波類間ユンタ 40
一番表座に敷いていた夜具は、そのままになっていた。足で整え、里之子の体をそっと下ろした。サンラーが啓次郎の羽織を広げ、里之子の体の上に置いた。私はとっさに羽織をむしりとり、庭へと投げ捨てた。
八つ当たりだ。なぜならば里之子を殴り倒したのは、啓次郎でも玄庵でもなく、この私だからだ。
私がやった……。
私は大事なものを守れず、何もできず、あまつさえこの手で傷つけた……。
「どうした、もう死んだのか?」
那覇訛りの男の声がした。性懲りもなく、玄庵がやってきていた。その背後から、怯えた面持ちの啓次郎が覗いている。
「打ち身の薬を煎じた。啓次郎に飲ませるつもりだったが、先に里之子に飲ませてくれ、というのでな」
坂口は痛ましげな眼で里之子を見つめている。今更、情けを見せるくらいなら、なぜ放っておいてくれなかったのか。怒りが込み上げる。
「毒でも盛ってきたのだろう、それを持って立ち去れ」
すると玄庵は、薬湯を片手に受けて飲んで見せた。
「これ、このとおり毒などではない。与那城殿の意識が戻ったら、飲ませてやるといい」
「出て行け!」
そう怒鳴ると、二人は砂利の上を足を引きずりながら、立ち去った。
彼らと入れ替わりにマフサが来た。マフサは、医者が触りもしなかった里之子の額に、そっと手を当てた。
「腫れて、熱があるようです。冷やさなければ……」
そのあと、『魂込め』の拝みもしてくれた。拝んでいるときには里之子の瞼が動き、呼吸が速くなるようであった。苦しいのだろうか。頭が痛いのだろうか。痛くても、訴えることが出来ないのではないのか。あまり苦しませたくない。苦しめるくらいなら、いっそ。
「目差主……早まったことを考えてはだめです」
マフサの声に、はっとした。霊力高い、強い目が私を見つめていた。その目を見ていると、すっと気持ちが収まる。
「大丈夫だ、何もしない。今は与人が助かることだけを思っている」
マフサの表情が少しく和らいだ。
「今から御嶽を回って拝んでまいります」
マフサが去ったのち、与人の足首に食い込んでいる紐を、苦労して解いた。ひどい力で引っ張ったのだろう、結び目はすっかり固く、締まっていた。足首の赤い痣、僅かにめくれた薄い皮……。裸足で走ったために傷ついた足の裏までを、そっと焼酎で拭った。
私と刺し違えて坂口が死ねば、里之子は自由になれるはずだった。そんな自由を喜ぶと思ったのが、間違いだったのだ。
船で石垣へ逃がし、蔵元で匿ってもらうべきだった。手足縛り上げてでもそうすべきだった。愛想尽かしされることになっても、里之子の身は無事だっただろう。私は、あの愚かなジラーよりも、はるかに愚かだった。
次の日も、次の日も、里之子は静かに眠り続け、日ごとに小さくなっていく。半ば雨戸を閉めた一番座で、誰にも手出しさせず看病をした。懸命に冷やした甲斐があり、熱は下がり、また腫れあがっていた額も少しずつ引いてきていた。
マフサは毎日拝みに来てくれたが、与人は、目覚めなかった。
口移しに飲ませる水だけが、命をつないでいた。私は、意識のない与人の体を拭き、髪を結い、香油をつけた。そうして、次第に萎れていく命を、ずっと見つめていた。
六日目の朝、里之子の落ち窪んだ頬に、薄い髭が生えているのに気づいた。剃刀を取り出したところで、サンラーが顔色を変えて飛んできた。両手に桶を握り締め、険しい顔で私を睨んでいる。
「旦那、何をしているんですか」
「与人のお髭を剃って差し上げるだけだ。体も拭いてあげたい。水を持ってきてくれ」
サンラーは少し表情を和らげた。
「ちょっとお待ちください。泉より甘い水を頂いてまいります」
「井戸水ではダメなのか」
「甘い泉の水こそ、力がある水だと、わしらは信じています」
