言えない

 

 

昨日ペスト医を見たときから、ずっと考えていた。

自分が彼らの代わりにはなれないだろうか、と。

フリードリヒは、星影の落ちる大通りから目を離さず、膝の上で手を組んでじっと考え込んでいた。

自分ならば、ペストにかかる心配は無い筈だ。

この肉体はすでに死んでいるのだ。

だから――ペスト医達でさえ近づくことのできない、危険な場所にも行くことができるのではないだろうか?

それは絶望に沈んでいた彼に見えた、僅かな希望だった。

こんな自分でも、まだ生きていて何かの役に立つことができるかもしれない。

生きていても……いいのかもしれない。

目の前に形となって現れた希望に、許されたような気がして心が震えた。

フリードリヒは、思いついたばかりのすばらしい考えに興奮して、そわそわと組んでいた指を動かした。

そうだ!

自分は医者だ。

こんな身体になってしまったとはいえ、医者なのだ!

確かに。

あの神父に指摘されたように、医者を志した動機は褒められたものではない。

だが、患者を救いたいという気持ちは本物だ、と胸を張って言える。

ペストに罹患した患者を救うすべは――わからないけど……。

医者として彼らに接してやりたい。

救いの腕を伸ばす彼らに、「見捨てられたのではなく、医者が傍にいるのだ」と勇気付けたい。

……一人孤独に死を見つめ、病に喘ぐことの恐怖を、絶望を、自分は知っている。

フリードリヒは青く血管の浮かぶ骨ばった手をギュッと握り緊め、思いつめたような顔で額に押し付けた。

 

もう冬の気配はすぐそこまで来ている。

澄んだ夜空には無数に星が瞬き、時計の針が進むにつれ窓ガラスが寒さに端から白く曇り始めていく。

 

エミーリアは、もう寝たのだろうか?

耳を澄ましてみても、屋敷の中は物音一つ聞こえない。

いや……

フリードリヒは哀しげに眉根を寄せて、膝を睨みつけ頭を振った。

もしかしたら、彼女もまたベッドの中で眠れぬ夜を過ごしているのかもしれない。

(……すまない……)

いくら――彼女が傷ついた心を癒してくれるとはいえ、こんなに中途半端に関わるのではなかった。

彼女の好意に甘えて、こんなにもずるずると長居をしてしまうのではなかった。

共にいる時間が長くなればなるほど、彼女を傷つけることになるとわかっていたのに。

彼女に対するこの気持ちは――決して、恋などという甘いものではなく、罪悪感に過ぎないというのに。

フリードリヒはやるせない顔で、目を閉じた。

自分に微笑みかけてくれる顔が、日を追うごとに曇っていくことに気がついていた。

彼女が無理をして笑って、明るく振舞っていたことも。

自分の存在が彼女を苦しめている、そんなことはわかっていた!

だけど、どうしたらよかったんだろう……?

もしあの時彼女と会わなかったら……。

フリードリヒはぞくりと身体を震わせた。

訳もわからないまま神父に殺されて、とうにこの身は滅んでいただろう。

あるいは――殺された恨みに、悲しみに、異形に成り果てていたかもしれない。

彼女は光だった。

闇に染まり何も見えなくなった自分を照らしてくる、唯一の光だった。

 

暖かな――慈愛に満ちた、聖母のような笑みで導いてくれる。

彼女は救いそのものだった。

だからこそ、そのぬくもりを手放せないまま今日まで来てしまった。

だがこれ以上はダメだ。

屋敷の者たちは皆、自分がおかしいことに気がついている。

もうこれ以上はごまかせない。

 

彼女は精一杯に背伸びをして、全身で自分のことが好きだ、と言ってくれる。

だが、彼女の手を取ることはできいない。

手を取れば――大変なことになるだろう。

異端審問、魔女狩り、火あぶり……

いつそのターゲットにされてもおかしくはない。

ずっと彼女を見ていたが、健康になった以外おかしいところはどこも見当たらなかった。

だから大丈夫だ。

自分さえいなくなれば、彼女が危険にさらされるのも回避できるだろう。

(一緒にいることはできない)

 

いくら傷つけても死なないこの身とはいえ――身体はすでに生命活動を停止しているのだ。

何をきっかけに動かなくなるのかわからない。

 

一体いつまで動くことができるのか?

