可能な限り君を忘れる努力をしよう

 

水車の音が、絶えることなく聞こえていた。

樋をカツカツと飛び跳ねながら囀っているのは雀だろうか。

総司はふと午睡から覚めると、平和なその音に目元を和らげた。

「平和だなぁ……」

しかし、そのことにひどく罪悪感を感じる。

病で一人、こんな所で休んでいるからだ。

 

総司は病気だった。

甲陽鎮撫隊に途中まで参加をしたものの、気力だけでは体が付いていかず、戦線を離脱することになったのだ。

総司はため息をつくと、退屈そうに部屋の中を見回した。

今はまだ世話をしてくれる老婆も来ていないのだろう。

自然の物音以外は何一つ聞こえない。

「平和なのは良いことだけど……なんだか身の置き場がないな」

総司は布団の上に起き上がると、二三度手のひらを握って体の調子を確かめた。

「うん。今日はだいぶ体が軽い」

この分だと、また近いうち皆と合流できるかもしれない。

ほっと安堵すると、総司はもう一度聞き耳を立てて外の様子を伺った。

(誰もいない……)

ならば、気分転換に少しくらい外に出てもいいだろう。

総司は春の陽気に誘われるように障子を開けると、ゆっくりとした動作で縁側に腰を下ろした。

 

総司は肺を病み、ここ千駄ヶ谷で療養していた。

まさか自分がこんな病になるとは――思いもしていなかったから……。

今でも信じられない思いのほうが大きい。

しかし一日、一日と体力の衰えていく体にひどく焦燥を感じていた。

 

総司はじっと自分の手のひらを見つめた。

こんなにも長い間剣を持たなかったのは初めてだ。

幼い頃からずっと続けてきた稽古も、こうなってはすることができない。

労咳――

不治の病に自分は犯されているのだ。

 

総司は、剣胼胝のある手のひらをぎゅっと握り緊めると、額に押し当てた。

息をする度ひゅ、とかすれる喉に力を込めて。息を細く吐き出す。

――大丈夫、まだ自分は大丈夫。

少しばかり痩せたかもしれないが、きっとまだ剣は握れる。

手のひらの胼胝は、今尚そこで存在を主張しているではないか。手の皮だって柔らかくなってはいない。

力が衰えたなど考えたくはなかった。

ちゃんと食事を取って、体力をつければ。

(また近藤さんたちの元に戻れるようになるはず!)

力強く自分に言い聞かせる。

元より長生きをしようなどとは思ってはいない。命はとうに諦めている。

ただあともう少しだけ、もう少しだけでいい皆の元にいたいのだ。

総司は辛そうに顔をくしゃりと歪めると、もたれていた柱にコツリと頭を預けた。

うつる病のため、いつもは締め切られた部屋は暗く湿っぽい。

ましてやここははなれだ。

人の気配もなく、ぽっかりと切り取られたような空間にいては、体だけではなく心も寒くなってくる。

 

良順の計らいでよい部屋を用意してもらっているとは思う。

しかし寝てばかりいては返って気が滅入り、総司は誰もいないのを見計らってはよく縁側に出ていた。

植木屋を営んでいるこの屋敷は、さすがに本職だけあって美しく整えられている。

丸く刈られた庭木、冬の間可憐な赤い実をたくさんにつけていた万両。

それらの間から、向うの方に商売用のものだろう庭木が土の付いたままたくさん並べられている。

総司は眩しそうにそれらを見ると、新鮮な空気を吸い込んだ。

(ああ、今日もいい天気だ)

こんなにいい天気なのに。

屋敷の外に出られないこの身が恨めしい。

誰にも必要とされず――こんな所で一人朽ちていく身が……悲しかった。

(戦は……どうなったんだろう……?)

鳥羽伏見の戦いは負けてしまった。

もう刀の時代じゃない。土方は酷く悔しそうに吐き出すようにそう言ったが。

(刀の時代は終わっても……)

自分にはもうこれしかない。

生きることを諦めれば、まだ彼らの役に立つことはできる。そう思うのに……。

(こんな所で寝ているしかないなんて!)

総司はギリと唇に歯を立てて、悔しさに顔をゆがめた。

皆は無事だろうか?

