○ それからしばらく経った、暑い日の午後のことだった。 私が源さんに頼まれていた草むしりをしていると、玄関の方でバタバタと慌しい音が聞こえ、次いでせっかちに扉を叩く音が聞こえてきた。 (え、な、何?!) 力いっぱい叩きつけられるその音に、ビクリと肩が飛び跳ねる。 私のいるこの場所から、玄関の方は庭木が目隠しをするように邪魔をしていて見えない。 私はしゃがんだまま恐る恐る体の向きをそちらに変えると、息を殺して耳を澄ました。 「おい! おい! 誰かいねぇのかい!」 巻き舌気味の年配の男の人のしゃがれた声。 威勢のいい――というよりどこかドスの利いたようなその声に、私は今度こそ体をビクリと飛び跳ねて、ぺたりと尻餅をついた。 だ、誰だろう? 聞いたことのない声だ。 あまりの勢いに何だか怖くなってくる。 (ど、どうしよう……!) こんなときに限って源さんもいないし、近くの田畑にも誰の姿も見えない。 玄関先にいるのはどうやら一人らしい。 もし他に何人も連れ立っていたら、きっと私はそのまま逃げていただろう。 だが、相手は一人だ。 だから。 私は額に汗を浮かべて、じっと息を殺して様子を伺っていた。 もしかしたらこのまま見つからずに、誰もいないと諦めて帰ってくれるんじゃないか、と僅かな期待を込めて。 男の乱暴な仕草に、今まで囀っていた雀も一斉に沈黙した。 じっとりと肌にまとわり付く湿気のせいだけでなく、背中にどっと冷たい汗が浮かぶ。 江戸っ子と言う感じのせっかちな巻き舌口調。 乱暴な物言い。 ど、どうしよう……。 絶対怖い人だよ! どうして、こんな人が家に来るんだろう? ハッ! も、もしかして林太郎さんが何かした? 林太郎さんは千人同心だから、よくわからないけど……警備とかしてるんだよね? じゃあ、彼が捕まえた人の仲間が、お礼参りに来たとか? それとも――私の知らないところで借金が膨れ上がってて、家を取りに来た、とか……? 最悪な想像が頭をよぎり、ドッドッと心臓の鼓動が速くなる。 私は恐怖に駆られ、ゆっくりと立ち上がると、そろりと後ずさりした。 こんな所にいたら見つかっちゃう! 早く隠れないと! そこにいる人が借金取りであれ、仲間を捕まえられて逆恨みしている人であれ、今の私では太刀打ちできない。 私は庭木に隠れる玄関のほうを見ながら、後ろ向きで慎重に後ずさっていたが、 「あ!」 私の草履の下で、小石が鳴った。 思ったよりも大きなそれを踏んづけて、ぐらり体が不安定に傾く。 慌てて蹈鞴を踏んで反対側の足に力を込めたが、 (しまった!) 足を置いた場所が悪かった。 水を入れた桶の中に思い切り足を突っ込んでしまい、今度こそ勢い良く身体が倒れる。 ガタガタガタ、立てたくもない大きな音が響き、私はどぅと音を立ててすっ転んだ。 「あぁッ! っつぅ……!」 泥だらけの手からボロボロと折角抜いた雑草がこぼれる。 「い、たぁ……!」 うう、変な方向に身体をねじったせいで、足に力が入らない。 すぐに逃げなきゃいけないのに! 立ち上がることもできず、私は痛みに涙を浮かべて血の滲む膝小僧を睨んだ。 「……坊主!」 「ヒッ!」 しまった! 慌てて口元を押さえても後の祭りで。 玄関にいた男にも物音が聞こえたんだろう。 その人は、足音荒く走ってくると、私の前に立って迫力のある目でじろりと私を睨み降ろした。 こ、怖い! 緊張に背筋がピンと伸び、私はからからに乾いた喉をゴクリと引きつらせた。 どうしよう、どうしよう!? もはや逃げることも隠れることもできず、私はただ真っ青な顔でその人を見上げていた。
2010.6.16
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● 頬に傷のある男
「こんな所にいやがったのか! おう、坊主。何してる? お前一人なのか? 父ちゃんはどうした?」 男は矢継ぎ早に言って、私の返事を待つようにじろりと鋭い目を細めた。 良く通る大きな声に、巻き舌気味の早口。 それだけでも迫力があるのに、中肉中背のその人は、初老にしてはがっちりと筋肉まで付いている。
ど、どうしよう?
