おにいちゃん と おとうと 1。

土方為次郎



土方為次郎 土方家の中で誰が一番剛胆か、と言えば。

それは長兄為次郎だった。

嵐の日にいなくなった、と家人が青くなって探してみれば。

本人は川を泳いでこっちに渡ってきて、

「どうした? 何かあったのか?」

などと涼しい顔で、絶句する弟達に言ったり。

「目さえ見えれば、畳の上では決して死なぬものを……」

と口癖のように言う、肝の据わった男だった。

 

武士になる、という歳三を一番応援したのも彼である。

10人兄弟の長兄で、歳三とは年も大きく離れていたが。

歳三はいつも憧れの眼差しで、このどこか浮世離れした長兄を見ていた。

長く艶やかな髪を肩に垂らし、薄暗い一室に座って太棹を弾く。

障子に庭のしだれ梅が、影になって写っている。

幼心にも、綺麗な兄だといつも思っていた。

静かで無口な兄。

しかし身体の中には、誰よりも激しい血が流れていることを歳三は知っている。

 

土方家の中で、一番剛胆なのは長兄為次郎だった。

いつもしゃれた絹の着物を纏って、背筋をピンと伸ばしている。

暗い天井目掛けてまっすぐに伸びる、香の細い煙。

涼やかな目は、いつも閉じられていたが。

時折じ、と向けられる深いまなざしに、歳三は

「見えているのではないか?」

と背筋を正されるものだった。

 

 

しかし、今日ばかりは。

その全てを見透かすような、深い灰色の瞳は固く閉じられ。

「為次郎兄ぃ」

まだ前髪を残した幼い歳三は、つまらなそうに為次郎に声を掛ける。

「兄ぃ?」

そこにはいつもの格好いい兄はおらず。

掛け布団のはしから、わずかに乱れた黒髪が覗くだけ。

長身を窮屈そうに折り曲げ、蒲団に縮こまる為次郎の上にどっかりと馬乗りになると、歳三は掛け布団を剥がそうと腕に力を入れた。

「やめろ! 歳!」

「なんだよ! 何で雷なんかが恐いんだよ!」

為次郎は雷が大の苦手だった。

尊敬する長兄の情けない姿を見ていられなくて、歳三は蒲団から兄を引きずり出そうと躍起になるが、為次郎は力一杯蒲団にしがみ付いて離れない。

外はビカビカと稲妻が走り、激しい夕立が降っている。

まだ夕方前だと言うのに、部屋の中は行灯をつけなければならないほど暗い。

「為兄ィってば!」

ぐっと力を入れて、今度こそは蒲団を取った!

と思ったが……。 端から為次郎の大きな足が覗いただけだった。

「ぅわッ!?」

「ッツ!!!」

すぐ近くで雷鳴が轟き渡り、そのあまりの凄まじさに歳三も驚いて声を上げる。

為次郎はびくりと身体を震わせて、手足を固く縮こまらせた。

「兄ィ……」

がくりとうな垂れて、歳三が唇を尖らせる。

情けない。 雷さえ苦手でなければ、自慢の兄なのに!

もうこんな情けない姿を見ていられなくて、歳三はため息をつくと蒲団の隙間からごそごそと中へもぐりこんだ。

「うォッ!?」

為次郎が驚いて、蒲団を押さえようとする。

しかしそれより早く、歳三は身体をすっかり布団の中に入れてしまうと、

「へへへ」

甘える様に小さく笑って、為次郎の大きな背中に引っ付いた。

「歳?」

「暇だ! 為兄ぃ」

「俺は暇じゃない」

「だって寝てるじゃねーか!」

「これは寝ているんじゃない。横になって句を捻っているんだ」

「雷の句?」

「ぐッ!」

からかうような歳三に、為次郎は悔しそうに歯軋りをすると、弟はおかしそうに声を上げて笑った。

「だぁいじょうぶ! 俺がいるからよ!」

今まで、家の中で一番年下だったのに。

一気に長兄を追い抜かして一番年上になったような気がして、歳三は得意そうに笑うと、小さな手でポンポンと為次郎の逞しい肩を叩いた。

年の離れた弟の生意気な言動がおかしい。

為次郎は背を向けたままこっそりと笑うと、身体から力を抜いた。

外は相変わらず激しく雨が降り、雷が鳴っていたが。

為次郎はクルリと寝返りを打って、歳三を腕に抱えると。

自分は雷を恐がっているんじゃない。

弟を雷から守ってやっているんだ! という心地がして、腹が据わった。

歳三は歳三で、兄を安心させようと腕を一杯に伸ばして、髪をぐしゃぐしゃに撫でてくる。

為次郎の深い眼差しに浮かぶ笑みを見つけて、歳三も嬉しそうに笑うと。

「大丈夫だ」

二人の声がハモって、兄弟はくすぐったそうに声を上げて笑った。

為次郎が大きな手で歳三の小さな頭を撫でてやると、

「為兄ぃ、いい匂いがする」

歳三は甘えるように胸に鼻を摺り寄せてきた。

兄の着物に染み付いた香の匂いに包まれて。

抱き寄せられているぬくもりに、だんだんと瞼が重たくなってくる。

歳三は欠伸をすると、すぐに小さな寝息を立て始めた。

「まったく。おまえには敵わないな……」

起こさないように小さく呟いて、くしゃりと弟の髪をなでると。

為次郎も安心したように目を閉じた。

 

 

「おい、歳三はいたか?」

悪戯っ子の姿が見えなくなって、喜六夫妻が屋敷中を探し回っているのも白河夜船。

探していないのは、あとこの部屋だけだ!

「――為次郎義兄さん」

喜六の妻なかは、為次郎の部屋の障子を開けて、あと声を上げた。

「見つかったか?」

「ええ……それが……」

歯切れの悪い妻に、次兄喜六が首をかしげて中を覗いてみると。

まるで親子のように為次郎と仲良く眠る歳三を見つけて、

「仕事をほったらかしにして、どこに行ったかと思えば……」

喜六は呆れたように呟いて、なかと顔を見合わせてそっと障子を閉めた。

いつのまにか夕立はやんだらしい。

あれほど激しかった雨音は、もう聞こえない。

ただ。 アジサイの葉から、一粒。雨の雫が滴り落ちる影が障子に映った。


空には虹が掛かっていた。  

 


2006.8.27