桜の頃  2002/2/25

「また金額ミスっただと。 何度おなじことやってるんだっ」
 次長の怒鳴り声が響く。
「す、すみませ…」
「客の通帳汚してこの役立たずが。 得意先係がどんな思いして仕事取ってくるのか、わかってんのか?」
「……すみませんでした」

 次長はいらいらと、役席キーを差し出した。
「さっさと直せ。あとで担当に謝っとけ…おい、訂正するつもりでまたミスるなよ」

 簡単な入力ミスを、おれはまた重ねてしまった。
 研修が終わって、この支店に配属されて、三日たった。 卒業式をはさんで、合計4週間も研修してきたのに、実地に入ると無様なミスばかりを重ねていた。

 伝票の訂正は役席の持つ、管理キーでしかできない。 管理キーの使用簿に名前を書き、判をついた。 おれの名前が本当に目だっている…。 

 おれのセンパイで仕事を教えてくれている井村さんが、「平良くん、それ終わったら早めにお昼行って来たら? 私はあとでゆっくり行きたいから、あとのほうがいいの」
 と言った。
「井村さんどうぞお先に…おれまだ…」
「もう、遠慮しなくていいから先に行きなさい。 お腹鳴ってるの聞こえてるわよ? いっぱい食べて元気だしなさい、ね?」

 
 井村さんはとても優しい。 それだけじゃない、女性行員はみんなとてもおれに優しい。
 無能なおれにはそれがかえって辛い。
 机の上を片付けて、重い足取りで、食堂に上がろうとしていた。
「平良くん、待てよ」
 明るいよく通る声が、おれを追いかけてきた。振り向くと、一年センパイの坂東さんだった。
 先輩は色白でほっそりしていて、背丈はそんなに高くはないが、明るい色のスーツが良く似合う。 
 今日は淡いオレンジみたいな、ピンク色みたいな(なんという色なのかよくわからない)春らしいネクタイをしていて、井村さんに 「わ、今日の坂東くんかわいい」なんて言われていた。 
 すかさず「何をおっしゃる。 井村さんのほうが、ずっとかわいいですよ」なんて言い返していたっけ。
 
 たしかにそれは、坂東さんの生き生きした肌色によく映えていた。
 
「平良くん、気分転換に外行こうか? あんまり遠くいけないけどな」
「え?」
「メシ食いに行こう、外へ」

 途中、坂東さんは、目立たない小さな総菜屋で、二人分の弁当と飲み物を買った。 坂東さんが言うには、「ここは値段の割りにうまい。 特にコロッケが絶品だ。 惣菜も悪くない」んだそうだ。
 
 それから新町川沿いの公園まで来て、芝生の上で弁当を広げた。 公園は桜の花が咲き始めていて、おれたちは思いがけない花見をしながら飯を食うことになった。

「ピクニックみたいだな」
「そうですね」
「たまには外の光浴びないと腐っちまう。 内勤だからな、おれたち」

 おれはピクニックというより、デートみたいだと思いつつ、弁当を開けた。 香ばしいコロッケの匂いが立ち上る。 箸をつけると、びっくりするくらいかりっとして、新鮮なじゃがいもの匂いがした。 かすかに香ばしいゴマ油のにおいもしている。
 朝ごはんも食ってなかったんで、強烈に食欲がわいてきた。

「野菜も食わなきゃな?」
 坂東さんの差し出す小さなトレーには、菜の花みたいなのとか、レンコンの薄く切っていためたみたいなのとか、牛肉を煮たのとか、いろいろ入っていた。
 

「はあ…食った食った」
 坂東さんは顔に似合わず、おやじくさく唸り、ズボンのベルトを緩めた。
 坂東さんもよく食べていたが、おれがほとんど食ってしまったような気もする。 ここの弁当は確かにうまかった。

「ちょっと寝ていこ」
 ごろんと坂東さんは横になった。 おれも横になりたかったが、坂東さんに添い寝するような心持がして、できなかった。
 最近覚えてしまったたばこを一服しようかと思ったが、坂東さんはたばこはやらない。
 手持ち無沙汰だ。 ごろ寝した坂東さんは、のんびりした口調でこう言った。
「平良はさあ、」
「はい」
「どうしてこの銀行入ったの?」
「徳島にいたかったから…」
 こんな頼りない答えにも、坂東さんはにっこりした。
「おれはUターン組だから似たようなもんか。 県内って就職口少ないからなあ。 でも平良って理系でコンピュ勉強してたんだろ? なのに銀行? ジャストさんとか(注・一太郎で有名なジャストシステム)行こうと思わなかったのか?」
「おれ、教授の推薦で、この銀行に入ったんです」