サァっと血の気が引くのがわかった。 もしかしたら、本当に林太郎さんが捕まえた人の仲間が、お礼参りにきたのかもしれない。 全身の毛穴と言う毛穴から、ぶわっと汗が噴出した。 鼓動が早くなり、緊張に喉がカラカラになる。
一人かって聞かれて、はいそうですなんて言えない! 言ったらどうなるのかわからない! 後ずさろうとして地面を引っかいたが、腰が抜けているのか悪戯に地面に爪の跡を引くだけで、私の体はちっとも動いてくれなかった。 ううん違う。 腰が抜けてるんじゃない! 足が動かないんだ! 私はぎょっとしてジンジンと痛む足を見た。 何だか熱を持ってきたような気がすると思っていたら、あ、足が紫色になってきている……! な、何これ!? 何これ!? 何で!? あ、足、お、折れちゃったのかな!? 私はパニックになって、男の存在も忘れて震える指で足を触った。 私の足はこの短時間で見たこともないくらいに腫れている。 そこだけぼっかりと膨れて、自分の足じゃないみたいだ! どうしよう! 怖いよ! 「……ふぇ……」 目から涙がこぼれた。 こんな時に誰もいないなんて! どうしよう! こんな時代じゃ整形外科だってない。 うちはお金もないから、お医者に掛かることもできない! 「おい!」 突然泣き出した私を見て、さっきより幾分か大人しい声が聞こえた。 そうだ。 今はこの人がいるんだった! は、早く追い返さなくちゃ! もし姉さんたちが鉢合わせたらまずい。 泣いてる場合じゃない! 私は慌てて腕で目をこすると、キッと男を睨みつけた。 男はさっきよりは威勢をなくした様子で、どことなく……私の気のせいじゃなかったら、どことなく心配そうな顔をしている。 あれ……? 私はもう一度目をこすると、男の顔色を伺った。 やっぱりそうだ。 さっきとちょっと雰囲気が違う。 も、もしかしたら……そんなに怖い人じゃない、のかな? い、家に誰もいないって言ってみようかな。 そうしたら帰ってくれるかな? 男の顔には、額から頬にかけてざっくりと傷跡がある。 私はゴクリとつばを飲み込んだ。 だ、ダメだ。 やっぱり怖い! 一人だって知られたら、何をされるかわからない! 体の震えが止まらない。 どどど、どうしよう! どうしよう!!! こんなときに限って、源さんもいない。 ダラダラと汗をかきながら考えていると、その人が目の前でしゃがむのが見えた。 ビクリと肩を跳ね上がった。 わ、私が何も言わなかったから?! もしかして怒った!? 男はヤンキー座りをして私を見下ろしている。 怖くて怖くて、半ばパニックになりながら、お尻をつけたまま後ずさろうとしたが、足に痛みが走り私はヒュっと息を飲み込んだ。 どうしよう! 立ち上がれない! 怖くて助けを求めるように顔を上げた私の視界に、男の腕が飛び込んできた。 「ヒッ!」 何をされるのかわからず、体が硬直する。 成すすべもなく、私はギュッと目を閉じた。
瞬間襲ったのは激痛! 男が力の加減もせずに、私の足を掴んでいる! 掠れた悲鳴を上げた、と思ったがあまりの痛みに声にならず、私は鋭く息を吐いた。
「……骨は折れちゃいねぇようだな」 「…え?」 「……一人で畑に水をやってたのか?」 「う、うん……」 男が手を離す。 私は、びくびくしながら頷いた。 な、なんなの? い、痛いことをされたけど……言ってることは、あまりに普通で。 ちょっと拍子抜けする。 だけど。油断なんかするもんか! 私はじりじりと男から距離を取ると、震えながらそっと男を伺った。 この人……一体何? 顔は怖いけど、言ってることは怖いことじゃなくて……。 だからこそ、男の意図がつかめなくて気持ち悪い。 私が戸惑っているのがわかったのか、男は唐突に私の頭をガシリと掴んで揺するように撫でた。
