※この回は残酷、流血表現、またBL要素を含みます。苦手な方はご注意ください。
偉そうな男だった。その男は。 いや、実際に偉いのだろう。 フリードリヒは軍人の階級などわからなかったが、男の豪華な軍服とたくさんの勲章から、彼が高い地位にいるのだろうことは、容易に想像できた。 男は口元に皮肉気な笑みを浮かべて、常ならばフリードリヒの腰掛けている椅子に深く背を預けてふんぞり返っている。 男の被るトリコーンから幾重にも下がる繊細な鎖にはたくさんのダイヤが下がっており、ふさふさと豪華な黒い羽飾りがついている。 何と美しく、恐ろしい男だろう。 鋭い刀身のように隙の無い身のこなし。 漆黒の――まさに烏の濡羽のような他の色を含むことの無い、純粋な黒の髪。 長い髪を縛る深紅のリボンが不吉の象徴のように思えて、フリードリヒはピリピリと神経を尖らせて男の一挙手一投足に目を光らせていた。 一体この男は今までに何人の人間を殺してきたのだろう? これほどの武勲を立てた男ならば、きっと想像もできない数なのだろう。 闇―― 氷、そして、炎。 男から連想されるのは、そんな不吉な単語しかない。 男は、緊張し硬くなるフリードリヒを値踏みするような目で眺めている。 嫌味なほどに優雅な態度に、ムッとしながらフリードリヒは躊躇った挙句ようやく口を開いた。
死闘の末に
「……こんな時間に何の御用でしょうか?」 不法侵入をした相手だ。自然言葉に棘が混じる。 しかし男はそれを聞いて、しごく楽しそうにクと唇を吊り上げると、鋭く澄んだ赤い目を細めた。 「いや、何。腕の良い医者がいると聞きつけてね。わざわざこんな所まで足を運んだのだ」 「――あなたのような高貴なお方なら、こんな所においでにならずとも……王宮の一流の軍医にかかることもできるでしょうに」 言外に、「出て行け」という意味を含ませ、男を睨みつける。 何がおかしいのだろう。男は上機嫌にくつくつと喉を鳴らして獰猛に笑うと 「それが、そうも言ってはおれんのだ」 身を乗り出した。 「いささか不名誉な病なのでね」 「……火遊びが過ぎるからです。これに懲りてしばらく女遊びは絶ったらどうですか?」 「貴君は下品だな」 気分を害したように男は鼻の頭に皺を寄せ、フンと椅子に深く腰掛け、フリードリヒは額に手を当ててため息をついた。 この男とは関わりあいたくない。 性格的にも精神的にも受け入れられない。 (さっさと帰ってくれ……!) 今、自分にはこんな訳のわからない輩にかまっている時間はない。 早く用意を整えて、ここから出て行かねばならないのに。 (どうやら長くなりそうだ……) 自分より地位の高い相手だ。まさか無視するわけにもいかず、フリードリヒはまた深いため息をついた。 男はそれきりこちらの出方を伺っているのか、手袋の指を優雅に組んだまま話しかけてこない。 (一体何だって言うんだ!) どうして、よりによって今! こんな奴がここに来たのだろう? フリードリヒの苛々が最高潮に達した。 この男の人を食ったような態度が気に入らない。 試すような、からかうような瞳が気に入らない。 顔と格好だけは、王宮の兵士――それも恐らくは将校クラスだろう――に相応しく、気品のある冷たくも優雅なものだったが。 もしこの男がその顔に皮肉気な笑みではなく、暖かな微笑を浮かべていたら。さぞかし女性にもてたであろう。 しかし鋭い光を放つ赤い瞳が、それを拒んでいる。 何もかも見透かす知性と冷たさで、人を観察し自らの意に背く者かどうか見極めている。 もし気に入らぬ、と判断されたなら容赦なく残酷に切り捨てられるだろう。 それはそういう男であるように、フリードリヒには思われた。 男の硝子のように美しく冷ややかな顔を包むのは、繊細なレースのたっぷりとあしらわれたジャボ。 白い膝丈のジャケットに黒い大きな返し襟。 