幕末 BL 夏影

石畳、蛍火が照らす君の袖
 


 
今日、土方さんと喧嘩した。

理由は何だったのか、覚えていない。

きっと、本当はどうでもいいくらいの些細なことだったんだと思う。

まだ6月も初めだっていうのに、今日は朝からすごく暑かったから、二人とも苛々していたんだと思う。

 

昼ごはんを食べ終わって、若先生は大先生と一緒にどこかへ行ったから、私は土方さんと一緒に留守番をしていた。

部屋の障子と言う障子は開け放たれ、すだれの向こうから燦々と太陽に照らされる樫の木が見えた。

土方さんは団扇を片手に扇ぎながら何かを話してて、私はちゃぶ台を拭きながらそれに生返事を返していた。

それにしても――暑い。

背中が汗にじっとりと濡れて、着物が張り付いている。

土方さんは私のそんな態度が気に入らなかったのか、唇の端をちょっと意地悪く吊り上げて、目を細めて会話をこう締めくくった。

「――これだから餓鬼はよ」

「……っ!」

何気なく言われたその言葉。たった一言のその言葉に、どれだけ私が傷ついているのか。あなたは知っていますか?

私だって――。

好きでこんな年下に生まれてきたわけじゃない!

 

胸をえぐるその言葉も、いつもなら笑ってやり過ごすことができるのに……。

それが今日に限ってできなかったのは、土方さんの着物に白粉の匂いが染み付いていたからだ。

私は息が苦しくなって布巾をギュッと握り緊めると、下腹から突き上げるドロドロとした感情をそのままに

「ばかっ!!」

大声で怒鳴って、畳を蹴って立ち上がった。

目の前で胡坐をかいている土方さんは、キョトンとした顔で扇ぐのも忘れて固まっている。

叫んだ瞬間――全ての音が止まったような気がした。

どこかで囀っていたセッカも、暑いからと早めに吊るされた風鈴も しんと静まり返って、私はハッと我に返って土方さんの凍りついた顔を凝視した。

 

 
xxx
 

 

「はぁ……」

私は奥まった所にある神社の石段に座って膝を抱えると、やりきれないため息をついた。

土方さんを怒鳴った後うろたえた私は、つい逃げるように試衛館を飛び出してしまったのだ。

「はぁ……どうしよう……」

こんなんじゃ、帰るに帰れない。

 

 

あの後――。

土方さんはすぐ我に返って、私を睨みすえた。

いつも憎めない悪戯っ子みたいな光を湛えている瞳は、見る見るうちに剣呑になり、顔から表情がストンと抜け落ちた。

今まで、土方さんが拗ねたみたいに怒るのは見たことがあるけど――

こんな風に怒るのを見るのは初めてだ。

 

とんでもないことをしてしまった。

 

鋭く尖っていく土方さんの目を見て、うろたえてももう遅い。胃の腑がスと冷えていく。口から出た言葉は、取り消せない。

(どうしよう……)

嫌われたかもしれない。

そう思うと頭が真っ白になって、足が小さく震えた。

嫌われたくて言ったんじゃないのに……。

そうじゃなくて――!

(好きだから)

言ったのに。

餓鬼扱いされたくなかった。土方さんに近づきたくて、いつも背伸びをしていた。

だから!

その努力全てを笑われたような気がして、抑えていた感情が爆発した。

言い終わった瞬間、しまったとは思ったけど……。

謝るなんて――できるわけがない。

子ども扱いされるのは、もう限界だったから……。

 

鼻の奥がつんとする。

(ねぇ)

私は心の中で土方さんに話しかけた。

(私はもう14になったんですよ?)

あなたとの7つの歳の差は縮まらないけど。

でも!

昔よりもずっと……あなたに近づけた、そう思っていたのに。

近づきたい。そう思っていたのに――!

 

そう思っていたのは、私だけだったみたいだ。

「……ひどいや」

鼻の頭がじんじんする。

きっと今、私は酷い顔をしている。

どうしようもなく辛くて、哀しかった。

縮まらない歳の差が。

土方さんとの変わらない関係が。

ぽろぽろと涙は勝手に流れ、乾いた石段に水玉模様を作っていく。

「……馬鹿だな」

(こんなことで泣くなんて……)

そう思うのに。

自分が情けなくて、悔しくて――私は乱暴に袖で目をぬぐうと、肩を落として熱い息を吐いた。

 

 

xxx

 

 

いつからだろう?

