何かの拍子に、ふと思い出すことがある。 常は忘れているのに。いくつかのキーワードが揃った時、鮮明に脳裏に蘇るのだ。 近藤にとってそれは、土方歳三に初めて会った時のことだった。
蒸し暑い夏の日―― 水の音―― 不快なはずの湿気 泥の匂い
一つ思い出せば引きずられるように、次々にいろいろなことを思い出し、当時の切ない気持ちと共に雨の匂いまでもが鮮明に蘇ってくる。 脳裏に鮮やかに蘇った幻に、近藤はハッとして目を見開いた。 (そうだ、あれは夏の日の事だった……) 近藤は隣で夕涼みをする土方の横顔を見て、ふと少年の頃を思い出すと――懐かしさに眦を下げて目を細めた。
つま先で遊ぶ水の音
あれはそう……まだ十代の初めの頃だっただろうか。 自分がまだ勝五郎と名乗っていた頃のことだ。
土方は忘れているだろうが。近藤は佐藤彦五郎に彼を紹介される前、土方に会ったことがあった。
何の用があって行ったのかはもう忘れたが……。 日野へ向かう途中、夕立に降られたことがあった。
ザンザンと音を立てて降る雨に、近藤は目を開けることもままならず、腕を顔の前にかざしてぬかるんだ道を走りぬけていた。 蒸し暑い湿気がモワリと体を包み込み、尻ひっからげて走る足に容赦なく泥水が跳ね上がる。 せっかく整えた髪はずぶ濡れになり、近藤は首筋を伝って流れる雨に不快そうに顔をしかめた。
ひどい雨の音に消され、他の音は何も聞こえてこない。 鼻を突くのは濃い雨の匂いばかり。 (遠雷が聞こえる……) 雨はますますひどくなるのだろう。 このまま雨の中を走っていくこともできず、近藤は狭い視界の中、数対並ぶ地蔵を見つけると走るスピードを緩めて辺りを見回した。 確かこの近くに神社があったはずだ。 (軒先を借りよう) 古びた神社を見つけ、急いで鳥居をくぐりぬけ、扉を開け放つ――!
フワリ――
きしんだ音を立てて開いた扉の中から、埃とカビの匂いに混じって供え物の日本酒の香りが漂ってきた。
遠雷がだんだん近づいてくる。
社殿の静謐な雰囲気に、近藤は幾許か逡巡したが、意を決すると中に入って扉を閉めた。 昼間だと言うのに――扉を閉めた瞬間暗くなった室内に、不思議な心地がする。 ともあれ、ここでしばらく雨宿りをしていれば夕立も直に通り過ぎるだろう。 社殿に入った瞬間、ばらばらと大きな音を立てて屋根を打ち付け始めた雨に、近藤はほっと息をついて着物の裾を絞った。 (助かった――) 一心地をついて辺りを見回す。 その時になって、ふと太鼓の陰に隠れるようにたたずむ人影を見つけて、近藤はぎくりと肩を跳ね上げた。 いつからいたのだろう? (誰もいないと思ったのに……) 彼も自分と同じく雨宿りをしているらしい。 静かな――まるで空気に溶け込むようにひっそりと。年端の行かぬ少年が外を眺めている。 その闇に紛れる社殿の中、そっと遠慮がちに光の当たる姿の何と美しいことか。 「――あ……」 近藤は少年に話しかけようとしたが、彼の独特な雰囲気に飲まれ、もごもごと口を動かして、仕方なく閉じた。 話しかけようにも言葉が見つからない。 挨拶をする? (いや……) 彼の雰囲気がそれを許さない。何よりこの現実感のない少年に、ひどくそれは不釣合いに思える。 (まるで人形のような……) 端正な面持ちの少年は、大きな瞳をこちらに向けることなく静かに雨に耳を傾けている。 自分が今いるのが神社の拝殿だからだろうか? 少年がひどく神聖なもののように思えて、近藤はぽかんと口を開いたまま彼を凝視していた。
子供特有のふっくらとした頬。 長いまつげについた水滴が瞬きをするたびにふるりと震えている。 格子戸の傍に立つ少年の向こうに、雨に揺れる椎の木の葉が見える。
濃い緑、苔の匂い。 時が止まったようだった――
少年は何を思っているのか(息をしているのか)ひそりとも動かずにいる。 じっと少年を見つめている近藤は、なぜか――急に息苦しくなって胸元をきゅと握り締めた。 自分の息でその空気を壊してしまうのがもったいない気がして……心地よい緊張に息をじっと潜める。 トクトク―― いつもよりほんの少しだけ鼓動が早くなる。 身体は雨に濡れて、いくら夏だとは言え肌寒くならなければいけないのに。 ……頬が、熱くなる。
今思えば―― あれがきっと恋に落ちた瞬間だったのだろう。 結局その少年は雨が小降りになった途端、さっさと外に飛び出してしまい名前を聞くこともできなかったが……。
目に焼きついた横顔は決して褪せることなく、ずっと近藤の心に眠っていた。 (あの頃は、もう一度会いたくて我武者羅になっていたな……) 用もないのに何度も日野を訪れては、彼の姿を探して落胆する。 それから何年も経ち―― 探すのを諦めた頃。彼を紹介されたのだ。
瞬間――! あの雨の日が鮮やかに蘇った!