同じく黒い袖の返しには、たくさんの金ボタンが並んでいる。 黒い革のロングブーツを履いた長い足を優雅に組み、男は人差し指を楽しそうに揺らしている。 まるで獲物に襲い掛かる前に、興奮して揺らす猫の尻尾のようだ。 とにかく、何でもいいから早く開放されたかった。 (仕方がない……) 話を聞くだけ聞いてやれば、納得して帰るかもしれない。 「……で?」 目を反らしたままフリードリヒが話しかけると、男はフンと鼻を鳴らした。 「偉そうな奴だな」 (どっちがだ!) 言いかけた言葉をすんでで飲み込み、ぐと床を睨みつける。 (怒るな……) 相手は王宮の兵士だ。 怒らせれば厄介なことになる。 唇の端をわなわなと引きつらせ、それでも必死に無表情を取り繕ってフリードリヒが男を見ると、彼はやっと満足したようにもう一度フンと鼻を鳴らした。 「我輩は治療に来たと言っておるのだ」 「……症状は? 痛みは? 熱はありますか?」 「熱は無い。痛みもな」 「ではどんな症状が?」 「ふむ。脈がな、おかしいのだ」 「どんな風にですか? 鼓動が早くなる? 不規則になる? 時々ひっくり返るようになる?」 投げやりに言い放つと、男が腕を差し出した。実際に脈を取れということだろう。 相手が患者だというのならば…… しぶしぶ男の腕をとると、ニイ男の笑みがますます深く釣りあがった。 そのことに訝しがりながらも、耳を澄まして男の脈を捜す。 だが、 「――え?」 ありえない事態に、フリードリヒの顔が凍りついた。 くつくつ、目の前から不気味な笑い声が聞こえる。 「脈が……ない……!」 言葉にした瞬間言いようの無い恐怖に襲われ、フリードリヒは男の腕を投げ捨て後ずさった。 (何だ!? この男は!) どっと足元から恐怖が這い上がってくる! ニィ。男の大きく裂けた口元から覗くのは、鋭く並んだ牙! 「お、お前は……!」 声がかすれた。 「お前は!?」 パニックに陥り、自分が何を言っているのかもわからない! 否に冷静な男の言葉が、朝のしじまを乱した。 「いやなに。貴君に見てもらいたいのは他でもない、我輩の止まってしまった心臓を、再び動かしてほしいのだ」 男の言葉が終わるやいなや! フリードリヒは目を見開き、全てを振り捨ててドア目掛けて走り出した! この男はダメだ! 危険だ! 形振り構わずドアノブに飛びつき開けようとする! しかし、男の方が早かった! いつの間に立ち上がったのか、すぐ一歩の所まで迫り、軍人の素早さでフリードリヒの腕をきつくひねり上げる! 「あ!」 しまった、そう思ったときはもう遅かった。 圧倒的な力の差だ。 男は後ろから包み込むように、 ダン――! 自らの左手を勢い良く壁に叩きつけると、なすすべもなく硬直するフリードリヒの耳元に口をつけた。 自分より僅かに高いだけのはずなのに! 急に、男がありえないほどの長身になったように感じる。 男の襲い掛からんばかりの殺気に、がたがたと身体が震えフリードリヒは恐怖に瞬きも忘れ目の前いっぱいに広がったドアを凝視する。 ギリ、締め付けられるたびに骨がきしみ悲鳴を上げる。指先が紫色になっていく! かぎなれた消毒薬の匂いが、常と変わりなく漂っているのがいっそ奇妙だった。 棚の中では、いつものように並んだ遮光瓶の薬液が鈍く光を反射させているのだろう。 恐怖から逃れるために、現実逃避をしたいのに。 暖かな唇がそれを許してくれない。 からかうように笑う吐息が、耳に流れ込んでくる。 「我輩が怖いのかね?」 肩をすくめて、四肢を縮こまらせフリードリヒは目をきつく閉じた。 「吸血鬼が恐ろしいのかね?」 「……吸、血鬼……」 「そうだ」 その言葉に弾かれたように、フリードリヒは振り返った。 「貴君はまだ若い。何も知らないと見える」 「……あな、たも……吸血鬼、なの、です、か?」 「グールに見えるとでも?」 「グール?」 