私は今度こそ口をぽかんと開けて、男の顔を凝視した。 男っぽい太い髷にねじり鉢巻。 時代劇によく出てくる、め組みたいな法被を着て、その上から帯をギュッと締めている。 年齢は……50後半からいっていたとしても60半くらいだろうか。 眉間に深く刻まれた皺に私はビクリとしたが、男は自分の顔が怖いと自覚しているのだろう。 苦笑いして誤魔化すように私を腕に抱き上げた。 「う、わ!」 ひょいとあまりに軽々しく持ち上げられ、慌てて男にしがみつく。 男はそのまま何の躊躇いもなく玄関をあけると、土間にそっと私を降ろして辺りを見回した。
「おい! 厨はどこでぇ?」 「く、厨?」 って台所? そんなところに初対面の人が、一体何の用事があるの!? 困惑してオドオドと男を見上げると、 「焼酎はあるのか?」 凄みのある声が振ってきた。 しょ、焼酎!? 私は慌てて頭を振った。 うちにそんなぜいたく品、あるわけない! そもそも、何で人の家に来て、酒を飲もうとするのよ!
やっぱり怖い人なのかもしれない……。 大人が帰ってくるまで、飲んで待ってようってこと!? 私は着物をギュッと握って、今度こそ後ずさった。 「おい!」 男は気が短そうに返事を急かしたが、私は涙目になって必死で頭を振った。 男が苛立たしそうに舌打ちをする。 どうしよう! どうしよう! こんな時どうしたらいいのかわからず、私はただただ目を見開いて男の動向をうかがっていた。
どうしよう! 家に入られちゃったよ! ← ↑ → 2010.6.30
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それから男は何も言わない私に焦れたのか、勝手に家捜しを始めた。 盗られる物は何もないけど、正直気持ちのいいものじゃない。
男はややあって私のところへ戻ってくると、難しい顔でこう言った。 「おい、おめぇこの家は一体ぇどうなってんでぇ?」 「え?」 「勝次郎さんはどうしてる?」 また父の名だ。 ということは、この人はやっぱり父の知り合いなのだろうか? 恐々男を見上げてみる。 父は生前武士だった。目の前の男は……どう贔屓目に見ても堅気には見えない。 私のもの言いたげな視線にやっと気付いたのか、男はああ、と呟きを漏らした。 「この坊主め、警戒してやがったな。安心しな! 俺は昔おめぇさんの親父さんに世話になったもんだ。大野の名前くれぇは聞いたことがあるだろぅ?」 申し訳ないけど…… 少し躊躇った後、思い切って頭を振ると、その人は 「そうかィ」 と言ってもう一度家の中を見回した。 そっか……。 どういう関係かはわかんないけど……父さんの知り合いなら、変な人じゃないだろう。 あれ……? でも、それじゃあ父さんが亡くなったってこと、言っといた方がいいのかな? 私はじっとその人を下から見上げた。 父さんの知り合いっていう目でその人を見たら、今までの言動も私を心配しててくれたんじゃ、って思えるから不思議だ。 顔に大きな傷があったし……乱暴な口調だったから。 怖い人だって思っててごめんね! 心の中で謝りながら父のことを伝えると、その人は驚いたように目を見張って、父を追悼するように眉間に皺を寄せて目を閉じた。 「そうかィ……もっと早くに知ってりゃあな……ご内儀はそれじゃあ、さぞかしご苦労されたことだろう」 「あ、母さんも……」 父さんが亡くなって後を追うように儚くなってしまったから…… そのことを思い出してしょんぼりと言うと、頭の上にゴツゴツとした大きな手がのった。 父さんのものとは違う――だけど大人の人のがっしりとした掌に、ふいに―― 父さんに撫でられた時のことを思い出して―― 胸に寂しさとか懐かしさとか……暖かくて泣きたくなる位嬉しいって気持ちが、ふわっと押し寄せてきて、私は慌てて唇を噛んで俯いた。