私は首をかしげた。
「あれは、ジラーが『田んぼにはいいが、飲めない水です』と言っていたが」
「ジラーめが嘘を言っていたんですよ。近頃は拝み場を作りまして、大切に汲んでおります……必ず旦那様にも良い効き目があるはずです。ウターさまの見つけた泉ですし」
直感であった、その泉にある拝み場に行こう、と思った。小さな泉の神様でもいいから拝みたかった。
泉には、確かに神域の気配があった。
前は手入れもされず、流れる水を田んぼに垂れ流すばかりであったが、今は違う。しめ縄を張った大岩の傍らに、真新しい拝み場もあり、きれいに整えられていた。
線香を捧げてから拝み、クバの柄杓で手桶にそっと水を汲む。半分ほど水を満たしたときである。
ふいに岩陰から童子が現れた。驚いて柄杓を取り落としそうになった。年頃は七つばかり、結った髪に赤い花飾りをつけて、じっと泉を見下ろしている。
「おまえは、どこの童子だ」
突如、聞くまでもないと思った。島の百姓の子が、花飾りなどつけるものか。 私はこの童子を知っている。
「水が欲しいのか?」
利発な目元、白い肌を知っている。私に霊力などない。だが確かにその子供は、里之子だった。とうとう見つけた。連れて帰るのだ。
「里之子、帰ろう」
震える声で問いかける。だが童子は、私など見えぬかのように、ふわりふわりと歩いていく。付いていかねばならぬ。桶を抱えたまま後を追い、どこまでも追い、岬にたどり着いた。
岬には、里之子の母の墓がある。なきがらを掘り出し骨を洗って、骨壷に収め、うつくしい石を見つけてきて、二人で立てた、
その小さな墓石の傍に、童子が立っていた。足元にアカバナーの苗が項垂れていた。里之子が果し合いの前に植えたものに相違ない。私は火打石を打って線香を供え、必死に手を合わせて、祈った。
思左を、助けてくれ。
まだ早いと追い返してくれ。七つを三つ重ねただけで死んでいいはずがない。どうか助けてくれ。どうか、どうか。
(
ありがとう)
耳元で、里之子が低く囁いた。
見上げると、魂はもう童子姿ではない、すらりとした若者の姿だった。紺地の着物を裾短にまとい、軽い足取りで、里之子は浜へと下りていく。海を目指して、引き寄せられるように歩いていく。
「ダメだ、行ってはダメだ」
砂を蹴り上げて走り、声を限りに叫んだ。しかし里之子は振り返らない。背中が、次第に透けていく。里之子の魂が消えてしまう。
「里之子、我ぬ里之子!」
私を置いていかないでくれ!
「わしもお供する、一人では行かせない」
私は叫び、懐に手を突っ込んで、里之子の懐剣をつかみ出した。これで、お後を追えばいいではないか。私は急いでそれを抜き放ち、切っ先を腹に押し当てた。
熱い、と思った。次に容赦ない痛みが来た。恐ろしさに足が震えて、立って居られなくなった。海水は温い。ひたひたと私の膝に寄せてくる。
気が遠くなっていく。里之子の魂のところまで行きたいのに、一歩も歩けない。
(カマデー)
すぐ近くで、里之子の声がした。
(カマデーよ)
うずくまる私の体を、魂だけの里之子が抱きしめてくれた。
「……だから早く船を出せ。いい加減うんざりだ」
「今は風向きが悪すぎます、先生。唐土に行ってしまいますよ?」
聞き覚えのある男たちの声がする。
「暇つぶしに、祭りを見ていってくださいよ、先生。宿賃と食費はチャラにしますから」
「百姓の祭りなど興味はない!」
あの声は玄庵と波平良だ。そのあと薩摩の言葉が聞こえ、笑う声が続いた。酒の匂いが漂っている。
「目差主、気がつかれましたか」
覗き込むのは、女だ。黒ずんで疲れ切った顔のマフサだった。微笑んでいるが、泣き腫らした目をしている。マフサが泣くということは、もう全て終わったのだ。嗚咽が込み上げてきて、どうしようもない。
