※残酷・流血表現あり 注意

 

吸血鬼の夢を見ていた。

嬉々として人々を惨殺していく吸血鬼の夢を。

 

デメルは目の前に広がる凄惨な光景に、嫌悪感もあらわに細い目を光らせた。

戦火を逃れて来た村人だろうか、20数人の老若男女はなすすべもなく無残に殺されていく。

吐き気がする。

怒りに、憎しみに。

デメルはやり場のない怒りをぶつけるように、拳を太腿に打ち付けた。

血なまぐさい風に枯れススキが揺れている。

血の匂いに誘われるように、森のどこかで狼が遠吠えをした。

恐らく吸血鬼の食べ残しを狙って、すぐそこまで来ているのだろう。

やりきれない――。

どうして、夢の中までも吸血鬼に悩まされなければならないのだろう?

人々を助けたいのに。夢の中では手出しができない。

このまま自分は――彼らの死体が獣にまで食い荒らされるのを、黙って見ていることしかできないのだろうか。

(神よ……!)

断末魔の悲鳴に、焦燥感に刈られデメルは胸元のペンダントを握りしめた。

祈っても、神に祈りは届かない。

憎い吸血鬼を倒したくとも、なすすべはない。

焦りにやり場のない悲しみに、心臓が張り裂けそうになる。

弟だろう少年を庇っていた少女が殺された。

吸血鬼の足元に身を投げ出し、弟の命乞いをしていたというのに。

虐殺こそを最大の快楽とする吸血鬼には、彼女の必死の頼みも心地よい音楽でしかないのだろう。

腰が抜けたように地面に座り込み、少年は呆然と姉の最後を見ていた。

黒いドレスを着た吸血鬼が、ギラリと凄惨な赤い目を光らせ、幼い少年に手を伸ばす。

デメルは知らず震える手で顔を覆った。

殺された人々の怒りが!

無念が、悲しみが恐怖が!

煉獄の炎のようにグルグルと辺りに渦巻き、デメルの胸を焼く。

熱い!

右目を抉り出された少年が、耳を劈くような悲鳴を上げる。

冷たい!

鋭利な女の長い爪が、視神経を容赦なく引き抜いていく。

「……は、ッツ……!」

痛みを受けたのは自分ではないはずなのに!

激痛の走った右目にデメルは思わず膝を付くと、ぎり、包帯に爪をきつく突き立てたまま、吸血鬼を睨みつけた。

抉り出した眼球から滴る血を美味そうに舐める吸血鬼が、堪らなく憎かった。

 

 

仲間を殺す

 

 

幼い頃から、デメルには不思議な力があった。

過去の記憶は曖昧で、いつどうやってこの力を得たのか覚えてはいないが。

気が付いたら教会にいて、エクソシストになるための訓練を受けていた。

両親の記憶はない。

 

人にはない不思議な力――

それはしばしば、夢という形を取ってデメルの前に現れた。

予知夢。虫の知らせ。

恐らく、それはそう言った類のものだろう。

見ていて決して楽しい物ではない、痛みを伴った悪夢。

見ようと思って見るのではない。唐突に訪れる恐怖。

よく知る者の未来。

見たこともない人の過去。

未曾有の大惨事。

夢を見たことによって、現実を良い方向に変えられるものならばいい。

しかし過去に既に起こってしまったものは、もう変えようもない。

自分には、彼らを助ける力があるはずなのに。

何もできなかった無力さに、心が張り裂けそうになる。

それは起きた後もしばらく苦い気分だけが付きまとう、後味の悪いものでしかなかった。

 

この夢もどうやら、その過去の夢のようだった。

デメルは早くなる鼓動に胸元を押さえ、目を見開いて夢を凝視していた。

 

これは……どこの国だろう?

人々は獣道を必死に走っていた。

敵は――悪夢はどこにいるのだろう?

まだ姿は見えない。

「どうかお気をつけて……!」

きっと、危険はすぐそこに潜んでいる。

デメルの掌にじっとりと汗が浮かんだ。

 

人々が口にしているのは、どうやらマジャール語らしい。

黒髪、黒い瞳の人々は、口々に焦ったように何事かを囁き合いながら、必死の形相で森へ続く小道を駆け抜けている。

時は恐らく――冬の近づいた深夜だろう。

朧月夜の頼りない光の中、枯れススキがボウと骸のように白く浮かび上がっている。

 

