風が窓ガラスを揺らし、ガタガタと耳障りな音を立てていた。

寒い寒いと思っていたら、明け方になってとうとう雪が降ってきたらしい。

まだ屋敷に入ったばかりの歳若いメイド マリーは、寒そうに肩をすくめると顔をしかめて外を眺めた。

陽が上るまで、まだ時間があるのだろう。

夜の気配を色濃く残す黒いガラスに、ほわりと白い影が映るだけで、外の景色は見えない。

ただ窓の桟に積もった雪だけが、夜が明けるころには一面の銀世界になるだろう事を教えてくれている。

マリーはうんざりとして、白い息を吐いた。

自分たち使用人は、こんなにも寒い中朝早くから働かなければならないのに。

自分とそう年の違わないエミーリアは、ただ生まれた家が違うと言うだけで、今頃暖かな毛布に包まれ幸せな夢を見ているのだ。

(……何よ!)

考えれば考えるほど悔しくて、マリーは忌々しそうにフンと鼻を鳴らした。

エミーリアと自分は、たった二つしか違わないのに!

どうしてこんなにも違うのだろう?

 

窓には燭台を持ったマリーの姿が映っている。

暗い鏡に写る、ぼんやりとした蝋燭の明かりに浮かび上がる自分の姿は、お世辞にも美人とはいえない。

エミーリアの白い、いや血管さえも透き通って見えそうな肌理の細かい柔らかな肌。

それに比べて自分は、あかぎれとしもやけに血の滲む赤い頬をしている。

髪だってそうだ。

わがままなお嬢様は、あんなにも愛らしい人形のようなくるくると巻いた髪も、色が気に入らないと言うだけで大層嫌っているが。

マリーはため息をついて、メイドキャップからこぼれる髪を見た。

自分の髪は彼女の望む金の色をしている。だが、痛んでとうもろこしの房のようにぱさぱさと艶がない。

それを隠すためお団子にひっ詰めて、大きなメイドキャップを被っている。

自分はこんなにも涙ぐましい努力をしているのに!

あのお嬢様はたいした努力もせずに、生まれながらに自分の望むものを全て持っているのだ!

マリーは燭台を握る指にギリ、と力を込めた。

羨ましかった。

妬ましかった!

どんなに表面は優しく取り繕っていても、心の中はドロドロと荒れ狂っていた。

エミーリアがわがままを言うたびに、金切り声を上げて癇癪を起こすたびに。耳をふさぎたい衝動にかられ、奥歯をかみ締め、ただひたすらそれを押し隠していたことなど、彼女は知らないのだろう。

それでも――。

自分たち使用人が我慢してこれたのは、偏にエミーリアが病気だったからだ。

大人になるまで生きることのできない、かわいそうなお嬢様!

劣等感から来る優越感で嫉妬心に蓋をして、毎日背を伸ばして働いてこれたのだ。

だけど……。

その醜い虚栄心も、ついに崩れてしまった。

あの医者が屋敷に住むようになってから、エミーリアはすっかり健康になってしまったのだから!

驚きと共に、自分の中に確かに存在する失望感に気づいて、マリーは初めてゾッとした。

神を信仰している身でありながら、なんと浅ましいのだろう! 自分は!

ひどい罪悪感と劣等感にかられたが、彼女の健康を、幸せを妬まずにはいられなかった。

そうやって自分を奮い立たせなければ、彼女は生きていけなかったのだ。

 

マリーは嫉妬と暗い憎悪を滲ませた凄まじい表情を浮かべると、また前を向いてコツコツと歩き始めた。

 

あの日――

エミーリアが頭から血を浴びて帰って来たときから、全てが狂い始めてしまった。

あの日教会に行くまでは、いつもと変わらない日常を送っていたはずなのに。

エミーリアが健康になったのは、教会の奇跡だとは到底思えなかった。

神の手によるものなら、どうしてあんなに血まみれになる必要があるのだろう?

どうして、目にあんなにも暗い炎が宿るのだろう!

 

神よりももっと禍々しい――人智を超えた恐ろしい力が働いたように思えてならなかった。

マリーはブルリと身体を震わせた。

折しもペストが流行し、人々が死に怯え集団ヒステリーを起こしていた時である。

彼女もまた例外ではなく、目の下に黒いクマを作って必死に生きていた。

自分が助かるためなら、何を犠牲にしても惜しくはなかった。

防ぎようのない死の影は、じわじわとインクが染み込むように人々の心にどす黒い狂気を広げていく。

街は清めの香に侵食され、陰鬱な白い霧を漂わせていた。

マリーは怯えと焦りに苛々と爪を噛むと、ふと何かに気づいて立ち止まった。

風が――

寒いと思っていたが、どこからか風が吹き込んできている――

窓が開いているのだろうか?

こんなに寒い日に?

マリーは首をかしげると、足音を忍ばせ風を追ってそろりそろりと歩き始めた。

 

 

 

×××××

 

 

 

「嘘よ! そんなの嘘だわ!」

部屋にエミーリアの悲痛な叫び声が響いていた。

 

今日もいつもと同じ一日が始まるはずだったのに!

どうしてこうなってしまったんだろう?

エミーリアは信じられないと言うように目を見開いて、真っ白な清潔なエプロンを纏う自分付きのメイド、マリーを見上げた。

彼女は今なんと言ったのだろうか?

フリードリヒがいなくなった?

そう言ったのだろうか?

(何で……)

自分を起こして開口一番彼女が告げる言葉は、

「おはようございます。お嬢様」

であるはずなのに。

「今日も良い天気でございますよ」

そう、彼女は続けなければならないはずなのに!