里之子。
すると、玄庵が近づいてきて、臭いゲップを私の顔に吹きかけた。
「浅い傷だったし、きれいに縫ってやったからすぐ治るぞ。腹の毛を剃ったから、小便するとき驚くなよ」
何を言っているのかわからない。だがもうどうでもいい。
「……もう、死なせてくれ……」
ぴくり、と玄庵の顔が引きつった。
「南蛮流の名医が縫ってやったのに、このバチアタリが」
抱えていた酒瓶を振り上げるのを、波平良が玄庵にしがみついている。
「放せ、殴らせろ!」
「だめです先生、それは与人の取って置きの古酒! 殴るなら他のにしてくださいっ」
「全部やるから、向こうへ行ってくれないか? 小嶺と二人だけにしてほしい」
ふいに、横で涼しい声がした。袖がひらりと揺れ、白い着物の細いからだが、ゆらりと起き上がった。
「里之子!!」
大声を上げて飛び起きようとしたが、肩を押さえられた。
「傷を縫っているのだそうだ。しばらく動かないほうがいい」
優しい、やつれた顔が私を見下ろしている。
「里之子」
何もいえない。ただ涙が溢れるばかりだ。里之子は、少しかすれた声で、「馬鹿者、男がそんなに泣くな」とささやいた。
やがて咳払いが聞こえた。
「まあ、お邪魔なようですから行きますか」
「好きなだけ語らいあってくれ。もうお前達には、負けたわ。全くどうしようもないヤツらだ」
「こうなったら朝までオトーリですよ」
酔っ払いの男たちが毒づきながら、そしてマフサは深々と礼をして、出て行く。あとには二人だけである。
里之子の顔が、すぐそばにある。私の肩に手をついて、私の目をじっと見つめる。体温が感じられるほどに近くに、里之子の顔がある。
「お前が私を弔ってくれるはずだったのに、当てが外れた」
「里之子」
「これでは、安心して死んでいられない」
ぼたぼたと熱い涙が落ちてくる。あの里之子が涙を零している。
「
この馬鹿!」
ついに泣きながら、私の胸の上に顔を伏せた。私は言葉もなく、里之子の肩を抱きしめた。
ほどなくして、与那城里之子は本復された。私の腹の傷も、一ヶ月ほどですっかり癒えた。剃られていた腹の毛が生えそろう頃には、里之子は外を歩き回れるほど、お元気になった。
薩摩のサムライ達は、波平良が石垣島まで送り届け、船を乗り継いで薩摩に戻った。坂口啓次郎は、「長崎に行って、蘭学を修める」とのことであった。それがいい。あの若者に、荒々しいことは似合わない。
私たちは、それからニ年の間、波類間の島で暮らした。島の暮らしも良くなり、八重山蔵元の頭にも褒められたことである。その後、「首里へ戻るように」との書状をいただき、役目を終えた。
慌しく宿を引き払うあいだ、私たちは、ほとんど話をしなかった。
船着場で、島の皆がカチャーシーを踊ってくれているときも、船に乗り込んでからも、少し距離を置いて過ごした。途中、船から波類間の岬が見える。
ふいに、そこから、女が手を振っているような気がした。白い着物であったので、マフサかと思ったが、思いなおした。マフサは、港で別れを惜しんでくれたのである。
(与那城里之子の母上か)
しかしあえて、そのことを口にすることはなかった。じっと島を見つめる里之子の顔は厳しく、声をかけることも出来なかった。
無事に石垣島に着き、蔵元で次の与人に申し送りをし、また慌しく首里へ向けて船出をした。船旅の間、何を考えていたのか。
実は何も考えてはいなかった。首里についてしまうまで、どんな言葉も浮かばず、私は空っぽであった。大切なことを言わなければならないのに、言葉が見つからない。
「それでは、また」
与那城殿の別れの言葉は、とても、あっけなく、また、幾分冷たかった。
「あなたも、どうか息災で」
