第1章

 

継承者

 

※ビエロ・流血表現注意

 

「それで……? 私にお話って、一体何でございますか?」

氷雨のしっとりとした赤い唇からこぼれたのは、そんな言葉だった。

彼女が不思議に思うのも無理はない。

自分は新造だ。遊女だ。

遊郭に女を買いに来ておきながら、酒を飲むでもなく抱くでもなく。

話がしたい、などと言われたのであれば。

 

氷雨はほぅと息をついて、この風変わりな男を見た。

歳は20代後半から30代前半くらいだろう。

豊かな黒髪を高い位置で結い上げた、ゾッとするような独特の雰囲気を纏った男。

まるで闇が具現化したような――見るものを、そんな不安にさせる細い男。

黒い着流しを粋にまとい、女の様に赤い帯を締めている。

首の上に乗っかる顔は、恐ろしく美しい。

真っ白を通り越して、青白いともいえる肌に、切れ長の鋭い瞳。

蝋燭の灯り越しに見る男の瞳は、何色か分からなかったが。

透明な光彩は美しく、どこか異国の血を引いているように思えた。

 

氷雨は簪を揺らして首を傾げると、男の言葉を促すように唇をじっと見つめた。

男は話がある、そう言ったきり口を開かない。

隣の座敷から聞こえてくるのは、賑やかな三味の音。女の媚びるような笑い声。

開け放した窓から聞こえてくるのは――遊女の喘ぎ声。

変な男。

氷雨は、視線を男の手にずらしてそう思った。

 

今日、氷雨は水揚げをされるはずだった。

まだ処女である遊女が初めて客に接し、純潔を失う日のことである。

この仕事には望んで就いたわけではない。

金や名があっても録でもない男に抱かれて純潔を奪われるぐらいなら、目の前にいる男に抱かれたほうがよっぽどマシだと思ったが。

男は神経質そうな細く長い指を膝の上で組むだけで、自分に触れようとはしない。

もしかして、”アチラ”なのかしら?

この男は女ではなく少年の方が好きなのではないか、氷雨がそう思い始めた頃。

男は重い口を開いた。

「……お前を身請けする」

「――は?」

店に上がったその日に身請け?

そんなの聞いたこともない!

氷雨は我が耳を疑って、素っ頓狂な声を上げた。

「身請けと言っても、何もお前を囲うわけじゃない。お前にはある仕事をしてもらう」

「私に仕事を?」

自慢じゃないが、自分は文字も読めないし、計算もできない。

思わず顔をしかめて男を見ると、男は鷹揚に頷いて袖の中から古びた巻物を取り出して広げて見せた。

氷雨には読むことはできなかったが、どうやら家系図のようだ。

「これは、お前だな?」

――と言われても、自分には読めなかったが。

男の指す名前らしきものを見て、氷雨は困惑してじっと名前を睨みつけた。

「お前は両親を覚えているか?」

沈黙を破って、男は確認するように氷雨の顔を覗き込んで言った。

「……いいえ。産まれてすぐ捨てられたと聞いています」

「そうか」

この男は一体何者なのだろうか?

どうして今更、自分の両親の事を聞かれなければならない?

氷雨の頭の中を警鐘が鳴り響く。

静かな物腰。身にまとう着物から、男の地位が決して低くないことが見て取れる。

自分に一体何の用があるというのだろう?

両親の事を知りたくない、といえば嘘になる。

だが、捨てられた恨みは簡単には消えない。

内心の動揺を押し隠して、細い指を巻き込むようにしてきつく拳を握ると、氷雨はキッと男を睨みつけた。

「お前の家は、代々退魔の力を持った一族だった」

「退魔……」

「妖の物を退ける力を持った一族だ」

そのままの意味だがな。

男は付け加えると、眉をひそめる氷雨を見て一呼吸置いた。

「お前は鬼の血を引く娘だ」

「……お、に?」

この男は、一体何を言っているのだろう?

頭の芯がジンワリと麻痺していくような気がする。

もうすぐ雨が降るのだろう。

初夏の風はじっとりとした熱と水分を含んでいて。不快に体にまとわりつく。

氷雨は耳をふさいでしまいたい衝動に駆られた。

男は続ける。

「お前たち鬼の一族は、代々我が一族に忠誠を誓っていた」

「……そんな、もの……。だからなんだって言うの?」

「契約だ。古に結ばれた契約により、私はお前を迎えに来たんだよ」

狂ってる。

男の言っている意味がわからない。

目の前が暗くなる。

蝋燭の火は、密やかな音を立てて細長く伸びるのに。身体が闇に囚われてしまったように、動かない!