「土方歳三」 少年の名前を知った喜びに、何度も心の中でその名を繰り返す。 「土方歳三」 名を知った瞬間、幻は実像となり手を伸ばせば届く人間となった。
(だけどどうして、まだこんなに緊張するんだろう?) 紹介されてこんなに嬉しいのに。 以前とは違う緊張感に襲われ、うまくしゃべることができない。 結局一言二言しか言葉を交わすことができず、近藤はひどく落ち込んだ。
(あの頃はまさか、こんなに口の悪いバラガキだったとは、思いもしなかったな……) 近藤は口元を緩めると、小魚を追ってバシャバシャと水を蹴って遊ぶ土方を、感慨深げに眺めた。 口が悪くて、短気で天邪鬼で。 知れば知るほど、第一印象から遠く離れていくけれど―― それら全てが愛おしくて…… 新しい一面を知るたびに、深みにはまっていく自分がいる。
(俺がお前をこんな目で見ていると知れば、お前は何と言うんだろうな……) 言えば彼はどんな顔をするのだろう? 傷つくのだろうか? それとも、真っ赤になって焦るのだろうか? どちらにしろ。この関係を壊すのは忍びなくて―― もう少しこの関係に甘えていたくなる。 (だってそうだろう?) 土方が甘えた顔を見せるのは、彼の家族以外では自分だけなのだから! こんな素晴らしいポジション、どうしてみすみす手放すことができるだろうか?
蒸し暑い夏の日 川のせせらぎ、水の音―― どこからか聞こえるヒグラシの声。
あの頃と違って、自分も彼もずいぶんと大きくなったけれど。 やっぱりあの頃の面影は、自分たちの中に確かにあって――
懐かしそうに目を細めた近藤は、顔に水をかけられて 「ぶッ……!」 あわあわと慌てて、歳三を見た。 「なぁに黄昏てんだよ! 勝っちゃん!」 慌てる近藤の姿がよっぽどおかしかったのか。 悪戯が成功した子供のよう土方は楽しそうに笑っている。 近藤はムッとした顔をして土方を睨みつけると、呆れたようにため息をついた。
前言撤回! 自分があの頃を忘れられないのは。 彼が子供のままだからだろう! いくら図体が大きくなったとはいえやっぱりガキのまんまの土方に、近藤はぐっしょりと濡れた前髪をかきがえると苦笑した。
After all , I fall in love to you every day!
あの日の少年の幻を、やっと今手に入れることができた。 だからもう少しだけ――特別な関係になるまでの過程を、楽しんでいたい。 穏やかな夕日に照らされた近藤は、土方を見て満足そうに目を伏せた。
すんごい何回も書き直したけど、これが今できる精一杯…… 初対面ではだいぶ年下だと思った近藤さんですが、あとで一個しか違わないと知って愕然とするのですよ! 土方さんは子供の頃小さいイメージで、近藤さんは子供の頃から大きいイメージがあるのです! あー……なんか、やっぱちょっと不完全燃焼感がたっぷりと……ある、なぁ…
2009.10.4
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