父さんと母さんのこと、ちゃんと割り切ったつもりだったのに……。 まだダメだったみたいだ。 哀しくて寂しくて。初めて会った人の前で、泣きそうになるなんて…… バツが悪くて照れくさくて真っ赤になった私を見て、その人は柔らかく目元を綻ばせて、安心させるように微笑んだ。
2010.7.9 2010.7.24
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思わぬ申し出
それからしばらく、思案するように、その人は腕を組んで難しい顔をしていたけれど。 「おい坊主。この家にゃぁ、オメェと他に誰が住んでるんでェ?」 私の顔を覗き込んで、思い切ったように口を開いた。 「……みつ姉さんと、きん姉さんと、お婿さんの林太郎さん」 別に隠すようなことじゃないし、素直に答える。 「……姉さんっつっても、まだ年端もいかねぇ小娘じゃねぇか……」 姉さんには会ったことがあるんだろう。 思い出すように言って、大野さんが唸った。 「う、ん」 確かにそうだけど……。 でも! 姉さんは、平成時代の14歳とは比べ物にならないくらい、しっかり者だし、朝から晩まで身を粉にして働いてくれている。 あまり、姉さんのこと見くびらないで欲しい。
口には出さなかったけど、その思いが顔に出たんだろう。 大野さんは苦笑すると、私の頭を乱暴に撫でた。 「そう怒るな。別に、オメェの家族を悪く言うんじゃねぇが、この家に焼酎も薬もねぇのは事実だィ。……それだけならまだしも、オメェら今日食う物にも事欠く生活をしてるんじゃねぇのか ィ?」 私は答えられなかった。 それでも! それでも、私たちは幸せだったから……。 いつもお腹はすいていたけど……。 大切な家族と身を寄せ合って生きている。それだけで満足だったから。 何も知らない他人に、私たち家族のことをとやかく言われたくない! 着物を握り緊めて、唇を噛む。 もっと私が大きければ……。 私が役に立てば、姉さんたちの助けになることができたのに。 そうすれば、こんなこと言われることもなかったのに。 悔しかった。 私は、大野さんが私をじっと見ていることに気が付かず、自分を責めて足先を睨みつけていた。
ややあって、大野さんが組んでいた腕を解いた。 「よし!」 急に大声を出されて、ビクリ、私の肩が揺れる。 「俺が今日ここに来たのもなんかの縁だ! おい、坊主! オメェ今日から家に来い」 大野さんは名案だとばかりに、パシリと太腿を叩いてそう言った。 「えええッ?」 思ってもみなかった申し出に、心底驚いて私は素っ頓狂な声をあげた。 「とりあえず、手当てもしなきゃならねぇしな! 足の骨は折れちゃあいねぇが、放っといていいモンでもねぇ。 家に来りゃあ、手当てができる! なぁに、心配なん ざしなくても、後で家から使いのモンをよこして姉さんたちに言付けてやるからよ!」 大野さんはそう言うと、ひょいと私を持ち上げて肩車した。 「う、うわぁ!」 いきなりのことに、バランスを崩しそうになって慌てて大野さんの頭にしがみつく。 悪い人じゃないっていうのは、わかったけど! 私の意見は聞いてくれないの!? 「おろして、おろして!」 ダメだよ、勝手にどっかに行くなんて! 姉さんたちが心配する! それに……私、まだ完全に信用したわけじゃないんだからね! 大野さんのこと! 大野さんは私が落ちないよう、年齢のわりに逞しい腕でしっかりと支えてくれている。 けど! 私は行かないんだから! 私は降りようとして暴れた。 ダメだよ! 私は行けないよ! 母さんが死んだときのことがフラッシュバックする。 私が急にいなくなったら、姉さんたちきっとパニックになって探し回るよ! 降りなきゃ! 私はここで、姉さんたちの帰りを待ってなきゃいけないんだから!
