幕末 BL 夏影

通り雨が呼ぶ夕涼み
 


 



遠雷が聞こえた。

まだ陽が沈む時間ではないのに、俄かに空は暗くなり、どこから沸いたのか、分厚い灰色の雲が青空を覆い隠す。

「チッ!」

山口一(後の斎藤一)は舌打ちすると、組んでいた腕を放して駆けるようにに歩き始めた。

じきに夕立が来るのだろう。

風鈴売りは雨を確かめるように風の匂いをかぐと、ガラスをぶつけないよう注意深く去り、城下町をにぎやかに話しながら歩いていた人々も、空を見上げ早足に駆けていく。

 

七月大暑――

今、山口は城下町にいた。

今日は一日暇を持て余していたから、良い刀はないか散歩がてら店をひやかしに行ったその帰りである。

(これは一雨来るか)

ゴロゴロと不気味に響く音は次第に近くなり、にぎやかな喧騒そのままに人々はあちこちへ走り回っている。

道の両端を埋め尽くす店の前では、外に出していた品物が濡れる前に片付けようと番頭と丁稚が大騒ぎをしているし、娘たちは華やかな悲鳴とも笑いとも付かない声を上げて、近くの茶屋に大慌てで避難している。

 

ポツリ

 

ついに雨が降ってきた。

思ったよりも大粒の雨だ。

今日は朝から天気がよかったから――傘など持って来てはいない。

(夕立だからすぐに止むだろうが……)

茶店に入って雨が降るのをやり過ごしてもいいが……。

甘いものはあまり得意ではない。それにあのにぎやかな娘たちと一つ所にいなければならない、そう思うだけでげんなりしたから。

山口は素早く辺りを見回して、ちょうどよく雨戸をおろしている店を見つけると、足早に軒先に駆け込んだ。

 

 



 

土方歳三は、わき目も振らず全力疾走していた。

「畜生め!」

まさか雨が降るとは思わなかったから、何の用意もしていない。

街路樹の木陰はすでに雨宿りをする人々で満員になっており、土方は新たな木陰を探し走っていた。

(今日はついてねぇな……)

昼の内に回った何軒かの道場でも、まだ在庫があるからと石田散薬を買ってくれなかった。

背に負った行李の中身は減ることなく、今尚ずっしりと重たい。

それだけでも気が滅入ると言うのに、雨にまで降られたのではまったものではない。

ああ、足にまとわり付く着物がうっとうしい!

土方は苛々と着物の裾を帯に挟み込むと、ずぶ濡れになって走り続けた。

このどしゃぶりの雨のおかげで、気温は幾らか下がったとはいえ、熱のこもった土に雨が染み込み、モワリ不快な熱気が足首に絡み付いてくる。

それを蹴飛ばすように乱暴に足を運び、水溜りを蹴飛ばす。

がたがたと背の行李は音を立てて揺れ、その上にくくりつけられた剣道道具は、じっとりと雨を含んだ所から黒く変色していった。

 

 



 

(……なかなか止まんな……)

今や空は真っ黒になり、雲の中で雷が不気味に轟いている。

いつまでこうして足止めさられるのだろう?

特に予定はないとは言え、不快だ。

山口はむっつりと口を引き結び、眉間に皺を寄せた。

 

寡黙で涼しい顔立ちの山口を見つけ、向かいの茶店にいる娘たちがきゃあきゃあと噂話をしている。

何度か隣の店の主人にも中に入らないかと、誘われたが元来人に干渉されるのを好まないこの青年は、言葉少なに辞退するとじっと外に立って雨に煙る往来を眺めていた。

 

「ん――?」

(あれは……)

激しく打ち付ける雨の中、前かがみになって向こうから駆けて来るのは……

(土方、さん?)

そうだ。土方だ。

その姿を認めた瞬間、山口の鋭い目が驚きに彩られた。

土方は視界を守るように顔の前に腕をかざして、水溜りをかまうことなく蹴飛ばし走っている。

あれだけ雨に濡れれば、少々水溜りの水を跳ね上げても同じだ、そう思っているのだろう。

むぅと立ち込める湿気。

濃い泥の、雨の匂い。

それらに混じって、甘い香りが鼻をくすぐるのは、きっと向かいに茶店があるからあろう。

(……こっちを向け。土方さん)

山口は土方を見つめ、一心に念じた。

(こっちに来れば、雨宿りができる)

自分に気づいて欲しかった。

声をかけたりはしない。もし土方が自分に気づかずに行ってしまえば、それはそれでいいと思っている。

もちろん、落胆はするが。

土方の黒々とした髪は雨に濡れ、後れ毛からひたりひたりとうなじを伝って雫が流れていく。

こくり、山口の喉が鳴った。

暑さのせいか、それとも走っているからか。

頬はばら色に上気し、長い睫が雨が当たるたびに静かにふるりと震えている。

薄く開かれた唇に、思わず山口の心臓が跳ねた。

(土方さん!)

気づいて欲しい――!

だがもし――今、土方が自分に気づいてこっちに来たら?

果たして平静を保つことができるだろうか?

自信はなかった。

 

 



 

誰かに呼ばれたような気がした。

「ん?」

土方はぼたぼたと額から流れ、目に入る雨をぬぐって辺りを見回した。

(ありゃあ……)

山口だ。山口一がいる。

小千谷ちぢみの着物を着流しに着て、涼しそうな薄い藍ねづの麻の絽半衿を付けている。

夏の暑さを感じさせない、背筋をぴんと張った涼やかな佇まいで、雨宿りをしているのだろう。軒先に佇んでいる。

目が合った。

その瞬間、ぱっと目を反らし土方は己の姿を鑑みた。

全力疾走したせいで乱れた髪。

雨にぐっしょりと濡れ肌に張り付いた着物――あまりのみすぼらしい自分の姿にため息が出る。

いくら年下とはいえ、山口は土方の憧れの武士そのものだったから、彼の前では格好をつけていたかったのに。

(何てこった……!)

