夢を見ていた。

まるで現実感のない、優しく哀しい夢――。

そう、これは夢だ。

だって目の前に見たこともない西洋の森が広がっていて、美しい天使が歌っているんだから……!

 

私、 はそのあまりに美しい光景に、泣きたくなってスカートをギュッと握り緊めた。

暖かな春の日差しに、森のそこここで小鳥がさえずっている。

天使は私がそこにいるのに気が付いていないのか、不思議な異国の楽器をかき鳴らし切々と歌っている。

ふんわりと風に漂うのは、瑞々しい果物の香り。

天使の囁くような小さな声。

だけどその調べは、まるで彼の嘆きを代弁しているかのように悲しく澄んでいて、ぎゅっと心が痛くなった。

 

私は森の木々に紛れるように、そこに立って天使の歌を聴いていた。

まるで滅びゆく国を憂うような、憐憫と哀しみのこもった声。

青色がかった白い翼に、くるくる蜂蜜色の巻き毛。

まるでルーブル美術館に飾られている絵画のように美しい。

ただ一点を見つめる、上品な光を湛えた菫色の瞳は陰り、それがいっそう彼の美しさを引き立たせている。

傷つき、悲しみに打ち震える横顔――だけどその中にほんの僅かな希望を見出し信じている一途な想いを感じ、信仰を持っていない私の心でさえ激しく打ち震えた。

 

歌の意味はわからなかったけど、それはきっと神々に捧げる歌だったのだろう。

人々の幸せを願い 世を悲しむ歌だったのかもしれない。

 

どれくらいそうして彼の歌を聴いていたのだろう。

やがて彼の繊細な指がとまり、森が静寂に包まれた。

今、天使は何を思っているのだろうか?

彼の悲しげな眼差しにつられ、ふと森の奥を見た私はぎくりと体をこわばらせた。

 

木の幹と幹の間に見える、開けた場所――

そこに、真っ黒な泉が見える!?

 

私はぎょっとして息を飲み込んだ。

まるで底がないかのような黒い泉に、ざわざわと恐怖心をかき立てられる。

 

現実感を喪失した景色の中で、異彩を放つ広大な泉――

 

泉の畔には、美しい花々が咲き乱れていたけれど、私は泉の持つ言いようのない威圧感にうたれて、2、3歩後ずさった。

私には、それが呪われた泉のように思えてならなかった。

修学旅行で九州の地獄巡りをしたけれど、あれとは規模も受ける印象も段違いに違う。

見たこともない真っ黒の、底なしに暗い闇――

中を覗いてはいけない。

見たらきっと、引き返せないところに行ってしまう。

そうわかっているのに、泉の持つ力が声無き声で囁くのだ。

覗いてごらん。

中に何があるのか、見てごらん。

 

見てはいけない。そう思うのに、自分の意思に反してふらふらと泉に手を取られるように近づいてしまう……。

泉にはそんな不思議な力がある。

もし、そこに番人のように天使がいなかったら。私もそうしていただろう。

 

私は動揺しながら、天使と泉を交互に見つめていた。

 

これは夢。

頭の中で、冷静な部分が私に囁きかける。

そう。これは夢。

自分に言い聞かせ、私は泉に近づこうとする足を叱咤し、懸命に大地に足を押し付ける。

裸足の足の下で、パキリと小枝が鳴った。

その音に初めて私がいるのに気が付いたというように、天使が顔を上げる。

その澄んだ瞳に、もう苦悩は見えなかった。

ばら色の頬に、静かな笑みの浮かぶ美しい顔――

大きな瞳を彩る金色の長い睫をふるりと一度震わせると、天使はそっと片手を上げた。

途端――!

何の前触れも無く、強風が森に襲い掛かる!

突然の突風に、ざわざわと木々の枝は折れんばかりに撓り、いっせいに木の葉が吹き飛ばされた。

「待って――!」

これは天使が、森が!

部外者である私を追い出そうとしているんだ!

そう直感した私は、声を張り上げて天使に向かって腕を伸ばした。

「待って!」

私は――

彼に言いたいことがある!

言わなければならない事が!

それなのに……!

一体何を言えばいいのか、言いたいことは何なのか。自分でもわからず、私は吹雪のように襲いくる木の葉に、腕を顔の前にかざしながら叫んだ。

『今』 を逃せば、もう彼に伝えることはできなくなる。

焦りが更なる焦りを呼び、泣きそうになる。

どうしよう!

彼が遠くなる!

頭が真っ白になる!

私はぎゅっと奥歯をかみ締めて、色々な気持ちの渦巻く瞳で、天使を見つめた。

濃い緑の木の葉の隙間から見える天使の顔は、表情が読めない。

陶器でできた人形のように、彼は微動だにせず、まるでギリシャの彫像になってしまったかのようだった。

 

「ああ――」

私は絶望と諦めのこもった息を吐き出した。

何も言えなかった。

彼に何も伝えることができなかった!

 

やがて私は目覚めるのだろう。

頭の奥が、覚醒を促す心地がする。

この目を開ければ――もう飛び込んでくるのは、現実だ。

起きたくない。

だけど夢の尾はもう遠く、掴むことはできない。

私の身体は、夢と現実の間をぼんやりと漂っている。

 

 

 

2009.11.22