息を切らし、額に汗をにじませながら走っているのは、20人ほどの村人たちだ。

戦火を逃れ着の身着のままとりあえず逃げてきた、そういう様子の人々だ。

恐怖の色濃く浮かぶ頬に煤をつけ、荒い息を吐きながら振り返り振り返り走っている。

彼らの姿を隠すのは、背の高いススキ以外に何もない。

もう少し走れば、前方にある森に逃げ込むことができるだろう。

デメルは祈るように彼らを見守った。

この辺り一体をひどい妖気が包み込んでいる。

「早く! 早く!」

人々が囁く声に、自分までもが落ち着かなくなる。

木の根に足を取られ、スカーフを被った女性が倒れた。

血のにじむ足に、小石が入り込んでいる。

しかしそれにかまっている暇はない。女性は歯を食いしばると、仲間を追ってまた全力で走り始めた。

幼い子供の手を引く母親は、子供が足をとられて転びそうになるたびに、焦りに苛立たせた声を上げ、ぐいと容赦なく腕をひっぱってせかしている。

草を掻き分けて人々が駆け抜ける度、近くに潜む鈴虫がぴたりと沈黙して道を空けた。

東の空からは、黒煙がもうもうと立ち上っている。

月が出ているにもかかわらず暗いのは、この黒煙のせいだろう。

人々の踏み荒らす枯れ草の匂いに混じって、濃い火薬の匂いが鼻を付いた。

人々が森に近づくにつれ、デメルの鼓動も早くなる。

逃げているのは貧困層の者たちだろう。

粗末な継ぎはぎをした衣服をまとい、あかぎれやヒビ切れの痛々しい手足をしている。

 

どくり。

 

デメルの心臓が、嫌な音を立てた。

――何だろう。酷く……怖い。

危険が、彼らのすぐそばまで近づいているのだろう!

殺気が膨れ上がる!

「ダメだ……」

そっちに行っては!

デメルは震えそうになる歯の根をかくすように、口元を掌で覆った。

鋤や鍬を手に握り緊め走る男たち。

髪を振り乱し、必死の形相で大地を蹴立てる女たち。

ぞくぞくと空寒いものが胃の腑を駆け上がる!

嫌な予感が爆発する!

「……そっちに行ってはいけない!」

デメルは叫んだ。

人々は戦いを逃れて走っているはずなのに!

更なる恐怖の渦中に飛び込んでいるようにデメルには思えた。

心臓が胸を突き破らんばかりに打ち鳴る!

「行ってはいけない! お戻りなさい!」

声を限りに叫んでみても、人々に自分の声が届くことはない。

怖い――

どんな化物と対峙しても感じなかった恐怖に、デメルの額に汗がにじんだ。

首の後ろの毛がチリチリと逆立つのを感じる。

 

「――ッ!!」

人々が悲鳴を上げた。

何が起こったのかわからないまま、先頭の者が上げた悲鳴に、後ろに続く者達も恐怖に凍りつく。

パニックが大波のように伝わり――人々は数歩後ずさって目の前に広がる森を凝視した。

(……何か、いる)

息を潜め、デメルも森を見据える。

暗い、闇に沈む森の中―― 一本の木にもたれるように佇む若い男がいる。

黒い豪奢な毛皮の襟巻き、細身のぞろりと長い黒い服。

歳は20代前半だろう。

優雅に腕を組んで、口元に笑みを浮かべながら村人たちをじっと見ている。

火薬の匂いの混じった風が、ザワザワと梢を揺らした。

(いけない……!)

あれは吸血鬼だ!

デメルは手のひらに爪が食い込むのもそのままに、拳をきつく握り緊めた。

「お逃げなさい!」

声が届かないことはわかっている!

しかし叫ばずに入られなかった。

男たちは女たちを守るように手に持った鍬を構えたが。吸血鬼にそんなものはきかない。

(このままでは……!)

皆殺しにされる。

否。

これは過去の出来事だ。

すでにこの人々は――

無力感にデメルは唇に歯を付きたてた。

 

人々はゴクリと喉を引きつらせ、足が固まったようにその場に突っ立っている。

男の赤い目がニィと不気味に細められた。

次の瞬間――!

 

デメルは目を閉じ、僅かに顔をそらした。

壮絶な悲鳴が聞こえた。

次いで鼻を突くのは、凄惨な血の匂い!

目を閉じていても、男が何をしているのかわかった。

人々がパニックに陥り、意味のなさない音の羅列を叫ぶ。

一陣の風が駆け抜けた。

何が起こったのか、わからなかったのだろう。

デメルは目を開けた。

男は悠然と立っていた。

いつの間に移動したのだろう。村人達の真ん中で。

片手にねじ切った村人の頭を掴み、まるでワインでも煽るかのように高く掲げ、縊り切った首から滴り落ちる血を飲んでいる。

殺された夫に、女が狂ったような悲鳴を上げた。

くすくす、悪戯が成功した子供のように、吸血鬼が嬉しそうに笑う。

ああ、その燃えるように赤い炎の瞳!

