2010/4/25
平良は新しい電話を買い、また忙しい日常が始まった。もとのように仕事も頑張り、四半期の目標にもギリギリ達成した。
おれは順調に仕事を覚えていった。
そのころ弟が、県外の専門学校に行くと言い出した。障害者施設から通わせてもらえる、卒業したらその施設で暮らすという。
「自立したい」
家族にしかわからない、聞き取りにくい声で、必死に訴えてくる。弟は脳性まひの障害があって車椅子でしか移動できないし、体もそんなに丈夫ではない。家族は心配したが、本人の決心は固かった。おれたちにできることは、弟の荷物を運んでやるだけだった。
子供の頃から、弟を面倒見て生きていくのだと思って、就職もそのために県内にした。だけど、そんなふうに思い込んでいたのは、自分だけだった。
長年思い込んでいた自分の義務が、そうじゃなかったことを思い知った。自分は自由なのだと知った。
(自分のために人生を生きられるんだ)
そのときに浮かんだのは平良の顔だった。
電話をしてみると平良は「連絡しようと思ってたんです。今夜会えませんか」と言い出した。
アパートに来いではなくて、「新町橋の前で」待ち合わせしようという。待ち合わせの時間は8時だったが、仕事の都合で半時間も遅れてしまった。
「ごめんよ、待たせて」
平良はまだやつれた顔が戻ってなかったが、笑顔は戻っていた。
「ううん、ちっとも。携帯で知らせてくれたから。寄るところもありましたし」
夜風が、かすかに磯の香りを運んでくる。おれたちは並んで川沿いの歩道を歩いた。ときどき手をつないで、また手を離す。歩くに連れて喧騒は遠くなっていく。遠くから横断歩道の電子音、車のクラクションの音、静かに打ち寄せる水の音。
踊りの練習の夜に、平良と並んで座って、缶ジュースを飲んだのが昨日のことのようだ。おれは嘘泣き半分、もう半分は惨めさで涙を流しながら、この後輩を新町川に突き落としたいと思っていた。平良はそんなおれを、必死に慰めてくれたんだった。
それから何度、平良に助けてもらっただろう。この浅ましい本性を知っても、平良はけしておれを見捨てなかった。そして今、大人びた姿で、変わらないやさしい目をして横にいる。
一緒に水面に映る、点滅する川岸の灯りを眺めている。
何だかとても不思議な気持ちだった。
「直己さん、ちょっと手を貸して」
そういって平良はふいに、おれの手を取って、4センチ四方くらいの、小さな箱を握らせた。
「何、これ……」
「指輪と鎖です。指にできないでしょ、二人とも独身だから。二人きりのときはお互いはめて、いつもは首に下げとくんです。いいアイディアでしょ」
そういうと平良は、箱を開いた。確かに鎖と、指輪が見える。
「ちゃんとイニシャルも彫ってもらいました。板東さんのはA to Nです。篤志から直己です。おれのはN to Aって。指輪サイズは見本見て、これくらいだと思ったんで13号買いました。サイズはあとで無料で直してくれるそうです!」
おれはしばらく目を開けて失神していたに違いない。しばらくして我に帰って、目の前の指輪を見つめた。
「間違ったらごめん。これは、結婚指輪的な? それとも何かのプレイに使うとか?」
平良は「もちろん、結婚指輪です。おれはもうヤってます」と大真面目だ。そして太い指にキラーンと光る指輪を、おれに見せ付ける。
笑いにごまかせない雰囲気だった。どんな顔をして、注文しに行ったんだろう。それにしても一言いってくれたら、サイズくらい測ったのに、このセッカチが……。
「ずっと一緒です。この新町川が立会人です。ずっとおれと居てください」
昔なら(何のプレイだ、それ)と笑い飛ばしただろうに。でも平良の勇気を笑い飛ばせるはずがない。
「わかった」
手を差し出した。平良は慎重に、選んできた指輪を、なんとおれの薬指にはめた。シャレにならないが、それでも平良の気持ちは嬉しかった。
もしもこの先、この一瞬を、ただひとりで思い出すことになろうと、おれは平良を恨まないだろう。
「もうひとつお願いがあるんです。おれのアパートに住んでください」
それはちょっと考えていなかった。平良の住んでいるところは、独身者用のアパートだからだ。
「二人で住むにはちょっと狭いんじゃないか」
少し間があった。
「今は引っ越せません。2,3年先におれが戻ってくるとき、二人で住めるとこを借りましょう」
「何のこと」
「おれは神戸に転勤になるそうです」
悲しいんだか、おかしいんだか嬉しいんだか、よくわからなかった。転勤なのだ。銀行員にはどうしてもつきものの転勤。仕方ない。
でもやっぱり寂しくて、鼻の奥が痛くなりそうだった。平良が県外に行ってしまう。神戸は実は近いけど、県外は県外だ。誘惑の多い大都市へ行くのだ。
「指輪だなんだより、そっちが先だろ」
「ごめんなさい」
しゅんとする平良は、やっぱり可愛い。
「で、お前の匂いのするアパートに放置プレイ」
「ま、毎週帰ってきますから!」
「もしかしてこの指輪、貞操帯のつもり? お前が居なくなったら、だれかれ構わず脚開くとか思ってる? おれを信じてないの?」
「し、信じてます。でも、おれが見張ってないと男やら女やら、勝手にウヨウヨ寄ってくるんだから心配で……本当は神戸へ連れて行きたい。他の誰にも触らせたくないんだ」
平良は大真面だったので、それ以上苛めるのは可愛そうだった。でも、久しぶりに必死に口説かれるのが気持ちよくて、もうちょっと困らせたくなった。
「寂しい思いするの、嫌いなんだけど」
「毎週、帰って来ます。寂しい思いさせませんから。3年、いや、2年で帰ってくる。おれは坂東さんを信じてる。坂東さんだけが大事なんです。今までもこれからも。だからあなたも、おれを信じて待っていて、お願いです」
平良は必死だった。
「おれだって、辛いんです、一緒に居られないなんて拷問です、こんなに愛してるのに」
必死すぎて泣きが入った声で、駆け引きも何もない、率直そのままの平良だった。多分どこへ行ってもこのままなのだろう。いつでもどこでも、直球勝負だ。
「わかったよ。約束だ。篤志が帰ってきたら、一緒に住もう」
ちょっとゆるい指輪をした手で、平良の顔を挟んで、額と額をつけた。
「かわいい篤志がいるところなら、どこだって走っていくよ」
平良が「立会人」と呼んだ新町川と、街の明かりに見えるように、平良の唇にキスをしたのだった。
終わり。
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