男は立ち上がって氷雨の前に立つと、おもむろに彼女の胸元に手をかけて――一気に襟元を寛げた!

「な、にをッ!?」

この細い腕のどこにこんな力があるというのだろう!?

男は信じられない力で氷雨をそのまま押し倒すと、懐から小刀を出して彼女の胸に一気に――突き刺した!

「カハッ!」

心臓が飛び跳ねる!

殺される!?

何の前触れもなくいきなり貫かれて、息が止まる!

目を見開いて四肢を震わせた彼女を、男は満足そうに見ると小さく呪文を唱えて、氷雨の額に浮んだ玉のような汗を繊細な指で拭ってやった。

闇と、蝋燭の火と、遊郭の壁の赤の空間に。

男の甘い、低い声がゆっくりと浸食していく。

「は! ァ……!」

息が、できない!

痙攣する四肢!

流れ出す赤は、自分の生命!

赤い紅を引いた唇を開け、酸素を求めて必死に喘ぐ氷雨を腕にきつく抱きしめて。

男は酷薄な笑みを浮かべる。

「人としてのお前の命はこれで終った」

「ック!」

な、にを!?

男の言葉に目を開いて白い二の腕を露にして、助けを求めるように氷雨は宙をかきむしる。

「だが、安心しろ。これからは鬼として――私の手足となって生きることができる」

そんなこと望んでいないのに!

宙を蹴る足は段々と力が入らなくなり――氷雨は涙を流して縋るように男を見つめた。

「苦しいか? 少し我慢していろ」

我慢なんて、できるわけがない!

「お前達は心臓を二つ持っている。鬼として覚醒するためには、まず人としての心臓を止めてしまわなければならん」

やめて、やめて!

「……いい子だ。大人しくしていろ」

身体が動かない!

痙攣する氷雨の身体をきつく抱きしめ、男は宥めるように額に頬に、、瞼に唇を落とす。

肌蹴た胸元からは、血が音を立てて流れ。

氷雨は――畳の上に長い黒髪を乱したまま……静かに男の腕の中で人としての生を終える。

 

すっかりと氷雨が大人しくなったのを見て取ると、男は彼女の胸から小刀を抜いた。

刃の凍るような冷たさが、傷口に急激な熱と知覚をもたらす。

「あ、あ……!」

苦しさと恐怖から赤い爪で男の腕を引っ掻くと、

「目覚めたか?」

男は整った顔に冷たい笑みを浮かべて、愛おしそうに彼女の髪をなでた。

 

 

『三千世界のカラスを殺し』

 

どこかの部屋から、男が謳うのが聞こえる。

部屋に焚き染められた香の匂いは、血の匂いにすっかりと消え――

氷雨は、無意識に血を求めて不自由な視線をさまよわせる。

男は彼女を満足そうに見ると、自らの唇を傷つけて、細い遊女の身体をかき抱いた。

深く、深く唇を合わせて――

口内に広がる、濃い血の匂いに、理性が狂っていく……。

暴れる熱。

堪らなく甘美な、誘惑。

必死に舌を絡めて、男の血を舐めとる氷雨に覆いかぶさると、男は彼女の着物の裾を肌蹴させながら、冷たい指を膝から太ももにかけてつ、と走らせた。

 

天井近くで。香の煙が白い渦を巻いている。

瞳に熱い物が盛り上がり、こぼれる。

男の鼓動が、密着した体に伝わり――無性に、それを奪いたい衝動に駆られ、氷雨は目を閉じた。

心臓を取って、自らの手で鼓動を止めたい。

他でもない、この男の!

 

血の匂いが、彼女を狂わせていく。

 

ややあって男は満足したのか唇を離すと、氷雨を見て満足そうに微笑んだ。

「これでもう、お前は私の僕となった」

 

朦朧とした意識の中、どこからか聞こえる歌声が、ぐるぐると頭の中を回り続ける。

 

『三千世界のカラスを殺し 

     主と朝寝がしてみたい』

 

熱い、熱い、熱い!

氷雨は声の無い声で悲鳴を上げて、身体をよじって男に挿された胸元を掻き毟った。

涙のにじむ目で男を睨みつけると、男は口元から赤を一筋こぼして、うっとりとするような笑みを浮かべて、氷雨の頬に手を伸ばした。

 

 

私の鬼よ。私のために戦え。

意識を失う寸前に聞こえたのは、そんな言葉だったのか。

だんだんと狭くなる視界。

重たくなる四肢――

氷雨は眠りに身を任しながら

ああ、自分の名はというのか……

初めて知った自分の名前を耳にしたのを最後に、意識を失った。

 

それが、氷雨―― と、芦屋 牡丹の出会いだった。

 

 

 

2006.12.14