私の名前は、 

20歳の元会社員だ。尤も、今は無職で実家に帰っているけれど。

 

三月も終わりに近づいた暖かな金曜日、私は春の陽気に誘われて、珍しく散歩に出かけた。

可愛がってくれた祖父を亡くしたり、親友が突然交通事故で亡くなったり――昔付き合っていた男が自殺したり。

仕事先の上司が発狂したり……。

色々なことが、ありえないだろ! っていう位重なって、私は心身ともに疲れ果てて引きこもりがちになっていた。

仕事に行っていたときはまだいい。

職場と自宅の往復ではあったが、毎日外に出ていたのだから。

仕事を辞めてからは何もする気が起こらず、友人たちとも音信不通になり、ただ起きては食事をとり(一日一食ではあったが)また寝る、の繰り返しだった。

 

上司が狂ってからは、彼と仕事をするのがたまらなく苦痛で(それでも仕事を辞める事ができず)仕事先がつぶれて開放されるまでの三ヶ月間は、本当に悪夢のようだった。

彼が狂っているのか、私が狂っているのか。

おかしくなったのは彼ではなく、本当は私ではないのか。

冷静な判断力は鈍り、惰性で仕事を続け――限界が来てはトイレに逃げ込みその中で震える。

何が何だかわからないまま、気力だけで毎日を過ごし

「これは夢だ。悪い夢を見ているんだ……!」

目が覚めたらきっと、今までどおりの平凡な生活が待っている、そう呪文のように自分に言い聞かせながら、ぼろぼろの体を引きずるようにして生きていた。

 

今日私が外に出たのは、仕事を辞めてから実に二ヶ月ぶりのことになる。

やっと少しずつ本来の自分を取り戻し始めた私は、偶然ニュースで見た桜の便りにいてもたってもいられず、思い切って外に出たんだ。

 

それから――。

それから……

どうしたんだっけ?

何で私は、こんな所で寝転がっているんだろう。

 

身体は眠っているのに、頭だけが起きているような嫌な感じがする。

私は重たい頭を必死に動かせて考えた。

 

それから私は――?

そうだ。

奇妙な男と出会ったんだ。

 

桜を見て久しぶりに高揚した心で、私は上機嫌に家路を歩いていた。

あの男に会うまでは。

 

奇妙な男だった。その男は。

どこが、と聞かれたらはっきりと答えることはできないけど。

何だろう。違和感を感じたんだ。

 

私がその男と出会ったのは、交通量の多い交差点の真ん中だった。

男にしては長い、癖のある黒い髪。

厳しいヒゲの生えた荒削りの顔に、西洋人特有の高い鼻筋。

怖いけれど、どこか気品を感じさせる整った顔立ち。

まっすぐに前を見据えた顔は厳しく、どこか疲れたような印象を受けた。

 

信号が青に変わり、いっせいに歩き始めた人波の中で、普段他人に無関心な私がすれ違う人に特別に注意を払うことは無い。

なのに。

その男を見た瞬間――恐怖にも似た違和感が全身を駆け巡り、私は弾かれたように振り返って人波に見え隠れする背中を目で追いかけた。

私の周りの世界が止まった。

音が――聞こえなくなった。

男が、私の視線に気づいたのか、ゆっくりと振り返る。

 

陽が沈みかけた空は薄暗い。

停止線では車がいらだつように並んでいる。

男の鳶色の瞳が私を捉える。

私は夕方の肌寒ささえも忘れて、食い入るように男を凝視した。

 

どれ位そうしていたのだろう?

時間にしたら一瞬だったのかもしれない。

男がきびすを返した瞬間、金縛りがとけ

「待って!」

私は叫んで弾かれたように男を追って走り出そうとした。

瞬間! 鋭いブレーキ音が聞こえる!

クラクションが耳を劈く!

ああ……!

こんな時、足が動かなくなるって本当だったんだ。

私は現実感のすっかりと喪失した頭で、ぼんやりと思った。

目の前に迫りくるのは、今まさに交差点に飛び込んできた乗用車!

運転手の恐怖に引きつった顔が見える。

私は――!

 

 

 

 

「私は……車にはねられたんだわ……」

我知らず口に出して、私は夢から覚めたように目を開けた。

「ここは――どこ?」

目が覚めたらてっき病室にいる、そう思っていたのに。

一面真っ白な世界に、私は横たわっていた。

「どこ?」

いや横たわっていたという表現は適切ではないかもしれない。

何せここは、上も下も地面さえも無い真っ白な世界だったのだから。

濃い霧の中に漂っているような――1m先も見えない存在しない世界に、私は気が付いた瞬間バランスを崩して倒れこんだ。

「な、に……ここ」

誰もいない。

音も無い。

何も――ない!

あまりの静寂に耳鳴りがしそう!

私は息を飲んで頭を抱えてうずくまった。

じわじわと恐怖が心を侵食していく。

息が、苦しくなる。

これは夢?

それとも……。

私は死んでしまったのだろうか?

最悪の答えが、ぐるぐると渦巻く。じっとりと手のひらに汗が浮かんでくる。

世界を拒絶するように縮こまる私は、霧をかき分けるようにして後ろに人が現れたのに気が付かなかった。

「――目が覚めたか」

突然後ろから聞こえた声に、私は大きく体を震わせて、声にならない悲鳴を上げた。

「あ――」

恐る恐る振り返った先に、いつの間にかあの男が立っている。

「あ、なた、は……?」

交差点で会った、あの男だ。

なんて背の高い――。

耳に心地よいはずなのに、恐ろしく聞こえる重低音の声。

視線だけで私を見下ろす、底なしに暗い鳶色の瞳。

瞬間、さっき見た夢の黒い泉が頭をよぎって、私は息を飲み込んだ。

怖い!

全身が瞬時に泡立つ。

背中は冷水を浴びせかけられたように硬直し、動けない。

怖い!

恐怖に声すら発することができなくなった私に、男はふっと呆れたような笑みを零すと、片膝を付いて私に視線を合わせた。

「お前は――」

男の厳しさを物語るような形の良い唇が、ゆっくりと開く。

さっきよりも幾分か柔らかくなったとはいえ、鋭い目つきに居すくまれ、私は引き寄せられるように男の目を覗き込んだ。

どこか夢を見ているような、現実感を喪失した鳶色の光の中に見えるのは――いいようのない、苦悩?

人事ながらその思いの強さに、私は息が苦しくなって、知らず眉間に皺を寄せて俯いた。

しかし男はそうすることを許さないというように、私のあごに手をかけると強制的に上を向かせて、噛んでふくめるようにゆっくりと言った。

「お前は――俺と来るか?」

「え?」

思いもよらない男の言葉に、私は酷く驚いて口をぽかんと開けたまま、まじまじと男の顔を覗き込んだ。

「それとも、ここに残るか?」

この人は―― 一体何を言っているんだろう?

私の疑問を綺麗に無視して、男は続ける。

「それとも、一人で行くか?」

私は男の意図が掴めず、キョトンとして男の笑窪(意外なことに、笑うと笑窪ができるのだ!)を見つめながら、心の中で質問を反芻した。

「私は――」

 

 

A 「あなたと……一緒に行くわ」

B 「――ここに残る!」

C 「一人で行くよ!」

D 「そんなこと、急に言われてもわからない! まずは説明をしてくれ!」

 

 

 

分岐点です。

どれを選びますか?

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それでは、少しでもあなたが楽しんでくださいますように……。

 

 

モドル

 

2005.3.28

2008.3.7

2009.11.23