雨を呪っても仕方がない。

このまま気付かない振りをして通り過ぎようか?

(ダメだ。んなこと、できるわけがねぇ……)

逃げたりしたら、次にどんな顔をして会えばいい?

しっかりと目が合ってしまったのだ。言い訳などできるわけがない。

土方は迷いを振り切ると、しぶしぶ山口のいる軒下へ入った。

「よ、よぉ……」

目が泳ぐのは羞恥ゆえだ。

土方は帯に挟んでいた着物の裾をささと整えると、袖を絞った。

 

目の前に手ぬぐいが差し出される。

「――悪いな……」

一瞬逡巡したが、土方が手を伸ばすと、

「いや」

山口はほっとしたように呟いた。

 

 

 



 

それからどれくらいの時間がたっただろう。

二人は僅かな間を空けてぼんやりと立っていた。

少し――雨脚は鈍くなってきただろうか?

通りにはいくつもの水溜りができ、無数の波紋が浮かんでは消え、消えては浮かび複雑な円紋を描いている。

道の端では、雨を喜ぶように蛙がやかましく鳴いていた。

(……困った)

山口は空を睨みながら、ポツリと思った。

何を話せばいいのだろう?

道場ならば、こんなに意識することはないのに。緊張に、喉が引きつりそうになる。

焦れば焦るほど、鼓動は早くなり息苦しくなってくる。

 

(参ったな……)

土方は雨に張り付く衿元を乱暴に肌から離すと、ぱたぱたと扇いで風を送った。

(話題が見つからねぇ……)

無口な山口と二人きりになって、何を話したらいいのかわからない。

どんなことを話せば、興味を持ってくれるだろうか?

(……やっぱ、刀か?)

そうは思っても、自分には語れるだけの知識はない。

土方はあえて山口の方は見ず、そわそわと屋根から落ちる雫を睨みつけて口をへの字に曲げた。

山口は山口で、腕を組んで話題を探して黙りこくっている。

もとより無口な彼に、気の聞いた台詞が思い浮かぶはずもなく

早く雨がやめばいいのに……。

二人は同時に同じことを思い、そっとため息をついた。

 

 



 

「まぁったく! 何やってるんさね! あの二人は!」

伊庭はやきもきして机をドンと叩いた。

土方と山口は知らなかったが、向かいの茶店には沖田と伊庭がいたのだ。

娘たちが騒いでいると思い何気なく外を見たら、そこに土方と山口がいたのだ。

 

二人はまさか自分たちが見られているとは思ってもいないのだろう。見ているこっちが恥ずかしくなるくらい、互いを意識してそわそわとしている。

山口のとは違って、土方のは憧れから来るそれだとわかってはいたが――少し不愉快だった。

伊庭は、可愛らしいと評される整った顔立ちに、ぷりぷりと怒りを浮かべ怒っている。

沖田はまぁまぁと笑って彼の皿に自分のダンゴを分けてやると、仕方がないと言うように呆れた顔を作って言った。

「まぁまぁ、八郎。あれはアレで一も頑張ってるんだから」

「頑張ってる!? あれで!? っていうか、頑張って欲しくないけどさ……」

「まぁ、そりゃあ、土方歳三親衛隊長の私としても、同じ気持ちだけど……」

「は!? ち、ちょっと待つさね! 誰が親衛隊長だって? 誰が?」

「私だけど?」

「いやいやいや。隊長はオイラでしょう、オイラ!」

これだけは譲れない、というように伊庭が身を乗り出して自分を指差す。

沖田は面倒くさそうにす、と目を反らすと

「まぁ……一じゃないことだけは確かだね」

「……確かに」

二人は格子窓の向こうで、ぎこちなく何事かを離す二人を見てため息をついた。

あのへたれ……。

 

二人にそう思われているなど夢にも思わない山口は、ぎこちないながらも何とか会話を続けることができ、目元を柔らかく綻ばせ喜んでいた

 

 



 

【おまけ】

 

「あ! そうだ! ねぇ八郎。傘を借りて持っていってあげようよ! 一本だけ」

「一本だけ?」

「そう! 茶店で一本だけ借りて、土方さんが誰の傘に入るのか、賭けるってのはどう!?」

自分たちはちゃっかり傘を持って出てきていたから。借りるのは一本だけでいい。

暗に自分の傘にこそ土方さんは入ってくれるはず!

自信を覗かす沖田の挑発に、伊庭の対抗心にも火が付いた。

「……なるほど。そいつはおもしろそうさねぇ。負けたほうは次の甘味を奢るってことで! ついでに勝った方が親衛隊長ってことで!」

「りょーかいっ!」

甘味仲間の沖田と伊庭は顔を見合わせてニヤリと笑うと、沖田は店員を呼び止めた。

 

 

沖田と伊庭の姿を見つけた山口が鯉口を切るまであと三分。

伊庭と沖田はそれをものともせず、にこりと無邪気な笑みを浮かべると傘を差し出し、茶店からは娘たちの黄色い悲鳴が聞こえた。

 
 

 

2010.7.22

 


お題はこちらからお借りしました。