土方さんへの想いを自覚したのは。

 

初めは、意地悪ばかりする土方さんが苦手だった。

怖いって思っていた。

でも、わかり辛い優しさを一つ発見するたびに、嬉しくなってどんどんと深みにはまっていった。

 

私の調子が悪いときはそれとなく察してくれて、馬鹿にしながらも仕事を取り上げてくれた。

剣術の稽古だって、私が遠慮せずにできるように、試衛館に来ているときは名前を呼んで道場に引き入れてくれた。

(昔は色々あったけど)

今じゃあ土方さんは、私を自分の弟のように可愛がってくれている。

(それでいいじゃないか)

それだけで、十分じゃないか。

好きだなんて……告げることはできないんだから。

(土方さんは根っからの女好きだから……)

男の――それも弟のように思っている私に、こんな目で見られているって知ったら……。

(気持ち悪がられて、遠ざけられるかもしれない)

それが何より怖かった。

笑いかけてくれなくなるかもしれない。そう思うと身を切られるような思いがした。

でも、結局焦って騒いでいるのは私だけで……。

今頃一人取り残された土方さんは、何で私が怒ったのかもわからず苛々しているんだろう。

それが容易に想像できて、可笑しかった。

おかしくて――切なかった。

(土方さん)

声には出さず、心の中でそっと呼びかけてみる。

(土方さん)

とても大切な名前。きらきらとした特別な名前を呼ぶ度、心が不安定になって、寂しくなった。

(土方、さん……)

でも。

私にとって特別な名前でも、土方さんにとっては――呼ばれ慣れた普通の名前でしかない。

それが寂しかった。

若先生みたいに呼び捨てもできず、遊女達のように甘えた声で呼ぶこともできない。

想いを込めることのできない――名前。

目からまた涙がこぼれた。

(それでも……)

名前を呼べるだけで嬉しかった。

弟としてでもいいから、傍にいたい。今ならそう思える。

(謝らなくちゃ!)

土方さんは矜持が高いから、年下の私に怒鳴られ、しばらく口を利いてはくれないかもしれない。

(……嫌われたくない)

だから謝らなくちゃ。

(生意気なこと言ってごめんなさい)

そう言えば、きっと許してくれる。

ひねくれていても、優しい人だから。

……私の、矜持なんてどうでもいい。

傷ついても、かまわない。

だから、いつもみたいに笑うんだ。

なんでもない振りをして、明るい弟を演じるんだ。

 

私は熱くなる想いを冷ますように、頬を膨らませてゆっくりと息を吐くと、顔を上げた。

 

木の間隠れに見える空は、いつの間にか陽が沈み、茜色になっている。

(何刻位ここにいたんだろう……?)

こんなに長く泣いていたなんて、我ながら可笑しくなった。

「あーあ……馬鹿だな……私も」

小さく笑って、また熱を持ち始めた鼻を膝にこすりつける。

泣きすぎて頭の芯がぼぅとする。

目が、頬が火照ったように熱い。きっと腫れているんだろう。

「こんな顔じゃ、帰れないや……」

せめてこの腫れが引くまでは……。

もう少し、ここにいよう。

ゆっくりと自分の心に向き合う時間が欲しかった。

この思いに決別する、時間が欲しかった。

私は膝を抱えたまま、静かな気持ちで階下の田園風景を眺めていた。

寂しいけれど、どこか神聖な気持ちだった。

それは、私の中で一つの気持ちに区切りが付いたからかもしれない。

 

私がそう思いながら、感傷に浸っている時だった。

突然向こうの方から人が走ってくる音が聞こえたのは。

(え!)

こんな所に誰かが来るなんて、思いもしなかったから!

思わずビクリと肩が揺れて、茂みに隠れるように縮こまって息を潜める。

「あ……」

草履の下で鳴る小石。

乾いた土を蹴散らしながら走っているのは――

「土方、さん……?」

 

焦ったようにキョロキョロと辺りを見回して――何かを探している?

(もしかして……私、を?)

私はハッとして食い入るように土方さんを眺めた。

額に浮かんだ汗、焦燥に染まった顔。

見つからない苛立ちか、舌打ちを一つこぼし、ぐしゃぐしゃと髪をかきむしる。

その姿を見たとき、また目にジワリと涙が滲んだ。

ダメだ……。

折角の決意が揺らぎそうになる。

それでも目を反らしたくなくてじっと見つめていると、涙に滲んだ視界に月影が輝いて、土方さんの袖に蛍が止まったように見えた。

(あ……)

そんな場合じゃないのに。

あまりにも綺麗な光景に、息が止まったのも束の間――瞬きと共に涙がこぼれ、土方さんの姿が不安定に揺らいで見えた。

(土方さん!)

行ってしまう!?