 先輩はがばっと起き上がった。
「そうだった、教授の推薦があるんだ。 理系っていいよな。 おれ文系だから全部自分でやったんだ。 県内のカイシャ、20は回ったぞ。」
「……に、にじゅう…すげえ」
 
「すごいだろ。 で、この銀行ってどう? 思ってたのと違うだろ?」
 
 おれは優しい坂東さんの誘導尋問にひっかかり、ついぐちをこぼしていた。

「おれてっきり、システム関係に回してくれるもんと思ってたのに。 ふた開けたら支店勤務で、実はおれ、銀行のコトもわかんないし…」
「本部希望だったのか」
「はい…でも、こんな端末操作の仕事で…焦りまくって…ミスるんです…おれトロいのかな。 情けなくてたまんないです」

 坂東さんはしばらく考えて、言った。
「ミスのことは…3日目だししかたないよ。 人事のヒトだって、この支店で銀行のことわかってから本部へ行かようとか思ってるんじゃないか?」
 そうだと思いたいが、しかしそのまえに見込みがないと思われそうでつらい。
 先輩は情けないおれを、首をかしげて見ていた。
「そのために採用したんだろうから、イヤでもそのうちシステム部のほうに行かされるかもよ? でも本部、雰囲気クライって、同期の女が言ってたけど…あ、でも本部行きたいんなら、人事異動の希望は毎回出しといたらいい。 あ、そういうアンケートみたいなのが来るんだけどな?」
「へえ…」

ふと、先輩は訴えるようにおれを見つめた。
「でもおれ、平良みたいな頼もしそうなのが来てくれて、すごくうれしいんだ。ここで一緒にがんばってほしいな…。 内勤って女ばっかだろ? 男はいるけど、たいてい腰痛もちのおっさんばかりだし」
 

 ふいにおれは、胸がきゅっとなった。
 おれが来て、すごくうれしいって…。 おれってどこらへんが頼もしいんだろう…?
「おれなんて…頼もしいなんて、そんな…」
 センパイは次に耳を疑うようなことを言った。
「がっちりしててスポーツマンだから。 腕も強そうだし。腰も丈夫そうだし」
 頼もしいって、体つきのことだったのか。 スーツ越しに腕の筋肉のつき具合まで見てたのか。腰も丈夫そうっていったい。

 …………。
 ……もしかして、もしかして、イキナリおれは口説かれている…??  センパイは女がいいんだろうと思ってたのに、ひょっとして男のほうが好きだったりするのか?
 そんでもって、このいかつい体形をお気に召して頂いたとか!
 センパイは畳み掛けるように、こうも言った。

「男にしかできないこともあるんだ」

 瞬間的に心拍数がカーンと上がったようだった。
 胸が熱い。 これが恋でなくてなんだろう?

 すっかりぽわ〜ん、となったおれに、坂東さんは「じゃあ、そろそろ帰ろうか。 遅くなったら悪いからな」と言った。


「重いだろう、平良」
「いいえ、これくらい軽いっす」

 おれはその日から、坂東さんのお供をして、区域内のATMを回ることになった。 硬貨を含め、大きな金を運ぶので、さすがに一人では危ないから、社用車を借りて二人で行く。 
 要するに、用心棒兼、荷物持ちというわけなのだった。 変なヤツがいないよう、油断なく目を配るのは坂東さんの役だけれど。
 男しかできないというのは、こういう力仕事だったらしい。
 確かにこんな仕事は、女性より男のほうが向いてるだろう。

 それにおれにとっては、坂東さんと車に乗って(ご近所のATMのお守りでも)どこかへ行くことじたいうれしいことだった。
 毎日坂東さんと会えるという理由で、つまらないと思った仕事もなんだか楽しくなってきて、今に至っている。

 そうしておれの「ノミの心臓」は気まぐれな坂東さんのために、今でもずっとどきどきし続けている。