 

自分には、後どれだけの時間が残されているのか?

静まり返った屋敷に響く秒針の音が恐ろしい。

焦りとともに生まれた希望に縋り付くように、フリードリヒは悲痛なほどの決意を固めると、淀んでいために力を込めて、ゆっくりと息を吐き出した。

 

この屋敷を出て行こう。

エミーリアの傍から離れよう。

なるべく早いうちがいい。

ピリピリと自分のことを警戒している彼女のことだ。

いつ何を感づかれるかわからない。

――いっそ、今すぐに出て行こうか?

別れの言葉はどうせ言えやしないのだ。

彼女に気づかれる前に――泣いて別れを拒まれる前に……

(卑怯だな……)

だが、この関係はもう――不幸以外何も生み出すことは無いのだから。

 

 

×××××

 

 

夜明け前になると、深い霧が出てきた。

僅か1m先も見えないような、白い闇だ。

フリードリヒは寒さを感じることも無く、逃げるように早足で大通りを歩いていた。

エミーリアが起きてくる前に、できるだけ遠くに行かなければ。

まずは自宅に戻って、必要なものを持ち出して――

それからのことは――後で考えよう。

そう思うと少し楽になった。

行動を起こすのはこんなにも簡単なことだったんだ。

一歩屋敷を出た途端、不謹慎ながらも、少しわくわくとするのを感じで、フリードリヒは緩む唇を懸命に引き結んだ。

心がこんなにも高揚したのは久しぶりだ。

今なら何でもできるような気がする。

死なない身体――それは考えようによっては、期間限定の不死身の体と同じではないか。

何を恐れることがあるだろう?

恐れることは、何も無い!

 

フリードリヒは自らを鼓舞するように心の中で呟くと、こらえ切れない笑みを浮かべて自宅のドアを開けた。

さぁ、早く!

夜明けまでに用意を済まして出て行こう!

心は急くものの、久しぶりに帰る自宅に、安堵のためか体中の力が抜ける。

大通りから一歩入った小道の、昔ながらの通り。

そこにある、くすんだ白の6階建てのアパートメントの一番下のフロア。

そこが、フリードリヒの自宅兼診療所だった。

何の変哲も無い、よくある造りのアパート。

中を覗けるようにガラス張りにしたドア。

清潔な白いカーテン。

もう夜中だ。

できるだけ丁寧な手つきで、音を立てないようにして、ドアを開ける。

フワリ、消毒薬の独特の香りが、鼻に飛び込んできた。

ああ、日常が帰ってきた……

この匂いをかぐと、医者であるということを自覚し、背筋が伸びる心地がする。

フリードリヒは顔を引き締めてドアを閉めると、脱いだ帽子を手で弄びながら診療室に入った。

瞬間!

ハッとして足を止める。

診療室に、誰か――いる!?

(こんな時間に!?)

患者、だろうか?

(だが……扉に鍵はかかっていた)

合鍵は大家しか持っていない。

薄いカーテンの敷居に隠され、待合室から診療室は覗き込むことができない。

一歩、一歩、じりじりと足を進める。

いつでも逃げられるように、注意深い手つきでカーテンを払い――

 

警戒しながら近づくフリードリヒに、診療室にいた男はくるりと椅子の向きを変えるとフリードリヒに向き直ってニィと唇の端を吊り上げた。

「Salut」

椅子に腰掛け優雅に長い足を組んでいるのは、まだ若い――20代前半の男だ。

真っ白の軍服に、沢山の勲章。

(軍人!?)

ぎくり、フリードリヒの肩が飛び跳ねた。

ピリピリと二人の間に緊迫した空気が漂う。

(軍人がこんな時間に何の用だ?)

まさか、自分が吸血鬼だということを、どこからか聞きつけてきたのだろうか!?

ごくり、喉が引きつった音を立てた。

出方を伺いながら震える指を押し隠して、診療室の粗末な木の机に帽子を置くと、フリードリヒは出口に背を向け男をじっと睨みすえた。

 

 

  

2009.9.23

2010.3.30