あんまり暴れすぎたのだろう。 元々気が短いらしい大野さんの額に、見る見る内に青筋が浮かぶ。 あ、と気付いたときはすでに遅く、 「手当てが終わったら、姉さんたちを呼んでやるから! 大人しくしてやがれ!」 凄みのある声で一喝され、 「ひぃ!」 私はすくみあがった。
私が大人しくなったことに満足したんだろう。 「……うちにゃあ、よく利く薬がある。そいつを飲みゃあ、こんくれぇの怪我、すぐに治るからよ。ちっと大人しくしてろィ」 大野さんが、私の足をぺしぺし叩きながら、あっけらかんと言った。 そ、そこ! 傷口! 悶絶する私を見て、大野さんは大口を開けて笑うと、意外と丁寧な手つきでドアを閉めて、沖田家を後にした。
ど、どうしよう! 結局、連れ出されちゃったよ! 逃げようにも、しっかり押さえつけられているせいで逃げられない。 今はこの人の言うことを信じて、一緒に行くしかないのかな……。
ねぇ、これって本当に誘拐じゃないよね!?
2010.10.24 |
「いい薬がある」 そう言って差し出されたのは、なんと石田散薬だった! えええっ!? な、何で、大野さんがこの薬を持っているの!? これって、土方さんが売ってた薬だよねぇ!
さよなら
あれから大野さんの家に連れてこられた私は、彼に手当てをしてもらって、部屋でくつろいでいた。 大野さんは大工の棟梁をしているらしい。 立派な一軒家に住んでいる。
奥さんは、今どこかに出かけていないらしい。 大野さんは奥さんがいないことにぶつぶつ文句を言うと、薬箱を手に自ら私の手当てをしてくれた。 それから、 「ちょっと、ここで待ってろぃ」 と言い残し、どこかに行ったかと思うと、湯のみと石田散薬を手に戻って来たんだ。
思わず驚いて、差し出された薬包紙を凝視する。 石田散薬の見た目は――何と言うか、黒い炭の粉?
こ、これ飲むのちょっと抵抗が……! い、いや石田散薬は私の憧れの薬だけれどもっ! 土方家特製の薬だって思うと、炭も黄金に輝いて見えるけど! いろんな意味で飲みたくない! 飲んでなくなっちゃのがもったいないっ! ひ、土方さんに会えるまで、大事に持っておきたいって、ファンならそう思うでしょ!? (決して、まずそうだなんて思ってないよ! 苦そうだとは思うけど……)
いろんな意味で、手が震える。 だけど大野さんには、私が薬を飲むのを嫌がっているように見えたらしい。 (いや、まぁ飲みたくないのは当たってるけど) 彼は 「貸してみろィ!」 私の手から素晴らしき薬、石田散薬を奪い取ると、ぐいと私のあごを掴んで、無理やり薬を口に流し込んだ! 「む、ぐぐ!」 こ、粉! 粉末が喉に張り付く! むせそうになった時、勢いよく口に酒が流し込まれた。 何これ!? どんな拷問よ!? 吹き出したい。 だけど、大野さんの手で口を押さえられているせいで、吐き出すわけにもいかない。 は、鼻から酒が出そう! 器官に薬が入りかけたのが苦しくて、咳き込みたくてしかたがないけど、飲み込むまで大野さんは許してくれそうにない。 私は目に涙をためながら、こみ上げてくるせきを必死に抑えて、薬を飲み込んだ。
「くはっ!」 い、息できない! 激しく咳き込む私の背中を、大野さんはさすってくれるけど! 軽く、死にかけたよ! 今! うう。 日本酒を一気飲みしたせいで、喉が焼け付くように熱い。 頭が、ぐらぐら揺れ始める! よ、幼児に日本酒はきついからっ!