ひび割れたマリーの唇からこぼれたのは、

「フリードリヒ様がいなくなりましたわ。お嬢様」

だった。

聴いた瞬間、眠気も何もかもが吹き飛び、エミーリアはマリーを凝視した。

彼女が言った言葉が理解できなかった。

否。頭ではわかっていたが、心がそれを拒否していた。

(フリッツ先生がいなくなった……?)

寝起きのまっさらな頭に、それだけが重たく響いて、エミーリアは無意識でのろのろと身体を起こすと、マリーを凝視したまま裸足の足を絨毯につけた。

彼女が

「冗談ですわ」

と言って朗らかに笑ってくれるのを期待したが、マリーはブラウンの瞳に何か得体の知れないギラギラした光を浮かべ、無表情にエミーリアのために入れた紅茶を差し出している。

「う、そよね……?」

震える声が口からこぼれ、エミーリアはハッと我にかえった。

「嘘でしょ! 嘘とおっしゃい!」

「いいえ、お嬢様。申し訳ございませんが、朝わたくしが部屋に行った時はもう――」

「朝! 朝ですって!?」

エミーリアは金切り声を上げて、抑えきれない怒りをぶつけるようにシーツを拳で殴った。

「今何時だと思っているの!? どうしてすぐに私を起こさないの!?」

もうとっくに陽は昇っている。

フリードリヒが来て以来起きるのが早くなったとはいえ、昼近くにならないとエミーリアは目覚めない。

怒りに爛々と目を燃やし、目尻を吊り上げるエミーリアに、マリーはしょうがなく紅茶をサイドテーブルに置くと、変わりに彼女のガウンを取った。

「わたくしたち使用人にとって、一番優先すべきことはお嬢様のお身体のことですわ」

「身体はもう健康になったって言ってるじゃない!」

「ええ。ありがたいことに、今は――。ですが、油断は禁物です。いつまた体調を崩されるか……」

ゆっくりと子供に言い聞かせるように言うマリーに、エミーリアの怒りは爆発した。

これ以上何を言っても無駄だ。

エミーリアはギラリと鋭くマリーを睨みつけると、彼女の手からガウンを奪い取って立ち上がった。

(誰も、誰もわかってくれない! 私がどれだけフリッツ先生を必要としているのか!)

どうして皆して自分からフリードリヒを取り上げようとするのか、エミーリアにはわからなかった。

ただ泣きたくて――

荒れ狂う怒りの嵐が収まった瞬間、今度はどっと疲労が押し寄せてきて、彼女は何倍も年老いたように肩を落とした。

恐らく、マリーが言うことは本当だろう。

フリードリヒがいなくなった!

部屋に行かずともわかった。

昨日のフリードリヒは、どこかいつもと様子が違っていたから――

ガウンを羽織るのももどかしいように、袖を通さず肩に引っ掛けたエミーリアが、すれ違いざま目に涙を浮かべているのをマリーは見た。

彼女が通り過ぎた瞬間、マリーは口元に酷薄な笑みを浮かべると、

「お嬢様」

ねっとりとした猫なで声を出した。

「大丈夫ですわ。お嬢様」

「何が! 何が大丈夫だって言うのよ!?」

「きっとフリードリヒ様は、用があってお出かけになられただけですわ」

「――用?」

「ええ。だってフリードリヒ様はお医者様ですもの。ずっとお屋敷にいたから、お薬が足りなくなったとか――いいえ、それとも他の患者様のことが気になったとかで、一時的にご自宅にお帰りになってらっしゃるだけだと思いますわ」

噛んで含めるような言い方に、エミーリアは足を止めてマリーを見た。

「――本当に?」

「ええ。きっと」

本当はそんなこと微塵も思っていなかったが。

自信たっぷりにうなずくマリーの後姿を見ていると、何だか本当にそんな気がしてきて、エミーリアは幾分か落ち着きを取り戻して、涙交じりの熱い息をゆっくりと吐き出した。

後ろを向いているマリーの表情は、エミーリアには見えない。

だがもし見えていたら、彼女は決してマリーの言葉を鵜呑みにはしなかっただろう。

見開く目は虚ろに、目の下のクマは一層濃く。

暗い歓喜と狂気に表情を染めたマリーの顔を見ていたら――!

 

「……そうね」

エミーリアは鼻をすすると、ほっと肩の力を抜いた。

(そうね。そうだわ! だってフリッツ先生は……)

もう頼ることができるのは、自分しかいないのだから!

彼は吸血鬼だ。

その秘密を知るものは、あの神父と自分しかいない。

その自信に、エミーリアは頷いた。

(大丈夫。先生が帰ってくる場所は、ここしかない!)

エミーリアは自分が癇癪を起こしたのを恥じるように小さく笑うと、ガウンに腕を通してそっと前を合わせた。

どうやら落ち着いたらしいエミーリアの気配を背中越しに感じながら、マリーは窓の外を眺めていた。

雪はやはり、朝になって外の世界を一面銀色に染め上げた。

枯れた木の枝にふんわりと雪をかぶせ、大通りの石畳に、馬車のわだちをくっきりと残している。

いつもと違う景色。

白に浄化される、眩しい世界――!

その中を、白い軍服を着た軍人が数人を連れ立って走ってくるのを、マリーは見ていた。

彼らが自分の屋敷の前で立ち止まり、素早く辺りを見回し数人を裏に回し、人員を配置するのを眺めていた。

 

エミーリアはマリーの言葉に慰められ、心を落ち着けるとベッドに腰をおろし、いつものように紅茶を飲み始めた。

ああ。

狂った歯車はいつ戻るのだろう!?

 

マリーはニコリと微笑むと、エミーリアを振り返って優しく声をかけた。

 

 

 

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2010.6.15