上から狙撃しようとした男がいたんですよ、ラズリルのものでしたが」
「え?」
スノウは体をすくめた。
「周りのものが気がついて止めたのですが、イリスは絞首刑にせよと譲らない。結局、軍師が間に入り、『船から追放、直近の港に下ろす』ということでけりをつけたのですが、みな感心したものです。軍主殿は軍律を乱すものには容赦しないとね。ところが、そのあとサロンで私に言ったんですよ、スノウをあんな舟で行かせてしまった。体を半分、もっていかれたようだと。軍主でなければ追いかけて拾い上げたい、頭を下げてでも、ここにいてもらいたいと。しまいには、スノウにまた捨てられた、などと管を巻いて、荒れて、なだめるのが大変でした。あんなイリス殿はそれ以来見たことがないので……」
ラインバッハはあごに手を置き、少し考え込む素振りをした。
「思うにやはり朋友、ということなのですね。友と仲直りするには、時間をかけて話すといいのですよ。まずあなたから胸襟を開いて」
そして携えてきたカゴをスノウに手渡した。
「ミドルポートのワインと、ラズリルのチーズですよ。あなたと飲むつもりだったのですが、好きにお使いください。この世は、良き友なしに渡っていくにはあまりにも辛いもの。そうは思いませんか、お若いかた」
ワインは夕日に透けて、ルビー色に輝いていた。
END
幻水4インデックス
トップへ