からかうような男の声が、呆れたものに変わった。 「そんなことも知らんのかね」 「……」 「いいか? 吸血鬼には二種類ある」 一つは、我々のように人としての命を持たぬもの。 そして 「もう一つは――人として生きているものだ」 「人として生きている――?」 「そうだ。そのままの状態だと、自らが化け物だと気づかず、普通に人間として一生を終えるものもいる。生きた吸血鬼が化け物に変わるのは――」 男がもったいぶるように、ちろりと赤い舌で唇を舐めた。 「特別な儀式を受けたとき――まぁ、この場合は人としての生を持ったままだが――と、殺された場合だけだ」 そして。 男の笑みが深くなった。 「人としての生を終え、吸血鬼になっておきながら血を口にしない者は、乾きに知性を失いやがて食人鬼――グールになる」 「食人鬼……」 「そうだ。肉は腐り、脳は溶け腐った血をこぼしながら歩く、ゾンビのような醜い生き物だ」 男の言葉に、フリードリヒは顔をしかめた。 「貴君はそんなものになりたいのかね?」 「――」 「その美しい顔が、日を増すごとに腐っていくのを見たいのかね?」 とんだ自虐趣味だ。 「じゃあッ! どうしろと!?」 男の言い草に、頭に血が上った。 ぎりぎりと締め付けられる腕に力を込め、振り払う――! しかし万力のように締める蹴る男の腕がゆるむことはなく、抵抗するフリードリヒに、今度はあからさまに気分を害したように男は鼻を鳴らした。 「我輩はグールが嫌いでね」 「あなたの好き嫌いなど――!」 聞いてはいない! そう続けようとしたが、言葉に出ることは無かった。 勢いよく壁に身体が叩きつけられる! グと息を詰まり、貧血を起こす前のように黒い星が目の前をチカチカと無数に飛び回る! 「ッツ……!」 フリードリヒはきつく目を閉じた。 しかしそれを許さぬように、男の骨ばった手が遠慮会釈も無くフリートリヒの顎を掴みあげる! 骨に食い込む男の指が痛い! (な、にを――!?) 恐怖に唇がわなないた。 気が付けば男の腕は自分の腰に回り、きつく拘束されている。 しかしそこに甘い雰囲気は微塵も無い。 抵抗し腕を突っぱね、軍服を引っ張ろうとも男は歯牙にもかけない。残酷な――獲物を捕食した獣のように、快楽のにじむ赤い瞳を細め、フリードリヒを見ている。 がくがくと膝が震える。 体中から力が抜ける。 怖かった! ゆっくりと近づく男の端正な顔に、なすすべも無く立ち尽くすことしかできなかった。 唇に――男のそれが触れた瞬間―― ピリと唇を焼いた熱さに、絶叫をあげ男を振り払おうとフリードリヒは必死にもがき始めた。 (熱い!) 唇に触れるねっとりとした熱い液体、甘美な…… 男はフリードリヒの悲鳴さえも飲み込むように、深く深く唇を合わせてくる。 瞬間、止まったはずの心臓がビクリと飛び上がり、全身の血管という血管を黒い炎が物凄いスピードでうねりながら進むのを感じる! (熱い!) 嫌だ! (い、やだ!) 怖い! 死に物狂いで、自らの胸元をかきむしり、ドンドンと突き破らんばかりに脈打ち始めた心臓を落ち着かせようと必死に暴れる。 ビクビクと痙攣するフリードリヒを腕にしっかりと抱きとめ、男は自らの血を与え続ける。 (甘い――) やがて恐怖と苦しみの渦の中に、快楽を見つけフリードリヒは今度は違う恐怖に身体を震わせた。 (……血) 血液独特の匂いが、たまらなく甘美で―― 度数の高いアルコールを無理やり口に注ぎ込まれたように、頭の芯がボウと熱くなっていく。 (血だ! 血だ! 血だッ!!) もうそれしか考えられなくなる! フリードリヒは、男の頭に震える腕を伸ばすと、縋り付くように抱きつき、自ら血を求め深く――男の舌に牙を付きたてた。
2010.4.2
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