仲間たちのことを思うといても経ってもいられず、すぐに飛んでいきたくなる。

気ばかりが焦り、戦線を離れて1月経つといえども忘れることはできなかった。

(近藤さんは無事だろうか? 土方さんは?)

話し相手も折らず一人部屋にこもっていれば、考えることはそれしかない。

気をもんでいては体にも影響するとわかってはいたが……

総司は気持ちを切り替えるように頭を振るとため息をついた。

 

「今日は暖かいですねぇ……」

独り言をつぶやいて、無理やり笑顔を浮かべて庭を見回す。

部屋の中は寒かったが、縁側はぽかぽかと日が差し日向ぼっこに丁度いい。

この分だともう桜は散ってしまったかもしれない。

総司は多摩川の桜並木を思い出して、目を細めた。

「おしいなぁ。きっと見事に咲いていただろうになぁ……」

子供の頃土方と並んで歩いたのを思い出す。

ゆったりとしたせせらぎを渡る渡し舟――足元をまっすぐに飛んでいくカワセミ……。

目を閉じれば鮮明に思い出すことができる。

総司は口元に柔らかな笑みを浮かべた。

 

土方は桜の下を通るとき、必ずといっていいほど眩しそうに目を細めて花を見上げていた。

辺り一面に漂う柔らかな桜の香り。

風にひらひらと花びらが舞うたびに、花を見る人々の口から感嘆の吐息が漏れる。

枝と枝の間に見える山は霞がかっており、山裾は一面菜の花の黄色で埋め尽くされている。

「綺麗なもんだ……」

土方はそう言って必ず、桜の向こう――白々と霞をまとった富士を見て穏やかな表情で口元を和らげるのだ。

 

――帰りたい……

ここから試衛館まで、ゆっくり行っても一時間もあれば帰れる距離だ。

――帰りたい……

試衛館から日野までは、三時間も歩けば行く事ができる。

総司は苦しげに眉根を寄せると、膝を抱え寄せて額をうずめた。

帰っても……そこに近藤も土方もいないのはわかっている。

(だけど……)

そこに行けばあの頃の皆がいるような気がした。

昔のように笑いながら剣を振るっているような気がして――ツンと鼻の奥が熱くなって、総司は震える息を細く吐いた。

(目を閉じれば――こんなにも鮮明に思い出せるのに!)

それが、幻でしかないなんて……!

悲しかった!

苦しかった!

……寂しかった……。

 

ここには――誰もいない。

時々世話をしに老女がやってはきてくれたが……移る病だ。

彼女を長く引き止めるわけにも行かない。

(ああ……)

こんなにも長い間―― 一人になったのは初めてだ……。

垣根の向こう側を、笑いながら子供たちが駆けていく度、耳を澄まして知り合いの声を探した。

総司はもう一度ため息をつくと、小さな猫の鳴き声を拾って

「おや」

と顔を上げた。

「また来たのかい? おまえ……」

見れば植木鉢の影で黒い子猫が顔を覗かせている。

まだ生まれて間もないだろう。片手に乗るほどの大きさのそれは、金色のまん丸の瞳に総司を映して、もう一度甘えるように鳴いた。

愛らしい猫のしぐさに、総司の顔がぱぁっと明るくなる。

総司は長い指を差し出すと子猫を呼んだ。

小さな黒いふわふわは、伸ばした総司の指に顔を押し付けるようにして甘えると、小さな舌でぺろりと指をなめて彼を見上げた。

「ふふ……」

総司はにっこりと笑って、子猫を膝の上に抱き上げた。

膝の上が子猫の体温でぽかぽかと暖かい。

先ほどの鬱々とした気分は子猫のおかげで霧散した。

総司は上機嫌にニコニコ笑うと、

「いい天気ですねぇ……」

空を仰いで目を細めた。

ああ、自分の体がもう少し健康だったなら――

「皆を誘って、お花見に行きたかったなぁ……」

残念そうに口を尖らせて言う総司に同意するように、子猫はにゃぁと鳴くと膝の上で丸くなって目を閉じた。

「そうだね……」

今日はこんなにも天気がよくて暖かいから。

「私も昼寝でもしようかな」

総司はクスリと笑うと、柱に寄りかかって目を閉じた。

 

 

 

2009.10.8