女の恐怖が乗り移ったのだろう。デメルは口元を覆って前かがみになった。

 

(ああ……)

悲劇はまだ終わらない。

否これから始まるのだ!

ゴクリ、デメルの喉が引きつった音を立てた。

 

くすくす。

鈴を転がすような少女の笑い声が聞こえる。

くすくす。

心底楽しそうに。 笑みを抑えることができないというように。

少女の笑い声を聞いて、目の前の吸血鬼は一瞬ムッとしたように目を細めると、苛立ちも露に掴んでいた頭を放り投げた。

幼い子供が泣き声をあげた。

「ば、化物!」

「吸血鬼よッツ!」

口々に叫び村人達が逃げ惑う。

(ああ……)

デメルは突如理解した。

人々は戦から逃れていたのではない!

この、吸血鬼から逃れていたのだ!

戦火と思っていたのは、戯れにこの女が村を焼いていたからだろう。

デメルは射殺さんばかりの目で、目の前の優雅な黒いドレスをまとった少女を見た。

 

「酷いじゃないの。セルジュ。獲物を独り占めするなんて。姉さんにも残しておいて頂戴な」

夢見るようなうっとりとした甘い声。

しかし、その優しい声とは裏腹に、少女の人形のように整った顔は表情を変えることはない。

セルジュと呼ばれた青年は、ニタリと笑って見せ付けるように、また村人の首を掴んで力任せに捻り切った。

 

いつの間に自分達の傍に来たのだろう!

目で追うことのできない素早さに、人々は恐れ戦き逃げ惑った。

「エルジェーベト。お前はもう村一つ焼いてきたばかりだろう?これはお前の獲物じゃない。我輩のものだ」

「アラ。けちな事をいうのね。……あんな小さな村。全然足らなくてよ。獲物は一匹残らず殲滅しないと気がすまないの。困ったものよね。完璧主義って」

「この大食漢が」

「アラ、失礼な子ね」

楽しむような少女の声にセルジュが顔をしかめる。

くすくす。

少女は尚も笑うと、差していた黒いレースの日傘を上に上げてセルジュを見上げた。

双子だろうか。姉弟にしてはあまりに似すぎている。

セルジュと同じ黒い長い髪、赤い瞳。瓜二つの顔。

背は僅かにセルジュより低く、彼とは違うレースの沢山付いた黒い服を着ていたが、その顔には女性特有の甘やかさはかけらもない。

夢見るような現実感を喪失した瞳に、人形のような無表情。

胸元と袖を豪華に飾る、幾重にも重ねられたフリル、レース。

膨らんだスカートの下からは、これまたレースの付いた黒い靴下が覗いている。

(彼女が村を焼いた!?)

しかも、村人を一人残らず食べつくした!?

デメルは信じられず、目を見開いて彼女の冷たく整った顔を凝視した。

逃げ惑う人々は村を捨て、必死にここまで来たのだろう。

仲間を見捨て、家を捨てここまで来たというのに。

吸血鬼からは、逃れることはできなかったのだ。

ギリ、デメルは怒りに奥歯をくいしめた。

今の自分なら!

この吸血鬼を葬り去ることができるというのに!

その力を持っているというのに!

――あくまでも、これは過去の夢でしかないのだ!

干渉することのできない、夢なのだ!

「――どうして……ッ!」

こんなものを見せられなければならないのだろう?

「どうして!」

助けたいのに助けられないのならば、なぜ!

こんな力を、神は授けたのだろう?

 