声をかけようかと思った。でも――声は出なかった。

土方さんは私を探しているのかもしれない。でも、違うのかもしれない。

カァッと顔が熱くなって、心臓がドキドキと速くなる。

(見つけて欲しい)

見つけて欲しくない。

こんな顔で――会いたくない。

そう思うのに、土方さんから目が離せない。

その時、ふいに土方さんがこっちを向いた。

「あ」

声にしたのはどっちだったんだろう?

私と目が合った瞬間、土方さんはバツが悪そうに顔をしかめ、ふいと横を向いたけど、すぐにため息を吐いて覚悟を決めたように大またで歩いてきた。

「宗次郎」

土方さんの綺麗な唇が、私の名を紡ぐ。

「……帰んぞ」

居心地が悪そうに少しそわそわしながら、精一杯の渋面を作って土方さんが私に手を伸ばす。

動くことができなかった。熱い指が私の腕を掴んで、ぐいと引き寄せられる。

「――ッ!」

あまりの力に私は蹈鞴を踏んで、土方さんの胸に倒れこんだ。

(え……?)

今、土方さんに抱きとめられている?

驚いて弾かれたように土方さんを見ると、土方さんも驚いたように胸に倒れこんできた私を見ていた。

(なんだ……)

どうやら、ただ力の入れ方を間違えたみたいだ。

ちょっとだけがっかりして、急いで離れようとしたけど、土方さんは離してくれなかった。

(土方さん?)

土方さんは詰めていた息をそっと吐くと、今度はわざとらしく聞こえよがしにため息をついてそのまま至近距離で私を見つめた。

(な、なんで……?)

ドキン、心臓が波打つ。

土方さんの右手が私の腕を掴んでいる!

僅かに込められた力に、目を見開いた。

――私は自分の体を支えるために土方さんの胸に手を置いていて――

(何だ、この体勢……!)

土方さんの左手は、倒れ掛かる私を支えるように、腰に回されている。

私は自分の体制に気づいて、カァッと全身が赤くなった。

「う……」

どぎまぎする私をよそに、何かを考え込んでいるのか土方さんは一向に手を離してくれない。

こんなに近づいたのは、子供のとき以来だ。

自分の気持ちを自覚してからは、極力土方さんに触れないようにしていたから……。

触ればこの想いが止められなくなる。そう思っていたから!

だから!

離れて、いた、のに……。

土方さんは腕の中で居心地悪そうにもぞもぞと動く私を見て、一度くしゃりと顔を歪めると、口元に小さな――それこそ私じゃなきゃ気づかないくらいの小さな笑みを浮かべた。

(あ……)

思わず見とれて、抵抗が止まる。

土方さんは伏せていた目を上げると、幼い子を宥めるように、瞼を、頬を痛ましそうに撫でて私を見た。

(……っ!)

撫でられたところが急に熱を持って、ジンジンとうずきはじめる。

私はされるがままにぽかんと口を開いて、まだ頭一つ分高い土方さんを見つめていた。

「――悪かった、な……」

ぽつんと、聞き逃しそうな声で土方さんが言う。

木の葉が風にざわめいた。

「馬鹿にしたわけじゃねぇんだ。お前は、俺の――」

弟みてぇな奴だから、よ……。

寂しそうに落とされた言葉に、胸がきしんだ。

ああ……。あの言葉は、土方さんなりのひねくれた愛情表現だったんだ。

今更ながらに気づいて、切なくなった。

私は俯いて、後悔した。

土方さんは、土方さんなりに私を大事にしてくれていた。

たとえそれが、弟に対するようなものだとしても……

宗次郎。

意地悪な、だけど愛しさの滲む声でそう呼んでくれていた土方さんの声が、今は戸惑いと硬さを含んだ声で私を呼ぶ。

こんな声で、名前を呼ばれたくない……。

「私は……」

目を閉じると、今度こそ自分の想いに決別して、土方さんの腕にそっと手をかけた。

この想いが叶うことがなくても。

私を遠ざけないで欲しい、そう祈りを込めて。

その思いが届くように、私はまっすぐに土方さんの目を見て言った。

「私は――あなたに追いつきたかった」

「……」

「だから、早く大人になりたくて……。餓鬼だって言われるのが……いやだったんです」

震えそうになる声に、慌てて息を吐き出しつばを飲み込む。

「あなたに認めてもらいたくて、一生懸命だったから……」

若先生でも大先生でもなく、土方さんに一人の男として認めてもらいたかった。

「あなたが私を弟のように思っていてくれた、なんて知らなかったから……」

なんて、それは嘘だけど。

浮かんできた自嘲的な笑みを慌てて消して土方さんをひたむきに見上げる。

「だから――」

声が震える。

土方さんは黙って、私の続きを待っている。

(落ち着け、私)

ここで、間違えるわけにはいかない。

間違えれば、土方さんは遠くへ行ってしまう。

私はぎゅっと目を閉じて、息を整えた。

「だから……私を遠ざけないでください。餓鬼扱いしても、いいですから……」

私の矜持なんて、そんなものどうでもいい!