目の前が真っ暗になった。 私は意識を手放した。
×××
話し声が聞こえた。 あれは――みつ姉さんの声だ。 なんだろう。 何だか不穏な感じ……。 今まで、姉さんが声を荒げたところなんか見たことなかったのに、姉さんは切羽詰ったような声で何かを叫んでいる。 きん姉さんが泣いている……。 何があったの? 必死に姉さんを宥めているのは、林太郎さん。 ここはどこ? どうして、私起きられないの? 頭の中がふわふわして、うまく聞き取ることができない。 だから、姉さんたちがなんで怒ってるのかわからない。
大野さんの声が聞こえる。 私と話していたときとは違う、落ち着いた言い聞かせるような声だ。 その声に、きん姉さんがいっそう激しく泣き出した。 だめだよ! 姉さんを苛めないでよ!
私は皆が何を話しているのか、必死に聞き取ろうとしたけれど、頭がぼんやりと霞んで、何を言っているのか聞き取ることができない。
ややあって、姉さんたちのすすり泣きしか聞こえなくなった。 私は、暗い部屋に一人寝かされていた。 きっとお酒のせいで倒れたんだろう。 まだ脳がはっきりと目覚めていないせいで、体を動かすことができない。 私は、夢と現の間をさまよっていた。 早く起きなくちゃ! 焦れば焦るほど、身体が布団に吸い付けられたように重たくなっていく。 もしかしたら、熱があるのかもしれない。 高熱に浮かされているから、頭の中が熱くてぼんやりしているのかもしれない。
ややあって、林太郎さんの落ち着いた声が聞こえてきた。 今まで聞いたことがないような、硬い決意のこもった声だ。 「宗次郎を、よろしくお願いします」 しっかりとした、威厳のある声に、姉さんたちの泣き声が大きくなる。 大野さんは何て言ったんだろう? 安心させるような、力強い声だった。
それから―― 瞼の裏が、かすかに明るくなった。 襖が開いたんだろう。 誰かが部屋に入ってきた気配がする。 ふわり。 土の匂いと、きん姉さんの匂い袋の香りがした。
「宗次郎」
姉さんたちは、口々に私の名前を呼びながら、腕といわず頭といわず撫でてくれる。 どうして、そんなに哀しい声をしているの? 姉さんたちは感情を抑えきれず、声とともに涙を流している。
「宗次郎」 林太郎さんの声がした。 痛いくらいにぎゅっと手を握り緊められる。 林太郎さんの、固いゴツゴツした指。 荒れた手が――震えている。 骨が折れそうなほどの力で、林太郎さんは私の手を握り緊めると、自分の額に押し付けた。
ああ、そうか。 私は思い出した。 総ちゃんは、家族と離れて暮らしていたんだよね。 家計の苦しさから、口減らしに出された――って、昔本で読んだことがある。 そっか……。 私、もう家に帰れないんだね。 そか……。
私がいなかったら、もう少しおなかいっぱい姉さんたちも食べれるよね。 私のせいで……。 私に少しでもたくさん食べさせようとするせいで、姉さんたちはかわいそうな位に痩せている。 私がいなければ、きっと……もう少し、生活は楽になるよね。
泣かないでよ。 私は、それでいいから、さ。 私の手はまだ小さいから、姉さんたちを守ることができない。 だから、これが最善の方法なんだ。 林太郎さん、どうか自分を責めないで。 姉さん、どうか自分を責めないで。
声を出せないのが恨めしい。
ややあって、林太郎さんは私の手を離すと、姿勢を正したのだろう、衣擦れの音が聞こえ、畳にスと手を付く気配がした。 林太郎さんが、深々と大野さんに頭を下げる。 姉さんたちも、泣くのをこらえ、それにならう。
きっと、朝目が覚めたら、もうそこに姉さんたちの姿はない。 私は、沖田家に戻ることはないだろう。
家に来い。 大野さんがそう言ったのは、手当てをするためだけじゃなくて、家で預かってやるそういう意味だったんだ。
目が覚めたら、新しい生活が始まる。 だけど大丈夫。心配しないで。 私きっとうまくやるから。 こう見えても私、精神年齢は姉さんたちよりもずっと大人なんだから、さ……。
2010.10.31 |