やるせない……。

逃げ惑う人々の中には、赤子もいる。

幼い兄弟もいる。

前も後ろも化物に挟まれ――死を理解しないながらも、恐怖に母親にすがり付いている。

一人、また一人――殺されていく。

のんきに会話を続けながら、吸血鬼は狩りを楽しんでいる。

隙を見つけ逃げ出そうとした者は、背を向けた瞬間首に傘の柄が巻きつき引き寄せられ、エルジェーベトの餌食になった。

やれやれ。

それを見てセルジュは肩をすくめると、負けじとこちらも獲物に喰らい付く。

エルジェーベトは表情を変えることなく、しかし嬉々として血を貪り食っている。

彼女が牙を抜いた瞬間――首の傷跡から炎が噴出し獲物を焼いた。

「ふふ」

「……相変わらず残酷なことだ」

「あなたには言われたくないわ」

呆れきったようなセルジュの言葉に、チロリと目を向けるとエルジェーベトは小さく首をかしげて、彼の狩りを眺めて言った。

セルジュは鼻を鳴らすと、昆虫の手足をもぐように、村人達の四肢を引きちぎっていく。

人々はもはや逃げる気力も失い、互いに寄り添いあい呆然と地面に座り込んでいた。

次々と仲間が減っていく。

次は――自分の番かもしれない。

意識せずとも口を付いて出るのは、古き神の名前。

祈りの言葉。

しかし、忘れ去られていた神に祈りが届くことなく――端から順に、人々は殺されていく。

死体を包み込む炎が、枯れ草を焼いた。

炎の中、まるで生きているかのように、焼かれた死体がゆらりゆらり、四肢を動かしている。

不気味に手招きするそれに、少年は涙を流すことも忘れ、釘付けになった。

ああ、また一人炎に包まれた。

見ていられない。

デメルは空を仰いだ。

「ああ……」

悲鳴が途切れた。

皆殺された。

少年一人を残して。

デメルはため息をついた。

「ああ……!」

最後まで少年を腕に抱きしめて、必死に神の名を叫んでいた少女も殺された。

助けて!

弟を助けて!

少女の声が、耳についてはなれない。

「なぜ……」

デメルの目から涙がこぼれた。

「なぜ……こんなものを見せるのです! 神よ!」

姉が目の前で殺され、少年が必死に神の名を叫ぶ。

エルジェーベトが少年の首に手を伸ばす。

デメルは静かな、諦観をにじませた目でそれを見つめた。

口からこぼれるのは、祈りの言葉しかない。

すっかりと血の気を失い、がたがたと震えながら少年が必死に祈りの言葉を呟く。

エルジェーベトの牙が首に突き立つ瞬間――!

少年は、絶叫を上げると死に物狂いで暴れ神の名を叫んだ!

古き神の名を捨て、新しき神の名を!

異教徒の突然叫んだ神の名に、ビクリとデメルが肩を震わせる。

祈りの声が途絶えた。

新しい神。

それは、少年が自らの国の信仰をかなぐり捨てた瞬間だった。

村から追放された宣教師がたびたび子供達に聞かせていた、異教の神の名――

自分達の神が助けてくれないのなら!

藁をもすがる気持ちで叫んだのだろう。

少年は祈りの言葉も何も知らない。

ただ教えられたその名だけを、かすれる声で必死に叫び続けた。

エルジェーベトの強張っていた腕から、セルジュが少年を奪い取った。

「何をするの!」

「エルジェーベト」

「それは私の獲物よ! お放しなさい!」

「エルジェーベト」

セルジュの嗜めるような声に、苛立ったエルジェーベトが少年に腕を伸ばす!

「私は完ぺき主義者なのよ!」

「ならば――!」

セルジュが口を開いた瞬間、

「その少年を放せ!」

彼の台詞にかぶせるように、低いしわがれた声が飛んだ。

次いで――!

血なまぐさい風を斬り裂き、銀の矢が射掛けられる!

いつの間に来たのだろう!

ボウガンを手に現れた神父に、ほうとデメルは詰めていた息を吐いた。

「エルジェーベト!」

再度セルジュが呼ぶ。

ここまでだ。

あとはこの神父が何とかしてくれる。

エルジェーベトは心底苛立ったように唇に牙を立てると、少年を解放した。

少年の祈りが届いたのだ!

そう安堵した瞬間――! 

彼女の鋭い爪が、少年の目に付き刺さる!

少年が目を見開いた!

鋭い痛みが! 熱が!

デメルの右目を襲う!

「ぐ、あ……ァッツ!」

ぐりぐりと視神経を引きずり出されるのがわかる!

少年の痛みが!

夢を通しデメルの身体に伝わる!

鋭い爪の引っかく激痛が!

冷たさとなって、伝わる!

神父が駆け寄るのが見えた。

 

「ああ……」

息をついたのは、少年とデメルのどちらだったのだろう?

あまりの痛みに目の前がチカチカとし――世界がぐるりと反転した。

ドウ、と身体が崩れ落ち、地面に打ち付けた半身が鈍い痛みを伝える。

「姉さん……」

 

だんだんと狭くなっていく視界に必死に抗いながら、デメルは目の前で力なく四肢を投げ出す少女を見つめた。

「姉さん……」

 

あれは、あれは――

そうだ、自分の姉、だった……!

最後に見たのは、涙にぐちゃぐちゃに汚れた少女の悲痛な死に顔。

どうして忘れていたのだろう?

段々と暗くなっていく視界に、必死に抗いながらデメルは少女に腕を伸ばした。

ああ、夢が覚めるのだろう。

何もできないまま、こんな記憶だけを残して!

どうして、

なぜ、

諦めていながらも、その言葉だけを繰り返す。

神よ、神よ!

どうしてあなたは……!

 

「全ての者を……お救いになっては下さらないのですか……!」

神を疑うわけではないが。

恨むわけではないが!

そう、呟かずにはいられなかった。

彼女の悲痛な叫び声は、いつまでもいつまでも耳について離れなかった。

 

 

  

2010.4.9