「あなたの弟なんて――こんな光栄なことは、ないですから」

軋んだ心に蓋をして、私は精一杯微笑んだ。

「そうか……」

土方さんは表情の読めない目で私を見ていたが、私が口を閉じるのを待ったようにふぅと息を吐くと目を伏せた。

馬鹿だな。

声にはならなかったけど、唇がそう動いたような気がして

「え?」

思わず声を上げた私に、土方さんはいきなり頭突きを食らわすと、ふんと鼻で笑ってまたいつものように唇の端を持ち上げて笑った。

(い、きなり何を……)

痛い……。

あまりの痛さに目の前がチカチカする。

いくらこれが照れ隠しだからってわかっていても――

(これはあんまりだ……)

痛みに涙を浮かべ額を押さえると、ぷっくりと腫れているのがわかってますます痛くなった。

「帰んぞ!」

「え」

土方さんはそれで気が済んだのか、ぶっきらぼうにそれだけ告げて私の腕を引いて歩き始める。

そのまま引きずられそうになって慌てて足を動かすと、土方さんは一度足を止めて今度はゆっくりと歩きはじめた。

(え……)

私は真っ赤になった顔で、土方さんとつかまれた腕を交互に見た。

何だか土方さんのその腕が、私に甘えているようで――くすぐったい。

(もしかして、寂しいって思っていたの……土方さんも同じだったのかな?)

土方さんに想いがばれるのが怖くて、少し距離を置いていたから。

(寂しかったのは、私だけじゃないのかな?)

そう思うと、心が温かくなって、今までもやもやしていた黒いものがぱっと消えたような気がした。

(土方さん)

そっと呟いた名前は、やっぱり暖かくて。

私は名前を抱きしめるように目を閉じると、思い切って土方さんに抱きついた。

「う、わ! い、いきなり何しやがる!」

突然後ろから抱きつかれるなんて思いもしなかったんだろう、土方さんが体勢を崩して転びそうになる。

それがおかしくてくすくす笑うと、土方さんは決まり悪そうに顔をしかめて、ゴツンと私の頭を殴った。

「痛いですよ」

「てめぇが悪ぃんだろうが! てめぇが! いきなり抱きつくな! 危ねぇ!」

「支えきれないなんて、土方さんの力がないだけじゃないですかぁ」

「なんだと!?」

「……大好きですよ。土方さん」

「……あ?」

「私も……土方さんのこと、兄上だって思ってもいいですか?」

思い切ってそう聞くと、

「勝手にしろ……」

土方さんはそう言って腕を離すと、私を置いてずかずかと歩いていってしまった。

「あ! 待ってくださいよ! 土方さん!」

「……名前でいい。兄弟ならな」

「歳、さん……?」

「……っ!」

初めて呟いた呼び名に土方さんはカァッと真っ赤になると、今度こそ私を置いて走り出してしまった。

「って、え!? ま、待ってくださいよ!」

まさかこんなに照れるなんて思いもしなかったから!

慌てて土方さんの後姿を追いかける。

「う、うるせぇ! ついてくんな!」

なんて土方さんは振り返りもせずに怒鳴っていたけど、帰り道は同じだから――

 

 

結局――全力疾走の追いかけっこは試衛館まで続き、玄関を開ける頃には、私たちは二人揃って息も切れ切れなっていた。

 

(トシさん)

新しくなったあなたの呼び名。

くすぐったくて、慣れるまでに少し時間がかかりそうだけど……。

これからは息苦しいだけじゃない、新しい関係を築いていけそうな気がして。

 

私は、座り込んで肩で息をしている土方さんに手を伸ばすと、土方さんはしぶしぶ私の手をとってニヤリと笑った。

真正面からみたその笑みはやっぱり綺麗で、心は少し切なくなったけど、私はにっこり笑って土方さんを引っ張りあげた。

 

 

これからは弟として!

いっぱいあなたに甘えさせていただきますから!

どうかどうかいつまでも傍にいさせてください。

 

つないだ手に、そう祈りを込めて。

 

土方さんは私の背を思い切り叩くと、上機嫌に家に入っていった。

 

 

 
 

静かに閉めた玄関の扉の向こうでは、今年一番の蛍が舞い始めていた。

 
 


2010.7.20

 
 



お題はこちらからお借りしました。