私もそっけなく答えるしかなかった。
私は古巣の蘇鉄方に戻していただいた。そして、里之子は御書院に戻った。風の噂では、上役の覚えもめでたいようだ。たまさか、お城で会っても、深く礼をして行き過ぎるだけだ。里之子の冠は、赤から黄色に色が変わっていた。位が上がったのである。
男ぶりもまた一段と上がったようだ。 夢のようだった八重山の日々は遠い。身を引け、慎め、と自分に言い聞かせる。波類間の夢は、終わったのだ。
生まれ故郷の首里で、慣れ親しんだ町で、悪友達と再会した。
「何だカマデー、辛気臭い顔をして。酒でも飲んで気晴らししろ」と、辻、つまり遊郭へ連れて行かれたこともある。
ありていに言うと、歌を聴いただけで、帰ってきた。ジュリが歌ってくれたのが、里之子の好きな『仲風』だったので、余りにも辛く、酒も喉を通らなかった。
それから、私はますます気合を入れて、棒術の稽古をするようになった。体を苛めれば、煩悩を絶てるかもしれぬと思った。肌寂しいのはそれで何とかなるが、心が寂しいのは一人ではどうにもならなかった。
月の美しい日には、頂いた三線を弾き、小さな声で歌って、寂しさを紛らわせた。
「今日の誇らしゃや 何にじゃな譬る 莟でぃをる花ぬ 露行逢たぐと」
今日の誇らしい気持ちを何にたとえよう。蕾んでいた花が、露を受けてぱっと開いたようだ……
めでたい歌を歌うと、よけいに胸が詰まる。いきおい、三線の音は湿り勝ちである。しかし、里之子に教えていただいて、まともに弾けるのは、この「かぎやで風」しかない。
遠くから、気のない拍手が響いてきた。
「悪くない声だ」
与那城殿であった。紺地の着物を着て、腕組みをして、私を見ている。
「こ、このような、汚いあばら家に!」
私は飛び上がり、濡れ縁の土埃を払った。与那城殿は気にするようすもなく、埃だらけの隣に腰を掛け、開口一番切り出した。
「唐旅に行く。福州に」
「何故!」
「ある
大名に推挙された。広い世界を見て来いと。丁度、縁談があって困っていた、渡りに船だからな」
唐旅。清国へ。
首里に居て、稀にお顔を見ることが出来るのが、心の拠りどころであった。清国は遠い。ようやく会えたのに、こんな辛い話をされるのか。
「お前の意見を聞きたい」
「拙者ごときに何を聞きたいのです!」
与那城殿は「だから、清国行きのこと」と口ごもった。
「なら申し上げる、跡継ぎも残さずに危ないことをなさるな。何でもいいから嫁を貰って、種付けをなさい!」
与那城殿は気色ばんで、言い返してくる。
「何でもいいとは何だ。種付けとは何だ。そういうならお前こそ、さっさと後添いを貰え」
「わしのことはどうでもいい、とっとと嫁を貰いなさい、出世なさい。紫の冠も被りなさい、そうしたらわしも諦めがつく!」
しまったと思った。私はいつも正直に、思ったことを言ってしまう阿呆である。
与那城殿は、静かに言われた。
「文もくれないから、もう忘れられたかと思っていた。」
そうして与那城殿は、苦しげに私を見た。
遠くから見守ろうという決心は、一瞬で砕け散った。
「どうしても唐旅に行くのなら、」と私は言った。「わしを用心棒としてお連れ下さい。海賊が横行しています。危なくてしょうがない」
与那城殿は、きれいな眉をちょっと持ち上げ、まだ毒づいた。
「気が弱いくせに、用心棒か?」
「気が弱いけど、腕っ節は強いのですよ。きっちりお守りしますので、お願いだからお連れ下さい」
「しかたないな」
しかし、愛しい人はやがて、「
ありがとう」とささやき、私の肩に体重を預けてきた。
八重山も首里も照らす月が、私たち二人を優しく見つめていた。
波類間ユンタ おわり
2008/6/8
すだちペッパートップページ
若者小説インデックス